徳田秋声「新所帯」を読む 10〜19

 

 

 


 

徳田秋声『新所帯』 10 風景は涙に揺れる   2019.2.9

 

 婚礼の翌日からセカセカと働く新吉だが、お作は、目まぐるしい境遇の変化に、ついていくのが精一杯だ。

 

 午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端(こっぱ)を得意先へ配って歩いた。岡持(おかもち)を肩へかけて、少しばかりの醤油や酒をも持ち廻った。店が空きそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪(あたま)を気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。
 新吉は昨夜(ゆうべ)来たばかりの花嫁を捉えて、醤油や酒のよし悪し、値段などを教え始めた。
「この辺は貧乏人が多いんだから、皆(みんな)細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭(みせさき)へ来て、桝飲みをきめ込む輩(てあい)も、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口をこう捻(ひね)って、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴(やつ)ら撮(つま)み塩か何かで、グイグイ引っかけて去(い)かア。宅(うち)は新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえという極(き)めなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持を担ぎ出して、また出て行ってしまう。
 晩方少し手隙になってから、新吉は質素(じみ)な晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とに托(あず)けて、和泉屋へ行くと言って宅を出た。


 新吉の商売は、貧乏人相手の「細かい商い」だ。わずかばかりの醤油や酒を売って、そこからわずかな利益を得る。そのわずかな利益をコツコツためて行って身代を築く。そういう商売をしていると、生活、考え方も、みなそういう商売に沿ったものとなる。一円を稼ぐのに費やした苦労を考えると一円をおいそれとは使えない。時間も無駄にはできない。ちょっとの時間でも働いて稼がなければ気が済まない。

 こうした商人の姿を新吉は一身に担っている。この人物造型は実にうまい。モデルがいたにせよ、やはり秋声の人間観察は優れていて、それが、硯友社での長い文章修行によって見事に表現されているわけだ。尾崎紅葉の弟子となって、多くの小説を書いてきた秋声だったが、なかなかヒット作が出なかった。その秋声の努力がようやく実を結んだのが、この『新所帯』だったわけである。

 新婚だからといって、生活に変わりはないから、女房も新しい働き手でしかない。新吉は女房を特訓するわけだ。

 ところが、お作は、どうも心許ない。「ニヤニヤ笑っている」ばかりで、もどかしい。このお作は、登場してきたときから、いい印象を新吉に与えていない。小柄で地味でぱっとしない女だ。顔も美人とは言いがたい。しかし、これで商売をテキパキとこなすような女なら、新吉にとってはなんの不満もないはずだった。それが、こんなふうにハッキリしないのでは、新吉もイライラするばかりだ。

 

 お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴(そいつ)は小野が、余所(よそ)から借りて来てくれたんだから……。」と低声に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄(みえ)も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言(ことば)をかけることもあるが、心持は空竹(からたけ)を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶(おも)い出された。自分の宅の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑(つぶ)って辛抱してくれろと言った言を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈(だる)い体と一緒に熔(とろ)け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
 お作は机に肱を突いて、うっとりと広い新開の町を眺めた。淡(うす)い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行き遍(わた)っていた。凍(かじか)んだような人の姿が夢のように、往来(ゆきき)している。お作の目は潤んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何(なん)かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。

 

 一方、お作は新吉をどう見ていたのか。何を言われても「ニヤニヤ笑っている」お作だが、新吉という男を案外きちんと見ている。ポンポンと厳しい言葉を投げられるのは辛いけど、新吉が悪人じゃないことはよく分かる。表裏のない、さっぱりとした男らし男だ。見栄を張らないでなんでもあけすけに言うあたりは頼もしい。そうお作は思うのだ。

 床の中の睦言も、商売のことばかりだけど、それでも、もっと稼ぐからしばらくは辛抱してくれというような言葉は、甘く響く。それがお作を「思いがけないような切ないような気」にさせる。

 お作は、新吉に愛されるとは思っていなかったのだろう。自分の容姿や性格へのコンプレックスは当然あったはずで、こんな私だから、ジャマにされていつか追い出されるに違いないといった投げやりな気持ちがあったかもしれない。だからこそ、婚礼の席で、別の部屋にさがってひとりボンヤリしていたのだ。自分に幸せはふさわしくない、そう思っていたのかもしれない。

 それなのに、新吉は、床の中で自分に優しい言葉をかけてくれた。それがお作には「思いがけなかった」のだ。そして、それが「切ない」のだ。嬉しいのだが、手放しで喜べない。いつかそんな甘い言葉もかけてくれなくなるに決まっている、そう思うから「切ない」のだ。

 「この五、六日の不安と動揺とが、懈(だる)い体と一緒に熔(とろ)け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。」──「懈い体」は、夜の行為のせいでもあろう。甘ったるい快楽を懈い体に反芻しながら、嬉しいとも思い、はかないとも思う気持ちを「胸一杯に漂」わせてうっとりするお作。

 この辺の文章の見事さには目を見張るものがある。涙に潤んだお作の目に映る冬の日の町。そこにぼんやり浮かぶ新吉の顔。その顔をお作はまだはっきりと思い出せないのだ。

 新吉は優しいけれど、でも、ほんとうはどういう男なのだろう。そして、自分はいつまでこの男と暮らせるだろう。きっといつか捨てられる。その不安からお作は逃れられない。風景は涙に揺れるのである。


 

 

徳田秋声『新所帯』 11 お作の恐怖   2019.2.11

 

 根は優しい新吉だったが、お作の愚鈍さがあきらかになるにつれ、苛立ちは募るばかりだった。お作の幸せは、あっという間に淡雪のように溶けていく。

 

 幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕(ゆとり)が出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳(あたま)を使うような傾きもあった。
 けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居(たちい)がしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所(とりえ)だということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人(おっと)にいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった。酒の割法(わりかた)が間違ったり、高い醤油(したじ)を安く売ることなどはめずらしくなかった。帳面の調べや、得意先の様子なども、一向に呑み込めなかった。呑み込もうとする気合いも見えなかった。

 

 新婚ということもあって、新吉はますます仕事に精を出す。体も動かすが、頭も使う。商人として成長してゆくのだ。けれども、それとは対照的に、お作の愚鈍さがあらわになる。

 

 そんなことがいくたびも重なると、新吉はぷりぷりして怒った。
「此奴(こいつ)はよっぽど間抜けだな。商人の内儀(かみ)さんが、そんなこッてどうするんだ。三度三度の飯をどこへ食ってやがんだ。」
 優しい新吉の口からこういう言葉が出るようになった。
 お作は赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。
「ちょッ、しようがねえな。」と新吉は憤(じ)れったそうに、顔中を曇らせる。「己(おら)ア飛んだ者を背負い込んじゃったい。全体和泉屋も和泉屋じゃねえか。友達がいに、少しは何とか目口の明いた女房を世話しるがいいや。媒人口(なこうどぐち)ばかり利きあがって……これじゃ人の足元を見て、押附(おっつ)けものをしたようなもんだ。」とブツブツ零(こぼ)している。
 お作は、泣面(べそ)かきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。
「明日から引っ込んでるがいい。店へなんぞ出られると、かえって家業の邪魔になる。奥でおん襤褸(ぼろ)でも綴(つづ)くッてる方がまだしも優(まし)だ。このくらいのことが勤まらねえようじゃ、どこへ行ったって勤まりそうなわけがない。それでよくお屋敷の奉公が勤まったもんだ。」
 罵る新吉の舌には、毒と熱とがあった。
 お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。
「私は莫迦ですから……。」とおどおどする。
 新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨を喫(ふか)す。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢(よっぱらい)のように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。
 こう黙られると、お作の心はますますおどおどする。
「これから精々気をつけますから……。」と顫(ふる)え声で詫びるのであるが、その言(ことば)には自信も決心もなかった。ただ恐怖があるばかりであった。

