岩野泡鳴「泡鳴五部作(1)発展」を読む

 

 

 


 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その1   2018.5.17

 

 『耽溺』を読んでから、この『発展』に入ると、ずいぶんと落ち着いた印象を受ける。『耽溺』の荒々しいムチャクチャな文章が抑制され、丁寧な叙述で、とても読みやすい。急に風格が出てきた感じである。

 といっても、最初のうちは、登場人物についての説明が不足しているために、なかなか人間関係がつかみにくい。しかし、読み勧めていくうちに、『耽溺』ではいまひとつ分からなかったことが、ああ、そうだったのかというところがたくさんでてくる。

 この小説には、『耽溺』を書いている場面も出てくるのでびっくりしてしまう。いわゆる「私小説」の原型だ。「私小説」といっても、主語が「私」となっているとは限らないが、とにかく主人公が、作者とほぼイコールであるのが原則。この小説の主人公は、「田村義雄」となっているが、『耽溺』の主人公と同名である。ただ『耽溺』では、「僕」という一人称を使って語られている。『発展』では、「義雄」「渠(かれ)」という三人称の語りである。三人称にしたということで、「落ち着き」がでたのかもしれない。

 『耽溺』を読んでも、「僕」とその妻の関係がどうなっているのか、よく分からなかった。妻との不和が前提で話が進んでいたわけだが、『発展』には、その関係が詳しく語られている。こういう書き方の小説の場合、『耽溺』だけ読んで評価するというのは、やはり問題があるわけだが、そうはいっても、読者はそんなことまで斟酌はしない。読者はやはり作品の「独立性」を信じているのだ。

 『耽溺』にしろ、『発展』にしろ、主人公が作者にほぼ等しいとなると、作者岩野泡鳴がいったいどういう人間で、どういう生活を送っていたのかをまるで知らないで読んでもあまり意味がない。その点で、完全なフィクションである、SFとか、ファンタジーとかとは、読み方がまるで違うわけだ。

 けれども、暇だから小説でも読もうかなあというような読者にとって、まずは作者の生涯をあらかた知らなければ読めない小説なんて、面倒くさくて最初から手にとる気にもなれない。それも、明治時代の小説家などというものは、実に複雑な環境に生き、複雑な精神構造を持っているから、面倒くささは倍増で、結果、誰も読まなくなる、というのが相場だ。現に、どの文庫を見たって、岩野泡鳴なんてとっくに絶版になっているのだ。

 ただでさえ「活字離れ」(この言葉さえ古くさい)が言われている昨今、夏目漱石や芥川龍之介でさえ、どれくらい読まれているのか分かりはしない。まして、いわんや、泡鳴においておや、である。

 しかし、まあ、国立大学の文学部なんていらないよ、と、時の政府が言うような、文化的後進国(いや後退国か?)において、今さら岩野泡鳴が読まれないなんてことを嘆いても始まらない。そもそも嘆くべきことかどうかも分からない。最近知った言葉だが、ポリティカリー・コレクトネス(人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。)の欠如というべき泡鳴の小説なんか、永久に葬ってしまえという人だっているかもしれない。そんな奴の小説を研究するのに「大事な血税」をつぎ込んでいいのか、なんてことを言い出す人たちだってきっといるだろう。

 そんな世知辛い世の中のことはさておいて、老境に生きるぼくが、だれも読まない岩野泡鳴を読んだとしても、誰に文句をいわれる義理もない。

 ここまで来たのも何かの縁だ。『泡鳴五部作』を云々する前に、泡鳴の複雑怪奇な人生を簡単にまとめてみよう。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その2   2018.5.19

 

 岩野泡鳴の生涯を簡単にたどってみようなんていっても、とても「簡単」というわけにはいかない。だから適当に端折ってやってみる。参照は、「現代日本文学全集29」の巻末にある「岩野泡鳴年譜」である。これは、泡鳴の次男薫の作成したものが元になっている。

 泡鳴は、明治6年(1873年)、淡路国洲本(すもと)(現在兵庫県)に生まれた、とある。廃藩置県は明治4年だけど、「淡路国」なんて言い方の方が薫が年譜を作ったころは通りがよかったのかもしれない。

 父直夫(ただお)は、洲本警察署の邏卒(らそつ)だった。「邏卒」というのは、明治初期の警察官の名称で、後に「巡査」と改称された。母がどういう人だったかの記述はない。

 明治17(1884)年、10月、洲本日新小学校を卒業。これより、20年まで、私塾で漢学と英語を学んだ。どんな「私塾」なのか分からないが、洲本にあったようだ。

 明治20年(1887)15歳の時に、大阪に出て、キリスト教の学校泰西学館に入学し、「英語を以て普通学を修む」とある。「普通学」って何だろう、よく分からない。この年、弟巌が生まれている。

 泰西学館に入ったこの年、泡鳴は、さっそくキリスト教信者となっている。これは明治にはよくある話で、多くの近代文学者は、若い頃にキリスト教信者、それもプロテスタントの信者になっている。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、正宗白鳥など、挙げればきりがない。その多くは、やがて信仰を離れるが、それでも、その文学にはその刻印がはっきりしるされている。

 泡鳴も、20歳になると、キリスト教から離れるが、彼の思想はキリスト教と密接なつながりがあるはずだ。一切の世俗的な道徳を否定し、刹那に生きることを主張するその思想は、キリスト教と相容れないように見えて、実はその裏返しともいえるのだとぼくは思う。

 明治20年の項の「年譜」はこう続く。

十月、父洲本署巡査を辞し、一家を挙げて東京に移り、麻布区新網町に仮寓し皇宮巡査となる。美衛(泡鳴の本名)遅れて上京、明治学院に入る。十二月、歴史小説「サイラス王物語」を書く。全部で二百五十枚七五調なり。洋行費を作る目的なりしも、出版を春陽堂に交渉して成らず、火中に投ず。これ新体詩を作る動機なり。

 う〜ん、不思議なことばかりだ。岩野一家は、そろって上京し、父は「皇宮巡査」となるのだが、この「皇宮巡査」というのは、今でも存在する「皇宮護衛官」の中の一番下の位。どういう事情でそうなったのだろう。父は、何とか東京に出て出世したいと思ったのか。その後に上京した泡鳴は、キリスト教信者らしく明治学院に入っているが、250枚もの歴史小説を、「洋行費を作る目的」で書いたというのが理解に苦しむ。たった15歳の少年が、外国に行く費用を作るために、小説を書いて出版社に持ち込み、断られたからといって、それを燃やしてしまい、以後、詩を書くことにした、というのだから、なんとも理解しがたい。エキセントリックな泡鳴の片鱗がうかがわれる。

 250枚の歴史小説を「七五調」で書いたというのだから、内容はどうであれ、大変な力業には違いなく、並の才能ではできることではないから、泡鳴は確かに一種の天才なのだろう。しかし、いくら天才でも、そう簡単に小説で金をとれるものじゃない。今の世の中だってそうだけど、明治の時代でもそうだろう。ただ、案外、今よりはハードルは低かったのではないかとも思われる。小説の需要が、今よりは格段に大きかったのではなかろうか。

 ここで分かるのは、泡鳴は、最初小説を書いたけど、受け入れられず、まずは新体詩を書いた。つまりは、詩人として出発したということだ。いろいろな雑誌に評論などを載せているが、彼の最初の出版物は自費出版だったけれど、詩集だったのだ。藤村も、花袋も、詩人として出発している。自然主義の作家の多くが詩から出発しているというのも面白い。自然主義と詩というテーマは、高校時代か大学時代に、ちょっと聞きかじった気がする。

 泡鳴は、その後、どのような学校に行ったのか。15歳で、明治学院に入ったが、16歳では、「神田専修学校」で経済学と法律学を学んだとある。明治学院はどうしたのだろうか? 20歳の時、仙台に行って東北学院に入り、明治27年まで在学とある。この辺の記述も引用しておく。

明治25年(1892)20歳 二月、仙台に赴き、東北学院に入る。二十七年まで在学。希臘語、梵語、独逸語を学びたるも学校は欠席がちにして、「万葉集」「詩経」及びシェクスピヤを研究し、又、エマソンと中江藤樹を愛読し、松島に於て頻りに独禅す。漸くキリスト教を脱し、刹那哲学と新日本主義の思想の基礎を作る。

 明治学院から東北学院という流れは、島崎藤村を思い出させる。藤村は明治5年の生まれで、泡鳴より1歳年上。泡鳴も藤村も、明治20年に明治学院に入学している。泡鳴が東北学院に行ったのが、明治25年だが、藤村は明治学院を明治24年に卒業している。在学がちょっとかぶっているわけだ。在学中に二人は交友があったのだろうか。その後、泡鳴は明治25年に東北学院に行き27年まで在籍するわけだが、その2年後、藤村は明治29年に東北学院に教師として赴任している。あと2年泡鳴が東北学院にいたら、藤村の教え子になっていたのだろうか。なんか、不思議な感じがする。

 泡鳴の学生時代というのは、なんだか勉強していることがバラバラな気もするが、とにかく、勉強家であることは確かだ。泡鳴は、ただ女に狂った遊び人じゃなかったのだ。仙台でのおよそ2年間は、学校は欠席がちだったが、懸命に勉強したという。

 一方、泡鳴の実家は大変なことになっていた。泡鳴の父は、皇宮巡査を3年でやめ、下宿屋を建てて「日の出館」と称していたが、その父が、妻「さと」が病気中にもかかわらず、後家の熊谷まつという女を囲いだしたのだ。泡鳴の女癖の悪さは、父親譲りということだろうか。で、泡鳴は仙台から東京へ戻る。その10月に弟勝が生まれる。そしてその翌年母は46歳で没する。その2ヶ月後に弟勝も没する。

 母と弟の死の年、23歳の泡鳴は、石州浜田藩家老の娘、竹越幸(たけのこし・こう)と親戚の反対を振り切って結婚。なんで、反対されたのか分からないが、幸は幼くして父を失っていたこと、幸の方が年上だったことが原因だったのだろうか。

 その翌年明治29年、泡鳴の父の囲っていた熊谷まつが入籍し、泡鳴の継母となる。この継母が、小説によく出てくる。泡鳴のところには次々に子どもが生まれるが、4男2女のうち、3人は幼くして亡くなっている。何とも複雑窮まる家庭の事情である。
さていろいろあるけど端折って、明治41年(1908)泡鳴36歳の時の年譜の記述。

明治41年(1908)36歳。三月四男貞雄生る。四月、第四詩集『闇の盃盤』を有倫堂より刊行。五月、父直夫没す(六十歳)。よって家督を相続す。家業の下宿屋は妻幸が預るところとなる。小説「毒薬を飲む女」のお鳥(増田しも)を、芝区切通広町に囲い、殆ど家に寄りつかず。しも江は紀州の女にして、職を求めて上京、泡鳴の下宿屋に住みたるものなり。

 そして、その翌年、『耽溺』を発表する。その直後、泡鳴は、下宿屋を抵当にして950円を借り入れ、従弟の小林宰作の奨めた蟹の缶詰事業に乗り出すために、二月、樺太に行くのである。その事業は失敗し、十一月には帰京する。年譜だけ読んでいると、この樺太行きが、いかにも唐突で、どうして? って思うのだが、『発展』を読むと、ああ、そういうことかとよく分かる。『発展』は、泡鳴の父の死から、樺太行きを決意するまでのことが、書かれた小説である。話の中心は、妻「幸」(小説では千代子)との確執と、「お鳥」への恋である。

