「源氏物語」を読む

 

No.39 夕霧


【39 夕霧】

 

★『源氏物語』を読む〈197〉2017.9.17
今日は、第39巻「夕霧」(その1)

▼お話は、「横笛」の巻からつづいて、「夕霧」の恋であるが、この「夕霧」の巻の出だしが面白い。
▼「まめ人の名をとりてさかしらがりたまふ大将、この一条宮の御ありさまをなほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくてはやむまじくなむ月日にそへて思ひまさりたまひける。」(まめ人と世間に評判され、分別ありげにふるまっていらっしゃる大将は、そう言われながらもやはり、この一条宮〈落葉宮〉のご様子を申し分ないお方と心に思い込んで、世間の手前、亡き人〈柏木〉を忘れぬよしみであるかに見せては、じつに懇切にお見舞い申しあげておられる。しかし内心、このままではとてもおさまりそうもなく、月日のたつにつれて、しだいに恋心がつのっていらっしゃるのだった。)
▼「まめ人」というのは、「真面目人間」「実直な人」という意味。「まめ人」というのは、浮気性の源氏なんかとは正反対で、浮ついた恋などはしないわけだが、しかし、そんな男でも、ひょんなことから恋に落ちてしまうこともあり、そういう場合は、真面目なだけに深みにはまって始末がわるい。
▼かつての髭黒大将の場合もそうだったわけだが、ここでは「まめ人夕霧」の恋が語られるわけである。
▼大学時代に、この夕霧の話を読んだとき、「なまじ真面目なヤツが、中年になってから恋なんかするとろくなことはないんだなあ。」と、3人で納得しあい、3人とも、けっこう「まめ人」だったから、将来気をつけようぜって誓ったわけでもないが、何となく、心の奥にしまったような気がする。源氏物語の「教育効果」である。それが実を結んだのかどうかしらないが、まあ、3人とも大過なく老年に至ったようであるのは慶賀すべきことではある。というような表現の端切れの悪さは、どこかに、これじゃ人生あんまり面白くなかったという一抹の不満があるからなのかもしれぬ。
▼さて、この「夕霧」の巻のこの出だしは、語り手が夕霧に対して距離をおき、その恋の滑稽さを揶揄するかのようである。
▼世間に向けては、亡き親友の未亡人への優しさと見せかけておいて、そのうちなんとかしようという計算があったというのだから、「まめ人」も隅に置けない。
▼最初のうちは、決して変な気持ちではありません。ただ柏木君に、あなたのことをくれぐれも頼むって言われているものですから、どうぞその真意をくみ取ってくださいなんて言ってきた手前、急に態度を変えて、色目使って言い寄ることもかっこが悪いと思う夕霧は、とにかく、いろいろと気を配ってお世話をし、チャンスがあれば、相手の出方とか気配を探ろうとする。その辺は、「まめ人」なだけに、万事そつがない。柏木みたいに、一直線に突っ込んでいかない。
▼せっせと通ってくる夕霧に直接会うのは、御息所(落葉宮の母)だが、彼女は夕霧にまさかそんな下心があるなんて夢にも思わないから、その「親切」にただただ感謝している。
▼そのうち、その御息所が体調を崩し、小野のあたり(今の修学院離宮があるあたり)の別荘に療養(祈祷師を呼んで祈ってもらう)に出かける。落葉宮も、一緒にきてはダメよ、祈ってもらって物の怪を退治してもらうんだから、あなたが近くにいたら、乗り移っちゃうかもしれないわよと母に言われても、母と離れて暮らしたくないといって、母に付いていく。
▼そうすると、夕霧も、またせっせと別荘へ通っていく。けれども、落葉宮に会いに行くなんて言えるわけないから、いや、あの柏木のお母さんがさ、具合が悪くてね、それで、お見舞いに行くんだ、と苦しい弁解をするのだが、もちろん、そんなことは雲居雁にはお見通しだ。
▼それはそうと、なんで御息所は、体調が悪いのに、わざわざ小野のあたりの別荘に出かけるのかというと、山に籠もって、容易なことでは降りてきてくれない大物の修験者に、「山の近くまで来たんだから、どうぞお願い、降りてきてください!」って頼むためなのだそうだ。どこまでも、尊大不遜な修験者たちである。紫式部は、そうした修験者とか坊さんとかに、どこか敵意を持っているような気がする。そういえば、清少納言も、そうした坊さんたちをからかうようなことを書いてたなあ。


★『源氏物語』を読む〈199〉2017.9.18
今日は、第39巻「夕霧」(その2)

▼ある日、小野にいる落葉宮母子のところを訪ねた夕霧は、とうとう決心する。今夜こそ、落葉宮と直接会って、思いのたけを打ち明けよう。そして、あわよくば……。
▼宮は、母御息所とは離れた部屋にいる。母は物の怪退治の律師(加持祈祷の僧侶)のもとにいるから、近づけないのである。
▼自然、お付きの女房たちも、御息所の方へ行ってしまって、宮のほうは手薄になっている。そこを狙ったわけである。夕霧は、宮の部屋に行くと、急にしつらえた部屋なので、宮はわりあい御簾の側にいて、その衣擦れの音などもはっきりと聞こえる。けれども、なかなか宮は会ってくれない。
▼この夕霧と落葉宮との「一夜」は、秋の風景描写と交互に描かれていて、非常に趣深いのだが、そこに展開する話のほうは、その趣にちっともそぐわないギクシャクしたものである。それは、ひとえに夕霧が「まめ人」であることによっている。つまり、「遊び慣れていない」から、ことがすんなりと進まないのである。
▼これが源氏なら、秋の美しい情景のなかで、たとえ不埒な恋であっても、読者までがおもわずうっとりしてしまうような情事の場面が展開されるのだが、夕霧では期待するほうが無理というものだ。それでも、紫式部は舞台設定に凝りに凝る。
▼たとえば、こんな風に。
▼「日入りかたになりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の陰は小暗(おぐら)きここちするに、ひぐらし鳴きしきりて、垣ほに生(お)ふる撫子の、うちなびける色もおかしう見ゆ。前の前栽(せんざい)の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされてなどして、不断経読む時(じ)かはりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐかはるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。」(日も入り方となるにつれて、空の風情もしみじみと思いをそそるように霧が一面に立ちこめて、山の陰は薄暗く感ぜられる折から、ヒグラシがしきりに鳴いて、垣根に生えている撫子の風に揺れなびいている色合いも美しく見える。御前の前栽の花々は思い思いに咲き乱れており、遣水〈やりみず〉の音はまことに涼しそうに聞え、山から吹きおろす風も心にしみてもの寂しく、松風の響きが深い木立一面に聞えたりなどして、不断の経を読む交替の時がきて鐘を打ち鳴らすと、座を立つ僧の声と入れ代ってすわる僧と、声も一つになって、まことに尊く聞える。)
▼こうした描写の「ひぐらし」「撫子」などの部分は、みな古今集の歌を下敷きにしている。この場面だけではない。源氏物語の至るところに、古今集などの歌を下敷きにした表現がちりばめられていて驚かされる。紫式部は、古今集やその周辺の歌集の歌は、みんな暗記していたに違いない。
▼すごい! って思うかもしれないけれど、当時はそんなことは当たり前だったんだよと、同級生の教授が言っていた。まあ、考えてみれば、他にやることがなかったんだから当然かもしれない。知識の総量からいったら、現代人の方がはるかに上回る。ろくでもない知識ばかりだけどね。
▼さてこうした情景の中、夕霧は、落葉宮に歌を贈る。
▼その歌。「山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむそらもなきここちして」(山里の寂しい思いをつのらせる夕霧が立ちこめて、どちらの空に向って立ち出でてよいものか、おそばを去ることもならぬ心地でございます。)
▼つまり、「帰りたくない」って言うのである。(ちなみに、この夕霧の歌によって、この源氏の息子は「夕霧」と後世呼ばれるようになったわけである。)それに対して、落葉宮はこんな歌をかえす。
▼「山賤(やまがつ)の籬(まがき)をこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず」(山賤の垣根をつつんで立ちこめております霧も、心の浮ついているお方をお引きとめするわけはございません。)
▼「山賤」とは自分のことを卑しめた言い方。霧があなたのような浮気者を、卑しい私のもとに引き留めることがありましょうか、という意味だが、この歌の意味は微妙。あなたに誠意があるなら、引きとめるでしょう、という意味にもとれるし、ただ、夕霧の歌の「霧」にひっかけただけの言葉の綾のようにも読める。この後の展開を読めば、後者が正しいのだが、夕霧は前者と解釈したらしく、「そうか、誠意を見せればいいんだ」と思って、今夜はここに泊まってしまおうと考えるに至るのだと、考えることもできるのだ。とすれば、落葉宮にもスキがあったということになる。まあ、ほんとうのところはわからないけど。
▼とにかく、夕霧はどうしていいか途方にくれてしまう。
▼「中空(なかぞら)なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ちとまるべうもあらずやらはせたまふ。つれなき人は、かかることこそ。」(どうしてよいのか困ってしまいます。帰る家路は見えないし、さりとて霧の籬の内は立ちどまることもならぬように追いたてなさるし……。こうしたことの不似合いな男でしたらこのお仕打ちももっともでしょうが。)
▼などとぶつぶつ呟きながら、もう我慢できない、よし、今夜は帰らないぞと決心するのだった。
▼「霧の中に迷う」……自然と、夕霧の心が渾然一体となった、見事な表現である。

 

★『源氏物語』を読む〈200〉2017.9.19
今日は、第39巻「夕霧」(その3)