 

 ポンポンと飛び出す新吉の叱責の言葉に対すお作の反応は、「赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。」「泣面(べそ)かきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。」「お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。」というように変化してゆく。新吉の言葉や態度も、だんだんと「毒と熱」を含んでくるから、耐えきれずに、お作は、ポロポロと涙をこぼす。こうしたお作の様子はほんとうに不憫であるが、そういうお作を見ても、新吉は同情もしない。自分の中の苛立ちをどうにもできないからだ。

 涙を流しながら、お作は「私は莫迦ですから……。」とようやく言葉を発するのだが、新吉は、その言葉にますます苛立ちを募らせる。

 「新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨を喫(ふか)す。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢(よっぱらい)のように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。」──ここには、新吉の煮えくりかえる心の中が見事に描かれていて、一種の「すごみ」がある。こういう男は怖いなあとつくづく思う。

 新吉は自分に自信を持っているわけではない。むしろコンプレックスの塊だろう。けれども、新吉には「オレは努力してここまで来たんだ。」という自負がある。苦労してきただけに、その自負だけが新吉の心の支えなのだ。そういう人間は、努力しない他人に厳しいものだ。ましてそれが自分の女房ともなれば、いっそう許せない。

 他者に対して優しい人間というのは、得てして自分にも優しいものだ。「自分に厳しく、他者には優しい」というのが理想だなどと言われるが、果たしてそうだろうか。自分を許せない者が、どうして他者を許せるだろう。自分がどんなにダメな人間だろうと、まあ、これがオレだ、こんなもんだろうという諦めがない者に、他者のダメさを許せるわけがない。いや、他人様なら許せますっていうのは、たぶん、本質的に他者に無関心だからだ。

 自分に対して完璧を求め、いつも自己否定している人間が、対象が「他者」になったからといって、そうした態度をそう簡単には捨てられるものではない。そう思うのだが、違うだろうか。

 お作は、「『これから精々気をつけますから……。』と顫(ふる)え声で詫びる」けれども、お作には「自信も決心」もない。自分が一生懸命努力しても新吉の求めるような女房にはなれっこないと分かっているのだ。「私は莫迦だ」という自己認識がお作には染みついている。これを脱することは至難の業だ。それが身にしみてわかるお作にあるのは、ただ「恐怖」だけだ。

 この「恐怖」という言葉に、新吉の「すごみ」を重ねるとき、読者のぼくらも、思わず背筋が冷たくなる。そして、秋声の筆の「冴え」を感じるのだ。

 

 

 

 

徳田秋声『新所帯』 12 案外ポジティブなお作   2019.2.17

 

 新吉の癇癪に、恐怖を感じるしかないお作は、結婚前の生活を懐かしく思い出す。お作は、それなりにめぐまれた暮らしをしてきたのだった。

 

 こんなことのあった後では、お作はきっと奥の六畳の箪笥の前に坐り込んで、針仕事を始める。半日でも一日でも、新吉が口を利けば、例の目尻や口元に小皺を寄せた。人のよさそうな笑顔を向けながら、素直に受答えをするほか、自分からは熟(う)んだ柿が潰れたとも言い出せなかった。
 これまで親の膝下にいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だと讃(ほ)められ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様から分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人(おくさま)からも半襟や簪などを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗(けな)されると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧(やかま)しく言って脅(おどか)して見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗(しくじ)っても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている──と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。
 それでも針の手を休めながら、折々溜息を吐(つ)くことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然(ひとりで)に涙の零れることもあった。いっそ宅(うち)へ帰って、旧(もと)の屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下(あたり)に人の影が見えぬと、そっと鏡の被(おお)いを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。──今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。

 

 お作は、人のいい穏やかな女だったが、商人の妻としての資質には著しく欠けるところがあったのだ。ものごとをテキパキと片付けたり、夫の要求を待たずに仕事を先回りしてやったりする才覚はなかった。言われたことをただ誠実にこなしてきたのが、お作の生活だったのだ。

 親にも大事に育てられ、管理の屋敷に奉公していたときも、大事にされ、可愛がられた。そんなお作だったから、新吉の冷たい叱責は身に応えた。お作が、針仕事をしながら涙を零したり、鏡にむかってうっとりしているシーンなどは、しみじみと切なく心にしみてくる。

 新婚生活といえば、甘く楽しい日々がイメージされるが、実際にはそうでもない。むしろ、結婚を前にした時期のほうが、なにか前途に明るい希望がみえていて心楽しいものなのだろう。結婚してしまうと、そこに広がるのは荒涼とした現実ばかり、ということにもなりかねない。

 ふたりの生活は、こんな会話のうちに続いていく。

 

 店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥を窺きに来る。お作は赤い顔をして、急いで鏡に被いをしてしまう。
「オイ、茶でも淹れないか。」と新吉はむずかしい顔をして、後へ引き返す。
 長火鉢の傍で一緒になると、二人は妙に黙り込んでしまう。長火鉢には火が消えて、鉄瓶が冷たくなっている。
 お作は妙におどついて、にわかに台所から消し炭を持って来て、星のような炭団(たどん)の火を拾いあげては、折々新吉の顔色を候(うかが)っていた。
「憤(じ)れったいな。」新吉は優しい舌鼓(したうち)をして、火箸を引っ奪(たく)るように取ると、自分でフウフウ言いながら、火を起し始めた。
「一日何をしているんだな。お前なぞ飼っておくより、猫の子飼っておく方が、どのくらい気が利いてるか知れやしねえ。」と戯談(じょうだん)のように言う。
 お作は相変らずニヤニヤと笑って、じっと火の起るのを瞶(みつ)めている。
 新吉は熱(ほて)った顔を両手で撫でて、「お前なんざ、真実(ほんとう)に苦労というものをして見ねえんだから駄目だ。己(おれ)なんざ、何(なん)しろ十四の時から新川へ奉公して、十一年間苦役(こきつか)われて来たんだ。食い物もろくに食わずに、土間に立詰めだ。指頭(ゆびさき)の千断(ちぎ)れるような寒中、炭を挽(ひ)かされる時なんざ、真実(ほんと)に泣いっちまうぜ。」
 お作は皮膚の弛(ゆる)んだ口元に皺を寄せて、ニヤリと笑う。
「これから楽すれやいいじゃありませんか。」
「戯談じゃねえ。」新吉は吐き出すように言う。「これからが苦労なんだ。今まではただ体を動(いご)かせるばかりで辛抱さえしていれア、それでよかったんだが、自分で一軒の店を張って行くことになって見るてえと、そうは行かねえ。気苦労が大したもんだ。」
「その代り楽しみもあるでしょう。」
「どういう楽しみがあるね。」と新吉は目を丸くした。
「楽しみてえところへは、まだまだ行かねえ。そこまで漕ぎつけるのが大抵のことじゃありゃしねえ。それには内儀さんもしっかりしていてくれなけアならねえ。……それア己はやる。きっとやって見せる。転んでもただは起きねえ。けど、お前はどうだ。お前は三度三度無駄飯を食って、毎日毎日モゾクサしてるばかしじゃねえか。だから俺は働くにも張合いがねえ。厭になっちまう。」と新吉はウンザリした顔をする。
「でもお金が残るわ。」
「当然(あたりまえ)じゃねえか。」新吉は嬉しそうな笑みを目元に見せたが、じきにこわいような顔をする。お作が始末屋というよりは、金を使う気働きすらないということは、新吉には一つの気休めであった。お作には、ここを切り詰めて、ここをどうしようという所思(おもわく)もないが、その代り鐚(びた)一文自分の意志で使おうという気も起らぬ。ここへ来てから新吉の勝手元は少しずつ豊かになって来た。手廻りの道具も増えた。新吉がどこからか格安に買って来た手箪笥や鼠入(ねずみい)らずがツヤツヤ光って、着物もまず一と通り揃った。保険もつければ、別に毎月の貯金もして来た。お作はただの一度も、自分の料簡(りょうけん)で買物をしたことがない。新吉は三度三度のお菜(かず)までほとんど自分で見繕(みつくろ)った。お作はただ鈍(のろ)い機械のように引き廻されていた。

