「源氏物語」を読む

 

No.52 蜻蛉


【52 蜻蛉】

 

★『源氏物語』を読む〈349〉2018.3.18
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その1)

▼「かしこには、人々、おはせぬを求め騒げどかひなし。物語の姫君の人に盗まれたらむ朝(あした)のやうなれば、くはしくも言ひつづけず。」【口語訳】あちら宇治の邸では、女房たちが女君のお見えでないのを大騒ぎで捜し求めているけれどそのかいもない。物語の中の姫君が、人に盗み出された翌朝のような有様であるから、ここに詳しく述べるまでもない。
▼これが「蜻蛉」の巻の冒頭。ここに言う「物語の姫君」というのは、『伊勢物語』に出てくる「芥川」の話などがすぐに思い浮かぶが、古来、こうした「姫君失踪」の話は多くあったらしい。物語に書いてあることと似たようなことですから、詳しくは書きません、という語り手の言い分も面白い。
▼そもそも、この浮舟の話は、昔からあった、「真間手児奈」などの、いわゆる「妻争説話」を原型にしているのである。その「原型」を、紫式部がどう料理するかに、読者の期待もかかっていたということだろう。
▼とにかく、浮舟が消えてしまった。もう、宇治では大騒ぎだ。昨日、宇治へ使者が今朝になっても帰ってこないので、母親は心配して、また使者を送ってくるが、右近たちも、乳母も、どう返事をしていいか分からない。
▼事情を推察できるのは、右近と侍従だけだ。二人は、浮舟はずいぶん思い悩んでいたから、ひょっとしたら宇治川に身投げをしたのではないかと思う。
▼母親に手紙には、心配で夜も寝られない、すぐに薫様のお迎えがくるとのことだけれど、それまでの間、うちへ来てもいいですよ、と書いてある。以前に、浮舟は、身を隠したいからそちらに行ってもいいかと聞いたのだが、その時は、浮舟の姉妹の結婚などでゴタゴタしているからダメだと断ったのだが、母親もこんどはしばらくでも引き取ってもいいと思ったのだ。
▼それを読んだ右近は、昨日、浮舟が書いた母への返事を開けてみる。そこには、浮舟の辞世の歌とも読める歌が書かれていた。こんな歌だ。(「浮舟」の巻に出ている。)
▼「のちにまたあひ見むことを思はなむこの世の夢に心まどはで」(後の世でまたお会いできると思ってくださいまし。この世の夢のようにはかない縁にお心を迷わされずに。
▼「鐘の音の絶ゆるひびきに音(ね)をそへてわが世つきぬと君に伝へよ」(鐘の音の消えてゆこうとする響きに泣く音を添えて、この私の命も尽きたのだと、母君に伝えておくれ。)
▼この二首を読めば、これが辞世の歌だということは明らかだ。右近は、「さればよ。」(やはりそうだったのだ。)と思い、嘆く。
▼「心細きことは聞こえたまひけり、我に、などかいささかのたまふことなかりけむ、幼かりしほどより、つゆ心おかれたてまつることなく、塵ばかり隔てなくてならひたるに、今は限りの道にしも我をおくらかし、気色をだに見せたまはざりけるがつらきこと、と思ふに、足摺(あしずり)といふことをしえ泣くさま、若き子どものやうなり。」
▼【口語訳】心細いことを申しあげていらっしゃるではないか。この私にどうしてほんの一言お打ち明けくださらなかったのだろう。幼くいらっしゃったころから、まったく分け隔てなさらず、またこちらでも何一つ隠しだてすることもなくお仕えしてきたのに、ほかのことならいざしらず今は限りの死出の道に、この私を置き去りになさって、その気ぶりすらお見せにならなかったのがなんとも恨めしい」と思うと、足摺りということをして泣く有様は、まるで年端もゆかぬ子供のようである。
▼この右近という女は、浮舟の乳母子でもあるので、ほんとうに幼い頃から一緒に育ってきたのだった。だからその悲しみも、ただの女房とは違うのである。「足摺」という言葉は、人間の悲しみを肉体レベルで見事に表現している。
▼右近は、更に思う。
▼「いみじく思したる御気色は見たてまつりわたれど、かけても、かく、なべてならずおどろおどろしきこと思し寄らむものとは見えざりつる人の御心ざまを、なほ、いかにしつることにかとおぼつかなくいみじ。」
▼【口語訳】ひどく物思いに沈んでおられたご様子はずっと拝見していたのだったけれど、女君のご性分からしてよもやこのように尋常ではない恐ろしいことをお思いつきになろうとは、とうてい考えられなかったものを、いったいどうしたことなのかと、やはり合点がゆかず、たいそう悲しくてならない。
▼前にも述べたが、自死ということは、当時の貴族にとっては、「なべてならずおどろおどろしきこと」だったのだ。浮舟が「自死」という極端な解決法に思い至ったのは、東国育ちで、無教養だったからだと言ったような語り手の感想が、「浮舟」の巻にもあった。だから、右近にしてみれば、どうして、このおっとりした浮舟が、そんなとてつもないことを考えていたのか理解できないのである。
▼これは、一種の文化の衝突だろうか。右近が前に持ち出した、自分の姉をめぐる殺人事件の話も、源氏物語の中では極めて異様なものだった。人を「殺す」ということは、源氏物語の「本体」の中では一度も出てこない。六条御息所が生霊となって、夕顔や葵上を取り殺すという事件は起きるけれど、それは人が人を殺すということとはやはり異質だ。
▼平安貴族の人々は、東国の人々、都周辺に住む庶民とは、まったく違った「心性」を持っていたのだろう。その異質なものの対照は、この宇治十帖に至って極めて鮮明に出てくる。それは、たぶん、平安時代の終わり、平安文化の崩壊を、紫式部が予感していたことの表れかもしれない。
▼平安文化は(すくなくとも「源氏物語」に見られる平安文化は)、極めて限られた貴族たちが、極めて特殊な環境において成熟させたもので、今から見れば、たぶんに「いい気なもの」に見えるのだが、その文化の水準の高さ、深さは、否定することができない。その文化に触れるためにこそ、「源氏物語」を読むのかもしれない。

 

★『源氏物語』を読む〈350〉2018.3.19
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その2)

▼匂宮は、浮舟からもらった手紙が、いつもと違っていたのが気になって、使者を送ってきた。
▼その浮舟の手紙には、「浮舟」の巻に出てくるのだが、「からをだに憂き世の中にとどめずはいづこをはかと君もうらみむ」(亡骸をもこのつらい世の中に残さなかったなら、どこを目当てに宮様も私をお恨みになれましょう。)という歌だけが書かれていた。
▼この「はか」は「はかり」と同じで「目当て・目標」の意味だが、そこに「墓」をかけている。つまり、浮舟は、この歌ですでに亡骸をこの世に残さない死──入水自殺をすでに選んでいることが分かるのだ。けれども、匂宮にはそんなふうには読めない。川に身を投げて死ぬというような行為は、匂宮の頭にはまったく浮かばないのだ。そういう文脈がないと、そうは読めないものだ。
▼だから、匂宮は、「変だなあ」と思うだけだったのだが、浮舟の浮気を疑っていたので(自分の浮気性を浮舟に投影しているんだと、語り手は皮肉っている)、どこかに身を隠すつもりでこんな歌を詠んだのではないかと気になって、使者を送ったというわけだ。
▼使者が宇治に着いてみると、そこはもう大変な大騒ぎになっている。下働きの女に、どうしたんだと聞くと、奥様が今晩急にお亡くなりになって、それでもう、みんなどうしたらいいのかわからないのです、と答える。使者の男は、気の利かないヤツだったので、それ以上詳しく聞くこともせずに、帰ってきて「亡くなったそうです」と、匂宮に報告する。
▼匂宮は、夢かと思う。確かに最近は具合が悪いとは言っていたが、昨日の手紙も、なんだか趣深いものだったし(そんなふうに匂宮は捉えていたのだ)、と思うにつけても、突然に死んだなどということはまったく想像もつかないので、今度はもっとマシな家来の時方に、ちゃんと聞いてこいと命ずる。
▼時方は、しぶって、でも、最近はどうも薫様が、どんなことを聞きつけたものか、急に警備を厳重にしているらしいですから、何の口実もなく、私が参りまして、それがバレたりしましたら、なんか勘ぐられるじゃないでしょうか、という。匂宮の方では、薫がすでに匂宮と浮舟の関係に気づいていることをまだ知らないのである。
▼だからといって、このままにしておけるものか。お前が親しくしている侍従(時方と侍従はできてるらしい)に会って、何をそんなに騒いでいるのかを探ってこい、と匂宮は、命ずる。
▼時方は、そんなに必死な匂宮が気の毒で、それじゃあといって出かける。身分の低いものは身軽だから、あっという間に、宇治に到着。
▼着いてみると、まだ大騒ぎで、今夜すぐにお葬式ですって、なんて下女たちが言うのが聞こえるので、びっくりして、右近に来意を告げるけれど、右近は、今夜ももう何が何だか分からず、起き上がる元気もなく、ただ臥せっております。これが最後のおいでなのに、残念です、と言うばかり。(やっぱりできてたんだ。)
▼そのまま帰ってしまったら、前の家来の二の舞になってしまうので、侍従に会って、事情を聞き出す。
▼侍従は、ほんとに思いがけないことでして、みな途方に暮れていますとお伝えください。もう少し落ち着きましたら、姫様の最後のご様子などお話し致しましょうゆえ、今夜はどうぞお引き取りを、と言って泣くばかり。
▼そこへ、乳母の泣き声が聞こえてくる。
▼「あが君や、いづかたにかおはしましぬる。帰りたまへ。むなしき骸(から)をだに見たてまつらぬが、かひなく悲しくもあるかな。」【口語訳】あが君や、どこへ行っておしまいになったのです。お帰りくださいまし。亡骸をさえ拝見できませんのが、あっけなく悲しいことでございます。
▼これを聞いて、時方は、おやっと思い、侍従を問い詰める。ひょっとして誰かが浮舟を連れ出して隠したのか? オレは、確かなことを聞いてこいと言われてきた使者なんだぞ、もし、いい加減な報告をして、後から真相がわかったりしたら、オレの罪になるんだ、と言われて、侍従も仕方なく答える。
▼もし、誰かが隠したというような心当たりがあるのでしたら、こんな大騒ぎをするでしょうか。たしかに、姫様はお悩みでしたが、みんな、薫様のところに行かれるのだとばかり思って、準備もしていたのです。けれども、姫様は、匂宮様をお慕い申し上げていましたので、きっと、正気を失ってしまったのでしょう。こんな、我とわが身を縮めるようなことをなさったご様子なので、乳母もあんなに取り乱しているのです、と、遠回しに、浮舟の自死のことを告げる。
▼時方は、それを聞いて、中に入ってゆっくり話を聞こうとする。いずれ匂宮様もゆっくりお越しになるでしょうと言うと、侍従は、それはもったいないことですが、匂宮様が弔問に来られると、世間では、またお二人の関係について何やかやとうるさいことでしょう。姫様も心に秘めておいでのことでしたから、他にはお漏らしにならないというのが配慮というものでしょう、と言って、追い立てるように、時方を帰らせる。ここで、時方に長居をされたら、せっかく、邸の者にも秘密にしていることがバレてしまいそうだったからである。
▼侍従も右近も、とにかく浮舟の自死を隠したいと思う。それは、やはり「自死」が、「普通ではない」死に方だったからである。みんなは浮舟が死んだと思っている。けれども、この邸には遺骸がない。どうやら入水自殺をはかったらしい。けれども、そのことは、この邸の中の者にも秘密にしたい。その一念で、右近と侍従は、渾身の努力をするのだった。

