「源氏物語」を読む

 

No.6 末摘花 〜 No.10 賢木

 

 


【6 末摘花】

★『源氏物語』を読む〈24〉2017.3.15
今日は、第6巻「末摘花」(その1)

★『源氏物語』を読む〈25〉2017.3.16
今日は、第6巻「末摘花」(その2)

▼「末摘花」のおつきの女房の命婦が、ちょっとはすっぱで、それでもご主人思いで、面白い存在。結局、源氏はこの命婦になんだかんだと頼みこんで、逢瀬の段取りをつけてしまう。けれど、暗闇の中で逢うので、顔がぜんぜん分からないというのがミソ。当時は、こうした「滑稽譚」がいろいろあったのだろう。

★『源氏物語』を読む〈26〉2017.3.18
今日は、第6巻「末摘花」(その3)

▼突然の用事が入ったりして、一昨日は投稿を忘れ、昨日は読むことができなかった。ま、別にいいんだけど。
▼ときどき、「書」についての言及があり、とても興味深い。大学生のころは、「書」にまったく興味がなかったので、目にもとまらなかった箇所だ。

★『源氏物語』を読む〈27〉2017.3.19
今日は、第6巻「末摘花」(その4)

▼「末摘花」は、滑稽譚として有名だけど、彼女の館での貧しく哀れな生活の描写がなかなかいい。
▼アルミサッシなんてない時代で、しかも、暖房といっても、火鉢ぐらいのものだから、冬の寒さはいかばかりであったことだろう。「優雅な平安貴族の生活」という固定観念は捨てなければならない。

★『源氏物語』を読む〈28〉2017.3.20
今日は、第6巻「末摘花」(その5・読了)

▼「末摘花」も、読みどころは多い。命婦(この人は源氏の乳母子)をはんぶん脅して「末摘花」の強引に逢ったのに、夜のこととて顔も分からない。ある日、朝寝して、明るいところでちょっと見たら、とんでもない醜女だった。それで、源氏は二度と彼女の所へは通わなかったのでした、という話ではないのである。「とんでもない醜女だった。」まではいいのだが、その後、源氏は、普通の女なら、気にくわない(「末摘花」は醜女だっただけではなく、歌も下手だし、センスも悪いし、応対も控えめすぎて、とにかく、源氏好みの女ではなかった。)からオレが捨てたって、誰かが気に入って世話をするだろうが、あんな醜女では誰も面倒なんかみるはずはない、と思って、彼女に同情し、性的な関係はなしとしても、彼女の生活は援助し続けようと思うのである。そんな男はなかなかいない。そこに源氏の人間的な大きさがあるのだというのが、通説のようである。それに異論はない。昔読んだ時も、男三人で、「源氏ってえらいんだねえ。」と感心しあったものだ。よく覚えている。
▼この巻は、源氏がまだ幼い「若紫」と、お人形遊びをしている場面で終わる。とても美しい場面である。

▼これで「末摘花」はおしまい。

 

【7 紅葉賀】

★『源氏物語』を読む〈29〉2017.3.21
今日は、第7巻「紅葉賀」(その1)