 

 こうしたところを読むかぎり、新吉はただ短気で口が悪いだけではなく、ときどきは「嬉しそうな笑み」を見せることもある。けれどもすぐにその笑顔をしまってしまう。「仲睦まじい会話」に対する照れがあるのだろうか。お作からすれば「さっぱり分からない」ことになり、「ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧(やかま)しく言って脅(おどか)して見るのだろうという気もする。」ということになる。

 まあ、しかし、こういう男って、昔は多かったんじゃないだろうか。どこまでも、自分の優勢を確保しようとする男。「笑ったら損」とばかり、むすっとしている男。今だって、そこらじゅうにいるなあ。こういうオジサンやジイサン。

 お作もただおびえているばかりではない。けっこう、言うよね。

 新吉は自分の苦労を得意になって話すのだが、お作はそれに対して「これから楽すれやいいじゃありませんか。」と返す。普通だったら、「ああ、それは大変でしたねえ。」との一言が入るのだが、いきなりズバッと「これから」の方へ話を転換する。新吉は、冗談じゃねえ、これからが苦労なんだと「これからの楽」を否定する。けれども、お作は、「その代り楽しみもあるでしょう。」とあくまでポジティブ。お前はちっとも役に立たないじゃねえかと言われれば「でもお金が残るわ。」とこれまたポジティブ。思わず笑ってしまう。のろまだけど、お作は、案外しっかり者なのかもしれない。

 新吉はお作の言葉を聞き流すことはせず、怒ったり、目を丸くしたり、嬉しそうに笑ったりしているわけで、案外会話が成立しているのが面白い。

 気が短くて怒りっぽいわりに、神経質で悲観的な亭主に、のろまで気が回らないけど、どこか楽観的な妻。どこにでもありそうな、庶民の生活だ。


 


徳田秋声『新所帯』 13 貧しい心性   2019.2.20

 

 得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへ投(ほう)り出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。
「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」
「吟味しろッて。」新吉は顔を顰(しか)めて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」
「旦那がそう言ったですよ。」
「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。
 店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。
「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言(ひとりごと)を言って、新吉は旧(もと)の座へ帰って来た。得意先の所思(おもわく)を気にする様子が不安そうな目の色に見えた。

 「店ではゴボゴボという音が聞える。」というのは、おそらく新吉が酒樽から酒を一升瓶などについでいる音だろう。今では、瓶詰めになっている酒を自分で選んで買うのが当たり前だが、ちょっと前までは(といっても50年は経つかなあ)、酒は酒屋へ瓶を持っていって、樽から注いで貰ったものだ。

 ぼくの生家の数軒先には酒屋があって、家では職人の給料日に酒を出したので、よく一升瓶を持って買いにいかされたものだ。今思えば、いつも「樽酒」だったわけで贅沢なものだが、もちろん酒は二級酒だ。酒屋の店先は、いわゆる「角打ち」で、何人もの労働者が安い焼酎をうまそうに飲んでいたのをよく覚えている。貧しい労働者ではあったが、どこか幸せそうだった。

 この当時は、酒は、酒屋が配達するもので、その酒も酒屋がお客の好みにあわせて選んでいたらしい。新吉が営んでいた商店は決して酒の専門店ではないが、こういう細かい商いをしてせっせと稼いでいたわけである。

 やれ、お前んとこの酒は水っぽいの、甘いのと文句ばっかり言ってる旦那に悪態をつきながら、それでも、そういう旦那の思わくを気にしないでは商いが成り立たない新吉の「不安」は、自信がない駆け出しゆえに、いっそう新吉を神経質にさせ、苛立たせる。

 

 お作は番茶を淹れて、それから湿(しと)った塩煎餅を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛っていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋の蔭にある桜が、チラホラ白い葩(はなびら)を綻(ほころ)ばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来(ゆきき)も、どこか騒(ざわ)ついて聞える。新吉は何だか長閑(のどか)なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕(ゆとり)がついて来たのも、一つの原因であろう。
 お作は何(なん)かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
 新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華や蒲公英が咲いて……野良のポカポカする時分の摘み草なんか、真実(ほんと)に面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦(はぐき)を見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
 お作は急に萎(しょ)げてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実(ほんとう)だ。」
 新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。

 

 「湿(しと)った塩煎餅」というものは、なんとも貧乏くさい食べ物である。この「湿(しと)った」という言葉が懐かしい。ぼくの祖母がよく使っていたような気がする。これは「しめる」の方言だが、江戸だけではなくて、神奈川、静岡、山梨などのほか、島根、和歌山、高知などにも見られるようだ。祖母は、静岡の人間だが、そっちの方言だったのだろうか。

 「しめる」の意味で「しける」という言葉もあるが、これに「た」がつくと、「しけった」なのか「しっけた」なのかでよく迷う。別役実の戯曲では、よく「この○○は、しけってるよ」なんて言い方がよく出てくる。これもどこか懐かしい言葉だ。ただ「しける」は方言ではなさそうである。

 まあ、それにしても、新吉とお作が、この「湿った煎餅」を食べるシーンは何とも貧乏くさい。──「お作は番茶を淹れて、それから湿(しと)った塩煎餅を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛っていた。」ここに出てくる「猫板」というのは、「長火鉢の端の引き出しの部分にのせる板。ここによく猫がうずくまるのでいう。」(日本国語大辞典)で、今ではもう馴染みのないものだ。

 この長火鉢というヤツは、歌舞伎や時代劇では必須のアイテムだが、今ではまず見かけなくなった。この前にどっかと座るだけで、なにはともあれ格好がつく。後は燗酒を飲むもよし、莨ふかすのもよし、頬杖ついて考え事をするもよし、とにかく「内容」はどうあれ、「格好」はつく。こういうことって、日常生活のうえではとても大事だと思うのだが、今は、「格好」がつくしぐさとか、アイテムがない。落ち着かない時代である。

 長火鉢の前で、夫婦が「湿(しと)った塩煎餅」を囓る姿は、なんとも貧乏くさいのだが、その貧乏くささが「様になっている」のである。まして、お作の「弱そうな歯」の「はぐき」にその煎餅のかけらがついてるとなれば、貧乏くささも極めつけで、それだけに、リアルで、切ない。

 そして、その後にくる新吉のセリフ。せっかく、お作が「田舎に行こう」とポジティブな提案をするのに、あれに金がかかる、これに金がかかると全部否定してしまう。

 「一度行けア一月や二月の儲けはフイになっちまう。」──この思考回路が、生活をアジケナイものにする。どんなに貧乏したって、お作のいうように、田舎に行って、「野良のポカポカする時分の摘み草」が楽しめれば、それで人生は結構幸福なのだ。しかし、新吉にはそれができない。もっと儲けたい。もっと商売を大きくしたいの一心で、それ以外は「気楽を言ってらあ」と冷笑してしまうのだ。