 

★『源氏物語』を読む〈351〉2018.3.20
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その3)

▼時方が帰っていった後、雨にまぎれて母がやってくる。
▼目の前で亡くなったというのなら、それは悲しいに違いないけど、そんな話は世間にいくらでもあること、でも、亡骸もないなんて、いったいどういうことなの? と母は思い乱れる。
▼匂宮との込み入った事情などまったく知らない母だから、浮舟が川に身を投げたなんてことは夢にも思わず、鬼が食ったのか、狐みたいなのがさらっていったのか、など、昔物語にあったことなどを思い出してみたり、それとも、薫の正妻(女二の宮)のところの意地の悪い乳母が、浮舟を目障りだと思って誘拐したのか、などと疑い、誰か新参者はいないか? と言う。新参者がアヤシイというわけである。
▼侍従は、この頃の浮舟の様子をよく知っていたから、川の方を見て、ああ、あの恐ろしい水音を響かせて流れている宇治川に姫様は身を投げたのだわ、と思うと悲しくてならないのだが、かといって、その姫様を母君様などが、姫様はいったいどうしたのかと詮索して、私たちを疑うようなことにでもなったら嫌だわ、と右近と語らう。
▼右近が言う。そうよ、お忍びの恋だといったって、姫様から言い寄ったわけでもないのだし、バレたからといって恥ずかしい相手でもないわ。こうなったら、母君様に、すべての事情をお話ししましょう。そうすれば、母君様の気持ちもいくらか晴れるというものよ。人が亡くなったら、遺骸を安置して、弔うのが世の常なのに、それもしないで日が経てば、隠し通すこともできなくなるわ。ここは、母君様にお話しして、とにかく、世間体をつくろいましょうよ。
▼つまり、母には事の次第を打ち明けて、とにかく、浮舟は死んだことにしてしまおう、入水自殺ということだけは隠し通そうというわけである。
▼それで、右近は、事実を母に話す。母は、もうあまりのことに、気を失わんばかりに取り乱して、自分までもが川に飛び込んでしまいそうな気持ちになりながらも、それなら、どこまでも娘を探して、せめて亡骸だけでもちゃんと葬りたいと泣き叫ぶ。
▼けれども右近は承知しない。そんなことしたってムダです。果てしもない大海原に流れていってしまったのですから、見つかりっこありません。それに、そんな捜索などしたら、噂が広まって、どんなひどいことを言われるかわかったもんじゃありません。
▼そんなふうに言われると、母はもうどうしていいのか分からず、うろたえているばかりだが、右近と侍従は、さっさと事を運んでしまう。浮舟の使っていた畳やら、蒲団やら、夜具やら、調度やらを車に載せて、更に、ごく近しい人だけを選んで供をさせ、出発させる。
▼母や乳母は、え〜っ、まだ死んだと確認されたわけでもないのに、葬儀? って思うけど、口出しもできずに、臥しまろび泣くばかり。
▼そこへ、薫のこわもての家来がやってきて、葬儀のことは、殿にも相談して日取りを決めて、盛大に行うべきではないのか、と文句を言うが、右近も侍従も、ごく内密にすませたいのです、と言って、まったく取り合わない。
▼「この車を、むかひの山の前なる原にやりて、人も近くも寄せず、この案内(あない)知りたる法師の限りして焼かす。いとはかなくて、煙(けぶり)は果てぬ。」
▼【口語訳】その車を向いの山裾の野原へやって、人も近づけぬようにして、事情を知っているその法師たちだけで火葬させる。まったくあっけなく終って、煙は消えてしまった。
▼ここは、驚く。いつもの源氏物語の長い文章ではなくて、極端に短い文章で、「遺骸なき火葬」の場面をさっさと描いてしまう。
▼この表現もそうだが、この右近と侍従の二人の女性のまた何という果敢な行動力だろう。平安貴族の女性というと、なんだかなよなよして、何言っているんだか分からないような、ただただ上品なイメージがあるかもしれないが、これはその対極。浮舟の名誉を守るんだという明確な目標にむかって、なにものをも恐れず、てきぱきと実行していく二人の姿には、感動すら覚える。

 

★『源氏物語』を読む〈352〉2018.3.21
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その4)

▼その頃、薫は、母の女三の宮の体の具合が悪いというので、石山寺に籠もったりして慌ただしい日々を過ごしていた。それで、浮舟の死のことを知らなかったので、すぐに弔問の使者を送ることができなかった。それを、宇治の方では、冷たい、と思っていた。
▼そこへ薫の家来が、石山寺にやってきて報告したので、薫はもうびっくりして、葬送の日の翌朝、使者を出した。
▼昨夜の葬儀は、本当なら私に連絡して、日程を先延ばしにして行うべきなのに、どうしてそんな簡単に済ませたのか。浮舟の死んだことは、今さら何をいってもしょうがないことだが、葬式のことで田舎者にまで、そんな簡単にしていいんだろうかなど噂されるのは、ほんとに辛いことだ、と薫の伝言。
▼この薫の言葉からは、浮舟の死への悲しみよりも、自分に無断で簡略な葬儀をして世間から笑われることへの不快感が露骨に感じられる。
▼こんな言葉に、宇治の方では、もちろん、何と言って返事していいか分からないから、ただただ、涙に濡れております、ということを口実に、はっきりとした返事もしなかった。
▼薫は、家来の報告を聞いて、それにしても、宇治というところは嫌な所だなあ、鬼でも住んでいるのだろうか。オレは、なんで、あんなところに浮舟を住まわせておいたのだろう。あんなところに放っておいたので、匂宮なんかにつけ込まれたのだろう、と思うと、胸が締め付けられる思い。
▼都に戻った薫は、改めて浮舟を恋しく思う。オレはほんとに女の方面には向いてないんだなあ。苦しい思いばっかりだ。もともと仏道に励むつもりだったのが、道を外れてしまったので、仏が元の道に引き戻そうとしてオレをこんなに辛い思いをさせているのだろうか、と思いつつ、勤行に励む。
▼一方、匂宮は、もう正気をなくして、周囲の者が、いったいどんな物の怪に取りつかれたのだろうと怪しむほどの取り乱しようだったが、ようやく涙も涸れ果てて、心静かになるにつけても、浮舟の面影がちらついてならない。泣きはらした目を隠して、自分では何でもないように装うが、傍目には、嘆きの様はあらわなので、いったい何を悲しんでいるのだろうと、周囲の者はいぶかしく思う。
▼匂宮がそんな状態だということを、薫に伝える家来がいて、それを聞いた薫は、やっぱり、あの手紙は本当だったんだ、と、匂宮と浮舟の関係について確信を持つ。
▼「『さればよ。なほよその文(ふみ)通(かよ)はしのみにはあらぬなりけり。見ためひては必ずさ思しぬべかりし人ぞかし。ながらへましかば、ただなるよりは、わがためにをこなる事も出で来なまし。』と思すになむ、焦がるる胸もすこしさむる心地したまひける。」
▼【口語訳】「思っていたとおりではないか。やはりよそながらの手紙のやりとりだけではなかったのだ。宮が一目ごらんになったら必ず執着なさらずにはいられないような女ではあった。もしあの人がこのまま生きていたとしたら、ただの他人の場合とちがって、この自分としても愚かしい事態になったかもしれない」とお思いになると、焦れる胸の苦しさもいささか薄らぐ心地がなさるのであった。
▼「ただの他人の場合とちがって」と薫は思うのだが、それは、浮舟は薫の姪だったからで、それは、世間的にもあれこれ言われるところだったわけだ。もちろん、実際には、血のつながりはなかったのだが。
▼それにしても、これはまたなんというリアリズムだろう。つまり、薫は、浮舟が死んでよかった、って思っているのだ。もしこのまま浮舟が生きていたら、オレはとんだ事件に巻き込まれ、とんでもない恥をかくところだった、と思うと、「焦がるる胸もすこしさむる心地したまひける」というのだ。
▼もちろん、薫は、浮舟が死んだことを喜んでいるわけじゃない。恋しく思っている。けれども、浮舟を巡って、匂宮との泥仕合は真っ平ごめんなのだ。薫にとっては、人に笑われることが何より嫌なのだ。
▼オレは女とはいつもうまくいかない。それがおれの「宿世」だと薫は思うけれども、実は「宿世」ではなくて、薫のこうした性格に問題がある。もちろん、それを含めて「宿世」だというのなら、それはそうだとしか言いようがないけど。
▼薫にとっては、浮舟との恋は、あくまで秘密の恋であるしかなかった。世間から隠れたところで、そっと愛していたかった。しかも、あくまで大君の「形代=身代わり」として、愛したかったのだ。はたして、それを「愛」といえるのだろうか。
▼それに比べれば、匂宮の恋は、単純なだけに、むしろ気持ちがいい。愛する女が死んだとき、我を失って泣き続け、腫れた目を隠して強がっているけど、バレバレって、カワイイよなあ。薫は、かわいくないね。

