「源氏物語」を読む

 

No.11 花散里 〜 No.15 蓬生

 

 


【11 花散里】

 

★『源氏物語』を読む〈58〉2017.4.22
今日は、第11巻「花散里」(その1・読了)

▼「賢木」の巻が「古典全集」版で67ページだったのに、この「花散里」の巻は、たったの6ページ。あっという間に読了してしまう。けれど、この「花散里」という美しい名前と、そう呼ばれる女性は、それほどの個性はないのに、忘れがたい印象を残す。

 

【12 須磨】

 

★『源氏物語』を読む〈59〉2017.4.23
今日は、第12巻「須磨」(その1)

▼いよいよ「須磨」である。つまり、昔から「須磨源氏」と呼ばれるとおり、このあたりでだいたい挫折するというわけである。しかし、ここからがいよいよ面白くなるというのに、どうして「須磨」なのか、いっこうにわからない。
▼須磨へ落ちていく源氏は、いろいろな女性と別れを告げる。その場面はどれもしっとりしていていい。紫の上との別れはいうまでもないが、葵の上のおつきの女房、中納言の君の姿が切ない。こんな女性ともちゃんと(というのも変だが)関係を持っているというのが源氏である。
▼どこから間違えたのか、「須磨」は第12巻(というか帖)である。今更遡って直せないから、ここからちゃんとした順番にします。ほんとに数には弱いワタシです(^^;)

★『源氏物語』を読む〈60〉2017.4.24
今日は、第12巻「須磨」(その2)

▼いよいよ須磨に下向することになっても、源氏は、これまで関わりのあった女性との別れをきちんとする。「色好み」であり、「律儀」なのだ。
▼あの「花散里」にも会いに行き、しみじみと語り合って明け方に別れる。その場面。傍線部「女君(花散里)の濃き御衣に映りて、げに、濡るる顔なれば」とある。濃い紫あるいは紅色の着物の上に、月の光が映って「濡るる顔」だという。なんという表現だろう。この色彩感覚も素晴らしい。
▼大学時代にこのあたりを読んで、とにかく、男三人で、「花散里っていいよなあ。」と言い合ったような気がする。女性について何にも分かっていないぼくらでも、この「花散里」は理想的に思えたらしい。それは的外れでもなかったと思う。男の身勝手な妄想だけど。

★『源氏物語』を読む〈61〉2017.4.25
今日は、第12巻「須磨」(その3)

▼とうとう源氏は須磨に到着。おいていかれた紫の上がかわいそう。
▼解説に曰く「京を離れて須磨へ着くまでの途中の風景がほとんど描かれていないのは注目される。和歌と引歌(詩)による行文で読者の共感を誘発しつつ、源氏を須磨に送り出すのである。」
▼そういうことだとすると、源氏を読むには、和歌や漢詩についての深い理解を必要とするわけだ。まあ、当たり前のことだけど。昔の読者(貴族に限られるけど)は、やっぱり教養があったんだなあ。まあ、それも、当たり前のことだけど。

★『源氏物語』を読む〈62〉2017.4.26
今日は、第12巻「須磨」(その4)

▼源氏は、須磨で結構めぐまれた暮らしぶり。現実の流罪のようなものは、もっと過酷だったということだが、物語の主人公をそうそうひどい目には合わせられないということらしい。
▼そういえば、源氏は都を明け方暗いうちに出発して、午後の四時ごろにはもう須磨に着いてる。そんなもんか。

★『源氏物語』を読む〈63〉2017.4.27
今日は、第12巻「須磨」(その5)

▼須磨のわび住まいをしている源氏は、都に住む「女たち」に手紙を書くと、次々と手紙がとどく。そうしたいわば「心の交流」を効果的に描くために、「須磨への流謫」が設定されたのではないかとさえ思えるほど。
▼紫の上の嘆きは、死別なら「やうやう忘れ草も生ひやすらん(だんだんと忘れていくだろう)」が、須磨と聞けば距離も近いのに、いつになったら会えるのかも分からない今の状態は耐えられないという嘆きだ。「忘れていく」ということを、「忘れ草がはえてくる」と表現しているところがおもしろい。草好きとしては。

★『源氏物語』を読む〈64〉2017.4.28
今日は、第12巻「須磨」(その6)

