「源氏物語」を読む

 

No.48 早蕨 〜  No.49 宿木


【48 早蕨】

 

★『源氏物語』を読む〈287〉2018.1.4
今日は、第48巻「早蕨(さわらび)」(その1)

▼長い「総角」の巻を丁度年末に読み終わったので、しばらく休憩したが、また再開。今日は、「仕事始め」なので。別に「仕事」じゃないけど。いわば最近のぼくの生活の一部になっている。
▼「総角」の巻は、大君の死で幕を閉じたわけだが、この「早蕨」の巻は、その死の悲しみから抜け出せない中の君を描くところから始まる。
▼中の君は25歳。
▼「藪しわかねば、春の光を見たまふにつけても、いかでかくながらへにける月日ならむと、夢のやうにのみおぼえたまふ。行きかふ時々に従ひ、花鳥(はなとり)の色をも音(ね)をも、同じ心に起き臥し見つつ、はかなきことをも本末(もとすゑ)をとりて言ひかはし、心細き世のうさもつらさもうち語らひあはせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづにかきくらし、心ひとつをくだきて、宮のおはしますさずなりにし悲しさよりもややうちまさりて恋しくわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らずまどはれたまへど、世にとまるべきほどは限りあるわざなりければ、死なれぬもあさまし。」
▼【口語訳】日の光は藪でもどこでも所を分たず照らすものだから、中の宮は、宇治の山里の春の日ざしをごらんになるにつけても、どうしてこうも生き長らえてきた月日であろうかと、まるで夢のようにばかり思わずにはいらっしゃれない。かつて四季折々の移ろいにつれて、花の色をも鳥の声をも姉君と同じ心で朝な夕なに見もし聞きもしては、これといったことのない歌を詠むのにも、本末の句を言い交して、父宮亡きあとの心細い世の中の情けなさも恨めしさも、仲睦まじく互いに語り合ってきたからこそ気の晴れることもあったものを、今は楽しいことにせよしみじみと哀れ深いことにせよ、何を言おうにも分ってもらえる人もいないのだから、万事暗く悲しみに沈んで一人胸を痛め、父宮がお亡くなりになった折の悲しさにもまして、さらに姉君が恋しくせつない思いなので、これから先どうしたものかと、夜が明け日が暮れるのも知らず途方にくれていらっしゃるけれど、この世の寿命は定めのあるものゆえ、死ぬこともならぬのが情けなく思われる。
▼これが「早蕨」の冒頭。
▼藪の深い宇治の邸にも、春の光が差し込むというところから語りはじめる。見事なものだ。その春の光に照らされる庭をみても、中の君の心は晴れないのだ。
▼どんなに美しい景色をみても、その感動を分かち合える人のいない寂しさ。特に、仲のよかった姉だから、その喪失感ははかりしれない。父を失ったときよりも悲しみは深い、とある。
▼そして、ここでも「限りあるわざ」(前世からの定めのあること)が出てくる。中の君は、ほんとうは死んでしまいたいのだが、「寿命」というものがある。その「寿命」を人間はどうすることもできないゆえに、何とか生きていかねばならないのだ。
▼普通なら「寿命」というものがあるから、死ぬのもやむを得ないと納得するわけだが、ここでは逆。「寿命」というものがあるのだから、どんなに辛くても生きていかねばならない、と考えるわけだ。
▼阿闍梨から手紙と贈り物が届く。その贈り物は、「蕨(わらび)」「つくづくし(つくし)」といった山菜である。いかにも宇治の山に住む阿闍梨らしい心遣いだ。
▼それに添えた手紙は「手はいとあしうて、歌はわざとがましくひき放ちてぞ書きたる。」(筆跡はいかにも無調法で、歌はことさらのように放ち書きに書いてある。)と手厳しい語り手。
▼ここに見える「放ち書き」というのは、仮名を続けて書かないで、一字一字を放して書く書き方。優雅さに欠けるということだろう。
▼その歌は「君にとてあまたの春をつみしかば常を忘れぬ初蕨なり」【口語訳】亡き宮(八の宮・中の君の父)にと毎年春ごとに摘んでさしあげたものですから、今年もその習わしを忘れずにお届けする初蕨でございます。
▼ヘタな歌だが、これを大仕事と考えて、一生懸命書いた歌だと思うと、あの匂宮の言葉だけきれいだけど情の薄い手紙や歌よりもずっと心に沁みて、中の君は、おもわず涙がこぼれる。
▼ほんとうに、どんなに上手い歌でも、どんなに上手い絵でも字でも、心がこもっていないものは、人の心に沁みないね。うんうんうなってひねり出した朴訥な歌が、かえって人を感動させる。そのことを紫式部はきちんと知っている。
▼心を動かされた中の君は、返事を書く。その歌は「この春はたれにか見せむ亡き人のかたみに摘める峰の早蕨」【口語訳】姉君まで亡くなられた今年の春は、いったい誰にお見せしたらよいのでしょうか、亡き父宮の形見として摘んでくださった峰の早蕨を。
▼この歌に出てくる「早蕨」が巻名となっている。
▼美しい中の君は、心労で少し痩せたが、ますます気品ある優雅さを漂わせ、どことなく大君を髣髴とさせる。二人並んでいるときは、似ているとも思われなかったのに、今こうして一人になってみると、大君がそこにいるかと錯覚されるほど。それを見るにつけ、女房たちは、あ〜あ、薫さまは、大君のご遺体を残しておきたいとまで言っていたのだから、どうせなら中の君が結婚してしまえばよかったのに、そういう「宿世」もなかったのは残念だわねえと話している。
▼薫がいつまでたっても、大君の死から立ち直れないで、しょげているのを見ると、中の君も、ああ、この人のお姉さんへの愛は深いものがあったのだと改めて確認するのだった。
▼一方、匂宮は、このまま中の君を宇治に置いておくと、どうしても疎遠になってしまうので、何とか京の都に迎えようと決心した。

 

★『源氏物語』を読む〈288〉2018.1.5
今日は、第48巻「早蕨(さわらび)」(その2)

▼薫は、やりきれない気持ちを誰かに話したくて、匂宮のところに行く。匂宮は、君は、中の君をひそかに慕っているんじゃないの? っといった歌を詠みかけ、薫は、ただ見ているだけなのに、そんなふうに邪推するならオレも気をつけなきゃといった歌を返す。仲のいい男同士のじゃれ合いである。
▼薫は、大君への思いを匂宮にしみじみと語る。匂宮は、人一倍感受性の強い男だから、もらい泣きして「袖もしぼるばかり」になる。こういうところが、匂宮のいいところ。
▼男というのは、女に比べて共感能力に欠けていると言われるが、確かに、人の話を、うんうんと頷きながらじっくりと聞いてくれる男は少ないものだ。まして、もらい泣きする男なんてめったにいない。それどころか、一生懸命話しているのに、あっという間に、話を自分の方へもっていってしまい、えんえんと自分の話をし続ける男はいたるところにいて(あ、ぼくも、その一人です。)、今までどれだけ苦渋をなめてきたかしれない。
▼その点、匂宮は、「色好み」で、つまりは女好き。しかし女が好き、というだけではなくて、美的感受性が豊かなのだ。もちろん共感能力も高い。
▼薫は、そんなふうに自分の話を匂宮が聞いてくれるものだから、すっかり満足する。そんな時にも、自然描写がはいる。「空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞わたれる。」【口語訳】空の風情もまた、いかにも情けを知るかのごとく一面に霞が立ちこめている。
▼「空」までもが、共感を示すのだ。
▼小説家、南木佳士のエッセイ「天地有情」で紹介されている大森荘蔵の言葉が思い出される。引用しておきたい。
▼「自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分について考えみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点景としての私も又陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましくなる。簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。」大森荘蔵
▼源氏物語には、空までもが「あはれ知り顔」であると書かれているわけだが、それを単なる比喩として捉えるのではなく、この大森荘蔵のように、我々人間の感情も、世界全体の感情の一部なのだと捉えてみると、なぜ、紫式部は、人間を描くのに、自然も一緒に描こうとするのかが分かるような気もする。
▼夜が更けても二人の話は尽きない。匂宮は、薫と大君の関係が最後まで「清い関係」であったとは信じられないから、つい、「いでさりとも、いとさのみはあらざりけむ。」(さあ、いくらなんでも、それだけの御仲ではなかったのでしょう。)と詮索がましいことを言ったりするけれど、それでも、親身になって耳を傾けてくれるので、薫は何もかも話して気持ちが晴れる思いがするのだった。
▼匂宮は、中の君を都に迎えることにしたと薫に言う。薫は、それは嬉しいことだなあ、オレはさあ、責任を感じていたんだ。亡き人の形見として、彼女の面倒をみたいと思っているんだけど、いいよね、と言いながら、ああ、大君が自分のかわりに中の君と結婚してほしい、私の心は中の君の中にあると思ってくださいと言っていたなあ、その言葉を信じてあの時中の君と結婚すればよかったと、悔しく思うけれども、しかし、そんなことばっかり思っていると、とんでもない不始末をしでかすかもしれない、ここはきっぱりと諦めようと思うのだった。
▼薫もけっこう中の君のことは引きずってきたけれど、ほんとうにこれで「諦めた」のだろうか。

 

★『源氏物語』を読む〈289〉2018.1.6
今日は、第48巻「早蕨(さわらび)」(その3)

▼薫は心の中では、やっぱり悔やんでいる。大君に対しては、どうして生きているときに、もう一歩踏み出せなかったのかと、そして中の君に対しては、どうして匂宮と結婚するまえに我が物にしておかなかったのかと。それが、心残りでならないのだが、さすがに、中の君がいよいよ都に引っ越すという段になったので、彼女には、そんな気持ちはおくびにも出さない。
▼引っ越しに際しては、薫は何から何まで面倒をみる。着物やらなにやら、何かと金のかかることなのだが、その一歳を薫が負担するのである。いわば、薫が親代わりなのだ。
▼そうした薫の心遣いを、古女房たちは心からありがたくおもって、こんなことは本当の兄弟だってしてはくれませんよ、と、中の君に話して聞かせるが、一方、若い女房は、都に引っ越してしまえば、もうこの薫さまを見ることができなのではないだろうかと寂しがっている。この対照も面白い。
▼中の君は、この宇治の里を離れるのが悲しくてならないけれど、強情を張ってここに引きこもることもできない。その悲しみはこんなふうに描かれる。
▼「きさらぎの朔日(ついたち)のころとあれば、ほど近くなるままに、花の木どものけしきばむも残りゆかしく、峰の霞の立つを見捨てむことも、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたなく人笑はれなることもこそ、など、よろづにつつましく、心ひとつに思ひ明かし暮らしたまふ。」【口語訳】京へお移りの日取りは二月のはじめごろということなので、その日が近づくにつれて、花の木々の蕾がふくらんでくるにつけても盛りの花に未練が残り、峰の霞の立つのを見捨てて立ち去るのも、常世をさして帰る雁ならぬこの身は、その行く先の京の邸が故郷でもない仮の住処とあっては、どんなにかきまりわるくもの笑いの種になろうかなどと、あれこれと気がひけて、胸ひとつに思い悩みながら明かし暮していらっしゃる。
▼「常世」というのは、「不老不死の仙境」で、雁の帰っていくところとされていた。それを踏まえた表現である。やはり中の君は、どこまでも、自分が田舎者であることで、笑いものになるのではないかと心配しているのである。父の遺言も、「人の笑いぐさになるな」ということだったからなおさらである。
▼いってみれば、「世間体」に過ぎないのだが、世に入れられなかった貴族の末端である父にとっては、その世間体だけが、ただひとつのこの世に生きる支えだったのかもしれない。父にとってはそれでもいいが、娘にとってはそんなことはどうでもいいはずだ。大君も、中の君も、結局は父の犠牲になったということもできるだろう。
▼薫は中の君と対面する。もちろん、御簾越しではあるが、心のうちをじっくりと話すのだった。
▼「所々言ひ消ちて、いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど、いとようおぼえたまへるを、心からよそのものに見なしつる、といとくやしく思ひゐたまへれど、かひなければ、その夜のことかけても言はず、忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。」【口語訳】言葉もとぎれがちにたいそうもの悲しくうち沈んでいらっしゃる御面持など、まったく姉宮そのままに似通っていらっしゃるので、中納言は、自分からこの女君を他人のものにしてしまったのだと思うと、ほんとに悔まれてならぬお気持になっていらっしゃるけれど、いまさらどうにもならないことであるから、あの夜のことはいっさい口にせず、もうきれいに忘れてしまったのかしらと思われるくらいに、さっぱりとふるまっていらっしゃる。
▼「その夜のこと」とは、薫が中の君の部屋に入ってしまったものの、結局「何にもない夜」を過ごした夜のことだ。心の中は未練たっぷりなのだが、そういえば、あの夜はさあ、などとネチネチした繰り言はいっさい口にしない。「忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。」とはあっぱれな態度である。そして、ただただ、あなたの面倒はこの私が最後までみますと約束するのだ。
▼たぶん、源氏では、こうはいかないよね。
▼二人が歌を詠み交わす場面。
▼「御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、うぐひすだに見過ぐしがたげにうち鳴きてわたるめれば、まして『春や昔の』と心をまどはしたまふどちの御物語に、をりあはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人(まらうど)の御匂ひも、橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり。」【口語訳】御前近くの紅梅が色も香も懐かしく咲きにおっていて、鶯でさえ見過しにくそうに鳴き渡るとみえ、なおさらのこと、「春や昔の」と亡き姉宮をしのびつつ悲しみにくれていらっしゃるお二人のお話し合いにつけても、折が折とてしみじみとした思いになられる。風がさっと吹き入るにつけても、花の香も客人の御においも、あの「五月待つ花橘」ではないけれども、昔の人を思い出さずにはいられないよすがである。
▼技巧的ではあるが、美しい文章である。ここでも、古今和歌集の和歌が重要な役目を果たしている。「橘」とくれば、「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(五月を待って咲く橘の花の香りをかぐと、(なつかしい)昔なじみの(あの)人の袖の香りがすることよ。)〈古今和歌集・夏・読み人しらず〉である。これ以上この場面にフィットする歌はない。むしろ、この歌を持ち出すために、こんな場面を設定したのかもしれない。
▼それにしても、風がさっと吹き込むと、梅の香りと薫の香りが混ざって香るという表現は、見事なものだ。梅の花の香りを、古人はどれだけ愛したことだろう。
▼時代は過ぎ、世の中は進歩したが、「感覚の喜び」に関しては、古人のほうが豊かに繊細に享受していたのではないだろうか。

