「源氏物語」を読む

 

No.24 胡蝶 〜 No.25 螢

 

 


【24 胡蝶】

 

★『源氏物語』を読む〈115〉2017.6.18
今日は、第24巻「胡蝶」(その1)

▼日本では古い時代から「春秋の争い」というのがある。春がいいか、秋がいいかという争いであり、優雅な争いだ。しかし「夏冬の争い」というのは聞かない。夏が好きか、冬が好きかという話題は、ともすれば、どっちが嫌かということになりやすい。平安時代なんかは、冷房はないし、暖房だって火鉢くらいのものだから、「好き」なんていえないだろう。
▼ぼくなんかは、夏になると冬が恋しいし、冬になると夏が恋しい。つまり、暑さ・寒さに弱いわけだ。兼好法師は、家を作るときは、夏涼しいように作れといっている。冬は寒いといっても重ね着でもなんでもすればなんとかなるが、夏の暑さはどうしようもないといっている。それも一理ある。夏のどうしようもない暑さを、冷房なしの教室で何十年も授業をやってきた身としては、せめて、学校の経営者に徒然草ぐらいは読んでいてほしかった、と思う。
▼ま、それはそうと、この「胡蝶」の巻は、紫の上と中宮(秋好中宮・六条御息所の娘)との、「春秋の争い」から始まる。といっても、取っ組み合いのケンカをするわけじゃなくて、和歌の応酬である。すでに、去年の秋、中宮から「心から春まつ園はわがやどの紅葉を風のつてにだに見よ」(ご自分から好んで遠い春をお待ちの方は、せめて私の方の紅葉を、吹き寄せる風の便りにでもご覧ください)という歌が、紫の上に贈られていた。
▼この巻の冒頭は、紫の上の住む「春の御殿」の美しい描写から始まるのだが、その美しさを中宮は伝え聞いても、身分が身分だから簡単には見に行けない。行けないっていっても、お隣なんだから、いいじゃないかと思うのだが、そこはそこ、身分社会の厳しいところ。で、自分の代わりに、おつきの女房たちの中でとくに感受性の優れたものを選んで、彼女らを船に乗せて、隣の「春の御殿」を訪ねさせる。つまり、隣り合った御殿の庭の池が、つながっているわけ。それで、その船で「春の御殿」に行った女房たちは、もうこの世とは思えないというほど美しい春の風情に感激し、それを帰ってから中宮に伝えるわけだ。今なら、Instagramなんかでちゃちゃっとできるわけだけど、それにしても、中宮は、この目で見たかったなあと嘆くのももっともだ。
▼しばらくして、紫の上は、去年の秋の中宮の「挑戦」にお返しの歌を贈る。「花園の胡蝶をさへや下草に秋まつむしはうとく見るらむ」(花園に舞う胡蝶をも、下草に隠れて秋を待つ松虫は、なんとも思わないのでしょうか。)という歌がそれ。要するに、中宮は「秋の紅葉がキレイだから、春を待つなんて言ってないで見にいらっしゃいよ。秋って素敵よ。」って言ってきたのに対して、「私んとこの春の庭に飛んでる胡蝶の美しさを、秋を待ってる松虫(とうぜんシャレですよ)は嫌だと思うとでも言うの? キレイな春を見にいらっしゃいよ。」って返したわけだ。春の御殿を見てきた女房たちも、そりゃキレイでしたよの連呼だったりするから、この勝負は、結局「春の勝ち」となったのである。のどかな話である。紫の上にしても、中宮は源氏の愛人じゃないから、気持ちも楽なのだろう。
▼玉鬘はどうなったか。源氏の思わくどおり、若い貴族たちのこころはざわめいている。その中でも、若くないのに、源氏の腹違いの弟の「蛍宮(ほたるのみや)」(この巻では兵部卿宮として出てくる)が、源氏の思わくどおり(源氏は親しいこの弟をからかってやろうという魂胆があったらしい。読み落としてた。)、玉鬘に心を寄せて、求婚してくるといった展開。
▼この「蛍宮」というのは、源氏の弟なのだから、もうちょっと存在感があってもよかったはずなのに、ここへ来て俄然目立つ。ぼくも、見落としていたのかもしれないが、まあ、全員覚えているというわけにもいきません。担任の生徒だってまともに覚えられなかったんだからね。