 ちなみに、『耽溺』の「事件」は、泡鳴35歳の時のこと。この『発展』の話の一年前のことである。

 日光でたまたま見かけた「おからす芸者」「不見転芸者」に溺れたが、彼女が梅毒に冒されていると知って女を捨てた泡鳴は、自分が父から相続した下宿屋に住み始めた若い女にまた溺れたという、「懲りない話」である。

 「年譜」に深入りしてしまったが、泡鳴はその後は省略。女関係は相変わらずで、浮名を流したが、とにかく作家としてしゃにむに書いて、大正9年、48歳で亡くなった。腸チフスだったらしい。

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その3   2018.5.26

 

 『発展』の冒頭部を引く。(「青空文庫」による。以下同。)

 

 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
 義雄は繼母の爲めに眞の父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
 が、渠(かれ)が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子──殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子──をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。

 

 ここに出てくる「田村義雄」は、ほぼ泡鳴自身であり、その他の人物も、出来事もほぼ事実ということらしい。

 「継母」というのがいきなり出てきて、分かりにくいが、義雄の生母は弟を生んですぐに亡くなり、生母在世中から父が囲っていた女が入籍して、義雄の継母となったわけである。これは、泡鳴のことを知っていれば分かることだが、しばらく読んでいくと、その事情も分かるように書かれている。

 人のことはさておき、冒頭にいきなり出てくる「麻布の我善坊」という地名が興味深い。小説のことだから、勝手に考えた地名だろうと思ってはいけない。ちゃんとした地名である。現在は、港区麻布台1丁目となっているが、当時は「麻布我善坊町」と言った。町名としては現在残っていないが、窪地の谷底のような町らしい。この近くに飯倉片町があり、ここの借家に島崎藤村が大正7年から昭和11年まで住んでいたという。(これは、なぜか、ぼくは藤村に『飯倉だより』という本のあることを知っていたので、それで、ちょっと調べてみたのである。)

 麻布我善坊町と麻布飯倉片町は、たぶん歩いても10分とはかからない距離だろうから、二人が住んでいた時期が重なれば、行き来もあったかもしれない。こんなに近いのは、偶然だろうか。この辺は調べてないから分からないが、なんだか、この辺にちょっと行ってみたくなった。「文学散歩」などというものには、昔はまったく興味がなかったけれど、どうも最近は、嗜好が変わったようだ。

 それはそれとして、この短い冒頭部分には、大事なことがほぼ全部書かれている。義雄が文学的には、それなりの仕事をして自負があったこと。父や継母との折合が悪かったこと。妻とも不和で、子どもまで嫌っていたこと。家督は相続したが、下宿屋の仕事など面倒くさいから妻に任せて、自分は勝手に生きたいと思ったことが、なんのてらいもなく、淡々と書かれている。

 普通はこんなふうには書かない。もうちょっと格好をつける。これじゃ、ただの自己中だと思われるのがオチだ。子どもが嫌いだといっても3人もいるのだ。下宿屋がどれだけの実入りがあるかしらないが、「主人」たる義雄が、面倒くさいことを妻に押しつけて、自分は「充分勝手次第なこと」をしていいはずがない。

 「いいはずがない」などという言い草は、常識人のもので、義雄には通じない。彼は、本気で、「充分勝手次第なことが出來る」と思い、それを実行するわけだ。

 夫婦喧嘩の一節をここで引こう。

 

「ゐ付く値うちがないのです、こんな家には。」
「お父アんの家でも──?」
「さう、さ──お父アんの跡を繼いだのは、わたし自身のからだと精神であつて──こんな家や妻子は、自分にそぐはなければ、棄ててもいいんだ。」
「棄てられるなら」と、妻は少し身をすさつて、「棄てて御覽なさい!」
「ふん、棄てるとも──もう、おれは精神的には棄ててるんだ。」
「何とでもお云ひなさい──人を表面上の妻だなんて!」
「お前の命令などア受けないと云つてるだらう──おれの心に反感をいだかせるものは皆おれの愛を遠ざかつて行くのだ。愛のないところにやア、おれの家もない。」
「ぢやア、どうしたら」と、訴へるやうな微笑になつて、「あなたの愛に叶ふのです? 教へて下さいと、何度も云つてるぢやアありませんか?」
「手套が投げられたのだ」と、嚴格に、「もう、遲い。お前には、もう情熱がない。よしんば、あるとしても、子供を通して向ける情熱であつて、直接におれに向けるやうな若々しい、活き活きした、極(ごく)あツたかい熱ではない。」
「そりやア、歳が歳ですもの──それに、六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女ですもの──子に苦勞してゐるだけ子が可愛いのは當り前でしよう。」
「お前は子の爲めに夫を忘れてゐるのだ。」
「いいえ、忘れてはゐません。」
「おぼえてゐるのは、おれの昔だ。」
「さうですとも、昔はあなたも」と優しくなつて、「なか/\親切な人でした、わ。」
「今は」と、相ひ手の態度には引き込まれず、「もツと親切な人間になつたのだが、その親切をおれよりも年うへのお前に與へるのは惜しくなつたのだ。」
「年うへなのは初めから承知して連れて來たのぢやアありませんか?」
「そりやア、承知の上であつた、さ。」義雄は妻に言葉を噛みしめさせるやうな口調になり、「然しよく考へて見ろ。二十前後の青年で、あんなにませてゐた者が──おれは實際ませてゐた──おれより年したのうわ/\した娘の上ツつらな情愛に滿足してゐられようか? あの時には、お前のやうな年増が──年増と云つても、たツた三つ上ぐらゐのが──丁度、おれの熱心に適合したのだ。然し考へて見ろ。人間は段々年を取つて行く。それは當り前のことだが、當り前と考へては困ることがある。それをお前はわきまへてゐない。」
「ぢやア、よく云つて聽かせて下さい、な。」
「いくら聽かせても、お前には分らないのだが、──教育がないからと云ふのではない。お前は相當の教育は受けたのだが、その道學者的教育の性質が却つて邪魔をするのだ──。」
「いえ、わたしは」と、言葉に力を込めて、「武士の家に生れたのです。」
「そんなことは」と、冷やかに、「現代に何の名譽にも、藥にもならない──おれも武士の子だが、わざ/\おやぢなどの考へや命令には從はなかつた。」
「それが惡かつたのです。」
「また教訓か」と目の色を變へかけたが、同じ調子で、「分らない奴だ、ねえ──。お前などア時代の變遷と云ふことが實際に分らない。政治上や文學上のことは別としても、教育界に於てだ、お前の教育を受けたり、お前が學校を教へたりしてゐた時代は女子はむかし通り消極的に教へられて滿足してゐた。然し、現代の若い女は積極的な教育を受けようとしてゐる。優しい女學校ででも教師、生徒間に衝突が起るのは、古い頭腦の教師連がこの心を解しないからだ。戀の問題に於ても、ただ男から愛せられて喜んでゐたのが、自分からも愛することができなければ滿足しなくなつた。」
「わたしだツて、自分から愛してゐます、わ。」
「ところが、その問題だ──段々年を取るに從つて男女の情愛は表面に見えなくなるとしても、愛してゐると云ふ言葉だけで、實際はそんな氣色もないのでは困る。男は世故に長けて來ると共に段々情愛を深めて行くものだが、今の四十以上の女は皆當り前のやうに男に對する心を全く子供に向けてしまう。」
「でも、子供は所天の物でしようが──」
「いや、子供は子供で、所天その物ではない──そんな古臭い傾向の家庭では、男は、平凡な人間でない限り」と、そこに語調を強めて、「深い/\情愛を空しく葬つてゐなければならない。──」
「何だ、詰らない」といふやうな振りをして、馨(義雄の弟)はその座敷の前を通り、食事をせがみに行つた。
 二階の方からも、空腹を訴へる手が鳴つてゐる。
「少くとも、おれはそんな寂しい墓場に同棲してゐられないのだ──」
「墓場だツて、家のことを。」繼母はあきれた樣子。
「お墓、さ、どうせ──おれは今一度若々しい愛を受けて見なければならない。」
「ぢやア、勝手におしなさいよ。」妻は立ちあがつて、獨り言のやうに、「濱町とか何とかへ入りびたりになるなり、好きな女を引ツ張つて來るなり──こツちは離縁/\と云はれさへしなけりや、子供を育てて暮しますから。」
「その子供/\が聽き飽きたんだい。」義雄は臺どころの方へ行く千代子の後ろ姿に向つて侮辱の目を投げながら、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」

 

 ここで、面白いのは、義雄が女に求めているのが「積極的な愛」だということで、義雄が女房に不満なのは、女房の愛が子どもにばかり向けられて、夫の自分に十分な愛を注がないことなのだ。このことは、『耽溺』の中でも語られた。男女の愛を、常に、激しい恋愛感情として捉えるかぎり、義雄の不満はもっともだといえるだろう。しかし、「六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女」としての女房が、義雄の求めるような愛を注げないこともまたもっともなことだ。そんなことは、「普通の大人」なら、百も承知で、そういう愛を求めるなら、女房に内緒でこそこそと行動するしかなく、その挙げ句、バレたバレないので、ドタバタになる次第なのだ。

 けれども、義雄は、年上の女房に向かって、堂々と、オレは昔のオレより優しくなったが、年上のお前なんかにその優しさを与えるのが惜しくなった、若い女に与えたいんだ、なんて言ってしまう。その義雄の気持ちのどこにもウソがないことに、むしろ面食らうほどだ。「普通」は、言いたくても言えないことを、義雄は全部言ってしまう。それを「バカ」と呼ぶか、「純粋」と呼ぶか、難しいところだが、義雄の言動の首尾一貫性が、たんに「バカ」といってすませられないものを感じさせるのだ。

 それにしても、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」という啖呵の何という切れ味だろう。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その4   2018.5.29

 

 父親の跡を継いで下宿屋の主人になった義雄は、下宿屋の経営は妻に任せて、自分は一階の部屋を自分の書斎としてたてこもる。思う存分そこで文学活動をしようというのである。貧乏だというけれど、家だけはちゃんとある。今からみれば贅沢なものである。その部屋の描写を引いてみる。

 

 田村のお母屋の裏廊下と云ふのは、一直線に五六間ばかりあつて、便所のあるところとは反對の端から、また曲つて四五間ばかりの縁がはが付いてゐる。その鍵の手に當る四疊半が──家の代が代つた時までそこにゐた客を二階へ追ひやつて──義雄の占領するところとなつた。
 かどから直ぐ手前が半間の壁で、それから二枚障子がはまるやうになつてゐる。曲つた奧のがは、乃ち、東向きの方は一面に明いて四枚障子となつてゐる。あかりを取るには不足がない筈だが、取りまはしてある庭がたツた二間幅しかないところへ持つて來て、北隣りの寺の池が見える方の境が密接した生け垣になつてゐて、その向ふ側には五六本の杉の木と一本の大きな櫻とが目隱しに並んでゐるし、こちらにも亦二階の家根に達するほどの梅の木が二本ある。