 この貧しい思考は、何も新吉に限ったものではなく、明治時代の日本がとにかくなりふり構わず大国を目指した心性の一端を国民が担っていたということだろう。

 

 

 

徳田秋声『新所帯』 14 夫婦の危うさ   2019.2.22

 

 そうこうしているうちに、葉桜の季節になった。お作は妊娠した。


 桜の繁みに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経(つきのもの)を見なくなった。お作は冷え性の女であった。唇の色も悪く、肌も綺麗ではなかった。歯性も弱かった。菊が移(すが)れるころになると、新吉に嗤(わら)われながら、裾へ安火(あんか)を入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化(こな)れずに、上げて来ることなぞもあった。空風(からかぜ)の寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少し劇しい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、揉み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口に一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点(きゅうてん)の上手があると聞いたので、それをも試みさした。
「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。
 お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。
 こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。
「嘘つけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。
「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分前(さき)からどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」
 新吉は不安らしい目色(めつき)で、妻の顔を見込んだ。
「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色で、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。
 それから二人の間に、コナコナした湿(しめ)やかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口(あっこう)を浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのが因(もと)で、アクザモクザ罵った果てに、何か厄介者でも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴(どな)ったことなども、我ながら浅ましく思われた。
 それに、妊娠でもしたとなると、何だか気が更(あらた)まるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。
 お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着や襁褓のことまで言い出した。
「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。


 

 「桜の繁みに毛虫がつく時分」という表現を読んで、ハッとする。そういえば、ぼくが子どもの頃は、近くの桜並木のきれいな商店街も、葉桜の頃になると、道路が毛虫で足の踏み場もないという状態になったものだ。近頃は、毛虫はまったく見ないのはどうしてなのだろうか。

 お作の「冷え性」の様子は、実にことこまかにその「症状」が書かれている。よくこれで生きていられると思われるような、絵に描いたような「不健康さ」である。新吉は、心配はして、何かと世話を焼くのだが、一方では、婆さんのようだといって「笑いつける」。

 この「笑いつける」というのは、「相手をひどく嘲笑する。おおいにあざわらう。」(日本国語大辞典)の意味で、愛情を持って笑いかけるわけではないのだ。体の弱いのは、お作の責任ではないのに、それを嘲笑するというのは、いかにも残酷な仕打ちである。その仕打ちにも、お作は、「もうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せ」るのだ。

 こういうシーンは何度か小説でも映画でもお目にかかったような気がする。病気で寝込んだ妻が、夫に、「すみません。こんなに弱くて。」と謝るシーンだ。そういうシーンを読むたび、見るたび、どうして謝らなきゃいけないのかといつもその理不尽さに腹立たしい思いをしてきたのだが、結局、結婚というものが、あくまで夫を中心に成り立っており、妻は夫に仕えるべきだという道徳のようなものが根深く浸透していたのだろう。

 そう妻が謝っても、夫がそれを「ばかなことを言うんじゃない。お前が謝ることじゃないだろう。」ぐらいの優しい言葉をかけるならまだ救いがあるが、新吉はそんなことはしない。

 そればかりか、妊娠すら疑う始末だ。そんな弱い体で妊娠するわけないだろう、というわけだ。けれども、妊娠は明らかだ。そうなると、新吉の心にも変化が生じる。今までの自分のお作に対する冷たい仕打ちが悔やまれるのだ。

 子はカスガイ。どんなに冷たい間の夫婦でも、子どもが生まれれば、また違った展開があろうというものだ。新吉は、自分の気持ちに変化に驚いただろうか。お作がお産の心配をして、「嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて」新吉を見つめるのを、新吉は「いじらしいような気がした」のだ。

 それなら、お作の「幸せ」は約束されたのだろうか。それがなかなかそうはならないのだ。

 

 お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢(つや)が出て、目のうちにも美しい湿(うるお)いをもっていた。新吉はうっとりした目容で、その顔を眺めていた。
 お作は婚礼当時と変らぬ初々しさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑(きれくず)や糸屑を拾う。新吉も側で読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」と急き立てられるような調子で、懈怠(けだる)そうな身節(みぶし)がミリミリ言うほど伸びをする。
「もう親父になるのかな。」とその腕を擦っている。
「早いものですね、まるで夢のようね。」とお作もうっとりした目をして、媚びるように言う。「私のような者でも、子が出来ると思うと不思議ね。」
 二人はそれから婚礼前後の心持などを憶い出して、つまらぬことをも意味ありそうに話し出した。こうした仲の睦まじい時、よく双方の親兄弟の噂などが出る。親戚(みうち)の話や、自分らの幼(ちいさ)い折の話なども出た。
「お産の時、阿母(おっか)さんは田舎へ来ていろと言うんですけれど、家にいたっていいでしょう。」
 時計が一時を打つと、お作は想い出したように、急いで床を延べる。新吉に寝衣(ねまき)を着せて床の中へ入れてから、自分はまたひとしきり、脱棄(ぬぎす)てを畳んだり、火鉢の火を消したりしていた。
 二、三日はこういう風の交情(なか)が続く。新吉はフイと側へ寄って、お作の頬に熱いキスをすることなどもある。ふと思いついて、近所の寄席へ連れ出すこともあった。
 が、そうした後では、じきに暴風(あらし)が来る。思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。
「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」と新吉は昼間火鉢の前で、お作がフラフラと居眠りをしかけているのを見つけると、その鼻の先で癪らしく舌打ちをして、ついと後へ引き返してゆく。
 お作はハッと思って、胸を騒がすのであるが、こうなるともう手の着けようがない。お作の知恵ではどうすることも出来なくなる。よくよく気が合わぬのだと思って、心の中で泣くよりほかなかった。新吉の仕向けは、まるで掌の裏を翻(かえ)したようになって、顔を見るのも胸糞が悪そうであった。

 

 新吉という人間は、いったいどういう心根の持ち主なのだろうか。子どもが出来たことで、お作への気持ちにも変化が生じ、夫婦らしい会話もできるようになったというのに、それが続かない。

 「思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。」──これはいったい何だろう。

 「思いがけないこと」は、例えばお作が昼間から火鉢の前で居眠りをしているといったことだ。それを見ると、「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」といって怒り出す。いったん怒り出すと、もう「手の着けようがない」がないほど新吉は荒れ狂う。お作はそれに対してなす術がない。ただ、「よくよく気が合わぬのだと思って、心の中で泣くよりほかなかった」というのだが、いくらなんでも、これではお作がかわいそうだ。

 いったいこの新吉の心の嵐は、どこから来るのだろうか。お作に対しては、最初から気に入らなかった、ということがある。新吉は、お作の器量がよくないぐらいのことは我慢ができたにせよ、「気が利かない」ということがやはりどうしても許せないことだったに違いない。新吉の頭の中は、商売でいっぱいだから、お作もその商売にどれだけ貢献できるかだけが問題だったわけで、それがダメだとなると、もうお作と暮らす意味がないばかりか、お作は重荷でしかない。

 それでも、そのお作に子どもができたとなれば、子どもへの期待から、お作への愛情も芽生えかけたわけだけれど、お作のことが「好きになった」わけじゃない。いっとき、商売を忘れただけのこと。お作が昼間から居眠りしているような愚図な姿を見せれば、あっという間にお作は「重荷」になるのだ。

 それにしても、こうした新吉の心のありさまを見ていると、夫婦というものの危うさが実感される。今でいえば、DVといってもいいこうした新吉の仕打ちは、もちろん社会問題化することもなく、また世間の同情がお作に集まることもなく、ただただ女の心の中で嘆かれるだけなのだ。お作は、誰にも相談することもできず、心の中で泣くより他はなかったのだ。当時から今に至るまで、どれだけ多くの女がこうした涙を流してきたことだろうと思うと、暗澹たる思いがする。