▼「須磨にはいとど心づくしの秋風に」と始まる一節は、古来名文の誉れたかいところ。高校の教科書にもよくとられている。ぼくも授業で何度か扱ったので、ここへ来ると、あ、懐かしい! って感じになる。
▼東京書籍の「古典」の教科書にも須磨は載っている。高校生には、もちろん難しいけれど、そして、多くの生徒は、ワケの分からないうちに通過してしまうけれど、分かろうが分かるまいが、とにかく授業でやった、という経験は、実はとても大事なのだ。
▼昨今の、「社会に出てすぐに役立つ教育」なんて、ほんとは、ちっとも大事じゃないのだ。

★『源氏物語』を読む〈65〉2017.4.29
今日は、第12巻「須磨」(その7)

★『源氏物語』を読む〈66〉2017.4.30
今日は、第12巻「須磨」(その8・読了

▼「須磨」も読了となった。これでやめてしまうと「須磨源氏」になってしまうわけだが、ここから本格的に面白くなっていくのに、どうしてここでやめちゃうのか分からない。
▼「須磨」の巻は、とても充実している。最後の方で、昔からの遊び友達の「頭中将」(ここでは三位中将あるいは宰相中将と呼ばれている)が、須磨にいる源氏のことを思いやって、こんなことしたらどんな咎めをうけるかしれないと思いつつも訪ねてくる。そこでの二人のしみじみとしたやりとりは、源氏の中でも「友情を描いた随一の部分」(全集・注)とされているらしい。ほんとにいい場面だ。
▼またその中将が、土地の漁師に声をかけ、暮らしぶりはどうかと聞くと、漁師はいろいろ大変ですと愚痴るのだが、それを聞いて中将は、みんな大変なんだなあと、しみじみするところなど、おもしろい。
▼「明石の姫君」が、この巻の終わりの方で登場してくるが、「容貌はあんまりよくない」と紹介されている。これに対して、「そんなことない。美人だったんだ。」って昔の人が注釈をつけているそうだ。源氏物語についての古い注釈書はたくさんあって、そこでは、ことこまかに様々な議論が展開されている。そんなのを、ひとつひとつ調べながら、読んでいくのもおもしろそうだが、まあ、そんな時間はないよなあ。それはそれとして、「明石の姫君」は、この後、源氏にとってはとても大事な女性になっていくのだから、やっぱり美人でなくちゃまずいでしょ、って、ぼくも思う。
▼しかし、数多く登場してくる女性たちは、みな美人ぞろいだけど(末摘花のような例外もあるけど)、今、映画化するとしたら、どういうキャスティングにするか、考えてみるのも面白い。2011年に制作されたという『源氏物語 千年の謎』(この映画、記憶にない)、では、光源氏(生田斗真)、藤壺中宮&桐壺更衣(真木よう子)、葵の上(多部未華子)、夕顔(芦名星)、六条御息所(田中麗奈)、桐壺帝(榎木孝明)、弘徽殿女御(室井滋)なんてなってるけど、これじゃしょうがないんじゃないかなあ。多部未華子の葵の上とか、田中麗奈の六条御息所なんて、どうかんがえても、変。というか、無理でしょ。
▼1951年制作の『源氏物語』では、光源氏(長谷川一夫)、藤壺(木暮実千代)、葵の上(水戸光子)、淡路の上〔明石の上のことか?〕(京マチ子)、紫の上(乙羽信子)、弘徴殿女御(東山千栄子)なんてラインナップだけど、これも見てみないとピンとこない。

 

【13 明石】

 

★『源氏物語』を読む〈67〉2017.5.1
今日は、第13巻「明石」(その1)

▼「須磨」の巻の最後は嵐に襲われ、源氏が恐ろしくてすっかり須磨が嫌になってしまうという場面だったが、この「明石」の巻の冒頭は、その嵐がまだ続いている。なかなか迫力のある描写でぐいぐい読ませる。

★『源氏物語』を読む〈68〉2017.5.2
今日は、第13巻「明石」(その2)
▼おお、明石の入道が源氏を連れに舟でやってきた。なんか、不思議な風が吹いて、あっという間に須磨に着いたんだって。源氏も、さっさとそれに乗って、あっという間に、明石へ。この辺の展開、とってもスピーディ。