▼夕霧は、「帰らない」って決心する。お付きの家来に、オレは、ちょっと律師に相談があるんだけど、忙しいらしくて夜明けぐらいにお勤めが終わるまで待たなきゃならないから、近くで夜を明かしてくれというと、家来のほうも、ははん、と事情を察して下がる。
▼夕霧は、落葉宮に、霧が濃くて道も分からないので、今夜はこの近辺で泊まろうと思うのですが、どうせなら、あなたの部屋の御簾の前で過ごさせてくださいませんかと、また大胆なことを頼む。
▼落葉宮は、いつもならこんな浮ついたことは言わなかった方なのに、困ったことになったわ。かといって、急にお母様の部屋の方へ逃げちゃうのもなんかみっともないし、って思って、御簾のむこうで「音もせでおはします」(息をひそめていらっしゃる)と、夕霧は、なんだかんだと言いながら、宮のところへ行く女房のあとに勝手にくっついて宮の部屋に入ってしまう。
▼びっくりしたのは女房だ。振り返ると、夕霧がついてきてしまっている。宮は気味が悪くなって、障子(さうじ・今でいう襖である)の向こうへ隠れてしまう。夕方とはいえ、部屋の中だから、暗くてよく分かんないわけだけど、夕霧は、探り当てて、宮を引きとどめる。宮の体は、障子の向こうに入ってしまうけれど、長い裾が入りきれずに残っている。障子は向こうから鍵をかけられないから、宮はもうどうなることかと恐ろしくて「水のやうにわなわなきおはす。」(汗をダラダラ流してふるえていらっしゃる。)
▼女房たちも、もうどうしていいか分からず、慌てふためくばかり。障子は締め切られてないから、夕霧は強引に入ろうとすれば入れるのだが、そうしない。女房たちも力を合わせれば、夕霧ひとりぐらい引きずり出して部屋の外へぶんなげることぐらいできるのだが、なにしろ夕霧は身分の高い方だからヘタはことはできないから、もう「なんてことをなさるのです。あんまりじゃありませんか!」って泣いて引き留めるのだが、夕霧は平然としたもので、このぐらいの近さがそんなに無礼なことかい? ぼくが真面目で変なことしない人間だってこと、よく知ってるでしょ? なんて言っている。
▼女房のあとにくっついて勝手に宮の部屋に入りこんだんだから、すでに「真面目」じゃないじゃないかってことなんだけど、夕霧はあくまで、自分は「真面目で堅物」な男なんだというアイデンティティを保持しているつもりなのだ。
▼夕霧がいくら恋情を訴えても、宮は聞く耳ももたない。夕霧は、ボクは決してあなたの「お許し」がなければ、変なことしません。でも、ずっと、あなたのことがスキだって言ってきたのに、あなたはそれに気づいていながら、無視してきましたよね。だから、もう、あなたにどういうふうに思われたっていいやって思って、ぼくの思いを伝えに来たのです。どうぞその障子の中に入れてくださいって懇願する。
▼障子から着物の裾ははみ出てはいるが、障子はいちおうは閉められているはずなのだが、その隙間から見えるのだろうか、落葉宮の姿の描写がある。皇女だけのことはあって、そんなに美しくはないけれど、普通の女性とは違う品がある。柏木の死もあって痩せているけれど、可憐でなよなよした感じはとてもいい、と夕霧は思う。
▼格子も上げたままなので、月の光も部屋の奥までさしこんでくる。前回も書いたとおり、このくだりは、二人のやりとりの合間合間に、庭や月の描写入ってくる。そのバランスが絶妙だ。
▼ぼくみたいじゃない遊び人は、こんなとき、相手の気持ちも考えないで自分勝手は振る舞いをすると聞いていますよ。そこへ行くとぼくなんか、安心なんです。それなのに、なんでそんなにつれないんですか? ってな口説き文句は、どうにも変だ。ぼくは安全なんだ、と言いながら言い寄ってくる男をいったい女はどう理解したらいいのだろう。
▼結局、夕霧は、なんなく障子を開けてしまって、宮を抱き寄せる。宮は、柏木との結婚でさえ間違いで、そのうえ、柏木に死なれて世の笑いものになっているというのに、またあなたにこんなふうにされて、いったいどこまで恥ずかしい思いをしなければならないのでしょうかと言って涙に暮れる。
▼「柏木に死なれて世の笑いものになっている」というところがなかなか理解しがたいところだが、皇女というものは、結婚などして不幸な目にあうよりは独身を通したほうがいいのだという当時の風潮があって、それを破って柏木と結婚したために、あんなにひどい裏切りにあって、果ては未亡人になってしまった。それを世間では、「だから結婚なんかしなきゃよかったのさ。」と笑うというのである。残酷なのは世間だ。
▼ところが、そんな落葉宮の嘆きにも、頭に血がのぼっている夕霧には同情する余地もない。世間に笑われるって言っても、すでに柏木のことで笑われているんだから、ぼくのことで笑われたっていいじゃん、みたいなことを言うのである。バカな子どもである。
▼そこまで言っていながら、それでも夕霧は頑としてアイデンティティを手放さない。つまり、宮を腕に抱きながら、「御ゆるしあらでは、さらにさらに。」(お許しがなければ、無体な振る舞いには絶対に絶対に及びません。)と言うのだ。つまり、「しない」のだ。
▼しかし、これもおかしいよね。宮としては、好きでもない夕霧に、「いいです」なんて「お許し」をだせるわけがない。「お許し」がないからこそ、押し入ったわけだろう。そこまでしておいて、「最後の一線」だけ「お許し」をお願いするっていうのも、おかしな話で、やっぱりこれはボクは親父みたいな「好き者」ではないんだということが、夕霧の大事なアイデンティティだったということだろう。
▼そんなことしているうちに、夜が明けてきてしまった。もう帰らなくちゃいけないので、どうしようもなくて、柏木の思い出とか、どうでもいいような無難な話題を夕霧は持ち出すが、落葉宮の心中は穏やかではない。
▼柏木との結婚も乗り気じゃなかった。でも、父(朱雀院)も母も賛成だったから、流れにのったけれど、柏木にはひどい仕打ちを受けた。それでみんなに笑われた。今度のことだって、私は「操を守った」って言い張っても、世間じゃそんなこと信じはしない。母がこれを知ったらどう思うだろう。とにかく、隠せるだけ隠さなきゃって思うから、せめて暗いうちに帰ってくださいと、夕霧に頼むのが精一杯だった。
▼こんなに冷たい仕打ちばっかりしていると、今は経験がないから、こんな感じだけど、そのうち、ボクだってどんな乱暴な振る舞いにでるかわかりませんよ、なんて、ヤクザみたいな捨て台詞を思ったのか言ったのかしつつ、そうかといって、ここで「とんでもない振る舞い」に出たら、落葉宮に軽蔑されるかもしれないしなあ、などと一方では思う夕霧は、結局どこまでも「真面目でいい子」でいたかったんだろうな。してはいけない恋だったのである。
▼そんな気分にうちひしがれた夕霧は、濃い朝霧に隠れるようにして帰っていった。
▼つまり、「なんにもなかった一夜」であった。


★『源氏物語』を読む〈201〉2017.9.20
今日は、第39巻「夕霧」(その4)

▼霧に紛れて落葉宮のもとから帰ってきた夕霧は、すっかり衣裳も濡れてしまっているので、そのまま自宅に戻るわけにはいかない。そんなに濡れてどこをほっつき歩いていたのかしらっ? なんて文句言われるに決まっているからだ。
▼それで、夕霧は六条院に住んでいる花散里のところへ行く。つまりは、母親のところだ。もちろん、夕霧の母は葵上だけど、花散里が育ての親。しかも、とてもやさしい母親なのだ。
▼子どものいない花散里は、夕霧をほんとに可愛がって、今でも、夕霧の衣裳は、夏物・冬物をきちんときれいにとりそろえてあるのだ。夕霧はそこで着替えて、ご飯など食べて、それから、落葉宮に手紙を書く。
▼けれども、落葉宮は、その手紙を開けてみようともしない。すっかり怒ってしまっているのだ。宮の頭の中は、母御息所にこのことが知れたらどうしようと、その一点に絞られている。手紙の返事どころじゃないのだ。
▼落葉宮とその母は、とても仲がよい。いつも一緒だ。今回、母が病気ということで、小野に来たわけだけど、一緒に来ないほうがいいとの母の言葉に従わずに、付いてきてしまったほどだ。その母が、このことを知ったらどうしよう。いくら秘密にしていたって、世間の人はどこからか聞きつけて、噂になるのが常だ。そんなことなら、いっそ、私の女房たちが、実はこれこれだったんですと、母に告げ口してくれないだろうか、そのほうが、変な噂よりよっぽど真実に近いし、などと思うのだ。
▼けれども、女房たちにしても、「ほんとのところ」は分からない。ああでもあろうか、こうでもあろうかと、女房たちは話し合うのだが、あの晩何があったのか(あるいはなかったのか)、さっぱり分からないのである。だから、よけいなことをお耳にいれて、心配させるのはよくないわねとしめし合わせて、黙っていることにした。
▼それにしても、今、目の前にある夕霧の手紙を読んでみたいのだが(「この消息ゆかしきを」)、宮は開けようともしないのが気が気でない。お返事を書かないなんて、それはいくらなんでも子どもじみていますよ、と言って、女房が手紙を開けてみる。(ここは「ひろげたれば」と敬語なしで書かれているので、手紙を開けたのは女房。)落葉宮はそれをチラッと読んだのだろうが、とにかく腹立たしくてたまらない。あんなにあの人を近づけてしまったのは私が落ち度だとは思うけど、あんな人を踏みつけにするようなひどい仕打ちをするなんて、もう絶対許せない、「え見ずとを言へ」(拝見できませんと言ってちょうだい!──〈を〉は強調の助詞。)ってすごい剣幕だ。
▼その手紙はしかし、いかにも心を込めた書きぶり。「たましひをつれなく袖にとどめおきてわが心からまどはるるかな」(魂をつれないあなたの袖の中に置いてきてしまいましたので、そんな私自身のせいで、心ここにあらぬ思いでいます。)という夕霧の歌があって、あとは細かくいろいろ書いてあるが、女房たちにはよく読めない、とある。宮が読んでるところを横から覗いたのだろうか、暗くて細かい字がよく見えないのだろうか、興味津々の女房たちの様子が目に浮かぶ。
▼「例のけしきなる今朝の御文にもあらざらめど、なほえ思ひはるけず。」(普通の後朝〈きぬぎぬ〉のお手紙でもないようだが、女房たちにはどうも十分納得いかない。)
▼つまり、手紙を読んでも、はたして昨晩、何があったのか分からないというのだ。「後朝の文」というのは、男女が共寝した翌朝に送る手紙のことだから、その内容は一目瞭然、「ああそういうことね」ってわかるテイのものなのだろう。
▼しかし、この歌を読む限りでは、ぜんぜん「後朝の歌」っぽくない。あとに、なにやらゴチャゴチャ書いてあるのも、どうも後朝らしい情緒がない。じゃあ、いったい何してたのかしらねえ。宮様もなんだかお気の毒だし、かといって、宮様がこの夕霧とたとえ結ばれたとしても、果たしてどうかしら、柏木の二の舞、いやそれ以下かもしれないしねえ、などと口々に心配しあっているが、御息所は、まだこのことをまったく知らないのだった。
▼考えてみれば、「その夜」がいったいどうだったのかという「真相」は、二人にしか分からないことである。「後朝の文」にしても、どこまで核心に触れているのか、分かったものではない。不倫と思しき男女が、ホテルに入っていくのを写真にとって、「不倫だ、不倫だ」と騒ぎたてても、二人が「いいえ、あれは、ただ仕事の相談をしてただけです。やってません。」って言い張れば、それが嘘だと証明することはまずできない。
▼分からないからこそおもしろい、ってことだろうが、しかし、夕霧は落葉宮とは、実際に「何にもなかった」のである。

 

★『源氏物語』を読む〈202〉2017.9.21
今日は、第39巻「夕霧」(その5)