▼「末摘花」までは、一般にもその名はわりと知られているが、次の巻「紅葉賀」となると、急に知らない人が増えるような気がする。けれども、このあたりから、源氏物語の核心へとだんだん入っていくことになる。
▼さて、大学時代のたった3人の「源氏物語読書会」のことは、さんざん書いてきたけれど、そのメンバーの一人、柏木由夫(大妻女子大学教授)は、卒業後もずっと平安文学の研究の道を歩み、主に和歌文学を主たるテーマにしている。その柏木が、15年前に、「こんなの書いたよ。」といって、こともなげにくれた本があった。『源氏物語の鑑賞と基礎知識 No.22 紅葉賀・花宴』(国文学 解釈と鑑賞 別冊)がそれ。ぼくは、それを本棚に並べたが、読むチャンスとてなくて、日が過ぎたわけだが、つい先日、ぼくがまた源氏物語を読んでると言ったら、「じゃあ、紅葉賀にきたら、あの本を参考にしてね。」と言う。家に帰って慌てて探したら、ちゃんと出てきた。改めて、彼がどこを書いたのかとページをめくってみると、「紅葉賀」の鑑賞の部分を半分ほど書いている。そのうえ、巻頭に鈴木一雄先生の文章が載っていたのに驚いた。読みながら、先生の、あの穏やかな口調が耳に響いた。しかも、先生は平成14年に亡くなっている。この本は平成14年の4月刊行だ。とすれば、この文章は先生のほんとに最晩年の文章ということになる。先生が亡くなったとき、柏木は、もう生きる気力がないとまで言って悲しんだのをよく覚えているが、ぼくは、葬儀にも参列しなかった。たった一人、大学で親しくお話することができた先生だったのに。しかも、ぼくの結婚式にまで出てくださった先生だったのに。
▼ぼくは、読書会をやっていたころ、源氏の素晴らしさに圧倒され、源氏研究を志した時期もあったのだが、やがて大学紛争のなかで、疲れ果て、学問にも絶望し、先行文献の多い、研究しつくされた源氏に関する論文を書く気力もなくして、古典をやめて、室生犀星を卒業論文で扱ってお茶を濁し、逃げるように大学を後にした。そして、それ以来、二度と、東京教育大学の門をくぐることもなかった。
▼まあ、何事においても中途半端なぼくにとっては、学問の道は、所詮無縁だったことは明らかなのだが、かすかな痛みはある。
▼でも、人生の終盤にあたって、一緒に源氏の読書会をしていた友人の「手引き」に従って、再び源氏を読めるなんて、そうそうあるシアワセではない。そういうわけで、この「紅葉賀」の読書は、きわめてゆっくり、柏木君の「導き」にしたがって進めていきたい。

★『源氏物語』を読む〈30〉2017.3.22
今日は、第7巻「紅葉賀」(その2)

▼源氏と「藤壺」との密通は、物語全体を貫く柱なのだが、「藤壺」にとっては大変は苦悩のもととなる。このことがあるから、この物語は、単なる好色な男の軽薄な話とはならないわけである。
▼「おほけなし」という言葉をめぐって、柏木が詳しい考察をしている。主観に頼るのではなく、本文検討、文献検討を経ての、彼なりの結論に至っている。こうした作業が、大学を卒業したころのぼくには、些末なことにこだわるつまらないことに思えたのだが、今のぼくには、とても魅力的に思える。こうした「読み」をしていけば、源氏など、一生かかっても、読み切れない。文学の沃野だ。

★『源氏物語』を読む〈31〉2017.3.23
今日は、第7巻「紅葉賀」(その3)

▼源氏の青海波の踊りをみた「藤壺」に、翌日源氏は歌をおくるのだが、それに対する「藤壺」の返歌をめぐって解釈が分かれる。
▼「道ならぬ恋」であるがゆえに、「藤壺」は自分の心を抑制したのか、それとも、源氏への思いを抑えきれなかったのか。それを「どっちが好きか」ではなくて、やはり他の部分や、他の物語などとの比較検証してゆくのが、学問なのだろう。もちろん、どう読もうと、読者の自由だとも言えるだろうが、この「検証」も面白い。
▼つまり、「藤壺」が歌の後にそえた「おほかたには」の後に、どういう言葉が省略されているか、ということだ。「書かれてないこと」を読み取る、ということが、やはり大事なのだ。
▼それにしても、「藤壺」からの返歌を、「持経のやうにひきひろげて見ゐたまへり。」という源氏の姿は、切なく、いじらしい。

★『源氏物語』を読む〈32〉2017.3.24
今日は、第7巻「紅葉賀」(その4)

▼それこそ光り輝くような源氏の美しさには、居並ぶ人たちは、みな涙を流す。若き源氏の絶頂期が描かれる。柏木は、「空も感応する光源氏の舞」と題して見事な鑑賞を書いている。

★『源氏物語』を読む〈33〉2017.3.25
今日は、第7巻「紅葉賀」(その5)

★『源氏物語』を読む〈34〉
今日は、第7巻「紅葉賀」(その6)2017.3.26

★『源氏物語』を読む〈35〉2017.3.27
今日は、第7巻「紅葉賀」(その7)

★『源氏物語』を読む〈36〉2017.3.28
今日は、第7巻「紅葉賀」(その8)

★『源氏物語』を読む〈37〉2017.3.29
今日は、第7巻「紅葉賀」(その9)

▼「若紫」は、次第に女性らしくなってきているが、まだまだ子どもで、そのかわいらしさは何とも言えない。紫式部は子どもを描くのがうまいと聞いたことがあるが、ほんとにそうだ。

★『源氏物語』を読む〈38〉2017.3.30
今日は、第7巻「紅葉賀」(その10・読了)

