志賀直哉「暗夜行路」を読む (12) 105〜116

後篇第三 (十)〜(十二)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 105 仙という女 「後篇第三  十」その1 2022.5.29

 

 

 謙作はいよいよ新しい寓居(すまい)に引移る事にした。秋としてはいやに薄ら寒い風の吹く曇り日であったが、仙が後の荷も着いたからと、それをいいに来たので、彼は早速移る事にした。彼は自分で自分の部屋の始末をしたり、菰包(こもづつ)みの藁縄を解いたり、差し当り要らないような道具を屋根裏の物入れにかつぎ上げたりすると、頭からは埃を被ぶり、手や顔はざらざらに荒れ、それに寒さから来る頭痛や、埃から来る鼻のむずむずする事などで、すっかり気分を悪くした。
 婆ァやの仙はよく豆々しく働いていたが、何彼(なにか)につけ話し掛けるので、彼は気分が悪いだけに少し苛々して来た。
 「これ、何どすえ?」こんな風に話しかけて来る。
 「どれ?」
 「お炬燵(こた)と違いますか?」仙は両手で重そうに鉄の足煖炉(あしだんろ)を持っている。
 「足煖炉だ。何所(どこ)かへしまっといてくれ」
 「足煖炉。へえ。これお使いしまへんのか」
 「使うかも知れないが、今要らないからしまっといてくれ」
 「……どうぞ私に貸しておくりゃはんか。夜(よ)さり腰が冷えて、かなわんのどっせ」いじけた賤しい笑いをしながら仙はちょっと頭を下げた。謙作は不快な顔をしながら、いやに図々しい「目刺し」だと考えた。しかしそういわれて、いけないとはいいにくかった。で、彼は仕方なく、「よろしい」というのだが、一度「目剌し」が寝床へ入れた物はもう使えないと思い、勿体ない気もするのだ。しかしわざわざ東京から重い物を持って来て、直ぐ「目刺し」に取上げられてしまう、そういう主人公を滑稽にも感じた。

 

  謙作の京都での生活が始まる。仙という婆やがお手伝いとして住み込む。はじめのうちは、謙作は、仙が気に入らないが、だんだんと仲もよくなっていく。その過程が丁寧に描かれている。こういうところを決してゆるがせにしないところが、志賀直哉の素晴らしいところだ。

 「足煖炉」というのは、今でいうとろの「足温器」だろう。ぼくが子どものころは、湯たんぽとか、「あんか」と呼んでいたが、「豆炭」をいれた足温器があった。ここで出てくる「足煖炉」は、かなり重そうだから、もっと大がかりなものかもしれない。

 仙を最初に見たとき、その顔つきから、謙作は、「目刺し」を思ったとあるが、ここでは、もう仙を「目刺し」と言っている。

 体の「不快さ」は、そのまま気分の「不快さ」に連結して、謙作は、「目刺し」が不快でならない。しかし、「目刺し」が、「足煖炉」を貸してくれというと、図々しいヤツだと思いつつ、「いけない」とは言いにくくて、「よろしい」と言ってしまう。けれども、潔癖な謙作は、一度人のつかった「足煖炉」を使う気にはなれない。それほど潔癖なら、むしろ、「いけない」と言って断っても差し支えないのに、「よろしい」と言ってしまう。尊大なようでいて、根がやさしい謙作である。

 「そういう主人公を滑稽にも感じた。」という表現は、この小説の中では目新しい。「主人公」という言葉自体は、前編にも何度も出てくるが、それは、小説の説明をしている部分であって、謙作自身を「主人公」と表現しているのは、ここだけだ。

 ここだけなので、大きなことは言えないが、「暗夜行路」は、私小説的でありながら、どこか「主人公」たる謙作を、突き放して眺めている風情があると言えるだろう。謙作は限りなく志賀直哉に近いが、そういう謙作を、つまりは「自分」を、志賀直哉は、離れたところから眺める余裕があるということだ。あるいは、ここで「主人公」と思わず(あるいは意図的?)書いてしまうところに、あくまで志賀直哉が、「フィクション」としての「暗夜行路」を書いている(書こうとしている)ということが明らかになる、というべきか。

 もちろん、「暗夜行路」は純然たる私小説ではなく、「フィクション」である。しかし、そこに登場する「謙作」という「主人公」の、様々な場面での心の動きは、志賀が「考え出した」というよりは、志賀自身のものとしかいいようのないところが多いのだ。

 したがって、この小説を書いている志賀に即してみれば、全体を「フィクション」として構成しているにもかかわらず、時として、自分自身の心の動きを書いているという事態になるのだろう。そのとき、ふと、あ、そうだ、謙作はそのままオレじゃないんだという意識が動き、こうした「主人公」という表現が出てくるのではなかろうか、と、まあ、そんな風に考えるのだ。

 

 前に来ていた荷で、大きい金火鉢と入れこにして来た盥(たらい)の底が抜けかけているというので、
 「それは直しにやったか?」と彼は訊いてみた。
 「やりまへん」と仙は当然の事のように答えた。
 「何故やらない」
 「桶屋はんが廻って来やはらへんもの……」
 「来なければ持って行ったらどうだ」
 「阿呆らしい。あんな大きな盥、女御が持って歩けますかいな。何所(どこ)までや知らんけど……」
 「頭へ載っけて太鼓を叩いて行くんだ」
 「阿呆らしい」
 謙作は苛々するのを我慢しようとするとなお苛々した。しかし間もなく銭湯へ行きさっぱりした気持になって帰って来ると、苛々するのもいくらか直っていた。
 仙との関係が本統に落ちつくまでは少し時がかかりそうに思えた。仙は書生を一人世話するという割りに気軽な心持で来たらしく、そして謙作も書生には違いなかったが、そして雇うた人、雇われた人という以上に出来るだけ平等にしたい考もあるのだが、或る気持の上の《がざつ》さに対してはやはり我慢出来ない事があった。仙がそれを呑込むまでは時々不快な事もありそうだと彼は考えた。
 「俺が机に向かっている時は如何(どん)な用があっても決して口をきいちゃあ、いかんよ」こういい渡した。  「何でどす?」仙は驚いたように細い眼を丸くして訊き返した。
 「何ででも、いけないといったらいけない」
 「へえ」
 そして仙はこれを割りによく守った。呆然(うっかり)何かいいながら入って来て、その時謙作が机に向かっていると、
 「はあ! 物がいわれんな」こんなにいって急いで口を手で被(おお)い、引き退がって行った。
 謙作は仙の過去に就いてほとんど知らなかった。ただ、もし生きていれば彼と同年の娘が一人あったという事、それに死別れ、兄の世話になっていたが、最近それにも死なれ、その後、甥夫婦にかかって見たが、何となく厄介者扱いにされるような気がされるので奉公に出る事にした、この位の事を謙作は聴いていた。
 仙は台所で仕事をしながらよく唄を唄った。下手ではなかったが、少し酒でも飲むと大きい声をするので、謙作は座敷から、
「やかましい」と怒鳴る事もあった。

 

 この謙作と仙との細やかで、ユーモラスなやりとりは、次第に二人の仲が、よい方向へ向かっていくことを予感させる。

 盥が重かったら頭にのっけて、太鼓をたたいて行け、なんて、馬鹿馬鹿しいけど、トゲがない。「頭に乗っけて」だけだと、現実味があるけど、「太鼓をたたいて行け」となると、コントになっちゃうので、仙も、「阿呆らしい」といって笑っただろう。その証拠に、この後、謙作は、銭湯にいってさっぱりした気持ちになって、イライラも「いくらか直って」いる。これは、銭湯の効果だけじゃなくて、そのまえの「阿呆らしい」やりとりの影響だろう。

 「雇うた人、雇われた人という以上に出来るだけ平等にしたい考」があった謙作は、明治のゴリゴリの権威主義者ではなかったということだろう。「雇った人」だから、「雇われた人」に対して何を命じてもいいとは思っていない。それどころか対等の人間関係を築こうとしている。けれども、謙作の潔癖とか、気難しさが、それを阻むわけだ。

 これを仙の側から見れば、仙自身は決して卑屈になってはいない。机に向かっているときは、話しかけるなと言われて、「なんでどす?」と率直に聞き、理由もなしにダメなものはダメといわれると、「割りによく守った」。そして、うっかり話しながら部屋に入ってくると、「『はあ! 物がいわれんな』こんなにいって急いで口を手で被(おお)い、引き退がって行った。」というあたりは、仙の屈託のない人柄が見事に描き出されている。

