「源氏物語」を読む

 

No.46 椎本


【46 椎本】

 

★『源氏物語』を読む〈253〉2017.11.24
今日は、第46巻「椎本」(その1)

▼秋の霧深い宇治の山荘を薫が訪ねて、我が身の出生の秘密を老女から聞いたその翌年、匂宮は、長谷寺参詣を思い立つ。昔からの願立てへの御礼参りだったが、なかなか腰があがらなかった。それが、薫から宇治の姫君のことを聞くに及んで、それなら長谷寺参詣の帰りに、宇治に立ち寄ろうと思ったのである。
▼宇治の八の宮邸の対岸には、夕霧が源氏から引き継いだ広大な邸がある。そこを夕霧が、匂宮の宿泊所として用意する。この邸のモデルは、宇治の平等院だという説もあるらしい。
▼「橋姫」ではちょっとしか出てこなかった匂宮がここで本格的に登場する。
▼薫が宇治を訪ねるときは、いつもお忍びで、「やつし姿」でお供も数人だったのに対して、匂宮が長谷寺参詣となると、もう、殿上人がぞろぞろついていって、宮中には人が残っていないほどだ、なんて書かれている。
▼匂宮は、今上帝と明石の姫君の間に生まれた息子で、帝も后も、この匂宮を将来は春宮にと思って特別に可愛がっているし、源氏の一族、つまりは夕霧の多くの子供たちも、この匂宮を内輪の主人と思ってあがめているのだから、一点のくもりもない、世の信望を一身にあつめる期待の星なのである。だからもう、ちょっと長谷寺へといっただけで、大げさな大行列ができてしまう。
▼薫はその点、世間的には源氏の息子にすぎないわけだから、匂宮に比べれば気軽な身分で、お忍びで宇治へ行くなんてことも簡単にできるわけで、それを匂宮は「いいなあ」と羨んだわけだ。
▼出かけたのは、春二月の二十日あたり。無事に長谷寺参詣を終えた匂宮一行は、宇治の邸に入る。出迎えるつもりだった夕霧は、物忌みがあって来られないとのことに、匂宮は、ちょっと興をそがれるけれど、かえって、その方が気楽でいいやと思う。
▼匂宮は、夕霧が苦手みたい。匂宮は、夕霧にとっては、「腹違いの甥」(そんな言い方はないけど)にあたるわけで、まあ匂宮にとっては夕霧はオジサンというわけだが、なにしろ堅物のオジサンだから、気詰まりなのも当然だ。
▼宇治の邸に着いた匂宮は慣れない長旅で疲れたので、ここにゆっくり滞在しようと思う。まあ、もともとそれが目的だったわけだからね。匂宮は、夕方になって、琴など取り出して弾き始める。
▼「例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、ものの音澄みまさるここちして、かの聖の宮〈八の宮〉にも、たださしわたるほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のことおぼし出でられて、」(いつものことながら、このような人里離れた所では、川音も引立て役となって、楽の音が一段と澄みわたるような感じで、川向うの聖の宮のお邸でも、ほんの棹一さしで渡れる近さであるから、追風に吹き送られてくる音楽をお聞きになると、八の宮は昔のことを思い出さずにはいらっしゃれなくて、)
▼ここでも、楽器の音色が、「水の音」と響き合う。源氏物語には、こうした場面が数多くあり、音楽は自然とともある、ということを実感させる。
▼宇治川を挟んだふたつの邸の対照が見事だ。匂宮一行の華やぎと、八の宮の鬱屈。匂宮の若やいだ思いと、八の宮の懐旧の情。その二つの邸をつなぐ音楽。
▼琴の音とともに、笛の音も聞こえてくる。その笛の音を聞いた八の宮は、昔聞いた源氏の笛の音色を思い出し、その音色も素晴らしかったが、今聞こえてくる音色は、致仕の大臣(かつての頭中将)やその一族──つまりは柏木──の福音色にどこか似ているなあと感じるのだ。
▼この時、笛を吹いていたのが誰かは書いてないのだが、たぶん薫なのだろう。その薫の吹く笛の音色が、柏木や頭中将の音色に似ていると八の宮は感じるわけだが、もちろん、八の宮は薫が柏木の子どもであることを知らない。知らないのに、音色にその血を引いていることを感じとる。八の宮は音楽に造詣が深いのだが、それにしても、この部分はぞくっとするほど、筆が冴えている。


★『源氏物語』を読む〈254〉2017.11.26
今日は、第46巻「椎本」(その2)

▼八の宮の悩みは尽きない。なまじ娘二人が美人なものだから、このまま山奥にひっそりと暮らさせるのはもったいないから、なんとかして、どこか有力な貴族のもとに嫁がせたいと思うのだが、薫はそんな話には乗ってきそうもないし、そうかといって、当世はやりの軽薄な男子はもっての他だ。いったいどうしたものかと悩むのだ。
▼思い悩む八の宮の邸の対岸では、匂宮や薫たちが「春の短夜」を飲みあかしているうちに、あっというまに時が経ち、このまま都に帰りたくはないなあなんて思っている。対照の妙である。苦悩の夜は長く、歓楽の夜は短い。しかし夜は平等にあける。
▼「はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川そひに柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思(おぼ)さる。」(はるか遠くまで一面に霞のかかっている空に、散りそめる桜もあれば、また今咲きはじめる桜もあって、色とりどりに見渡されるなかに、川岸の柳の風になびいて起き臥しする姿が水に映っているさまなど、並々ならぬ風情なので、こうした景色を見慣れていらっしゃらない兵部卿宮〈匂宮〉は、まことに珍しくて立ち去りにくいお気持である。)
▼霞、空、桜、柳、水影、など、まるで絵のような景色。
▼薫は、八の宮を訪ねるチャンスだと思うのだが、自分だけ船にのって行くのも、軽々しいと思ってためらっているところへ、八の宮から手紙が届く。
▼「山風に霞吹きとく声はあれどへだてて見ゆるをちの白波」(山風にのって霞を吹き解く楽の音が聞えてきますが、はるかに遠くの白波が私どもを隔てているように思われます──お訪ねくださらぬのが、恨めしく思われます。」という、お誘いの手紙だ。
▼その手紙を見て、匂宮は、お目当てのところからの手紙なので、よし、その返事はぼくがといって、「をちこちの汀(みぎは)に波はへだつともなほ吹きかよへ宇治の川風」(そちらとこちらと川岸に波が立って、わたしたちの間を隔てておりましょうとも、宇治の川風よ、やはり川を渡って吹きかよってほしいものです──お親しくしていただきたく思います。)
▼ま、今なら、LINEかなんかで、「来ない?」「じゃ、行く。」で済んじゃうわけだが、そうはいかないのだ。しかし、これだけ手続き踏んで会うのもまた楽しいのかも。会ってるときより、会う前のほうが楽しいっていうしね。
▼返事は匂宮が書いたけれども、実際に出かけたのは、薫だ。匂宮は身分がジャマして、軽々しく行動できないからだ。薫が行くとなると、これもただではすまない。若い貴公子たちがぞろぞろついて行く。八の宮の方でも、薫を迎えるために、さまざまな心遣いをするわけで、「じゃ、おいで。」では済まないのだ。
▼盛大に管弦の遊び(合奏)に興じながら、貴公子たちは、予想外に美しい山荘にこころひかれ、こんなところにどんな姫君が住んでいるのだろうと更に興味を深めるのだった。
▼楽しそうな楽の音が、川の向こうから流れてくると、後に残された匂宮も、気もそぞろ。その気持ちはよくわかる。まったく窮屈な身の上だと思いつつ、とても我慢できないから、きれいに咲いた桜の枝に手紙をつけて贈る。
▼手紙を受け取った八の宮の方の古女房は、さあ、すぐにお返事をとせかすのだが、大君は嫌がって書かないから、八の宮は中の君に書かせる。中の君は、大君に比べるとずっと積極的のようだ。大君ときたら、この手のことには冗談でも手を染めようとしないのだ。
▼このあたりで、薫──大君、匂宮──中の君のラインがうっすらと見えてくるね。