▼御息所の物の怪退治に精を出していた律師は、御息所が少し回復したのをみて、得意顔。物の怪などというものは、たわいのないものじゃ、みたいなことをいい気になって言った後、そういえば、あの夕霧の大将がこちらに来ていたけれど、どういうことですか? といきなり質問する。
▼私の体を心配して、お見舞いに来てくださっているのでしょうと答えるけれど、具合の悪いときはほとんど意識を失っているので、いったいいつ夕霧が来ていたのかも覚えがない。
▼すると、律師は、実は昨夜遅くまでお勤めをしていまして、明け方、ふと見ると、霧の中を帰って行く男を見たのです。弟子達の話では、どうやら、宮様のお部屋に泊まっていらしてとのこと。それは、いけませんよ。夕霧ぼっちゃまは、私も昔から知っていますけれど、あの奥方ときたら、大変なしっかりもので、そちらの家は大変な権勢をふるっている家。とてもたちうちできませんぞ、などと、ズケズケとまくしたてる。
▼御息所は、そういえば、夕霧はそんなそぶりも見せていたなあ、でも、ああいう真面目な方だから、よもやと思っていたのに、情けないことだ。この坊さんは、もう得意になって、あっちでもこっちでもこの話を言いふらすに違いない、とにかく、娘に話を聞かなければと思って、落葉宮に部屋にくるようにいう。
▼連絡役の少将君(女房のひとり)は、「障子の鍵はかけました」と御息所に嘘をいって、何とかとりつくろって、宮にも、そう言っておきましたから、そのこと聞かれたら口裏を合わせてくださいねと、宮に言うのだが、宮は、ああいったい誰が告げ口したのかしら、ほんとにもう嫌だわと、体の具合まで悪くなってしまって伏せっている。脚気のきみがあるらしい。けれども、行かないわけにもいかないので、母の部屋に行くと、母は重病をおして、きちんと座って娘をむかえる。自分の娘に対しても、あくまで礼節を失わないのである。そして、娘を気遣って、問い詰めたりはしない。
▼どんなに清い関係でも、世間はそうは思わない。うちしおれて話そうともしない娘が不憫で、叱ることもできない。それより、そもそも、男を部屋に入れるような事態になってしまったことが問題なのだ。それをふせぐのが女房の役目なのにと、それもできない女房たちへの不満が御息所にはある。
▼しかし、ことがここまで来てしまった以上、いっそ、娘を夕霧に託そうかと気弱く思い始めているところへ、夕霧の二番目の手紙が来た。
▼そんな手紙、重病の御息所には見せないほうがいいのに、あんまり事情を飲み込んでいない若い女房が、はい、夕霧さんからです、と持ってきてしまう。宮としてはほんと立つ瀬がない。
▼御息所は、どんなお手紙? と聞いてしまう。娘に問いただすことも遠慮していた母だが、さすがにその手紙は無視できない。とにかく返事だけは出さないといけないと宮に言うけれど、書こうともしないので、その手紙を自分で読んでみると、昨晩冷たくされたことへの恨みが書いてあるばかりで、今夜は訪ねてくる気配もない。御息所は、そうか、一夜限りで見捨てるつもりなのかと腹もたつが、それでも、このまま捨てられるよりは、何とかこちらに来てもらって、今までどおりのお付き合いを願いたい、そうでもしなければ、恥さらしになるだけだと思う御息所は、目も見えなくなるくらい溢れ出る涙を押し絞り、「あやしき鳥の跡のやうに」(おかしな鳥の足跡のような筆跡で)自分で返事を書くのだった。
▼その歌。「女郎花(おみなえし)しをるる野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ」(女郎花〈落葉宮を指す〉の嘆きしおれている野辺〈小野の山荘を指す〉を、一体どことお思いで、ただ一夜だけお泊まりになったのでしょう。)
▼この歌は、今夜訪れてこない夕霧を責めるとともに、二人の仲を許すという意味が込められている。昨晩、何があったにせよ、なかったにせよ、いったん世間の噂が立ってしまえば、それを打ち消すことはできない。それなら、いっそ、二人の仲をみとめるから、どうか娘をよろしくお願いしたいという御息所の切なる思いであろう。
▼しかし、御息所のストレスは頂点に達してしまったのか、手紙を書いている途中、急にまた苦しみだしたので、律師やらなにやらが、大声で読経するなか、宮様は物の怪が乗り移ると大変ですから、お部屋に帰ってくださいと懸命にさとす女房たちの言うことも聞かず、これで私もお母様と一緒に死ねるならむしろそのほうが幸せというものだわと、母にぴったりついて離れようとしない。
▼こうした場面に登場する修験者とか律師とかいった僧侶たちは、ひどく俗っぽく、やたら高い金をとって得意になって加持祈祷をして力を誇示したかと思うと、今回のように、人の気持ちも考えずに心の中に土足で立ち入り、挙げ句のはては、「患者の個人情報」を世間にまき散らすどうしようもない連中として描かれる。その描き方が生き生きしていておもしろい。

 

★『源氏物語』を読む〈203〉2017.9.22
今日は、第39巻「夕霧」(その6)

▼夕方、六条院から自宅に帰ってきた夕霧は、今晩は小野へ行くのはやめておこうと思う。「なんにもなかったのにまた行くのも妙なものだ」と思うからだ。つまり、当時は、「結婚」した場合は、3日続けて妻のところに通うのが習慣となっているのである。まただからこそ、落葉宮の母御息所は、夕霧の二度目の手紙を見て、今宵は来そうもないとわかり、がっかりしたのだ。母親としては、こうなったら娘と夕霧の結婚を望むのだ。
▼夕霧は、いずれしかるべきときがきて、しかるべきことがあった暁には、ちゃんと3日通いをしようと思っているから、今日のところは我慢しようというわけで、かなり、夕霧の落葉宮獲得への決心は固いのだ。
▼そんな宵の口、御息所からの例の「変な鳥の足跡のような筆跡」の手紙が届く。夕霧は、それを灯火の近くで読もうとするが、字がのたくっていてよく読めない。
▼その様子を近くから、何気ないふうを装って見ていた雲居雁は、突然近寄ってきて、夕霧の後ろからその手紙を奪い取ってしまう。高貴なお方は、そんなハシタナイことは絶対にしないのに、この夫婦はもう慣れきってしまっていて、礼節もなにもあったものではないのである。
▼オマエなんてことするんだ。それは、花散里からの手紙だ、と、夕霧はとっさに嘘をつく。今朝方、風邪をひいて具合がよくないからというので、お見舞いに行ってきたんだ、その御礼の手紙だ。だいたいそれが恋文に見えるか? って言って、別に慌てない。「慌てない」のは演技である。風邪をひいて体調が悪い花散里の手紙だとしておけば、筆跡のことはごまかせる。風邪などひいてなかったけれど、花散里の所は行ったことは嘘ではない。
▼嘘をつきながら、「嘘じゃない」ことの混ぜるあたりは、夕霧の真面目さだ。できるだけ、嘘は少なくしたいのだ。どうせ嘘ならとことん嘘で固めればいいのに、小心者なのだ。
▼夕霧が「見たまへよ。懸想びたる文のさまか。」(ご覧なさい。それが恋文じみた手紙ですか。)というのは、その文が、筆跡は御息所の変な字だし、またその手紙が捻り文(書状を巻いて上下を捻るように折った文)だったからだ。恋文というのは、普通は、結び文にする。
▼そんな手紙の特徴をとっさにとらえて、それは「恋文じゃないだろ?」と言うなんて、夕霧もなかなか隅に置けない。恋文じゃないことは確かだけど、中を読めば、それが花散里の手紙じゃないことも明白だ。けれども、すぐにその手紙を奪い返そうともしない夕霧に、雲居雁は、なんか恥ずかしくなってきてしまって、ちょっと反省する。あれ、勘違い? って思ったわけだ。
▼だいたいさあ、オレみたいに遊びもしないで、女房一筋で、まるで雄の鷹みたいにビクビクして生きている男に後生大事に愛されたって、女としては名誉なことじゃないぜ。たくさんの奥方の中に混じって、その中でひときわ光輝いてこそ女の名誉ってもんじゃないか。そういえば、近ごろのオマエはパッとしないよなあ、なんて冗談をいう夕霧に、手紙のことは忘れてしまって(とはいえ手紙をしっかり持ったまま)、雲居雁は機嫌をなおしつつも、あなたはパッとしようと急に若ぶってしまうから、私のようなオバアサンは辛いわよ。今までそんな経験ないんだもの。」なんて文句は言う。
▼おやおや、何を急にしたというのかね。そうか、きっと、昔からオレが「緑の袖」だからといってバカにした乳母(二人が結婚するという話が持ち上がったとき、夕霧がまだ「緑の袖」を着ている低い位だからといってバカにして結婚にケチをつけた女性。こういうプライドを傷つけられた経験って、結構尾を引くよなな。)あたりが、また変なことオマエに吹き込んだんだろうね。いろんな噂も聞こえてくるし。それじゃ、あの方(落葉宮)にも迷惑がかかるよ、なんて夕霧は言うのだが、どっちみち、いずれは、落葉宮をものにしようという決意は固いから、落葉宮の件については、特に弁解はしないのだった。
▼雲居雁は、「そんな経験ない」というし、夕霧も「女房一筋」だっていうけど、夕霧には藤典侍という別の妻がちゃんといて、そっちに5人も子どもがいる。そちらの方にも「物語」はあるのだろうが、そこまでは詳しく書かれていない。そっちの方は、色恋沙汰にはならない習慣的な結婚だったのかもしれない。藤典侍と雲居雁は、特別親しくもないし、ライバルとしても意識していなかったようである。
▼このした幼なじみから引き続き結婚し、子どももたくさん生まれて、中年を迎えた夫婦が迎えた危機は、きっと今でもそこらじゅうに転がっているだろう。今なら「不倫」問題となるのだろうが、当時の一夫多妻の貴族社会では、「不倫」ではなく、公認された男女関係なわけだが、やっぱり男の思い、女の思いは、「公認」とか「制度」とかいったものとはもっと別な微妙なところにある。

 

★『源氏物語』を読む〈204〉2017.9.23
今日は、第39巻「夕霧」(その7)