 

★『源氏物語』を読む〈290〉2018.1.7
今日は、第48巻「早蕨(さわらび)」(その4)

▼中の君の引っ越しが近づき、若い女房たちは、これで都に行けるわ、と大満足でその準備にいそしむなか、老いた弁の君(だいたい60歳ぐらい)は、こんな年寄りが付いていくのは縁起が悪いし、それに、こんな年まで生きているのかとみんなに知られるのも嫌だといって、尼になり、宇治の邸に残るという。
▼確かに、60歳というのは、当時としては相当な老人である。今なら、90歳になっても、まあお元気でウラヤマシイわと、少なくとも表面上は褒めそやされるのに、当時は、なんだ60歳になっても生きているのかと嫌がられたのだろう。人間の「本音」はどこにあるか分かったものじゃないけど、案外、当時のほうが正直だったのかもしれない。
▼ぼくなんかも、そろそろ「古希」を迎えようとしているわけで、なんだかんだいっても、けっこう鬱陶しがられる年ごろで、いつまでも若いつもりで調子に乗っているのもよくないなあと思ったりもする昨今である。
▼老人(おいびと)として、その口さがなさ、愚痴っぽさを時に揶揄されてきた弁の君だが、さすがに、かつては柏木に仕えていた程の女性だけのことはあって、他の女房たちとは格が違う。人間の「品格」とかいったことを、ことさらあげつらうのは嫌いだし、ましてそれが「身分」とからめて語られるのも嫌だけれど、それでも、否定できないのが、人間の持つ「品」である。どんなに鬱陶しがられても、品のある、せめて、どこかにかすかに品が感じられる老人になりたいものである。
▼尼姿になった弁の君はこんなふうに描かれる。
▼「いたくねびにたれど、昔きよげなりける名残をそぎ捨てたれば、額のほどさまかはれるに、すこし若くなりて、さるかたにみやびかなり。思ひわびては、などかかるさまにしもなしたてまつらざりけむ、それに延ぶるやうもやあらむかし、さてもいかに心深くかたらひきこえてあらまし、など、一方ならずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、かくろへたる几帳をすこし引きやりて、こまかにぞかたらひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき用意、くちをしからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。」
▼【口語訳】弁はひどく年老いているけれども、昔きれいであった名残の髪を削ぎ捨てているので、額のあたりが今までと様子も変って、多少若返った感じなので、それなりに上品な感じである。中納言は、こうした弁の姿を見るにつけても、「あのころ悲しく思案にくれていたが、あのお方(大君)をどうしてこのような尼姿にでもしてさしあげなかったのだろう。その功徳で生き延びることができたかもしれなかったのに。そうなられたらどんなにか心ゆくまでお話し合い申すこともできただろうに」などと、ひとかたならずくやしく思わないではいらっしゃれないにつけても、この弁が尼になったことまでうらやましい気がして、隔ての几帳を少し引きのけて、懇ろにお話しになる。弁は、いかにもひどく老いほうけた有様ながら、ものを言う感じといい心づかいといい、いやみがなく、嗜みを身につけていた昔の名残がしのばれる。
▼尼の髪型は、「尼そぎ」といって、肩のあたりで切りそろえるのが普通。少女の「おかっぱ」みたいな形で、紫の上が初めて源氏の目の前に登場してくるときがその髪型だった。当時の貴族の女性はみなロングヘアを競っていたわけだから、尼のショートカットは、「モダン」(今めかし)に見えたらしい。ここでも、老女とは言え、弁の君の尼そぎは、新鮮な印象を薫に与えるのだ。
▼その尼になった弁をみて、そうだ、大君をオレはどうして尼にさせなかったのだろうと後悔する。大君は、尼になることを望んでいたのだが、その願いをとんでもないこととして、弁の君が無視してしまったから、確か薫は聞いてないとはずだ。あるいは、それとなく耳にしていたのかもしれない。しかし、そうだとしても薫は承諾しなかったろう。けれども、今思えば、その道があったんじゃないかと薫は思うわけだ。ひょっとしたら、それこそが精神的なつながりを切に求めた薫と大君には理想的な関係だったのかもしれない。
▼大君を慕って涙に暮れ、尼にまでなってしまった弁の君をみて、中の君も心を尽くして慰め、二人で歌を詠み交わす。今までもそうだが、二人の人間が、心を開いて語りあうとき、それは必ず歌の唱和となって表現される。
▼二人の歌。弁の君「人はみないそぎたつめる袖のうらにひとり藻塩(もしほ)をたるるあまかな」【口語訳】どなたもみなお引越しの支度をして、着物の袖を裁ち縫いしているようですのに、この私は、袖の浦で藻塩たれつつ涙に濡れる海人(尼)でございます。
▼中の君「しほたるるあまの衣にことなれや浮きたる波にぬるるわが袖」【口語訳】潮垂れて悲しみの涙に濡れている海人の衣にちがいがありましょうか、京に出ていく私も、波にただよう不安な身の上なので、涙に袖を濡らしております。
▼尼と海女との掛詞を駆使して自らの悲しみをリアルに歌う弁の君の歌も見事だが、海女からの連想で不安な心情を海の波に託した中の君の歌も素晴らしい。見事はハーモニーである。
▼私は都に落ち着くことができるかどうかわからないから、またここへ戻ってくるかもしれません。そうなれば、あなたとまた会うこともできるのですが、それでも、あなたをここの残していくのは気が進みません。どうぞ、尼になったからといって引きこもっていないで、都にも来てくださいね、と親身になって弁の君に語りかける中の君の優しさが身にしみる。

 

★『源氏物語』を読む〈291〉2018.1.8
今日は、第48巻「早蕨(さわらび)」(その5・読了)

▼いよいよ引っ越しの当日となった。
▼匂宮は、自ら迎えに行きたいところだったが、ことがあまりに大げさになるのもはばかられるので、二条邸でまっている。匂宮にとっては、大事な結婚なのだから、いくら大げさであってもよさそうなものだが、やはり宇治の田舎から呼び寄せるという形が、「正式」感を欠くのだろうか。世間はうるさいものである。
▼中の君の車に一緒に乗り込んだ古い女房たちは、大君を失ったことについては縁起を担いで避けて、ひたすら都へのぼる喜びを歌にする。その歌を聞くにつけても、中の君は、悲しみのあげく尼にまでなってしまった弁の君とこの人たちとは、何という違いだろうと不愉快になって、口をきくきにもなれない。
▼珍しく、姫君の道中が語られる。
▼「道のほどの、はるけくはげしき山路のありさまを見たまふにぞ、つらきにのみ思ひなされし人の御中(おんなか)の通ひを、ことわりの絶え間なりけりと、すこしおぼし知られける。」【口語訳】道中の遠く険しい山道の様子をごらんになるにつけても、不実なお方とばかり恨んでいらっしゃった宮のまれまれの御訪れを、無理からぬ途絶えだったのだ、といくらかは納得されるのであった。
▼こんな山路をあの方は通っていらっしゃったんだ、と、中の君は初めて気づく。経験しなければ分からないことってやっぱりあるよね。
▼けれども、京までの遙かな道を思うと不安でいっぱいになった中の君は、「年ごろ何ごとをか思ひけむとぞ、とり返さまほしきや。」(これまでの長年の物思いは何ほどのものでもなかったのだと、昔を今に取り返したいお気持ではある。)と思うのだった。
▼今のこの不安な気持ちに比べれば、あの宇治に住んでいたころ、私はいったい何を悩んでいたのかしら。ああ、あの頃に戻りたい、とそう思ったわけである。
▼これも、よく分かる。どんな境遇にあっても、悩みはつきものだけど、その悩み苦しみは相対的なもので、これに比べれば、昔はむしろシアワセだったと思うような場面は、人生にいっぱいある。
▼中の君が匂宮の元へ引っ越したころ、夕霧の娘六の君が裳着(女性の成人式のようなもの)を迎える。この子を匂宮と結婚させようとしているのに、まるで面当てみたいに、中の君を迎え入れたので、夕霧は腹もたつが、どうしようもない。それで、薫に結婚を打診するが、あえなく断られてしまう。
▼中の君が住むことになるのは二条院、薫の住んでいるのは近ごろ再建なった三条院で、すぐ近くだ。
▼中の君が到着すると、邸は宇治とはまるでちがって豪華絢爛たるありさま。調度品からおつきの女房たちまで、バッチリ完璧にそろっている。そうした用意は、匂宮がいちおうの指図はしたものの、実際にこまめに動いて整えさせたのは薫である。
▼中の君は、匂宮にめでたく迎えられ、世間の人も、ああこれだけ大事にされるのは、よほどのお人なのだろうと目を見張ったわけだが、薫は、そうしたことを、一方では嬉しく思いながらも、我ながら未練が残って、ヘンテコな歌を詠んで憂さをはらす。
▼「しなてるや鳰(にほ)の湖(みずうみ)に漕ぐ船のまほならねどもあひ見しものを」(鳰の湖を漕ぐ船の真帆──そんなふうに真実はっきりと契ったわけではないけれども、あのお方とは一夜をともに過したことがあるものを。)
▼「しなてるや鳰の湖に漕ぐ船の」は「まほ(真帆)」を導く序詞だから、歌の意味はその後だけを考えればよい。つまり、彼女とは同じ部屋で一夜を共にしたんだよね、何にもなかったけどさあ、というような意味で、だからなんなの? って感じの歌だけど、「君と一夜を過ごした」ということは、中の君の前では「決して口にしなかった」言葉だ。そんなことはまるで忘れたというようなさっぱりした態度をとった薫は立派だったけれど、やっぱり、ひとりで思うと、こんな嫌味もつい呟いてしまう薫。人間的だね。
▼匂宮は、御簾越しに語り合う薫と中の君を見ると、なんか、大丈夫か? って感じになって、嫌味を言うし、今までさんざん世話になった薫に冷たくすることなんてできないし、もう、中の君は、苦しくてならない。
▼というところで、「早蕨」の巻は、あっさり終わる。「総角」の巻の四分の一ぐらいである。次の「宿木」の巻は、「総角」とほぼ同じ長さだ。

 

【49 宿木】

 

★『源氏物語』を読む〈292〉2018.1.9
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その1)

▼「早蕨」の巻で、中の君の結婚問題はいちおうの決着がつき、物語は新しい局面を迎える。それにふさわしい「宿木」の冒頭部。
▼「そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける、まだ春宮と聞こえさせし時、人よりさきに参りたまひにしかば、睦ましくあはれなる方の御思ひはことにものしたまふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、さやうのことも少なくて、ただ女宮一(ひと)ところをぞ持ちたてまつりたへりける。」
▼【口語訳】そのころ藤壺と申しあげるのは、故左大臣殿の御娘で女御になられたお方だが、今上〈今上帝〉がまだ東宮と申しあげたとき、ほかの女御方に先立って入内なさったので、〈今上帝は〉格別に睦まじくいとしくおぼしめしたようであるけれど、表向きにはそうしたご寵愛をお受けになったかいもないまま何年かお過しになるうちに、中宮〈明石中宮〉には宮たちまで大勢おできになり、それぞれご成人あそばすというのに、こちらはそのような御子も少なくて、ただ女宮お一方をお産みになっていらっしゃるだけなのであった。
▼ここに登場してくる「故左大臣殿」は、系図も不明であり、いつ死んだかも不明。やや唐突の感がある。その娘が「藤壺」である。(もちろん、源氏の義理の母の「藤壺」ではない。「藤壺」とは部屋の名で、そこに住めばそう呼ばれるわけだ。)
▼今上帝は、朱雀院の息子で、その中宮が明石中宮なのだが、この藤壺女御は、第二夫人といったところ。明石中宮より先に入内したのに、中宮(皇后)にもなれず、子どもも娘一人。この娘をなんとかしなければと懸命である。そんな事情からまず始まる。
▼この娘は、大変美人で、父の帝も可愛がっているのだが、やっぱり女一の宮(明石中宮の娘)が帝はいちばんカワイイんじゃないのと世間では思われているのも無理はない。しかし、実際のところは、この藤壺女御の娘も、女一の宮に引けをとることはなかったのだ。
▼その娘(女二の宮と呼ばれる)が、14歳になり、裳着のお祝いをすることとなった。母親の藤壺女御は、張り切ってその準備をしているうちに、物の怪にとりつかれて、あっけなく亡くなってしまう。
▼悲しみにしずむ女二の宮をかわいそうに思った父帝は、母の実家にいた宮を宮中に呼び寄せ、「藤壺」に住まわせ、毎日「藤壺」に顔を出しては、宮を慰める。
▼帝は、この宮をなんとかしなければならないと考える。男の子なら、そんなに気にしなくてもいいのに、女の子となると、ほんとに大変だ。娘をなんとかしなければと親が考えるところから、いろいろな無理が生じて、場合によってはそれが悲劇のもととなる。典型的なのが、女三の宮と源氏の結婚だった。
▼そう考えると、宇治の八の宮が、娘たちに結婚するなと戒めたのにも一理ある。
▼帝が目をつけたのが、薫だった。

 

★『源氏物語』を読む〈293〉2018.1.10
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その2)