★『源氏物語』を読む〈116〉2017.6.19
今日は、第24巻「胡蝶」(その2)

▼源氏が玉鬘を自分の邸六条院に引き取ったのには、若い貴公子たちが突如出現した美少女玉鬘をめぐって、足も地に着かずないほどに恋にもだえる様を見て楽しみたいという魂胆があったのだということは、前に紹介し、なんて嫌らしい中年オヤジだと罵倒したのだが、ここまで読んでくると、まあそれほど腹をたてるほどのことではなく、一種の「風流心」なんだろうなあと思えてくる。「好き心」というのは、単なる「エロオヤジ」ということではなくて、そうした恋に関する諸々の態度を含めていうのである。
▼マジメ人間の夕霧なんかは、すっかり自分の姉だと思い込んで恋心なんかは抱かないが、兄弟なんだから間近に接してもいいと思っていたりする。それより問題なのは、柏木で、こっちはまさに玉鬘の異母弟なのに、当人はまだそれを知らないで、玉鬘に恋文を送ったりしているのだ。(韓国ドラマはほとんど見てないけど、こういうのあったんじゃないかなあ)
▼いろいろな男から来る恋文を、源氏はいちいちチェックして、「受付」の右近(玉鬘の侍女)に、返事をどうすればいいかなどの指示だか教育だかをしている。ちょっとしたことにかこつけて送ってくる手紙なんかにはいちいちマジメに返事しなくたっていいし、それを男はいちいち気にしないよ、とか、ちょっとじらしたほうがいいこともあるよとか、さすが源氏、慣れたものである。
▼そんな中に、やたら固く結んである手紙がある。こんなに固く結んだりして、これはいったい誰の手紙? って右近に聞くと、最初は知らんぷりしているが、しつこく聞かれて、それは柏木さんのですって答える。源氏は、いじらしいヤツだと笑って、まあ、そのうち実の姉だと分かる時がくるさなんて、特に気にしていない様子。それどころか、「そのこと=兄弟だってこと」は適当にごまかして返事を書かせておきなさいなどと言う始末。もちろん、玉鬘は、どんな手紙にせよ、書くのやだなあと思っている。
▼やがて、この柏木が、この物語の展開において重要な役割を果たすことになるのだが、まだそれは先の話。