 

★『源氏物語』を読む〈255〉2017.11.27
今日は、第46巻「椎本」(その3)

▼「いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたくながめたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌(かたち)など、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しう、かたほにもおはしませば、あたらしう惜しきかたの思ひは薄くやあらまし、など、明け暮れおぼし乱る。姉君二十五、中の君二十三にぞなりまたひける。」(八の宮は、いつと限らず心細いお暮しぶりで、春の日長の所在なさには、ひとしお時を過しかねて物思いに虚けていらっしゃる。しだいにご成人なさる姫君たちのお姿やお顔だちなどが、いよいよすぐれて申し分のないお美しさであるにつけても、かえっていじらしく、もしもこれが不器量でもいらっしゃるのだったら、もったいなく、こうして埋れさせるにしのびないといった思いは浅かろうに、などと明け暮れ胸を痛めておいでになる。姉君は二十五歳、中の君は二十三歳になっていらっしゃるのだった。)
▼前回のところでも、八の宮の、娘がなまじ美人だから云々という思いが語られていた。まあ、分からなくもないが、いっそ不器量だったらよかったというのは、どういうもんだろうか。不器量だったら、それこそ、自分の死後、娘を託す貴公子など余計見つからないことになるはずだ。
▼これだけの美人なのだから、もっとこの子たちはシアワセになってもいいはずだということだという気持ちは分かるけどね。親の気持ちというのは、どこまでも「闇」だ。
▼娘には、自分の理想とするような貴公子ではなくても、とりあえずまあまあといった身分で、真心こめてお世話したいというような男がいれば、付き合いを見て見ぬふりして許してやってもいい、一人でも片づけば、もう一人はその男に面倒みてもらうこともできるだろうから、などと、八の宮は、虫のいいことを考えているのだが、噂を聞いて様子を見にくる男たちはいるけれど(宇治という場所は、交通の要衝で、旅人が多く立ち寄った)、その暮らしぶりのわびしさを知って、思わずバカにするようなことを口にしたりする始末で、もちろん、そんな男たちとは付き合わせない。そんな中でも、匂宮の熱心さは際立っていたのだった。
▼八の宮は、この年、厄年で、自分の死期の近いことを感じている。
▼この秋、中納言となった薫だが、自分の出生の秘密を詳しく知って以来、悲しい思いを抱いて死んでいった父柏木のこころを思うことが多く、父の罪障を少しでも軽くするために、お勤めもしなければと思う一方、秘密を話してくれた弁の君にも感謝の気持ちを忘れず、何かにつけて贈り物をするのだった。
▼七月になって、薫は久しぶりに宇治を訪ねる。七月といえば、もう秋。秋の気配の薄い都から、次第に秋の気配漂う宇治へと入っていく。
▼八の宮は喜んで、重ねて娘を頼むと涙を流していいつのる。月の光の中で、八の宮は、宮中での思い出を語り、帝の御前での名手の琴の演奏よりも、女御、更衣といった方々が、夜も更けたころに、漏れ聞こえてくる、恨みや悲しみを込めて激しく爪弾く琴の音がこそが趣深いものだったなあ、と述懐する。
▼それにしても、女というのは、結局のところ、男の慰みものになってしまうものだから、なんだか頼りないものではあるけれど、人の気をもませる種だね。だからまた女は罪深いというのでしょうな。子どもしても、男の子なら、そんなに将来が気にはならないけれど、女の子というのは、どうしても気にかかってしかたがないものですなあ、と、嘆く。
▼薫は、私は、この世のことは捨てていますから、女のことはよく分かりませんが、音楽への熱意だけは捨てられません。この前聞いた姫君の琴の音が忘れられませんから、どうか、もう一度聞かせてくださいと頼む。
▼八の宮は、この琴がきっかけで、薫と娘たちがもっと親密になってくれればいいという思いから、娘の部屋に入って、娘を説得する。その言葉に従って、姉か妹か分からないが、どちらかが、箏の琴をほのかに掻き鳴らす。ほんとなら、その琴に薫が合わせて合奏すればいいのだが、薫はそんな気になれない。
▼あとはお若い人たちに任せますよといって、八の宮は仏間に去っていく。たぶん、これが、薫が見た八の宮の最後の姿のようだ。
▼帝の息子でありながら、結局、世に忘れられて生きざるを得なかった八の宮は、こころから音楽を愛する人だった。そしてまた、自らの出生の故か、この世に生きる希望を持てない薫にとっても、音楽だけが心のよりどころだったというのは、興味深いことである。

 

★『源氏物語』を読む〈256〉2017.11.28
今日は、第46巻「椎本」(その4)