▼「御前の菊うつろひはてで盛りなるころ、空のけしきあはれにうちしぐるるにも、まづこの御方に渡らせたまひて、昔のことなど聞こえさせたまふに、御答(いら)へなども、おほどかなるものからいはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつしく思ひ聞こえさせたまふ。」【口語訳】お庭前の菊がまだすっかり色が変らずちょうど見ごろの時分に、空の風情も思いをそそるようにさっと時雨れてくるにつけても、帝はまずこの女宮のお部屋にお越しあそばして、亡き女御のことなどをお話し申しあげられると、ご返事などもおっとりしているものの、幼びたご様子もなくお申しあげになるのを、帝はかわいいお方よとお思い申していらっしゃる。
▼「菊うつろひはてで盛りなるころ」とあるが、菊の花が霜にあたって色変わりしたのを当時は愛でたらしい。あまり色変わりしすぎると汚いので、ちょうどよい時期のことを言っているのである。
▼桜の花などでは、こうしたことはないが、菊の花の色の微妙な変化を楽しんだというのは、面白い。
▼世間では二番手と思われていた女二の宮だが、帝は決してこの娘をないがしろにしてはいない。こんなにカワイイ子なんだから、何とかいい人とめあわせたい。そう思う帝は、朱雀院の姫君の結婚のことを思い出す。
▼あの時は、世間から、その結婚はどんなものだろうと随分批判もされたけれど、今となっては、薫をあんなに立派に育てあげたおかけで、女三の宮も重く扱われているではないか、それなら、それと同じように、今度は、この子を、薫と結婚させるのが一番じゃないだろうか、と帝は思うのだった。
▼そんなふうに帝が思うのも、薫が実は柏木の子どもだなんてことはまったく知らないからだ。
▼薫には、まだ本妻もいないようだし、女三の宮が紫の上に嫉妬されたようなことも起こらないだろうから、とにかく真っ先にうちの娘を嫁入りさせるに越したことはない。とにかく、ちょっとほのめかしてみようというわけで、次の場面になる。
▼「御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほどにて、花の色も夕映えしたるをご覧じて、人召して『ただ今、殿上には誰々か』と問はせたまふに、」【口語訳】帝は女宮と御碁などをお打ちになる。日が暮れていくにつれて時雨が風情を添え、花の色も夕明りに映えているのをごらんになって、人をお呼びになり、「ただ今、殿上には誰々がいるのか」とお尋ねあそばすと、
▼ちょうど殿上には薫がいた。それで、帝はさっそく薫を呼び寄せて、碁の相手をさせる。この場面が「源氏物語絵巻」に描かれている。
▼時雨もふって、こんな静かなときは、管弦の遊びなどもする気にならない。碁がいちばんだ。さて、格好の「賭物」があるんだけど、簡単には渡せないものでね、と帝は言う。つまり、その「賭物」は、女二の宮に他ならない。
▼囲碁は、帝の一勝二敗。帝は、ああ悔しいなあ、まあ、今日はまずはこの花の枝を差し上げよう。(いずれ、姫を渡すにしても、の意を含める)なんて言うのだ。
▼薫は、返事をせずに、庭に下りて、菊の花の一枝を折って歌を添える。
▼薫「世の常の垣根ににほふ花ならば心のままに折りて見ましを」(これが世の常の垣根に咲いている花なのでしたら、思いのままに手折っても見ましょうものを。尊いご身分の姫宮に対しては遠慮申さずにはいられません。)
▼帝「霜にあへず枯れにし園の菊なれどのこりの色はあせずもあるかな」(霜に堪えかねて枯れてしまった園の菊ではあるけれど、残りの花の色香はまだ移ろうことなく、美しい盛りなのですよ。母を失った宮ではあるけれども、美しく生い育っています。)
▼こんなふうに、薫は帝の意向を直接に聞いても、例によってのんびりとかまえ、今までいろいろ断ってきたんだし、今更ここで結婚なんて、世捨て人が還俗するようなものだし、なんて思って、なかなかその気にならない。
▼これが、姫が「中宮腹」(明石中宮の娘)なら、話は別なんだけどなあ、なんて思いがちょっと薫の頭をかすめる。すると、語り手は、「あまりおほけなかりける」(あまりに分をわきまえぬ高望みというものであった。)と批評する。
▼「中宮腹」の姫ならいいのになんて思うのは、「高望み」なんだとぴしゃりと語り手が言うのは、やはり、薫の出自が問題になるからだろう。
▼それにしても、こんなところで、薫の「高望み」が顔を出すというのも面白い。薫も、ただ真面目なだけの人間ではないということだ。

 

★『源氏物語』を読む〈294〉2018.1.11
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その3)

▼薫と女二の宮との結婚話を耳にした夕霧は、自分の娘の六の君(夕霧の第二夫人、落葉の宮の養女)を薫にと思っていたのに、先を越されたなあと焦る。
▼そっちがダメなら、しょうがない、匂宮にするかと考える。匂宮は浮気性で心配だけど、そうかといって、水ももらさぬ仲良し夫婦になってほしいと願って、身分を落とした男に嫁がせるのもどんなものだろうと思う。つまり、格を落とせば、浮気もしない真面目男が見つかるかもしれないけれど、それじゃあ、満足できないなあということだ。夕霧もすっかり俗人になったなあ。まあ、ただ真面目なだけじゃ、人間、俗っぽくなってしまうものなのかもしれない。
▼夕霧は異母妹の明石中宮(匂宮の母)のところへいって、何とかしてくれとばかり責め立てる。近ごろじゃ、帝だって娘の結婚に頭を悩ませているんですよ、ぼくなんか大変だ、と愚痴るので、中宮も気の毒がって、匂宮を説得しにかかる。
▼あんなに一生懸命になっているのを、あなたったら、いつもはぐらかしてばかりで、それじゃあんまり不人情というものですよ。親王というものは、外戚の力も大事なのよ。(匂宮は、やがて春宮にという腹づもりが中宮にはあるので、外戚として夕霧を持つのは好ましいことだというのだ。)あなたは、結婚なんて堅苦しいことはいやだ、妻が一人じゃいやだと思って、ためらっているんでしょうけど、あの真面目くさった夕霧でさえ、雲居雁と落葉の宮のおふたりを抱えて、なんとかうまくやってるじゃないの、まして、あなたが将来帝になれば、奥さんなんて何人いたっていいんですからね。
▼なんていつになく言葉多く説得する。この明石中宮の現実主義も、かつての可愛らしい姫君時代からは想像もつかない。こうした世俗主義にどっぷりの夕霧、明石中宮を見るにつけ、いろいろ問題の多かった源氏のロマンチックなスケールの大きさが懐かしくなる。
▼昔、「夢見る少女じゃいられない」なんて題の歌があって、誰が歌っていたのか、どんな歌詞だったのか忘れてしまったが、どの時代でも、「夢見る少女」は、いつか世俗の塵にまみれたオバサンにならざるを得ないのだろう。そうであるからこそ、森高千里だったかは、「私がオバサンになっても愛してくれる?」てな歌を歌わざるを得なかったのではなかろうか。その点、男はノー天気だから、いつまでも「夢見る少年のまんま」のジイサンが巷に溢れることとなる。それはそれでまた問題かもしれないが。
▼そういう意味では、匂宮は、源氏的な「夢見る少年」の片鱗を持つのかもしれない。
▼母親の話を聞いて、匂宮は、もともと全然乗り気じゃなかった話でもないしなあとは思うものの、あの堅苦しい右大臣家(夕霧)に取り込まれて、今までも気ままな生活ができなくなるのはやっぱり憂鬱だなあと思う。しかし、母親のいうように、夕霧に恨まれるのも、今後のことを考えると得策じゃないしなあとも思う。しかし、匂宮は、いまだにかつて結婚をほのめかされた紅梅の御方(蛍兵部卿の娘、真木柱の娘)とも文通していて、そっちにも興味があって、なかなか決心もつかないうちに、その年も暮れた。

 

★『源氏物語』を読む〈295〉2018.1.12
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その4)

▼女二の宮の服喪もあけた夏、帝は、もう何はばかることもないと、薫に結婚を迫るので、薫も、あんまり知らん顔をしているのもよくないと思って、内諾する。
▼けれども、やっぱり心は亡き大君にあって、どうして彼女と他人のまま死別するなんてことになったのだろうと悔やんでも悔やみきれない気持ちでいる。身分が低かろうと、大君に似た人がいれば心惹かれることだろう、なんとかして、あの人にもう一度会いたいなんて思っているばかりで、結婚については急ぐ気配もない。
▼そんな折り、夕霧の方は、六の君と匂宮との結婚の準備にとりかかる。どうやら八月あたりにと決まったらしい。そんな噂を聞いた中の君は、やっぱり思った通りだ。どうせしがない身分の私だ、きっといつかは物笑いの種になると思っていたけれど、それでも、匂宮様は、浮気性のわりには私を可愛がってくださるものだから、ちょっとは安心していたけど、今回の結婚で、態度が急変したらどうしよう。今更、宇治の田舎に戻ったら、ほら出戻りだとか言って田舎ものに笑われるのも悔しい。
▼それにつけても、姉さんは偉かった。ちっともハキハキせずに、頼りないふうだったけれど、心の中はしっかりとしていて、薫様にもなびかなかった。薫様は、今でも、姉さんのことを忘れることができないなんて言っているようだけれど、もし、姉さんが生きていて結婚でもしていたら、きっとこの私のような苦しみを味わったにちがいない。ああ、お父様の言葉に従わなかった私は、なんて軽薄な女なのだろう、と悩みに悩む。
▼けれども、そんな気持ちは匂宮には見せず、そんなことは気にしていないそぶりで過ごしている。
▼匂宮は、こんどの結婚のことがあるので、中の君が気の毒でならないから、いつもより一層愛情を注ぎ込む。そのうちに、中の君は妊娠する。
▼匂宮は、そんな経験がないから、体調が悪いのは最初は暑さのせいだろうなんて思っているが、そのうちに、さすがにおかしいと思って、いろいろ探るけれど、中の君は恥ずかしがって言わないし、出しゃばって、匂宮に、お姫様はご懐妊ですよと告げる女房もいないから、匂宮は、その妊娠に気づかない。
▼出しゃばり女房というのも、必要なんだね。ぼくが育った横浜の下町にも、出しゃばりババアみたなのがたくさんいて、うるさくてしょうがなかったけれど、それを裏返せば「下町人情」となるわけだ。出しゃばりババアがいれば、孤独死なんて、したくてもできない。
▼八月になって、中の君は、婚儀の日取りなどを噂で耳にするが、匂宮は隠すことでもないのに、なんとなく言いにくく思って言いだせない。それが中の君を傷つける。みんな知っていることなのに、どうして直接言ってくれないのよ、と恨めしく思うのだ。
▼匂宮は、匂宮で、中の君に気を使う。今まで、宮中に伺っても、そのまま泊まるなんてことはなくちゃんと家に帰ってきたから、中の君は、夜離れの苦しみを味わってこなかったけれど、結婚となれば、そうもいかない。結婚したからといって、急にそういう思いをさせるのはかわいそうだと思った匂宮は、結婚が近くなるにしたがって、わざと宮中に宿直などしてして「夜離れの予行演習」みたいなことをする。
▼けれども中の君は、それが辛い。だんだんに慣れていくということはあるだろうけど、何も、「予行練習」することはない。その時はその時じゃないか。匂宮の気持ちも分からないでもないけれど、だんだん「夜離れ」に慣れさせようなんて、子どもじみてるよなあ。
▼まあ、いずれにしても、むずかしいね。一人の女性でさえ持て余すのに、二人の女性とうまく付き合うなんて、土台無理な話なのだ。
▼とすれば、いちばん賢かったのは、やっぱり大君なのかもしれない。

 

★『源氏物語』を読む〈296〉2018.1.18
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その5)

▼コンピュータの修理のため、お休みしていたが、修理も終わったので再開。
▼中の君が辛い思いをしているのを、薫はかわいそうに思うとともに、彼女を匂宮に譲ったことを激しく後悔する。
▼「あいなしや、わが心よ、何しに譲りきこえん。」(我ながらつまらない了見を起したものよ。どうしてあのお方を宮にお譲り申したのだろうか。)
▼大君とは、色恋抜きの人間関係を築きたい一心で言い寄っていたのに、その気持ちも無視して、大君は、中の君と一緒になってくれというから、そんな大君の気持ちを遮るために、匂宮に中の君を譲ったのだ。それなのに、アイツときたら、やっぱり「花心おはする君」(浮気な君)
のことだから、結局は目新しい奥方(六の君)に心を移してしまうんだよなあ。
▼浮気性の男というものは、女にとっても、頼りにならないものだけど、男にとっても友だちがいのないものだなあと、薫はつくづく匂宮が憎らしい。
▼かといって、今自分に降りかかっている女二の宮との縁談も、ちっとも嬉しくない。
▼薫を慕ってあつまっている女房たちの中には、憎からず思う女もいないわけではないけれど、かといって、心底愛着を感じる女もいないのは、相変わらずさっぱりしたもので、とにかく薫は、いつか出家したいとばかり思っているから、その妨げになる女への執着を持たないようにしているのである。
▼そんな物思いにふけって夜明かしした朝、朝顔の花が目にとまる。この朝顔は、今の朝顔と同じと考えてよい。(この当時の「朝顔」は「キキョウ」を指すことが多い。)
▼「常よりも、やがてまどろまず明かしたまへる朝(あした)に、霧の籬(まがき)より、花の色々おもしろく見えわたる中に、朝顔のはかなげにてまじりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。「明くる間咲きて」とか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなまりかし、格子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開くほどをも、ただ独りのみぞ見たまひける。」
▼【口語訳】いつもよりお寝みになれず夜をお明かしになった朝、霧の立ちこめている垣根の間から色とりどりの花が風情をたたえて見渡されるなかにまじって、朝顔の花がいかにもはかなげに咲いているのに、とりわけお目のとまる心地がなさる。「明くる間咲きて」とか詠まれて無常の世に喩えられているのがいじらしく思われるのであろう、格子も上げたまま、ほんの仮寝のようにして横になったまま夜をお明かしになったので、この花の開くところをも、ただお一人だけでごらんになるのであった。
▼垣根の間に咲き乱れる様々な花の中に、ひっそりと咲いている朝顔に、薫は心ひかれる。その花を薫は「独り」で見る。「ただ独りのみぞ見たまひける。」と「ただ」「のみ」「ぞ」という強い言葉が連続して使われていることに注意したい。薫の孤独感が強調されているのである。
▼匂宮の住む二条院へ行くから車の用意をせよと薫が言うと、家来が、匂宮様は、昨日から宮中へお出かけになっていらっしゃいます、という。そんならそれでもいい、中の君のお見舞いに行くんだからといいつつ、着替えをして庭に下りる薫は「ことさらに艶(ゑん)だち色めきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく恥ぐかしげにて、いみじく気色だつ色好みどもになずらふべくもあらず、おのずからをかしく見えたまひける。」(ことさらに風流めかしあだめいてふるまわれるのではないけれど、常人のさまではなく、目を走らせて見るだけでも、その優艶なさまは、こちらが恥じ入りたいくらいで、精一杯に気どってみせている色男どもは足もとにも寄りつけぬくらい、おのずから身に備わった風情がおありになるのだった。)
▼ことさら気取っているわけでもないのに、こぼれる色気。風情。
▼降り立った庭には、さっきの朝顔が咲いている。その花を引き寄せて、歌を詠む。
▼「今朝のまに色にやめでんおく露の消えぬにかかる花と見る見る」(おく露が消えずにいる間だけのはかない命の花と見ながら、せめてその束の間の今朝の色香をもてはやさなければならないのだろうか。)
▼今は亡き大君への思いと、世の無常への思いのこもった歌である。
▼薫は、中の君のもとへと向かう。