▼源氏は自分の弟の蛍宮については、あいつもいいけど、いろいろ女に関してよくない噂があるしなあなどと言って玉鬘を警戒させる。右大将(のちに読者が「髭黒の大将」と呼ぶようになる。「黒髭」じゃないから注意。)なども恋文を送ってくる。こんなところは、まるで、「竹取物語」で、かぐや姫の所へ何人もの貴公子が求婚してくるところを思わせる。
▼さて、そんなドタバタのなかで、いちばん問題なのは、柏木でも蛍宮でも髭黒でもなくて、源氏自身である。なんてったって、まだ子どもの紫の上に惚れ込んで、「強奪」してきてしまった源氏だ。この美少女玉鬘に対して「親」としての振る舞いのレベルを堅持できるかという疑念は読者にも当然わくところだろう。当時の読者も、きっとある種の「期待」を持っていたに違いなく、そして、物語はその期待に添うわけである。
▼つまり、源氏は、この玉鬘が好きになっちゃうのである。まったく困った男である。源氏36歳、玉鬘22歳。まあ、年齢的には問題ないんだろうけど、かりにも「親」を名乗っているんだからなあ。なにかにつけて、自分の気持ちを匂わすような歌を送ったりするのだが、玉鬘は、ぜんぜんそんな源氏の気持ちに気づかない。そりゃそうだよね。「親がわり」なんだから。
▼玉鬘は、なんとかして実の父(かつての頭中将・源氏の親友・葵の上の同腹の弟あるいは兄)に、私はあなたの娘ですって連絡したいなあと思ってはいるのだが、なかなか勝手なまねはできない。じゃ、源氏はなんで、頭中将に秘密にして自分の邸に引き取ったかというと、前から言っているような「魂胆」があるからでもあるのだが、実は、頭中将には、いろいろな女性との間に何人もの子どもがいて、今さら、あの夕顔の娘だよっていって彼のところに連れていっても、彼が玉鬘を大切に扱うかどうかわかんないって源氏は思っているわけである。なにしろ、身分社会だから、あんまり出のよくない夕顔の子どもでは、腹違いの兄弟姉妹から、邪険に扱われる可能性だって十分にあるのだ。だから、源氏をあんまり責めることもできないのだ。
▼そういう意味では、親をはやく亡くして、孤児同然になっていた若紫を「強奪」したのも、男子高校生のように「ロリコンだあ」なんて言ってばかりもいられなくて、あの「強奪」があったからこそ、紫の上の未来は開けたのである。そして、そのような状況で源氏に愛され、「第一夫人」となったからこそ、紫の上の後の「悲劇」もあったわけなのである。それもまた先の話。