★『源氏物語』を読む〈69〉2017.5.3
今日は、第13巻「明石」(その3)

▼都へおいてきた紫の上のことが気になるけど、やっぱり明石の姫君も気になる。こういう運命だったのかも、なんて思うところは、いい気なもんだけど、物語的には、まさに運命的である。
▼嵐の描写のすさまじさから一転して、ゆったり流れる文章にうっとりする。

★『源氏物語』を読む〈70〉2017.5.4
今日は、第13巻「明石」(その4)

▼源氏を読み始めてから70日目。正確には、読まなかった日も何日からあるけど、まあ、続いてるのはめでたい。
▼明石の一族に対しては、源氏は、一貫して、優越感情をもっているのだと解説にある。注目してゆきたい。
▼明石の姫君は、結局、源氏と通じてしまう。やがて、妊娠となる。一方、紫の上には、子どもができない。やりきれない話である。

★『源氏物語』を読む〈71〉2017.5.5
今日は、第13巻「明石」(その5)

▼明石の姫君とのことは、自ずと都の紫の上に知れてしまう。源氏は、あれはほんの浮気心で、ほんとはあなたのことが恋しくてならないのだといった手紙を出し、紫の上は、それに対してカリカリせずに、皮肉めいた歌を返すにとどめる。そんな彼女をいとしく思うばかりの源氏は、どうしても明石の姫君への足が遠のくので、明石の姫君は、ああ、やっぱりこういうことになるのか、男女の仲というのはめんどうなものだなあと嘆くのである。
▼二人の女性、そして源氏という男の心理を描いて、余すところがない。

★『源氏物語』を読む〈72〉2017.5.6
今日は、第13巻「明石」(その6)

▼源氏は、都の紫の上としっかり心が結ばれているから、明石の姫君と、そう頻繁に会わなかったのに、いざ、都へ召還となると、毎日通うようになる。それを見ている従者たちは、「それって、ひどいよね。今になって急に通ってきたら、彼女だって、未練が増すだけでよなあ。かわいそっ!」みたいなことを陰で言い合ってる。
▼明後日にいよいよ明石を離れる段になって、いつもより早め(夜ではあるが)に、明石の姫君のところに行くのだが、いままであまりはっきりと明るいところで見たことがなかった彼女が、かなりの美人であることに今更ながらに気づいて、このまま別れるのは惜しいなあなんて思っている。この時、彼女は妊娠しているのである。昔読んだときは、子どもが出来たから、彼女をやがては都へ呼ぼうと決めたのだと思っていたが、そうではなくて、「惜しい」と思ったからなのだった。「色好み」の神髄であろうか。

★『源氏物語』を読む〈73〉2017.5.7
今日は、第13巻「明石」(その7・読了)

▼源氏は、やっぱり、ただ「惜しい」と思ったから明石の姫君を都に呼ぼうと決意したのではなかった。解説にこう書いてある。「別れを間近にして、源氏には明石の君があらゆる点で最高の貴人にも匹敵する人とわかってくるのである。源氏の気持ちは行きずりの情事から、より真剣なものへと深まる。女は源氏に傾倒しながらも、彼の言葉を信じきることはできない。来たるべき別れは、源氏から見捨てられることであり、その悲しみは深い。」
▼というわけだから、単に「惜しい」というレベルではないのだが、まあ、「惜しい」には違いない。けれども、最後の最後で、娘のことを見捨てないでくれと泣いて頼む父親に、「思い棄てがたき筋もあめれば。」(忘れようとしても忘れにくい筋合いの件──つまり明石の姫君の懐妊──もあるようだからさ。)と言って、いずれ娘を都に引き取るつもりだというようなことを匂わすわけである。
▼で、あっという間に、源氏は都へ戻り、紫の上と涙の対面となる。この時、源氏は27歳、紫の上は19歳である。若い! それでも、紫の上は、立派な大人の女性になっていて、その美しさに、源氏は、どうしてこの子とずっと一緒にいられなかったのだろう、もったいないことをした、みたいな勝手なことを考える一方で、自分との別れを悲しんで泣いていた明石の姫君(こちらも19歳か、18歳!)のことを思い出して、ああ、かわいそうなことをしたなんて、上の空になるものだから、紫の上は、ああ、やっぱりこの人、あの明石の彼女を忘れられないんだわ、って悩む。
▼源氏は、まったく罪なヤツである。けれども、この源氏が世間から顰蹙をかうことはあっても、憎まれないのは、彼の圧倒的な美しさによるのである。彼の「美」(容姿だけではなく、音楽演奏などまでも含めた)は、彼の全ての罪を帳消しにしてしまうのだ。まるで「美しければすべては許される」とでもいうように。そして、女ったらしの源氏ではあるけれど、「一度愛した女は最後まで愛する」といった、一種の「やさしさ」があって、(それがあるから、彼と関わった女はみんなキリキリ舞するのだが)、それが、世の「道徳」を打ち負かしてしまうのだ。
▼そうした源氏が、本当の意味で「罰せられる」のは、もっと後のことになる。その「後」があるからこそ、源氏物語は、稀代の名作となる。「須磨」で終わってしまったら、源氏はタダの「好色漢」にすぎない。
▼とにかく、「明石」読了。さ、次行ってみよう!