▼「あとはお若いかたで」と言って、八の宮が仏間に引っ込んでしまったあと、薫は、弁の君を呼んで、残る話を聞く。
▼「入り方の月、隅(くま)なくさし入りて、透影(すきかげ)なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。」(入り方の月は残る隈なく射しこんで、御簾を透いて見える中納言〈薫〉のお姿がなんとも心をそそる風情なので、女房たちばかりか姫君たちも奥の部屋に引っ込んでいらっしゃる。)
▼薫の姿が、月の光の中に浮かびあがり、それがなんとも素敵なので、かえって女房や姫君たちも恥じらって部屋の奥へ引っ込んでしまう、というのだ。
▼薫は、色っぽい物言いをしないので、姫君たちも安心して応対をするのだが、薫は、姫君たちにご執心の匂宮に比べてやっぱり自分は変わっているのかなあと思うのだ。せっかく、八の宮が、「どうぞ」とばかり引っ込んでいったのに、それじゃあと心が高ぶるわけでもないし、かといって、結婚なんてまったく問題外だと思い切っているわけでもない。花や紅葉の風情なんかについて親しく話せる相手としては、姫君たちは申しぶんないから、もし彼女らが他の男と結婚したら残念だろうなあと思うのだ。なんだか、分かりにくい男ではある。
▼そんな感じで何にもない夜を過ごし、夜中に薫は帰っていく。また何かの機会をみつけて来ることにしようと思うのだが、匂宮もまたそう思っている。匂宮はまめに宇治には手紙を出しつづけ、中の君が返事をいつも書いているのだ。
▼そうこうしているうちに、秋も深まり、八の宮はひどく心細い気がして(体調がひどく悪くなってきたのだろう)、山寺に籠もろうとする。
▼この八の宮という人の考えはどうにもよく分からない。いや、分かりやすいのかもしれない。つまりは、我が身の極楽往生が何にもまして優先するのだ。もう、自分は長くないと自覚した八の宮は、とにかく静かなところで念仏を唱えて、自らの死に備えたいのだ。けれども、彼が山寺に行ってしまったら、娘たちはどんなに心細いことだろう。そのことをもちろん親だから考えはする。考えはするけれども、だから娘の側にいてあげようとは思わないのだ。
▼そして娘たちに言うのだ。お前たちを後に残して死んでしまうのはほんとうに辛いけれど、そんな辛さに負けてこの世に執着を残し、その結果としていつまでも成仏できないということでは意味がない。お前たちと一緒に過ごしていたときでさえ、お前たちへの執着を断ち切ろうとしてきたのだから、今は、死んだあとのことをとやかく言ってもはじまらないが、それでも、言っておく。どうか、私やお前たちの母親の顔を潰すような結婚だけはするなよ。甘い言葉につられてこの山里を出て行ってはならぬ。自分たちは人とは違う宿命に生まれたのだと思って、この地で生涯を送りなさい。なに、いったんそう決心してしまえば、人生なんてあっという間に過ぎていくさ。とくに女は、悪い評判がたたないような生き方が一番なのだ。
▼それを聞いて姫君たちは、ただもう呆然。いきなり「私が死んだら」なんてことを言い出して父に、びっくりして、悲しいやら辛いやら、その後どう生きればいいかなんて考えることもできず、ただただ悲嘆にくれる。
▼「心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御からはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げにうらめしかるべき御ありさまになむありける。」(八の宮は、お心のうちでは、この世の執着をお捨てあそばしたのであろうが、朝夕これまで姫君たちをいつもおそばにおおきになっていて、今にわかにお別れになるというのは、無慈悲なお気持からそうなさるのではないにしても、姫君のお心にはいかにも恨めしく思われるにちがいないお仕打ちというものであった。)
▼こう語り手は批判するわけだ。
▼そりゃあアンタはいいでしょうよ、ずっとそう考えてきたんだからさ。でも、娘はどうするの? さんざん自分のそばにおいて可愛がっておきながら、お前たちのために極楽往生できなかったら困るなんてさ。その上、結婚するなですって? 結局死んでまでアンタは自分の名誉を守りたいってことなのね! それじゃあんまりってもんでしょ、っていうわけだ。まことに同感である。


★『源氏物語』を読む〈257〉2017.11.29
今日は、第46巻「椎本」(その5)

▼明日はもう山寺に籠もろうという日、八の宮は、自分のいなくなったあとの娘たちの心細い生活を思って涙を流して念仏を唱える。そして、女房たちを集めて戒める。
▼どうか、私が心配しなくてもいいようにしっかり仕えてくれ。身分の低い気軽な人たちは、こんなふうに落ちぶれて貧しい暮らしになっていくというのはよくあることで、特別に目立つこともないし、他人もまたそれに対してとやかく言うこともない。けれども、私みたいな身分の者は、こんなに落ちぶれてしまうと、せっかくに血筋・家柄に対して面目なくて、ほんとうに見ていられないほどみじめなものなのだ。どんなに貧乏しても、金に目がくらんで、娘たちが安っぽい男のいいなりになるようなことのないようにしてほしい。
▼八の宮の感じるみじめさはよく分かる。なまじ、高貴な家柄に生まれたばかりに、落ちぶれた我が身を宇治に過ごした日々は、庶民が味わうこともない苦しみの連続だったことだろう。それは分かるけれども、それにもまさる苦しみを味わわねばならない娘たちに対してどうしてこうも思いやりがないのだろう。
▼まだ暁に、八の宮は家を出ていく。娘たちには、心細いだろうが、琴でも弾いて気を紛らわせなさい。何ごとも思い通りにはいかないこの世のことを気にしちゃいけないよ、なんて言って去って行く。
▼やっぱり、そりゃないよねえ。これじゃ、何の慰めにもならない。いくら自分が音楽だけが心の頼りだったからといって、娘たちが琴を弾いて暮らしていけるはずもない。世の中は思い通りにはならないものだけど、だからといって「気にするな」といって済ませられるものではない。
▼受験に失敗して浪人が決まった生徒にむかって、人生ってのは思い通りにならないもんだよ、ま、気にするな、なんて言える教師はそうはいない。なんか、ぼくはそれに近いことを言ったような気がするけど。
▼取り残された娘ふたりは、もう悲嘆にくれる。
▼「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし。今行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」など、泣き笑ひみ、たはぶれごともまめごとも、同じ心になぐさめかはして過ぐしたまふ。」(「私たちのどちらか一人がいなかったりしたら、どうして朝夕を過すことができましょう。今のことも、これから先のことも、どうなるやら定めない世の中ですから、もし別れ別れになるようなことでもあったら、どういたしましょう」などと、泣いたり笑ったり、遊び事にもお手仕事にも、仲よく慰め合いながらお過しになる。)
▼なんだかいじらしいなあ。二十五と二十三にしては、まだ女子高生みたいな二人である。
▼それでも、念仏三昧が終えれば父は帰ってくると思うから、二人は父の帰宅を待ちわびているが、使いの者がやってきて、お父様は、具合が悪くて、今日はお帰りになれませんとの伝言。
▼二人はドキッとして(胸つぶれて)、お父様はどんな具合なのだろうと心配して、綿入れの着物を急いで仕立てさせて届けたりするけれども、父は二日経っても、三日経っても、いっこうに戻ってこない。父からは、特にどこがどうひどいということもないが、どうにもかったるくてならないんだ。ちょっとでも楽になったら返るから我慢してくれ、と言ってくる。
▼八の宮には、例の阿闍梨がつきっきりで看護しているが、阿闍梨は、八の宮がもう長くないことを見てとると、今更娘さんに会いに山を下りることは、往生の妨げになります。娘さんのことは何の心配もないのです。人にはみな宿命があるのですからと、この世への執着を断つことだけを説いて、山を下りてはならぬと言うのだった。
▼「娘さんには何の心配もない」のかどうかなんて阿闍梨には分かるはずもない。なにもかも「宿世(宿命・宿縁)」で済ませられればこんなに楽なことはない。まったく、ろくでもない阿闍梨である。