★『源氏物語』を読む〈117〉2017.6.20
今日は、第24巻「胡蝶」(その3・読了)

▼とうとう源氏は、玉鬘への思いを口にしてしまう。
▼御簾をあげて、玉鬘のそばに入ってしまっても、おつきの女房たちは、「親子の親密な語らい」だから邪魔しちゃいけないというので、さがってしまう。それをいいことに、源氏は、玉鬘に自分の思いを告白する。そればかりか、彼女のそばに「添い寝」してしまう。上着をそおっと音のしないように脱いで、玉鬘の手なんか握って(あとはどこまでしたか書いてないけど、髪などなでたりしたのだろうか)、そばに寝た、ということらしい。
▼玉鬘はもう、びっくりして、「親」がわりの源氏が、こんなことするなんてと、もう悲しくてシクシク泣いている。それでも、源氏は、そんなにオレのことを嫌わなくてもいいじゃないか。赤の他人だって、女というものは男に言い寄られたら身を任せるものだよ、それが、親代わりで大切にしてきているのだから、いいじゃないか、なんて、まったくわけわかんないことを言って口説く。だが、さすがに源氏も中年で、それなりの分別もあるから、かつて、藤壺と過ちを犯したようなことにはならない。そこらへんの抑制はきくようになっているわけである。
▼抑制はきいたとは言っても、こんなことしてる。「(玉鬘は)むつかしと思ひてうつぶしためへるさま、いみじうなつかしう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり肌つきのこまやかにうつくしげなるに」(玉鬘の、気味悪くおもって、うつぶしていらっしゃる姿は、たいそう魅惑的で、手つきがふっくらと肥えていらしゃって、姿や肌つきはきめこまやかでかわいらしく見えるので)。「肌つきのこまやかなる」っていうのは、「見て」そうおもったのか、それとも「触って」そう感じたのか、あいまいだけど、絶対後者だろうって思う。見ただけで触らなかったなんて考えられない。なんて想像してしまうぼくも相当エロオヤジだなあ。
▼玉鬘はこのとき22歳で、当時としては、とっくに婚期を過ぎた女性(だいたい当時の貴族の女性は14、5歳が婚期)なのだが、田舎育ちのうえに、おつきの女房たちに、男女の仲を経験したスレッカラシがいないものだから(いれば、男っていうのはね、こういうことをするんですよなんて「教育」するはずなのだ)、男女の仲というのが、どういうものか知らない「処女」なのだ。だから、源氏に手を握られたり、添い寝されたりしてだけで、ショックで、これ以上男と女がどういうことをすることになるのか全然知らない。ただこんなことになったのが悲しくて恐ろしくて気味が悪くてブルブルふるえるばかり。それに、もし、この先いつか、実の父の会ったときに、源氏とこんなことになったのが知れたらほんとに恥ずかしいって思うものだから、悩みに悩む。
▼源氏もあんまり長居していると、女房たちに感づかれるから、そうそうに引き上げるのだが、玉鬘には、今夜のことは内緒だよと、釘をさすのを忘れない。
▼まあ、そういうわけで、玉鬘の「処女」は守られるのだが、翌朝、やっと告白できて調子にのった源氏は、「後朝(きぬぎぬ)の歌」まがいの歌をおくってくる。「後朝」というのは、「男女が共寝をして、ふたりの衣を重ねてかけて寝たのが、翌朝別れる時それぞれ自分の衣をとって身につけた、その互いの衣。衣が、共寝のあとの離別の象徴となっている。」(日本国語大辞典)ということで、「後朝の歌」は、コトがあった翌朝贈る歌のことだ。ただ、添い寝しただけで、「共寝」をしたわけじゃないのだから、そんな歌は迷惑千万なわけで(だいいち、右近なんかが読まないとでも思ってるのだろうか。「読んだ」という記述もないが。)、玉鬘は、もうメンドクサイなあ、嫌だなあ、キモイなあ、と思って悩んでいるうち、ストレスがたまって、ほんとに病気になってしまった。
▼いくら土壇場で抑制できたとはいっても、源氏のこの所行にはあきれるばかりである。源氏物語の全訳に熱中した谷崎潤一郎も、源氏ってやつはどうしようもないヤツだ、許せん。紫式部は源氏の肩をもちすぎているって、いつも怒っていたらしい。まことにムベなるかなである。源氏の「支持率」が、自民党なみに、いやそれ以上に下がった「胡蝶」の巻であった。