 

 四畳半という狭さで、日当たりも悪そうだが、それでもここにたてこもれば、思う存分勉強はできる。

 

 父が世界のどこかに生きてゐると思へば、まだそれでも何となくたよりにしてゐたのだが、いよいよゐないとなると、義雄は全く孤立で、孤獨なのを感じられる。
 孤立孤獨は義雄の趣味でもあり、また主張でもある。それが爲めに落ち付いて古今の書も讀破できた。然しこの頃のやうに滅入つてゐることも少い。○○商業學校──そこへ、六年前に、滋賀縣の中學教師をよして、轉ずる爲め上京して來たのも、死んだ父から云ふと、百日間虎の門の琴平樣へお願ひした結果ださうだが──そこへ英語を教へに行く時間に外出するだけで、あとは、自分の書齋に引ツ込んでばかりゐる。家のものとは話しも碌にしない。そしてたまに口を開らけば、おほ聲の小言だ。
 子供などはぴり/\恐れてゐて、父がそとから歸つたのを見ると、直ぐ母の蔭へ隱れてしまう。
「餘り叱るから、かうなんです」と、千代子は訴へた。
「なアに、母の仕つけが惡いのだ」と、義雄は一喝してしまう。
 そして渠は食事を妻子と共にせず、朝飯でも晩飯でも獨り自分の書齋で濟ませるのである。
 渠は、一度自分が目を通した書物へは、赤鉛筆やむらさき鉛筆で所々へ線を引くのである。そしてそれが記憶を呼び起すしるしになるので、なか/\手離すことをしない。
「おれの妻子は書物と原稿だ。」渠はいつもかう云つてゐるが、通讀もしくは熟讀した書物は積り積つて何百册かになつてゐる。千代子が轉居の問題の起る毎に億劫がるのは、本の爲めに引ツ越し費の過半を取られるからである。
 然し行くところとして、家主から子供のいたづらがひどいからと云つては斷わられたり、家賃が餘りとどこほるからと云つては追ひ出されたりすると、その度毎に運び行かれる荷物は、古い箪笥一つとこざ/\した切れを入れた行李三つと臺どころのがらくた道具との外は、すべて書物の包みだ。
「おウ、重い」と、どんな巖丈な人夫でも、それを持ち上げて驚かないものはなかつた。

 

 まあ、ぼくなんかは泡鳴ほどの勉強家でもなかったし、また野心もなかったけれど、それでも数回した引っ越しでの「本の重さ」には参ったものだ。それにしても、泡鳴は、ほんとうに勉強家で、膨大な書物をきちんと読んでいるのだ。

 泡鳴の有名な評論『神秘的半獣主義』を読むと(まだ、ほんのとば口だけ読んだに過ぎないが)、その膨大な読書量に圧倒される。「神秘主義」の考察にあたり、参照している作家は、メーテルリンク、エメルソン(エマーソン)、スヰデンボルグ(スエーデンボルグ)、ショーペンハウエルなどに及び、その思想をかなり的確に捉えている様子がうかがわれるのである。まだ翻訳が出ていない本も多かったと思われるから、原文やら英語やらで読んだのかもしれないが、そのためには、妻も子どもも眼中になかったのは、ある意味やむを得ないことであったろう。あるいは、妻子などほったらかしだったからこそ、これらの本を読破できたということだろう。

 思えば、この泡鳴の自己中心的な生活態度は、ぼく自身の若い頃のそれであった。特に、教師となったころのぼくは、この「教職」に失望し、何とかこの職業から脱出したいと思ったものだ。そのために、何の役に立つのかもわからないままに、学校から帰っても「書斎」に立てこもり、ひたすら本を読んだり、書き物をしたりしていて、ほとんど妻子をかえりみなかった。(就職の翌年結婚し、すぐに子どもができたのだ。)その時期の妻の苦痛は、後年なんども妻自身から聞かされたが、取り返しのつくものではなかった。だから、こうした泡鳴の生活態度は、身につまされて、ぼくは単純には非難できないのだ。

 夫婦喧嘩はどこまでも続く。義雄は相変わらず言いたい放題だが、妻の千代子も言いたいことはちゃんと言っている。

 

「諭鶴(ゆづる)も、あんな總領息子ぢやア仕方がありません、ね──あなたと同樣、わが儘一方で。」
「おれは親不孝であつたから、自分の子供から孝行をして貰はうとは飽くまで思はないのだ。」
「あなたは」と、千代子は所天〈注:しょてん=夫のこと〉を横目に見て、その方に向つて右の手の平で空を下に拂ひ、「それでいいかも知れませんが、わたしが困ります。」
「お前の困るのアお前の心掛けが惡いからだ。」
「またそんなことを!」千代子は斯う調子に乘つたやうに答へてから自分の育兒の苦心に對して所天がおもてへ出して同情したことが少しもないこと。この末ともまだ長い子供の教育時期を、自分ばかりの手では、本統にどうすることもできないこと。所天のそばにゐられるだけ、まだしも子供と自分は末の望みがあるやうだが、若し皆が一緒に棄てられるやうなことがあると、三人の子に老母をかかへて、どうなつて行くだらうと云ふこと。たとへ、この家だけは子供の爲めに預かつて、この商賣をつづけて行くとしても、さうしたら、田村の方の繼母や弟までの身の上も引き受けなければならないこと。所天の取つて來る金を注ぎ込んでも、たださへ不足勝ちのところへ持つて來て、それが若し出なくなるとすれば、とてもやり切れるものではないこと。何と云ふ因果な身になつたのだらう、今さら、この年になつて、よし棄てられても、よそへ片付くやうなこともできないこと。などを語つた。そしてその顏を所天から反むけ、兩手を繩のやうになつた黒繻子と更紗の晝夜帶の間に挾み、頻りに考へ込んでゐた。が、こちらが餘りに何とも云つてやらなかつたので、立ちあがつて、左りの手に帳面とそろばんとを持ち、右の手で藍地の浴衣の前を直しながら、
「まア、行つてやりましよう、子供が待つてるだらうから。」
「‥‥」かの女の引ツ詰つた束髮や、色氣のない着物が神經質の段々高まつて行く顏を剥き出しにして見せるので、義雄は少しあふ向いて最も侮辱の睨みを與へた。
「その婆々じみたつらを見ろ!」
「あなたに」と、千代子は恨めしさうにして、口のあたりをぴり付かせて、早口に、
「かうされたんですよ。」少しゆツくりして、「あなたのせいですから、こんな」と、顏を突き出し、「お婆アさんでも──」可愛がつて下さいと云ひかけるらしかつた。
「鬼子母神のつらだ!」義雄の叫びが頓狂であつたので、千代子は色を變へてからだを引いた。そして物やはらかになり、
「鬼子母神でも、何でも、わたしは子供には女王のやうなものですから、ね。」
「そんな下らない興味に釣り込まれて」と、義雄は兩肱を机に突いて、見向きもせず扇子を動かしながら、「遂に婆々アになつてしまうのを知らないのだ。」
「あなたも段々ぢぢイじみて來た癖に。」
「そりやア上ツつらのことで──精神は反對に若々しくなつて來た、さ。」
「七つさがりの雨は止まない〈注:七つ下がり(午後4時過ぎ)から降り始めた雨はなかなかやまないことから、四十過ぎ(中年過ぎ)から覚えた道楽はなかなかやめられない、ことのたとえ」〉と云ふのがそのことなら、ねえ──」
「‥‥」そんな警句をどこから覺えて來たと云はないばかりに、義雄は妻の方をふり向くと、千代子は立つたままにやりと笑つて、例の通り、出た齒の上齒ぐきの肉までも見せてゐる。「その表情の卑しさを見ろ!」渠はまたかう叫んで、目を反らした。「もう行け、行け!」

 

 仲の悪い夫婦というのは、こんなものなのだろうか。見ず知らずの他人同士が結ばれて夫婦となって身も心も許しあうのだから、いったんヒビが入ると、とめどなく憎しみ合うことになるのだろうか。

 現代なら、こんな状況になったらさっさと離婚ということになるだろうが、千代子の言うとおり、別れた後の困難を思うと我慢するしかなかったのが、当時の女性というものなのだろう。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その5   2018.6.2

 

 前回の「夫婦喧嘩」の続き。義雄に「もう、行け、行け!」と怒鳴られた千代子が、立ち去りかねて反論する。

 

「行きますとも──然し、ねえ、あなた」と、千代子は眞面目に返つて、また立ち去りかね、その場にしやがんで持つてゐる物を膝の上に置いた、「あの子もさすがあなたの子で、利口はなかなか利口ですよ、今の驚き方と云つたら、可笑しくもありましたが、また、昔、上の掛け軸をめくつて、下のにびツくりしたことを忘れないでゐるのですよ。」
「そんなことア聽く必要がない。」
「でも」と、話しを引ツ張るつもりでか、「この達摩さんも忠義です、ねえ──うちの貧乏暮しを永年の間一緒にして來たのですから。」
「ほかに掛ける物もないぢやアないか!」義雄は思はずまた妻にふり向いて、「掛け物一つ買へないほど貧乏してきた、さ、然しまた面白いこともあつた、さ。」
「それはあなたばかりで──うちの者はちツとも面白いことなどさせられた覺えはありやアしない、わ。」
「無い?」わざと怪訝な顏をして、「望みの竹生島も見せてやつたし、京都、大阪、須磨や奈良へも連れてツてやつたぢやないか?」
「わたしだツて」と、千代子は不平さうに、「そんな上ツつらなことを云ふのぢやアありません。うちの者は皆──あなたと直接の關係のないわたしの母まで──あなたの貧乏と不機嫌とにいぢめ拔かれて來たんです。」
「貧乏はおれの持ち前だ。然し、おれの不機嫌は女房の口やかましいところから來たのだ。」
「やかましく云はなけりやア」と、目をきよろつかせて口をとんがらかせ、「遊んでばかりゐるぢやありませんか? あなたの坊ちやんじみてゐた時から、この十何ヶ年と云ふもの、わたしがやかましく云ふので持つて來たのですよ。」
「馬鹿を云ふな! おれはおれでやつて來たので、非常に遊んだあとは」と、得意な顏をして、「きツと、また非常な仕事をしてゐらア。」
「それもさうでしようけれど、わたしの爲つづけた苦勞が分つたら、この達摩もわたしの味かたになるでしようよ──主人が教師になつて行くのに、滋賀縣までも一緒に附いて行つたし、また東京へ歸つてからも、芝から下谷、本郷から麹町、麻布から赤坂と、何度引ツ越したか分りやアしない。そのたんび何か物は無くなるし、──おしまひには吉彌でしよう。」
「母さん。おツ母さん。」子供がまた呼にやつて來る樣子だ。
「あいよ、あいよ」と、千代子はその方へ浮き腰になつた。
「うるさいから、行け。」義雄はかう云ひ切つて、妻が立ちあがるのを尻目に見た。「おれの放浪生活は、もう、やめる。その代り、お前とは離縁だ。」

 