▼「紅葉賀」は、わりと短い巻なのだが、超ゆっくり読んだので、10回かかった。なかなか読み応えのある内容だった。なかでも、「藤壺」の懐妊がいちばん大きな出来事。物語の「芯」。次回は、「花宴」に入る。

 

【8 花宴】

★『源氏物語』を読む〈39〉2017.4.1
今日は、第7巻「花宴」(その1)

▼この巻は、非常に短い。しかし、この後の展開に重要な役割をになう事件が起きる。

★『源氏物語』を読む〈40〉2017.4.2
今日は、第7巻「花宴」(その2・読了)

▼やっぱり短い。
▼この頃の恋というのは、とにかく、暗いところで、誰? って感じで会ってしまって、その後も、あれは誰だったんだ? ってことになるのが、まあ、不思議といえば不思議。ここに出てくる「朧月夜の君」という女性も、色っぽくて、案外純情だったりする。
▼なんだかんだいってるうちに、小学館の全集の(1)を読み終えてしまった。1/6を読んだことになる。このままのスピードだと、夏の終わりころには全巻読了ということになるのだろうか?

 

【9 葵】

★『源氏物語』を読む〈41〉2017.4.3
今日は、第7巻「葵」(その1)

▼「葵の上」は、これまで、直接的にはあまり語られてこなかったように思う。あくまで、源氏の目を通して、書かれていたように思うのだ。しかし、ここへ来て、ようやく本格的に扱われるかと思うと、すぐに死んでしまう。その点で、どこか、「桐壺更衣」の描かれ方に似ているような気がする。

★『源氏物語』を読む〈42〉2017.4.4
今日は、第7巻「葵」(その2)

▼六条御息所と葵の上との、いわゆる「車争い」の場面。有名な場面だが、ほんとに簡潔に生き生きと描かれている。それにしても、六条御息所の心情は「あはれ」である。

★『源氏物語』を読む〈43〉2017.4.5
今日は、第7巻「葵」(その3)

▼六条御息所が、自分でも思いがけないほどの嫉妬と屈辱の思いに苦しめられているのに、源氏は、自分が付き合っている女はどれも捨てがたいし、一人には決められないなあと「苦しく」思う。まだ22、3の男だから、気持ちはよくわかるけど、贅沢な悩みだよね。そんなことをノンキに悩んでいるうちに、六条御息所は「生き霊」となっていってしまうのだ。この男と女のギャップに慄然とする。

★『源氏物語』を読む〈44〉2017.4.6
今日は、第7巻「葵」(その4)
▼六条御息所の生き霊が、とうとう出現。葵の上にとりつき、源氏に語るという恐ろしさ。目の前にいるのは、葵の上なのに、そのしぐさなどから六条御息所であることがはっきりわかる。異様な迫力。この筆力には今更ながら驚かされる。

★『源氏物語』を読む〈45〉2017.4.7
今日は、第7巻「葵」(その5)
▼六条御息所の生き霊に取り憑かれた葵の上は、無事に出産はするが、そのあと、源氏がいないあいだに急逝する。葵の上が、これが最後だとも思わずに源氏を見送る場面は、胸をうつ。
▼葵の上は、絶世の美女なのだ。それなのに、源氏は、なじまない。葵の上も心を開かない。三島由紀夫の戯曲、「葵の上」を読んでみることにする。三島は、そこに何を見たのかが気になる。読んだことあるはずなのだが、思い出せない、というのも困ったもんである。

★『源氏物語』を読む〈46〉2017.4.8
今日は、第7巻「葵」(その6)

▼六条御息所、葵の上、そして源氏。女と男の心が、乱れ、揺れ動く。やはり極上の物語という他はない。
▼「死」は、あっけなく語られるが、その後の、「思い」は、果てしなく纏綿と続く。「桐壺」の巻でもそうだった。

★『源氏物語』を読む〈47〉2017.4.9
今日は、第7巻「葵」(その7)

▼昔読んだころは、まったく書道に関心がなかったので、たぶん読み飛ばしていたであろう部分が、今では、とても興味深い。歌を書いて渡すにも、紙の色から、墨の色まで、細やかな心遣いが必要だったし、「字を書く」ことで「つれづれ」をなぐさめることも多かったのだろう。葵の上が亡くなった後、その部屋に残されていた「手習い」の紙を見る、左大臣(葵の上の父親)の姿が、しみじみあわれである。

★『源氏物語』を読む〈48〉2017.4.10
今日は、第7巻「葵」(その8・読了)