 

★『源氏物語』を読む〈353〉2018.3.22
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その5)

▼浮舟の死にショックをうけて、病の床に伏している匂宮を、薫が訪ねる。
▼匂宮がなんでそんなに憔悴しているのかは、周囲の者たちは知らないから、何の物の怪が取り憑いたのだろうといぶかるのだが、薫は知っているのである。
▼匂宮は、床に起き上がれないというほどの重症ではないから、薫と会うけれども、どうにもきまり悪い。とめどなく流れる涙を、浮舟の死を悲しんでの涙だと薫は気づくまいと思うのだが、どっこいそうはいかない。この匂宮と薫の対面のシーンは、読み応えがある。
▼「『見えたまはむもあいなくつつまし、見たまふにつけても、いとど涙のまづせきがたきを思せど、思ひしづめて、「おどろおどろしき心地にもはべらぬを、皆人は、つつしむべき病のさまなりとのみものすれば、内裏(うち)にも宮にも思し騒ぐがいと苦しく、げに世の中の常なきをも、心細く思ひはべる。』とのたまひて、おし拭(のご)ひ紛らはしたまふと思す涙の、やがてとどこほらずふり落つれば、いとはしたなけれど、かならずしもいかで心得ん、ただめめしく心弱きとや見ゆらんと思すも、さりや、ただこのことをのみ思すなりけり、いつよりなりけむ、我を、いかにをかしともの笑ひしたまふ心地に、月ごろ思しわたりつらむ、と思ふに、この君は、悲しさは忘れたまへるを、こよなくもおろかなるかな、ものの切(せち)におぼゆる時は、いとかからぬことにつけてだに、空飛ぶ鳥の鳴きわたるにも、もよほされてこそ悲しけれ、わがかくすずろに心弱きにつけても、もし心を得たらむに、さ言ふばかり、もののあはれも知らぬ人にもあらず。世の中の常なきことを、しみて思へる人しもつれなき、とうらやましくも心にくくも思さるものから、真木柱はあはれなり。これに向かひたらむさまも思しやるに、形見ぞかしとうちまもりたまふ。」
▼【口語訳】(匂宮は薫に)お会いになるにつけても、いよいよもって涙をまずせき止めにくくお思いになるけれど、心を静めて、「たいした病気でもございませんが、皆が皆、用心しなければいけない病状だとしきりに言うものですから、主上にも母宮にもご心配あそばすのがほんとに心苦しくて。いかにも、世の中の無常ということをも心細く思っているのです」とおっしゃって、おしぬぐってまぎらわそうとなさるお涙が、そのまま止めようもなく流れ落ちるので、まったくきまりがわるいけれど、「この涙をあの女(浮舟)ゆえの涙と察しがつくはずもなかろう。ただ女々しく気弱になっているのだとでも見てもらえよう」とお思いになるが、しかし大将は、「やはりそうなのだ。宮はただあの女のことをばかり嘆いておいでなのだ。いったいいつごろから始まった仲なのだろう。このわたしをどんなにか間の抜けた男よと笑い者になさって、この幾月か過してこられたのだろう」と思うと、この君は悲しさも忘れてしまわれるのを、宮は、「なんと薄情な人であるか。何かにつけて切実な思いをいだかせられるときは、じっさいこれほどのことでなくても、空を飛ぶ鳥の鳴き渡る声にも心をそそられて悲しくなるものだのに。わたしがこうも無性に気弱くなっているにつけても、もしそれがあの女のためと察しがついたならば、それほど人の心の悲しみに理解のつかない人でもないのだが。世間の無常を深く悟っている人はかえって冷静でいられるものなのか」と、うらやましくも、奥ゆかしくもお思いになるものの、この大将を女君のゆかりの真木柱(浮舟が向かいあっていた相手としての薫を、真木柱と見立てた表現)と思うとしみじみ懐かしいお気持になられる。この君とどんなふうにして向い合っていたのであろうかと、その女君の姿を想像なさって、この大将こそあの女の形見なのだというお気持になり、じっとお見つめになる。
▼複雑だね。薫は、泣いている匂宮を目の前にすると、やっぱりコイツは浮舟のことを思っているんだ、と更に強く確信する。そうなると、匂宮と浮舟は、自分の知らないところでこっそり会って、そして、オレのことを笑っていたに違いないと腹がたってくる。腹が立てば、悲しみどころではない。そんな薫を見て、匂宮は、なんて薄情なヤツなんだ。オレと浮舟の仲を察したのなら、いくら腹が立ったとしても、いくらかの共感があってもよさそうなものじゃないか、まったく、仏道に励み、世の無常を知ってるヤツってのは、かえって羨ましいようなものだなあと思いながら、薫を見ると、そこに薫と睦び合う浮舟の幻が立ち上がってくるような錯覚をおぼえて、ああ、この薫こそは、浮舟の「形見」なんだと思うのだった。
▼匂宮は、薫に対する裏切りを申し訳なく思うし、バレることを恐れているのだが、もしバレたとしても、薫はそういう恋愛の機微を理解してくれるんじゃないかと期待しているのだ。裏切りを知った薫は、そうか、でも、男女の仲だ、そういうこともあるよね、辛いよね、と言うような「共感」を示してくれてもいいじゃないかと思うのだ。それは、匂宮の甘えではあるけれど、匂宮という男は、恋愛をそういうレベルで考えているのかもしれない。
▼匂宮の言葉のなかにある「もののあはれ」とはそういうことだ。親友の愛人と通じてしまい、その愛人が死に、今、その裏切った親友とこうして会っていて、裏切りもバレかかっている、そういう事態全体が「もののあはれ」を醸し出している。その「もののあはれ」を共有することを、匂宮は求めているのかもしれない。
▼そんなことは土台無理な話なんだけれど、それを実現していたのが、源氏なのではないかと、ふと、思う。違うかもしれないが。
▼源氏物語の「不道徳性」に対して、そうじゃない、源氏物語は、「もののあはれ」を表現しているんだと言ったのは、本居宣長だったということだが、それはやはり卓見である。もういちど、ちゃんと本居宣長の論を読まねばならない。

 

★『源氏物語』を読む〈354〉2018.3.23
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その6)

▼薫は、匂宮と世間話をしているうちに、いつまでも黙っていることもあるまいと、浮舟の話をわざと持ち出す。
▼いやあ、今までは君も何かと忙しくしているし、ぼくもなまじ身分も高くなってしまったものだから、なかなかお目にかかることもできなくて話しそびれていたんだけどね、実は、君をよく連れて行った宇治に、亡き大君のゆかりの女がいることが分かってね、時々は会おうと思って、そこに住まわせていたんだ。でも、ほら、結婚のことなどあって、そうそう会いにいくこともできなかったし、それに、ぼく一人を頼りにしているわけでもないらしくてね(と、当てこすり)、ま、正室ならともかく、そんな重い立場の女じゃないから、それはそれでいいかというぐらいなもんでさ、かわいがっていたんだけど、その女が、亡くなってしまってね、ぼくも、ずいぶん悲しい思いをしたよ。君も話には聞いているかもしれないけどさ、とこれも皮肉まじりに話しているうち、ほんとに涙が出てきてしまう。
▼匂宮に寝取られた女のことを思って泣いているところを、匂宮に見られるなんて間抜けな話だと思うものの、一度出た涙は止めることができない。
▼「気色のいささか乱り顔なるを、あやしくいとほしと思せど、つれなくて、『いとあはれなることにこそ。昨日ほのかに聞きはべりき。いかにとも聞こゆべく思ひたまへながら、わざと人に聞かせたまはぬことと、聞きはべりしかばなむ。」と、つれなくのたまへど、いとたへがたかりければ、言(こと)少なにておはします。『さる方にても御覧ぜさせばやと思ひたまへし人になん。おのづからさもやはべりけむ、宮にも参り通ふべきゆゑはべりしかば。』など、すこしづつ気色(けしき)ばみて、『御心地例ならぬほどは、すずろなる世のこと聞こしめして入れ御耳おどろくも、あいなきわざになむ。よくつつませおはしませ』など聞こえて、出でたまひぬ。」
▼【口語訳】大将の様子がいささか取り乱した体なのを、これはどうしたことか、なんとも困ったことになった、と宮はお思いになるけれど、何気ないふうをよそおって、「ほんとに胸にしみるお話ではありませんか。わたしも昨日ちらと耳にしたことでした。あなたがどんなにお嘆きかと、お見舞も申しあげたく存じておりながら、ことさら他人にお漏しにならぬことのようにお聞きしておりましたので」と、何くわぬふうにおっしゃるけれど、ご自身でもまったくこらえがたいお気持になられるので、言葉少なにしていらっしゃる。大将は、「しかるべき筋のお相手としてでもお目にかけたいと考えておりました者でして。いや、しぜんお目にとまることもございましたでしょうか、お邸にもお出入りする縁故がございましたのですから」などと、少しずつ当てつけて、「ご気分のすぐれないときには、こうした埒もない世間話をお耳になさってお驚きあそばすのも不都合なことでございます。どうぞ十分お大事になさいまし」などと申しあげておいて、大将はお帰りになった。
▼ここに二度出てくる「つれなし」という言葉が大事。今では「つれない」というと、「つめたい」「薄情だ」といったように使われるが、古語では、「表面何事もなげである。」「表面に出さない。」「そしらぬふうである。」といった意味で使われることが多い。
▼心の思いを隠して、表面上は何でもないふうを装うことをいうわけで、この場面のやりとりは、まさに「つれなし」の出番で、スリリングだ。匂宮のドキドキしている鼓動が聞こえてきそうだ。
▼薫の皮肉、当てこすりは、だんだんエスカレートしていく。君にいつか紹介しようと思ってたんだけどね。いや、もう会ってるか、奥さんのゆかりの人だからお宅にも顔を出しているかもね、なんて、なかなかスゴイよなあ。源氏が柏木をいたぶる場面を思い出す。薫は柏木の子だから、親のうらみをここではらしているってわけか? そんなこともないだろうけど、こういう場面の迫真性は、源氏物語って際立っているね。