 

★『源氏物語』を読む〈297〉2018.1.20
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その6)

▼薫は、ハキハキとして男らしいところがぜんぜんないので、ある意味「安全」感があって、中の君はそういう薫になれてしまって、ちょっと気を許している。
▼そうはいっても、薫は、中の君にまったく興味がないというわけではなく、それどころか、匂宮に譲ってしまったことを悔やんでも悔やみきれないぐらいに思っているのだ。だから、中の君を訪ねていって、またしても、御簾の外に座らされると、嫌味のひとつも言わずにはいられない。
▼中の君は、声なども、昔は大君にそれほど似ているとは思えなかったのに、今ではおどろくほど似ている。そんな中の君の姿を見たいと薫は思うけれども、もちろんそんな振る舞いには出ない。
▼「人目見苦しかるまじくは、簾も引き上げてさし対(むか)ひきこえまほしく、うちなやみたまへらん容貌(かたち)ゆかしくおぼえたまふも、なほ世の中にもの思はぬ人は、えあるまじきわざにやとぞ思ひ知られたまふ。」
▼【口語訳】もし人前さえ見苦しくなかったなら簾をも引き上げてさし向いにお逢い申しあげたく、ご気分わるくいらっしゃるらしいそのお顔も見たいお気持になられるにつけても、やはり世の中に物思いのない人はありえないのだろうかといまさらながら思い知らされる。
▼自分はすでにこの世を半分捨てている身だという自覚が薫にはあるわけだが、そんな自分でも、この場面では、目の前の簾を引き上げて中の君の顔を見たくなるのだから、世の中には、恋をしない男なんてきっといないんだろうなあと思うわけである。
▼この辺の薫の意識というのは不思議である。女に興味はない、というのが大前提となっているけど、今まさにその大前提が崩れかかったいるわけだ。それなのに、そっちはあまり気にせず、一般論にうつっていく。
▼中の君に薫はこんなことを言う。
▼「人々しくきらきらしき方にははべらずとも、心に思ふことあり、嘆かしく身をもてなやむさまになどはなくて過ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし。心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがらに安からず思ひはべるこそいとあひなけれ。官位(つかさくらひ)などいひて、大事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、これや、いますこし罪の深さはまさるらむ。」
▼【口語訳】これまで私は、人並にはなやかな出世をするというふうにはまいらぬといたしましても、心に思い悩むことや、悲嘆に身を苦しめたりするようなことなどはなしに、この世を過すことができるものと自分では信じておりました。それなのに、自ら求めて悲しいめにもあい(大君との死別のこと)、愚かしくくやしい物思いをもして(中の君を匂宮に譲ってしまったこと)、あれこれと胸の休まる時がないのはまことに困ったことでございます。官位の昇進などといって、世間では重大事に思っているらしい、それはそれなりに無理からぬ不平や嘆きゆえに心を労する人たちよりも、この私のほうがいま少し罪の深さはまさるのではありますまいか。
▼自分の「罪」のほうが重いというのは、出世を求める人と違って、自分のは「女性への執着を絶つべき」とする仏の教えに反しているからだ。
▼それにしても、薫といい、大君といい、この世の悩みや苦しみから何とかして逃れたいと思っているのは、どうしてなのだろうか。もちろん、悩み苦しみのない人生が望ましいことに違いはないし、ぼくだって、そうありたいと思っている。けれども、人間がこの世の生まれてきたのは、「苦しまない」「悩まない」ためだろうか。ただただ「穏やかな人生」を送るためだろうか。
▼どんなに苦しい思いをしようと、それを補ってあまりある「生きる喜び」というものがあるのではなかろうか。その「生きる喜び」を味わうためには、塗炭の苦しみも、時としては敢えて嘗めなければならないのではなかろうか。
▼こうした人生観が、薫にも大君にも決定的に欠けている。それはどうしてなのか。仏教思想の影響ももちろんあるだろうが、それだけでは説明のつかない問題にも思える。今後の読書におけるひとつの視点として注意していきたい。

 

★『源氏物語』を読む〈298〉2018.1.21
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その7)

▼つい先日、宇治に行ってきたのですが、庭も垣根も荒れ果てていて、悲しいことでした、と薫は中の君に語る。
▼それにつけても、源氏が亡くなったあと、嵯峨の院や、六条院が寂れていったときのことが思い出されるのだった。
▼「さる世にたぐひなき悲しさと見たまへしことも、年月経(ふ)れば、思ひさますをりの出で来るにこそはと見はべるに、げに限りあるわざなりと見えはべる。」
▼【口語訳】ああした世に類のない悲しさと思われましたようなことでも、年月が過ぎてみると、その思いの薄らぐ時がやってくるものだと思いますにつけ、なるほど万事ものには限りがあるものだと思われるのでございます。
▼どんな悲しみも、時間がいやしてくれるものだ、ということは、慰めの言葉としてよく使われることだが、源氏物語では、それは慰めの言葉ではない。どんな悲しみも、いつかは薄らいでしまう、ということが、「何ごとにも限度があるのだ」という認識を導くのだ。
▼いつまでも悲しみから抜け出せないのでは、生きていけない。いつかは、その悲しみが薄らぎ、場合によっては「笑い話」に変わる日がくるかもしれない。それでいいのだ、と、思うけれど、一方では、そういうふうに悲しみを忘れてしまう自分を許せない、と感じることもあるだろう。おまえの愛情はその程度だったのかと、自分を責めることがあるだろう。
▼だから、「何ごとにも限度があるのだ」という一種の無常観は、ある意味では、最終的な慰めになるのかもしれない。どんなに深く愛していても、悲しみが持続するものではないのだ、それが人間というものなのだ、という慰め。
▼薫は、そんなことをいいながら、自分は、源氏が亡くなったとき、わずかに九歳ほどだったので、悲しみもそんなに深くはなかったけれど、この近い悲しみ、大君の死の悲しみは、まるで悪夢でそこから覚めようもないと嘆く。
▼こんなに深い薫の悲しみの言葉を聞いていると、中の君も、ますます亡き姉が恋しくなってくる。そして、宇治に帰って静かに暮らしたい、父八の宮の法事もあることだから、と薫に訴える。
▼けれども、薫はもちろん承知しない。父君の法事の件は、阿闍梨がきちんとやってくれるから大丈夫です。宇治の邸はお寺になさったらいかがでしょうか。それとも何かほかにお考えがありますか。もしあれば、私が何とでもいたしましょう、と薫は、あくまで冷静で親切だ。
▼中の君は、薫を頼っているのだから、薫さえその気になれば、中の君を宇治につれていき、そこで懇ろになることなど簡単なのに。▼けれども、薫は、ともすれば中の君へと心が傾きかける心を制して仏道修行に励む。そういう薫をみて、母、女三の宮は心配でならない。いくらおっとりしている女三の宮も、自分の老い先短いことを自覚していて、なんとか薫が結婚して落ち着いてくれることを願うのだ。薫は、母を心配させまいと、母の前では何ごともないように明るく振る舞うのだった。
▼そして、とうとう匂宮と六の君の婚儀が行われることとなった。中の君の悲しみと苦しみは、はかりしれない。

 

★『源氏物語』を読む〈299〉2018.1.22
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その8)

▼婚儀といっても、今と違って、派手な結婚式をするわけではない。男が女の家に泊まるだけだ。もちろん、それにあたっては、女の家では贅を尽くして迎えるわけだから、誰の目にもそれとわかる。
▼「右大殿(みぎのおおいどの=-夕霧)には、六条院の東の殿(おとど)磨きしるらひて、限りなくよろづをととのへて待ちきこえたまふに、十六日の月やうやうさし上がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、いかならんと安からず思ほして、案内(あない)したまへば、『この夕つ方内裏(うち)より出でたまひて、二条院になむおはしますなる』と人申す。思す人持たまへれば心やましけれど、今宵過ぎんも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへり。」
▼【口語訳】右大臣(夕霧)は、六条院の東の御殿をきれいに飾りたてて、万端このうえもなくお支度をととのえ、宮のお越しをお待ち申しあげておられるのに、十六夜の月がだんだん空に上がるまで宮はお姿をお見せにならず待遠なものだから、もともとこのご縁組にはさして気乗りではいらっしゃらぬことだし、どうなることかと心配なさって、使者をおやりになると、「この夕方に宮中を退出なさって、二条院においでのご様子です」と、帰ってきて申しあげる。宮にはお気に入りの人(中の君)がおありなのだから、と大臣はいまいましくお思いになるけれど、今宵をむだにしてしまうのも世間のもの笑いになろうことなので、ご子息の頭中将をお使者としてこうお申しあげになる。
▼こうしたことは、当時はあたりまえのこととはいえ、やはり残酷な仕打ちである。男の側からいえば、慣習なのだから当然だということになるのだろうが、女の側からいえば、いつの時代にも、自分の夫が別の女と結ばれることは耐えられないほど辛いことなのだ。
▼不倫はいけない、などという道徳的な問題ではなく、ただ、女の立場として、辛い、ということだ。
▼夕霧は、この辺になると、ただただ俗物そのもので、世間への見栄だけが行動の基準となっていて、源氏のような「好き心」を持ち合わせていない。
▼匂宮は、中の君が気の毒でならないけれど、一方では六の君への興味も隠しきれず、どうせ婿にいくなら、気に入れられたいとばかり、精一杯のオシャレをして出かけていく。そんな匂宮を見て、中の君は、今まで耐えて、何食わぬ顔をしてきたのに、堰を切ったように泣き出してしまう。そうなると、今までの我慢が後押しするのか、涙はとまらない。
▼匂宮は、ああだこうだと中の君を慰めるが、中の君の悲しみは増すばかり。
▼結局、匂宮は、中の君をおいて、六条院へ行ってしまう。そこで六の君と初夜を過ごす。これで結婚成立なのだ。六の君は、おもったほど可憐な感じではなくて、匂宮は、おやっと思うけれど、それでもあっという間に朝を迎えて、二条院へ帰ってくる。
▼そうなると、当時のしきたりとして、「後朝の文」を男が書くわけだが、さすがに中の君の部屋では書けないので、こっそり書いて使者に渡すのだが、女房さえもそれに気づかない。
▼しかし、しばらくすれば返事が来る。その手紙を、中の君の部屋で受け取るのもまずいから、しばらくは返事を待ってぐずぐずと自分の部屋にいたけれど、なかなか中の君の部屋に行かないのも、きっと昨晩は悲しい思いをしたろうから、可愛そうだと思って、中の君の部屋に行く。
▼「寝くたれの御容貌(かたち)いとめでたく見どころありて、入りたまへるに、臥したるもうたてあれば、すこし起き上がりておはするに、うち赤みたまへる顔ににほひなど、今朝しも常よりことにをかしげに見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつぶしたまへる、髪のかかり髪(かむ)ざしなど、なほいとありがたげなり。」
▼【口語訳】寝乱れのお姿がまことにお美しく見るからにはえばえしいご様子で、宮がお部屋に入っていらっしゃると、女君は、横になったままでいるのも物思いかと見られるのがいやなので、少し起き上がっておられるが、目もとをぽっと赤くしていらっしゃるお顔の色つやなどが、今朝はまた常とちがって格別に美しさがまさってお見えになるものだから、宮はもう思わず涙ぐまれて、しばらくの間、まじまじとそのお顔をお見つめ申されるので、女君は恥ずかしくお思いになってうつむいていらっしゃる、その髪の垂れかかる風情や髪かたちなど、やはりまったくこれほどの人はまたとありそうもないお美しさである。
▼「寝くたれの御容貌」(寝乱れのお姿)というのは、何ともエロチックである。「寝起きの姿。六の君との供寝を思わせる表現。」と「全集」の注にあるが、「寝起き」といっても、となりの部屋からやってきたのではない。六条院から帰ってきて、少し自分の部屋で休んで、それから中の君の部屋にやってきたのである。少なくとも、1時間以上はたっているはず。それなのに、匂宮は「寝起きの姿」なのだ。どこがどう乱れているのか判然としないが、肉体の端々に、「昨夜の陶酔」の余韻が漂っているということなのだろうか。
▼そんな姿の夫を迎える妻にしてみれば、まったくたまったもんじゃない。しかも、中の君は、身重なのだ。中の君は、昨晩は一晩中泣いていたと見えて、目元も赤い。けれど、その様子も匂宮には、「美しく」見えてしまう。
▼「視覚」は、罪深い。
▼しかし、さすがに中の君の機嫌は最悪だから、匂宮は、一生懸命、あれやこれやの慰めの言葉をかけるのだが、中の君の耳には入らない。
▼そんなところへ、六の君の使いの者が、「後朝の文」を持ってやってくる。ご褒美に酒も振る舞われているから、すっかり酔っぱらって、中の君への配慮もあらばこそ、おおぴらに、「はい、お返事で〜す!」みたいな感じで大騒ぎ。女房たちも、そこで初めて、あ、「後朝の文」のお返事だ。いつも間に、お手紙書いたのかしらと、匂宮を憎らしく思うのだった。

 

★『源氏物語』を読む〈300〉2018.1.23
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その9)