 

 

徳田秋声『新所帯』 15 殺伐とした心   2019.3.1

 

 お作の腹は大分大きくなってきた。実家でお産をするというのは、今でもよくあることだから、お作が実家に引き取られていったことは別にどうということはないのだが、これが夫婦の別れである可能性を秘めていることに、なぜかハッとする。


 秋の末になると、お作は田舎の実家(さと)へ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽(きさく)な調子で新吉に話をつけた。
 夫婦間の感情は、糸が縺れたように紛糾(こぐらか)っていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくに衆(みんな)の意嚮(いこう)がそうであるらしく思われた。
 新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒などを鞄の隅へ入れてやった。
「そのうちには己も行くさ。」
「真実(ほんとう)に来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。
 お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗(へこな)したことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前(てめえ)のような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかに優(まし)だ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々(せいせい)する。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓(したうち)をして、手紙を丸めて、投(ほう)り出した。お袋に兄貴、従妹、と多勢一緒に撮った写真を送って来た時、新吉は、「何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も百姓面してやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。

 

 お作は「もう飽かれて棄てられるような気もした」とあり、新吉は「お作がこのまま帰って来ないような気がした」というのだから、夫婦の感情のもつれはかなり深刻なところに来ていたわけである。

 今までいたものがいなくなれば、淋しい。それを「物を取り落したような心持」と表現するのだが、うまいものだ。あるのが当たり前なものが、ふっとなくなるとき、「どこかへ落として」という感覚がある。高校生のころだったか、新潟の田舎からの帰りの列車の窓から、窓辺においていたハンカチがふっと風に飛んでなくなってしまったことがある。さっきまで手にもっていたハンカチが、もうない、という感覚が、数十年経った今でも生々しく残っているのが不思議だ。

 新吉は、だからといって、お作が「いなくてはならない者」だったのだと気づいたわけではない。これまでお作に対して行った冷たい仕打ちを思って、「いたましいようにも」思った。自分の言動も「浅ましくも」思われた。それなのに、ちっとも、お作に対する愛情が沸き起こってこないのだ。そればかりか、お作の「筆の廻らぬ手紙」に、苦々しく思うだけなのだ。

 よくよく冷たい男である。お作の一族の写真を見ても、「百姓面」してると感じて、嫌になる。そういうお前は、百姓面じゃないのかい? っていいたいよね。新吉だって、たいした玉じゃないのだ。どこぞの貴族の末裔でもあるならともかく、どこか「雪深い田舎」からのポッと出にすぎないのだ。それなのに、どうしてこんなにお作やその親族を「田舎者」と言って侮蔑の目で見るのだろうか。

 さて、話は、次の展開に移っていく。お作がお産のために実家に帰った、その期間の話となる。こういう時って何か起こるんだよね、と読者は期待するところだ。


 そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活(くらし)をしていた。女は伊勢の産れとばかりで、素性が解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。
「君の内儀(かみ)さんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野が訪ねて来た時不思議そうに訊いた。
「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容(めつき)をした。
「解んねえな。どうせ素人じゃあるめえ。莫迦に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥けねえところもあるし……。」
「そんな代物じゃねえ。」と小野は目を逸(そら)して笑った。
 小野は相変らず綺麗な姿(なり)をしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多(ちゃはかた)の帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。
「私(あっし)なんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。
「だが君はいいね。そうやって年中常綺羅(じょうきら)でもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉は脂(やに)ッぽい煙管をむやみに火鉢の縁で敲(たた)いて、「私なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことを零(こぼ)し始める。
「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。
「どうしたか、己(おら)さっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。
「子供が出来れアそうも行くまい。」
「どんな餓鬼が出来るか。」と新吉は忌々しそうに呟いた。

 

 この小野というのは、新吉の同郷の男で、この男が新吉の結婚をあれこれと面倒をみたのだ。商売は何をしているのかはっきりしないが、気質の堅い仕事じゃなさそうだ。「コックリした茶博多の帯」とあるが、この「こっくり」は、「色味や味などが、濃かったり深みがあったりする様」(日本国語大辞典)で、「茶博多の帯」とは、「茶色の博多帯」のことで、「日本国語大辞典」では、この部分が用例として載っている。

 新吉は、小野の生活や女房が羨ましい。いい服着てるし、女房は美人だ。同郷の友人なので、つい本音が出るといったところ。

 まったく、人間の僻み、嫉妬の念というものはどうしようもないもので、「比較は不幸の元」とは知っていても、つい、比較して、そして不幸になる。

 それにしても、「私なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」はないだろう。自分の冷たい仕打ちを後悔することもあるけれど、結局のところ、本音はこんな単純なことだったとは。「惨めなもんだ」かあ、「失敗しちゃった」かあ。

 お作はどうなる。お作こそ「惨め」なもんだし、「失敗」しちゃったもいいとこだ。そういうお作の心情への同情とか慮りとか、そういったものがまったく出てこない。「あいつも、こんな取っつき身上のところへ来て、苦労してるさ。」ぐらいのことが言えないものだろうか。それどころか、「返ってこないほうが好都合」だというのだから、お作も浮かばれない。

 でもさ、子どもができれば、またカワイイから、また夫婦関係にも新しい展開があるんじゃないの? といった小野の言葉にも、「どんな餓鬼が出来るか。」と「忌々しそうに呟」く始末。生まれてくる子どもへの期待もないのだ。まったく取り付く島もない。

 どうしてこうも新吉の心は殺伐としているのだろうか。登場してきた当初から新吉は淋しい表情をしていた。その淋しさはいったいどこからくるだろうか。


 

徳田秋声『新所帯』 16 「妻」の立場   2019.3.2

 

 新吉と小野の話は、それぞれの女房への愚痴である。まあ、結婚した男は女房の愚痴を言い、女は亭主の愚痴を言う。古今東西あいも変わらぬ風景である。

 

 小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、彼(あれ)は少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」
「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致(きりょう)なんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴(やつ)には気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際(つきあい)一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤を引いちゃったのさ。」と新吉は溜息を吐(つ)いた。
「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」
「だが、彼奴もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩して、毒づかれて、打撲(はりとば)されてさ。……己(おら)頭から人間並みの待遇(あつかい)はしねえんだからね。」と新吉は空笑(そらわら)いをした。
「其奴(そいつ)ア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。
「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴も己の気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸の中(うち)が、抑えきれぬという風も見えた。
「そうでもねえんさ。」と小野は自分で頷いて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐(お)ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」
「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩しそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥の相違だ。」
 二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気らしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐がないようにも思われた。


 見合いをセットしたのは、小野ではなくて、酒屋仲間の和泉屋だったが、それに乗っかってかいがいしく世話をしたのは小野である。やらなくていいと新吉は言っているのに、それなりの宴会もセットして、まるで自分が結婚するかのような上機嫌だったのも小野である。

 それなのに、見合いなんて当てにならないと言い、挙げ句の果てに、実は婚礼の晩にお作の顔をみて「オヤオヤ」って思ったなんていうんだから、まったく言いたい放題。よく言えるよなあ。なんだ不器量じゃないかと思ったと平気でいえるのは、自分の女房にそれなりの自信があるからで、内心勝ち誇っているようにも見える。

 ところが、小野は小野で、女房に満足しているわけでもなさそうだ。「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐(お)ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」というセリフに、夫婦の不和がチラリと見える。小野は女房を追い出そうとしているらしい。そんな小野に、新吉は、おまえの女房はオレのとは「雲泥の差」だと言う。