 この口論は、どこからどうみても、女房の言い分が正しい。義雄の言っていることは、弁解にすらなっていない。あなたの貧乏と不機嫌にいじめ抜かれてきたという女房の言葉に、「貧乏はおれの持ち前」だと居直り、「不機嫌」はおまえのせいだと責任を押しつける。「吉彌」というのは、例の『耽溺』の芸者だが、それまで持ち出されると、今度は「離縁だ」と言い出す始末。これじゃどうにも手のつけようがない。

 しかし、そもそも夫婦喧嘩で、男に分があったためしがあるだろうか。男の言い草は、いつの時代でも自分勝手で、家庭のことなんかマジメに考えてない。家庭の経済も、子どもの養育も、なるべく女房に押しつけて、自分は勝手放題したいのが、ほとんどの男の本音ではなかったろうか。昨今では、そういう男が少なくなったのは、男が女の「正しさ」に匹敵するだけの「情熱」を失ってしまったからではないのか。そんな変な「情熱」なんて、ないほうが家庭の平和のためだろうが、なんか寂しいような気もするから妙だ。

 それはそれとして、引っ越しの様子がよく分かっておもしろい。東京では、下谷、本郷、麹町、麻布、赤坂と、おしまいにいくほど高級感が出てくるが、それは今のこと。当時は高級でも、セレブでもない町だったのだろう。そうした町の変遷を実感するためにも、地名はやたら変更してほしくないものである。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その6   2018.6.3

 滋賀で中学の教師をしていた泡鳴は、東京へ出てきてからも生活のために、学校の英語教師をしていた。『発展』では、「○○商業学校」となっているが、実際には「大倉商業学校」である。ここに、30歳から36歳まで勤務している。その職を辞した翌年、小説『耽溺』で、小説家としてのデビューを果たすのだが、それがぜんぜん売れなかったことは、以前述べた通りだ。正宗白鳥の意地悪い批評によれば、「当時漱石は官立大学の教師であり、泡鳴は月給二十五円ぐらいの大倉商業学校の教師であったことが、作品に対する世俗の信用を異にした所以(ゆえん)で、さながら、書画骨董の売立に於て大々名の所蔵であるか、一平民の所蔵であるかが、買ひ手の心持に影響するのと同様である」ということになる。何しろ、当時の漱石の給料は、泡鳴の5倍もあったのだ。給与はともかく、今の時代でも、「大学教授」と「高校教師」とでは、世間の評価は雲泥の差だ。

 明治文学に描かれた「教師」像は、田山花袋の『田舎教師』をまつまでもなく、ただただ貧乏でみじめなものだった。小説だけではなく、多くの文学者が、生活のために教職にあった。そして、そのことごとくが「貧乏」と切り離せないのだ。

 泡鳴が教職にあったことを、今回の読書で初めて知ったわけだが、その教師としての生活はどういうものだったのだろうか。その一端が、この『発展』に書かれているので、引いておこう。

 

 學校では、然し義雄の教授振りに家で押さへてゐる活氣が溢れ出し、ひどく叱りつけることもある代りに、また全級を愉快に笑はせたりする。
 六年前、初めてここの教師になつた時は、生徒に親しみがなく、且、怒るのが目に立つので、最も不出來の生徒が一人、短劍を持つて渠(かれ)を暗夜の途に要したのが評判になつた。渠はそんなことには恐れないで、相變らず冷酷、熱酷な怒罵をつづけた。
「貴樣のやうな出來そこなひは、兩親へ行つて産み直して貰へ。」
「手前のやうな鈍物は、舌でも喰ひ切つて死んでしまへ。」
 生徒は遂に往生して、こんなことを云はれるのを最も恥辱だとして、渠の時間の學科はよく下調べをして來て、じやうずな説明を聽きつつ、明確な理解を得るのを樂しみにするやうになつた。
「田村先生の時間!」この言葉は一部の生徒の恐怖を引き起す符牒であると同時に、一般生徒には最も待ち受けられる樂しみであることは、義雄も自分で知つてゐた。
 渠は同じ學校の夜學にも出たことがあるが、それは失敗に終つた。出勤前に友人と酒を飮んだのが、教壇で例の通りの快辯を振つてゐる時に發して來て、いつの間にか椅子に腰かけて、心よくテイブルの上に眠つてしまつた。ふと目を覺すと、七八十名のものがすべて手を束ねて、ぼんやりとこちらを見てゐた。
 丁度その當時、渠は「デカダン論」といふ著を公けにし、現今の宗教、政治、教育等の俗習見に反對したのが、學校の幹部の問題になつてゐた。その上、或晩のこと、醉ツ拂つて藝者と共に電車に乘つてゐたのを生徒の一人に見つけられた。
 それやこれやの中を取る同僚があつて、渠は夜學の時間を斷わつてしまつたが、晝間の生徒に向つては、自分に對する心得を發表した。
「學校の門を這入つた以上は、おれも教師として神聖な者だから、飽くまでもその職權と熱心とを忘れないが、門を一歩でも出たら、もう、お前等とおれとは見ず知らずの他人も同樣だぞ――從つて、外でお前らと出會つても、おれは相手にしない、お前らも亦おれを先生などと云ふに及ばないし、お辭儀などは無論しなくてもいゝ。」
 すると、生徒のうちから、
「煙草を飮んでゐても叱りませんか?」
「酒に醉ツ拂つてゐてもいいんですか?」
「藝者を連れてゐてもかまひませんか?」
 などと冷かし初めた。渠は笑つてこんなことを云はせて置き、やがて、響き渡るほどのどら聲で、「默れ!」と一喝して、「ここは神聖な教場だ。」
 かう云ふことがあつてから、一層、渠は生徒間におそろしいが又懷かしい教師となつた。

 

 「じやうずな説明」なんて自分で言っているんだから世話はないが、まあ、無茶苦茶なことを言う教師ではあったけれど、英語を教える情熱はあったのだということが分かる。生徒も、どんなヒドイことを言われても、それは自分に落ち度があるからだと判断するだけの大人びた知性があって、ヒドイことを言われまいとちゃんと勉強してくる。その辺が、現代とずいぶん違うような気がする。

 「學校の門を這入つた以上は、おれも教師として神聖な者だから、飽くまでもその職權と熱心とを忘れない」というのは、今からしても、立派な覚悟だ。ぼくにはこんな立派な自覚はなかったから、それだけでも尊敬に値する。

 そして、「学内」と「学外」の明確な区別には、どこか日本離れした合理主義があって、泡鳴の「新しさ」がはっきりと感じられるのだ。

 この時代から何と100年以上(!)も経っているというのに、今の日本では、教師は「学内」と「学外」を明確に区別して生活することができない。「学外」でも常に「品行方正」な教師であることを暗黙のうちに、強烈に求められている。

 学校の外では、教師でも生徒でもないから無関係だ、挨拶すらしなくていいという教師に、生徒は、それなら、酒を飲んでいても先生は見逃すのですか? とからかう。それに対して、教師は、言わせるだけ言わせておいて、論理的には対応しない。ただ「ここは神聖な教場だ!」と一喝する。それに対して生徒がどう反応したかは書かれていないが、その後の叙述からすれば、黙ってしまったのだろう。

 生徒は、自分たちの言い分が、小理屈に過ぎないことをちゃんと分かっている。タバコを飲もうが、酒に酔おうが、芸者を買おうが、そんなことは、先生とは関係ない、自分の責任だ、という自覚がきちんとあるのだ。

 小理屈ではない、人間としての生き方の基本を、生徒はいつのまにか体得している。一人の独立した人間としてすでに生き始めている。だから、義雄の宣言も、いちおうひやかしはするが、心の中ではきちんと受け止めることができたのではなかろうか。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その7   2018.6.6

 

 義雄の下宿屋に紀州から引っ越してきた清水鳥という若い女は、義雄の継母を「おばさん」と呼んでいるから姪のようだ。田舎にいてもしょうがないから、東京へ出て稼ごうというつもりだったらしいが、先立つものもないからおばさんの下宿屋に転がりこんだわけだ。

 当時は、女一人が東京へ出てきたって、会社勤めできるわけではなく、妾になるか、下女になるかぐらいしかなかったようで、継母が何とかしてやってくれとせっつくので、義雄は、小石川に住んでいる友人の小説家「田島秋夢」のところに下女(女中)として住まわせようかと考える。

 この「田島秋夢」という小説家のモデルは、「秋夢」というところから、「徳田秋声」なんじゃないかと思われる。秋声は泡鳴より2歳年上だし、小石川に住んでいたこともあるから、案外この推測はいい線いっているかもしれない。(注)

 けれども、義雄は、清水鳥を初めて見たときから心を惹かれていて、自分のものにしたいと思っている。で、秋夢のところへやるのが惜しくなってくるのである。

 この辺の心の動きを、泡鳴は、実にあけすけに書いている。継母が義雄の部屋に「お鳥」を連れてきたところから引いてみる。

 

「入らツしやいましたよ。」繼母はお鳥の先きへ立つてやつて來て、持つて來た蓙《ござ》の座蒲團を床の間の前に置き、「さあ、あなたもぢかによくお頼みなさいよ」と、お鳥を置いて去つてしまつた。

「さあ、お這入んなさい。」義雄はどきつく胸をこと更らに押し鎭めて、麻の座蒲團に坐わつたまま、机を脊にしてかしこまつた。
 お鳥も亦取り澄ました物々しい態度でまだ一言も云はず、下向き勝ちに、義雄の方へ明いた障子の敷居を越えたが、しやがんでその障子を人に見られまいと云ふ風で締めた。それから、目をじろりと擧げてこちらを見ると同時に、ちやんと坐つてお辭儀をした。
「まア、もツとお進みなさい。」義雄は座蒲團を取つて洋書棚近くへあげると、
「はア──」お鳥はおとなしくその方へ少し膝をにじり寄せた。
「どうです、まだいい口は見附かりませんか?」
「はア、まだ──どこぞよろしいところを、どうぞ──」
「いいところツて、僕の心當りと云ふのは、こないだもちよツとお話した下女の口ですがね。」
「そこでもよろしう御座ります。」
「いいですか」と渠(かれ)が念を押すと、女はまたたやすくいいと答へたので、これは物になるわいと思つた。獨り者のところへ若い女──それを平氣で承知するやうなら、渠自身にも占領することが出來ないものでもなからうと。
 たとへ田舍じみてゐても、たとへ拙い顏でも、このふツくりと肥えた色の白い女をむざ/\と友人の秋夢に渡してしまうのが急に惜しくなつた。
「どうです、東京の方が紀州などよりやアいいでしよう」などと云ふ問題外の話しを暫らくやつてゐると、いつのまにか渠は自分のからだを書棚の方へ横たへてゐた。
 女は右の手を疊に突いて、少しにじり出した膝の當たりの褄を左りの手の指さきでむしり取るやうな眞似──これは此の間もしほらしいと見たことで、かの女の癖だと義雄は思つた──をして、多少締まりがないと思はれる笑ひ方をしてゐた。
「それで然し本統にいいですか?」義雄はまた本問題に歸つて、今度は疊の上から目をまぶしさうに女の方に向けた。
「へい、かうなつては、もう、氣儘も云ふてをられません。」
「獨り者だから」と、云ひにくいのを、さりげなく見せながら、「口説くかも知れませんよ。」
「そんなことは構ひません。」女はまた眞面目な顏になつたが、決心の色は顏に顯はれた。