★『源氏物語』を読む〈258〉2017.11.30
今日は、第46巻「椎本」(その6)

▼「八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいとどしきころ、君たちは、朝夕霧の晴るる間もなく、おぼし嘆きつつながめたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面(おもて)もさやかに澄みわたるを、そなたの蔀(しとみ)上げさせて、見出だしためへるに、鐘の音かすかに響きて、明けぬるなりと聞こゆるほどに、人々来て、『この夜中ばかりになむ亡(う)せたまひぬる。』と泣く泣く申す。」(八月二十日のころであった。たださえ一帯の空の景色ももの悲しい季節で、姫君たちは、朝に夕に、霧の晴れ間もなくお胸を痛めて物思いに屈していらっしゃる。有明の月がまことにはなやかに射し出て、川の水面も清らかに澄んでいるので、山寺のあるほうの蔀戸を上げさせて眺めていらっしゃると、鐘の声がかすかに響いてきて、これで夜が明けてきたかと聞える時分に、使いの人々がやってきて、「この夜中ごろに宮はお亡くなりになりました」と泣く泣く言上する。)
▼歌舞伎のような、映画のようなシーンである。秋、霧、有明の月、澄んだ水面、鐘の音、そうした道具立てがそろったなか、父の死の知らせが届く。
▼姫君たちは、もう呆然自失。あまりの悲しさに「涙もいづちか去(い)にけむ」(涙もどこへ行ってしまったのやら)とある。ショックで涙も出ずに、ただうつぶしているばかりだ。
▼どうせこうなるものなら、せめて最期のひとときを姫君たちと過ごさせてやればいいのに、阿闍梨は、それも道の妨げとなるからといって八の宮が山を下りることを許さなかったのだ。
▼そればかりではない。阿闍梨は、八の宮の遺言通りに、葬儀から四十九日法要までの一切を取り仕切るのだが、姫君たちがせめて亡骸にだけでも対面させて欲しいと懇願するのに、頑として聞き入れないのだ。
▼「『亡き人になりたまへらむ御さま容貌(かたち)をだに、今一度(ひとたび)見たてまつらむ。』とおぼしのたまへど、『今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、またあひ見たまふまじき御心づかひを、ならひたまふべきなり。』とのみ聞こゆ。」(「亡骸になってしまわれたのなら、せめてそのお姿なりお顔なりをもう一度拝したい」とお思いになり、そうもおっしゃるけれど、阿闍梨は、「いまさら、どうしてそのようなことができましょう。ご生前にも、もうお会いになるべきではないとお戒め申していたのですから、今はなおさらのこと、お互いにご執心なさるべきではないというお気持にならねばなりません」とだけ申しあげる。)
▼まったくこの阿闍梨はなんという朴念仁だろうか。「親子の愛執」も極楽往生の妨げになると言って、八の宮が娘に会うことを許さなかったのは、八の宮の往生のためだとしても、その八の宮が、娘にもあわずに死んでしまった今、娘までが親の死に顔を見てはならないというのはあまりの理不尽だ。娘は、道心を起こして出家を望んでいるわけではない。ただ、父の顔を一目見たいだけなのだ。
▼姫君たちは阿闍梨を憎む。
▼「おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむおぼしける。」(寺にいらっしゃったときの父宮のご様子をお聞きになるにつけても、姫君たちは、阿闍梨のあまりにも分別の勝ちすぎた仏法一途のお心を憎らしく情けなくお思いになるのだった。)
▼ここに出てくる「さかし(い)」の意味は、「才知、分別があって、しっかりしている。」の意味がまずあって、「@知徳が衆にぬきんでて優れている。A理性的ですきがない。かしこい。賢明である。B判断力がしっかりしていて、心がまどわない。強気である。気丈である。正気である。C気がきいていて、とりえがある。」など肯定的な意味で使われる。ところが、意味が否定的に使われることも多く、そうなると「なまいきな才知、分別があって、すきがない。」ということになる。それで、「@才知、分別だけあって、人間味が欠けている。かしこぶって、さしでがましい。こざかしい。A他人のことについて、あれこれと口ぎたなくいうさまである。小うるさいさまである。」などといった意味で使われるわけだ。(日本国語大辞典)
▼姫君たちの「あまりさかしき聖心」というのは、もちろん否定的な意味であって、阿闍梨への痛烈な批判となっている。
▼頭がいい、かしこい、ということは、生きるうえではあまり重要なことではない。そのかしこさで、金持ちになったり、出世したりすることはできるだろうが、結局のところ、それが幸せな人生を保証するわけではない。それはいつの時代でも、賢者たちが口を酸っぱくして言い続けてきたことである。しかし、不思議なことに、今でもそれを本気で信じる人は少ない。


★『源氏物語』を読む〈259〉2017.12.1
今日は、第46巻「椎本」(その7)