 

【25 螢】

 

★『源氏物語』を読む〈118〉2017.6.21
今日は、第25巻「螢」(その1)

▼やはり平安時代の夜は暗いのである。このことをとくと考え、想像力を全開にしないと、平安文学──いや古典文学というのは、十分に味わうことはできないだろう。
▼現代の都会の夜は明るくて、谷崎じゃないけど「陰翳」にとぼしい。人間の顔が、丸裸で、誰の目にもさらされている。女性が大口あけて口紅塗ったり、つけまつげつけたり(このときも口あけてたりする)するさまを、日常的に「見る」ことが可能だ。(みたくないけど)
▼源氏物語における恋の場面は、当然のことながら夜の出来事だから、「ほとんど見えない」のである。暗いうえに、何重にも御簾とか几帳とかで隔てられているから、見えない相手を、想像するしかない。その手がかりになるのが、「声」だったり、「部屋にたきしめられた香の匂い」だったり、相手から渡された手紙の紙の質・色・模様だったり、そこに書かれた筆跡だったり、ありとあらゆるものを総動員して、相手の女性のイメージを作りあげていくことになる。
▼逆に、女性側からしても、相手の男と親密な関係になってしまえば、直接見ることも可能だけれども、まだ言い寄られているレベルでは、やっぱり「よく見えない」。そうすると、おつきの女房たちからの情報も大事になるわけである。
▼この「よく見えない」ということを背景に、源氏のいたずらが、それもかなり優雅ないたずらが描かれるのが、この「螢」の巻だ。
▼源氏は、自分から玉鬘にしつこく言い寄るいっぽうで、弟の螢宮を玉鬘に近づけようとする。そうした源氏のわけのわからない行動に、玉鬘は、ほんとにメンドクサイて嫌だなあ(むつかし)と思っているのだが、源氏はいっこうに頓着しない。
▼ある日、螢宮が玉鬘を口説きに訪れることを知った源氏は、物陰にかくれて様子をみようと待ち構えている。そして、螢宮が玉鬘の部屋の近くに来たときに、几帳の隙間から、うすい布に包んでおいたたくさんの螢を部屋に放つのだ。その光りに、玉鬘は、誰かが紙燭(「しそく」と読む。紙で作ったろうそくではないので注意。詳しくはこういうものである。「屋内で用いる松明のことで、「ししょく」ともよび、「脂燭」とも書く。手火の一種である。太さ3センチメートルほどの棒状のマツの木を長さ45センチメートルぐらいに切り、あらかじめ先のほうを炭火で黒く焦がし、その上に着火しやすいように油を引いて乾かし、手元を紙で巻いて用いたところから紙燭といわれる。」(「日本大百科全書」より)を灯したのかと思ったというのだから、結構明るかったのだろう。あわてて扇で顔を隠す横顔を源氏はしっかり見て、うんいいなあなんて思っているみたい。
▼この辺の叙述が素晴らしいのは、まず視点を源氏において、螢の光に一瞬照らされる玉鬘の様子を描いた後、ちょっと時間を戻して、こんどは、螢宮に視点をおいて、もう一度その同じ場面を描いているところだ。螢宮も、一瞬あたりが明るくなったので、びっくりして見ると、その光にぼんやりとではあるが、背の高そうな感じで伏している玉鬘を「見る」。けれども、女房たちがあわてて螢をつかまえたのか、その光もすぐに消えてしまったので、螢宮はまるで幻影をみたような気がして玉鬘への思いを一層募らせることになる。そこが源氏の狙いだったわけだ。
▼たわいもないいたずらではあるが、これが結果的には、当時の室内の照明事情を明らかにすると同時に、螢の光の美しさ、それにまして、螢の光に一瞬闇の中に浮かび上がる玉鬘という、幻想的な光景を読者の心の焼き付けることになるのだ。
▼そういえば、ぼくが子どものころは、夏の縁日(横浜の伊勢佐木町のハズレでは、夏の一と六のつく日には縁日で、たくさんの夜店が出たのだ。)にいくと、よく螢を売っていたので、それを何匹か買ってきては、蚊帳の中に放ち、まるで星みたいだとうっとりして見ていたものだ。翌朝、布団の上には、螢の死骸があったっけ。けっして幸福だったとはいえないぼくの幼児期にあって、そこだけは、何か、それこそ幻影のように心の中に残っている。
▼今では、いろいろな場所で、「螢鑑賞会」などが行われているが、こうした昆虫が、1000年も前から愛され続けているということに、不思議な感慨を覚えずにはいられない。

★『源氏物語』を読む〈119〉2017.6.22
今日は、第25巻「螢」(その2)