▼あいつが告げ口したんだろうと言われた大輔乳母(雲居雁の乳母)は、もう辛くてものも言えないで黙りこくっている。夕霧と雲居雁は、ああだこうだと口論しているうちに、雲居雁は、手紙をどこかに隠してしまう。
▼夕霧は、心の中では、なんとかしてその手紙を取り返さなくちゃと思うのだが、何気ないふうをよそおって取り返そうともしないでいるうちに、夜になってしまう。雲居雁は、もう手紙への疑いも晴れたのか、ぐっする寝入ってしまうのだが、夕霧はパッチリと目があいたまま、寝られない。
▼雲居雁が寝込んでしまったのを幸い、起き上がってあちこちさがすのだが、どこにもない。おかしいなあ、隠すところなんて、そんなにあるはずもないのになあなどと思って探すけど、やっぱり見つからない。まあ、暗いので無理もないね。
▼朝になると、雲居雁は、手紙のことなんか忘れてしまって、起きてきた子どもたちの世話に大わらわ。まんじりともしなかった夕霧は、朝になっても、手紙のことで頭がいっぱい。ああ、アイツどこに隠したんだろうと、明るくなった室内を探すのだが見つからない。
▼それにしても、あれは確かに御息所からの手紙に違いないけど、いったいどういう内容なのだろう。それが分かんないと返事をかくこともできないじゃないか、困ったなあと、夕霧は焦り、あのさ、昨日の手紙だけど、あれ、どんな用事だったのかなあ、見せてもくれないなんてひどいじゃないか、今日は気分が悪いから六条院にも出かけられそうにないから、手紙を書きたいんだけどなあ、なんて言うのだが、雲居雁は、あら、小野のお山の風にあたってお風邪をめしたとでもお手紙なされば? なんて嫌味を言う。
▼だからさあ、そういうことじゃないでしょ、オレみたいな真面目な男がそんなことするわけないから、オマエがそんなヤキモチ焼いているのを見て、女房たちは笑ってるぜ、などと冗談言いながらも、とにかくさあ、手紙はどこなの? って聞くけど、雲居雁はぜんぜん返してくれない。雲居雁自身、どこへ隠したのか忘れてしまったのかもしれない。そのうち、夕霧はうとうと寝てしまう。昨晩一睡もしてないのだから、無理もない。
▼「ひぐらしの声におどろきて」(ヒグラシの鳴き声にハッと目がさめて)みると、もう夕暮れ。霧深い小野の山荘はどんな様子だろう、何としても、今日のうちに返事を書かねばと焦る夕霧は、ふと、自分の座っている座布団の一部が膨らんでいるのに気づいて、めくってみると、あったよ、ありました。
▼なんだ、こんなところにあったのかと、嬉しくもばかばかしくもあり、さっそく手紙を読んでみると、思いがけない深刻な内容。これを書いた御息所の心中を思うと、昨晩のうちに返事が来なかったことでどんなに御息所は苦しい思いをしたことだろう。そのうえ、今日ももう夕方になってしまった。取り返しのつかない時間がたってしまったことが、悔やんでも悔やみきれない、そんな思いにかられる夕霧は、手紙を隠すなんて悪ふざけをした雲居雁が憎たらしくさえ思えるのだった。
▼この夕霧の、時間への思いには深く共感する。状況はまったく違うにせよ、ぼくらには、「ああ、取り返しのつかない時間がたってしまった」と悔やむことが何度あることだろう。手紙を隠したり、探したり、居眠りしたりといった時間が経っていく、その同じ時間に、御息所は、死ぬほど苦しい思いを味わっていたのだと気づいたとき、「ああ、取り返しがつかない」という夕霧の思いは、今も新鮮なものとしてさまざまな人生のシーンに存在している。
▼そんな辛い思いをさせた「悪ふざけ」を雲居雁がしたというのも、オレのしつけがわるかったからだと、夕霧は反省したりして、ほんとにもう泣きたい気分だった。
▼夕霧の「真面目さ」は、ときに滑稽だが、こういう場面では、繊細な男の感情をみせてくれるようで、ちょっと感動的だ。

 

★『源氏物語』を読む〈205〉2017.9.24
今日は、第39巻「夕霧」(その8)

▼やっぱり、夕霧が返事も書かずに、いや書けずに手紙を探していた間、落葉宮の母御息所は、塗炭の苦しみをなめていた。
▼母は、すでに娘が夕霧と契ってしまったと思い込んでいるから、どうしても夕霧と結婚させなければならないと思って、結婚を許すという意味を込めた歌を詠んで贈ったのに、夕霧はなんとも返事をしてこない。いったいこれはどうしたことだ。このまま捨てられてしまったら、娘は世間の物笑いの種になる。柏木との結婚だって、私は反対だった。皇女たるもの、結婚などして余計な恥をかくよりは、生涯独身でいたほうがいいと固く身を守るのが通例ではないか。それなのに、なまじ柏木と結婚させたから、あんな目にあった。その上、また、思いも掛けなかった夕霧にこんなことをされ、挙げ句の果てに捨てられるなんて、どうしても堪えられない、と苦しみに苦しんでいたのだ。
▼当の本人落葉宮は、夕霧の仕打ちをひどいとは思っているけれど、返事がないことを気にしていないどころか、むしろ、これでもう来ないならもっけの幸いと思っている。それなのに、母親がこんなに苦しんでいるのを見て、かえって、ことの詳しい事情も恥ずかしくてことこまかに話すこともできない。
▼おかあさん、私たちは、何にもなかったのですよ、と今さら母に言ってみても、信じてくれるだろうか。たとえ信じてくれたとしても、それはそれで、そこまでいったのに、どうして中途半端なことで返してしまったの? なんて問い詰められたらどうしようと思ったのかもしれない。どっちみち、母の苦しみを癒やす術はなさそうだ。
▼母は、くどくどと、あんたはほんとうに頼りなくて情けない。私が死んだらいったいどうするつもりなの。そもそも柏木さんの結婚だって、、ともう口から出る言葉はきりもない愚痴ばかり。一方、落葉宮は、母の独り合点を無理にでも説得してその間違いをただす気にもなれずに、母を見守るばかり。
▼落葉宮が、「頼りない(いはけなし)」と言われるのをみると、やっぱり女三の宮の姉なんだなあと思う。腹違いではあるけれど、同じ朱雀院の娘。そもそも朱雀院という人が、毅然としたところのない、気の弱い、頼りない人だった。血は争えないということだろうか。
▼ああ、ほんとうに、あなたのどこが人に劣っているのかしら、それなのに、夫には先立たれ、また次の男には捨てられるなんて、なんという情けない宿世なのかしらと言っているうちに、急に発作を起こして、息も途絶えてしまった。
▼「にはかに、消え入りたまひて、ただ冷えに冷え入りたまふ。」(急に息も途絶えて、冷えきってしまわれる。)こうした発作を繰り返してきていたので、落葉宮は、いつものようにまた息を吹き返すだろうと思っていると、今回は様子が違う。律師などは、声をからして祈るが、そのかいもなく御息所は死んでしまう。
▼落葉宮は、もう自分も後を追うとばかりに、母にしがみついて離れないが、母はもう帰らない人なのだと周囲の女房たちに説得され、舞台は急速に葬儀の場へと移っていく。すぐには火葬しないでほしいという落葉宮の宮の願いもむなしく、あわただしく葬儀の準備が行われ、もうごった返した中へ、御息所の訃報を聞いた夕霧が駆けつける。
▼こんな身分の高い人が自分からこういう場所に駆けつけるというのは普通はないことなので、女房たちも戸惑うが、それでも、そこまでして駆けつけてくれたのだから、せめて、お返事をと女房は願うのだが、落葉宮は返事もしない。
▼母は、夕霧とのことを誤解したまま死んでしまった。きっとその恨みは母の極楽往生の妨げになるだろう。なにもかも、夕霧が悪い。あの人のせいで、母は死んだのだ、そう思うから、返事などできるわけもない。ただただ涙だけが溢れてくる落葉宮なのだった。
▼御息所が生きているうちは、僧侶たちの祈祷の声などが響くのだが、さていったん死んでしまうと、あっという間に、僧侶は祈りの為の壇などを片付け、あたりには葬儀へ向けた準備のための騒々しい音に変わる。こうした様の描写もまた見事で、それは、今の病院での死の情景とどこか通ずるところがある。死の直前と慌ただしい音、心臓マッサージの音、体に取り付けられた機械の音、ストレッチャーの音、医師や看護師の靴の音……そして、突然の死。そこから始まるまた別の種類の音、声……。
▼この御息所の死のあっけなさは、「夕顔」に似ている。夕顔も、源氏の腕のなかで、「冷えに冷え入りて」あっという間に死んでしまった。紫の上は、その点違っていて、いったん息絶えるが、蘇生する。そういえば、この巻では紫の上も、源氏もほとんど姿を見せないのはどうしてだろう。

 

★『源氏物語』を読む〈206〉2017.9.25
今日は、第39巻「夕霧」(その9)

▼夕霧は、御息所の葬儀に、心を尽くして助力する。それは何も落葉宮への下心があってのことではなくて、御息所のことがほんとうにお気の毒だったからだ。
▼葬儀が済んでも、落葉宮の悲しみは晴れない。
▼「山おろしいとはげしうう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづのこといといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなくおぼし嘆き、命さえ心にかなはずと、いとはしういみじうおぼす。」(山おろしの風がまことにはげしく吹いて、木の葉の散り落ちた梢はあらわになり、あたりすべてがひどく悲しい季節なので、おおかたの空の物思わしい風情にそそられて、宮は涙のかわくまもなくお嘆きになっては、母君のあとをお慕いしたいのに、その命まで思うようにはならぬものとわずらわしく情けないお気持でいらっしゃる。)
▼死にたいと、落葉宮は思うのだが、それすらままならないという深い悲しみだ。夕霧は、なんども手紙を書くけれども、いくら待っても、いっこうに返事がこない。それも当然だろう。
▼しかし、夕霧は、思うのだ。いくら悲しいといっても、限度というものがあるだろう。これじゃ、まるで子どもじゃないか。別にオレは「蝶よ花よ」といった色っぽいことを書いてるわけじゃない。御息所の死を心から悼む気落ちを書いているのに、それが彼女には分からないのだろうか。
▼「蝶よ花よ」なんて言葉が源氏物語に出てくるなんて意外だなあ。そのころの恋文によく使われた文句らしい。
▼夕霧は続けて思う。あの、致仕の大臣(かつての頭中将のこと。雲居雁や柏木の父。)の母親の大宮が亡くなったとき、オレはすごく悲しかったのに、致仕の大臣は、親子の死別は当然のことだと割り切って、ただただ派手に葬式をやることに心を砕いていたのが腹立たしかった。それに引き替えオレの親父(源氏のこと)は、自分の親でもないのに、悲しがって、その後の法事にまでずいぶんと懇ろにいとなんだのは、まあ、オレの親だからいうわけじゃないけど、嬉しかったものだ。そうだ、その時の、柏木の嘆きようも、オレの心に沁みて、それ以来あいつの人柄を慕ってきたんだっけなあ。
▼だから、というわけではないけれど、人の死を悲しむ気持ちには、その人の本当の心が現れているものなのだから、そこを落葉宮にも分かってほしい、そう夕霧は思うのだ。
▼そんなことを考えて、ぼんやりばかりしている夕霧を、妻の雲居雁は、子ども託して歌を贈る。「そんなに悲しがっているのは、亡くなったお母さんを思ってなのか、それとも、その娘さんを思ってなのか、どちらなのかしら? それが分からないと慰めようもないわ。」って歌。(「あはれをもいかに知りてかなぐさめむあるや恋しき亡きや恋しき」)
▼それにしても、長年連れ添った夫婦でも、やっぱり肝心なときの気持ちの伝え合いの時には歌を贈るわけだ。この場面では、歌を書いた紙を、子どもに「あんた、これ、お父さんのところへ持って行ってちょうだい。」って託すわけだが、なんかおもしろい。
▼今だったら、ラインってとこだろうか。ぼくは、ラインはやらないから知らないけど。
▼夕霧は、苦笑して、しらじらしいなあと思う。で、返事を書く。別に誰かを思って悲しんでいるわけじゃないよ。世の無常を思って悲しんでいるのさ。(「いづれとか分きてながめん消えかへる露も草葉の上と見ぬ世を」)
▼雲居雁は、まったく何が「露のあはれ」なのさ、とぼけちゃって、ああ、まったくやんなっちゃうなあと、ひたすら心を痛めている。
▼完全にすれ違い。夫婦仲が冷えきっているわけじゃないけど、かなりやばい感じだ。大学生の頃に読んだときは、この夕霧の恋というのは、中年男の滑稽な恋というレベルで、家庭を壊すほどのものではなかったという印象だったが、どうもだいぶ違うようだ。これじゃ、ただじゃすまないよね。