 小野が帰ったあと、新吉は「いつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる」ということになる。淋しい、つまらない、というのが新吉の心の基調で、どうにも晴れ晴れとしない。それは、お作が器量も悪くて、気働きがなくて、近所づきあいもヘタクソで、つまりは「貧乏籤をひいた」からなのだろうか。それとも他になにか別な理由があるのだろうか。

 新吉は、お作の気持ちも分かってはいるのだ。「『だが、彼奴もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩して、毒づかれて、打撲(はりとば)されてさ。……己(おら)頭から人間並みの待遇(あつかい)はしねえんだからね。』と新吉は空笑(そらわら)いをした。」というのだが、それならどうしてこうした不毛な関係を改善する努力をしないのだろうか。なんで「空笑い」なんかしてごまかしてしまうのか。その果てに待っているのは「離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」という投げやりな気分なのだ。

 まあ、結婚当初から、新吉はお作が好きでたまらなかったわけではない。和泉屋のすすめにも気乗りはしなかった。けれども、和泉屋だの小野だのがやいのやいの言うから、そんなら結婚してみようかという極めて消極的な気分だったわけだから、実際に結婚してみて、女房がこれほど「ダメな女」だとわかってみると、気落ちするのも、人情として分からないわけでもない。そんな気乗りのしない男のところに嫁にいかされたお作こそいい迷惑だというものだ。

 この二人の会話を読んでいると、「妻」というものを、この男たちは、ほとんど対等の人間として考えていないことがよくわかる。新吉にしても、小野にしても、夫婦というものをどう考えているのだろうか。新吉は、商売の助けになることしか求めてないし、小野は他人に自慢できればそれでいいぐらいにしか思っていないみたいだし、とても、「人生のよき伴侶」なんて考えているフシはない。新吉なんぞは、子どもが出来たというのに、離縁ならそれでいい、なんて考える始末で、いくら気落ちしていたとしても、せめて子どもへの責任ぐらいは感じてもよさそうなものだと思うのだがそれもない。

 新吉の、そして小野の心の中には、やはり殺伐とした、荒涼たる砂漠が広がっているような気がする。

 まあ、とにかく、人間、いろいろ思い詰めるとろくなことはない。新吉もお作のことを考えると、投げやりな気分にどっぷりと沈んでしまうのだが、好きな商売に取りかかると、すっかり気分が変わる。「仕事」が人生を救うということもある。

 

 忙(せわ)しい十二月が来た。新吉の体と頭脳(あたま)はもうそんな問題を考えている隙もなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。
「少し手隙になったら、一度お作を訪ねて、奴にも悦(よろこ)ばしてやろう。」などと考えた。


 行動が気分を変えるわけである。

 

 


徳田秋声『新所帯』 17 水際立つ筆致   2019.3.3

 

 新吉とお作の婚礼と、その後の結婚生活を、ただ淡々と描いてきたこの小説に、初めて事件らしい事件が起きた。

 ある朝、小野の女房が新吉を訪ねてきたのである。この下りは、まるで上質な日本映画を見るようで、その筆の冴えにはただただ感嘆するばかりだ。「事件」の概要、小野の生活の内実、そして、お国という女が、実に見事に手際よく描かれる。いろいろな小説を読んできたが、これほど見事な文章はそう滅多にはなかった気がする。


 ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女が一人、腕車(くるま)でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
 お国は下町風の扮装(つくり)をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清(すず)しいながら目容(めつき)は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌のある顔である。
「御免下さい。」と蓮葉(はすは)のような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章(あわ)てて片隅へ避(よ)けた。新吉は筆を耳に挟んだまま、軽く挨拶した。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱(と)って、コートの前を外した。頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡(うす)く、紊(ほつ)れ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶(みつ)めたが、じきに視線を外(そら)して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊(かか)はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
「真実(ほんとう)に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
 新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「お忙(せわ)しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更(あらた)まって、お辞儀をして、ジロジロ四下(あたり)を見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃って、小野なんざとても敵(かな)やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声(こごえ)で何やら言っていた。
 新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
 新吉は微温(ぬる)い茶を汲んで出しながら、「私(あたし)なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲(も)ける伎倆(はたらき)はねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆(がっかり)したように口を噤(つぐ)んだ。顔の紅味がいつか褪(ひ)いて蒼くなっていた。
 お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日(あした)朝夙(はや)く、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事に従(つ)いて出た。
「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰(おとさた)もない。昨夜(ゆうべ)は一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやら異(あや)しい。何か悪いことでもして未決へでも投(ぶ)ち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻(くちぶり)では、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。
「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目を据えた。
「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。
 お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」
「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。
「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑とか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国は馴れ馴れしげに火鉢に頬杖をついた。
「解んねえな。」と新吉も溜息を吐(つ)いた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」
「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口に触るような調子で、附け加えた。
「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深(うたぐりぶか)い目を見据えた。
「田舎のことア私(あっし)にゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」
 新吉の頭脳(あたま)には、小野がこのごろの生活(くらし)の贅沢なことがじきに浮んで来た。きっと危いことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。
 お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へ起(た)った。お国は新吉の知らない、小野の生活向(くらしむ)きのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻(こうふん)を洩らしていた。


 この出だしからしてすごい。

 ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女が一人、腕車(くるま)でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。 

 これで全部はっきりと分かる。一言も無駄な言葉がない。「ある朝」という時間設定。「帳場」という場所の設定。「帳面を調べている」という新吉の行動の説明。「店先へ」という場所の移動。「淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女」という女の描写。これで「お国」の「人となり」まで分かってしまう。

 「銀杏返し」という髪型は、「江戸末期から明治・大正時代にかけて、女性の間で流行した日本髪の一種。最初は銀杏髷(まげ)から変化した髪形で、これを結った年齢はだいたい元服(16歳)から20代までであった。まず前髪、鬢(びん)、髱(たぼ)をとったあとの毛を集めて根とし、これを二分して左右に低い髷をつくってから元結で締めたものである。島田髷よりも大げさでないのが喜ばれて、町娘や内儀の間に用いられた。明治20年代に西洋式の束髪がはやるようになると、下町の水商売の女性などの間に人気をよんで大正まで流行した。」(日本大百科全書)とあるように、どこかお水っぽい髪型。「吾妻コート」というのは当時流行のコートだ。そのお国が、「腕車=人力車」で店先に乗り付けたのである。「それが小野の内儀さんのお国であった。」とビシッと決める。このまま映画のワンカットだ。

 次に、お国の描写。水彩画でさっと描いたようにキレのいい表現で、お国の魅力を生き生きと伝える。

 お国は下町風の扮装(つくり)をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清(すず)しいながら目容(めつき)は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌のある顔である。

 「下町風の扮装」で、決して金持ちの奥方ではない。「お召しの小袖」も、ものはよくない。羽織も上物じゃないのだろう。けれど、下駄は「意気」だ。「小作り」な体。顔は、ちょっと目つきが変だが「清しい」し、「色白」で「ふっくらした」「愛敬のある」顔。

 この女が、ちょっと「蓮葉のような、無邪気なような声」で、「御免下さい。」という。「蓮葉」とは「女性の態度・動作が下品で軽はずみなこと。」の意だが、いわゆる「はすっぱ」っていうヤツで、それでいて「無邪気なよう」というのだから、とても「素人」とは思えない。

 「スッと入って来た。」もいい。この身軽さは、お作の鈍重さと対照的だ。

 前回の引用部で、新吉は「どうせ素人じゃあるめえ。莫迦(ばか)に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥けねえところもあるし……。」と評していたが、まさにそのとおりのお国だ。新吉もちゃんと見ているわけだね。