 

【14 澪標】

 

★『源氏物語』を読む〈74〉2017.5.8
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その1)

▼思えば、朱雀帝は、ほんとに気の毒だ。源氏の腹違いの兄である朱雀帝は、あの猛烈な弘徽殿女御の息子でありながら、気弱で病気がち。父桐壺帝の遺言(源氏の意見をちゃんと聞けよ、というような遺言があったのだ)をきちんと守ろうとしていたのに、源氏が明石にいたころ、夢の中で亡き父の亡霊と「目が合い」、それがもとで眼病に冒されるのだ。そんなこともあって、朱雀帝は母の反対もあったけれども、源氏を都に呼び戻すわけだが、自分の最愛の后である「朧月夜」の心は源氏のものであり、自分は結局源氏に勝てないという悲しみにくれる。朧月夜は、朱雀帝にやさしくされると、ああ、この人はこんなにも私を愛してくれている、それに比べて、源氏はそれほどでもなかったのに、なんで、若気の至りであんなことしちゃったんだろう、と後悔する。後悔しながら、結局はこの後も、源氏との縁は切れないのである。

★『源氏物語』を読む〈75〉2017.5.9
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その2)

▼明石の君は、女の子を明石で出産する。源氏はそれを聞いて、久しぶりに我が子が出来たこと、それも女の子であったことに二重の喜びを感じ、いずれ引き取ろうと思う気持ちがますます強くなる。で、まずは信頼のおける乳母を派遣する。その乳母は、恵まれない境遇にいるのだが、源氏はわざわざその乳母の家を訪ね、気を引くようなことを言う。彼女も源氏に声をかけられただけでうっとりしてしまい、明石へ赴くことを承知する。「自分を憧れる女の気持ちを逆に利用して説得するところ、源氏の面目躍如たるものがある。」と解説にある。
▼源氏は、明石の君とのいきさつを、紫の上にまだきちんと言葉にして説明してなかったのだが、女の子が生まれ、いずれ引き取るつもりなのだから、ここはきちんと話さねばと思う。「まったくうまくいかないよなあ。欲しいところには出来ないし、どうでもいいところには出来るなんだから。ま、なんだ、生まれたのは女の子だからしょうもないんだけどさ、(ほんとは女の子だったことを喜んでるのに。つまり女の子なら、后にできるからだ。)まあ、そのまま放っておくこともできないからさ、いずれ会わせるけど、彼女やその子のことを憎まないでおくれ。」みたいなことを言う。これだけでも十分に残酷なのに、そのうえ、明石の君の人柄のよさとか、琴が上手だったとか、言わなくてもいいことを言い続けるもんだから、紫の上は面白くないに決まってる。琴を弾けと源氏に言われても、どうせあの方のほうが上手なんでしょうから、とばかりに弾こうともしない。そういうふうにヤキモチをやいている紫の上を見て、源氏は、「をかしう見どころありと思す。(おもしろくお相手のしがいがあるとお思いになる。)」というわけなんだから、どうしようもない。紫の上は、耐えるしかないのだ。つくづく、気の毒である。

★『源氏物語』を読む〈76〉2017.5.10
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その3)