 

★『源氏物語』を読む〈207〉2017.9.29
今日は、第39巻「夕霧」(その10)

▼落葉宮はどんな気持ちで暮らしているのだろうと、夕霧はそればかり考えている。喪が明けたら、ゆっくりと訪ねようと思っていたのに、それも我慢ができずに、小野(落葉宮の住む邸)に出かけていく。
▼世間にはすっかり広まってしまた「あらぬ噂」だが、もうこうなったら、とことん行くとこまで行くしかない。ただの「あらぬ噂」のまま終わったんじゃ意味ないし、それにいざとなったら、あの御息所の手紙(結婚を許すことを匂わせた手紙)もあるし、って夕霧は開き直ってしまう。
▼こうなったら、もう怖い物なしだね。落葉宮がどう思おうとそんなこともう知ったこっちゃない。
▼9月の13日ごろ、夕霧は小野へと向かう。その風景描写がいい。
▼「九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だにただにやはおぼゆる。山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわただしうあらそひ散るまぎれに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただ籬(まがき)のもとににたたずみつつ、山田の引板(ひた)にもおどろかず、色濃き稲どものなかにまじりてうち鳴くも、愁へ顔なり。滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆(りんどう)の。われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のころのことなれど、をりから所からにや、いと堪へがたきほどのもの悲しさなり。」(九月十日過ぎのころとて、野山の景色は、ものの風情をわきまえぬ人でさえ心動かされずにはおられようか。山風に堪えぬ木々の梢も、峰の葛の葉もあわただしく先を争って散り乱れるなかに、ありがたい読経の声もかすかに聞え、念仏の声ばかりして、人の気配はほとんどなく、木枯しが吹きはらうので、鹿は垣根のすぐ近くにたたずんでは、山田の引板の音にも驚かず、濃く色づいた稲田の中に入りこんで鳴いているのも思いを訴えているかのようである。滝の音は、物思う人の心をひとしおそそるかのように音をたてている。草むらの虫だけが頼りなさそうに鳴き声も弱まって、枯れ草の下から竜胆が、ひとり命の長さを見せ、のびのびと這い出て露に濡れているなど、いずれも変りない秋の季節の風情であるけれど、折も折、所も所のせいか、ことに堪えがたいほどのもの悲しさである。)
▼秋の風情はどこまでも人の悲しみを誘うかのようであり、また、人の心がこの秋の風情そのもののようでもある。目に入る景色ばかりではなくて、ここでは、「風の音」「引板(鹿を追い払うしかけ)の音」「鹿の鳴き声」「滝の音」「虫の鳴き声」など、さまざまな自然の音が交響し、その中に僧侶の読経の声が、ピアノソロのように流れる。
▼けしからぬ思いの夕霧だが、小野の邸は悲しみに包まれているのである。
▼寝殿の御簾の近くに座りこんだ夕霧の姿も美しさもまた女房の目をひく。まるで女性のような美しさで、女房たちもうっとりするほどだ。
▼夕霧は、落葉宮の女房である「少将」(幼い頃から御息所に育てられた)に、思いを訴える。
▼その少将が着ている着物の色は、濃い「鈍色(濃いネズミ色)」で、喪中の色なのだが、近親者ほどその色が濃いという。喪服の色の濃さで、亡くなった人との関係がわかるなんて、びっくりする。悲しみは近親者ほど深いというわけでもないけれど、この「感情のグラデーション」の繊細さは、現代にはないものだ。
▼今では、喪服といえば黒一色で、親族だか、友人だか見分けがつかないけれど、もし、こうしたグラデーションの喪服が制度化されていたら、めんどくさくてしょうがないけど、葬儀の様子はまた違った趣になることだろう。
▼このいわば「制度化された感情のグラデーション」の中に、制度化されない個々の人間の「感情のグラデーション」が存在するのだろう。薄めの「鈍色」の喪服を着ている女が突然激しく泣き出すとかいったことが起きれば、そこにもうドラマが生じるわけだ。
▼しばらく夕霧は少将になんとか落葉宮に気持ちだけでも伝えてほしいと訴える。少将も夕霧の情にほだされて泣き、落葉宮に夕霧の思いを伝えるのだが、この夢のようなはかない世をあきらめる気持ちになりましたら、いつものお見舞いへの御礼も申し上げることができるでしょう、といったつれない返事しかもらえず、夕霧は、むなしく、秋の風景の中を帰っていくのだった。
▼出かけたときの勇んだ気持ちも、この秋の悲しい風景に、すっかりしめってしまったようである。

 

★『源氏物語』を読む〈208〉2017.9.30
今日は、第39巻「夕霧」(その11)

▼落葉宮の住む小野の邸から空しく家路を辿る夕霧。その「道行き」の描写がすばらしい。
▼近松の戯曲でも、ジャームッシュの映画でも、「道行き」は、いつも魅力的だ。人間は「旅する者」だからだろうか。
▼「道すがらも、あはれなる空をながめて、十三日の月いとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。いとどうちあれて、未申のかたの崩れたるを見入るれば、はるばるとおろしこめて、人影も見えず、月のみ遣水(やりみず)の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうしをりをりを、思ひ出でたまふ。
見し人のかげすみ果てぬ池水にひとり宿守(も)る秋の夜の月
とひとりごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心はそらにあくがれたまへり。」
(道すがらも心にしみ入る夜空を眺めて、十三日の月がまことに明るく昇ってきたので、その名も小暗い小倉の山もまごつくことなく戻っていらっしゃると、一条宮〈落葉宮の邸〉はその道筋なのであった。以前よりもいっそう荒れた感じで、西南のすみの築地の崩れから邸内をのぞいてみると、格子はずっと一面に下ろしてあって、人影も見えず、月影ばかりが遣水の面をさやかに見せて、いかにもこの邸に住みつき顔なので、大納言〈柏木〉がここで管絃の遊びなど催されたあの時この時をお思いうかべになる。
見し人の……〈昔の友の姿を映すこともなくなってしまった池水に、ひとり秋の夜の月だけが影を宿してこの邸を守っていることよ〉と、独り言を言い言いお邸にお着きになってからも、月を眺めては心はうわの空に虚けていらっしゃる。)
▼引用が長くなったが、じっくりと味わっていただきたい。
▼夕霧が後にしたのは、「小野」だが、その帰り道、十三日の月が出てきて、あたりを明るく照らす。すると、「小倉山」のイメージが浮かぶ。「小倉」は「小暗」を連想させるから、「暗い夜道も、この月のおかげで迷わずにいける」ということになる。「たどる」という言葉には、「行くえや、ありかなどを捜し求める。」の意味が元になっているが、ここでは「迷って行きなやむ。」の意。「捜し求めているうちに迷う」という意味の展開だ。こうした言葉の意味の展開過程もまたおもしろいものだ。
▼この「小倉」は有名な歌枕(歌に詠まれる名所)で、あの有名な「小倉百人一首」も藤原定家が、小倉にある山荘で選んだとされる。
▼小野のあたりは、京の町中とは違って野原だろうから、月に照らされたその情景の美しさは自ずと知れる。
▼しばらく行くと「一条宮」を通りかかる。そこは落葉宮と柏木が住んでいた邸だが、柏木はすでに亡く、落葉宮は母親の病気療養のために小野についていってしまい、いまだにそこにいるので、すっかり荒れ果てている。その荒れた邸の描写もいい。
▼人はだれもいないが、月がそこに住んでいる(池の水に澄んで映っている)。「住む」と「澄む」の掛詞だが、ダジャレとは違って、趣がある。ちなみに、「住む」と「澄む」は、たんなる同音異義語ではなくて、意味的にも通じるところがある。このことについてはだいぶ前だがこんなエッセイを書いたことがある。「すむ」(http://www.venus.dti.ne.jp/〜yoz/essay/essay.yz.300.35.html)

▼月だけが住んでいるこの邸を夕霧は見て、ああ、ここで柏木が宴会をしたんだなあとしみじみと思う。まるで幻のように、その幸福な彼の姿が現れるかのようだ。
▼そんな柏木の幻影を心に抱き、また落葉宮の姿を心は追って、夕霧はまるで虚けたかのように、家に帰ってもぼんやり月を眺めているばかり。
▼今日は、たった10行しか読まなかった。遅く読めば読むほど、見えてくることは多い。

 

★『源氏物語』を読む〈209〉2017.10.1
今日は、第39巻「夕霧」(その12)