▼八の宮の死を悲しんだのは娘たちだけではない。薫もまた深い悲しみに沈む。
▼この前、八の宮に会って別れるときに、これが最後かもしれませんと言っていたことを、薫はあまり気にもとめなかった。それは、薫がこの世の無常ということをいつも考えているから、そういう言葉にも慣れてしまっていて、珍しく思わなかったのだ。
▼普段そんな世の無常などということを考えていないような人間が、友達から、これでもう会えないかもね、なんて言われたら、いったいどうしたんだとびっくりするだろうが、いつもいつも、ああ、人間ははかないものだ、いつ死んでもおかしくないのだ、なんて思っていれば、そんな言葉にも驚かないというわけだ。
▼それなのに、薫は、八の宮の死を知って慄然とする。死の観念と、死の現実は、まるで違うのだ。
▼「中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなくくちをしく、今一度(ひとたび)、心のどかに聞こゆべかりけること多く残りたるここちして、おほかた世のありさま思い続けられて、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、ひとよりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日にも思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しくおぼさる。」(中納言殿は、八の宮のご他界のことをお聞きになって、まことにあっけなく残念に思われ、もう一度ゆっくりとお話し申しあげたかったことのたくさん残っているような気がして、おおかた人の世の無常をあれこれ思い続けずにはいらっしゃれないので、ひどくお泣きになる。宮が、「再びお目にかかることは、むずかしいのでは」などとおっしゃったが、やはり常日ごろのお気持としても、朝と夕の間さえあてにならぬ人の世のはかなさを、人一倍強く感じていらっしゃったお方であるから、いつものお言葉と聞いていて、まさか昨日今日のうちにこうしたことになろうとは思いもよらなかったのを、かえすがえすもたまらなく悲しくお感じになる。)
▼この「昨日今日にも思はざりける」は、古今和歌集の業平の歌「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(誰しも最後には行く道であるとはかねてから聞いてはいたのだけれど、それが昨日や今日旅立つさし迫ったものだとは思っていなかったよ。)を踏まえた表現。
▼これほど人の死についての普遍的な心情を歌った歌はない。人間はいつか死ぬということは、それこそ子どもでも知っている当たり前の現実なのだが、それに直面したとき、宮沢賢治が言うとおり、「いまわたくしがそれを夢でないと考へて/あたらしくぎくっとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつなのだ」(「青森挽歌」)と感じるのだ。
▼その「あんまりひどいげんじつ」を目の前にして、薫は、ああ、もっとゆっくり話したいことがたくさんあったのにと嘆くのだ。「心のどかに聞こゆ」(ゆっくりと話す──「聞こゆ」は「言う」の謙譲語。)ことが、生きている人間にとって、いちばん大事なことなのだということに、あらためてぼくらは気づく。死はそれを不可能にする。だから悲しい。
▼薫は、姫君たちの悲しみを思いやり、姫君たちに、そして阿闍梨にも、お悔やみを申し上げる。こうした弔問をしてくれる人も他にはほとんどいないから、姫君たちも、以前からの薫の誠実な態度を思い重ねてありがたく思うのだった。
▼八の宮が亡くなったのが八月二十日ごろ。姫君たちが喪に服している間に、季節は九月になる。このあたりの描写が美しい。
▼「明けぬ夜(よ)のここちながら、九月になりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひて落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、ひとつのやうにくれまどひて、かうてはいかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらひたまはむと、さぶらふ人々は心細く、いみじくなぐさめきこえつつ思ひまどふ。」無明長夜の闇にくれ惑うような心地のままに、いつしか九月にもなっていた。野山の景色も、今までにもまして袖を濡らす涙をさそうかのように時雨が降って、ともすれば先を争って散り落ちる木の葉の音も、川の水音も、滝のように落ちる涙も一つものに思われるくらい姫君たちは悲しみにうちひしがれているので、こんな有様では、定めのあるご寿命とてどれだけお保ちになれようかと、おそばにお仕えする女房たちは心細く、懸命にお慰め申しあげては自分たちも途方にくれている。)

▼技巧的な文章だが、その技巧が心地よい。


★『源氏物語』を読む〈260〉2017.12.2
今日は、第46巻「椎本」(その8)