▼源氏に「利用された」明石の姫君の乳母は、明石の上への心のこもった手紙をみて、ああこの人(明石の上)はこんなにも素晴らしい運命にあったのね、それに引きかえ私なんてついてないわ、って思うのだが、その手紙の後に、ちょこっと、「乳母はいかに」なんて書いてあるのを知ると、すっかり辛いのも忘れてしまうのだ。そんなもんかなあ。
▼明石の上からの手紙を読んで、「あ〜あ」なんてため息ついてる源氏を紫の上は、「後目(しりめ)に見おこせて(流し目に見て)」、当てつけの歌の一節をひとり言のようにつぶやく。この辺の描写がなかなかいい。それを聞いて源氏は、「彼女のことじゃなくてさ、あそこの景色がね、思い出されてならないだけなんだから、そんな嫌味いうもんじゃないよ。」なんて言って、明石の手紙の「上包(手紙を包む紙)」だけを紫の上に見せたりする。その上包に書かれている文字が、また上品なので、あ〜あ、これだから、この人は彼女を忘れられないんだわ、と紫の上は嘆くのである。一昔前だったら、封筒だけ見せるということだろうが、今じゃ、メールのどこだけ見せることになるのだろうか。ま、見せないだろうし、その前に、ちゃっかり読まれて、痛い目にあわされるってとこだろうか。ある意味、のどか。

★『源氏物語』を読む〈77〉2017.5.11
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その4)

▼あの六条御息所は、娘の斎宮について伊勢の斎院へ行っていたのだが、娘の任も果てたので、都に戻っていた。源氏とは疎遠であったが、彼女の住む屋敷は、貴族たちの集う一種の気楽なサロンのようになっていて、いわば悠々自適の生活を送っていたのだが、急に病気になってしまい、気も弱くなって尼になってしまう。その動機を語る部分がちょっと興味深い。「もののいと心細く思されければ、罪深き所に年経つるも、いみじう思して、尼になりたまひぬ。」(なんとなく実に心細い気持ちになられたので、しかも斎宮という罪深い所で幾年も過ごしたことも恐ろしく不安にお思いになって。出家しておしまいになった。)というのだ。この「罪深き所」というのが不思議な感じがする。解説によれば、「神に奉仕する斎宮は仏教を忌む。」とある。神道と仏教の対立というのは、平安時代にはあまり感じたことはないのだが、やはり、そういうことがあったのだ。へえって思った。

★『源氏物語』を読む〈78〉2017.5.12
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その5)

▼病の床に伏している六条御息所の元を訪ねた源氏は、その娘をよろしく頼むと彼女から懇願される。もちろん源氏は、そんな「遺言」がなくても、面倒をみるつもりですと答えるのだが、そんな源氏に六条御息所は「うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。(いやな気の回しようですけれども、けっしてそのような好色(すき)がましい筋にお考えくださいますな。」、つまり「娘に手を出すな」と、釘を刺すのである。六条御息所は、とことん男の(あるいは源氏の)本性を知り抜いているから、娘には絶対に自分の苦労を味わわせたくないと思うわけだ。
▼源氏は、そんなこと思うわけないじゃないですかと言った先から、心の中では、この娘に以前から心引かれていたので、御簾の隙間から中を覗きこむ。六条御息所は、ぐったりとして脇息にもたれかかっているが、その後ろの方に、娘の愛らしい姿がほの見えて、源氏は引き込まれてしまうのだ。この時、娘は19歳。
▼源氏が訪ねて7、8日後に、六条御息所はあっけなく死んでしまう。そうなってみると、源氏は、六条御息所の遺言も思い出されて、やっぱりこの残された娘の面倒を父親としてみていこうと決意する。その決意のほどがこんな風に書かれている。「……ひき違(たが)へて心清くてあつかひきこえむ。(今までの自分とは打って変わって潔白な心でお世話申し上げよう。)」思わず笑っちゃう。「普段」は、ぜんぜん「清く」ないんだと自覚しているわけだね。そんな、ある意味「健気」な源氏だが、やっぱり、男女関係抜きで、ほんとうにこの娘の面倒を見続けることができるのかどうか、自分に自信が持てない、と書かれている。ある意味「正直」。
▼とまあ、こんな流れで、源氏の「好き心」には、ほとほと呆れてしまうのだが、この娘は、やがて冷泉帝(源氏と藤壺中宮の間にできた子)の后となり、「秋好中宮」と呼ばれる重要な人物となっていく。本当は、朱雀帝(源氏の腹違いの兄)が、彼女を后にとおもっていたのだが、それもかなわなかった。朱雀帝って、やっぱりかわいそうだなあ。