 こうした女中さんのような人物についても、生き生きと描き分けていく文章の手腕は、やっぱりすごい。

 だからこそ、次のような展開が、ごく自然に心に入ってくるのである。

 

 しかし日が経つに従って段々よくなった。謙作の方も仙のする事がそれほど気にならなくなったし、仙の方も年寄りにしてはよ<謙作の気持に順応して行くよう、自身を努めていた。そして京都人だけに暮らし向きを一任してしまうと、無駄なく、万事要領よくやって行った。酒も煙草も飲む方で、煙草は謙作の吸余しをほぐして煙管へつめていた。
 謙作は初め想ったより仙を少しずつよく想うようになった。、

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 106 「主人公」の意味 「後篇第三  十」その2  2022.6.14         

 

 前回、「主人公」という言葉をめぐって、ぼくが、突然出てきたこの言葉に面食らって、「『暗夜行路』は、私小説的でありながら、どこか『主人公』たる謙作を、突き放して眺めている風情があると言えるだろう。」などと書いたものだから、毎回この連載を読んでくれている友人二人から反応があった。そのうちの一人Hは、FBのコメントで、「やっぱりこの『主人公』というのは違和感があるから、ひょっとして志賀直哉の書き間違いじゃないか?」という意見をくれた。しかし、書き間違いというのは、やっぱり考えられないから、まあ、とにかく、謙作の「客観化」なのだろうと、ひとまずは決着をみたのだった。

 それから間もなく、FBをやっていないもう一人の友人Kから、次のようなメールが届いた。全文を引用しておく。

 

 ふつうに読んで、ということなら、主人公の「公」は「乃公」の「公」で、ちょっと、おどけて威張って、「ご主人さま」「お雇い主さま」(たるオレは滑稽だ)ということだろうけど、そうか、「この」小説の作り手の顔が、意識しないで出た、と考えるのも、おもしろい、とおもいました。あとに出す「雇うた人」「雇われた人」がクドくないようにするにも、その無意識のあらわれと考えておいたほうがいいかも、とおもった。(まあ、ふつうの読み方も併せて提示しておいたほうが、穏やかな感じもするんだけどね。)

 

 「乃公」というのが、そもそも分からなかった。読み方すら分からない。調べてみたら、おどろくべきことが分かった。

 「乃公(だいこう・ないこう)──一人称の人代名詞。男性が、目下の人に対して、または尊大に、自分をさしていう語。我が輩。」(デジタル大辞泉)

 また、日本国語大辞典では、「(汝の君主の意から)男子の自称。目上の男子が目下の者に向かって、あるいはみずからを尊大にいう。我が輩。」とある。

 このことを知っていれば、「主人公」が「おどけて威張って、『ご主人さま』『お雇い主さま』(たるオレは滑稽だ)ということだろう」というKの言葉の意味も分かるわけだ。

 しかし、これ、知らなかった。

 で、このメールを友人Hに転送したら、「そうかあ、熊公、とかいうやつかあ。」と返事がきた。これもまた考えの及ばないことだった。試しに、「接尾語」としての「公」を調べると、はたして「 人名の略称などに付いて、親愛の情、または軽い軽蔑の意を表す。『熊―』『八―』」(デジタル大辞泉)とある。

 これで、「主人公」は「ご主人さま(たるオレ)」の意味であることは盤石だろう。ただ、ひょっとしたら、Kのいうとおり、ぼくの「解釈」も、ちょっとは「おもしろい」のかもしれない。

 しかし、それにしても、である。Kにとっては「ふつう」に読むとこうなる、という読み方が、ぼくにはまったく出来ていなかったというのは、ショックである。Kは、メールの最後に、「まあ、ふつうの読み方も併せて提示しておいたほうが、穏やかな感じもするんだけどね。」と括弧付きで、穏やかに諭してくれているわけだが、「普通の読み方」が出来てなかったんだから、「提示しておく」もなにもありゃしない。

 実は、こういう「ショック」は、なにも今に始まったことではないのだ。大学生のころだったか、ぼくが書いた文章の感想をこの同じ友人Kが手紙をくれたのだが、その中に「伎癢を感じた」と書いてあったので、褒められているのか、けなされているのかさっぱり分からず、辞書を引いて、あ、ひょっとして褒められたのかも! って思ったことがあるほどで、どだい、ぼくなどとは教養のレベルが違うのである。もう一方のHのほうも、高校生のころ、通学途中のバスの中で、突然、おれは最近「パンセ」を読んでる、とか言うものだから、「パンセ」の「パ」の字も知らないぼくは、素っ頓狂な声で、なんだ? それ? と聞いたら、なんでもパスカルの本だというようなことだったので、慌てて読んだという記憶がある。

 かように優れた友人たちが、いまだにこの愚かなぼくを見捨てずに付き合ってくれていて、おまけに、ちっとも先へ進まない「暗夜行路」の感想文を丹念に読んでくれて、感想までくれるということは、ありえないほどありがたいことである。

 まあ、そうしたわけで、「主人公」という「言葉」をめぐって、「プチ同窓会」みたいなことができたこと自体喜ばしいことだ。

 さて、本題に戻らねばならない。

 「目刺し女」とKが名づけたお仙に対する気持ちが変化してきた、という所までだった。その続き。

 

 お栄からは無事に着いたという簡単な便りだけで精しい事は何もいって来なかった。彼は此所(ここ)へ家(うち)を持つまでは、家が決ったら落ちついた気持で一人寺廻りをする事を大きい一つの楽みとして考えていたのだが、さて実際落ちついて見ると、何故かかえってそれが出来なくなった。妙に億劫になった。そして出掛けるとすれば大概新京極のようなごたごたした場所を歩き廻り、疲れ切って帰って来る、そういう方が多くなった。会う友達もなく、時には自分ながら法のつかないような淋しい気持になる日もあったが、それにしろ、それは大森の日のような、または尾の道の日のような、それほどの参り方をする事は近頃全くなくなった。まとまった物ではなかったが、書く方も少しずつは出来ていた。

 

 「法のつかない」は「のりのつかない」と読むのだろうか。そう読んで、「よりどころがない」の意味だろうか。

 気になるお栄は、「簡単な便り」だけ。

 引っ越しのゴタゴタや、お栄の出発や、いろいろ落ち着かない日々を経て、謙作は、そういうことがすべて落ち着いたら、お寺巡りをすることを楽しみにしていたのに、いざ、そうなってみると、お寺巡りなんかは「妙に億劫」になってしまう。かえって、ごみごみした新京極などへ行って、疲れて帰ってくるようになる。

 そういうことは、ぼくにもよくあることだ。学生の頃など、ヒマになったらゆっくり本を読もうなんて思っていても、いざヒマになってしまうと、かえって落ち着いて本など読む気になれない。試験前の時間が切羽詰まったときのほうが、よっぽど読めたりしたものだ。もちろん、試験前などというときは、現実逃避でもあったのだろうが、なにか、忙しいときのほうが、精神は生き行きと躍動するものなのかもしれない。

 それでも、謙作の心は、「大森」や「尾道」にいたころのような「参り方」はしなくなったという。謙作の受けたダメージ(出生の秘密)は、ながく謙作を痛めつけ苦しませてきたのだったが、ここへ来て、ようやく、回復の兆しが見えてきたということだろう。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 107 「羊羹」と「飛行機」 「後篇第三  十」 その4 2022.7.4

 

 

 謙作の結婚問題の仲介者となってくれたS氏からの手紙を、S氏自身が持参したのだが、謙作は寝ていて、直接受け取れなかった。謙作はお仙に、ちょっと起こしてくれればよかったのにと文句を言うが、会社の出がけなので、また夕方来ますということだったので、とお仙は言う。けれども、謙作は、S氏が自分で手紙を持ってきてくれたことが嬉しかった。

 謙作にとってはS氏がそうして自身で持って来てくれた事も嬉しかった。彼は色々S氏には世話になり、それをありがたく思っていながら、妙に機会がなく、これまで一度もS氏の家を訪ねなかった。この事は気になっていた。気になりながら、やはり彼は訪ねて行けなかった。そして同様S氏の方からも一度も訪ねて来ない事が、時々彼を不安にさえした。自分の礼儀なさをS氏が怒っている、そしてこの話にも、今は冷淡になっている、それで返事がこう遅れるのだ、結局こうしてこの話も有耶無耶になるのではないか、そういう不安だった。しかし今、彼はこういう拘泥した濁った気分までも一掃されると、二重に晴々した気持になっていた。