▼匂宮も薫に負けじと宇治へ手紙を書く。けれでも、姫君たちは、返事を書く気になれない。匂宮は、ちっとも返事がこないので、薫のところへはちゃんと返事が来てるみたいなのに、やっぱりぼくなんか目じゃないのかなあと悔しがっている。
▼紅葉の盛りに、宇治への出かけようと思っていたのに、八の宮が亡くなったとなれば喪中だから簡単には訪れることもできないしなあと、思っているうちに、姫君たちの喪も明けた。喪(物忌)は30日らしい。
▼喪も明けたんだから、少しは悲しみも薄らいだのではなかろうかと推察した匂宮は何度も手紙を出し続ける。
▼これだけ何度も来る手紙に、返事をまったくしないというのも、あまりに失礼だから、あなたお返事を書きなさいよと、大君は中の君に勧めるけれど、中の君は、とてもそんな気持ちになれない。
▼「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな、とおぼすに、またかきくもり、もの見えぬここちしたへば、押しやりて、」(今日まで生き長らえて、硯などそばに引き寄せて手に触れようなどとは思ってもみただろうか。よくぞ情けなくもこうして日数を過してしまったものよ」とお思いになると、また涙に目もくもって、何も見分けがつかなくなるような心地がなさるので、硯を押しやって、)
▼父を亡くしたあと、こうしておめおめと生きながらえている自分が嫌になるというのだ。喪が明けたから少しは元気になったというわけではない。むしろ、生きていることが辛いのだ。
▼だから、私は書けないわと言って、中の君は、ただただ泣いているばかり。
▼夕方から来ている使者に、今夜はここへ泊まっておいきなさいと、大君が勧めても、使者は生真面目で、いやいや今夜中にお返事を届けなければなりませんからといって動かない。
▼大君もさすがに気の毒になって、しょうがないなあ、それじゃ私が書くしかないかと思うのだが、自分だけ冷静でいるわけじゃないけど、中の君がどうしても書けないから見るに見かねて書くのだと自分を納得させる。
▼ここは語り手が語る形で、「われさかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて」(姉君はご自分がお気も確かに落ち着いていらっしゃるというのではないけれど、中の宮のご様子を見るに見かねるお気持になられて、)と書いてあるのだが、大君の自己弁護のようにも読める。
▼つまり、中の君は、もうとても返事ができないほど悲しみにくれているのに、自分が返事を書いたら、なんだか自分の悲しみが中の君よりも浅いように思われるんじゃないかと気を使っているようにも思えるのだ。そうじゃない、私だって、気も狂わんばかりに悲しいし、手紙だって書きたくないのだ、でも妹が可愛そうだから無理して書くんだという自己弁護。深読みしすぎかな。
▼大君の手紙の様子はこう書かれている。
▼「黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆もまかせて、おし包みて出だしたまひつ。」(鈍色の紙に、夜のこととて墨つぎもはっきりしないので体裁をつくろうこともせず、ただ筆にまかせてしたため、おし包んでお渡しになった。)
▼「黒き紙」というのは、薄墨色(鈍〈にび〉色)で喪中に使う紙のこと。黒っぽい紙に、薄暗い部屋で書くものだから、どこが墨が濃くてどこか薄いのか分からないということ。この「墨つき」の具合が筆跡では大事なのだ。末尾の「たまひつ」の「つ」がピシッと決まっている。完了の助動詞だが、とにかく渡してしまえという大君の強い意志が伝わってくる。
▼使者は気味の悪い真っ暗な夜道をものともせずに馬を走らせ(普通の使者ならビビってしまうだろうに、特に屈強な男を匂宮が選んだのだろう、なんて書いてある。)、その夜のうちに匂宮に手紙を届ける。使者は夜露にびっしょり濡れている。匂宮はねぎらいのご褒美を与える。
▼手紙を見た匂宮は、いつもと筆跡が違うことをすぐに気づく。今までは匂宮の手紙には中の君が返事を書いていたからだ。源氏物語では、この筆跡というのが、ほんとに大事に描かれていて興味深い。
▼「さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、いづれかいづちならむと、うちも置かずご覧じつつ、とみにも大殿籠らねば、」(これまでごらんになったことのない御筆跡の、いつものより少し大人びて嗜みの見える書きぶりなどを、どちらが姉か妹かと下にも置かずごらんになっては、すぐにはお寝みにならないので、)「手」=「筆跡」は、古文を読む上での必須知識。
▼大君は、暗いなかで墨の濃いも薄いも分からずに書いたのに、その筆跡は見事なのだ。今までのよりは大人びているのがはっきりと分かる。それで匂宮は、いったい、今までのが妹で、今のが姉なのか、それとも逆なのか、分からなくなって、う〜ん、どっちがどっちかなあ、なんてうなって、目はらんらんと輝き、ちっとも寝ようとしない。
▼お付きの女房たちはたまったもんじゃない。まったくねえ、手紙が来るまでぼくは寝ないとかいって、こんな遅くまで起きてるし、来たら来たでいつまでも見てるなんて、たいしたご執心だこと、なんて悪口言い合っている。眠くてしょうがないからなのよね、と、語り手は言う。
▼匂宮や姫君だけを書いてよしとするのではなくて、周辺にいる人物、使者やお付きの女房たちをしっかりとリアルに書くことで、この物語の厚みがぐんと増している。そして、匂宮、大君、中の君といった人物が、浮き彫りのようにくっきりと浮かびあがってくるのだ。

 

★『源氏物語』を読む〈261〉2017.12.3
今日は、第46巻「椎本」(その9)

▼匂宮は、翌朝、早起きしてさっそく返事を書く。匂宮の意気込みが伝わってくる。
▼その手紙を読んだ大君は、匂宮にあまりに心を許した返事を書くのもなにかと面倒だ、と思う。父を頼りに気楽に過ごしてきたけれど、今はもうその父もなく、思いがけずに男関係で間違いを犯しでもしたら、亡き父を傷つけることになる。大宮は、そもそも男というものに、恐ろしさを感じているから、どうしても気が引けてしまって、今回も返事をださない。
▼かといって、大宮は、その手紙の趣から、匂宮が並の男ではないと感じている。それほど男を知っているわけじゃないけど、そう感じるのだ。しかし、そうした趣のある手紙に、返事を差し上げて、お付き合いをするには自分たち姉妹はふさわしくないと思うので、「何か、ただかかる山伏だちて過ぐしてむ、とおぼす。」(いやなんの、ただ、こういう山住みの身として生涯を過すことにしようとお思いである。)
▼この山里を絶対に出るなという父八の宮の遺言を大宮は守ろうとする。そればかりか、自分も父のように「修行者」のように生きようとするのだ。男を知らないゆえに、男を恐れ、その上父の遺言に従って男を拒んで生きる、それが大宮の決意となる。「過ぐしてむ」の「てむ」が生きている。意志を表す助動詞「む」の前に、強意の助動詞「つ」の未然形が付いた形で、「きっと……しよう」という固い意志を表しているわけである。
▼高校時代にメンドクサイ文法をやらされてすっかり古文が嫌いになっちゃったという人は多いのだが、しかし、英文法やその他の外国語の文法を学ぶよりは数倍楽な古典文法なのだから、ほんとうはそんなにメンドクサイわけでもない。ちょっとでも、そうした文法を知っていると、こういう所を読むときに、深く味わうことができるんだけどなあ。
▼匂宮にはそんなわけでなかなか返事を書かない大宮だが、薫にはそっけなくない程度の返事はだしている。物忌の30日があけると、薫は宇治を訪ねる。
▼姫君たちは、喪服を着て、喪中用の鈍色の几帳の向こうに座っている。いい匂いをはなって、御簾の前に座っている薫を見ると──御簾や几帳の内側からだから、あまりはっきり見えないわけだが、匂いなどから想像しているのだろう──、姫君たちはきまりが悪くて、なかなかお答えもできない。
▼ぼくは、女房を仲立ちにした気取ったやりとりは苦手ですから、どうぞ直にお話させてくださいと薫は頼むのだが、大君も、さすがに無視もできず、悲しみに、まるで夢を見ているような気持ちで、空を見るのもいけないことのように思われまして、お近くでお話することもできません、と答えるのが精一杯。(これは直に言ったのか、女房を介して言ったのか、よく分からない。たぶん、後者。)
▼薫は、そんなこと言ってないで、どうぞ近くにきてお話ししてくださいと言うと、大宮は、「夢をみているような気持ちで」とは言ったものの、実は、かなり冷静さを取り戻していて、父が生きていた頃からの薫の誠実な態度や、心遣いのことを思うにつけても、薫の好意が身にしみる。それで、少し御簾の近くににじり出てきて応対する。
▼薫のやさしい人柄に、大君は、気を許せる気がするけれど、それでも、親しくしているわけでもない男に声を聞かせたり、薫を頼りにするようなそぶりを見せた自分を省みて、こんなことでいいのだろうかと思うと辛くてならない。薫と歌のやりとりをすると、大君は、すぐに奥の方へ引っ込んでしまう。薫にはそれを引きとどめるすべもない。
▼そこへ入れ替わりに老女が出てくる。弁の君だ。「老人(おいびと)ぞ、こよなき御かはりに出で来て」(すると、老人が、とんだお代役として出てきて、)とある。
▼ここでは、「ぞ」という強意の係助詞が生きている。強調表現というのは、古文のほうが豊かで、現代文は貧弱だ。だから「超」などという接頭語が乱用されるのだが、この「老人ぞ」も、うまく訳せない。あえて訳せば、「なんと、老婆が」って感じかな。今まできれいで若いお姫様だったのに、その代役が、なんと、なんと、きたないバアサンでした! っていったほうがいいかもしれない。それが「ぞ」だけで表現できる古文は素晴らしい。
▼姫君の代わりに、老婆じゃ、たまんないというわけで、ちょっとユーモラス。でも、薫はこの弁の君が、昔のことをいろいろ知っているので、むしろ喜んで親しく話す。
▼弁の君の素性がここで詳しく紹介される。
▼弁の君は、薫の出生の秘密については、他の者にはこれっぽっちも話したことはなく、完全に秘密を守っているのだが、薫は、どうしてもそれが信じられない。こういう老婆のおしゃべりにどこかで痛い目にあっているのだろうか。とにかく、あの秘密を、この老婆が姫君に話さないわけはない。だから、姫君たちは、絶対に自分の秘密を知っているに違いないと思う。その秘密を守るために、薫は何としても、姫君たちを我が物にしたいと思うようになりそうだ、と語り手は言う。
▼そうか、世を半分捨てている薫が、どうして今後の展開の中で、姫君たちに近づいていくことになるのかという点について、ここで周到に伏線をはっているわけなのか。
▼「橋姫」「椎本」の2巻は、本格的な恋物語の準備にあたるので、いろいろな伏線が張られているようだ。