「實は、僕も」と、義雄は、もう大丈夫だと勘定したが、口をよどませながら一層低い聲になり、「今、誰れかひとり世話して呉れるものを探してゐるのです。──僕はあの妻子は大嫌ひで、──この家にゐてもゐないでもおんなじことなのだから、──どこか別に家を持たうと思つてるのです。」
「はア」と、お鳥はなほ眞面目だが、どちらでもいいと云ふ心は、相變らず褄をむしつてゐる樣子に見えた。
「いツそのこと、どうです」と、義雄は女の顏を矢張りさりげなく見つめながら、然し口はよどみながら、「僕の──方へ──來て──下さつたら?」
「それでも結構です。」女も外に氣を置きながら、目を横に左りの締つた障子を見て低い聲だ。
「もう占めた」と、義雄は自分に云つてから、「矢ツ張り、口説くかも知れませんよ。」
「‥‥」女は無言で、また左りの障子の方を氣にした。
「ぢやア、ね、かうしましよう──」義雄が別なことを云ひかけた時、千代子の草履の音がばたばたとして來て、
「あなた、諭鶴《ゆづる》が行けませんから、叱つて下さい」とおめきながら、障子をばたりと明けた。お鳥のゐるのを見て俄かに荒々しい調子をやはらげて、「清水さんがゐたんですか?」
「おりやア子供のことなど知つたものか? やかましいからあツちイ行け──」義雄は横になつて左りの肱を突いてゐるまま、顏をあげただけだ。
「ぢやア、行きますとも──」千代子はかう云つてお鳥が疊から手を放して眞ツ直ぐにかしこまつたのをじろりと一瞥し、ぴたりと障子を烈しく締めると、障子はその勢ひで一二寸あともどりした。
「靜かに締めろ!」義雄は起きあがつて、そのあとを締め直し、また元の通り横になつて、「あれだから、駄目なのです。」
「ふむ」と、お鳥もかしこまつたまま鼻であざ笑つた。
「然し、僕のおツ母さんにでもしやべつたら行けませんよ。」
「こんなことが云へますものですか?」
「ぢやア、ね、かうしましよう──僕は直ぐ晝飯を濟ませて、新橋ステーションの二等待合室に行つてるから、あなたも成るべく早く入らツしやい。鎌倉へでも行つて、ゆツくりあとの相談は致しましよう。」
「では、さう致します。」
「間違つちやア困りますよ。」義雄は微笑して見せた。
「大丈夫です。」お鳥も笑ひを漏らしながら骨格のいい胸を延ばして、わざとらしい延びをしたが、義雄の燃えるやうに向けた目を見て、横を向いてそれを避けた。

 

 清水鳥は、ここにも描かれているとおり、美人ではないし、都会的な教養もない。ただ義雄は、「ふツくりと肥えた色の白い女」であることに魅力を感じているのだ。少なくとも、『耽溺』の「おカラス芸者」たる吉弥よりは、魅力的な女性と義雄(泡鳴)にはうつっているのだ。年は21、2歳だから、もちろんその若さにも惹かれているわけだが。

 友人の「秋夢」は独身だから、下女になったとしても、口説かれるかもしれないよ、という義雄に、お鳥は、「かまいません」と決意をこめて答える。そんなことを気にしていたらこの都会で生きていけないという思いだろう。

 その決意を聞いて、義雄は、それならオレのものにしようと決心する。そして、義雄の提案に、お鳥も難なく同意するのだ。ある意味、一分の隙もない展開である。普通なら、これだけの「展開」は、ああだこうだと際限もない葛藤が伴うものだ。それがまったくないのだから、驚いてしまう。

 小道具としての「障子」が、生きている。「千代子はかう云つてお鳥が疊から手を放して眞ツ直ぐにかしこまつたのをじろりと一瞥し、ぴたりと障子を烈しく締めると、障子はその勢ひで一二寸あともどりした。」なんてところは、障子じゃなくちゃこうはいかない。障子の面目躍如である。「あともどりする」障子に、千代子の抑えきれない怒りがみえる。その障子を締め直しながら「あれだから、駄目なのです。」という義雄に、「かしこまつたまま鼻であざ笑う」お鳥のしたたかさ。

 この小説もしたたかである。

(注)この推測は間違いでした。「田島秋夢」のモデルは、「正宗白鳥」です。(2018.6.29記)

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その8   2018.6.12

 

 「新橋ステーションの二等待合室」で待ち合わせて、鎌倉へ行く約束をお鳥とした義雄だが、手近ですませようとして、鶴見で降りる。

 鶴見という地名が出てきて嬉しい。ぼくは、結婚して1年半ほど、鶴見区の生麦近くに住んでいたからだ。

 

 實は、鎌倉より近いところで濟めば濟ませようとして、鶴見までの切符を買つた。そこへ降りて見ると思つたやうなところではない。海岸はさう近くないし、ちよツとした料理屋も見當らない。
「然し、ここに引ツ込んでゐる小學教師があるが、その父と云ふのが、麻布の谷町に家を構へてゐて間貸しをしたいと云つてるのを思ひ出したが」と、義雄はもう女が云ふ通りになると思つて、歩き乍らの話だ、「あすこを借りることにしようぢやアないか?」
「ほかにも借りてる人があるのですか?」
「なアに、まだ無いし、一ついい部屋があるから。」
「では結構でしよう。」
 氣が付くと、女は素足に新らしい空氣草履をはいてゐる。そしてその青い絹天(きぬてん=ビロードのこと)の鼻緒にまでほこりがたかつてゐる。
「こんなに、ただ歩いてゐたツて仕やうがないから、どこか外へ行きましよう。」義雄はかう云つて、女を今度は電車に乘せ、神奈川でおろした。
 汽船や軍艦の碇泊してゐるのが遠く見えるが、矢ツ張り、いい海岸はない。義雄は女を得た餘勢でまたいつもの趣味なる海と海の音とが戀しくなつてゐたのである。
 二年前までは、いやな家族を相州の茅ヶ崎へ家を借りて放ちやり、自分は東京での瞑想や仕事に疲れ切ると、そこへ逃げて行つて、松ばやしの中の軒下や白い砂の浪元に仰向けになつて、からだを延ばすのを例にしてゐた。
 家族のゐるところだから、よかつたのではない。海の音を遠くまた近く聽くと、沖の浪が絶えず湧き立つやうに、自分の疲れた神經も亦若々しく生き返つたからである。

 

 ここに出てくる「神奈川」という駅は、今の京急の神奈川駅ではない。もちろん、JRの東神奈川駅でもない。新橋、横浜間に日本最初の鉄道が走ったのは有名なことだが、この横浜駅も、今の横浜駅ではなくて、今の桜木町駅である。神奈川駅というのは、開業当初は新橋・横浜はノンストップだったのが、途中駅として川崎駅とともに開設された駅だ。だから、この神奈川駅というのは、川崎駅とともに日本で3番目の鉄道の駅だということになる。今の横浜駅の近くだったようだ。こんなこと調べてると面白い。

 鶴見駅に降りても、神奈川駅に降りても、海岸が近くにない。それでも神奈川駅に降りると、「汽船や軍艦の碇泊してゐるのが遠く見える」とあって、横浜港が遠望されるのが分かる。

 泡鳴はよほど海岸が好きだったと見える。そんな好みが、後に彼をはるばると樺太まで赴かせた遠因だったのかもしれない。

 義雄は結局鎌倉へお鳥を連れていき、そこの宿に泊まってして、どうやら肉体関係を結んだらしい。その描写があったと思われる部分は「×」で削除されている。この『発展』は、明治44年に実業日本社から刊行したのだが、即発売禁止処分を受けている。泡鳴はそれを不服として、「時の内務大臣西園寺公望に一文を草し、『朝日新聞』に発表。その不当を訴う。」(年譜)とある。その後どういうことになったのか、詳しく調べてはいないが、少なくともこの部分の削除が命じられたことは確かだ。そういう時代背景を念頭においてこの小説を読むと、泡鳴は常に何かと懸命に戦っていたのだということが納得される。

 鎌倉での話し合いで、義雄は、麻布の谷町にある家にお鳥を住まわせ、妻には、琴を習わせることにしたとウソをつくことにする。しかし、そんなウソもバレバレで、いつ千代子がどなりこんでくるか知れないからというので、お鳥をつれて、甲府の温泉場に行って、小説を書くことにするのだった。その時に書いていた小説が『耽溺』だということになる。

 ところで、引用箇所に出てきた「空気草履」ってなんだろうと思って調べたら、こんな記事がネットにあった。便利な時代だ。

 

【空気草履】(くうきぞうり)草履の一種です。昔の「雪駄」から変化したもので、明治28年の秋に、東京の袋物職人の伊藤仙之助の考案によってつくられたものです。袋物の材料だったパナマを使い、かかとの部分に空気を入れる仕掛けをつけたもので、「千代田履き」の名で売り出されました。これが、明治末年に「空気草履」といって、かかとの部分にばねを入れて、履いたときに空気の入った感じのする仕組みのものができ、「千代田草履」とよばれました。男女ともに用いられましたが、とくに、女物や子供物に人気がありました。この草履の形態は、今日の女物のかかとを高くした草履を生み出すもととなったものです。(「きもの用語大全」http://www.so-bien.com/kimono/)


で、この解説のなかの「パナマ」って何? って思った。パナマ帽というのがあるから、だいたい分かるけど、同じサイトで検索したら、こんな解説があった。これも引いておきたい。


【パナマ】夏用草履に用いられる素材です。パナマ草と呼ばれるヤシのような団扇状の葉っぱの若葉を乾燥させ、煮沸し、漂白し、細く裂き編んだもので、草履の台にする他、帽子にしたパナマ帽も有名です。編み上がったパナマを1年程ねかすことにより緑がかった色からベージュにかわります。柔らかさと耐久性に優れ、通気性がよく、熱をためにくいとされています。パナマには大きく分けて2種類あります。ひとつは草履用に編まれた織り生地で仕立てた「本パナマ草履」と呼ばれるものです。もうひとつは網代状に編まれた物を仕立てたものです。安価でパナマの雰囲気を楽しむための物として草履の台の部分にも使用したと思われます。


という解説があるが、この「パナマ草」を更に調べていくと、このパナマ草というのは、エクアドル原産で、エクアドルでは現在もパナマ帽の生産が大変盛んであるとのこと。上記の解説では、「パナマ草と呼ばれるヤシのような団扇状の葉っぱの若葉を乾燥させ」とあるが、どうもこれは誤りのようで、実際には「葉っぱの若葉」ではなくて「葉柄」を使うようだ。団扇状の葉の部分は収穫しないみたいだ。エクアドル関連の動画にパナマ帽を作る過程を紹介したのがあった。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その9   2018.6.15

 

 鎌倉から帰り、お鳥は麻布の谷町に住みはじめたが、義雄は引っ越してくるでもなく我善坊の家から通ってくるだけなのが不満でいさかいが絶えない。義雄も創作に行き詰まってしまっていたから、温泉に行こうということになる。

 行き先は、山梨の塩山温泉だ。山梨の温泉といったら、今なら石和温泉が思い浮かぶが、調べてみたところ、石和温泉は1961年(昭和36年)に温泉掘削によって湧き出したのが始まりとあってずいぶん新しい温泉だった。塩山温泉の方は、「塩山温泉郷」のホームページに「600年の歴史」とあるから、相当古いようだ。