 

★『源氏物語』を読む〈355〉2018.3.24
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その7)

▼匂宮の悲しみに沈む姿をみた薫は、浮舟がそんなにも匂宮に思われていたことに一種の感動を覚える。なんといっても、当代随一の公達がここまで取り乱すほど愛されたんだ、浮舟は幸せものだ。それに、オレだってアイツに負けないくらい浮舟を愛したんだ、と思うにつけても涙はとめどなく流れるのだった。
▼こうした反応は意外でもある。薫は、匂宮にさんざん皮肉を言ったけれど、匂宮を本気で憎んでいるわけではない。むしろ、匂宮の高貴な身分と、類い稀な美貌を賞賛している。それほどの男が、浮舟のようなそれほどたいした身分でもない女に入れ込み、その死に我を失うほど取り乱して悲しんでいることに、浮舟の「果報」をみる。
▼折口信夫は、「源氏物語」が歌舞伎の題材になることがほとんどなかったのは、「源氏物語」には悪人と善人の対立がないからだ、といっている。(「源氏物語における男女両主人公」折口信夫全集第8巻)歌舞伎は、基本的に善人と悪人の対立の構図でなりたっており、そもそも江戸時代の人間は、人間には善人と悪人がいると思っていた。そういう江戸時代の人間観では、「源氏物語」はとうてい分からない話だった、とも言っている。
▼これは、非常に面白い観点で、目を開かれる思いだった。考えてみれば、今だって、大衆に受けるのは、水戸黄門的な、善と悪の対立だ。けれども、匂宮と薫は、この善人・悪人の図式に当てはめることはできない。だから、こうした薫と匂宮の関係を読んでいくと、なんだかすっきりしないモヤモヤするものが胸にわだかまってしまう。
▼親友が自分を裏切ったのだから、薫はもっと怒り狂ってもいい。場合によっては決闘だ。──そう、スタンダールの小説なんか読むと、ちょっと自尊心を傷つけられたといった程度で、すぐに決闘となってしまう。血の気の多い連中だなあと呆れて読んだものだが、この匂宮の裏切りなんて、フランスなら、間違いなく決闘だ。
▼それなのに、薫は、匂宮を賞賛するのだ。たとえ、自分を裏切った男でも、女に死なれてうちしおれ泣き崩れている姿をみると、「あはれ」と思ってしまうのだ。フランス人と日本人を単純には比較できないけれど、なんか、こういうところを見ると、根本的に精神構造が違うのかなあと思うのだ。
▼4月になる。ほんとなら、浮舟を都に引き取っている頃だ。
▼「月たちて、今日ぞ渡らましと思ひ出でたまふ日の夕暮、いとものあはれなり。御前(おまへ)近き橘(たちばな)の香のなつかしきに、ほととぎすの二声ばかり鳴きてわたる。『宿に通はば』と独りごちたまふも飽かねば、北の宮に、ここに渡りたまふ日なりければ、橘を折らせて聞こえたまふ。〈忍び音や君もなくらむかひもなき死出の田長(たをさ)に心かよはば〉宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、いとあはれに思して、二ところながめたまふをりなりけり。気色(けしき)ある文かなと見たまひて、『〈橘のかをるあたりはほととぎす心してこそなくべかりけれ〉わづらはし』と書きたまふ。」
▼【口語訳】月が改まって、女君が生きておれば今日は都に迎えるはずの日だったのにと(匂宮が)お思い出しになる日の夕暮は、まったくもの悲しいお気持になっている。お庭前近くの橘の香が思いをそそるようににおい、ほととぎすが二声ばかり鳴いて空を渡っていく。大将(薫)は、「宿に通はば」と独り言をおっしゃるにつけても、物足りなくお気持がおさまらないので、北の宮(二条院=匂宮の邸=中の君と住んでいる)に、ちょうど宮(匂宮)がそこにいらっしゃる日だったから、橘を折らせてこのようにお申しあげになる。〈(この私と同じようにあなたも忍び泣きに泣いていらっしゃるのでしょう。嘆いてみてもかいのない死出の田長(冥土からの使者と言われるホトトギスのこと。ここでは浮舟をさす。)に心を通わせておいでになるのでしたら〉宮は、この二条院の女君(中の君)のご様子が宇治の女(浮舟)にまったく似通っているのを、じつに感慨深くお感じになって、お二人して物思いにひたっていらっしゃる折なのであった。意味ありげな手紙よとごらんになって、「〈昔の人を思い出させる橘の花のにおうあなたのお邸では、ほととぎすもそのつもりになって鳴くはずです〉わずらわしいことです」とお書きになる。
▼お互いに分かっているのに、それを露骨に表面には出さず、古歌にかこつけて、当てこする。それは「嫌味」ということではなくて、そうすることで、「決闘」などという野蛮な衝突となるのを避けているのだ。それが「教養」の役割ということだろう。そうだとすれば、平安時代の貴族文化というものは、とてつもなく洗練されたものだったといわねばなるまい。

 

★『源氏物語』を読む〈356〉2018.3.25
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その8)

▼中の君は、ことの経緯をみんな知っていた。
▼「女君、このことのけしきは、みな見知りたまひてけり。あはれにあさましきはかなさのさまざまにつけて心深き中に、我一人、もの思ひ知らねば、今までながらふるにや、それもいつまで、と心細く思す。宮も隠れなきものから、隔てまたへるもいと心苦しければ、ありしさまなど、すこしはとりなほしつつ語り聞こえたまふ。」
▼【口語訳】この二条院の女君(中の君)は、今度のことのいきさつはすべてご存じなのであった。「胸にしみて嘆かわしくはかない命を、姉君といい妹といい、さまざまにはかり知れない物思いに生きた姉妹であったが、この自分だけがとりわけ屈託もなくて、そのためにおめおめと今まで生き長らえているのだろうか。だが、それもいつまで続くことだろうか」と、心細くお思いになる。宮(匂宮)も、すっかり知られてしまっているのにご自分のほうで隠しだてなさるのもじつに苦しいお気持なので、これまでのことをいくらかはとりつくろいながらお話し申される。
▼中の君は、自分だけが生きているのも、苦しい思いをしてこなかったからだろうかと思うのだが、確かに浮舟に比べれば苦しい思いも軽かったかもしれないが、それでも、彼女なりの苦悩を生きてきたのだ。それでもそう思う中の君は、やさしくおっとりとした心の持ち主なのだろう。
▼匂宮は、みんな知っている中の君に対して、黙って隠しているのも気詰まりだから、浮舟との経緯を話すのだが、「すこしはとりなほしつつ」語るというところがリアルで面白い。ウソをつき通すには、強い精神力がいるから、白状してしまった方が楽だ。けれども、それは決して「洗いざらい」の白状にはならない。どこか肝心のところにウソが混ざるものだ。そこがリアル。
▼中の君は、匂宮の話を聞いても、別に怒ることもない。むしろ、なんとなく許してくれているような、気心が通じるような、ほっとする雰囲気がある。これが、正妻の所だったら、何ごとも大げさになって、病気にでもなろうものなら、次々にお見舞いなどが来て煩わしいことだろう。それにくらべて、こっちは、なんと気が休まることだろうと、匂宮は思う。ここにも中の君のおっとりとした心根が伺える。
▼それにしても、いったい浮舟はなんで死んだのかが、匂宮はまだ分からない。それで、右近を呼び寄せて聞こうと思い、時方を宇治につかわす。
▼時方は、お殿様も、なんだってこんな低い身分の女にここまで執着するのだろうと思ってきたが、いざ、宇治に着いてみると、匂宮に抱かれて船に乗せられた浮舟の可憐な姿などが思い浮かび、気弱になって涙が溢れる思い。時方なんて、無骨者なのだが、それでも、こういう「あはれ」は知っているのだ。
▼まして右近は気弱なのも道理で、時方を見るなり泣き崩れる。都に出てこいとの匂宮の伝言を聞いても、姫君の喪があけてからにしてくださいと頑として動こうとしない。
▼時方も、オレも子どもの使いじゃないんだから、手ぶらで帰ることはできない。それなら、せめて侍従を参上させてくれと頼む。侍従もまた私などが参りましても、何もお話しできません、それに喪中に都などへ出かけるなんてことはできませんと断るのだが、結局、匂宮の姿がちらついて、会いたくなったものだから、都に行くことになる。
▼これまではっきりと認識してなかったが、右近は薫の味方、侍従は匂宮の味方だったのだ。たぶん、侍従は匂宮とすでに通じているものと思われる。それに対して、右近は、薫の味方だから、頑として匂宮のところになんて行かないということなのだろう。
▼侍従が参上したと聞いた匂宮は、胸迫るものがあるが、中の君に対してはどうも具合が悪いと感じて、会わせないようにする。これも匂宮のやましさの故だろう。
▼侍従は、匂宮に、こと細かに、浮舟の最期を語って聞かせる。そうしているうちに、だんだん侍従が「睦ましくあはれに思さるれば」(気心が通い、いじらしくもお感じになり)、お前は、ここで暮らすがよい(女房として仕えよ)なんていい気なことを言うのだが、侍従は、一周忌が明けてからにしてくださいと言って帰っていく。
▼匂宮は帰って行く侍従に、浮舟に与えるつもりで集めた贈り物の着物だの、櫛だのを与える。そんな立派な贈り物をもらった侍従は、こんなの貰ったって知れたら、仲間の女房たちに何と思われるだろうと困惑するけれど、辞退するわけにもいかないで、宇治に持ち帰って、右近と二人でそっと開けてみる。
▼「右近と二人、忍びて見つつ、つれづれなるままに、こまかにいまめかしうあつめたることどもを見ても、いみじう泣く。装束もいとうるはしうしあつめたる物どもなれば、『かかる御服に、これをばいかで隠さむ』など、もてわづらひける。」
▼【口語訳】宇治に帰り着いてから右近と二人してそっと開いてみては、寂しく所在ない折とて、丹念に目新しくして作り集めたものの一つ一つを見るにつけても、ひどく泣かずにはいられない。装束もじつに立派にどれもみな仕立てたものばかりなので、このような御喪中にこれをどうやって隠しておこうかなどと、その始末に困るのであった。
▼妙に実感があるなあ。物を隠すというのも、なかなかやっかいなことだ。今なら、収納はいくらでもあるけれど、当時の住宅を考えてみると、あんまり収納家具はなかったようだ。だから、こんな豪華な装束など、どこへ隠したらいいのかと悩むのももっともである。
▼女三の宮が、柏木からの手紙をちゃんと隠すことができなかったのも、彼女のだらしなさのせいもあるけれど、適当な隠し場所がないこともやはり原因の一つだろう。そんな角度から読んでみるのも面白そうだ。