▼自宅にもどっても、まるで魂が抜けたようにぼんやりと月を眺めている夕霧をみて、女房たちも、あらまあ、柄にもないことと、みんなで夕霧のことを憎たらしく思っている。
▼雲居雁も、心底情けなくやりきれない思いだ。
▼あの人ってきたら、六条院の女たちこそ女の鑑(かがみ)だみたいなこというけど、そりゃあアタシだって、六条院に住んで、やれ正妻だ二号さんだ三号さんだといったたくさんの女たちに混じって暮らしているなら、それなりの経験も積んで、うまく立ち回ることだってできたでしょうけど、そうじゃないんだから。世にも珍しい堅物で、ほんとに羨ましい夫婦だなんて親兄弟からも言われてきたっていうのに、ここへきて、こんなことじゃ、この先どんな大恥かくかしれたものじゃないわ、などと嘆きは尽きない。
▼夜があけても、二人は背き合って寝ている。「夜も明けがた近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして」(夜明け方が近いのに、お二人はお互いに何をおっしゃることもなく、背を向け合ったままため息をつきつき明かして)とある。
▼夕霧は朝起きると、「朝霧の晴れ間も待たず」、矢も楯もたまらず、いそいそと落葉宮への手紙を書く。雲居雁はそれを横目でみていて、あ〜あ、まったくこれだもん、って思いつつ、この前みたいに後ろにまわってその手紙を取り上げる気にもなれない。
▼夕霧は、そういう雲居雁なんか眼中になく、手紙を夢中になって書きながら、その中の歌を口ずさんだりしている。和歌は、やっぱり口に出して吟ずるものなのだろう。内緒の手紙のはずなのに、思わず小さい声で歌を吟じてしまうから、雲居雁に聞こえてしまう。どうもやっぱり恋の歌みたいだわって思っていると、夕霧はさらに「いかでよからむ」(どうかうまくゆけばよいが)なんて口ずさむ。色よい返事がくればよいが、という意味だろうか。そして、使いの者に手紙を託す。
▼まったくこの辺の夕霧の行動は常軌を逸している。恋文を女房のいる部屋で書き、その一部を「音読」し、それが女房に聞かれるかもしれないとすら思わない熱中ぶり。
▼雲居雁は、返事がきたら、その返事の内容を知りたいものだと思うのだが、お返事は、やっぱり落葉宮からのものではなくて、女房の小少将からのもの。
▼やっぱりムリでした。でもそれではあなたがあまりにお気の毒なので、宮様があなたのお手紙に手習(自分の思いを自詠や古歌に託してすさび書きすること)なさったのを、破いて入れておきます、ってある。
▼ずいぶん大胆なことをする女だよね。夕霧の手紙の余白に落葉宮が手習をした、その部分を破いていれるなんて、なかなかできないことだ。その破かれた紙には、歌とおぼしきものが書いてある。内容は、母を偲んで私は毎日泣いているというような意味の歌で、ちっとも「お返事」になってないけど、それでも夕霧は、ちょっと嬉しいらしい。
▼こんな色恋沙汰で相手の手紙に一喜一憂するなんてことは、昔のオレなら、何をバカなことやってんだ、正気の沙汰じゃないと思っていたけど、いざわが身に降りかかってみると、ほんとに不思議だ、どうしてこんなにいらつくのだろうかと、反省もするけど、恋に狂ったわが身をコントロールできないのだった。
▼真面目一本で中年まで生きてきて、恋に憂き身をやつす男を軽蔑すらしていたというのに、今、自分がそうなってみて、初めてわかる。恋するってことはこういうことだったんだと、夕霧は思うわけである。
▼雲居雁も大変だ。真面目な夫が、突然年甲斐もなく恋に落ちた。夫の浮気なんて思いもしなかったし、そんなこと慣れてないから、どう対処していいかわからなくて、夫の手紙を後ろから奪い取るなんてハシタナイまねまでしてしまった。そんな私に向かって、夫は、オマエは六条院の女と違って、タシナミというものがない、下品だ、少しは彼女らを見習え、なんて文句言うけど、私は芸能界の女じゃないわよって言いたくなる。夫は夫でこういうことに慣れてないから、浮気をするときの「夫としての心遣い」もなにもあったものではなくて、まるで子どもみたいな振る舞いしかできない。
▼しかし、こうしたことは、現代でもいかにもありそうな話だよなあ。

 

★『源氏物語』を読む〈210〉2017.10.2
今日は、第39巻「夕霧」(その13)

▼夕霧の浮気の噂を聞いた源氏は心を痛める。その痛め方がおもしろい。
▼あいつはどこか老成したところがあって、何ごとにも慎重で、人から非難されることもなく、浮ついた噂のひとつも入ってこないから、これでオレの若い頃の悪評も少しはやわらぎ、名誉挽回になるかとうれしく思っていたのになあ、これじゃ台無しだ、なんて思うのだ。
▼自分が女たらしで有名で、須磨への流謫までに至ったスキャンダルを起こしたような不名誉を、息子のまじめさで果たして「挽回」できるものだろうか。そんなことはないだろうと思うんだけどなあ。
▼真面目な親の息子が不始末をしでかして、真面目な親までが非難されるということは、実によくあることだけど、その逆は聞いたことがない。そういうときは、親は親、子は子だ。あの子は親に似ずずいぶんと真面目ねえ、という噂は、それにしてもあの親ときたら、という展開となるはずで、ちっとも親の名誉の挽回にはつながらないと思うんだけどね。
▼源氏は、また思う。あの夫婦は赤の他人同士ってわけでもなく、嫁さんはあの致仕の大臣(かつても頭中将)の娘なんだから、アイツもきっと嫌な思いを味わうだろうなあ。そんなことが夕霧に分からないはずはないんだけど、まあ、これも男女の仲ってやつで、どうにもなることでもあるまい。宿世だ。
▼源氏物語では、どうしようもない事態になると、すぐに「宿世だ」ということになるが、まあ、それも時によりけりで、こんな場合には逃げ口上にしか響かない。
▼致仕の大臣だけじゃない。女というものは、こういう場合、いつも辛い思いを味わうものだから、落葉宮も雲居雁も気の毒なことだ、と、源氏は気を回して心を痛める。
▼この噂を聞いた紫の上は(久しぶりの登場だ)、女ほど生きにくく窮屈で可哀想なものはないわと女性の生き方に思いを致して嘆く。
▼「女ばかり、身をもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、をりをかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経るはえばえしさも、常なき世のつれづれをもなぐさむべきぞは」(女ほど、身の処し方が窮屈で、痛ましいものはほかにありはしない。しみじみと感に堪える情趣にせよ、折々の興をそそる風流事にせよ、まるであずかり知らぬふうにおとなしく引きこもったりしているのだったら、何によってこの世を生きている喜びを味わったり、また無常な世の中の所在なさを慰められたりすることができるというのか。)
▼ここに紫式部の本音が出ているのではなかろうか。このまま何を思っても黙って埋もれていてもつまらないわと続く本文からは、式部の吐息が聞こえるような気がする。
▼源氏は、夕霧と会って、ほんとの所はどうなってるんだって、その本心をそれとなく探ろうとするが、夕霧は頑として口を割らず、話をそらしてしまう。
▼あ、こりゃダメだ。こいつがこんなに頑固になってしまったら、もう、オレが何を言っても無駄だと思う源氏だった。
▼御息所の四十九日の法要がある。これも夕霧が先頭になって仕切るものだから、世間はますます噂し、致仕の大臣も、なんだアイツはと面白くない。
▼落葉宮は、父の朱雀院に、出家したいなんて漏らすものだから、朱雀院はあわててとめる。女三宮は既に出家してしまい、それだけでも悲しいのに、姉のおまえまで、まるで競争するみたいに出家するなんていうもんじゃない、そもそも、生きていくのが苦しいから出家するなんて、見苦しいことだぞと、懸命に説得する。ほんとに朱雀院って人は、いつまでたっても心配の種が絶えない人である。

 

★『源氏物語』を読む〈210〉2017.10.3
今日は、第39巻「夕霧」(その14)

▼源氏の心配をよそに、夕霧の恋はますますエスカレートしていく。
▼いくら言い寄ってもちっとも色よい返事をくれない落葉宮に業を煮やし、こうなったら、もう強引に出るしかない。亡くなった母御息所がOKしてくれたんだから、それを口実にすればいい。なんだかんだ世間から言われたら、母親がOK出したことが軽率だったんだと罪をきせればいい、結婚のことも「いつそうなったか」分からないようにぼやかしてごまかしちゃおうなんて勝手なことを考える。
▼いちおう確認しておきたいが、まだこの時点では、夕霧は落葉宮と「してない」のである。落葉宮は、いやいやでも、まあ、仕方がないと思っているわけでもない。夕霧の口実は、ただ、あの瀕死の床で母御息所が書いた手紙だけなのだ。
▼なまじ真面目な堅物が恋をすると、手も付けられないとはこのことだ。真面目で堅物ということは、頑固をも意味するのだから、恋で頑固になったらどうしようもない。
▼こうなったら、涙ながらに恋心を訴えてもラチはあかない。とにかく、落葉宮を今いる小野から一条邸に戻してしまおう。それで万事解決だとばかり、ちゃっかり吉日を選んで、(つまり、それを持って結婚したことにしたいから、日を選ぶわけ。)用意をする。
▼一条邸はすっかり草ボウボウで荒れ果てているから、庭を整えたり、家具を揃えたりして、準備万端整える。その上で、御息所の甥で、落葉宮の世話をしている大和守という男に、さあ、落葉宮を説得してこの一条邸に連れてこいと命ずる。
▼大和守も逆らうことができないから、小野に行って、落葉宮を説得するが、もちろん落葉宮は、応じようとしない。けれども大和守も必死。
▼私は、これ以上あなたのお世話はできないんですよ。もうすぐ、任国の大和に行かなきゃならないんですからね。確かに、皇女ともあろう方が、結婚することすら勧められたものではないのに、再婚までしなくちゃならないなんてことはないんですけど、それでも、今までにそういう例がないわけでもありません。女一人でこれからどうやって暮らしていくのですか、やっぱり女にはちゃんとした人が必要なんです。それにしても、そもそも、君たちがけしからん。とんでもない手紙の取り次ぎをしたりするから、こんなことになるんだ。
▼なんて、女房の方にも八つ当たり。女房たちも、責任があると思っているかどうかしらないけど、よってたかって、一条邸に帰りましょうと落葉宮を説得するものだから、彼女もどうしようもなくて、ああ、出家しちゃえばよかった、と、まだ長い髪を横に掻き出してみると、六尺の長さの髪は、ずいぶん傷んでいる。ああ、これじゃ、とても人に会える姿じゃないし、と思いつつ、それでも心を強くもって、あんな男にはなびかないと決心しても、周りはやいのやいのとせかすし、髪を切ってしまおうかと思っても、鋏はどこかに隠されているし、もう万事休す。
▼そうこうしているうちに、女房たちは、もう手荷物まとめて、出発しちゃうし、このまま自分一人ここに残っていることもできないから、泣く泣く車に乗るのだった。
▼そういえば、この小野に来たときも、側にはオカアサンがいて、病気で苦しいのに、私をいたわって髪を撫でてくれたっけ、なんて思うにつけても、涙があふれる。その時も持っていた経箱が今も手元にある。母の形見のその経箱を見るにつけても、「浦島の子がここちなむ」(あらぬ世界に帰る浦島の子のような気がする。)もちろん、「経箱」から「玉手箱」を連想しての表現だろう。
▼異世界へ赴く浦島太郎の伝説は、当時すでにひろく行われていたらしい。本当は、自分の家に帰るはずなのに、そこにはあの夕霧がもう夫として待っている。そんな理不尽があるだろうか。まさに、落葉宮にとって、自宅はそうした「異世界」なのである。

 

★『源氏物語』を読む〈212〉2017.10.4
今日は、第39巻「夕霧」(その15)