 ここに長期滞在して、義雄は、『耽溺』の創作に没頭する。お鳥は、書いたそばらかその原稿を興味深く読み、ルビをふる仕事を手伝う。

 当時の小説は、総ルビだったのかもしれない。あまりきちんとした教育を受けたようにも見えないお鳥が、ルビをふれたのがちょっと不思議な感じがする。

 しかし、だんだんお鳥はその温泉場の生活に飽きてくる。この温泉宿の描写に、当時の庶民の姿が描かれていて興味深い。

 

 それに、どんな立派な温泉かと思つたら、穢い/\湯槽にどろ/\した厭なにほひの冷泉を沸かせるのであつた。また、殆ど毎日のやうにおほ雨やらおほ神鳴りで、正面に見える富士が滅多に見えないほど鬱陶しい日が續く。且つ、また、入浴客と云つたら、豫想の外で、殆ど田舍のおやぢや婆アさんばかりで──樂んで來た甲斐がかの女になかつたのだらう。
 かの女の考へでは、宿には同じ年輩の立派な娘が多く來てゐて、それらと仲よく遊んだり、話し相ひ手になつたり、また自分のハイカラな姿をうらやませたりしたかつたのだらうが、下にも二階にも、裏にも、おもてにも、そんな相ひ手は一人もゐなかつた。
 隣りの明いた室へ、たまに一晩どまりの客はあるが、工女に募集されて行く途中で、その募集者に自由にされる女であつたり、どこか近所の驛から作男と密會しに來た細君であつたりする。
 たまにちよツと十人並みのが來たと思へば、どこかの裁判所出張所の書記といい仲になつてゐたのだが、向ふの親が許さないのを恨み歎いた女だ。それをその土地の坊さんが氣の毒がつて、女の故郷まで連れて行つてやるところだが、とまつた晩に、その二人は出來合つたやうであつた。
 また、田舍の物持ちの細君らしい四十五六の、顏の見ツともない婦人が來た。これも亦怪しいものだと義雄等が云つてゐるうちに、甲府の醫者に違ひないと云はれる男がやつて來た。
「あんなお婆アさんでも色けがあるんだなア」と、お鳥はその夕がた、義雄と横になつて、無駄話しをしてゐる時に大きな聲を出した。無論、隣りの客は湯へ行つて留守だと思つたからである。
「面白いぢやアないか、じツとしてゐて、いろんな種が拾へるのだから」と義雄は答へた。
「何が面白いもんか、こんなとこ! 雨や神鳴りばかりぢや。」
「さうか、ね、」と輕く受けて、渠はかの女が二三日前
「髮の自慢を仕合ふ相ひ手もない」と歎息したのを思ひ出した。そして天井を見詰めながら、「まア、來たものは仕方がない、さ。」
「いやだ、いやだ!」かの女もうちはを持つた手までもあふ向けにだらり延ばして向ふを向き、「早う東京へ歸りたい──歸りたい!」

 

 「その募集者に自由にされる女」とあるところの「自由」の使い方が面白い。面白いというか、もともと「自由」という言葉が日本語ではどんな文脈で使われてきたかが分かって興味深いのである。

 今では「自由」はこんな使い方はしない。ここを若い人が読んだら、「その募集者によって、自由の身分にしてもらえる女」ととりかねないが、もちろん、そんな意味ではない。「工女(女工)の仕事に応募して、その結果、募集者(工場の経営者とか、社員とか)に連れていかれる途中で、体を弄ばれることになる女」ということだ。こういう使い方は、歌舞伎なんかにもあったような気がする。

 こんな注釈をしていると、今読んでいるこの小説が、現代小説という感じがしなくなってくる。思えば、これが書かれてから既に100年も経っているのだった。

 「田舍の物持ちの細君らしい四十五六の、顏の見ツともない婦人」とはヒドイが、それが「あんなお婆アさんでも色けがあるんだなア」と、お鳥に言われちゃうのだから、なんともはやである。

 この温泉にやってくるのが、みんな「わけあり」で、どれをとっても確かに一編の小説の「種」になる。小説家が面白がるのも当然だが、若い女には面白くないのもまた当然だろう。

 結局、お鳥はさきに東京へ帰っていってしまう。

 


 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その10   2018.6.17

 

 義雄は、お鳥への執着に身を焦がす。もとの亭主とはどうなったのか、この宿屋で親しくなった大工と何かあったんじゃないか、などという疑念にとらわれるのだ。最初は、遊びのような感じで付き合い始めたお鳥だったが、次第にのめり込み、東京へ帰ってしまったお鳥に、まるで若者のような恋文まで書く始末で、ほんとうに、いくつになっても恋愛というのは困ったものだ。

 原稿料はなかなか来ない、宿屋の主人は冷たい、自分の書いた作品は世にいれられない、そんな苦しみの中で、絶望感に打ちひしがれる。勤め先の学校にも、試験の手伝いを約束していながら、それもすっぽかさざるを得ない。学校や校長への憤懣も吐露されている。そんななか、待望の原稿料がとどくと、いさんでお鳥のいる東京へ向かうのだった。

 お鳥が東京は帰りたがった理由のひとつに、このころ雨がひどく降り続き、水害の被害も尋常ではなかったことがあげられる。義雄も強がっていたが、はやり土砂崩れの頻発する甲州からは早く脱出したいと思っていたのである。

 

「素ツぽかしても氣の毒だが」と、義雄が思つてゐた約束の試驗手傳ひ日も遂に過ぎてしまつた。「あの鹿爪らしい校長や校長派の感情をまた損じたに違ひない。」
 然し、もう、學校の講師などはどうでもいい。自分は自分の思ふ通りにやつて行つて、教育界からは勿論、文學社會からも見棄てられたところで、その時はそれまでのことだ──
 學校の校長などと云ふものは、ただその地位を大事がつて、兎角、事勿れ主義をやつてゐるものだ。生徒の實力啓發など云ふことは、その實、第二、第三の問題にしてゐる。そんな内實も知らないで、世間體をばかりつくろつてゐる創立者や常任理事は馬鹿な奴だ。あの學校の理事は圓滿主義を以つて男爵になつた人だ。それも惡くはない。あの創立者は天秤棒のさかな屋からわが國有數の御用商人になつた。それもえらいと云へば云へる。そして、わが國や朝鮮に自分の名を冠した學校を二つも三つも建てて、それで男爵を贏ち得ようとする。それも貰へれば結構だ──
 ところが、學校は男爵を貰ふ用意の看板だけで、教育その物は殆ど全くどちらでもいいに至つては、あの拾五萬や三拾萬や五拾萬の金をただその土地や建築物が代表してゐるに過ぎない──
「いや、そんなことはどうでもいいのであつた。」かう義雄は思ひ返して、自分はただ自分の主義と主張と自己の存在とを確かめさへすればと、机の前にしよんぼりとかしこまつた。そして自分の一生懸命に努力した著作が斯く世間で持て餘されるのに憤慨した。
 この最後の憤慨の爲めに、つい、お鳥のことなどは全く忘れてゐた日であつた 待ちに待つた二論文の原稿料が揃つてやつて來た。
「旦那、二つもかはせがやつて來ましたぜ」と、宿の主人が嬉しさうにそれを持つて義雄の寢てゐるそばへ來た。
 渠は數日來失つてゐた氣力を一時に回復して、直ぐ床を跳ね起きた。そしてまだ正午に少し前なのを見て、たつた十五分に迫つてゐる汽車で出發することにした。
「ぢやア、ね、早く車を一臺呼んで下さい。」
「へい、かしこまりました。」
 主人は急いで二階を降りて行つたが、義雄も手早く革鞄に手荷物を纒めた。押し入れには、アブサントの舶來瓶の明いたのが二本ころがつたばかりになつた。渠はそれを二本ともわざ/\横手の窓から下に投げたが、小川のふちの石垣に當つて、かちやんと毀われたのを見て、この甲州といふ冷淡なかたきに復讐をしてやつたかのやうに氣持ちよく感じた。
 恥辱の旅──孤獨の宿──富士の高い峰が雲霧の間に見え隱れして、萬人の靈までも呑み下だす殘酷なおほ奧津城の如く臨見、壓迫する最も憂鬱な土地を、義雄はかう云ふ風にして逃げ出すことが出來た。
 土産はただはち切れさうに熟した葡萄の一と籠──この粒立つた葡萄の實にお鳥の張り詰めた血の若々しさを偲びつつ、渠はやツと目ざした汽車に乘ることが出來た。
 中央線のトンネルだらけは、夜汽車でやつて來た時も物凄くあつたが、義雄が今度鹽山の方から笹子トンネルを拔ける時、がツたん、がツたんと狹く籠つた大きな音に、自分のすかして眠らせて來た死が果して怒り出して、追ツ驅けて來たかのやうな怖ろしい壓迫を、七八分間も受けた。
 八王子へ來て、武藏野の廣く開らけた野づらを見た時、渠は、もう、目的の女の微笑する顏が見えるやうに、初めて人間らしく生き返つた。

 

 男爵というのは、いわゆる「華族」のもっとも低い爵位で、国家に貢献した者に与えられるものでもあった。実業家として名をなせば、男爵にもなれたのだろうが(三井家、岩崎家など)、実業だけではなく学校も作ったとなれば、より男爵になるのに有利だったのだということが、こうした記述から伺える。功成り名遂げた者が、どうして学校などというめんどくさいものを作るのかと、かつて不思議に思ったものだが、案外こんなところにその本音があったのかもしれない。もちろん、もっと純粋な動機の人もいたに違いないけど。

 そんな世の中にむかって泡鳴はさんざん悪態をつくわけだが、それが負け惜しみでないと自信をもって言い切れない。それは、「自分の一生懸命に努力した著作が斯く世間で持て餘される」からだ。懸命に書いても、評価されない。金が入ってこない。一方では、金持ちの漱石が書いた「通俗的」な小説(「坊ちゃん」)が大評判となる。

 こうした泡鳴の鬱屈は、切実で、身に迫って感じられる。

 明治の文学、それも特に自然主義系統の文学は、みな明治期の立身出世主義のレールからドロップアウトした人間から生まれている。鴎外、漱石などは、例外的だといえるだろう。もっともその例外的な漱石だって、結局は、帝大教授をやめてしまうわけだから、ドロップアウトには違いないのだ。

 自然主義の文学というのは、「無理想・無解決」を標榜したと文学史などではよく説明されたし、ぼくも授業でそんな説明もした覚えがあるが、実際にはそんな単純なものではないだろう。理想なんてやくたいもないものだ、人生に解決なんてないんだ、という人生観が生まれるには、それなりの理由がある。その「理由」の一端を泡鳴の小説は示唆しているような気がする。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その11   2018.6.18

 東京へ戻ったお鳥は、原田老人の家の2階に間借りをした。この原田という老人は、こんなふうに紹介されている。

 

この人は義雄と同じ學校の漢學講師であつたが、老朽の爲めにやめられた後、郷里の田地を融通して、谷町に二三の借家を建てた。且、細君には逝かれ、若い家族は三番息子の潔の外皆その郷里や鶴見へ行つてゐるので、親戚からお政と云ふのを頼んで來て臺どころをやつて貰つてゐる。