▼葵の上はあっけなく亡くなり、紫の上は、源氏と「新枕」ということになり、ショックですっかり不機嫌になってしまう。それでも、源氏は、正式な結婚として世間に公表しようと思うのだが、それまでの二人の経緯の「異常さ」が、今後の紫の上を深刻な苦悩に追いやることになるのだと、解説されている。
▼遊び放題だった若き源氏も、このあたりから運勢は下り坂。前途に暗雲がたちこめている。でも、まだ源氏は23歳なのである。ちなみに、紫の上は、14歳。葵の上は26歳で亡くなったのだった。

 

【10 賢木】

★『源氏物語』を読む〈49〉2017.4.11
今日は、第8巻「賢木」(その1)

▼「生き霊」というものは、今ではあり得ないものとされているが、当時としては、リアルなものだったのだろう。人が嫉妬するとき、現代なら、普通は嫉妬する自分を自覚しているように描かれる。「どうしてこんなに嫉妬するのか分からない」と思うことはあるだろうが、無意識のうちに嫉妬心が自分の中から遊離して、相手にとりついてしまう、しかも、そういう「自分」があったということに驚きもし、またおぞましくも思う、というような描き方はなかなかできない。しかし、実際に、そうした自分でも理解できないような心の動きというものはあって、それが「生き霊」という形で表現されているのだとしたら、それは現代人にとっても極めてリアルなのではなかろうか。
▼三島由紀夫の『葵上』を読んだが、彼は、この問題を「性的抑圧」という概念を使って「説明」している。こうした「説明」を入れざるを得ないというところが、近代人の限界なのかもしれない。むしろ、六条御息所の嫉妬をこんなふうなセリフにするところが、ロマンチックな三島らしくて、おもしろい。

〈六〉 どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでしょう。今あたくしはあなたの右側にいるわ。そうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。もし左側にいるとするわ。そうすると、あなたの右側の横顔はもう見えないの。
〈光〉 僕は気体になって、蒸発しちまうほかはないな。
〈六〉 そうなの。あなたの右側にいるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。そこに誰かがきっと坐るような気がするの。
  三島由紀夫「葵上」より

▼さて、「賢木」の巻だ。物語はどんどんと人間の心の深みに入っていく趣。源氏が六条御息所を野宮に訪ねるところなど、とてもいい。嵯峨野が当時から趣深いところだったというのも、おどろきである。

★『源氏物語』を読む〈50〉2017.4.12
今日は、第8巻「賢木」(その2)

▼「なごりあはれにてながめたまふ」は、とても味わい深い表現。「ながむ」というのは、今の「眺める」の元となっている語だけど、「何を見るともなくぼんやり一点を見つめている」というような意味。この連用形「ながめ」が「長雨」と掛詞になると、「長い雨に振り籠められて、ぼんやりとどこか一点を見つめている。」という意味にもなるわけ。ここでは、「なごり」が、「頭の中にちらつく美しい源氏の面影」というんだからねえ。そんなものがいつまでも、頭の中にちらついていたら、ぼんやりもしてしまうというものだ。
▼「ぼんやりして、どこを見ているというのでもなく、どこか一点を見ている」状態って、結構あるものだ。幼い頃、祖母と折り合いがひどく悪くて、辛い思いばかりしていた母が、ときどき、こんな状態だったのを、なんとなく覚えている。

★『源氏物語』を読む〈51〉2017.4.13
今日は、第8巻「賢木」(その3)

▼譲位後も政治権力を持っていた桐壺院が亡くなる。すると、その庇護の元にあった源氏や藤壺中宮は凋落してゆく。新帝朱雀帝は、弘徽殿女御の息子。弘徽殿女御の父は右大臣。これからは、右大臣家の権勢のもとに世の中が動いていくのだろうと思うと、源氏も、藤壺も憂鬱きわまりない。そういった推移が、季節の移り変わりのなかで、しっとりと語られる。
▼こうした文章に浸っていると、曲がりなりにも、教師をしながら古典文学を読みつづけてきた(古文の授業があったので、否応なしにだったが)ことが、ありがたい(めったにない、なかなかない)ことだったと思う。

★『源氏物語』を読む〈52〉2017.4.14
今日は、第8巻「賢木」(その4)

★『源氏物語』を読む〈53〉2017.4.15
今日は、第8巻「賢木」(その5)