★『源氏物語』を読む〈79〉2017.5.13
今日は、第14巻「澪標(みをつくし)」(その6・読了)

▼前斎宮(後の秋好中宮)に対する朱雀院の求めに応じるのか、それとも冷泉帝のもとへ入内させるのかで、源氏は迷って、尼になった藤壺に相談する。そして、朱雀帝の望みは知らなかったことにして、ひとまず自分の邸に引き取ることにする。当然、そこには紫の上がいるのだが、紫の上は、いいお友達ができたといってまったく嫉妬しない。
▼といったところで、「澪標」の巻は終わり。充実した巻であった。

 

【15 蓬生】

★『源氏物語』を読む〈80〉2017.5.14
今日は、第15巻「蓬生(よもぎふ)」(その1)

▼「末摘花」の後日談である。あれはあれでオシマイかと思うと、ちゃんと後があるのである。こういうところも源氏物語の魅力のひとつ。
▼当時の貴族の姫君たちというのは、父とか愛人とかいった経済的な後ろ盾がなくなると、とたんに困窮する。その困窮ぶりは、外目には、まず「庭」に現れる。今でもそうだが、庭のありさまを見ると、その家の主の「経済力」「趣味」「忙しさ」などが分かるものである。現代では、いくらお金があっても、庭の手入れにまったく無頓着という家もあるから、一概には言えないけれども、当時は、一目でわかるのだ。そういう意味で、源氏物語に「庭」の描写が出てくるときは、十分に気をつけて読みたいものだ。
▼「末摘花」の姫君は、容貌には恵まれなかったが、貴族としてのプライドは最後まで一貫して守り抜く女性として描かれる。その一貫した姿勢が、やがて源氏の心を動かすことにもなるのだろう。

★『源氏物語』を読む〈81〉2017.5.15
今日は、第15巻「蓬生(よもぎふ)」(その2)

▼末摘花の叔母さんというのが、とても意地悪い人で、自分がちっともいい目をみることができずに、末摘花が、いっときとはいえ源氏に愛されたことが悔しくて悔しくてたまらない。で、末摘花が、源氏に顧みられなくなると、そらみたことかとばかりイジメにかかる。貧窮にあえぐ末摘花を、自分の娘の召使いにしてこき使おうとするのだ。言葉たくみに、自分と一緒に太宰府に行こうと誘うのだが(自分の夫が太宰府の次官となったので、行かざるをえないのだ)、末摘花は、別に叔母さんの意地悪な魂胆を見抜いてというのではなく、ただ内気だったために、それに頑として応じない。そして、いつか、源氏が来てくれるとそれだけを頼りに寂しい生活を送るのだ。
▼「意地悪な叔母」というテーマにぐっとくる。ぼくにもそういう「叔母」がいて、その意地悪を身にしみて感じたことがあるので。源氏は、普遍的。

★『源氏物語』を読む〈82〉2017.5.16
今日は、第15巻「蓬生(よもぎふ)」(その3)