 

 「拘泥した濁った気分」というのが、ときどき謙作を襲う。世話になっているS氏の家に行くべきだと思っても、なかなか行く気になれない。それが失礼なことだという意識が、ひょっとしたらS氏は怒ってるんじゃないかという不安を生む。そして、この縁談もダメになっていくんじゃないかというふうに、謙作の不安はふくらんでしまう。

 それなら、そんな不安を払拭すべく、S氏の家に行けばいいじゃないかと思っても、行けない。それは、やっぱり「結果」を聞くのが怖いからだろう。謙作の不安は、どうしても、この縁談の行方に対する不安になってしまうのである。

 

 

 「ようお決まりやしたか」
 「うむ」  
  仙は今まで立っていたのを其所(そこ)に坐り、柄になく《しおらしい》様子で、
「おめでとうござります」と祝辞をいった。
「ありがとう」彼もちょっとお辞儀をした。
「そんで、何時(いつ)……?」
「判然(はっきり)しないが、今年中か来年なら節分前だ」
「ほう。たんと間(ま)がおへんな」
「節分というと何日頃だ?」
「二月初めでっしゃろ」
 その手紙にN老人の息子の友達で或る私立大学の文科にいる人があって、それから謙作の評判を聴き皆(みんな)も喜んでいると書いてあった。謙作はその人が幸(さいわい)に自分をよくいってくれたからよかったが、と思った。そして、もし同じ事をその人の位置で自分が訊かれた場合、そう素直によくいうかどうかを思い、冷やりとした。  彼は信行と石本とお栄とにほとんど同じ文句の手紙を書いた。その他に久しぶりで巴里の竜岡にも書いた。

 

 手紙の内容を地の文で説明したり、引用したりするのではなく、まずは、お仙との会話で示すというのも、また巧みな手法だ。そしてひとしきりの会話の後に、詳しい内容を説明する。うまいものだ。

 お仙の態度がすがすがしい。お祝いの一言を、きちんとそこに座り、「しおらしい様子」で言う。謙作(作者)はそれを「柄になく」と表現するが、この「柄になく」という表現によって、お仙の日常のテキパキとした振る舞いが浮かび上がる。いつもとは違って改まった態度をわざわざとって、「祝辞」を言う、という、何気ない日常の一場面だが、それでも、この当時は、こうしたきちんとした振る舞いの作法が、ごく普通の庶民にも行き渡っていたことを思わせる。

 今だったら、どうだろうか。人生の区切りとなるような場面で、常套句を言うような場面は多々あるわけだが、家の中での場合、畳のない部屋では、どうにも恰好がつかないのではなかろうか。もちろん、たったままでも、姿勢を正して、「おめでとうございます」ということはできるが、なんか、違うなと思ってしまう。

 謙作が、「節分というと何日頃だ?」と無邪気に訪ねるのも微笑ましい。日常を区切る季節の大事な一日を、ほとんど意識して生活していない。それが今も昔も「知識人」と呼ばれる人なのかもしれない。それに対して、お仙は、「二月初めでっしゃろ」と、あいまいではあるが、はっきりと認識している。「節分」が、生活の中にしっかりと根付いているのだ。

 謙作は、自分の「身辺調査」(というほどの大げさなものではないが)の中で、自分の作品が評判がよかったという話を手紙で読み、ほっとするが、自分だったら、その相手の作品を素直に褒めることができただろうかとふと思って「冷やり」とした。どこまでも、誠実な謙作である。

 

 午後彼は自家(うち)を出て、竜岡へ送るために駿河屋という店に羊羹を買いに行き、其所からS氏の会社へ電話をかけ、都合を訊き、此方(こちら)から訪ねる事にした。四時に来てくれという事だった。四時まではちょっと二時間近くある。彼は時間つぶしに四条高倉の大丸の店へ行った。華やかな女の着物を見る、こういう、私(ひそ)かな要求が何所(どこ)かにあった。それらを見る事から起こって来るイリュージョンが今の場合、欲しかったのだ。しかしまた別に、最近、深草の練兵場で落ちた小さい飛行機を展覧している、それも見たかった。竜岡が、その飛行機──モラン・ソルニエという単葉の──を讃めていた事がある。そして彼は今日竜岡への手紙にその飛行家が、東京までの無着陸飛行をやるために多量のガソリンを搭載し、試験飛行をしている中(うち)に墜落し、死んでしまった事を書いた。半焼けの飛行服とか、焦げた名刺とか、手袋とかその他色々の物が列(なら)べてあった。彼が京都へ来た頃、よくこの隼のような早い飛行機が高い所を小さく飛んでいるのを見た。町の子供たちがそれを見上げ「荻野はんや荻野はんや」と亢奮していた事を憶い出す。子供ばかりでなく「荻野はん」の京都での人気は大したものだった。それが今は死に、その物がこうして大勢の人を集めている──。
 いい時間に彼は其所を出て、S氏の家へ向かった。
 結納の事、結婚の時期、場所、そんな事が相談されたが、謙作には別に意見がなかった。時期だけはなるべく早い方がいいとも思ったが、節分前と決っていれば、その中でも早くというのは変な気もし、総て、いいように石本と相談し決めてもらいたいと頼んだ。

 

 「暗夜行路」には、話の大筋とは無関係な(あるいは無関係にみえる)細かいことがいろいろと書き込まれている。まあ、「暗夜行路」に限らず、小説というものは、そういうものかもしれないが、とにかく「細部」や「脇道」が面白い。

 パリにいる竜岡というのは、最初の方から出てくる謙作の友人で、今は、パリにいて、「発動機」の研究をしている。この理系の友人は、かえって謙作とは気があって、何かと連絡をとっているわけだが、そのパリの竜岡に今回の縁談についての報告の手紙を送り、さらに、「羊羹」を贈る。なんで「羊羹」なのか? って思うけれど、確かに当時のパリには「羊羹」はあるまい。それに、船便でも、「羊羹」なら腐ることもないだろう。しかし、もっと気の利いたものはないのだろか。「駿河屋」の「羊羹」は、そんなにうまいものなのだろうか、とも思う。どうでもいいことだけど。と思いつつ、ネットで調べたら、これはもう、ほとんど「羊羹」の元祖ともいうべき老舗で、スーパーで「羊羹」を買うのとはわけがちがう、ということが判明した。まあ、京都に住んでる人にとっては、何を今更って話だろうけどね。

 もうひとつの印象的な「脇道」は、「荻野はん」のことである。なにせ、飛行機嫌いのぼくだから(といっても、乗るのが嫌というだけだけど)モラン・ソルニエという単葉の飛行機のことも、まして京都で大人気だったという「荻野はん」のことも、まったく知らなかった。これはもう「羊羹」どころの騒ぎじゃない、ちゃんと調べなきゃと思って調べたら、この「荻野はん」のモデルは「荻田常三郎(おぎた・つねさぶろう)」であり、ここに書き留められたことは、ほぼ事実ということが判明した。これも、飛行機のことに詳しい人なら「何を今更」ってな話だろうが、ぼくには、新発見だった。

 調べている過程で、京都外国語大学の図書館報「GAIDAI BIBLIOTHECA」第233号(2022年4月20日発行)に、図書館長の樋口穣先生が、「『暗夜行路』と近代京都」というエッセイを書かれていることを知った。非常に興味深いエッセイなので、是非お読みいただきたい。(樋口穣先生のエッセイは、最終ページに掲載されている「図書館長のおもちゃ箱」です。)

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 108 「リアル」のありか 「後篇第三  十一」 その1  2022.7.17

 