 

★『源氏物語』を読む〈357〉2018.3.26
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その9)

▼薫も、浮舟はいったいどうしたのだろうと気がかりで、ことの真相を知るために、ようやく宇治に出かける。
▼宇治へ向かう道で、オレはいったいどこまでここに深入りしたことだろう。もとはといえば、仏道を求めて八の宮を訪ねていたのに、仏道から外れた色恋沙汰に巻き込まれ、そのあげく、仏の罰だろうか、辛い目にばかりあったものだと、しみじみとした感慨に浸る。
▼宇治に着くと、さっそく右近を召して、事情を問いただす。
▼右近は、なまじ隠し立てしたところで、いずれは知れることだろうし、このマジメな方の質問をいい加減にはぐらかしてもいけないと思うから、ありのままに話す。といっても、肝心の匂宮とのことには触れない。
▼薫は、依然として、匂宮がどこかに隠したんじゃないかという疑念を拭えないから、誰か浮舟と一緒にいなくなったものはいないか? と聞く。どこかに隠れているなら、お付きの女房がいるはずだからだ。それとも、浮舟はオレが薄情だからといって離れていったとでもいうのか、そんなはずはない。それなのに、なんで入水などという突拍子もないことをするんだ、そんなのオレには信じられない、と問い詰める。
▼右近は、ああ、やっぱりダメだ、こうなったらもう洗いざらい言うしかないと思う。
▼そもそも姫様は、小さいころから不幸な育ちでございまして、このような人里離れた宇治の里に住んでからも、いつも物思いに沈んでいらっしゃいました。そこへ、あなた様が通ってこられるようになってからは、口には出さないけれど、あなたがたまにいらっしゃるのをいつも待っておいででした。そして、都につれていってくださるというお話しがあってからは、私たちも嬉しく思い、みんなでその準備をしていたのでございます。
▼そのうち、ここに仕えている無骨者たちが、どんな過ちをしたのかしりませんが、急に警護が厳重になったりしまして、あなた様からのたよりも少なくなり、結局は不幸な身の上なのだとずいぶんとお嘆きになっていました。それ以外には、思い当たるふしはありません、と右近は語る。
▼薫は、そんな話じゃ承知しない。今さらこんなこと口にしたくはないが、匂宮と何かあったんだろう、いったいいつからそういう関係になったのだ。アイツに会えないことを嘆いて身を投げたのではないか? どうか、オレには隠し事をしないでくれと、更に問い詰める。
▼右近は、あ〜あ、全部バレてるんだ、と観念して、告白する。
▼「『おのづから聞こしめしけん、この宮の上の御方に、忍びて渡らせたまへりしを、あさましく思ひかけぬほどに、入りおはしましたりしかど、いみじきことを聞こえさせはべりて、出でさせたまひにき。それに怖(お)ぢたまひて、かのあやしくはべりし所には渡らせたまへりしなり。その後、音にも聞こえじと思してやみにしを、いかで聞かせたまひけん、ただ、この二月(きさらぎ)ばかりより、訪れきこえさせたひし。御文はいとたびたびはべめりしかど、御覧じ入るることもはべらざりき。いとかたじけなく、なかなかうたてあるやうになどぞ、右近など聞こえさせしかば、一たび二たびや聞こえさせたまひけむ、それよりほかのことは見たまへず。』と聞こえさす。」
▼【口語訳】しぜんお聞きおよびでもございましょうが、姫君があの宮の上のおそばに忍んで御身をお寄せになったことがございましたが、情けなくも思いがけないときに宮が入っていらっしゃいましたのですけれど、私どもがきついことを申しあげましたので立ち去られました。姫君はそのことを怖がられまして、あの見苦しくもございました家へお移りになったのでございます。そののちは、絶対に宮のお耳に入らぬようにとお思いになって、そのまま何事もなかったのでございますが、どうやってお聞きつけあそばしたものか、ついこの二月ごろから、宮からお便り申されるようになりました。お手紙はじつにたびたびございましたようですけれど、姫君はそうよくはごらんになることもございませんでした。あまりに畏れ多いことですので、それはかえって失礼なことになりましょうなどと、この右近などが申しあげましたので、一度か二度はご返事申しあげていらっしゃったでしょうか。そのほかのことは存じあげておりません」と申しあげる。
▼これじゃ、まだ真相は分からない。薫は「かうぞ言はむかし」(どうせこんなふうに答えるに決まっている)と思う。どうせ女房というのは、真実など語らないのだ。ここまで聞けば、匂宮と浮舟に関係があったことぐらい想像はつく。けれども、それをはっきり言ってしまったら、こんどは右近の立場がない。どうしてそれを阻止できなかったのかと責任を追及されるからだ。
▼薫は、さすがに、右近が気の毒になって、それ以上追求することはしない。
▼浮舟は、たとえどんなに匂宮を慕っていたにせよ、オレのことを何とも思っていなかったわけじゃないからこそ、進退窮まって身を投げるなどということになったのだろう。そもそも、オレが、放っておいたのがいけなかったんだ、とつくづく反省する。
▼その薫に耳に、ゴウゴウたる宇治川の水音が聞こえる。薫は、もう二度とこの宇治に来たくないと思うのだった。
▼浮舟の葬儀も略式にしてしまった母親のことなども不満に思っていたが、いろいろ事情を聞いたあとでは、その母もあはれだ、それもみなオレの不徳の致すところだと思いつつ、薫は都へ帰っていく。

 

★『源氏物語』を読む〈358〉2018.3.28
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その10)

▼薫は、浮舟の母に、手紙を書いて慰める。
▼今まで私に誠意がないと思っていらっしゃったかもしれませんが、どうか長生きしてください。あなたは浮舟の形見でもあるからです。今後は、あなたのお子様たちの面倒もしっかりみます、と約束する。
▼その誠意あふれる手紙を見て、母も涙にくれる。今まで、夫(常陸の介)には、詳しく話してこなかったけれど、浮舟が死んでしまった以上、隠しておく必要もない。
▼薫から来た手紙を見せると、常陸の介は、田舎者なので、もうびっくりしてしまって、こんなスゴイ人と知り合いだったのかとただただ感激する様をみると、浮舟が生きていればと涙もあふれる。
▼受領階級の夫からすれば、薫などはもう手の届かない神様みたいな存在なのに、この妻の娘が薫に愛されていたなんて、そして、その娘が死んだ今でも、自分の子どもまでも面倒を見てもらえるなんて、まさに夢のような話だったのだろう。その気持ち、よく分かる。
▼薫は、浮舟の四十九日の法要をとりおこなう。けれども、ほんとうに死んでしまったのかどうかはっきりしないので、はたしてやってもいいのだろうかと思う。しかし、まあ、生きていたって、法要そのものは罪障消滅になるものだからというので、なるべく内輪で行うことにする。
▼内輪でと、薫は思っても、実際にやるとなると、どうしても大げさになってしまうというのも世の常。匂宮からも、お供え物などが来るけれども、右近からということになっているので、世間は、どうして右近からそんな立派なものが? って不思議に思われる。
▼しかし、死んでしまったのかどうか分からないのに、法事をしてしまうというのも、面白い。火葬も、葬式も、遺骸がなかったんだから、法事だってそれに準じるということかもしれないが、案外アバウトだね。
▼浮舟は、薫と匂宮の恋のさや当ての真っ最中に忽然と姿を消してしまったので、ふたりの悲しみは、いつまでも癒えることはないのだが、二人の態度は正反対だ。
▼「二人の人の御心の中(うち)、古(ふ)りず悲しく、あやにくなりし御思ひの盛りにかき絶えては、いとどいみじけれど、あだなる御心は、慰むやなど試みたまふことも、やうやうありけり。かの殿は、かくとりもちて何やかやと思して、残りの人をはぐくませたまひても、なほ、言ふかひなきことを忘れがたく思す。」
▼【口語訳】宮と大将と、お二人のお胸のうちは、いつまでも悲しみが去らず、宮(匂宮)は、どうにも抑えがたい恋の高まりの最中に絶たれた仲とあっては、じつに堪えがたくせつないお気持であるけれど、もともと移り気なご性分なので、この悲しみが紛れるやもしれぬと、ほかの女に懸想してごらんになることもだんだん多くなるのであった。一方、あの大将殿(薫)のほうは、このようにお世話をして何やかやとお心をくばられ、あとに残された人の面倒を見ていらっしゃるが、それにつけてもやはり嘆いてもかいのない女君のことをお忘れになれない。
▼匂宮は、他の女との恋で、悲しみを紛らそうとしてみるが、薫は、ただひたすら残された母や、その子どもの面倒を懸命にみながらも、いつまでも浮舟のことを思っている。薫のほうが、マジメには違いないが、だからといって匂宮がフマジメというわけでもないだろう。どちらも悲しく苦しいのである。その悲しみや苦しみへの対処の仕方は、人それぞれである、ということだ。そういうふうに書かれているのだと思う。
▼紫式部は、どちらがいいとか、どちらが正しいとか、決して断定しない。どちらも「あはれ」だというのが、彼女のスタンスなのだ、と思う。

 

★『源氏物語』を読む〈359〉2018.3.29
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その11)