 

 お鳥は、しかし、この家が気に入らない。お政が、お鳥をばかにして、女中のようなことまでやらせるというのだ。原田老人も、もと漢學講師というわりには遊び人。こんな場面がある。

 

 渠(原田老人)が、時々無聊を感ずると、獨りで行く待合が一つ新橋にある。別に藝者を呼んで騷ぐのでもなく、いつも、その帳場の長火鉢にくツ付いて、渠と殆ど同年輩の婆々アおかみを相ひ手に、渠が盛んであつた時のむかし話をしながら、ただするめ酒を飮むのがおきまりだ。
 義雄も一度連れて行かれて知つてるところだが、そこのおかみが一度年甲斐もないお化粧をして、細君が亡くなつたあとの老人の家へやつて來た。渠はただ昔の借金の催促かと思つたら、それは表面のてれ隱しに云ひ出しただけであつて、本意は自分があと釜に坐わつてもいいから、悲運つづきのその商賣を一緒になつて盛り返して呉れと云ふのであつたさうだ。
「お前さんを女房にするまでまだ老いぼれてゐないよ」と、渠は憤慨してその婆々アを追ひ歸してから、暫く足を拔いてゐることも、義雄は渠から話されてよく知つてゐる。
 そこへ附き合へと云ふのは、このおやぢ、今夜は餘ほど何うかしてゐると義雄は考へた。こちらの艶ツぽい事實を見せつけられて、渠も亦氣を若返らせたのだ、わいと考へられた。
 で、義雄は迷惑さうな顏をして、
「お付き合してもいいのですが──」
「いやか」と、老人はさきまはりをして、珍らしく不機嫌さうに、「いやなら、僕獨りで行つて來る。」
「實は、これが」と、義雄はお鳥をちよツと返り見て、「反對するにきまつてますから。」
「君は君の樂しみをし給へ、僕にはまた僕相應の話し相ひ手があるから」と、苦笑しながら、椰子の實の煙草入れと太い銀煙管とを取りまとめて腰にさした。
「あんなお婆アさんとこなどおよしなさいよ」とお政さんはそばからとめた。
「お婆アさんが目的ではない、もツと、うまく酒を飮んで來るのだ。」
「お酒なら」と、お政さんはお鳥と顏を見合はせて冷笑し合ひながら、「わたし達がお酌をします。」
「お前では氣が利かんし、お鳥さんには氣の毒だから、なア」と、當てこすりのやうな態度を以つて立ちあがり、隣室で勉強してゐる息子に向ひ、「潔、下調べが濟んだら、獨りで寢てゐなよ。」
「はい」と、から紙越しの返事がした。

 

 原田という「老人」は、いったい何歳なのかよく分からないが、まあ、せいぜい60代だろう。間借りさせたお鳥のところに毎日のように義雄がやってくるのに刺激されて、新橋にあそびにいくらしい。原田に、色目をつかった「婆々アおかみ」の様子も目に浮かんでおもしろい。「所詮この世は色と欲」ってところだろうか。

 ぜんたい、泡鳴の観察眼は、なかなか鋭くて、こうしたいわば「庶民の哀歓」のようなものを描くのがうまいなあと思う。

 東京へ戻ってしばらくして、お鳥が、突然性病(たぶん淋病)を煩うことで、急速に、二人の仲が悪化してゆく。義雄は女遊びが原因で、淋病をもっていたが、それがお鳥にも感染したのだ。だから、悪いのは義雄なのに、ちっともお鳥に「すまない」って思わない。それどころか、その病を知って、お鳥との別れを思うのだ。

 『耽溺』で、吉弥が梅毒にかかっていることを知ると、すぐに彼女を捨てたのと同じだ。もっとも、梅毒は、義雄がうつしたのではなかったが。

 

 知り合ひの博士がやつてゐる耳科病院で診察と手術とを受け、當分は毎日かよつて來いと云はれてから、義雄は先づ笛村を訪ふと、留守であつた。
 で、その近處に住んでゐる詩人で、前者と共に「耽溺」を持つて歩いて呉れた友人に會ひ、それの出版は今のところ危險がられて、とても見込みないことを聽いた。雜誌にでもと思つて、笛村が現代小説社へ行つて見たが、そこではまた餘り長いからと云つて斷わつたさうだ。
「然し雜誌になら出さないこともなからう」と、渠は自分で日本橋通りへ行き、現代小説の主筆に相談して見た。初めは矢張りしぶつてゐたが、たツてと云ふなら、引き受けることにするが、稿料の半額だけを明日渡し、そのあとのは雜誌に出た時、渡さうと云ふことにきまつた。
 先づ一と安心したので、その足で村松を訪ひ、出發前に借りた金を返し、久し振りの一杯を共にしてから、一緒に養精軒へ行つて玉突をやつた。
 勝負にさん/″\負けて、お鳥のもとへ歸つたのは九時過ぎであつた。かの女は、もう、とこに這入つてゐた。
「おい、あの原稿のかたをつけて來たぞ」と、義雄は嬉しさうに云つた。
「さう。」かの女は枕の上でちよツと微笑したが、直ぐそれが苦笑に落ちて、不斷、艶のいい顏が電燈の光りに青ざめてゐるやうに見えた。
「どうかしたのか?」
「痛いの。」
「どこが?」
「‥‥」
「えツ?」渠はかの女の無言なのが萬事を語ると思つた。あれだけ、これまで用心してかかつてゐたのに――!
 渠はかの女の枕もとに坐わつたまま顏を反(そ)むけて、暫らく自分の三四ヶ月以前までの苦しみと不愉快とを考へた。そしてお鳥とも絶縁しなければならないことの餘りに早く初まつたのを後悔しないではゐられなかつた。
 かの女の高まつた呼吸がひどい鼻息に聽える。でも、今夜から別々な眠りだと思ふと、元の他人だと云ふ氣もして、どう手をつけてやつていいのか分らなくなつた。
 かの女はこちらの冷淡なのに激して、蒲團をはね飛ばして起き直つた。そして青い顏の青い目でこちらを睨みながら、
「どうして呉れる?」
「どうツて」と、冷やかにかの女の方に向いて、「醫者に見て貰ふより仕かたがない。」
「いやだ、いやだ!」からだをゆすぶつて、「醫者なんぞに見て貰ふもんか!」
「ぢやア、手療治の道もないことはない、さ。」
「そんなことで直るもんか?」
「全體、いつから痛い?」
「けさから、さ。」
「ひどくか?」
「さうでもないけれど――」
「兎に角、醫者に見せて、早く直す方がいいよ――おれの經驗で見ても、つらいものだから。」
「ふん!」鼻ごゑで泣き出しさうな顏をして、お鳥はまた枕に就いた。そして、これが直らなかつたら打ち殺すぞとか、おこられてもいいから北海道の兄を呼び寄せて強談するとか、頻りにいろいろな恨み言を云つてゐた。
 義雄はかの女が寢ながら獨りでもがいてゐるのを知つてゐたが、きのふからの疲勞が出て、眠くツて、眠くツて仕やうがなかつた。

 

 お鳥は、義雄から病気をうつされたことを恨み、ことあるごとに「直せ、直せ」と迫るのだった。そんなお鳥を疎ましく思いながら、義雄はお鳥と別れることができない。

 

 原田の家から、毎日、義雄は本郷の耳科病院へ、お鳥は赤阪見附けの醫者へかよつた。
 お鳥は實際に顏いろも惡くなり、肉體も痩せて來たほど、自分の病氣を氣にばかりして、琴の稽古を初めないのみならず、裁縫學校のことも殆ど全く云はなくなつた。
「まア、氣長に氣を落ちつけて養生してゐないと、この病氣は直るものでないから。」かう云つて、義雄が時々氣ちがひのやうに泣きわめくお鳥をなだめることもあると、
「では、もう一度どこかえい温泉につれて行け」と、かの女は云ひ張つた。
 が、渠は鹽山で苦しい目に會ひ、而もつれて行つたかの女には殆ど冷遇されどほしであつたことを思ふと、再び湯治などとしやれる氣にはなれなかつた。
 且は、成るべく病人のぐずり泣きに接する機會を少くしようとして、耳科醫通ひと學校を教へに行く時間の外でも、晝間は多く我善坊の家で勉強し、夜も遲くまで友人のところや玉突き場で暮した。
 それでも、必ず谷町へとまりに行つた。そして、その理由が近ごろ段々自覺されて來た。渠は愛も結局獸慾だと斷定してゐるが、その獸慾が滿たされない今日、妻とは今年の初めから絶縁してゐる。それと同じ状態を、何の必要があつてまたお鳥の元へ引きつけられるのか?
「おれには、觸覺が特別に發達してゐるのだらう――大理石の彫像のきめが細かいのを愛するやうに、おれはかの女の羽二重の肌を賞翫してゐるのだ。」渠はかう考へ込んでゐるが、その女の白い手あしの肌もこの頃は粟つぶのくツ付いたやうに粒立つて來た。

 

 吉田精一の大著『自然主義の研究』(1955年・東京堂)によれば、泡鳴は、「性的に早熟」だったとして、次のように書いている。


泡鳴は性的に早熟で九歳の時、十七歳の姉の友人と初恋をした。後年彼はこの経験を、七五調百七十七行の長編「うら渦貝」(四〇年一月)に作ってゐる。また十一歳の時同年の女にも恋をし、青年期に入って毎晩夢に見たといふ。この方は「信から玉江へ」といふ小説に書いてゐる。

 

 これがどの程度の「早熟」を意味するのか分からないが、まあ、だいぶマセタ子どもだったことは確かだ。そもそも文学者というのは、大抵そうだろうけど。

 ちなみに、この泡鳴の読書がえんえん終わらないので、せっかくだからトコトン読もうと思って、前記の『自然主義の研究』上下二巻を古書店から買い求めた。その存在は、大学時代から知っていた本だが、こんな年になって手にするとは思わなかった。これからお世話になることだろう。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その12   2018.6.19

 どこまで読んでも、同じようなことが続くので、まあ、そろそろ『発展』も終わりとしたいのだが、とにかく、義雄、千代子、お鳥の、罵り合いを読んでいると、思わず笑ってしまう。泡鳴は、別にユーモア小説を書こうなどとは微塵も思わず、ただただマジメに書いているのだが、読むほうからすると、おかしくてならない、という場面が多々あるのだ。

 吉田精一は、泡鳴には、藤村や花袋にはないユーモアがある、それが特徴だ、と言っている。

 