 謙作は二、三泊で上京する事にした。わざわざ出るほどの事もなかったが、久しぶりでちょっと帰って見たいような気もしたし、それにこれまで石本が二度そのために来てくれた、それに対し、今度は自分の方から一度出て行こうと考えたのである。
 鎌倉へ寄り、信行と一緒に上京し、その夜石本を訪ねたが、相談というほどの事もなく、雑談に夜を更かし、二人は其所へ泊る事にして、並んで床に就いた。その時信行は、
 「本郷へ寄る気はないね」といった。
 「そうだね。本郷は何か億劫な気がするが、……咲子や妙子には久しぶりで会いたいようにも思う」
 「この間お前の話をしてやったら、大変喜んでいたよ」
 「そう。何所かで会って行くかな」
 「明日は日曜じゃないか?」
 「土曜だろう」
 「そんなら明後日鎌倉へ呼ぼうか」  
 「そうしてくれ給え」
 「そうか、それじゃあ、そう明日電話で話して見よう。きっと喜ぶだろう」
 翌日午後二人が鎌倉へ帰る前にその事を電話で話した。妹たちは心からそれを喜び、翌日の汽車の時間なども打合わせた。
 汽車へ乗ると、信行は不意に、
 「例の写真は持って来ないんだね。……気が利かないなあ」とこんな事をいった。
 「それも考えたには考えたんだが……」
 「考えて止める所がお前だよ」と信行は何と思ったかそう鋭くいって笑い出した。謙作はちょっといやな気がした。  
「しかし君は大森で見たんだし、……そして咲子たちとは今度会うとは思わなかったもの」
 「それはそうだ」と信行は自分のいい過ぎを取消すように二、三度点頭(うなず)いていた。
 その夜二人は早く寝た。そして翌朝謙作は信行を残し、その時間に一人停車場へ出掛けて行った。

 

 舞台が京都から、東京、鎌倉へと移る。

 信行の言葉は、ほんの小さなことでも、トゲのように謙作に刺さる。「気が合わない」というのは、こういうものだろうか。信行は、最大限、謙作を理解しようと努め、心使いをしている。にもかかわらず、謙作は、その信行の些細な言葉使いに、「いやな気」がする。

 謙作が、婚約者の写真を持ってこなかったことを、信行は「気が利かない」という。謙作は、もともと本郷に行くつもりはなかったし、それなら、咲子たちにも会うこともないだろうと思って写真を持ってこなかった。そのことを信行は「気が利かない」といって咎める。謙作にしてみれば心外なことだ。むしろ自慢たらしく写真なんぞ持ってくることのほうが、みっともない、ぐらいの気持ちであったろう。だから、「考えた」けれども「やめた」。つまりは、いったんは写真を持っていこうかと考えたのだ。けれども、いろいろそういうことを考えて、「やめた」のだ。

 そのことを捕らえて、信行は「考えて止める所がお前だよ」と「鋭くいって笑いだした」。この「鋭くいって」が効いている。謙作の性質をとことん知り尽くしていて、その弱点を「鋭く」──つまりは、「冷たく」指摘する。それが謙作は不愉快なのだ。

 写真を持って行くなんてことを思いつかなかったのならまだしも、写真を持っていこうかなと考えたのなら、無駄を承知で、持って行けばいい。見せずに終わっても、それはそれでいいじゃないか。それなのに、どうしてそういうふうに物事を処理しようとしないのだろう、というのが、信行の気持ちだろう。たった1枚の写真じゃないか。荷物になるわけじゃなし。そういう対処の仕方が「気が利く」ということなのだ。

 それはそうだろうとぼくも思う。けれども、謙作は、なぜかそうした気の利かせ方をしない。というか、できない。それは、たぶん謙作にも分からないのだろう。そして、もしかしたら、謙作自身、しまった、持ってくればよかった、と思っているのかもしれない。それなのに、そういう自分に対して、いちいちトゲのある言葉を投げかける信行に、謙作は、いらつくわけだ。

 その夜、「二人は早く寝た」。仲のよい兄弟なら、久しぶりのゆっくりした時間だ、つもる話に花を咲かせて夜更かししてもいいはずだ。それなのに、「早く寝た」。そして翌朝は、信行を残して、一人で停車場に出かける。昨晩の「いやな気」の余韻である。

 謙作と信行の間には、深くて超えられない溝があるのだ。こういうところ、リアルだなあと思う。リアルは、さりげないところに存在する。

 

 彼がプラットフォームに立っている所に汽車が着いた。二人は大きな荷物を持って降りて来た。
 「お兄様は?」と妙子が訊いた。
 「自家(うち)で待っている」
 「まあ、ひどいわ。こんなに御馳走を持って来て上げたのに……」妙子ははち切れそうに元気に見えた。そして暫く見ない間に大きくなっていた。
 荷だけ俥に乗せて、先にやり、三人はぶらぶらと八幡前から学校の横を歩いて行った。長閑(のどか)ないい日で三人とも晴れやかないい気持になっていた。
 京都の家(うち)の話など出たが、謙作はなかなか結婚の事をいい出さなかった。いいはぐれた形でもあったが、余りそれが出ないので、咲子の方から、
 「今度の事、本統に嬉しいわ」といい出した。
 「お式は何日(いつ)? 京都でなさるんでしょう?」妙子もいった。
 「多分そうだ」
 「その時、私、京都へ行きたいの」
 「お兄さんに連れて来てもらうさ」
 「ええ、そのつもり。だけど何時(いつ)なの? 学校がお休みでないと駄目なのよ」
 「その頃かも知れないよ」
 「なるべくそうしてね」
 「妙ちゃんの都合で、そんな事決められないわ」と咲子がいった。妙子は怒ったように黙って姉を見返していた。
 咲子は学校が休みでも妙子の京都行きは父が許すはずがないと思っているのだ。それは謙作にも分った。分っていながら調子を合わせ、何か話していた事が、自分でちょっと気が差した。で、彼も黙ってしまった。
 近くまで来ると、妙子は一人先に駈けて行ってしまった。荷を置いて来た俥が彼方(むこう)から帰って来た。  間もなく二人が西御門(にしみかど)の家についた時には妙子は座敷の真中に大きい風呂敷包みを解いている所だった。

 

  咲子と妙子は、謙作の種違いの妹だ。父と一緒に本郷の家に住んでいる。謙作は、父には会いたくもないけれど、この二人には会いたいと思っていたので、二人は信行に呼ばれて鎌倉まで来たわけだ。それなのに、前の晩に、信行と謙作は、ささいなことで気まずくなって、誘ってきた信行が迎えに来ていないことを知ると、妙子が怒る。

 横須賀線でやってきて、鎌倉駅で降り、鶴岡八幡宮から、学校の横を通って、「西御門」まで歩いたということになる。今でも、その道を歩くことができるし、その周辺の建物はそんなに大きく変わっていないだろう。三人がのんびりと話しながら歩いていく様子が鮮やかに目に浮かぶ。「長閑ないい日」とは、こういうものだろう。

 こうした映像を思い浮かべ、三人の会話を耳にすると、まるで、小津安二郎の映画見ているような錯覚に陥る。

 「西御門」には、里見怩ェ住んでいたことがあるようだから、この道は、志賀直哉も何度も歩いたことだろう。

 小説を読んでいて、楽しいのは、こういうところだ。ああ、あそこを舞台にしてるんだなと分かると、勝手に頭に映像が浮かんでくる。場合によっては、実際に出かけていって、確かめることもできる。もっとも、こういうことができるのは、リアルな小説、特に私小説であって、荒唐無稽なフィクションではそうはいかない。

 今放送中にNHKの朝ドラ「ちむどんどん」で、鶴見が出てくるのだが、鶴見の「リトル沖縄」に住む人たちが、町内の「沖縄角力大会」を開くという設定で、その大会をやった場所が、京浜工業地帯のまっただ中の鶴見にあるはずもない、ひろびろとした砂浜だった。ある程度の「リアルさ」を要求されているはずの朝ドラで、こういうありえない設定を平気でやってしまう無神経さというのは、ほんとうに信じられない。

 こんなことを「暗夜行路」でやるということは、鎌倉駅で降りた二人と謙作が、そのまま江ノ島まで歩いて行って、お昼までに、二階堂の家に帰ってきました、みたいな話になる。その辺の地理を知らない読者は、そうか、鎌倉駅から江ノ島まで歩いても30分ぐらいなのか、って思うだろう。別に小説読んで地理の勉強するわけじゃないから、いいじゃないかと言われても、そうはいかないのだ。

 無邪気な妙子は、謙作の結婚式に、京都へ行くつもりになっているが、それを父は「許すはずがない」のは、どうしてなのか。「許すはずはない」ということを、咲子も、謙作も「分かっている」のはなぜか。謙作の結婚のことを父はどう思っているのか、どこかに書いてあったろうか。ちょっと気になる。

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 109 謙作の涙 「後篇第三  十一」 その2 2022.7.26

 

 

 さて、西御門の家に着いた謙作は、妙子から思いがけないプレゼントをもらう。

         