 更に、お国の描写は続く。 

 

「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱(と)って、コートの前を外した。頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡(うす)く、紊(ほつ)れ毛もそそけていた。

 

 うっとりするなあ。「菓子折の包みを置く」「ショールを脱ぐ」「コートの前を外す」と動作によどみない。そこにお国の普段の生活のさまがみてとれる。なんてことない普段の所作に、人柄とか生活が滲み出るわけだ。「頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。」など、水際だった筆致。漱石なんかは、こういう描写ができたのだろうか。確かめてみたいものだ。

 新吉は小野を羨ましがっていたが、お国からみると、新吉のほうがちゃんとした商売をしているように見える。新吉は小さいながら店を構えているが、どうやら小野は口先ひとつの商売らしい。どうも、そんな危ない商売の中で、警察に目を付けられたといったところだろう。

 これまで、小野がどんな商売をしていたのかさっぱり分からなかったのだが、ここで、お国の言葉を通してその大体の有様が分かる。こうした書き方も達者なものだ。

 さて、この後、どのような展開が待っているのか。ちょっとワクワクするよね。

 

徳田秋声『新所帯』 18 「下心」は誰に?   2019.3.7

 

 小野が拘引されてから、小野の女房のお国は、だんだん新吉の家に入り浸るようになる。まずい展開である。


 小野の拘引事件は思ったより面倒であった。拘引された日に警視庁からただちに田舎の裁判所へ送られた。詳しい事情は解らなかったが、田舎のある商人との取引き上、何か約束手形から生じた間違いだということだけが知れた。期限の切れた手形の日附を書き直して利用したとかいうのであった。訴えた方も狡猾だったが、小野のやり方もずるかった。小野からは内儀さんのところへ二、三度手紙が来た。新吉へもよこした。お国には東京に力となる親戚もないから、万事お世話を願う。青天白日の身になった暁、きっと恩返しをするからという意味の依頼もあった。弁護士を頼むについて、金が欲しいというようなことも言って来た。暮の二十日過ぎに、お国は新吉と相談して、方々借り集めたり、着物を質に入れなどして、少し纏(まと)まった金を送ってやった。
 お国と新吉とはほとんど毎日のように顔を合わすようになった。新吉の方から出向かない日は、大抵お国が表町へやって来る。話はいつでも未決にいる小野のことや、裁判の噂で持ちきっている。もし二年も三年も入れられるようだったら、どうしたものだろうという、相談なども持ちかける。
「いろいろ人に訊いて見ますと、ちょっと重いそうですよ。二年くらいはどうしても入るだろうというんですがね。二年も入っていられたんじゃ、入っている者よりか、残された私がたまらないわ。向うは官費だけれど、こっちはそうは行かない。それにもう指環や櫛のような、少し目ぼしいものは大概金にして送ってやってしまったし……。」とお国は零(こぼ)しはじめる。
 新吉は、「何、私(あっし)だって小野君の人物は知ってるから、まさかあなた一人くらい日干しにするようなことはしやしない。どうかなるさ。」と言っていたが、これという目論見も立たなかった。
 押し迫(つま)るにつれて店はだんだん忙(せわ)しくなって来た。門(かど)にはもう軒並み竹が立てられて、ざわざわと風に鳴っていた。殺風景な新開の町にも、年の瀬の波は押し寄せて、逆上(のぼ)せたような新吉の目の色が渝(かわ)っていた。お国はいつの間にか、この二、三日入浸りになっていた。奥のことは一切取り仕切って、永い間の手練(てなれ)の世帯向きのように気が利いた。新吉の目から見ると、することが少し蓮葉で、派手のように思われた。けれど働きぶりが活き活きしている。箒一ツ持っても、心持いいほど綺麗に掃いてくれる。始終薄暗かったランプがいつも皎々と明るく点(とも)されて、長火鉢も鼠不入(ねずみいらず)も、テラテラ光っている。不器用なお作が拵(こしら)えてくれた三度三度のゴツゴツした煮つけや、薄い汁物(つゆもの)は、小器用なお国の手で拵えられた東京風のお菜(かず)と代って、膳の上にはうまい新香(しんこ)を欠かしたことがなかった。押入れを開けて見ても、台所へ出て見ても、痒(かゆ)いところへ手が届くように、整理が行き届いている。


 やっぱり、これはまずいよね。年の瀬になって忙しくなってくると、お国は「入り浸り」になる。家事全般をそつなくこなすお国は、お作とまるで違う。性格的には「蓮葉で、派手」だと新吉は思うけれど、だから嫌だとは言っていない。そういう蓮っ葉で派手な女が好みではないけれど、やはり魅力は感じるだろう。好みって、難しい。

 お国は、芸者あがりではない、そんな代物じゃないと小野は言っていたが、そうかといって、この雰囲気は「素人」でもなさそうだ。おそらく、かつてはどこかの金持ちのオメカケさんだったのではなかろうか。ぼくの生まれたあたりには、商店や職人の家が多かったが、あの奥さんは芸者あがりだそうだよ、っていうオバサンが何人かいた。子どもだから、よく分からなかったけれど、そういうオバサンは、煙草の吸い方から、歩き方、着ているものまで、なんか違うなあという感覚だけはあった。

 お国は、蓮っ葉で派手なだけで、とりわけ新吉に色目を使うわけじゃないけれど、「働きぶりが活き活きしている」という点が、家を明るくする。掃除は行き届いているし、ランプのホヤだってキレイに磨くし、長火鉢もネズミイラズ(ネズミが入らないようにした食べ物や食器を入れておく棚のこと)は「テラテラ光る」まで磨くし、そのうえ料理がうまい。さらにそのうえ整理整頓までバッチリ。逆に言えば、お作には、これらのことがまるでできないということだ。

 余談だけど、ネズミも近頃はすっかりいなくなった。ぼくが子どものころは、猫というものは愛玩動物ではなくて、ネズミ捕獲要員だった。ちなみに、犬も番犬だった。夜寝ていると、天上裏でネズミが「運動会」をよくしていた。都会といっても、まだまだ「自然」とともに生きていたわけだ。

 まあ、そういうわけで、お国は、ずるずると新吉の家に入り浸り、まるで女房気取りになっていくわけであるが、それを追い出そうともしない新吉は、いったいどういう了見なのだろう、という疑問が湧いてくる。


 新吉は何だかむず痒いような気がした。どこか気味悪いようにも思った。
「そんなにキチキチされちゃかえって困るな。」と顔を顰(しか)めて言う。「商売が商売だから、どうせそう綺麗事に行きゃしない。」
「でも心持が悪いじゃありませんか。」と、お国は遠慮して手を着けなかったお作の針函(はりばこ)や行李(こうり)や、ほどきものなどを始末しながら、古い足袋、腰巻きなどを引っ張り出していた。「何だか埃々(ごみごみ)してるじゃありませんか、お正月が来るってのに、これじゃしようがないわ。私はまた、自分の損得にかかわらず、見るとうっちゃっておけないという性分だから……。もういつからかここが気にかかってしようがなかったの。」といろいろな雑物(ぞうもの)を一束にしてキチンと行李にしまい込んだ。
 新吉は苦い顔をして引っ込む。

 

 ここを読むかぎり、新吉には別に下心があるわけではなさそうだ。そればかりか、お国がこうして家に入り浸り、細々とした世話を焼いてくれることに一種の不快感を感じているのだ。

 どうせゴチャゴチャした商売なんだから、そんなにキレイに磨き立てなくたっていいと言うのだが、お国にはそんな言葉には頓着せずに、お作の針函や行李にまで手を突っ込んで、お作の足袋やら腰巻まで引っ張り出す始末。どうも「下心」はお国のほうにありそうだ。