▼結婚すると、三日間、男は女の家に通い続けるのが通例だった。
▼二日目の晩。匂宮は中の君をいろいろと慰めるのだが、中の君の機嫌は直らない。「見苦しきわざかな」(困ったことだね)と言いながら、匂宮は出かけていく。
▼「風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、いまめかしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思はしき人の御心の中(うち)は、よろづに忍びがたきことのみぞ多かりける。蜩(ひぐらし)の鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、〈おほかたに聞かましものをひぐらしの声うらめしき秋の暮かな〉今宵は、まだ更けぬに出でたまふなりけり。御前駆(さき)の声の遠くなるままに、海人(あま)も釣すばかりになるも、我ながら憎き心かなと、思ふ思ふ聞き臥したまへり。」
▼【口語訳】風も涼しく、一帯の空のけしきも風情ある時節なので、宮(匂宮)は当世風な派手好みのご性分とて一段とご気分もはなやいでいらっしゃるが、物思いの憂わしさに沈む女君(中の君)のお心のうちは、何かにつけてこらえがたいことばかりが多いのであった。蜩の鳴く声が聞えてくるにつけても、あの宇治の山陰ばかりが恋しくて、(中の君の歌)〈あのまま宇治にとどまっていたのだったら、あの蜩の声もただ一通りの寂しさと聞いていただろうに、なまじ都へ出てきたばかりに恨めしい気持でそれを聞く秋の暮であるよ〉宮は、今宵はまだ夜更けにならないうちにお出かけになるご様子である。御先払いの声がだんだん遠くなるにつれて、女君は海人も釣りするばかり涙に濡れてくるのを、我ながら厭わしい心よと思い思い、その声を聞きながら横になっていらっしゃる。
▼涙があふれて、その涙の海で、海人が釣りをするというのは、いかにも大げさだけど、それがちっとも滑稽ではない。そればかりか、言葉には尽くせない中の君の悲しみが痛切に感じられる表現となっている。
▼この文章では、「音」がとても印象的だ。「ひぐらしの鳴き声」「前駆の遠ざかる声」、そして、たぶん、中の君のむせび泣く声。
▼匂宮の「はなやぐ心」と中の君の「悲しみに沈む心」の対比も見事。
▼中の君は、ますます宇治への郷愁を深めるとともに、自分の悲運を嘆く。私の一族は、みんな短命なのだから、きっと私は今度のお産で死んでしまうのかもしれない。別に惜しくもない命だけど、やっぱり悲しいし、お腹の中の子どもと一緒に死んでしまうのは罪深いことだと言われているし、などと悩みは尽きず、まんじりともできない夜を過ごす。
▼そして三日目。三日目には、今でいうところの「披露宴」が盛大に行われる。夕霧は、もう、ここぞとばかり気合いを入れて、贅を尽くして準備する。その宴会に、わざわざ薫も招待する。そのほうが「もののはえ」(見栄え)がするからだ。薫までも、自分の見栄のために利用する夕霧だ。
▼招かれた薫は、まじめくさって、細やかに賓客を接待していて、もともとは自分がこの家の婿になるはずだったのに、匂宮にとられたのだというようなことを、ちっとも気にしている風ではない。
▼それが夕霧には気に入らない。
▼「例ならず急がしく参(ま)でたまひて、人の上に見なしなるを、口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心にあつかひたまへるを、大臣(おとど)は、人知れず、なまねたしと思しけり。」
▼【口語訳】(薫は)いつになく早々に参上なさって、この六の君を他人のものにしてしまったことを残念に思っている様子もなく、何くれと大臣(夕霧)に協力してお世話をなさるのを、大臣は内心なんとなくいまいましくお感じになるのであった。
▼「人知れず、なまねたしと思しけり」というのが面白い。夕霧は、薫がちょっと残念がっているのを見たいのである。それをみて、それ見たことか、今更悔やんでも遅いぞ、と、ほくそえみたいのだ。それは、夕霧がほんとうは薫を婿にしたかったからで、匂宮はあくまで二番手だったのだ。それなのに、薫に拒否されて、夕霧は腹を立てていたわけだ。だから、あてつけのように、この披露宴に誘って、薫がほぞを噛むのを見たかったのだ。
▼ますます好感度の下がる夕霧である。女は嫉妬深くて、また意地が悪いなどという人がいるが、男もどうしてどうして、女に輪を掛けて嫉妬深く、意地の悪い動物である。
▼ということは、人間というものは、まったく度しがたい動物だということになる。この度しがたい動物の心の現実を、これでもかと見せつける物語を読むことに、いったいどういう意味が、そして喜びがあるのだろうか。
▼それは、たぶん、そういう心の現実を、他者のものとして見る(読む)ことで、ああ、オレだけじゃなかったんだと、認識できるからではなかろうか。そして、これからは気をつけようとか、そうかオレはこんなに卑しいヤツだったんだとか、いろいろ思って自己改造に努めたり(たとえ無駄だったとしても)、あるいは、もっと、大事なことは、そういう度しがたい動物に現実の生活で接したときに、あ、これがあれかあ、と距離を置いて、多少とも「理解」できるようになるということだ。
▼これを簡単にいえば、「人間に対する理解が深まる」ということだ。それ以外に、物語を読む意味や喜びなどない。
▼などと勝手なことを言っているあいだに、この「源氏物語を読む」も、300回目。まずはめでたいことである。

 

★『源氏物語』を読む〈301〉2018.1.24
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その10)

▼三日目の婚儀の席は、夕霧をはじめ、親族一同から、貴族の連中までが大勢あつまり、盛大な宴会なのだが、その席に、匂宮はなかなか現れない。姫君といちゃついているからだ。おつきの女房に、いいかげんにしてください、皆さまが待っているんですからと催促されてやっとお出ましになる。その姿がまた美しい。それを無礼だといって非難する者もいない。
▼その宴会から帰ってきた薫は、供人が、あ〜あ、うちのダンナはどうしてあの姫様と素直に結婚しなかったのかなあ、まったくうまみのない独り暮らしだよなあ、と呟く。匂宮の供人は、さんざんご馳走になって酔っぱらっていい気持ちになっているのに、薫の供人は、ちっともそういう思いができないわけだ。この呟きを耳にして、薫は「をかし」(おもしろい)と思ったとある。
▼なにが「をかし」なのか、よくわからないが、自分が「おもしろくないヤツ」だということが、我ながら「おかしい」のかもしれない。ほんとに、オレって変なヤツ、ってことだろう。
▼ただ、「変なヤツ」というのが、過剰な卑下ではなくて、どこか、「普通じゃないところが、オレの魅力なのかも」みたいな、それこそ「変な」自信もあるような気がする。
▼薫は、宴席での匂宮の有様を思い出して、アイツも、あんな宴会は、きっと嫌だったろうなあ。なんか、親がここぞと出しゃばって派手に振る舞い、なんだかんだいったって、みんな一族なんだし、そのお追従やら、お世辞やらに、如才なく振る舞っていたのは、まあ、立派だよなあ。アイツを見ていると、もしオレに娘がいたら、やっぱりアイツの嫁にしたいと思うだろうしなあと、匂宮を評価する。
▼その一方で、こんなことも思うのだ。
▼「誰も誰も、宮に奉らんと心ざしたまへるむすめは、なほ源中納言にこそと、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあらぬなめりな、さるは、いとあまり世づかず、古めきたるものを、など、心おごりせらる。」
▼【口語訳】「この宮(匂宮)に娘をさしあげたく願う世間の親の誰も彼もが、しかしやはり源中納言(薫)にこそ縁づけたほうがよいなどとめいめい口癖のように言っているそうだが、してみれば自分の評判も捨てたものではないということなのだろう。それにしてもこの自分はじっさいあまりに世間ばなれした時代おくれの男なのだが」などと、心中いささか得意にならずにはいられない。
▼自分が「時代遅れの男」だという自覚が、どこかで、自尊につながっている。河島英五の「時代遅れの男になりた〜い」なんて歌も、それがかえって「もてる」ことをどこかで意識しているがゆえに、どこか、この薫の心情に似ている。
▼薫は、自分は世俗に興味はないと思っている、というか、思おうとしているのだが、世俗の自分への評価には敏感に反応している。匂宮のようには生きられないし、生きるつもりもないけれど、「オレも捨てたもんじゃない」という意識は濃厚に持っているわけだ。
▼薫は思う。帝が、娘の二の宮を自分にと思っていることを思い出し、それがほんとうのことになったらどうしようか、今のような「興味ないです」で、通せるだろうか。もし、二の宮が、大君に似ていたら、ちょっと考えちゃうなあなどと思ったりして、心中複雑である。
▼そんな薫だが、つれづれの夜には、按察(あぜち)の君とかいう、女三の宮の女房と共寝したりしている。なんだ、ずいぶん「恵まれてる」じゃないか、と嫌味のひとつもいいたくなるよね。

 

★『源氏物語』を読む〈302〉2018.1.26
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その11)

▼匂宮は、ますます新しい妻、六の君に心を奪われていく。もの柔らかで可憐という点では、中の君のほうがややまさるけれど、この六の君は、こんなふうに描かれる。
▼「大きさよきほどなる人の、様体(やうだい)いときよげにて、髪の下り端(ば)、頭(かしら)つきなどぞ、ものよりことにあなめでたと見えたまひける。色あひあまりなるまでにほひて、もののしく気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ごとも足(た)らひて、容貌(かたち)よき人と言はむに飽かぬところなし。二十に一つ二つぞあまりたまへりける。いはけなきほどならねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに盛りの花と見えたまへり。」
▼【口語訳】女君は背格好もほどよいお方で、容姿はほんとに美しく、髪の垂れぐあいや頭つきなどがほかと比べて格別にすぐれていて、なんとみごとなことかとお見えになるのだった。お肌の色がこれほどまでもと思われるくらいにつややかに、重々しく品位のある顔で、目もとがまたいかにも見る人の気恥ずかしくなるくらいに上品で、およそ何もかも備わっているのだから、美貌の人と称するのに非の打ち所がないのである。二十を一つ二つ越えていらっしゃるのだった。もう幼いという年ごろでもないから、未熟で不足なと思われるところもなく、まさに水際立っていて、今が盛りの花とお見えになる。
▼これはまたすごい褒めようだ。こんなに言葉を尽くして褒められる女性も、源氏物語のなかにもそうはいない。
▼そういうわけだから、中の君は、ますます「夜離れ」に苦しむこととなる。
▼こうなることとは分かっていたとはいえ、苦しくてならない中の君は、宇治の里に帰りたいとしみじみ思うのだが、どうにもなるものではない。思いあまって、薫に手紙を出す。これは、ほんとうに珍しことだ。女から男へ手紙を出すということは、当時は、あまりないし、源氏物語にもそうは出てこない。
▼その手紙は、父の法事への薫の心遣いへの感謝を述べたあとに、「さりぬべくは、みづからも。」(もしできますれば、親しくお目にかからせていただいて。)と最後にあった。これも珍しい。女から「会いたい」と言ってきたのだ。
▼薫は、大喜びだ。
▼「例は、これより奉る御返りをだにつつましげに思して、はかばかしくもつづけたまはぬを、『みづから』とさへのたまへるがめづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。」
▼【口語訳】いつもはこちらからさしあげるお手紙のご返事をさえはばかるべきことのようにお思いになり、そうはきはきともお書き続けにはならないのに、「親しくお目にかからせていただいて」とまでおっしゃっているのが、中納言(薫)にはめったにないこととうれしく思われるので、さぞかし胸のときめくお気持になられるにちがいない。
▼薫はさっそく返事を書いて、翌日の夕方に、中の君を訪ねる。この薫の姿がまた美しい。
▼「さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。人知れず思ふ心しそひたれば、あいなく心づかひいたくせられて、なよよかなる御衣(おんぞ)どもを、いとど匂はしそへたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染(ちゃうじぞめ)の扇のもてならしたまへる移り香などさえたとへん方なくめでたし。」
▼【口語訳】さて、翌日の暮れ方に、中納言(薫)は二条院(中の君が住んでいる)へお越しになった。人知れず女君を慕わしく思う気持もあるので、あらずもがなに身づくろいにもたいそう心をくばらずにはいられなくて、なよやかなお召物などにひときわかぐわしく香をたきしめ生来の芳香に加えていらっしゃるのが、あまり仰山と思われるくらいであるのに、さらにいつも所持していらっしゃる丁子染の扇の移り香などまでが、たとえようもなくすばらしい。
▼これは語り手の描写なのだが、薫が、すっかり舞い上がって、気合いをいれてオシャレしているのを皮肉っぽく描いている。
▼まあまあ、薫ったら、オシャレしちゃって。しょうがないわねえ、といったところだろうか。

 

★『源氏物語』を読む〈303〉2018.1.27
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その12)

▼中の君は、あの宇治での一夜のことを思い出すにつけても、薫が、無理やり思いを遂げようなどとは思わない真面目な男だと思うし、それに、いまの匂宮の仕打ちを考えれば、薫と一緒になっていたほうがよかったわと思う気持ちもないでもないから、気をゆるして、いつもより奥の部屋に薫をいれる。もちろん、簾や几帳で隔ててはいるが。
▼中の君は、匂宮の仕打ちに対する愚痴などは口にはできないが、我が身の宿世のつたなさを嘆きつつ、なんとかして宇治につれていってほしいと頼む。
▼そんなことは、私の一存ではできません。匂宮にすっかりお話して、許可が得られれば、お連れいたします、などと薫は言いながら、だんだんと、中の君への思い、匂宮に譲ってしまった悔しさなどがつのってきて、そのまま暗くなるまで、グズグズしていて帰ろうとしない。
▼そのうち、また薫はなんやかやと恨み言を言っているうちに、だんだんと我慢できなくなって、簾の隙間から手を入れて、中の君の袖をとらえる。
▼「女、さりや、あな心憂(こころう)と思ふに、何ごとか言はれん、ものも言はで、いとど引き入りたまへば、それにつきていと馴れ顔に、半(なか)らは内に入りて添ひ臥したまへり。」
▼【口語訳】女君は、「やっぱりこういうことだったか、ああいやな」と思うと、何を言えようか、ものも言わずにいよいよ奥のほうへ身をお退きになるので、中納言はそれにつき従っていかにも物慣れた様子で、半身は御簾の内に入って女君に寄り添い横におなりになる。
▼ずいぶん中途半端な「添い寝」だね。そこまで入ったのなら、もうちょっとじゃないか。なんで体ごと部屋に入ってしまわないのだろう。不思議な男だ。
▼そんな格好のままで、また何やかやと恨み言(「恨み言」というのは、要するに口説き文句だ。アナタが冷たいから、悲しい、というような形をとるので、「恨み言」となる。)を言いながら、結局は、例によって例のごとく、女が納得しないのに無理やり思いを遂げるのはいかがなものかといった理由で、「何にもない夜」になる。
▼このパターンは、もう飽きるほど出てきて、その薫の「ぶれない」態度には感心するけれど、あまりに「ぶれなさすぎる」態度には、呆れてしまう。
▼「まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、見咎むる人もやあらんとわづらはしきも、女の御ためのいとほしきぞかし。なやましげに聞きわたる御心地はことわりなりけり、いと恥づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな、例のをこがましの心や、と思へど、情なからむことはなほいと本意(ほい)なかるべし、……」
▼【口語訳】まだ宵の口と思っていたけれど、いつか明け方近くになってしまったので、誰かに見咎められはせぬかなどとはばかられるのも、女君の御ためにお気の毒と気づかわれるからである。中納言は、「近ごろご気分がすぐれないとうかがっていたが、なるほどもっともなことではあった。じっさい恥ずかしそうにしていらっしゃったご懐妊のしるしの帯のことがおいたわしく思わずにはいられなくて、ほとんどそのために自分は思いとどまってしまったのだ。いつもながら愚かしい心よ」と思うけれど、「思いやりなく無理押しをするのは、自分としてもやはりまったく不本意というものだろう、……
▼今回はどうも、薫の手が、腹帯に触れたらしい。それで、薫は、はっとして、それ以上なにもできなかったということのようだ。しかし、そういう自分を、薫は、「例のをこがましの心や」と自嘲する。
▼家に帰っても、薫は、ますます中の君への思いが募るばかり。匂宮がこのまま中の君を捨ててしまえば、中の君はオレを頼ってくるかもしれない。その時は、おおっぴらには会えないまでも、「人目を忍ぶ仲」としてはこの人以上の人はいるまい、などと考えるのだ。
▼そういう薫の考えを語り手は、「けしからぬ心なりや」とキッパリ切って捨てて、さらに、薫を痛烈に批判する。
▼「さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。亡き人の御悲しさは言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではなかりけり。これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。「今日は宮渡らせたまひぬ。」など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶれていとうらやましくおぼゆ。
▼【口語訳】あれほど思慮深く分別ありげにふるまっていらっしゃっても、やはり男の心というものは情けないものではある。亡きお方(大君)を恋いしのぶお悲しみはいまさら言ってもかいのないことで、まったくこれほどまで苦しいものではなかった。それが今度の件では、あれやこれやさまざまに思いわずらっていらっしゃるのだった。「今日は宮が二条院(中の君がいる)においであそばしました」などと人が言うのを耳にするにつけても、後見としての気持はどこへやら失せて、胸のつぶれる思いで、まったくうらやましく思わずにはいらっしゃれない。
▼「男といふものの心憂かりけることよ」とは、紫式部の本音だろう。
▼坊主めいた、悟ったようなことを言っておきながら、このザマはなんだ。キミは中の君の後見人ではなかったのか。それをすっかり忘れて舞い上がり、匂宮が「うらやましい」だと? キミは、大君を愛したんじゃなかったのか? 大君はあの世で泣いてるぞ。いい加減にしろよ、薫! って紫式部は、叫んでいるのかもしれないね。