 間もなく二人が西御門の家についた時には妙子は座敷の真中に大きい風呂敷包みを解いている所だった。菓子折りのような物、缶詰、果物、その他シャツや襦袢の類まであった。その他にもう一つ新聞紙で包み、うえを紐で厳重に結わえた函ようのものがあって、妙子は想わせぶりな顔つきをしながら、それを別にし、
 「これは謙様の……」といった。「今お開けになっちゃあ、いけない事よ、京都へお帰りになってから見て頂戴」
 「どら、ちょっと見せろ」信行が傍から手を出していった。
 「いけない事よ」
 「俺にだけ見せろ」こういって取ろうとすると、妙子は怒ったように、
 「いやよ」といった。
 「お祝いか?」
 「お祝いはまた別に差上げるのよ」
 「お祝いの手つけか」
 「いい事よ、お兄様には関係のない事よ。黙っていらっしゃい」妙子は起ってそれを違い棚に載せた。
 「意地悪! そんなら口でいえ。何だ」信行は故(わざ)とこう乱暴にいった。
 「妙ちゃんのお手製の物よ」と傍から咲子が口を出した。
 「姉さん余計な事をいって……」妙子は姉をにらんだ。そして京都へ帰るまでは決して開けないという堅い約束を謙作にさせ、漸く満足した。
 「そんなに勿体をつけちゃって、かえっておかしいわ。それこそ、開けて口惜しき玉手箱になってよ」こういって咲子はクスクスと笑い出した。
 「まあ、ひどい!」妙子は眼を丸くして、昵(じ)っと姉の顔を見凝(みつ)めていた。涙が出かかっていた。
 「おい、もう直きひるだが、お前たちがやるんだよ」こんな事を信行がいっても怒った妙子は知らん顔をしていた。

 

 このころの、いいとこのお嬢様の会話というのは、こんな感じだったのだろうか。「いけない事よ。」といった、語尾に「ことよ」をつける女性言葉は、他の小説でもよく見かけるのだが、いったいこれは、いつごろから、どんなところで使われてきたのだろうか、と気になって調べてみたところ、「日本国語大辞典」に、こんな説明と用例があった。

 

 終助詞のように使われる。
(イ)明治後期から昭和前期にかけての、若い女性の用語。ですわ。わよ。
*青春〔1905〜06〕〈小栗風葉〉春・二「兄さんに嫌はれたって、誰も困りゃしない事よ」
*或る女〔1919〕〈有島武郎〉前・五「明日は屹度(きっと)入らしって下さいましね〈略〉お待ち申しますことよ」
*雪国〔1935〜47〕〈川端康成〉「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」 (ロ)(助詞「て」に付けて)勢いよく、また、やや投げやりな気持で言いすてるときの男性の用語。
*窮死〔1907〕〈国木田独歩〉「もう一本飲(や)れ、私が引受るから何でも元気を加(つけ)るにゃアこれに限(かぎる)って事(コト)よ!」

 

 そうか、明治後期から昭和前期だったのか。つまりは、戦後はあまり使われなくなったってことだろう。これだけの用例ではよく分からないが、必ずしも上流階級の女性の言葉とも限らないようだ。戦後生まれのぼくは、この言葉を生で聞いたことはない。

 それに比べると、(ロ)のほうは、自分では使わないにせよ、テレビなんかでは頻繁に耳にしてきたような気がする。特に時代劇だったのだろうか。

 同じ「ことよ」が、一方では若い女性のカワイイ系の言葉として使われる一方で、「て」がつくにせよ、男性のヤクザっぽい(というほどでもないか)言葉として使われたということは興味深い。

 ともあれ、この一連の、兄弟姉妹のやりとり、とくに、信行のぞんざいな口ぶりやからかいは、謙作からすれば、どこか羨ましいような気分にさせるものだっただろう。そういう謙作の複雑な心中を志賀はまったく書かないけれど、それがなんとなく伝わってくるような気がする。

 

  午後皆(みんな)で円覚寺へ行った。その帰途(かえり)建長寺の半僧坊の山へ登った。
 謙作は二人を東京まで送り、直ぐその晩の夜行で京都へ帰る事にした。
 帰り支度で妙子が便所へ入った時、信行は串戯(じょうだん)らしい、ちょっといたずらな様子をしながら、  「何だ、見てやろうかな」といって違い棚の函を持ち出して来た。
 「まあまあ」謙作も串戯らしくそれを取上げてしまった。咲子は笑っていた。
 信行とは鎌倉の停車場で別れ、三人で東京へ帰った。そして其所でまた妹たちに送られて謙作は京都へ帰って来た。
 妙子の贈物はリボン刺繍をした写真立てと、宝石入れの手箱だった。「玉手箱」で怒ったわけだと彼は一人微笑した。手箱に小さい洋封筒の手紙が入っていた。
 謙兄様。おめでとうございます。先達(せんだって)お兄様からお話伺いまして泣きそうになりました。私は一人直ぐ御洋室に逃げてしまいましたが、何だか、あんまり想いがけないのと、嬉しいのとで変になったのです。
 この箱は未知の姉上様に。この写真たては姉上様の御写真か、御新婚の御写真のために。
 ピアノを習いに行くB さんの奥様に教えて頂いて私が作りました。
 こんな事が書いてあった。謙作は会った時何にもいわず、ただ気楽そうにしていた妙子が、自分の結婚をそれほどに喜んでくれた事を意外に思い、嬉しく思った。彼は涙ぐんだ。

 

 

 

 ここで謙作の行程を整理してみる。

 「西御門の家」→「円覚寺」(今なら鎌倉駅から北鎌倉駅まで横須賀線でいけば、数分だが、この当時はまだ北鎌倉駅はなかったはず。北鎌倉駅が本格開業したのは、1930年・昭和5年。したがって、歩いていくか、人力車で行くかである。)→「建長寺」→半僧坊(当然徒歩だろう)→「西御門の家」(ここまでは、謙作・信行・咲子・妙子の4人)→「鎌倉駅」(信行は鎌倉に残り、3人で横須賀線で)→東京駅→(ここから、本郷の家には戻らずに、謙作は、そのまま東海道線に乗って)→京都駅

 こうしてみると、謙作は若いなあと思う。当たり前のことだが、こんな行程は、今のぼくなら疲れちゃってとても無理。登場人物の若さということもあるだろうが、当時の人たちというのは、平気でどこまでも歩いていく。基礎的な体力があったということだろうか。それとも、今の人間が、堕落したということだろうか。

 京都に帰った謙作は、妙子のプレゼントをあけてみる。そこに入っていた手紙の可憐な文章に、謙作はおもわず涙ぐんだ。

 「彼は涙ぐんだ。」の短い一文がきいている。そして、この章(十一)は終わる。

 そして、いよいよ謙作の結婚へと話は進んでいく。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 110 美人じゃなかった事実 「後篇第三  十二」 その1 2022.8.6

 

 

 話はトントン拍子に進み、結婚式の日取りも決まった。これまでの叙述の長さからいうと、あっけないくらいのスピードである。

 

  謙作の結婚の日取りは案外早く決まった。それはやはり石本や信行の意嚮(いこう)からだった。支度(したく)は何も要らない、謙作もどれだけ京都に住むか分らないし、家もどうせ広い所を借りるはずはなし、今、色々な物を持ち込まれても困るから、と、こうS氏から彼方(むこう)へいってもらったのである。そして、式その他もなるべく簡単に済ませたい、という事だった。
 十二月初めのある日、敦賀からの一行(当人、母、兄)が出て来た。翌日皆(みんな)はS氏の家(うち)に呼ばれ、其所(そこ)で見合をし、晩はやはりS氏の案内で南座の顔見世狂言へ行った。

 

  「結婚式の日取りは案外早く決まった。」というのはいいが、その後に、「それはやはり石本や信行の意嚮からだった。」というのが引っかかる。「やはり」とあるからには、謙作も、予想していたということだろうが、「それは」は、何を指すのだろうか。「日取りが案外早く決まった。」ことだろうか。石本や信行には、式を急ぐ理由があったのだろうか。それを、「そうだろうな」と謙作も思っていたのだろうか。それとも、「それは」は、この以下のことを指すのだろうか。「S氏から彼方(むこう)へいってもらったのである。」とあるが、そう「いってもらった」のは、謙作なのか、それとも、石本と信行なのか。当然、謙作だろうと思って読むと、最後のほうは、「式その他もなるべく簡単に済ませたい、という事だった。」とある。この「事だった。」は、どういうことだろう。