 

★『源氏物語』を読む〈262〉2017.12.4
今日は、第46巻「椎本」(その10)

▼薫は弁の君と語ったあと、八の宮のいない邸に泊まるのもどうかとはばかって、心残りではあるが、帰っていく。
▼それにしても、八の宮と最後に別れたとき、「これや限りの」(これが最後かもしれませんね)と言われた言葉を、どうしてオレは気にもとめなかったのだろう。その時も秋、そして今も秋。同じ秋なのに、そしてそれほど時間が経ったわけでもないのに、もう八の宮は、どこへいったか分からない。ほんとにあっけないなあ、と感慨にひたる。
▼邸には、八の宮亡きあとの片付けなどで、僧侶たちが仏像を山寺に運んだりして、まだ賑やかだけど、そうした作業も終えて、僧侶たちもいなくなったあと、姫君たちはどんなに心細い日々を送らねばならないのだろうと、それを思うだけでも薫の胸は痛む。
▼なかなか立ち去りがたい薫に、供人が、暗くなってきましたよ、とせかすので、薫は、「ながめさして」(物思いを断ち切って)帰ろうとすると、雁(かり)が鳴いてわたっていく。
▼薫がそのとき詠んだ歌。「秋露のはれぬ雲居にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ」(秋露の立ちこめている空──ただでさえ悲しみの晴れやらぬ空に、どうして、雁(かり)は、その悲しみをそそるかのように、「かり・かり」と、この世を仮(かり)の世と言い知らせるのであろうか。)
▼言うまでもなく、掛詞(かけことば)である。「雁」と「仮」をかけている。雁が「かり」と鳴くとも思えないが、「雁」の名前は、その鳴き声から来たもののようだ。そんなふうに聞こえるのだろうか。そういえば、ぼくは雁の鳴き声を聞いたことがない。
▼掛詞というと、ダジャレだと思ってしまうかもしれないが、古典における掛詞は、単なるダジャレではなくて、自然と人間を結びつける役割を果たしているのだということが、最近読んだ本「古典のすすめ」(谷知子著・角川選書・2017.11刊)に書かれていて、そういえばそうだなあと思った。今までそんなふうに思ったことはなかったので、感心してしまった。
▼雁が「かりかり」鳴いて空を飛んでいく。それを人は「この世は仮の世だ」と雁が教えさとしているようだと聞く。つまりは、自然から人間へのメッセージだというわけだ。
▼授業のときも、掛詞というと、ダジャレだと生徒も理解してしまい、なんかくだらないなあという顔をしていたし、ぼくも、まあ、昔の人は言葉遊びが好きだったんだね、ぐらいの説明しかできなかったが、掛詞に限らず、序詞も自然と人間を結びつける働きをしているのだと認識していれば、もうすこし奥の深い授業ができたはずだ。やっぱり、教師たるもの、日ごろの勉強が大事だなあ。今になってそう気づいても遅いけど。
▼都に帰った薫は、匂宮に会うたびに、この姫君たちのことを話題にする。匂宮は、もうけむたい八の宮がいないからというので、熱心に手紙を出すのだが、匂宮の「色好み」は有名なので、どうせ雑草の下から手を出しているような私たちは、やっぱりあの方には似合わないわよねと、気が滅入るばかりで、返事も出さない。
▼「さても、あさましうて明け暮らさるるは月日なりけり。」(それにしても、思いも寄らず明け暮らされるものは、月日というものだった。)というのは、姫君たちの思いだろうか。なんだかんだと言いながら、悲しくても辛くても、時間だけは経っていくのだ、という感慨、あるいは発見。
▼ぼくも今年あっという間に68歳となってしまったわけだが、若いころは、70歳とかいった年齢の人は、死を間近にしているのに、いったいどうしてあんなに平然として、ヘラヘラして、生きていられるのだろうか、と、その精神のあり方をいぶかしく思ったものだ。けれども、いざ自分がそういう年になってみると、まさに「あさましうて明け暮らさるるは月日なりけり。」の感がふかい。死が身近に感じられることは事実だが、だからといって、毎日が苦しくてならないわけでもなく(結構苦しいけど。いろんな意味で。)、ただただあっという間に時間は経っていく。それに対してどうあらがうこともできない。まったく、人生って何だろう。空を「かりかり」と雁が鳴いてわたっていけば、「ああ、仮の世だよなあ。」と納得できるのだろうか。
▼さて、姫君たちのこと。今までのことを考えてみても、あたしたちって、そんなに将来に夢を持っていたわけじゃないけど、お父様の庇護のもと、ただなんとなくのんびりと暮らしていたのに、お父様にも先立たれた今は、急に風の音も、時折訪ねてくる人にも、ドキッとしてしまって、ほんとにもうこんな暮らしはたまらないわよねえと、涙の乾くいとももなく、姉と妹は身を寄せ合って暮らしているうちに、年も暮れ、年末になってしまった。