 

★『源氏物語』を読む〈304〉2018.1.28
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その13)

▼男というのものがどうしようもないものだと思うにつけ、中の君は、姉の選択の正しさを痛感するのだが、そうかといって、今更姉のような結婚拒否の姿勢をとるわけにもいかない。今の自分の立場をどのように考え、どのように生きていけばいいかを冷静に考えるのだ。
▼薫は、真面目で親切な人だとばっかり思っていたのに、やっぱり男であることに変わりはなかった。あんなイヤラシイ振る舞いに及ぶなんて、がっかりだわ、もう当てにはできない、そう思うと、ますます自分の置かれた立場の危うさが明らかになる。
▼結婚といっても、主導権は完全に男にあり、男が別の女に心を移して、自分のところに来なくなれば、それっきりだ。あとは、生活の保障になにもあったものではない。そればかりか、世間は、男に捨てられた女として、容赦なく笑いものにする。
▼それが嫌なら、なんとかして、男を独占しないまでも、自分につなぎとめておかねばならない。過酷な現実である。
▼匂宮は、やっと、中の君の元にやってくる。中の君は思うのだ。
▼「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も疎(うと)ましき心そひたまへりけり、と見たまふに、世の中いとところせく思ひなられて、なほいとうき身なりけりと、ただ、消えせぬほどはあるにまかせておいらかならんと思ひはてて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしたまへれば、いとどあはれに、うれしく思されて、日ごろの怠りなど限りなくのたまふ。」
▼【口語訳】女君も、「なんの。宮によそよそしいそぶりをお見せすることはすまい。宇治の山里へと思いたつにしても、頼りとする人であるあのお方(薫)も、厭わしいお心がおありだったのだ」とお分りになると、じっさい世の中に身の置き所もない気持になられて、やはり自分は運のつたない身だったのだとあきらめるほかなく、せめてこの世に生きている間は、ただなりゆきにまかせて穏やかに過していくことにしよう、と心を決めて、いかにもいじらしく素直にふるまっておられるので、宮(匂宮)はひとしお女君がいとおしく、またうれしくお思いになって、長らくのご無沙汰の申しわけなどを際限もなく仰せられる。
▼「あるにまかせておいらかならん」──これが中の君の知恵だった。大君の頑なさに比べると、きわめて柔軟な態度だ。ここでヒステリーなんか起こして騒ぎ立てたりすれば、男の心は離れていくに決まっている。「おいらかなり」(穏やかだ)という心根は、貴重だ。
▼匂宮も、そうした中の君を、かわいく思って、君をこれからもずっと愛していくよと言葉を尽くすのだが、それを聞く中の君は、「かくのみ言(こと)よきわざにやあらむ」(男というものは、みなこんなふうに口が上手なのだろうか)と、薫のことも思い出されて、この匂宮の言葉も信用できるのかしらと懐疑的にならざるをえない。
▼しかし、あの薫がちっとも頼りにならず、あんなイヤラシイ気持ちを持っているのだとすると、もし、この匂宮が通ってこなくなったら、こんどは薫が言い寄ってくるに違いない、それも嫌だわと思うから、今までよりも、匂宮に近づいて甘えた態度をとる。中の君もなかなかしたたかである。
▼匂宮も、この中の君の態度に喜んで、中の君を腕に抱くと、なんとあの薫の匂いがするではないか。薫の匂いは、誰のものとも違うから、薫と何かあったことは間違いない。
▼匂宮は、すべて自分基準で考えるから、こんなに薫の匂いが中の君に染みついている以上、肉体関係があったはずだと思う。それで、中の君を問い詰める。
▼実は、中の君は、こんなことになってはいけないと、着物もちゃんと着替えていたのだ。それにも関わらず、薫の匂いは染みついている。違います、薫さまの匂いじゃありません、なんて弁解はするべくないから、中の君は黙っているしかない。
▼まったく君はなんてことをするんだ。そんなにオレが長く通ってこなかったというのかい? こんなにアイツの匂いが染みついているのだから、何もかもアイツに許したんだなと、すごい剣幕。
▼中の君はただただ泣いているばかりだが、その姿がとてもカワイイので、匂宮も、これだからアイツもこれに惹かれちゃうんだよなあ、と思って、涙を流す。
▼しかし、ことを荒立てて、いつまでも責めている気にもなれず、中の君のご機嫌をとりはじめる。匂宮は、薫と違って、軽薄だけど、どこかキッパリしていて、男らしい、のかもしれない。
▼「ただただ泣く」というのは、女の武器なのかもしれない。男は女に泣かれると弱いからなあ。

 

★『源氏物語』を読む〈305〉2018.1.29
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その14)

▼中の君と薫との仲を疑う匂宮は、こんどは、二条院からなかなか出ていかない。何とかして証拠を見つけようとして、部屋を探したりする。
▼薫からの手紙なんかが、無造作に置いてあるのを見ても、ごく普通の手紙で、恋文らしきものはない。それもそのはず、薫の手紙は、いつも陸奥紙などに書いた事務的な感じのもので、恋文っぽくないし、歌も恨みは述べているけれど、そんなに深入りした歌ではない。
▼おかしいなあ、そんなはずはないだんけどなあと思って、厨子や唐櫃などの家具もそれとなく探すけれど、ない。
▼中の君の部屋は、きらびやかに飾り立てた六の君の部屋と比べるとずっと地味だけど、親しみやすく決して見劣りすることはない。中の君自身も、ちょっとふっくらしていたのが、最近少し痩せたのが、ますます可愛らしいし、薫の匂いが染みつく以前から、匂宮は中の君がかわいくてならなかったのだから、よけいに気がもめるのだ。
▼こんなにかわいい女のそばに、兄弟でもない男(つまり薫)がしょっちゅうつきまとって親しく話なんかしていたら、そのままで済むはずがないと匂宮は、自分の性分にかんがみて思うのだ。
▼中の君だって、薫の魅力に何も感じないわけはない。言い寄られたら、そうむげに断ることなんかできないだろう。なんか、お似合いの二人だから、きっといい関係になっているに違いないんだ、ちくしょう! なんて思うものだから、次の日も、二条院にとどまる。
▼匂宮がなかなか二条院から出ていかないのをみて、薫は気がもめるけれど、いやいやこれはオレのけしからん心だ、と反省し、むしろ、中の君への匂宮の執心を嬉しく思うのだ。
▼それしても、どうも、中の君や、その女房、召使いの女たちが着ているものがみすぼらしいと感じた薫は、母女三の宮のところに行って、何か、いい着物であまってるのありませんか、中の君にあげたいんですけど、なんて頼みこみ、彼女らの身の回りに細々とした配慮を欠かさない。
▼匂宮だって、贈り物をせっせとするけれど、薫のように下々の女たちにまで細やかな配慮はとてもできない。それは匂宮が、生まれてから今に至るまで、何不自由なく、蝶よ花よと育てられたお坊ちゃんだからで、金のない生活がどんなに辛くわびしいものか、まるで想像できないから無理もないのだ、とちゃんと書かれている。
▼匂宮は、「艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきとおぼしたるほど」(風流きどりでぞくぞくと心に沁む思いに身をやつし、花に置く露の美しさをめでて一生は送るものだと思っている人間)だとされる。それにしては、中の君への彼なりの心配りも、お付きの女房たちからみれば「柄にもない。そこまでしなくてもいいんじゃないの。」と乳母に陰口たたかれるていのものだったというのだ。
▼薫だって、出生の秘密への苦悩はあるものの、別に金に苦労したわけじゃなく、大事に育てられたという点では匂宮と同じなのに、どうしてこんなに細かい心遣いができるのかというと、ずっと前から宇治の八の宮のもとに通っていて、その生活の困窮ぶりをつぶさに見てきたからなのだ。薫の目は、八の宮や、その娘だけではなく、その家来の男などもしっかり捉え、彼らの生活の苦しさをきちんと見ていたのだ。そこから薫の心の「深さ」は生まれた。そういう点、薫はえらいね。
▼金持ちとはいえなくても、まあ、金に困らない家に生まれ、自分も成績優秀で、いい大学に入って出世なんかすると、「貧しい者」の気持ちなど生涯分からないといった人間ができあがるものだ。今の世の中なんて、だいたいそんな人間が動かしている。そしてそんな人間に限って、世の中金だけじゃないなんてうそぶくのだ。
▼源氏物語は、平安時代のほんの一握りの貴族の「いい気な日々」を描いているわけだが、それでも、今の金持ちたちの「いい気な日々」に比べれば、数段上等のように思える。まあ、今の金持ちたちの実態をぼくはまったく知らないのだから、そんなことは勝手な憶測にすぎないわけだけどね。

 

★『源氏物語』を読む〈306〉2018.1.30
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その15)

▼「かくて、なほ、いかでうしろやすくおとなしき人にてやみなんと思ふにも従はず、心にかかりて苦しければ、御文などを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたる気色(けしき)見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきことにそひにたる身と思し嘆かる。ひとへに知らぬ人ならば、あなものぐるほしとはしたなめさし放たんにもやすかるべきを、昔よりさまことなる頼もし人にならひ来て、今さらに仲あしくならむも、なかなか人目あやしかるべし、さすがに、あさはかにもあらぬ御心ばへありさまのあはれを知らぬにはあらず、さりとて、心かはし顔にあひしらはんも、いとつつましく、いかがはすべからむ、とよろづに思ひ乱れたまふ。」
▼【口語訳】こんなふうにして中納言(薫)は、やはりどうぞして女君のために安心のいくしっかりした後見として終始しようと思うものの、そうもならず、忘れられようもなく苦しいので、お手紙などを以前にもまして懇ろに書いて、ともすれば抑えかねる気持をあらわにお訴え申されるのを、女君は、ほんとにつらいことが重なってくるわが身と嘆かずにはいらっしゃれない。「これがまったく知らない相手だったら、なんと非常識なと突き放すこともたやすかろうけれど、昔から特別に頼りになる人として親しんできたものを、いまさら仲違いをするというのも、かえって人目にあやしまれることだろう。なんといっても浅からぬお心づかいやもてなしのありがたさが分らないのではないが、それかといってお互いに思いを通わし合うかのようにお相手するのもまことにはばかられることだし、どうしたらよいものか」と、あれこれ思案に迷っていらっしゃる。
▼ここには、薫と中の君の気持ちが、実に分かりやすく書かれている。
▼薫は、ほんとうは、中の君のしっかりとした後見人として、役目を果たしたい。それが亡き大君の願いでもあったからだ。中の君は、昔から薫を頼りにしてきたので、薫が変な気さえ起こさなければ、これからも頼りにしたいのだが、どうも、薫は気持ちを抑えきれないようだ。それがうっとうしい。でも、今さら仲違いしたとなると、かえって周囲の者から変に思われるかもしれない。二人の間に、男女の関係があったからこそ「仲違い」したのだと周囲は憶測するに違いないからだ。それで、中の君は、ほんとに困ってしまっている。
▼側仕えの女房たちも、愚痴を言うにも、若い者は新参の女房で話し相手にならないし、かといって、年増の女房たちは宇治から連れてきた古株ばかりで、こんな連中が自分の気持ちを分かってくれるとも思えない。思いはついつい亡き大君へと向かうのだ。
▼また薫がやってきた。体の具合が悪いので、とてもお相手できませんと言っても、薫は、いったい悪阻っていつもいつもそんなに具合が悪いものなのか、ものを知った女房に聞いたら、気持ちの悪いときもあるけど、いいときだってあるって話でしたよ。そんなにいつも具合が悪いなんていうのは、あなたの我慢が足りないんじゃないですか。具合が悪いときは、僧侶などがお側についているでしょうから、私も彼らと一緒にお側においていただけませんか、などと言って、とうとう、また御簾の内に入って、口説きはじめる。
▼中の君は、また始まったと思うから、今度は、あんまり露骨なことをさせまいと、わざと少将という女房をそばに呼んで、胸が苦しいからおさえておくれと頼む。
▼胸なんかおさえたら、かえって苦しくなるじゃありませんかと薫が言うと、私の具合が悪いのは、なにも悪阻だけのことじゃないんです。この胸の苦しさは、お姉様と同じで、私もきっと長生きできないんでしょう、なんていうので、薫は切ない気持ちになる。
▼「げに、誰も千年の松ならぬ世をと思ふには、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かんもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選(え)りとどむれ、昔より思ひ聞こえしさまなどを、かの御耳ひとつには心得させながら、人はまたかはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなしたまふを、げにありがたき御心ばへにもと聞きゐたりけり。」
▼【口語訳】中納言(薫)は、いかにも人間は誰しも千年の松のように長生きはできないものなのだと思うにつけて、女君(中の君)がほんとにいたわしくせつなく思われるので、近くにお呼びになったこの女房がなんと聞くだろうかなどと気がねしてもいられず、聞かれて困るようなことはさし控えるものの、以前からお慕い申していた気持などを、女君のお耳にだけはそれと分らせながら、ほかの者には変に聞えぬよう体裁よく上手にお話しになるのを、いかにも世にまれなお心づかいよと、女房は聞いているのであった。
▼この部分を読むと、薫という人間の繊細さがよく分かる。女房のいるところで、自分の気持ちを伝えるテクニックは相当なもののはずで、並の男にはできないことだろう。もちろん、女房にしてみれば、薫の気持ちは手に取るように分かってしまうのだが、おそらくは古女房の少将は、たとえわかったにせよ、そういう心遣いをしながら語る薫に、「げにありがたきお心ばへ」と感じ入るのだ。
▼次第に、中の君の気持ちも穏やかになっていき、話題は、大君のこととなる。薫は、宇治にお寺のようなものを造営して、そこに絵師に書かせた大君の「人形(ひとがた)」(肖像画)を安置してお勤めをしたいものですと言うと、人形なんて、川に流されるものですから姉さんがかわいそう。それに、絵師がどんなに高額な金をふっかけてくるかもしれませんわ、なんて、冗談まで言う中の君。あれやこれやと大君を偲ぶ薫に、中の君も心を許し
▼「とざまかうざまに忘れん方なきよしを、嘆きたまふ気色の心深げなるもいとほしくて、いますこし近くすべり寄りて」【口語訳】あれこれにつけて亡き姫宮(大君)を忘れようすべもない旨をお訴えになる中納言(薫)のご様子が、いかにも情け深いお方に見えるのもいとおしくて、女君(中の君)もいま少し近くににじり寄って、
▼人形のお話で、ちょっと思い出したことがあるんですと、珍しく、自分から話を持ち出したのだ。
▼薫は、そんな中の君の態度が嬉しくて、え? いったい何なの? って聞きながら、几帳の端から中の君の手をつかむものだから、中の君は困ったものだと思うけれど、側にいる女房には気取られないように何食わぬ顔をして、ある話をする。そこで語られたのは、薫の思ってもいなかった、そして読者もまったく予想すらしなかった事実であった。