 「事だった。」だけ読めば、「彼方」の意向のようにもとれるけれど、それも変だ。やっぱり「式は簡単にしたい」というのは、謙作の思いだととるのが穏当だろうが、どうにも、文章があいまいだ。どうしてなのかしらないが。
敦賀から当人含めて3人がやってきて、そこで「見合」をしたという。ここで、初めて、謙作の直子は、正面から相対するのである。

 謙作が一方的に見初めて、相手が謙作の顔さえ見ないうちに、結婚が決まり、式の日取りまで決まった後に、初めて「見合う」わけで、まあ、こんなことは、当時はごくごく当たり前のことではあったけれど、こうした場合、女性はいったいどんな気持ちだったのだろうか。

 厨川白村(1880〜1923)という大正時代に活躍した文芸評論家がいるのだが、有名な著書「近代の恋愛観」は、ベストセラーになって、大正時代の恋愛論ブームを起こしたとされる。その本を仕事の関係でちょっと読んだことがあるのだが、極端なまでの恋愛至上主義で、恋愛結婚以外は認めない。見合い結婚などというものは、女性からすれば「強姦」に等しいという。芸者のいわゆる「水あげ」なども厳しく断罪されている。それを読んで、なるほどと思ったのだが、その厨川白村はもうすっかり忘れ去られている。

 しかし、そもそも「見合い」というものは、どういう起源があるのだろう。今でも残っているこの一種の「風習」は、いつから始まったのだろうと思って、ちょっと調べてみたら、意外なことが書いてあった。長いけれど、「日本大百科全書」の解説を引用しておく。

 

 縁談に際して、見知らぬ男女が仲人らの仲介のもとに会見すること。もともと婚姻は同一村落内の男女合意に基づく恋愛結婚が主流をなしていたから、見合いの必要はなかった。その後の村外婚・遠方婚はおもに家格や家柄を問題にしておこったもので、家長の意見や判断が重視され、ひいては当事者の立場が考慮される余地は乏しかった。事実、武家社会では、婚姻の当夜初めて相手の顔を見るというのが伝統であった。しかし庶民の間では、なんらかの形で当事者の接触を図ろうとする動きが現れ、男側が牛や馬を見たいなどと口実をつくって女の家に訪れたり、仲人の案内によって女の家に行き、茶菓の接待を受けたりする風であった。これらでは、わずかに男が女の容姿をかいまみる程度であった。明治中期、都市の発達、劇場・食堂の普及につれて、このような場所に見合いの席を設ける風が始まり、両人に直接面談させる機会を与えるようになった。こうして、見合いが縁談を進めるのに重要な手続と考えられることになり、昭和20年代まで見合い結婚が盛んに行われた。近来も見合いはけっして衰えてはいないが、単に男女接触の第一歩にすぎず、その後の交際を通じて意思の確認を求め、成否の結論も出すという状況である。そこで場合によっては、見合いから始まったのに恋愛にまで高まる例もみられる。  [竹田 旦]

 


「もともと婚姻は同一村落内の男女合意に基づく恋愛結婚が主流をなしていたから、見合いの必要はなかった。」というところにちょっと驚いた。「見合い結婚」→「恋愛結婚」へと変遷してきたのだとばかり思っていたが、むしろ、もともとは「恋愛結婚」が主流だったのだ。

 考えてみればその通りで、「好きになったから結婚する」というのが人間の自然であろう。嫌いなヤツなのに結婚させられる、というケースは、武家社会などに典型的に現れるわけだ。「武家社会では、婚姻の当夜初めて相手の顔を見るというのが伝統であった。」などということがあれば、それこそ白村の言うとおり「初夜」は「強姦」以外の何ものでもない。そうした武家社会の伝統が、庶民の中にも浸透していた明治から大正にかけての状況に、白村は、猛然と「NO!」を突きつけたのだ。そういう「見合い結婚」の理不尽さを痛感していた人たちが多数いたからこそ、その本もベストセラーとなったわけだ。

 まあ、昨今の朝ドラ「ちむどんどん」でも、鈴木保奈美演じるところの金持ちの奥方が、息子の結婚に大して「家柄が違う」などというセリフを臆面もなく喫茶店で吐くシーンがあったりして、1980年代のことだとしても、今でもそういう意識は色濃く社会の中に残っているのだろう。(こんな絵に描いたような家柄意識を、ドラマのセリフにそのままするなんて、しょうもない脚本家だなあと思ったけど。)

 翻って、謙作の結婚は、こういう意味での「見合い結婚」ではない。むしろ「恋愛結婚」なのだが、女性の気持ちを十分に汲んだ、というか、「相思相愛」の「恋愛結婚」ではない。いわば「片思い結婚」ともいうべきものだ。

 謙作は、何度も直子の姿を夜目、遠目に見て、妄想をふくらませていたのだが、直子は謙作を一度も見たことがないうちに(写真を送ったんだっけ?)、式の日取りまで決まったうえで、謙作と相対したというわけだ。

 「見合」が終わると、すぐに「南座の顔見世狂言」を見に行く。これもちょっと不思議だ。今ではこんなことはしないだろう。
「暗夜行路」では、謙作は、よく寄席や歌舞伎を見にいく場面が出てくる。今では、そういう所に行くというのは、それだけを目的とする特別な行動だが、当時は、寄席に行ったり、芝居見物をしたりということが、もっと日常生活の一部となっていたのだろう。落語などでも、そうした生活のあり方がよく出てくる。

 初めて謙作を見る直子の気持ちはどうだったのだろうと興味を惹かれるが、まずは謙作の気持ちが描かれる。

 

 謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。
 横顔が母親とよく似ていた。母親もN老人の妹として彼が想像していたとは全く反対であった。顔の大きい、ずんぐりと脊の低い、如何にも田舎田舎した人で、染めたらしい髪の余りに黒々しているのも、よくなかった。で、彼女が、それに似ていた事は、同じ場合を書いたUnfortunate likeness というモウパッサンの短篇小説を憶い起こさせたけれども、彼はその小説の主人公のようにその事には幻減を感じなかった。それにしろ、彼女は彼が思っていたように美しい人でなかった事は事実である。もっともこの事は後で彼女自身彼に話した所であるが、前日の汽車の疲れと、前夜の睡眠不足──疲労がかえって彼女を興奮させ、ほとんど明け方まで、眠れなかった──ためにその日は軽い頭痛と、いくらかのはき気もあり、彼女としては半病人の状態にあったのだという事だ。実際彼もその日のような彼女を見る事はその後、余りなかった。

 

 要するに、ちょっとガッカリしたのだ。夜目、遠目に見て、勝手に妄想をふくらませ、自分好みの美人に仕立て上げられては女もたまらない。そうした「妄想の女」を上回る美人なんて、そういるものではない。だから、この謙作のガッカリもごく自然とはいえる。

 それにしても、何度も出てくる「鳥毛立屏風の美人」というのは、そんなに美人だろうか。古代の美人の典型なのだが、それが謙作の理想なのだろうか。こういうものを持ち出す謙作というのも、ちょっと嫌みである。

 「鶉の枡」というのは着物の柄なんだろうけど、調べても分からなかった。知っている人がいたら教えてください。

 しかし、謙作は直子の母親も「妄想」していたのだからおもしろい。まあ、「彼女」が出来たとして、その母親がどんな人だろうというのは、誰だって想像するだろうが、「想像していたとは全く反対」というのは、あんまりだ。しかもそのあと「顔の大きい、ずんぐりと脊の低い、如何にも田舎田舎した人で、染めたらしい髪の余りに黒々しているのも、よくなかった。」と手厳しい。ここまで書かなくてもって思う。

 まあ、直子自身が言い訳して、あのときは最悪だったのよ、ってことではあるが、「彼女は彼が思っていたように美しい人でなかった事は事実である。」と書くのは、「事実」へのこだわりなのか? それにしても、威張ったみたいな言い方で、まるでゴチックで印刷したみたいに「事実である」なんて書く必要があるのだろうか、疑問である。しかし謙作のことだから、いくら直子が言い訳しても、「美人じゃなかった事実」が、この後、案外根深く、残っていくのかもしれない。