▼薫は、なかなか悲しみから抜け出せないが、それでも、気持ちを引き立てて、忍んでつきあっている女がいる。小宰相といって、女一の宮の女房である。女一の宮というのは、匂宮の姉で、匂宮は、紛らしようもない気持ちをこの姉と語らうことで慰めていたのだが、この姉のところには、美人の女房がたくさんいて、匂宮としては、そのひとりひとりをじっくり見ることができないのを残念に思っていた。
▼中でも、この小宰相に心惹かれて、例によって言い寄ったのだが、彼女は私は薫様と付き合っているのだと言って、珍しく匂宮を拒否する。匂宮を拒否する女というのは、まずいなかったので、この小宰相は、よほどマジメな女性だということで、そういう点でも、薫と気持ちが通ったようだ。
▼薫は匂宮と違って、他の女と付き合うことで、悲しみを紛らそうとはしなかったのかと思っていたら、必ずしもそうじゃない。匂宮にしても、薫にしても、生きて行くことは、女と付き合うことなしにはありえないということだろう。
▼「源氏物語」を読んでいると、なんだ、この男たちは女のことしか考えてないじゃないかと、ある意味びっくりするのだが、もちろん、彼らが女のことだけを考えていたわけじゃない。今の人間と同じように、出世を思い、金のことを心配し、子どもの将来に思い悩んでいたのだ。けれども、彼らにとっての優先順位は、あくまで女だった。
▼こう書くと、まるで女狂いの男たちの話かと思われてしまうかもしれないが、そうではない。人生において、何が一番大事かということを考えたとき、それは「愛」だと答えて何がおかしいだろう。今だって、そう答える人は多いはずだ。その「愛の場」が、彼らにとっては「女性関係」だったということにすぎない。
▼今なら、何も恋愛だけが人生じゃないといえる。依然として恋愛は、大きな地位を占めるにせよ、もっと広い「愛」の場がある。けれども、「源氏物語」は、恋愛をそのもっとも重要な「愛の場」として、描いているのだ。それが彼らの日々の生活にとって、もっとも自然だったのだろう。
▼その「愛の場」が、すなわち「現世」ということで、「出家」することは、その場から降りることを意味していると考えることができる。
▼薫は、仏の道に入り、この「愛の場」から降りるつもりでいたのに、そこからなかなか降りることができずに、いわば泥沼に引きずりこまれたのだ。事態がここまで来たのだから、今こそ出家すればいいのに、それでも、この現世に生きようとする。その時、彼は「気持ちを引き立てて」(からうじて)女を求める。それが彼が「現世に生きる」ということだからだ。
▼小宰相は、薫の悲しみをよく理解している。当時としては珍しく、その薫に手紙を送る。当時は、女から手紙を出すことはめったにない。その手紙はこんなふうだ。
▼『〈あはれ知る心は人におくれねど数ならぬ身にきえつつぞふる〉かへたらば』と、ゆゑある紙に書きたり。ものあはれなる夕暮、しめやかなるほどを、いとよく推しはかりて言ひたるも、にくからず。」
▼【口語訳】〈ご悲嘆に同情申しあげる気持は、どなたにも劣りませんけれども、人数にも入りませぬこの私自身は消え入るばかりの思いで過しております。〉もし私がそのお方の身代りになったのでしたら、これほどには(悲しまれたでしょうか、そんなはずはないですわね。)」と、風情のある紙に書いてある。もの悲しい夕暮、しみじみと静かな時分を、じつにうまく見計らって言ってきたのもよく心得たものだと思う。
▼この歌は意味深長で、とくに歌の後の「かへたらば」に、小宰相の薫への思いが滲み出ているとされる。こんな手紙をくれる女性がいるなんて、薫も、ずいぶんと恵まれているなあ。薫の返事。
▼「『〈つねなしとここら世を見るうき身だに人の知るまで嘆きやはする〉このよろこび、あはれなりしをりからも、いとどなむ』」
▼【口語訳】〈世間は無常なものとたくさんの例を見てきた厭わしいこの身ですが、そうしたわたしでさえ他人にそう見られるほど嘆き悲しんではいないつもりですが。〉お便りへのお礼の気持は、しみじみと悲しい折とてひとしおです。」
▼決して他人に悟られるほど悲しんではいないつもりなのに、どうして君は分かったの? うれしい、ってこと。薫も、なかなかやるねえ。そんな返事を書いたあと、薫は、小宰相の住む局に逢いに行く。

 

★『源氏物語』を読む〈360〉2018.3.30
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その12)

▼ハスの花も満開の夏、宮中では「法華八講」という行事が行われる。「法華八講」というのは、「法華経八巻を、一日に朝座と夕座の二座に分かち、一日に二巻、四日間にわたって、問答形式で論議讃仰する法会」(「集成」注)である。やることは、専門的だが、盛大な華やかな法会である。この時は、源氏や、紫の上の供養のために、とくに盛大に行われた。
▼その五日目、朝座が終わり、さすがに女房たちも疲れて、普段よりも室内の仕切りなどが雑になっているときに、薫も、ちょっとした用事がてら、小宰相のいる方へ出かけた。その時、雑になっている几帳やら御簾やらの隙間から、小宰相や、女一の宮の姿が見えてしまう。「垣間見」の場面である。その部分はこんなふうに描かれる。
▼「ここにやあらむ、人の衣(きぬ)の音すと思して、馬道(めどう)の方の障子の細く開きたるより、やおら見たまへば、例、さやうの人のゐたるけはひには似ず、はればれしくしつらひたれば、なかなか、几帳どもの立てちがひたるあはひより見通されて、あらはなり。氷(ひ)を物の蓋(ふた)に置きて割るとて、もて騒ぐ人々、大人三人ばかり、童とゐたり。唐衣(からぎぬ)も汗衫(かざみ)も着ず、みなうちとけたれば、御前とは見たまはぬに、白き薄物の御衣(おんぞ)着たまへる人の、手に氷を持ちながら、かくあらそふをすこし笑みたまへる御顔、言はむ方なくうつくしげなり。いと暑さのたへがたき日なれば、こちたき御髪(みぐし)の、苦しう思さるるにやあらむ、すこしこなたになびかして引かれたるほど、たとへんものなし。
▼【口語訳】小宰相はここにいるのだろうか、衣ずれの音がするが、とお思いになって、馬道のほうの襖が細く開いている所から、そっとおのぞきになると、いつもこうした女房たちがいるときの様子とはちがって、明るくさっぱりとかたづけてあるので、かえって、几帳をいくつも立てちがえてある間からずっと見通しがきいて内部がまる見えである。氷を何かの蓋に置いて割ろうとして騒いでいる人々──女房三人ほどと女童とがいる。唐衣も汗衫も着用せず、いずれもくつろいだ格好なので、よもやそこが姫宮の御前であろうとはお思いでなかったところが、白い薄物のお召物を着ていらっしゃる人が、手に氷を持ったまま、皆がこうして言い合っているのをごらんになってはいくらか笑みをたたえておられる、そのお顔が言いようもなく美しく見える。今日はまったく暑くてたまらない日なので、ふさふさとたくさんの御髪をうるさくお感じになるのだろうか、少しこちらのほうになびかせて長く垂してある様子は、何にもたとえようがない。
▼これが女一の宮である。明石中宮の娘で、匂宮の妹。
▼氷を手に持って、女房たちをニコニコして見ている姫君。ふさふさした髪も、暑苦しいので、体から離れたところへ長く垂らしている。もちろん、誰も見ていないと思うので、こんなくつろいだ姿でいるのだ。その姫君のまわりには、何人もの女房がいて、その中のひとりが小宰相なのだ。
▼「ここらよく人を集むれど、似るべくもあらざりけりとおぼゆ。御前なる人は、まことに土などの心地するを、思ひしづめて見れば、黄なる生絹(すずし)の単衣(ひとへ)、薄色なる裳(も)着たる人の、扇うち使ひたるなど、用意あらむやは、とふと見えて、「なかなかものあつかひに、いと苦しげなり。たださながら見たまへかし」とて愛敬(あいぎゃう)づきたり。声聞くにぞ、この心ざしの人とは知りぬる。」
▼【口語訳】大将は、これまで多くの美しい女人を見ているけれど、とてもこのお方には比べられようもなかったな、と思わずにはいられない。御前に控えている女房たちは、まったくのところ土くれかなんぞのような感じであるのを、じっと気持を落ち着けて目をやると、黄色の生絹の単衣に薄紫色の裳を着けている女房が扇を使っている様子などは深い心づかいがありそうだと、ふとそう感じられるが、「氷は扱いが面倒で、かえってほんとに暑苦しく見えます。ただそのままでごらんあそばせよ」と言って笑っている目もとには情味あふれる魅力がある。その声を聞いて、これが自分の心寄せの小宰相だと分った。
▼女一の宮に仕えている女房たちを見ると、「まことに土などの心地する」とは、思わず笑ってしまう。いくらなんでも「土」っていうのは口が悪い。まあ、ぼくも、勤めていたころは口が悪くて有名で、ある教師のことを、「泥に目がついてみたいなヤツだ」なんて噂したことがある。ほんとにそんな感じだったのだ。でも、つきあっていくうちに類い稀な「いい人」だということが分かった。第一印象というのは、間違っているかもしれないけれど、本質をついていることもあるものだ。彼の「泥みたい」という印象は、茫洋とした人間的大きさを意味していたからだ。
▼しかし、この「土みたい」という薫の印象は、女一の宮のあまりの美しさに呆然として、まだその「呆然」から抜け出せない薫の感覚が捉えた「土みたい」だったことが分かる。それは、その後に、「思ひしづめて見れば」(気持ちを落ち着けて見ると)とあるからだ。落ち着いて見れば、「土」じゃないわけである。
▼圧倒的な美は、時として、その周りの物を美を破壊してしまうものだ。太陽が出れば、星は消える。満開のサクラの下に咲くスミレに気づく人は少ない。
▼その「土みたいな」女房たちの中で、おやっと思う人がいて、それこそが薫が思いを寄せている小宰相だということが分かった。それは顔を見て分かったのではなく、「声で分かった」とある。つまり、薫は、暗闇の中でしか小宰相と逢ったことがなかったので、この時まで、その顔を知らなかったのである。