▼源氏は相変わらず玉鬘にご執心だけれど、がんばって自制し、最後の一線は越えない。玉鬘は、源氏が言い寄ってくるのを、「むつかし」(メンドウで嫌だ)と思い、自分がほんとの親ともきちんと会って、安定した身分となった上で、こんなふうに源氏に言い寄られるのだったらどんなによかっただろうと思う。というのも、源氏の姿が、その着物が、その着物にたきしめた香が、どれもみなうっとりするぐらい素晴らしくて、「惚れてしまいそう」だからだ。けれども、源氏がこんな調子では、いくら「一線を越えない」からといって、あまりに親密するぎると周囲からも噂されて、恥ずかしい目にあうのではないかと悩んでいる。
▼けれども、源氏は源氏で、この子を自分の妾にみたいな立場には絶対にするまいと考えている。だから、弟の螢宮などにも会わせ、その恋心をあおるようなこともするのだが、玉鬘には、螢宮をほめたかとおもうとその口でけなすという態度。それでも螢宮はいいけど、あの「髭黒」という男とは身内になりたくないなあと思うけれど、口には出さない。
▼玉鬘は、筑紫での様々な苦労を重ねてきた年月を思い出すにつけても、今の幸せがだんだん身にしみてきて、自然と螢宮を傷つけるようなことはしたくないと思うようになっていく。もう22歳だし。
▼5月5日は、端午の節句。宮中でも、さまざまな行事があるが、六条院でもそれをまねた行事を独自に行う。今回は、花散里の御殿で、「馬場の競射」という催し物が行われた。色彩感に満ちた華麗な描写である。
▼源氏は、行事を取り仕切った花散里への感謝もあってか、久しぶりに花散里の邸に泊まる。けれども、この二人にはもう夫婦の交わりはない。しんみりとした話はするけれど、花散里は、寝床を源氏にゆずると、自分は几帳を隔てて(つまり別室に)寝る。彼女はもう完全に身を引いているのである。それを源氏は物足りなく思うのだが、彼ももう中年で、昔のように無理やりという気にはなれない。
▼女と見れば口説くのが身上の源氏が、こんなふうに元気がないのは、どこか寂しい。周囲からみれば、男としての絶頂にみえる源氏だが、彼にも「老い」が忍び込んでいる。男は、「嫌らしい」なんて言われているうちが「花」なのかもしれない。ま、ぼくにはどっちみち昔から関係のない世界だけど。
▼それにしても、この花散里という女性は気になる存在だ。そんなに美人でもないと言われているし、源氏が何としてもものにしたいと思った女性でもないのに、いつの間にか六条院の一角にデンと構えている。何で? と思うかもしれないが、この花散里は、源氏の「叔母」なのだ。つまり、源氏の父、桐壺帝の「妻」の麗景殿女御の妹なのだ。おおらかで、やさしいこの花散里が、源氏にとっては、ただひとりの「心やすまる人」だったのかもしれない。
▼ここで、あえて復習しておけば、六条院には源氏の「愛人」が3人住んでいる。「春の御殿」に紫の上、「冬の御殿」に明石の上、そして「夏の御殿」に花散里である。「秋の御殿」には「秋好中宮(六条御息所の娘)」がいるが、これは源氏の愛人ではない。もちろん言い寄ったのだが、断固拒否されて、それで、養女として帝の中宮(つまりは后)にしたわけだ。
▼源氏の「正妻」は、葵の上だったわけだが、彼女が死んで以来、源氏に「正妻」はいない。紫の上は、源氏に「もっとも愛された愛人」にすぎない。つまり、紫の上は、源氏との愛だけで結ばれている。これは、実はある意味、きわめて不安定な立場だということだ。ここがとても重要なポイントで、この後の物語展開の要となる。
▼当時の結婚は、女性にとっては、その「後ろ盾」が非常に重要で、いくら「愛がすべて」なんていっても、ちゃんとした後ろ盾がない結婚はみじめである。そもそも源氏の生母の桐壷更衣の悲劇から源氏物語は始まるわけで、どうしてそれが悲劇だったからというと、桐壷更衣の身分が「いとやんごとなききは」(非常に高い身分)ではなかったからだ。だから、宮中でいびり殺されるような結果となったのだ。そう考えてみると、紫の上は、孤児同然のところを源氏に拾われたのだし、明石の上は、田舎育ちで、半ば強引な父親の売り込みで愛人となったというわけで(半分は「神の意志」めいたところもあるが)、今や六条院の「頂点」にいるのは紫の上だけれど、いつ源氏の「愛」が冷めるとも限らない。そうなったら、紫の上の転落は底知れないだろう。その不安のなかで紫の上は生きてきたのだ。

★『源氏物語』を読む〈120〉2017.6.23
今日は、第25巻「螢」(その3、読了)