 ところで、ここに出てくるモーパッサンの「Unfortunate likeness」という短編小説だが、訳すと「不幸な類似」とでもなるのだろうが、検索してもその本が見つからない。で、いろいろ調べていたら、どうもこれは「偽作」らしいというところまでたどりついた。足立和彦というフランス文学、モーパッサン研究者の「えとるた日記」というブログに、この「暗夜行路」に関する記事があり、そこでは、「それはそうと『暗夜行路』。なんでここにおもむろに「モウパッサン」が出てくるのかはよく分かんない。時任謙作は英語でモーパッサンを読むような人だった、てことでしょうか。岩波文庫さん、今度改版する時はぜひ注をつけておくんなせえ。」とあった。

 深入りすまい。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 111  読解力が足りない  「後篇第三  十二」 その2 2022.8.9

 

 

 国語の教師を42年間も曲がりなりにも続けてきたというのに、どうも、昔からぼくには読解力がない。もちろんぜんぜんないわけではないけれども、どうにも「普通じゃない」ところがある。

 家内と一緒にサスペンスなんかを見ていたころに、ぼくには「え? どうして?」ってところが多々あって、その度に、家内は「どうしてこんな当たり前のことがわからないの?」と呆れたものである。最近では、2時間ドラマなど見る余裕がないが、それでも、生活の至るところで、家内の「どうして、そんなことが分からないの?」は、毎日のようにあって、ぼくの「読解力のなさ」あるいは「文脈の読めなさ」には、ますます磨きがかかっているのである。

 そんなぼくが、「暗夜行路」なんぞを、えんえんと「精読」しているのだから、そのトンチンカンぶりも、なかなか堂に入ったもので、前回も、その恰好の例が出た。その部分を再度引用しておく。

 

 謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。

 

 この中の「そして現在彼は同じ鶉の枡に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。」について、「『鶉の枡』というのは着物の柄なんだろうけど、調べても分からなかった。知っている人がいたら教えてください。」と書いた。「知っている人がいたら教えてください。」なんて臆面もなく書いたけれど、調べることは調べたのである。しかし、どうにも分からなかった。

 というのも、ぼくのこの解釈には、決定的な誤りがあって、それは「鶉の枡」が「着物の柄」だと思い込んだことである。どうしてそう思い込んだのかというと、「鶉の枡に大柄な」とあるので、まず「大柄な」を「着物の柄」だと思ってしまっのだ。そのため、大柄な着物の柄に「鶉の枡」あるいは「鶉枡」という柄があって、そのことを言っているのだろうと考え、懸命に、着物の柄を調べたのである。検索の途中で、何度も、昔の劇場の桟敷席の図などが出てきて、それが「鶉枡」だという説明が出てきたのだが、そうか、それをどう着物の柄にしたのかなあと考えてしまったのだった。

 それで、行き詰まってしまい、「知っている人がいたら教えてください。」と書いた。それは、昔からの友人の何人かが(たぶん2人だが)、毎回きちんと読んでくれていて、そのうちの横浜に住んでいる一人は、毎回、「誤植」を指摘してくれているのだ。もう一人は、遠い都に住んでいるのだが、時折、的確な感想をメールで送ってきてくれる。

 なにしろ、「暗夜行路」だけで、すでに100回を超えるという「長大作」なので、そうそう読んでくれる人もいないわけだが、毎回熱心に読んでくれているのが嬉しくて、なんとか書き続けているのだ。

 で、二人のうちの西の都に住む友人が、すぐにメールをくれて、

 鶉の枡は、知ってる人は知ってるので、
 もうムダかなとおもいつつ、
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/kabuki2015/2015/11/post-48.html
 をご覧ください。

というリンクを送ってくれた。そのリンクをみると、ぼくがさんざん検索で目にしてきた昔の劇場の観客席の絵である。それを見て、「だからさ、それは見たのよ。ぼくが探しているのは着物の柄なんだけどなあ。」と心の中で呟いたその瞬間、ぼくは自分の誤りにハタと気づいたのである。

 もう一度その部分を引こう。

 

 そして現在彼は同じ鶉の枡に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。

 

   問題は「鶉の枡に」の「に」だ。「鶉の枡に、大柄な」と続けて読んだために(しかし、普通はそうは読まない。)、「大柄」が着物の柄だと思ってしまった。しかし、「大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女」となっているのだから、「大柄な」は、彼女の体格を言っていることは明らかで、これを「着物の柄」だととるなんぞは、まさに「読解力不足」の真骨頂である。しかし、まあ、ここを「に」だけで済ませずに、「鶉の枡の中に」と書いてくれれば、そういうバカな読み方は防げるわけなのだが。

 ところで、この構文は、英語の言い方によく出てくるヤツだ。これを普通の日本語に直せば、「そして、大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女が、彼と同じ鶉の枡に座っているのだった。」といった感じになる。(これが「普通」かどうか分からないけど。)何もこんな言い直しをしなくても、普通の読解力を持っている人間なら、即座に分かるのだろうが、ぼくは、これが分からなかったのだ。分かってしまえば、もう読み違えようのないくらい明晰な文章なのだが。

 そんな、こんなで、つい先日、もう一人の横浜に住む友人から、翻訳サイトの「DeepL」というのがスゴイということを聞いていて、いろいろ試している最中なので、これを英語に翻訳させてみたら、以下のようになった。対訳式に、引用しておく。

 

謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。

When Kensaku looked at Naoko again, he had a very different impression of her from the one he had been thinking about in his mind. He had built her up in his mind as the kind of woman who was the best for him, the kind of woman he most desired. In a word, she was as elegant and graceful as a beautiful woman on a bird's-ear screen. All in all, it was a slight impression he had had of her when he first saw her, which he had conveniently exaggerated to an infinite degree. And now he saw her in the same quail's box, large and full-cheeked, but with a few wrinkles at the corners of her eyes and a somewhat somber appearance. Her hair was the old-fashioned, so-called "brim hairstyle," which had fallen out of fashion even then. He could not remember what kind of hair she had when he first saw her, but he thought it must have been something more unkempt and unappealing to the eye.

 

 英語はよく分からないけど、これは相当分かりやすい訳ではなかろうか。特に、問題となっている部分を見ると、「And now he saw her in the same quail's box, large and full-cheeked, but with a few wrinkles at the corners of her eyes and a somewhat somber appearance. 」となっている。

 なんとわかりやいことよ! これなら誤読する気遣いはない。

 その昔、正宗白鳥だったかが、源氏物語は英訳のほうが分かりやすいって言ったことがあったらしいが、まったくムベなるかなである。「暗夜行路」もよく分からなくなったら、「DeepL」に翻訳してもらおうか。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 112  籠の中の鳥  「後篇第三  十二」 その3 2022.8.21

 

 直子が予想に反して「美人じゃない」と感じられたのは、彼女の体調がすぐれないせいでもあった。そして謙作は、どうだったのだろうか。

 

 そして気を沈ませていたのは彼女ばかりではなかった。謙作も変に神経を疲らせていた。一体彼は初めて会う人と長く一緒にいると神経を疲らす方だった。
 殊にそれが無関心でいられない対手である場合一層疲れた。兄という人も感じは悪くなかったが、共通な話題のない所から、とかく不用意に文学の話をされるには彼は時々返事に困った。話のための話で、一々責任を持った返事をする必要はないと思っても、彼にはその程度に淡白(あっさり)とはそれが口に出て来なかった。ただその人が時々如何にも人懐そうな眼差しで真正面に此方の眼を見ながら「不束者(ふつつかもの)ですが、どうぞ」とか「母も段々年を取るものですから……」とか、こんな事をいう時には如何にも善良な感じがし、そして親しい感情を人に起こさせた。会ってまだ僅かな時間であるのに、謙作には既に赤の他人でない感情がその人に起こっていた。

 

 直子の兄は、謙作と「共通の話題」がない。少しでも付き合いのある人なら、日常的な「共通の話題」もあるだろうが、初対面である。兄は、文学には詳しくないけれど、謙作が文学者だと知っているから、無理して「文学の話」ををする。それが「話のための話」である。

 それがどんな話であったかは、おおよその見当がつく。「小説っていうのは、あれは、ほんとうのことを書くもんなんですか。それとも、まったくの作り物なんでしょうか。」なんて質問が出たかもしれない。あるいは、多少でも、文学についての知識があったとすれば、「昨今の自然主義ですか、あれなんかは、あなたはどう評価なさるんですか?」なんて質問をしたのかもしれない。