 

★『源氏物語』を読む〈307〉2018.1.31
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その16)

▼長いこと知らなかったのですが、実は、この夏ごろに、連絡があった者がおりましてね、と中の君を語りはじめる。
▼遠回しにしか言わないが、その口ぶりから、中の君には異母妹がいて、最近連絡があったということなのだということを薫は察する。
▼夏に連絡があったときには、まあ、他人あつかいするわけにいかず、かといって、急に親しくするのもどうかと思っていたのですが、先日、こちらにやってきたのを見たら、お姉様とそっくりなんです。あなたは、私がお姉様と似ているからといって私を形見と思っていらっしゃるようですけど、みんな私がお姉様に似ているなんて言っていませんよ。それより、あの妹は、そんなに似るはずもない人なのに、どうしてあんなにそっくりだったのかしら。
▼この話を、薫は「夢語りかとまで聞く」(夢物語ではないかとまで思う)。「夢語り」というのは、自分の見た夢を人に語ること。薫は、とてもこれが現実の話とは思えないのだ。薫の感動が伝わる。
▼どうして今まで黙っていたのかと問い詰める薫に、私たち二人の娘のことで背一杯だった父上の苦労のことを考えますと、そのうえ、別腹に生まれた娘の零落のことが世間に知れたら、父上もあの世でさぞ悔しいだろうと思いまして、と、答える中の君。
▼八の宮には、どこかに別の女がいて、その女に生ませた娘がいたのだ、と薫ははっきりと知る。
▼「似たりとのたまふゆかりに耳とまりて」(薫は、亡き姫宮に似ていると女君がおっしゃるそのゆかりに心がひかれて)、薫は、そこまで言ったなら、その先も全部聞かせてほしいとせかす。
▼この「ゆかり」は、「血のつながり」を言う。源氏が母に似ているという理由で恋い慕った義母の藤壺女御からその姪の紫の上へとつながる血筋、それを「紫のゆかり」という。源氏物語の「芯」である。
▼その「ゆかり」をめぐる物語が、ここでまた新たに生まれようとしているのだ。
▼その先を聞かせてくれとの薫に、その妹の母親の身分が低いこともはばかられて、あまり細かくはかたらない。それに、あんまりお話して、実際にあって「心劣り」(がっかり)することがあってもいけませんし、と言葉を濁す。
▼大君の魂なら、海山を越えて探しにいくけれど(例の「長恨歌」を踏まえている)、それでも、似ているなら、なんとしても探しだして、宇治の寺の本尊に据えたっていい、つまり、彼女を愛人にしたい、と薫はいつになく勢い込む。
▼こんなことをお話するのも、口が軽いことですが、あなたが、人形まで作らせようなどとおっしゃるのがおかわいそうで、お話しするのです。何でも、遠いところで育ったのですが、その母親が、田舎育ちの娘をなんとかしたいというので、私を訪ねてきたのです。ちょっと見ただけですから、よくは分かりませんけど、田舎育ちにしては、想像していたより素敵でしたよ。これからどうして暮らしていったらよいかと悩んでいるようでした。でも、あなたの「仏」になさる(愛人にする)のは、どうかと思いますけどね。
▼薫は、そんな中の君の言葉を聞きながら、ああ、この人は、オレがあんまりしつこいから、この妹やらに興味を持たせて、オレを遠ざけたいと思っているんだなと思うものの、それはまた、オレのことを可愛そうだと思っている証拠でもあり、それはそれで嬉しいことだと思う。
▼相変わらず、中の君への未練は残るけれど、一方でその妹にも興味をひかれる。身分の低い女だから、こちらから申し込めば、結婚することは簡単かもしれないが、そっちの気持ちの問題もあるしなあと、ここは相変わらず薫の「相手の気持ち中心主義」である。
▼いうまでもないことだが、ここに初めて登場してきたのが、「浮舟」という女性である。宇治十帖の主人公といってもいいだろう。それほど重要な人物なのに、大学時代の読書のときは、不思議なくらい印象に残らなかった。今回の再読で、ああ、浮舟登場の必然性は、こういうところにあったんだと初めて知るような感覚だった。
▼思えば、ここまでの、嫌になるくらいの長い話、大君、中の君、薫、匂宮を巡る果てしもない心理的な葛藤の話は、この浮舟登場の序曲だったのだ。
▼長い長いトンネルの向こうに、パッと光る希望。それが薫にとっての浮舟だ。けれども、その浮舟によって薫がトンネルから抜け出せたわけではないことをぼくはもう知っている。しかし、その内実をぼくはもうすっかり忘れている。この先が楽しみなゆえんである。

 

★『源氏物語』を読む〈308〉2018.2.1
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その17)

▼薫は久しぶりに宇治を訪れる。荒れ果てた宇治の邸には、尼となった弁の君が薫の援助をうけてつつましく勤行の生活を続けている。
▼「宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。いとどしく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。見るにはまづかきくらし、悲しきことぞ限りなき。弁の君召し出でたれば、障子口に、青鈍(あおにび)の几帳さし出でて参れり。」
▼【口語訳】中納言は、宇治のお邸を久しくごらんにならないでいると、亡き姫宮といっそう縁遠くなる心地がして、わけもなく心細くなるので、九月二十日過ぎごろにお出向きになった。ひとしお風がはげしく吹き払って、心寂しくいかにも荒々しく波立つ水の音だけが宿守といった風情で、人影もすっかり絶えている。このお邸を見るにつけ、まず心も暗く閉ざされて、果てしない悲しみに誘われるのである。弁の尼をお呼び出しになると、襖口に青鈍色の几帳を立てて御前に参上した。
▼はっきりとはしないが、大君が亡くなって2年後のようである。
▼こうして訪問のシーンは、源氏物語では、いつも名文だ。特に、亡くなった人の住んでいた所への訪問には、実にしみじみとした筆遣いをする。もちろん、ここで思い出されるのは、「桐壺」の巻で、桐壺更衣亡きあと、源氏の使いの靫負命婦(ゆげひのみゃうぶ)が、更衣の母の住む邸を訪れるシーンで、あそこは、なんど読んでも感動する。
▼あそこでは、桐壺更衣の母と靫負命婦との連綿たる会話が心の底にまで染み渡る。ここでも、薫と弁の君との会話もしみじみとした感慨を伝える。
▼それにしても、宇治を訪れるたびに「水の音」が「心すごく」響くのは印象的だ。源氏物語は、聴覚に訴える描写が非常にすぐれている。
▼弁の君との話は、大君の思い出から、中の君の身の上、そして、薫の父柏木にまで及ぶ。誰にも言えない秘密のことだが、ここには、薫と弁の君しかいないので、心ゆくまで話せるのだ。
▼「いまはとなりたまひしほどに、めづらしくおはしまるらん御ありさまをいぶかしきものに思ひきこえさせたまふめりし御気色など思ひたまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見えたてまつりはべるなん、かの御世に睦ましく仕うまつりおきししるしのおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる。」
▼【口語訳】(柏木が)いよいよご臨終近くなられたときに、あなた様のお生れあそばしたばかりのお姿をお見あげになりたくお思い申しておられたらしいご様子などが思い出されますにつけても、このような思いもかけぬ年寄になりましてこうしてお目にかかれますのは、殿のご生前に親しくお仕え申しあげた験がたまたま現れたことと、うれしくも、また悲しくも存じあげずにはいられません。
▼思えば弁の君も、長生きして、さまざまな人生を見てきたのだ。長生きも、いいのだか、悪いのだか、分からないよね。
▼薫は、この邸を壊して、山の上の寺の方に新たに寺をつくりたいと阿闍梨に相談する。弁の君の身の振り方についても、細々とした心遣いをして最後までこの老女の面倒をみるつもりでいるのだ。そういうところは源氏に似ている。血はつながっていないのだが。
▼そうして様々な話の中で、薫は浮舟(まだこの名前で呼ばれていない)のことを弁の君に聞く。本当はこれが薫のいちばんの目的だったのだろうけど。
▼弁の君が語るところによれば、浮舟の母は、中将の君といって、八の宮の北の方の姪にあたる方であるとのこと。それならば卑しい身分ではない。その中将の君と、八の宮は懇ろになったのだが、子どもが出来たと聞いて、あれ、オレの子だなと思った八の宮は、急に中将の君を遠ざけ、その子どもも見ようともしなかった。そして、すっかり反省したのか、それ以後はひたすら仏道に励むようになったというのだ。八の宮の「浮気」が、北の方にバレて、こっぴどく叱られたとか、そんなことは弁の君はまったく語らないのだが、きっとそんなことでもあったのだろう。そうでもないと、この話の展開はよく分からない。
▼いずれにしても、浮舟は、間違いなく大君、中の君の腹違いの妹であることがこれで分かったのだ。しかも、かわいそうなことに、父親からは認められず、母について、各地を転々としてきたらしい。母中将の君は、陸奥守(後に常陸守)の妻となったのだという。浮舟は、二十歳ほどだという。
▼薫は、そんな血筋の人で、しかも大君に似ているとなれば、何とかして会ってみたいから、もし会うことがあったら、そんな自分の気持ちを伝えてほしいと頼む。弁の君も快く承諾した。
▼薫は宇治を出る。「別れ」のシーンも印象深い。
▼「明けぬれば帰りたまはんとて、昨夜(よべ)後れて持てまゐれる絹、綿などやのもの、阿闍梨に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ばら、尼君、下衆(げす)どもの料にとて、布などいふ物をさへ召して賜(た)ぶ。心細き住まひなれど、かかる御とぶらひたゆまざりければ、身のほどにはいとめやすく、しめやかになん行ひける。木枯のたへがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を踏み分けける跡も見えぬを見わたして、とみにもえ出でたまはず。いとけしきある深山木(みやまぎ)にやどりたる蔦(つた)の色ぞまだ残りたる。
▼【口語訳】夜が明けてしまったので、中納言(薫)は京へお帰りになろうとして、昨夜あとから届けてきた絹、綿などといったものを阿闍梨にお贈りになる。尼君にもお与えになる。法師たちや尼君の召使たちの料としても、布などといったものまで取り寄せてお与えになる。心細い山里住いであるけれど、このようなお見舞が絶えなかったので、この尼君も身分のわりにはほんとに見苦しくなく、心静かに仏前のお勤行に励んでいたのだった。木枯しが堪えがたいまでに吹き抜けていくので、梢に残る木の葉もなく、みな地上に散り敷いている紅葉を踏み分けて出入りする足跡もないのを見渡して、中納言はすぐにはお立ち出でになるお気持にもなれない。まことに風情のある深山木に宿っている蔦の葉の色がまだ褪せずに残っている。
▼その蔦をとらせて、都への土産にする。そして薫が歌を詠む。
▼「やどり木と思ひいでずは木(こ)のもとの旅寝もいかにさびしからまし」(昔宿ったことがあるという懐かしい思い出がないのだったら、この深山木の下の旅寝もどんなにか寂しいものとなっただろう。)
▼弁の君が返す。「荒れはつる朽木(くちき)のもとをやどり木と思ひおきけるほどの悲しさ」(荒れはてた朽木のような尼の住いを、昔の宿と覚えてくださっているお心のほども悲しゅうございます。)
▼ここから巻名が「宿木」となったわけだが、この歌からも分かるとおり、「宿木」は「蔦」のことだ。

 

★『源氏物語』を読む〈309〉2018.2.2
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その18)