 

★『源氏物語』を読む〈263〉2017.12.5
今日は、第46巻「椎本」(その11・読了)

▼阿闍梨のもとからは、冬支度の角などが送られてくるが、その法師たちを見るにつけても、ああ、山寺にお父様が籠もっておられるならどんなにいいかしらと姫君たちは嘆く。
▼薫は、年があけるといろいろな行事でゆっくり宇治へも行けないだろうと思うので、年のうちにまた宇治を訪ねる。
▼雪深い道だから、普通の身分の人でさえめったに訪れることがないのに、薫のような身分の高い人が、こうやって来てくれるのは、とりもなおさず薫の深い気持ち故であるのは、いくらなんでも姫君たちも分かるので、丁重にお迎えする。
▼大君の、前よりは言葉も多く、奥ゆかしいその様子に、薫は、結婚などする気はないといいながら、だんだん大君に惹かれてゆく我が身は「いとうちつけたる心かな」(なんともにわかに身勝手なわが心よ)と反省しつつ、こんなふうにして、人間というものは、人を好きになっていくんだなあ、それもしかたのないことなのか、と思っている。
▼薫は、大君に、匂宮の姫君への執心を縷々語る。それを聞いて、大君は、それは私のことじゃないんじゃないですか? って言う。それはそうなんです、あなたじゃなくて、妹さんに彼はぞっこんみたいなんです、と薫は言って、中の君と匂宮との結婚を勧める。もしその気があるのでしたら、私が心をこめて尽くしますからと言いつつ、あなたに関しては、この私がこうして訪ねてくるのを御覧になってもおわかりのはずです、と言って、自分の気持ちを紛れ込ませる。
▼この薫の長い話は、まとめればこんなふうになるのかもしれないが、どうにも分かりにくい。匂宮のことを言いながら、ほんとうは大君を口説いているようで、大君も、ああ、匂宮はやっぱり私が好きなわけじゃないんだとほっとする一方で、薫の自分を口説くような物言いに、不機嫌になってしまって、とりつく島もない。
▼お供の者が「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり。」(日が暮れてしまいましたら、雪がいよいよひどく降って空もふさがってしまいますよ。)とせかすので、薫は帰途につこうとするが、あ、そうだ、都にあなたたちが住むのにちょうどいい静かな邸(三条の宮のことで、薫の本邸)があるのですが、そちらに住もうという気持ちがあれば嬉しいんですけどね、なんて言う。それを小耳にはさんだ女房たちは、まあ素敵、そうなったらどんなにいいかしらって言いあうけれど、中の君は、そんなことできるわけないでしょと思ってとりあわない。
▼帰る前に、薫は、仏間に入り、亡き八の宮をしのぶ。
▼「おはしましし方あけさせたまへれば、塵いたう積りて、仏のみぞ花の飾りおとろへず、行ひたまひけりと見ゆる御床(ゆか)など取りやりて、かき払ひたり。」(亡き宮がご生前お住まいであったお部屋を開けさせてごらんになると、塵がひどく積って、仏前だけは供花の飾りが以前と変らず、宮がお勤行をなさっていたとおぼしい御床などは取り払って、すっかりかたづけられてある。)
▼その時薫が詠んだ歌。「立ち寄らむ蔭とたのみし椎が本むなしき床(とこ)になりにけるかな」(いずれこの身を寄せてお導きいただく陰と思って頼みにしていた椎の木のもと──八の宮は亡くなって、そのお部屋はむなしい床となってしまったことよ。)
▼この歌によって、この巻は「椎本」と名付けられている。
▼年明けの宇治の描写が美しい。
▼「年かはりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀(みぎは)の氷とけたるを、ありがたくもと、ながめたまふ。聖の坊より、『雪消(ぎ)えに摘みてはべるなり』とて、沢の芹(せり)、蕨(わらび)などたてまつりたり。」(年が改まると、空の風情もうららかになるにつれて、水際の氷が一面にとけていくが、それにつけても姫君たちは、よくもこれまで生きてきたものよと、嘆きに虚(うつ)けていらっしゃる。山寺の聖の僧坊から、「雪間に摘んだものでございます」といって、沢の芹、蕨などをお贈り申しあげた。)
▼こういう田舎では、こうして草木の様子で、季節もはっきり分かるのが面白いですねと女房たちは言うのだが、お父様がいないのに、そんなことが分かったって何にも面白くなんかないわと姉妹は思うのだった。
▼どこまでも、傷心の日々を送る姫君たちである。
▼時は移り、花の盛りとなる。匂宮は、せっせと中の君に露骨な恋文を送るのだが、中の君は、とんでもないことを言ってくるものだと思いながらも、無難な返事を書くばかりなので、匂宮は、どうしてあの人はこんなに冷たいんだと薫に八つ当たり。
▼匂宮には、夕霧の娘の六の宮との縁談があるが、あのこうるさいオヤジじゃなあと匂宮は気が進まない。
▼薫の方は、邸の三条の宮が焼けてしまって、母女三の宮とともに六条院に移り住むなんてことがあって、宇治へもなかなか行けなかったが、夏になって、訪ねていく。
▼偶然、障子の隙間から覗きみた姫君たちの姿は、それぞれに美しく、かわいらしかった。
▼というところで、「椎本」の巻は終わる。この終わり方、プツンときれる感じだけど、なかなかいい。こうしたエンディングは、源氏物語のひとつの特徴かもしれない。
▼すべてのお膳立ては整った。さて、これから、薫、匂宮、大君、中の君は、どんな運命を辿っていくのでしょうか、お楽しみにね、というわけである。



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