▼「螢」の巻は、「物語論」があることで有名だ。「物語」っていうものは、どういうものなのかについて、紫式部は、源氏の口を借りてきちんと解説しているのだ。
▼誰か特定の人物のことをありのままに書くわけではなくて、あくまで作り事ではあるけれど、時代や国の実情の応じての真実が書かれているのが「物語」なのであり、それは時代や国を超えた普遍性をもっているのだというのがその主旨であろう。「日本紀」(六国史などの国史の総称)なんかは「ほんの片端」でしかない。それよりも、「物語」には、ずっと細かく大事なことが書いてあるのだとも言っている。つまり「物語」には、人間の心の機微が細かく詳しく書いてあり、それは「国史」なんかにはない大事なことなんだ、という紫式部の確信なのだろうと思う。
▼この「物語論」に関しては、いろいろな研究が積み重ねられているのだろうから、ぼくが今さら言い足すことなど何もないのだが、「源氏物語」という作品が、作者のこうした「自覚」のもとに書かれていることに、ただただ感嘆するのみである。
▼玉鬘は、源氏のもとに引き取られてから、源氏に口説かれどおしで、いささかウンザリしていたわけだが、楽しみをみつけた。それが「物語」だった。田舎にいるときには見たことも読んだこともない「物語」に熱中するのだった。(「更級日記」の作者をおもいだす。)それを見つけた源氏は、「まったく、女ってやつは、そういうくだらない嘘っぱちにすぐにだまされて夢中になっちゃうんだからなあ。こんな暑いのに、髪の乱れにもきづかないで書いてるんだからなあ。」なんていってからかう。
▼ここで注意しなければならないのは「髪の乱るるも知らで書きたまふよ」の「書きたまふ」である。「読みたまふ」じゃない。うっかり読むと、玉鬘は、物語を書いてもいたのか? って勘違いするかもしれないが、ここは「創作」ではなくて「筆写」なのだ。当時は、本というものは大変貴重なものなので、気に入って自分のものにしたかったら、自分で書き写すしかない。しかも、書き写すだけでは気がすまなくて、それに挿絵を描いたり、自分で描けないときは誰かに描かせたりして、楽しんだのだ。
▼で、源氏にからかわれた玉鬘は、ムカついて、「げにいつはり馴(な)れたる人や、さまざまにさも酌(く)みはべらむ。ただいとまことの事とこそ思うたまへられけれ。」(そうよ、まったくウソばっかりついている人(もちろん源氏へのあてこすり)は、そんなふうにいろいろ忖度するんでしょうけど、ワタシなんか、どう考えたって本当のこととしか思えないわ。」って、前に置いた硯(の乗った机)を押し出して、つまり身を乗り出して反論する。この気の強いところ、とっても魅力的。
▼それで源氏もからかうのをやめて、玉鬘に、「物語ってのはね」って説明することになるのだ。それでその説明が終わると、「どうだ。君がいろいろ読んだ物語には、君のように冷たい女は出てきたか? みんな男になびいていたんじゃないか?」なんて言って、また口説く材料にしてしまう。どこまでいっても懲りない源氏である。
▼「螢」の巻は、このあと、源氏のふたりの実子、夕霧と明石の姫君の様子を描き、その後、玉鬘の実の父、頭中将(今は内大臣)が、我が子はいったいどこにどうしているのだろうと思いを馳せ、夢占いで、もしかしたら、あなたの気づかないところで、誰かの養女になっているなんてことありませんか? っていわれて、女の子が養女になるなんてことは、あるのかなあなどと思っているところで終わる。(当時は、女の子が養子になることは珍しかったらしい。源氏が、秋好中宮や玉鬘を養女にしたということは、実は異例中の異例だったわけだ。)
▼玉鬘が夢中になって読んだであろう物語の多くは現存しない。この自然災害が多く、また戦乱の絶えなかった日本では、みんな燃えたり流されたりしてしまったのだ。ぼくらが今目にすることができる物語は、そうした無数の物語の中のごく一部なのだということを思うとき、その「奇跡」に感謝したくなる。



Home | Index | Back | Next