 

 

 

徳田秋声『新所帯』 19 様になる場所   2019.3.25

 

 年の瀬からズルズルと新吉の家に居座ってしまったお国だが、とうとう晦日になってしまった。その間、別に男女の関係になったなどという急な展開はないが、新吉の気持ちは、お国の気持ちを測りかねて、揺れる。

 新年に向けての細々とした用意をお国にはしてくれるのだが、そこに描かれる年末の様子がとても印象的に描かれている。

 

 こういうような仕事が二日も三日も続いた。お国はちょいちょい外へ買物にも出た。〆飾りや根松を買って来たり、神棚に供えるコマコマした器などを買って来てくれた。帳場の側に八寸ばかりの紅白の鏡餅を据えて、それに鎌倉蝦魚(えび)や、御幣を飾ってくれたのもお国である。喰積(くいつ)みとかいうような物も一ト通り拵えてくれた。晦日の晩には、店頭(みせさき)に積み上げた菰冠(こもかぶ)りに弓張が点されて、幽暗(ほのぐら)い新開の町も、この界隈ばかりは明るかった。奥は奥で、神棚の燈明がハタハタ風に揺めいて、小さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。

 

「〆飾り」は分かるにしても、「根松」となると、ぼくにはもう分からない。「日本国語大辞典」には「根のついている松」とだけあって、用例にこの『新所帯』のこの部分が上げられているが、それ以上はどうも分からない。今では、スーパーなどで松の枝を買ってきて、玄関などに飾るわけだが、あれには根はついていない。昔は、あれに根がついていたのだろうか。後の部分に「小さい輪飾りの根松の緑」とあるから、小さな松で根の付いたものと考えるのがいいのかもしれない。

 「紅白の鏡餅」とある。ぼくは鏡餅は白だとばかり思っていたので、ネットで調べて見ると、石川県では紅白の鏡餅が今でも飾られていることがわかった。石川県での由来は書いてあったが、それでは東京ではどうだったのか。当時の東京でも、紅白の鏡餅が飾られていたのだろうか。それとも、作者の徳田秋声が金沢出身なので、思わずそう書いてしまったということなのだろうか。謎である。

 「鎌倉蝦魚」って何? て思って調べたら、何と伊勢海老のことだった。鎌倉近海でとれたので、「鎌倉海老」といったのだという。すでに井原西鶴の『好色五人女』(1689年)に出てきている言葉だ。明治末期まで使われていたとすると、いったいいつから「伊勢海老」になったのだろう。まあ、関西では昔から「伊勢海老」だったのだろうが。

 次に「喰積(くいつみ)」だ。これも「日本国語大辞典」によれば、「正月に年賀客に儀礼的に出す取りざかなで、蓬莱台や三方に米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、勝栗、昆布、野老(ところ)、干柿などをそえたもの。お手かけ。」とある。これも見たことがない。なんか、地方ではあったような気がするが。「弓張」というのは、「弓張提灯」のこと。

 こうしてみると、年末ひとつとっても、今昔にどれほどの隔たりがあるかが実感される。明治という時代は、まだまだ江戸時代の影を色濃く落としていたのだ。

 こうしたこまかい事象をわかったうえで、この部分をゆっくり読み返してみると、連綿と続く年末年始のしきたりが、庶民の間に行き渡り、それが、なにかとせわしない日常に、節目と安定のようなものを与えていたことが想像される。決して豊かな生活ではなかったにせよ、ここには確かな生活があったのだ。

 そんな年末の何やかやと描写した後に、さらっと、お国の姿が描かれれる。これがまたいい。

 

 お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。

 

 ビシッと決まっている。

 お国はたいした美人でもないごく普通の女なのだろうが、これはまるで、「お富さん」だ。煙管は加えていないかもしれないが、とにかくここで絶大な威力を発揮しているのが「長火鉢」だ。これほど形の決まる家具もない。誰だってこの前に座って、キセルをくわえたり、鉄瓶で燗を付けたお銚子で一杯やれば、なにはともあれ「いっぱしの者」らしい雰囲気が生まれてしまう。

 結ったばかりの髪、ひっかけた小紋の羽織、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に座るお国。別に美人じゃなくても、なんだかすっかり様になっている。

 亭主は監獄に入っていて、呼ばれもしないのに亭主の友人宅に居座って、それで、「どことなく居場所がない」感が微塵もなくて、どこか堂々としてさえいる。それはお国の性格の故もあろうが、それを見事に演出しているのが「長火鉢」だ。いったい現代の、例えばマンションにおいて、同じ状況で女が「堂々と見える」場所があるだろうか。どんな服を着て、どんな顔をして、どこに座ればいいのか。ソファーに座っても、リビングテーブルに座っても、様にならないよね。まあ、男にもそんな場所はないんだけど。

 

 九時過ぎに、店の方はほぼ形がついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦を饗応(ふるも)うてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。黝(くろず)んだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢(つや)が見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音(あしおと)が、硬く耳元に響く。

 

 うまいなあ。うっとりする文章だ。特に「音」に注目だ。

 小僧たちがいなくなって「ひっそり」とした家。燈明の「ジイジイいうかすかな音」。「表を通る人の跫音」──それはおそらく下駄の音だろう──が「硬く耳元に響く」。カランコロンという乾いた下駄の音が、いつもより耳に近く、聞こえるということだ。完璧な日本語だ。

 部屋に「添わって」くる「寂しい影」、「黝んだ柱」、「火鉢の縁に冷たい光沢が見えた」などの視覚的イメージも、寸分の隙もない。

 新吉は、去年の暮れのことを思い出す。その暮れはお作と過ごしたのだ。それなのに、今はこうしてお国と過ごしている。そのことに、新吉は、後ろめたさというよりは、お国に対する「不快感」を感じるのだった。


 新吉は火鉢の前に胡坐をかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだ真(ほん)の来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。
「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子を銅壺(どうこ)から引き揚げて、きまり悪そうな手容(てつき)で新吉の前に差し出した。
 新吉は、「何、私(あっし)や勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。
「いいじゃありませんか。酒のお酌くらい……。」お国は新吉に注いでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。
 新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」
 お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口(ちょく)をなめる唇にも綺麗な湿(うるお)いを持って来た。睫毛の長い目や、生え際の綺麗な額の辺が、うつむいていると、莫迦によく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中(うちじゅう)引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終頭脳(あたま)に附き絡うていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念が兆して来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑や反抗心も起って来た。
 お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火(あんか)に当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」
「だが、そうやって私(あっし)のとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩に被(き)せるような調子で言った。
 お国は萎(しょ)げたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。
 しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召し食(あが)りませんか。」と叮寧(ていねい)な口を利く。

 

 手酌で杯を重ね、だんだん酔ってくるお国を見ていると、その色気に新吉は、つい、となるのかと思うと、そうじゃない。逆に「冷たい考え」が胸に流れるのだ。

 「冷たい考え」──とは何だろうか。こうやってこの女はオレをたぶらかし、オレの女になろうとしているのかと勘ぐったということだろうか。お国の亭主は監獄にいる。出てきたって、その先がどうなるかわかったものではない。それならいっそ新さんの女に、とお国が思ったとて、何の不思議があろう。そう新吉は思ったのだろう。

 お国の真意は分からない。新吉が手を出してきたら、そんときはそんときさ、どうせ「春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない」んだから。すべてはなりゆきまかせといった風情なのだが、新吉の突っ放すような口調に、なんだやっぱり新さんは、あたしなんかに興味はないのか、と、がっかりした、といったところだろうか。

 

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