▼泣く泣く帰ってみれば、落葉宮を待っていたのは、ちっとも喪中らしい悲しげな気配とてなく、ざわついた我が家。その邸の一角(東の対の南面)に、夕霧が主人気取りで座っている。
▼雲居雁の住む三条殿では、女房たちが、まったくいつもまにあんなことになっちゃったのかしら、色っぽいことなんかこれっぽっちもないああいう方は、こんなに突拍子もないことをするものなのね、と呆れるばかり。
▼世間の人は、これまで夕霧が落葉宮との仲をおくびにも出さずに隠してきて、ここへ来て突然の「結婚宣言」というふうに受け取ってしまっていて、落葉宮はまったく同意してないし、ふたりはまだ何にも「してない」なんてこと、全然知らないのだ。
▼なんか、こういうのって、最近の芸能人ゴシップにもありそう。
▼その夜、みんな寝静まったあと、夕霧は当然のように落葉宮のもとにやってくる。女房の「少将」を責め立てて、なんとか会わせてくれというのだ。家につれてきたとはいえ、どかどかと勝手に寝室に入りこむことはできず、女房に取り次ぎを頼むあたりは、今とはだいぶ事情が違っていて、おもしろい。
▼少将は、もう困ってしまう。御息所が亡くなったショックがまだいえてないんですから、そんなときに、そんなことになってしまったら、もう、宮様は死んじゃいますよ、どうかこういうご無体はやめてください、「手をすって」懇願する。「蠅が手をする足をする」を思わず思い出して笑ってしまう。
▼こんな不愉快な扱いは味わったことがない、いったいオレと宮のどちらに非があるのかなんて言って嘆くのを見ていると少将もさすがに気の毒にはなるが、どっちに非があるかなんて言われたら、それはあなたでしょ、と軽く非難しながら、なんとかして夕霧の寝室への侵入を阻止しようと頑張るけれど、夕霧もこうなったら、おめおめと引き下がるものかと思うものだから、そうなったら男の方が強い。さあ、案内しろと少将を責め立て、自分でも見当をつけて(暗いので)、落葉宮の寝室に入っていってしまう。
▼落葉宮は、冗談じゃない、こんな男のいいなりになるものかと、「塗籠(ぬりごめ)」(四方に壁を作った納戸みたいな部屋)に中から鍵をかけて閉じこもってしまい、座布団を敷いてそこで寝てしまう。
▼親とケンカした高校生が、自分の部屋に閉じこもるみたいなもので、そうした振る舞いは女としては子どもっぽいなあと思いつつも、そうするしかない。しかし、ずっとこうしているわけにもいかないし、まったくほんとに女房たちはだらしないったらありゃしないと思うばかりで、外から話しかけてくる夕霧に返事もしない。
▼夕霧は、ねえ、そんなとこに閉じこもってないで、出てきてよ、ちょっとでも隙間をあけて、顔を見せてよなんて言い続けるけど、ぜんぜんダメ。哀れ夕霧は、またしても「なんにもない夜」をそこで過ごして、泣きながら三条殿を後にしたのである。

 

★『源氏物語』を読む〈213〉2017.10.5
今日は、第39巻「夕霧」(その16)

▼泣く泣く一条院を出て夕霧は六条院に行く。
▼「六条の院におはして、やすらひたまふ。」(六条院においでになって、おくつろぎになる。)六条院は源氏の邸だが、夕霧が「やすらった」のは、花散里のところ(六条院の東北の町)である。花散里は夕霧の養母で、とてもおっとりとした優しい人だから、夕霧はここでは、気持ちが安らぐのだ。
▼あなたが落葉宮を一条院に連れ戻したって噂だけど、ほんとなの? と聞くときも、決して詰問というテイではなくて、「いとおほどかに」(いかにもおっとりと)質問するのだ。
▼しかも、こういう会話をするときに、几帳をぴっちり閉じて相手に自分を見られないようにするのが、当時のタシナミだが、花散里は、ちょっと隙間をあけて、夕霧が自分の顔を見ることができるようにする。暖かい心遣いなのである。ここは、いってみれば、美人で気立てのおだやかな女将がいる馴染みの小料理屋ってとこだろうか。小料理屋の屋号は「花散里」に限る。
▼落葉宮のオカアサンが、今際の際に、娘をよろしく頼むとの遺言があったものですから、私としても、それを無にすることもできませんので、まあ、そういうことになったわけでして、そんなに大騒ぎするほどのことじゃないんです。それに、宮は出家したいなどと言い出すので、万一そうなってしまったとしても、私は最後まで面倒を見るつもりなのです。ですから、何かとついでに、お父さん(源氏)にも、そう伝えておいてください。
▼そんなことを言ったあと、夕霧が、この前も、お父さんには叱られましたけど、男女のことは、なかなか人から言われたとおりにはできないものですね、と本音を漏らす。
▼すると、花散里は、ああ、やっぱり噂だけじゃなくて、ほんとだったのね。でもね、今まで安心しきっていらっしゃった、「三条の姫君」(雲居雁のこと)がどんなに嘆いていることでしょうね、って言う。
▼すると、夕霧は、「姫君」なんてずいぶんと可愛らしいもののように言うんですね、あれは、鬼のような性悪者(鬼しうはべるさがなもの)ですよ、と言うのだ。
▼ついに雲居雁は「さがなもの」になってしまった。「さがなもの」と呼ばれた近江の君が思い出されるが、彼女とはずいぶん違うけれど、長年連れ添った女房というものは、ヘタをすると、亭主の中では「鬼」になっちゃうんだよなあ。
▼そういいながらも、夕霧は、まあ、そうは言っても、大丈夫です、ちゃんとあの人の面倒を見ますから。六条院での女性たちのありようを私も見て学習してますからね、でも紫の上の気遣いはとても真似のできるものじゃありません、そして、やっぱりオカアサン(花散里)の立派さをこのごろつくづく感じるのです、なんて言うと、花散里は、笑って言うのだ。
▼それはそうと、笑っちゃうのは、オトウサマ(源氏)よね、ご自分の女癖の悪いのを人が知らないとでも思ってるのかしら、ちょっとでも色っぽいことをあなたがなさると、もう大騒ぎしてみたり、あなたの悪口を陰で言ったりするのよねえ。利口ぶった人っていうのは、自分のことはちっとも分かってないものだとよく言うけど、まさにこのことね。
▼この言葉を聞いて、夕霧も我が意を得たりで、そうなんですよ、いつも男女のことになると、ぼくに厳しいんです。でもそんなこと言われなくても、ぼくはちゃんと気をつけていますよ、なんて調子に乗って返事をするけど、なんのことはない、「ちゃんと気をつける」どころか、もうどうにもならなくなっているのだ。
▼花散里っていうのは、いいなあ。もうだいぶ前から源氏は相手にされなくなっているようなのに、ちゃんと自分の居場所を確保して、そこから冷静に源氏のことを眺め、源氏に対して穏やかに対応しながら、こんな辛辣な批評もする。養子の夕霧も可愛がり、紫の上とも仲がいい。こんな女性、なかなかいない。
▼その後、夕霧は源氏のところへいくのだが、源氏は、夕霧の匂うばかりの若さに圧倒されて、これじゃ、女がほっとかないよなあ、それに自分で鏡を見ても、こんなにキレイなんじゃやっぱり思い上がってしまうのも無理ないや。コイツが多少まずいことをしたって、この美貌じゃ、世間もきっと許してくれるんじゃなかろうか、って、むしろ感心して夕霧を眺めている。変な親。
▼平安時代というのは、おおざっぱな言い方をすると、「道徳」よりも「美」が重んじられていたのだ。「美しいから許される」というところがどうも色濃くある。そしてまたあまりに美しいものは不吉だとも思われていたようだ。「美」への「畏れ」の感覚だろうか。この辺は、非常に興味深い。

 

★『源氏物語』を読む〈214〉2017.10.6
今日は、第39巻「夕霧」(その17)

▼日が高くなってから、夕霧は、ようやく三条殿(自宅)に戻る。出迎えるのは子供たち。オトウサマ、オトウサマと甘えてまつわりついてくる。
▼雲居雁は、帳台(寝台の周りをカーテンで囲った寝室のようなもの)の中で寝ていて起きてもこない。夕霧は帳台に入り込むが、女は目も合わせない。男は、ああ、怒ってすねてるんだと思いつつも、何食わぬ顔で、女の引き被っている着物をひっぱるが、「ここをどこだと思ってるの? 私はとっくに死んじゃってるわよ。あなたが私のことを鬼だ鬼だというものだから、そんならいっそ本物の鬼になってしまおうと思いましたからね、なんて言う。「鬼」は、当時死者の魂だとも思われていたので、私はもう死んじゃった鬼よ、ってわけである。
▼そんな憎まれ口にも男はひるまない。
▼おまえの心は、鬼よりひどいけどさ、姿はかわいいから、嫌いになれないなあ、なんてシャアシャアという。夕霧、やるじゃん。
▼女は腹が立って、そんなにオシャレしちゃって色気振りまいているようなお方のお側にいつまでもご一緒できる身でもありませんから、わたしはどこかへ消えてしまいます。長年おめおめと連れ添ってきたことだけでも、悔やまれることだわ、と言いながら、起き上がる姿や顔がとってもかわいいらしく美しいので、男もそんなに子どもっぽい怒り方をするから、慣れちゃって、ちっとも怖くないや。鬼ならもっと鬼らしく神々しくなきゃあ、なんて冗談言うと、
▼ガタガタ言わずに早く死んじゃえ! アタシも後を追って死ぬから。見れば憎たらしいし、聞けば腹が立つし、あなたを見捨てて死ねばあなたのことが気になるし、なんて女が言えば言うほど、かわいらしさが増すばかりなので、男は笑いがこみあげる。
▼男は何やかやと女をあやしているうちに、女も、まったく心にもないことを言っちゃってと思いながらも、だんだん機嫌がよくなっていく。そういうもんなのかなあ。長年連れ添った夫婦だからだろうか。しかし、ウチじゃこうはいかないだろうなあ。関係ないか。。
▼雲居雁の機嫌がよくなるのを見ると、夕霧は、やっぱりこの人はいとしいなあと思いつつ、もう、心はウワノソラになってしまい、一条にいる落葉宮へと魂はとんでいく。
▼あの宮は、そうそういつまでも強硬な態度をとるとも思えないけれども、どうしてもオレと一緒になるのがいやだからといって尼になってしまったらもう元も子もない。そうだ、はやく、一条へいかなきゃ、って焦るのだ。
▼雲居雁は昨日も今日も何も食べなかったのだが、言いたいだけ言って気持ちも晴れたのだろうか、少し食事などもする。そういえば、オマエと一緒になるときは、ずいぶん苦労をしたよねえ。お父さんがなかなか許してくれず会わせてもくれなかけれど、その間に固く操を守るなんて、女でもできることじゃないぜ。どうしてあんなことができたのか我ながらエラいと思うなあ、なんて、変な自慢して、今さらオレを憎んでも、こんなにたくさんいる子どもたちだって心配だろうから、どこへも行けやしないさ。とにかく長い目でみてよ、最後までオマエを捨てはしないから、なんて、安っぽい演歌みたいなことを涙を見せてまでして言ってはみせるが、気もそぞろ。
▼しわだらけになった着物を脱ぎ捨て、新調した着物に着替えて、さっぱりと美しく身繕いして出て行く夫の姿を、火影のもとに見送る妻は、こらえきれずに涙をながす。演歌だねえ。
▼「脱ぎとめためへる単(ひとへ)の袖を引き寄せて」(脱ぎ置いていった単衣を手元に引き寄せて)歌をよみかける。「馴(な)るる身をうらむるよりは松島のあまの衣に裁ちやかへまし」(長年連れ添って古びてしまった我が身を怨むよりは、この単衣を我が身になぞらえ、いっそ出家してしまいたいわ。)
▼「馴るる身」というのは、なかなか凝った表現だ。「馴る」という言葉は、衣服の糊がとれて柔らかくなった状態のことを言う。それが、今で言う「馴れる・慣れる」の意味も表すようになったわけだ。つまりここでは、夕霧が脱いでいった単衣は、すっかり糊がとれて柔らかく、またしわくちゃになった。その単衣のように、私自身も、長い夫婦生活ですっかり「なれて」しまった、ということなのだ。「なれた着物」は、しわくちゃだけど、また柔らかいから洗い立てで糊のきいた着物よりもずっと着やすい。けれども、どうしてもパリッとした新鮮さには欠ける。この辺の夫婦関係が、着物の「なれ」で表現されているところが、常套的ではあるが、おもしろい。
▼そんな切ない歌に対しても、そっけない返歌をして、夕霧は落葉宮のもとへと急ぐのだった。