▼藤壺宮は、源氏と過ちをおかした後、厳しく源氏を遠ざけるが、源氏はどうしても会いたくて、忍び込んでしまう。それでも、藤壺の理性はきちんと働くのだが、源氏はもう「うつつ(正気)」をなくしてしまうのだ。そういう男女関係の中に入ると、作者は「男」「女」という言葉を使う。男女関係の中では、もう大将だとか、何とかの宮だとかいう社会的な地位は無意味になってしまうのだ。けれども、ここで描かれる場面では、源氏は「男」と呼ばれても、藤壺は「女」ではなくて「宮」と書かれる。藤壺は、あくまで現実にとどまるのだ。
▼源氏は藤壺を明るい日の光の下で「見た」のは、幼い時以来なのだという。暗闇の中で、相手の顔もしかとみることができず、ただ、着物の感触とか、香の匂いだとかで、「誰」だか分かるという世界。想像もつかない。考えてみれば、すごい世界だ。

★『源氏物語』を読む〈54〉2017.4.17
今日は、第8巻「賢木」(その6)

▼それにしても源氏はどうしようもないヤツで、不義の子を藤壺に産ませておきながら、そしてそのことで父親を裏切りながら、なお藤壺への恋慕の情を断ち切れない。藤壺は、その源氏の思いに手をやいて、とうとう尼になろうと決意するのだ。尼になるということを、たった6歳ほどの東宮(後の冷泉帝・源氏との間に生まれた子)に告げる場面は哀切きわまる。

★『源氏物語』を読む〈55〉2017.4.18
今日は、第8巻「賢木」(その7)

★『源氏物語』を読む〈56〉2017.4.19
今日は、第8巻「賢木」(その8)

▼とうとう藤壺は出家してしまった。その突然の決意表明に、宮中は動揺しまくり、藤壺の父も、女房たちも、みな大泣きしているのに、源氏は自分の感情を抑えなくてはならない。なんで、あいつがあんなに泣いてるの? って思われてはまずいからだ。この辺の描き方などうまいものだ。
▼藤壺が出家してしまった以上、源氏はもう二度と藤壺と結ばれることはないのだが、かえって、普通に会うことはできるようになったというのもおもしろい。そして、不義の子の後見人としての自覚が生まれてくる。それこそが、藤壺の出家の目的だったと解説に書いてある。なるほどねえ。男は、結局女に「教育」されないと、まともな大人にはなれないのかもなあ。

★『源氏物語』を読む〈57〉2017.4.21
今日は、第10巻「賢木」(その9・読了)

▼世の中は右大臣方が権勢をふるう世の中となり、源氏の勢いはすっかり衰える。そんな中、昔からの友達である頭中将と、夏の夜に詩文を種にしみじみと遊ぶ。華やかな世界から離れても、源氏はなお美しく、教養にあふれている。それを頭中将は、「なんてすぐれた人なんだろう」と感嘆して眺める。
▼そうした場面に「薔薇」が登場するのだが、漢詩を元にしているとはいえ、当時も「薔薇」があったのだろう。野薔薇だろうか。源氏物語に「薔薇」が登場するなんて。昔読んだときは、気づかなかった。
▼さて、長かった「賢木」の巻も終わった。この巻はなかなか充実していて、これからの物語の展開を大きく左右する事柄も多く語られている。中でも、最後にきて、こともあろうに、宿敵、弘徽殿女御の妹である「朧月夜の君」との情事の現場を、右大臣(弘徽殿女御の父)が見てしまうというとんでもない事件が起きる。それを聞いた弘徽殿女御が激怒する。このあたりは、とてもスリリングで面白い。しかも、右大臣が左大臣(葵上の父)に比べると数段見劣りのする人間で、娘の弘徽殿女御が激怒するのを見て、「ああ、いわなきゃよかった。見逃してやったっていいのになあ。」なんて心弱く心のうちで嘆くあたりは、実によく書けている。まっこと見事ぜよ、紫式部!
▼しかし、朧月夜の部屋に入り込んで、朝までいて(雷がなってバタバタしていて帰りそびれたわけだが)右大臣に姿を見られているというのに、ぜんぜん慌てないで、かえって慌てふためいている右大臣のことを「やっぱ、左大臣の方が人間として格が上だよなあ。」なんて思っている源氏もおもしろいヤツだ。これを「おおきい」というのだろうか。しかし、そんなことを思いながら、「ああ、これでオレはとんでもない目をみることになるのだろうか。」とも思うわけで、現実を見てもいるのである。まことにおもしろい人物造型である。


 

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