「全體、お前とおれとは、な、お前の口調で云やア、同じ星のもとで生れてゐないのだ。迅(とっ)くに離婚してゐた筈だが、ただ可哀さうだと思ひ/\して今までつづいたのア、云つて見りやア、おれのお慈悲だ。」
「いいえ、違ひます──わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!」
「お前はよく向ふ見ず、向ふ見ずといふが、ね、おれの向ふ見ずは、いつもいつて聽かせる通り、一般人のやうな無自覺ではない。」
「自覺したものが下らない女などに夢中になれますか?」
「だから、人のやうな夢中ぢやアないのだ──身づから許して自己の光輝ある力を暗黒界のどん底までも擴張するので──」
「それがあなたの發展とかいふのでしようが、ね──いいえ、そんなことを云ふやうになつたのは、あなたはここ四五年前からですよ。わたしを茅ヶ崎の海岸などへおツぽり出して置いて、さ、僅か十五圓や二十圓のお金で子供の二人や三人もの世話までさせ、御自分は鳴潮さんや大野さんと勝手な眞似をしてイたぢやアありませんか? わたしが歸つて來てからでも、獨歩や秋夢のやうな惡友と交際して、隱し女を持つて見たり、濱町遊びを覺えたりしたんです。」
「そりやア、お前、觀察が足りないので──おれが「デカダン論」を書いた所以は、人間の光明界と暗黒界、云ひ換へれば、靈と肉とは自我實現に由つて合致されるものだと分つたのだ。さうしておれの行動と努力とが各方面に大膽勇猛になつて來ただけのことだ。」
「そんな六ヶしいことア分りませんが、ね、待ち合へ行つたり、目かけを持つたりしてイるものが──」
「めかけぢやない!」聽き咎めたのはお鳥だ。
「何です」と、今にも飛びかかりさうにして、「めかけぢやアありませんか?」
「違ふ!」
「めかけです!」
「違ふ! 女房が女房らしうせなんだから、人にまでこんな迷惑や病氣などをかけるやうになつたのだ!」お鳥のこらへてゐたらしい怒りが一時にその目にまで燃えて出ようとした。そして向ふが飛びかかつて來れば覺悟があるぞといはぬばかりに、かの女は親ゆびを中に他の四本の指で握り固めた兩手を、義雄がそれとなく見てゐると、いつでも自由に動かせるやうに構へた。
 が、千代子はその手に乘るほど狂つてもゐなかつた。
「そりやアあなたの自業自得といふものです──めかけでなけりやア、圍ひ者が天道さまのお罰を受けたのでしよう」と、かの女はお鳥を睨み返してから、もとの言葉をこちらに向つて續けた。
「そんな者を持つて教育家になつてゐられますか?」
「また教訓はよして貰ふ! それに、おれは英語の技術は受け持つてるが、教育家のやうな安ツぽい──」と云ひかけて義雄は老人の聽いてゐるのを遠慮したが、そこまで云つてしまつたのだから思ひ切つて語を繼ぎ、「ものぢやアない。學校など眼中にないばかりでなく、廣い社會に對しても、おれ自身の發展擴張を抽象的な、從つて外形的な、淺薄な教訓のかたちを以てしたくないのだ。」
 餘り懸命にしやべり出してゐたので、義雄は卷き烟草の火が膝に落ちたのを知らなかつた。それをお鳥が氣附いて、その手を以つて急いでふり拂つてくれた。
「今、この場でさう云ふことはお互に云ひツこなしとしましよう」と云ひながら、老人はまたお政さんが獨りでねむさうにしてゐるのに呼びかけ、茶を改めるやうに命じた。

 

 「ユーモア」は、どこから生ずるのかというと、義雄の言い分が、度を過ぎて「直球」だからだ。しかもその「直球」が、まるで世間の価値観とは違ったところに成立している。その「直球」に、千代子はまっこうから「庶民感覚」で対抗する。そのちぐはぐさが面白いのだ。そこへ、お鳥が割り込んでくると、もう、ドタバタだ。

 普通こんな修羅場になったら、男も冷静さを失うものだが、義雄はどこまでも冷静で、「かの女は親ゆびを中に他の四本の指で握り固めた兩手を、義雄がそれとなく見てゐると、いつでも自由に動かせるやうに構へた。」というように、お鳥の姿をしっかりと目に焼き付けている。こういうところも面白い。

 そんな3人の様子を、別に興奮することもなく、シラッと見ている老人とお政さん。この修羅場の中で、「ねむそうにしている」お政さんもいい。

 それに、「秋夢」とわざわざ名前を変えているのに、それに並べて「独歩」と実名が出てきたりするところも、また面白い。

 だから、なかなか、この連載もおわらない。次回は、強引に、『発展』の最終回にするつもりです。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その13   2018.6.24

 

 気になった場面とか、面白かった場面などを断片的に引用して書いてきたので、どうも、この『発展』という小説がどういう筋なのかが、僕自身にもわからなくなってしまった。

 で、最近入手した吉田精一の『自然主義の研究』の助けを借りる。ここには、きちんと、『発展』の粗筋が書いてある。これだけ簡潔にまとめるのも大変なことだが、手を抜かずにまとめてくれていてありがたい。こういう「基礎研究」は、ほんとに大事だなあと思う。

 

 田村義雄は実父の死後、下宿屋を妻に経営させ、自分は商業の英語の先生となって隔日に通勤してゐる。そこへ清水鳥が職業をさがしに出て来て下宿する。お鳥は両足をなげ出したままで義雄と話をするやうなだらしのない性格で、平べったい顔だが、色が白く、肌が美しい。彼女は義雄のさそひにすぐのる。彼は彼女を家の近くに部屋がりをさせ、又甲州塩山の温泉に同伴して「耽溺」を書き終る。だが二人の仲もその頃が絶頂で、帰ると間もなく彼女は彼の病気に感染し、二人の関係も「詰らないもの」になってしまふ。
 彼の三つ年上の妻君千代子は陰陽術にこり、星を信じ、お鳥を呪つてゐるが、遂に彼女の間借りの家にどなりこんで来る。彼はその為にその家を出て、大工の家の二階に間借りする。次第に八方ふさがりになった彼のもとに出入りするのは、加集といふ小学校時代の友人のみだ。生活費に手づまつた彼は実業方面の発展を考へる。それが彼の独存自我の発展でもある。彼はそこで米国への輸出貿易品なる蟹の罐詰に思ひつく。

 

 これがその粗筋だが、前回の引用箇所は、お鳥の間借りの家に千代子がどなりこんできたところ。そこでの、お鳥をも巻き込んだ罵り合いだった。

 で、その後のことだが、この吉田精一の粗筋は、ちょっと端折りすぎて分かりにくいので補足しておく。「彼はその為にその家を出て、大工の家の二階に間借りする。」とあるが、正確に言うと、「今まで間借りしていた家から、大工の家の二階へお鳥を移して住まわせ、そこに自分も通っていく。」ということになる。

 お鳥の病気以来、すっかり彼女への熱もさめているはずなのに、それでも、今度は大工の家の二階へ通っていく自分を、義雄は、こんなふうに自省している。大工の家の前での義雄だ。

 

「いツそのこと、これからどこかへ行つて、獨りで飮み明かさうか? もう、二ヶ月足らずと云ふもの、完全な女のからだにも觸れたことがない。」
 外に立つたまま、ふと思ひ浮べたのは、下の人々(大工の夫婦のこと)もまだ逞ましい男と女であることだ。而も既に丈夫な子が一人ある。
 をすめすの獅子はどんなに暗いほら穴にでも一緒に住む、人間もさうだらう。こんなに周圍も穢い陰氣な濕つぽい家にゐて、而もなほ子供を産んで行く。
 かう考へると、この暗夜に、わざ/\渠等と同じ穴も同前な家に眠りに來る義雄自身も、人の形をした毛だ物で、たとへ獅子でないまでも、狼か山猫のやうだ。
 隣りの瓦斯燈の光りも消えかかつてゐるだけ、夜と云ふ暗い獸的な氣分がみなぎつて、闇に覺める官能の力を誘ひ出したのだらう──犬が鼻先で物を嗅いだやうに、ぷんと格子さきのどぶのいやな臭ひが義雄の耳と共に一方より利かない鼻に聽えて來た。
「こりやア溜らない。」渠は思はずそのどぶを渡り返した。が、折角來たのが惜しいやうでもあつて、立ち去り兼ねた。
 香水──渠はこの刺戟がなければ、強い性慾も起らないほど、疲れてゐた──のついたハンケチで鼻を押さへながら、また引ツ返して戸を叩いて見た。──返事もない。
 小さいふし穴や戸の透き間から覗いて見ると、中もひツそりして暗いやうだ。が、何だか、あの彌吉と云はれる子供が今にも目を覺まして、母獸の寢てゐるふところを四足で這ひ出し、わんとか、にやアとか啼きさうな氣がした。

 

 人間としての崇高さのかけらも感じられないこの叙述を読むと、ひどく気が滅入る。何も、ここまで、人間を獣的に捉えなくともよさそうなものだと思うけれど、それでも、泡鳴がそう感じたのだからしょうがない。そこまで人間の「獣性」に深く降りていくことで、泡鳴は何を発見したのだろうか。

 泡鳴には、もちろん、男としての野望があった。世の中で認められたいという野望だ。評論を書いたり、賛美歌の歌詞を訳したりして(一時はキリスト教信者だったので、棄教してもなお、賛美歌の訳詞には熱心に協力したらしい。)、彼は頑張ったのだが、それでも、なお「世に入れられない」という思いは募るばかり。義雄は、大工の家の前で、こんなふうにも考える。

 

 一般社會には精神的なことは分らない。
 大野(義雄の友人で画家)は矢ツ張り利口だ──自己の生活を確かめる爲めに、同じ性質の仕事でも、成るべく世間に知られ易い芝居の書き割りのやうな物に向いて行つた。 
 文藝のやうな無形的な事業では、どうも滿足出來ない氣がする。
 何をしたツて、自己の發展なら、おのれの主義と主張とはとほる筈だ──早く一つ書き割りなどよりもずツと有形的な事業をして、名譽と金錢とを自分の内容的實力と共に兩得して見たい。
 金錢さへどツさりぶち撒ければ、こんな叩き大工のやうな──浪漫的なおほ法螺でとほつた耶蘇の前身のやうな──ものは、百人でも千人でもぺこ/\させてやる。
 有形的にさしたる事業もしない恥辱──かう云ふことを義雄はただ一瞬間にさま/″\と考へて見た。

 

 「浪漫的なおほ法螺でとほつた耶蘇」といった、キリストへの罵倒にも、どこか太宰治にも似た屈折が見える。「泡鳴とキリスト教」というのは、十分研究テーマとして成立するだろう。

 それはともかく、義雄は──泡鳴は、何とか「有形的な事業」で成功して、世間をあっと言わせてみたいと思ったのだ。そして、それが、従兄弟が始めた樺太での缶詰工場の経営という事業だった。

 泡鳴の年譜を見ると、決まってこの樺太での缶詰工場経営のことが突然出てきて、いったいどうしてなんだろうと思うわけだが、それには、こうした深い事情があったのだ。

 さて、吉田精一は、『自然主義の研究』の「岩野泡鳴(一)」の冒頭で、こんなことを書いている。

 

岩野泡鳴(一八七三〜一九二〇)は不人気な作家であってその研究もまだ甚だ進まず、藤村、独歩、花袋等とちがって、経歴の上にも明らかでない点が多い。しかし何といっても泡鳴が迫力に富む大作家であることは疑ひない。彼は花袋とともに自然主義の理論を真向(まっか)うにかざし、理論と創作を一致せしめた点で、自然主義作家中の異色である。

 

 この本が出てから60年以上経っているが、相変わらず、「不人気」な泡鳴の研究はどうなっているのか、気になるところである。

 次回からは、この「泡鳴五部作」の第二、『毒薬を飲む女』を読んでいきます。

 

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