 

★『源氏物語』を読む〈215〉2017.10.7
今日は、第39巻「夕霧」(その18)

▼一条邸にやってくると、落葉宮は、まだ塗籠(納戸のような部屋)の閉じこもったままだ。
▼女房たちは、それじゃあんまり大人げないと世間からも思われますから(この時代「若々し(大人げない・子どもっぽい)」ということは女としてはよくないことだったようで、なんども批判の言葉として出てくる。)、ちゃんとお部屋にもどって、ご自分の気持ちをきちんとあの方にお話しするべきですと説得するのだが、落葉宮は、それはもっともだけど、世間からも悪く言われ、こんないやな思いをするのは、みんな夕霧のせいだと恨んでいて、その夜も対面しない。
▼夕霧は、いくらなんでもこれはひどい仕打ちじゃないか、何とかしてよと、せめて障子越しでもいいから会わせてほしいと少将(落葉宮の女房)に頼むのだが、落葉宮は、こんな喪中のときに、どうしてこんな情けないことをと頑として拒否。
▼夕霧も、もう引くに引けない。これでまた今晩も、何ごともなく、泣く泣く家に帰ったりしたら、それこそ男がすたる。世間がどんなにバカにするかしれたものではない。そもそもここにいて、オレの行動をじっとみている女房たちだって、どう思うだろう。だらしのない男ね、ってきっとバカにするにきまっている。ここはもう何とかしなくちゃと、さらに少将を責めたてる。
▼少将もとうとう根負けして、夕霧の塗籠の入り口へと連れていき、やっと夕霧は塗籠の中に入ることができた。落葉宮は、ああ、情けない。こんな女房たちじゃ、この先どんな辛い目にあうか分からないと、ただただ悲しい。
▼夕霧は懸命に言葉をかけるが、落葉宮は頑として心を開かない。夕霧はこんなことまで言う。こんなどうしようもない男だと軽蔑するかもしれないけど、今さらどうしようもないんです。世間ではもう悪い評判がたってしまっていて、取り返しもつかないんですから、諦めてください。どうにもならないときは身を投げるって例もあるのですから、この私を深い淵だと思って身を投げてください。
▼この「身を投げる」には典拠があって、それは古今集のこんな戯れ歌。「世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ」(辛いことがある度に身を投げていたら、それこそ深い谷も浅くなっちゃうでしょうよ。)それくらい、「憂きこと」(辛いこと)が多いってこと。
▼けれども、落葉宮は、単衣の着物を、髪ごと引っ被って泣くばかり。ここまで拒否されては、夕霧もいかんともしがたい。そんな夕霧は、ふと、雲居雁のことを思い出す。昔は、何の疑いも持たずに、もう大丈夫だと無邪気に自分を信じていた雲居雁の様子、顔。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、嘆くのだ。
▼このちょっとした場面が、とてもいい。浮気している時に、無邪気に自分を信じている妻の顔が浮かんだら、男は切ないだろうなあ。かといって、「やめた」と言って女と別れることもできないんだろうけど。
▼夕霧とて同じこと。これで朝まで居続けて、それで「なんにもなくて」帰ったら、それこそ、物笑いの種じゃないか。そんな思いでいるうちに、朝が来て、塗籠の中にも朝日が差し込んでくる。
▼ここで、こんなことが書かれる。
▼「塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃(おんからびつ)、御厨子(みずし)などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近(けぢこ)うしつらいでぞおはしける。うちは暗きここちすれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、うづもれたる御衣(おんぞ)ひきやり、いとうたて乱れたる御髪(みぐし)かきやりなどして、ほのかに見たてまつりたまふ。」(この塗籠も、別段こまごましたものがそう多くはなくて、香料の入った御唐櫃や御厨子などぐらいがあるのをあちこちにかたづけて、人の住めるように整えていらっしゃるのだった。内部は暗い感じがするけれど、折から朝日が昇ってきた気配で光も漏れてきたので、大将は宮がひきかぶっていらっしゃったお召物を引きのけ、ひどく乱れている御髪をかきあげたりして、わずかにそのお顔を拝される。)
▼いったいこの場面で、「ことがあったか」それとも「なかったか」、それがとてもわかりにくい。
▼「うちは暗きここちすれど」とあって、その暗いうちになにがあったのか書かれないまま、朝になる。その薄明かりの中で、夕霧は落葉宮の「髪ごと引きかぶっていた着物」をはがす。この後に「情交が行われた」と「全集」の注は言う。とすれば、「御衣ひきやり」の後に、「情交」があって、その後に、乱れた髪をかき上げて、夕霧は落葉宮の顔を見た、ということになるわけである。
▼つまり「情交」の場面そのものは完全に省略して、その前と後を、文章を途切らせずにつなげてしまうのである。
▼夕霧はこのとき、初めて落葉宮の顔を見たのだ。そして、顔を見られた落葉宮は、あのうぬぼれやの柏木は、私がたいしてキレイじゃないなんて言いふらしていたみたいなのに、こんなやつれてしまった顔を見て夕霧は私のことを嫌になっちゃうんじゃないだろうかと思う。
▼こんな思いが落葉宮の中に生じたということは、この朝に、ことがあったということの何よりの証拠になるわけだ。あんなに嫌だ嫌だといっていた落葉宮が、もう、夕霧に捨てられることを心配している。切ない。
▼落葉宮は、塗籠から出て食事をする。部屋の中は、喪中ゆえ地味にしてはあるが、すっかり「新婚家庭」ふうなしつらえがしてある。一条邸で働いていた者たちも、今まではだらけていたけど、今朝はすっかりやる気になって、かいがいしく働いている。こうした情景は、すでに「結婚」が成立したから、これからは経済的にも安定するという情報が、早くも女房たちの口を通して邸中を駆け巡っているということを表している。まるで株価の変動みたい。
▼「ことがあった」らしいとわかって、女房たちが「やったあ」とばかり小躍りしている様も目に浮かぶ。
▼二人の恋は、二人だけのものではなくて、「社会的な意味」も持つわけだ。

 

★『源氏物語』を読む〈216〉2017.10.8
今日は、第39巻「夕霧」(その19・読了)

▼落葉宮との強引な結婚を知って、さすがに雲居雁もがまんがならず、子どもを連れて(といっても半分だけ)実家に戻ってしまう。
▼真面目な男が浮気をすると、もう妻なんか振り向きもしなくなると世間で言われていることは本当なんだわ、と雲居雁は、もうすっかり自分たちの夫婦仲を見届けたような気がしたのだ。
▼それを知った夕霧は、やっぱりだ、ほんとに気の短い女なんだからなあと思うと同時に、あいつの親父(致仕の大臣)は、派手好きで、短気だから、もうオレのことなんか、「めざまし、見じ、聞かじ」(不愉快だ、顔も見みたくない、話も聞きたくない)って思っているだろうなあなんて思って、ひとまず自宅の三条殿に戻ってみると、残された子どもたちが、オトウチャン! って喜ぶ子もいるし、母親を恋しがって泣いてる子もいる。
▼雲居雁がどうして子どもを全部連れていかずに、半分だけ連れて行ったのか分からないが、とにかく、この二人の間には7人も子どもがいるので、とりあえず半分だけ連れていったのだろう。
▼雲居雁に手紙を出しても梨の礫なので、ここは致仕の大臣の手前もあるから、自分から妻を迎えにいくと、雲居雁は「寝殿」にいて、腹違いの弘徽殿女御(ちょうど里にさがっていた)と語らっている。子どもはあちこちにばらばらといて、乳母が世話をしている。
▼オマエとは気が合わないことは前から分かっていたけど、子どももこんなに大勢いるのだから、あの程度のことで家を出るなんて、短気すぎるんじゃないか、と文句を言うと、もうあなたはすっかり私に嫌気がさしているんでしょうし、私の気性は変わりようもないんですから、何も我慢して家にいることもないと思っただけですわ、私が産んだ見苦しい子どもだけでも、捨てないでくださればうれしいんですけど、なんて開き直っている。
▼「あやしう中空なるこころかな」(どうしてかこのところどこへ行ってもおさまりのつかぬ中途半端なことばかりよ)これがまず夕霧の心境。落葉宮には拒絶され、雲居雁にも愛想をつかされ、どうにも中途半端だなあと嘆くのだ。
▼そして、こんなことを思うのだ。「いかなる人、かうやうなることををかしうおぼゆらむ、など、物懲(ものごり)しぬべうおぼえあまふ。」(いったいどんな人がこうした恋路に興をおぼえるのだろうなどと、こんなことには懲り懲りといったお気持にならずにはいらっしゃれない。)
▼真面目人間の恋は、こうした索漠とした結末を迎える。全集の「注」は言う。「そこ(夕霧の恋)には、父光源氏の好色の豊潤さはまるでなく、ほろ苦い喜劇の味が残るだけである。」
▼夕霧のもう一人の妻である藤内侍は、雲居雁に同情して手紙を出す。雲居雁と夕霧が、致仕の大臣によって仲を裂かれていた時期に、夕霧はこの藤内侍と親しくしていて、雲居雁と結婚したあとは、冷たくされてはいたのだが、それでも、子どもが5人もいるのである。
▼そして、この物語の最後に、雲居雁腹の子ども7人と、藤内侍腹の子ども5人の計12人の名前が列挙される様は、なんともおかしい。そして、この子どもたちはみなすぐれた人たちばかりだけど、この家族のお話は、もう語り尽くせません、といって、この長い「夕霧」の巻は、急速に幕を閉じ、本筋、つまり源氏と紫の上の話に戻っていくのである。

 



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