 

★『源氏物語』を読む〈361〉2018.3.31
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その13)

▼女一の宮の姿を垣間見た翌朝、薫は、本妻女二の宮の寝起きの顔をつくづく眺め、ぜんぜん似てないなあと思う。姉妹なのだから、似ていてもよさそうなものだけど、まだ「土みたい」の感覚が残っているらしくて、「気のせいかなあ」なんて思っている。
▼暑いなあ、もっと薄い着物をお召しなさい。女というものは、いつもと違った着物を着るのが風情があるものですよ、などといって、わざわざ「薄物の単(ひとへ)の御衣」を縫って着せよと女房に命じる。つまり、昨日見た女一の宮と同じ着物を着せて、彼女をしのぼうという魂胆なのだ。
▼この薫という男は、不思議な男で、何かというと「形代」を求めるクセがある。大君を失ってから、そのクセがついたのだろうか。それにしても、昨日の女が忘れられないから、妻に同じ服を着せてその女のことを思おうなんて、不埒にもほどがあるね。
▼周りの女房は、まさか薫にそんな魂胆があるなんて思いもしないから、女二の宮の女盛りを、更に引き立てたいのだろうと思って、感激している。
▼薫は朝の勤行を終えて、昼頃に部屋に帰ってくると、その薄物の着物が几帳にかけてある。何で着ないで、こんなところにかけておくのかと薫は腹を立てて、自分からその着物を着せる。着物はそっくり同じでも、やはり似ていない。氷などを女房に割らせてみたりして、とにかく、昨日と同じ状況を作ってみたりしながら、我ながらおかしく思う。
▼まあ、絵などを描いて、恋しい人を偲ぶということもあるわけだから、オレのしていることも、そんな変じゃないなどと思いながら、それにしても、昨日、こんなふうに心ゆくまでお目にかかれたらどんなによかったことだろうと思って嘆くのだった。
▼ところで、姉さんに手紙は出しているの? って妻に聞くと、宮中にいたころは出していましたが、最近はとんと、と女一の宮が言うと、オレと結婚して「臣下」になってしまったから、姉さんは軽んじているんだね、こんど、あなたのお母さん(明石中宮)に文句言っておくよ、と薫。
▼やめてください、そんなこと、と女は言うけれど、いやいや、バカにしているようですから、こちらも遠慮してお手紙も出さないんですと言っておくよ、と男は言う。
▼翌朝、薫は明石中宮のところへ行って、この前の御八講のことなど話したついでに、姫宮様(女一の宮)から手紙もこないといって妻が寂しがっていますから、どうぞ、手紙などくださるように言ってくださいと頼む。母は、そんなこと言ってないで、そちらから出せばいいじゃないの、と言うと、そんなことできませんよ、何しろ、うちはもう「臣下」なんですから、遠慮があります。アナタと私が兄弟(ほんとは違うけど)だというご縁もあるのですから、今になって見捨てられるのは辛いですよ、と薫は言う。
▼そんな薫の言い草を聞いて、明石中宮は、あれ、この人、娘に気があるのかしら、ってふと思う。
▼女の直感は鋭いね。いや、バレバレなのか。バカなのは男ってことか。
▼薫はそのまま、女一の宮のいるほうへ出かけて行く。
▼明石中宮は、女一の宮の女房の大納言の君を召して、どう? 薫はそちらに行ったけど、どうだった? って聞くと、大納言の君は、小宰相に会うつもりだったみたいです、と答えると、中宮は、まったくあの「まめ人」(マジメ人間)と付き合うには、気のきく人じゃないとダメね。心の底を見透かされちゃうわ。その点、小宰相だったら安心ね、と中宮は、弟の行動にはらはらしている。
▼「『人よりは心寄せたまひて、局などに立ち寄りたまふべし。物語こまやかにしたまひて、夜更けて出でなどしたまふをりもはべれど、例の目馴れたる筋にははべらぬにや。宮をこそ、いと情なくおはしますと思ひて、御答(いら)へをだに聞こえずはべるめれ。かたじけなきこと』と言ひて笑へば、宮も笑わせたまひて、『いと見苦しき御さまを、思ひ知るこそをかしけれ。いかでかかる御癖やめたてまつらん。恥づかしや、この人々も。』とのたまふ。」
▼【口語訳】(大納言の君が)「大将殿(薫)は小宰相の君をほかのどなたよりもお気に入りでいらっしゃって、局などにお立ち寄りあそばすようでございます。懇ろにお話をなさり、夜更けになってからお帰りになるような折々もございますけれど、世間にありふれた色恋の筋ではございませんのでしょう。小宰相の君は、宮(匂宮)に対してはじっさい薄情なお方でいらっしゃると思って、そちらへはご返事をさえおあげしないようでございます。畏れ多いことですが」と言って笑うので、大宮(明石中宮)もお笑いになって、「宮(匂宮)のまったく見苦しいおふるまいをよく見抜いているのは感心ですね。なんとかして、ああした悪いお癖はなくしてあげたいものです。恥ずかしいことです、そなたたちの手前も」と仰せになる。
▼こういう会話を読んでいると、まったく男たちは「子ども」で、女たちはそれを、「まったくしょうがないなあ」と思って見守っている(いや、見守るしかない、といったほうが正確だろう)のがよく伝わってくる。特にここでは、匂宮は中宮のれっきとした息子なので、大納言の君の言葉は失礼にもあたるはずなのだが、中宮はまったく気分を害するどころか、まったくあの子にも困っちゃうわといった応対だ。女の立場というものは、身分をこえて、あるいは時代をこえて、同じなのかもしれない。

 

★『源氏物語』を読む〈362〉2018.4.1
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その14)

▼大納言の君は、明石中宮に、浮舟の噂を話す。薫、匂宮との関係、そして、それがきっかけで川に身を投げたらしいということ。
▼中宮は、そんな入水なんてことは信じられません、誰が言っているのですか? と色をなす。それに、薫だって、世は無常だとばかりいって、宇治の方たちが皆短命だということが悲しいとしか言っていなかったのに、とおっしゃる。
▼たしかに、下々の者はいいかげんな噂をするものですけれど、宇治に仕えていた童が小宰相のところに来て言ったとかいうことでは、どうも確かなことのようです。それを、絶対に他言しないようにと言われているとのことです、との大納言の君の言葉に、中宮は、それならもう絶対にそんなことを口にしないようにと言っておいてね、こんなことでわが身を台無しにする人がたくさんいるんですからと、いって、ひどくご心痛である。
▼そのうち、一の宮から、二の宮に手紙が来る。薫は、その手紙の美しい筆跡を見て、こんなことなら、もっと前から文通させるんだったなあと勝手なことを考える。自分のところに来た手紙ではないのに、それを見て喜んでいるんだから始末が悪い。
▼手紙と一緒に、趣深い絵も送られてくる。もちろん、女二の宮のためである。その絵は、「芹川の大将」という男が出て来る物語で、そこには「女一の宮」という姫君が登場するので、薫は自分によそおえて、おもしろく思う。
▼この「芹川の大将」が出てくる物語というのは、今は現存しない物語だ。当時は、こういう物語が数多くあったのだろう。それも、長い間に紛失してしまい、ほとんどが現存しない。無数にあったであろうそうした失われた物語には、ひどく心をひかれる。日本のような高温多湿で、自然災害や戦乱の多かった国で、1000年を越えて物語が残っているということ自体、奇跡のようなことなのかもしれない。
▼その「芹川の大将」が出てくる物語では、女一の宮が大将に靡いているので、薫は、ああ、おれにもそんなに思いを寄せてくれる女がいればいいのにと思うと、わが身が残念でならない。
▼女一の宮への思いなど、ちょっとでも外に漏らしてはならないと思いつつ、あれこれと思い悩み続けるその果てに、行く着くところは、大君である。
▼「かくよろづに何やかやと、ものを思ひのはては、昔の人ものしたまはましかば、いかにもいかにも外(ほか)ざまに心を分けましや、時の帝の御むすめを賜(たま)ふとも、得たてまつらざらまし、また、さ思ふ人ありと聞こしめしながらは、かかることもなからましを、なほ心憂く、わが心乱りたまひける橋姫かな、と思ひあまりては、また宮の上にとりかかりて、恋しうもつらくも、わりなきことぞ、をこがましきまで悔しき。」
▼【口語訳】こうしてさまざまに何やかやと物思いに悩んだあげくの果ては、「もし宇治の姫宮が生きておられたなら、どんなことがあろうともどうしてほかの女に心を分けるようなことがあっただろうか。今上の帝が女宮をくださろうとしても、頂戴はしなかっただろう。また自分にそうした思い人がいるということを帝がお聞きあそばしたなら、こうしたご降嫁のこともなかったであろうに。なんといっても情けなくもわが心をお悩ませになった橋姫ではあるよ」と思案にあまっては、また宮の上(中の君)のことが心にかかって、恋しくもありせつなくもあり、どうにもならないのが、我ながら愚かしいまでに悔まれてならない。
▼薫はどこまでいっても、結局は「大君」という原点にかえってくる。その大君の「形代」としての中の君に対する執着もまだあるのだから、なかなか薫も大変だ。そして、浮舟に対しては、こんな非情ともいえる感想を持つ。
▼「これに思ひわびてさしつぎには、あさましくて亡(う)せにし人の、いと心幼く、とどこほるところなかりける軽々(かろがろ)しさをば思ひながら、さすがにいみじと、ものを思ひ入りけんほど、わが気色例ならずと、心の鬼に嘆き沈みてゐたりけんありさまを聞きたまひしも、思ひ出でられつつ、重りかならぬ方ならで、ただ心やすくらうたき語らひ人にてあらせむと思ひしは、いとらうたかりし人を、思ひもていけば、宮をも思ひきこえじ、女をもうしと思はじ、ただわがありさまの世づかぬ怠りぞなど、ながめ入りたまふ時々多かり。」
▼【口語訳】こうしたことに思い悩んで、さてその次には、嘆かわしい有様で死んでいった宇治の女君(浮舟)の、まったく無分別な、自らの進退を熟慮する点の欠けていた軽々しさを恨みながらも、それでもさすがになりゆきを深刻に思いつめていたということや、こちらの出方がいつものようではなくなったと、そのことを心の鬼に責められて嘆き沈んでいたという様子を右近からお聞きになったことも思い出されてきては、あの女は、重々しい妻としての扱いではなく、ただ気がねのいらぬかわいい話し相手にしておこうと思ったのであって、そうした向きではまったくいとしい女だったものを、こう考えてくると、宮をもお恨み申すまい、あの女をもつらいと思うまい、ただこの身のありようが俗世になじまぬ、その不運ゆえなのだ、などと虚けた物思いに沈みがちでいらっしゃる。
▼中宮もそうだったが、薫にとっても、浮舟の入水という行為は、どうしても許容できない「常識はずれ」の行為だったことがわかる。浮舟の自死は、「とどこほるところなかりける軽々しさ」としか捉えようがないのだ。逆に言えば、どんなに苦しい状況におかれても、そこに「とどこほる=自制して、心のままにふるまうことをさける。」ことが生きるたしなみだという「常識」があるということかもしれない。▼しかし、浮舟をそんな厳しい状況に追い込んだのは、薫だ。その自覚はあるらしいのだが、そこに責任を感じるということはないようだ。薫の思考を辿ると、オレの冷たい態度が彼女を追い詰めたということかもしれないけど、オレとしては、そんな重い相手じゃなかったんだ。ただ、しみじみ話ができればそれでよかったんだ、という変なところに話が行ってしまい、そのうち、まあ、アイツを恨むまい、という結論(?)になってしまう。
▼近代的な思考なら、こういう場合、「ああ、オレがアイツを殺したようなものだ」と考えるのが普通だろう。たとえ、相手の勘違いだったにせよ、「勘違いさせた自分」を責めるのが普通だろう。けれども、薫は、自分を責めるどころか、「相手を責めるのはやめよう」と思っている。何でかというと、こんなに自分を辛い目に合わせているのが「浮舟」や「匂宮」だと基本的には思っているからだ。浮舟は自殺して、オレから離れたし、匂宮はオレを裏切った。でも、こうなったのも、自分のせいだ。自分が「世づかぬ」(俗世になじまない)せいだ。つまり、オレが、世渡りがヘタな人間だったから、こんな辛い目にあうのだ、何も浮舟とか匂宮のせいじゃない、ということなのだ。誰のせいでもなくて、自分のせいだ、といっても、その自分が「世づかぬ」人間だからだという、一種の自己肯定(自嘲的ではあるが)のうえに成り立っているのだ。
▼これじゃ、責任のとりようがない。この時代の物語に「責任」という観念をもちこんでも土台しかたのないことかもしれないが、あえて、持ち込んでみれば、責任とは、二人の人間がそれぞれ独立した価値を持つ人間として対峙しているときでなければ生まれない。二人の人間が、同じ価値をもつ同等な人間で、二人ともに、傷つき悩む人間であるということが、ハッキリと認識されていなければならない。その時はじめて、AがBに「責任を持つ」という態度が生まれる。つまり、恋愛においても、AがBを裏切ったとして、そのとき、Bが「傷ついた」ということ、そのことの原因がAであるということ、そして、Aはその意味で「罪」があると自分で認めること、などが「責任」という観念を形成する。
▼などとラチもないことを考えるのだが、薫と浮舟は、そういう人間関係にはないことは確かだ。薫にとって浮舟は、けっして対等な人間ではなく、あくまで「身分の低い女」、そして「単なる話相手」あるいは「大君の形代」であり、匂宮と自分との板挟みになっても、それくらいのことは「常識」としてわきまえて、「とどこおる」だけの器量が要求される女、でしかなかったということだ。「責任」など、最初から考える必要のない女だったのだ。
▼こうした人間関係のありようを考えてくると、必ずしもこれは、平安時代特有のものではないんじゃないかという気がしてくる。気がしてくるどころか、今だって、そこらじゅうに転がっている話じゃなかろうか。
▼ぼくの「分析」は、まだ手探りだが、「源氏物語」における人間関係のありようは、現代の日本人の中にしたたかに生き残っているようである。