▼意地悪叔母さんは、末摘花を自分と一緒に太宰府に連れていこうと(連れて行ってこき使ってやろうと)末摘花の邸をたずねて、しきりに誘うのだが、末摘花は応じない。すると、末摘花の侍女である「侍従」を強引に連れて行ってしまう。末摘花は、頼りにしていた侍従にまで裏切られたことが悲しいけれども、どうにもならない。悲しい場面だ。この時、意地悪叔母さんは、末摘花よりも、侍従の方が器量がいいから「とりかへつべく(末摘花と侍従をとりかえてしまいたいくらいだ)」と思うのである。なんてヒドイ女なのだろう。
▼それにしても、末摘花の邸の荒廃ぶりはすさまじく、叔母が訪ねたときも、おつきの男達が、戸などを力を入れないと開かないほどで、ほとんど廃屋である。それで冬を越せるのだから、不思議だ。よく凍死しないものだ。
▼そんなこんなで、年も明け、4月になって、源氏はそれまで紫の上を「珍しく」思って(長い間離れていたので)、つきっきりだったのだが、それも落ち着いてきて、花散里のところへ行ってみようかなあなんて思ってでかけた道の途中に、崩れかけ庭も森みたいになっている邸のような場所を通りかかる。なんか見たことあるところだなあと思って、おつきの惟光(これみつ)に聞くと、末摘花の邸だというので、ああそうだった、オレも薄情にもあれっきりだったなあと、やっと思い出して、偵察に行かせるのだった。ちゃんと調べてこいよ、別人だったら、オレが恥をかくんだからな、なんてこともしっかり言いつけて。
▼惟光が邸のなかに入ってみると、とても人が住んでいるとは思えない荒れかた。やっぱり誰も住んでないんだと思って帰りかけたとき、ふと人の気配がするので、「侍従の君に会いたい」と声をかけると(どうも惟光は、侍従と付き合っていたらしい。こういうことは当時、ごく普通。)、「侍従はいないけど、付き合ってもいい女ならここにいますよ」という「老女」の声。ここ、可笑しい。
▼末摘花は、変わっておりませんか、と惟光が聞くと、女達(ほとんどの女房たちは、姫を見捨てて出ていったが、何人かはどうしようもなくて残っていた)が、「お姫様の気持ちが変わってたら、こんなところに住んでるわけないでしょ。」って笑って答える。餓死寸前としか思えないのに、この余裕。おもしろすぎる。
▼おもしろいといえば、こんなことがある前に、源氏の催した会に参加した末摘花の兄の禅師が立ち寄って、いやあ素晴らしかった、源氏はこの世の菩薩様だ、なんてことを言って、生活のことなんて何も話さないでさっさと帰ってしまう。世間話すらできない変な兄妹。妹の末摘花も、私をこんなままにしておくなんて、ナサケナイ菩薩さまだわ、って思った、って書いてある。末摘花の話は、滑稽なんだけど、しみじみしていて、しみじみするんだけど、笑える。おもしろい。楽しんで書いていたんだろうなあと思う。

★『源氏物語』を読む〈83〉2017.5.17
今日は、第15巻「蓬生(よもぎふ)」(その4・読了)

▼どんなに邸が荒廃しても、源氏を信じ続けて待った末摘花の思いは通じ、源氏は、彼女を自分の邸のすぐそばに住まわせることになる。「これは」と思った女性しか相手にしなかった源氏が、どうしてこのような女性をいつまでも面倒みようとするのだろう、これはきっと「宿世(すくせ)=前世からの因縁」なのだろうと語り手は言う。作者、紫式部にはどんな意図があったのだろう。たぶん、多くの研究があることだろう。そんなのを「卒論」にしてもよかったなあ、なんて、今更思ってももう遅い。
▼昨日、花散里と末摘花の名前をごっちゃにして書いてしまって混乱したが、そもそも、末摘花訪問のきっかけは、久しぶりに花散里のところへ行ってみようかなあと思って外出したことにあった。で、「途中下車」してしまったわけだが、そこで久しぶりに末摘花に会って、本心じゃないけど、「ずっとあなたのことを思ってましたのに、ちっともお便りがなかったことが恨めしい」みたいなことをヌケヌケと言う源氏に対しても、語り手は、「よく言うよ」ってスタンスをとる。(この距離感がおもしろい)けれども、しばらく話しているうちに、顔の醜さなどはどうでもよくなってしまって(暗くて、几帳の向こうにいるからほとんど見えないわけだが)、むしろ、末摘花の悲惨な日々と、自分が味わった須磨・明石での落魄の日々とが重なりあって、源氏は、末摘花とものすごく気持ちが通じるのを感じるのだ。そのうち、花散里と比べてもこの末摘花の欠点はさほど目立たない、などと感じるに至る。こういう心の通い合いの描き方、素晴らしい。
▼邸がどんどん荒廃していったとき、侍女たちは、末摘花を見捨ててさっさと出て行ってしまったのに、再び源氏のおかげで復活してくると、恥ずかしい思いをしながらも、人間の本性をまるだしにして、戻ってくる。背に腹はかえられぬ、ということで、こういう人間のあさましさも、紫式部はしっかりと書いている。
▼というわけで、「蓬生」の巻は、オシマイ。「末摘花」の後日談の巻でした。


 

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