▼薫が二条院にいる中の君に紅葉した蔦を贈ったところ、ちょうど、匂宮が来ているところだった。こういう時って、ちょっと困るよね。
▼敏感な匂宮は、おやおや薫からの手紙が来たぞって興味津々。もちろん、蔦には手紙が添えてあるから、中の君は、また変なことが書いてあったらメンドクサイなあと思うのだが、そうかといって手紙を隠すこともできない。匂宮は、「きれいな蔦だねえ」とニヤニヤ笑いながら、手紙を取り寄せて読んでしまう。
▼けれども、そこには、宇治の邸を寺に改築する件が事務的に書かれているだけだ。匂宮は、よくまあこんなにそっけなく書けたものだねえ、きっと、ぼくがこっちへ来ていると知ってたんだね、と嫌味タラタラ。中の君も、そうかもしれない、って思いつつも、こんなふうに嫌味を言うのもヒドイと、すねるのをみて、匂宮は、なんかこういう姿って全部の罪を許せるほどかわいいなあ、しかし、だからまた薫もほっとけないんだよなあと、やっぱり、薫と中の君の仲を疑うのだった。
▼さあ、返事を書きなさい、ぼくは見ないから、と、匂宮が意地悪く言って向こうを向いている。書きたくないけど、書かないのも、かえって変だから、中の君は事務的な返事を書く。見ないと言っておきながら、その返事を読んだらしい匂宮は、そうか、こんなあっさりした関係なのかもしれないなと思いつつ、自分の性分に照らし合わせて考えると、「何にもない」なんて思えないから、やっぱり、気持ちは穏やかじゃない。
▼こうした、ちょっとした男女の心理の葛藤は、今でも、ごく当たり前に起きることで、それだけにリアルに感じられる。千年も前の話とはとうてい思えないほどだ。
▼考えてみれば、人間の心のありようなどというものは、千年たとうが、二千年たとうが、変わることなどはないのだ。変わっていくのは、人間をとりまく環境だけだ。自然環境だけではない、テクノロジーも一種の環境だ。
▼携帯電話が普及しはじめて、まだ30年もたっていないが、コミュニケーションの方法は劇的に変わった。けれども、そのツールにのっかる人間の心は何も変わっていないのだ。
▼妻と一緒に過ごしているところに、愛人からメールが入る、という場面を想定してみれば、ここに描かれたのと寸分違わぬ心理的光景が広がることは間違いないよね。
▼そんな心理的な葛藤はあるが、中の君と匂宮は、おおむね穏やかな時間を過ごす。薫との仲に疑いをもたざるをえない匂宮は、かえって中の君への思いが募るのだ。
▼匂宮は、珍しく、琵琶を持ち出して弾く。中の君もうっとりして聞いていると、こんな浅はかな末世に、琵琶なんてどうも弾く気がしないなあとやめてしまう。中の君は、心浅いこの時代でも、昔の名人から伝わる琵琶の演奏は、ちっとも劣ることはないんじゃないかしら、と言う。それなら、オマエも合奏してくれ、と、匂宮は箏の事を取り寄せて、中の君に弾かせようとする。中の君は、照れながらも、爪弾くといった趣で、なかなかいい感じだ。
▼そんな二人を見て、昔からの女房は、匂宮様に二心あるのは残念なことだけど、まあ、それはそれでしかたのないこと。中の君様は、運がいいのよ。あんな山里から拾われてこんな立派な奥方様になれたんだからね。それなのに、またあの山里に帰りたいなんて、ほんと嫌になっちゃう、なんて、ずけずけ言うものだから、若い女房は、さすがに腹をたてて、「お黙りなさい」と制したのだった。
▼話の句読点のように登場する辛口の古女房。これが、物語を、引き締めている。

 

★『源氏物語』を読む〈310〉2018.2.3
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その19)

▼匂宮は、中の君に琴など教えたりして、3、4日二条院に籠もってしまって、六条院に帰らない。それを気にした舅の夕霧が、息子達をゾロゾロしたがえてわざわざ迎えにやってくる。匂宮は、何もそんな大げさに迎えにくることもないのにと面白くないけれど、夕霧はさっさと匂宮を連れて行ってしまう。
▼これ見よがしにたくさんの人間を引き連れてきた夕霧を見た女房は、あら、素敵な方だわと褒めそやす者もいるけれど、まったくあんなに勢いの盛んな方がわざわざお迎えにくるなんて嫌なことだわ、これじゃ、姫様も気をつけなければと心配する女房もいる。そのうち、六の君に負けてしまうのではないかというのである。
▼中の君も、あちらにはかないっこないから、やっぱり宇治に戻ったほうがいいのかしらなどと悩んでいるうちに、年も暮れた。
▼新年の月末、中の君は出産が近づき、明石中宮からもお見舞いがくる。そうなると、今まで中の君を軽んじていた人々も、我も我もとお見舞いにくる。まったく、現金なものだ。
▼一方、薫との結婚の話がある女二の宮(帝の娘)の裳着(女子の成人式)が執り行われる。この儀式のあとに、薫に婿として参内するようにとの帝の思し召しなのだが、薫は相変わらず気乗りがせず、中の君のことばかり思っている。
▼二月の初め、薫は権大納言に昇進し、右大将を兼任する。
▼やがて中の君は男児を出産。匂宮も大喜びなのを見るにつけ、これで中の君も自分ことなどあんまり考えてくれなくなるだろうなあとは思いつつ、それでも、中の君を匂宮と結婚させた手前、これはこれで嬉しいことでもあるのだった。
▼どこまで行っても、複雑な薫だ。
▼2月に20日ほどに、女二の宮の裳着の儀があり、その翌日、薫の婿入りとなった。三日目の夜には盛大な披露宴。
▼その後は、薫は住んでいる三条院から、宮中にいる女二の宮のところに通うのだったが、なんだか、気が進まないし、めんどくさいので、いっそ、三条の宮に迎えようとすると、母も、納得。自分の住んでいた部屋をあけるとまでいう。
▼帝は、そうそうに婿の家に行くのもいかがなものかと心配するが、帝も人間、やはり親としての心配は共通なのですね、と語り手はいう。
▼当時の貴族の結婚は、「妻問ひ婚」といって、男が女の実家に通うという形式をとったが、ずっと通ったわけではなくて、時期がくると、男の家にいって同居するということだったようだ。この場合、男の家に移るのがずいぶん早いことを帝は心配したのだ。やっぱり娘は手元においておかないと心配ということだろうか。
▼昔から、なぜ「妻問ひ婚」という形式があったのか、よく分からなかったが、ここを読んでみて、そうかと勝手に分かった気になった。男が複数の女と関わりをもつのが普通だった当時とはいえ、やっぱり、「二心」あることは結婚を不安定なものにする。結婚したあと、男が女の実家に通ってくるようにすれば、親が監視して、場合によっては、男の「浮気」を阻止できるかもしれない。すぐに男の家に出してしまっては、その監視ができなくなってしまう。そういうことではなかろうか。
▼薫にしても、親が見ているから、いやいやでも女二の宮の元に通うが、それも気が進まない。ということは、薫にとっては、女二の宮にはあまり関心がないのだ。関心のない妻を、引き取るというのは、少しでも一緒にいたいからではなくて、親の監視を逃れたい、ということだろう。帝の心配も分かろうというものである。

 

★『源氏物語』を読む〈311〉2018.2.4
今日は、第49巻「宿木(やどりぎ)」(その20・読了)

▼中の君の子どもが生まれて50日のお祝いがある。当時は、生後50日目に、赤ん坊に餅を含ませる儀式があった。薫も、心を込めてお祝いをする。
▼薫自身も、匂宮のいない時をみはからって、中の君に会いにいく。中の君は、さすがに薫も帝の娘と結婚した身だから、昔のように困ったことは言い出すまいと安心して対面するのだが、薫は、気の進まない結婚なんかしてしまって、世の中というのは、思い通りにならないものです、みたいな愚痴を平気で言う。
▼中の君は、なんてことをおっしゃるんですか、そんなことが人の耳に入ったらどうするのですかといいながらも、薫が、いまだに姉のことを慕っていることを嬉しくも思うのだった。お姉様が生きていらっしゃれば、この方と結婚できたのにと、残念にも思うけれど、しかし一方では、そうなったとしても、今回の帝の娘との結婚も避けられなかっただろうから、結局お姉様は私のような苦しみを味わっただろう。それを思うと、やっぱりお姉様は賢明だったのだと、結論はいつもと同じ。
▼薫が、子どもの顔を見たいと言うと、中の君は、乳母に抱かせて見せる。薫は、その色白でかわいいい姿を見て、もし自分が大君と結婚して、大君がこんな子ども産んだらどんなによかっただろうと思うが、現実に結婚した女二の宮にはやく子どもができてほしいなどとは全然思わないというのも、まったくしょうがないお心だと語り手は言う。
▼4月になり、薫は、女二の宮を、三条院へと移すことにする。その引っ越しの前日、女二の宮が住んでいた藤壺には帝もやってきて、大々的な宴会が催される。そして、その翌日、女二の宮は、三条院へと移り住む。
▼三条院で、何の気兼ねもなく女二の宮と過ごしてみれば、女二の宮も、小柄で気品のある方で、薫もまんざらでもない気がするけれど、やはり、どうしても大君の面影がちらついて、悲しみを拭いきれないのだった。
▼4月20日を過ぎたころ、薫は、久しぶりに宇治を訪れる。建築中の宇治の御堂を見るためだった。すると、そこの見慣れぬ女性用の車がとまっている。
▼「賀茂の祭など騒がしきほど過ぐして、二十日あまりのほどに、例の、宇治へおはしたり。造らせたまふ御堂見たまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ過ぎんがなほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車のことごとしきさまにはあらぬ一つ、荒ましき東男(あづまおとこ)の腰に物負へるあまた具して、下人(しもびと)も数多く頼もしげなるけしきにて、橋より今渡り来る見ゆ。」
▼【口語訳】大将(薫)は、賀茂の祭などで何かと騒がしい時分を過して、二十日過ぎのころに例によって宇治へお越しになった。造らせていらっしゃる御堂をごらんになって、しかるべきあれこれのお指図などなさって、それから例の朽木の尼君(弁の君)のもとを素通りするのもやはり不憫に思われるので、そちらのほうへいらっしゃると、女車のそれほどたいそうな様子でもないのが一両、いかにも粗野な感じの東男の、腰に箙を負うているのを大勢ひきつれて、下人も数多く従え、いかにも裕福そうな有様で今橋を渡ってくるのが見える。
▼これこそ、浮舟の一行だったのだ。
▼薫はまだそれに気付かずに、ずいぶんと田舎くさい連中だなあと思いつつ、邸に入ると、この一行も同じ邸を目指してくる。薫は、あれはいったい誰だと聞くと、その一行の家来がすでに到着していて、ひどい訛の男が、常陸前司殿の姫君が、初瀬詣でのお帰りにお寄りになるのです、と答える。
▼「おいや、聞きし人なり」(おおそうか、話に聞いていたあの人か)と薫はいって、急いで邸の中に身を隠す。
▼なんですぐに身を隠すかというと、隠れて、姫君を覗こうと思ったからだ。自分が来ていることがバレると、姫君が用心してしまって、覗き見ることができなくなってしまう。「覗き」は、源氏物語での重要なシーンである。
▼薫は、姫君の入る部屋を見通せる場所に、衣擦れの音がしないように上着を脱いで陣取って、襖の穴から覗く。
▼これ以下、姫君の様子が、まるで映画を見るかのように、薫の視点で描かれる。
▼「つつましげに下るるを見れば、まづ、頭(かしら)つき様体(やうだい)細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ出でられぬべし。扇をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。車は高く、下るる所はくだりたるを、この人々はやすらかに下りなしつれど、いと苦しげにややみて、ひさしく下りてゐざり入る。濃き袿(うちぎ)に、撫子と思しき細長、若苗色の小袿着たり。四尺の屏風をこの障子にそえて立てたるが上(かみ)より見ゆる穴なれば残るところなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向きてぞ臥しぬる。」
▼【口語訳】その女(浮舟)がいかにも遠慮がちに車から降りるのを見ると、まず頭つきや身のこなしのほっそりとして上品なところは、ほんとに亡き姫宮そっくりというほかはない。扇をかざしてひた隠しにしているので、顔の見えないのがもどかしく、大将は胸をときめかせながらごらんになる。車は高くて、降りる所は低くなっているのを、女房たちはやすやすと降りてしまったのだけれど、当人は、いかにもつらそうに難渋の体で、長いことかかって降り、内にいざり入る。濃い袿に、撫子とおぼしい細長、若苗色の小袿を着ている。四尺の屏風をこの襖に立て添えてあって、穴はその上からのぞける位置にあるのだから、内部がまる見えである。こちらのほうを気にしているらしく、むこうを向いて物に寄り添い横になった。」
▼どうも、浮舟は、長旅で具合が悪いらしい。それにしても、女が車から降りるところの描写は、源氏物語では極めて珍しい。だるそうな浮舟の様子が手に取るように描かれている。
▼薫は、目を凝らして覗き続けていると、弁の君がやってきて、二人は語りはじめる。薫は、その浮舟の美しさに感動する。
▼「あはれなりける人かな、かかりけるものを、今まで尋ねも知らで過ぐしけることよ、これより口惜しからん際(きは)の品ならんゆかりなどにてだに、かばかり通ひきこえたらん人を得てはおろかに思ふまじき心地するに、まして、これは知られたてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけれと見なしたまひては。限りなくあはれにうれしくおぼえたまふ。」
▼【口語訳】「なんともいとしい人よ。こんなにも亡きお方に似ていたものを、今までよくぞ尋ねも知らずに過していたことよ。この人よりもっと身分の低い者であっても、せめてあのお方のゆかりなどでありさえすれば、これだけ似通い申している人を手に入れるのであったら、けっしておろそかに扱うことなどできまいに、なおさらのことこれは、お認めいただけなかったにしても、まちがいなく故宮の御子であったのだ」と、そう思ってごらんになると、かぎりなく胸に迫るものがあってうれしく思わないではいらっしゃれない。
▼ここで、薫の浮舟への思いは決定的になる。前に噂を聞いたときにも、心を惹かれたけれど、今すぐにでも会いに行きたいとは思わなかった。そのうちに、結婚のことやら、中の君の出産やらがあって、浮舟のことは、忘れていたのかもしれない。しかし、この目でしっかりと見た浮舟は、やはり大君にそっくりで、しかも、故八の宮の忘れ形見であることにも確信がもてた。
▼薫は、今すぐにでも浮舟と対面したいと思うのだが、まずは、弁の君に、自分の思いを伝えてほしいと頼む。弁の君も、承諾して、浮舟の部屋に戻っていく、というところでこの「宿木」の巻は終わる。
▼その後、すぐに弁の君が浮舟に薫の気持ちを伝え、そのまますぐに二人が会ったというわけではなさそうだ。いずれにしても、薫のことだから、サクサクとはことは運ばないだろう、ということを予感させる、余韻を残した結末である。




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