 

★『源氏物語』を読む〈363〉2018.4.2
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その15)

▼匂宮は、多情なだけに、浮舟亡きあとの悲しみを慰めかねているが、かといって、中の君に愚痴を言うわけにもいかない。ほんとうは、中の君に、悲しみを訴えて、慰めてもらいたいのだが、さすがに、中の君に、「恋しや、いみじや。」(恋しい、辛い)なんて言うのも気がとがめる。あたりまえだよね、そんなことできるはずがない。そんな悲しみなんて、自分で何とかすればいいと思うのだが、どこまでも甘ったれな匂宮だ。
▼それで、浮舟の女房の侍従に、オレのところに来て仕えないかと声をかける。この侍従というのは、すでに匂宮といい仲で、以前にも、オレのところに来ないかと誘って断っている。
▼宇治の方では、浮舟がいなくなったあとは、女房たちも散り散りになってしまったが、右近と侍従だけは、まだ残っていた。右近は、浮舟の乳母子だから未練が残るのは当然としても、侍従はそうした身内ではなく、ただの女房だったのだが、右近の話相手として残っていたのだった。
▼それでも、侍従は、この先宇治にいても、何の楽しみもないし、宇治の川音がだんだん疎ましくなってきて、都に出て、粗末な家に住んでいたのだ。その侍従を匂宮は探しあてて、声をかけたというわけだ。
▼しかし、侍従は、匂宮の魂胆がわかっているし、そんな噂が立つのも嫌だから、その申し出を断り、中宮の女房として仕えたいとの意向を伝える。すると、匂宮は、それはいいことだ。そしたら、オレが内々に目をかけてやろうと言う。中宮のところでも、身分は低いが、まずまずの女房だとして受け入れられて、人から非難されることもない。
▼こうして中宮の女房となった侍従は、こんな身分の高い人の姫君ばっかりが集まっていると聞いたけど、浮舟様みたいなきれいな人はいないなあといつも思って過ごしている。
▼蜻蛉の巻も、終わりに近づき、話に大きな展開はないが、ここで突然出てくるのが、この春亡くなった式部卿の宮の娘である。この式部卿という人は、「蜻蛉の宮」とも呼ばれるが、浮舟の父、故八の宮の兄である。だから、この式部卿の娘というのは、浮舟の従姉妹にあたるわけである。その式部卿の娘が、中宮のもとに出仕してくる。
▼実は、この娘(宮の君)は、以前、薫の嫁にという話があったのである。そのころはまだ父式部卿宮が在世中だったので、高貴な筋の女として薫にふさわしいと思われていたのだが、薫は気が進まず、その話は消えてしまった。そんな高貴な女性が、今は、中宮の女房として仕えるなどという目にあっているのを見て、薫は人の世のはかなさを感じるのだった。宮の君は、それでも、中宮の女房になれたからよかったものの、危うく、継母に疎まれてたいしたことない男の妻にされそうだったのだ。その話を聞いた中宮が可愛そうに思って自分の女房にしたのだった。
▼そんなわけだから、薫は、その宮の君を見るにつけ、痛々しいと思い、世の無常も感じるわけだが、匂宮は違う。しばらくはおさまっていた例の悪い癖が出て、この宮の君を何とかものできないかとうろつきまわるのだった。

 

★『源氏物語』を読む〈364〉2018.4.3
今日は、第52巻「蜻蛉(かげろふ)」(その16・読了)

▼薫は、女一の宮に思いを寄せたものの、そこに仕える女房たちの軽率さに触れると、なんだかがっかりするばかりである。同情を寄せた「宮の君」も、またそれほどの魅力をもっていない。それにつけても、宇治の姫君たちのことが思い出されるのだった。
▼「これこそは、限りなき人のかしづき生(お)ほしたてたまへる姫君、また、かばかりぞ多くはあるべき、あやしかりけることは、さる聖(ひじり)の御あたりに、山のふところより出で来たる人々の、かたほなるはなかりけるこそ、この、はかなしや、軽々(かろがろ)しやなど思ひなす人も、かやうのうち見る気色(けしき)は、いみじうこそをかしかりしか、と何ごとにつけても、ただかの一つゆかりをぞ思ひ出でたまひける。あやしうつらかりける契りどもを、つくづくと思ひつづけながめたまふ夕暮、蜻蛉(かげろふ)のものはかなげに飛びちがふを、『〈ありと見て手にはとられず見てはまた行く(へ)もしらず消えしかげろふ〉ありかなきかの』と、例の、独りごちたまふとかや。」
▼【口語訳】この宮の君こそは、このうえもないご身分の父宮がたいせつにお育てあそばした姫君だが、しかしまた、この程度の女ならほかにもたくさんいるのだろう。不審でならないのは、あの聖のような八の宮のおそばで、山懐に生い立ってきた姫君たちが何一つ難のなかったことではあった。あのなんとも頼りない浅慮の人よなどと思うほかはない妹君(浮舟)も、この宮の君と同様にふと見た感じはたいそう風情のある女であった」と、大将は何事につけてもただあの八の宮の一族のことをお思い出しになるのだった。どうしてか情けない結末に終った契りの一つ一つを、つくづくと思い続けて虚けた思いに沈んでいらっしゃる夕暮、蜻蛉が何やらはかなげに飛びちがっているので、〈そこにあると見えながらも手には取られず、手にしたと思うとまた行方も分らず消えてしまった蜻蛉よ〉あるかなきかの」と、いつものように独り言をつぶやいていらっしゃるとか。
▼薫の前に次々と現れる女達も、薫を夢中にさせることはない。彼女らは、宇治の姫君たちの類い稀な美質を浮き彫りにするばかりだ。けれども、その浮舟も、薫には、「ふと見た感じはたいそう風情のある女」でしかない。そんな薫や、ただただ色好みの匂宮に翻弄されて、身を投げてしまった浮舟はあわれさはいいようもない。
▼こうした浮舟の失踪後の男達の姿を語り、物語は浮舟の「その後」を語ることになる。
▼やっとこさ、「蜻蛉」読了。青息吐息である。



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