 謙作は、そうした「話のための話」に、「一々責任を持った返事をする必要はない」と思うのだが、そういうふうに思うところに謙作の誠実さがあらわれている。「責任を持った返事」をする必要はないにしても、「彼にはその程度に淡白(あっさり)とはそれが口に出て来なかった。」という。「その程度に」とはどういうことか? なんて試験問題に出せそうなところだけど(どうもすぐにそう思ってしまうというところが未だに教師根性が抜けてない証拠で、困ったものだ。)、これを答えるのは案外難しい。つまりは、「責任をもった答えではないにしても、相手に合わせた簡単な答を口にすることができなかった。」といったところになるのだろうか。

 例えばだ。「あなたの小説は、ぜんぶほんとうにあったことなんですか?」という質問に対して、「責任を持った返事」となると、「ほんとうにあったこともあります。けれども、『ほんとうにあった』ということは一体どういうことでしょうか。主人公が考えたことと同じことを私がその時考えたとしても、それは、私の中に『あった』ことではありますが、それを『ほんとうにあったこと』と捕らえていいものでしょうか。」などという話をえんえんとしなければならない。かといって、「まあ、そうですね。ほんとうにあったこともあれば、そうでないものもある、といった所でしょうかね。」といってあとは笑うといったところが「淡泊な答」となるだろう。

 そんな「あしらい」もできない謙作は、結局のところ、「はあ」とか「そうですね、なかなか難しいところです。」とかいった言葉でお茶を濁し、その兄の顔を観察することなる。その兄の善良そうな言葉に、謙作は、「既に赤の他人でない感情がその人に起こっていた。」というのである。

 気難しい謙作が、こんなに素直に初対面の人に「赤の他人でない感情」を持つというのは、やっぱりもうすぐ「親戚」になっるということによるだろう。血縁の「親戚」には、苦い感情ばかり抱いてきた(異父姉妹は別だが)謙作だが、この新しい「親戚」に、こうした「親しい感情」をすぐに持てたというところに、謙作の心の世界がある種の「解放」を迎えたということが読み取れると思う。

 謙作の視線は、舞台に戻る。

 

 舞台では「紙屋治兵衛」河庄(かわしょう)うちの場を演じていた。謙作は何度もこの狂言を見ていたし、それにこの役者の演じ方が毎時(いつも)、余りに予定の如くただ上手に演ずる事が、うまいと思いながらも面白くなかった。そして彼は何となく中途半端な心持で、少しも現在の自身──許婚(いいなずけ)の娘とこうしている、楽しかるべき自身を楽しむ事が出来なかった。彼はむしろ現在眼の前にいる直子を見、二タ月前の彼女を憶い、それが同一人である事が不思議にさえ思われた。
 直子は淋しい如何にも元気のない顔つきをしながら、舞台に惹き込まれている。ぼんやりした様子が謙作にはいじらしかった。が、同時に彼自身、どうにも統御出来ない自身の惨めな気分を持て余していた。
 彼は努めて何気なくしていた。しかし段々に今は一秒でもいい、一秒でも早くこの場を逃れ出たいという気分に被われて来た。こういう事は彼に珍らしい事ではなかったが、場合が場合だけに彼は一層苦しい一人角力(ひとりずもう)を取っていた。お栄との結婚の予想が彼を一時的に放蕩者にしたように、此度もまた、多少病的にそうなった事が、彼を疲らし、彼の神経を弱らし切っていたのだ。
 芝居のはねたのはもう晩かった。戸外には満月に近い月が高くかかっていた。彼は直ぐ皆と別れ、籠を出た小鳥のような自由さで一人八坂神社の横から知恩院の方へ歩いて行った。とにかく一人になればいいのであった。知恩院の大きな山門は近よるに従って、その後ろに月が隠れ、大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。

 

 

  結婚式はまだ先で、今は「見合」中なので、直子は「許嫁」ということになるわけだが、この「見合」中に、芝居見物をするというのは、前回も書いたと思うが、どうにも違和感がある。時代の風習ということなのだろう。

 しかし、それにしても、なぜ、その芝居が「心中天網島」なのだろうか。紙屋治兵衛と二人の女のドロドロした情念の芝居は、どうにもふさわしくない。女房がいるのに、遊女に惚れた男が、結局女房を捨てて遊女と心中するという話は、いくら歌舞伎にしたって、見合の最中に観るべき芝居じゃなかろう、ってぼくは思うけど。

 謙作は、その芝居を見ながら、役者への不満を感じつつ、余計な情動に心を煩わされる。ある意味では人間が、激しい性欲の衝動の犠牲になっていく近松のこの芝居は、謙作の中の性欲をも刺激したということだろうか。

 「彼はむしろ現在眼の前にいる直子を見、二タ月前の彼女を憶い、それが同一人である事が不思議にさえ思われた。」という一節は、読解力不足のぼくには、どういうことなのか、よく分からないのだが、役者への不満で芝居に集中できない謙作は、自然直子を意識することとなり、二ヶ月前に一目惚れした直子が、今こうして自分の目の前にいることに「不思議」を感じると同時に、自分の中に「どうにも統御出来ない自身の惨めな気分」が沸き起こるのを意識したということだろうか。

 「どうにも統御出来ない自身の惨めな気分」というのは、もちろん「性欲」である。それは、「お栄との結婚の予想が彼を一時的に放蕩者にしたように、此度もまた、多少病的にそうなった事が、彼を疲らし、彼の神経を弱らし切っていたのだ。」という部分で明らかだ。

 しかし、それにしても、この「見合」の最中に、そうした自分の性欲が「統御不能」になるほどに高まってしまうというのは、やはり「病的」としかいいようがあるまい。そうした病的な自分の欲望をもてあまし、とにかく、一人になりたかった。そうすることで、その欲望の対象から離れたかったのだ。

 「結婚」と「性欲」の問題は、常に文学の源泉だった。紙屋治兵衛にしても、結婚生活のなかに性欲の充足を感じていれば、遊女に走ることもなかったわけだ。性欲が結婚から逸脱してしまうので、さまざまな問題が起きる。それが文学のテーマともなる。石田純一じゃないけど、「不倫は文化」だというのは、文学の立場からすれば、あながち間違っているともいえないのだ。

 ただ、例えば、白樺派の代表的な作家の武者小路実篤などの恋愛小説では、性欲の問題は真正面には出てこない。出てこないどころか、性欲など恋愛にも結婚にも関係ないといった風情も見られたような気がする。(「友情」とか「愛と死」とか。)有島武郎の「ある女」も、かなり前に読んだきりだが、あまり、性欲の問題は前景には出てこなかったような気がする。

 そうした中で、志賀直哉の場合、どこか謹厳実直に見えるその風貌からは予想もつかない欲望がなまなましく語られることは、注目すべきことではなかろうか。

 芝居がはねてから外に出て、一人になった謙作の心境は、透明感に満ちていて印象的である。

 「籠を出た小鳥のような自由さ」──それは「性欲という籠」に閉じ込められてその中で格闘していた自分が、そこから解放されたすがすがしい気分だ。その謙作を、「高くかかった月」「知恩院の大きな山門」が包みこむ。

 この「鳥」は、しかし、再び「籠」の中に閉じ込められていくのだろうか。

 

志賀直哉『暗夜行路』 113 人間の「美しさ」とは何か?  「後篇第三  十二」 その4 2022.9.5

 

 結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。しかし何よりも悪いのはやはり自分だと彼は思った。自制出来ない悪い習慣──そういって自身いつも責任を逃がれる気はないが、もしかしたら祖父からの醜い遣伝から自分は毎時(いつも)、裏切られるのだ。そんな気も彼はするのであった。何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。これから本統に慎み深い生活に入らなければ結局自分は自分の生涯をそのため破滅に導くような事をしかねない。そして結婚後は殊にこの事は慎まねばならぬ。そう考えた。彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した。

 

 「見合」のとき見た直子が自分が思っていたほど美しくなかったということはあったが、謙作は芝居を見ている最中に、「性欲の発作」に襲われる。もちろん、志賀直哉は「性欲の発作」なんて下品な言葉を使っていないが、それを抑えることができずに、「どうにも統御出来ない自身の惨めな気分」になるのだ。

 それは更に尾を引いて「自制出来ない悪い習慣」と書き続ける。この「悪い習慣」とは、具体的にはどういうことなのかがよく分からないが、おそらく「性的な妄想」のことだろう。それしか考えられない。目の前に直子の姿を見て、ああこの女とはやく性的な交渉をしたいと、そればかり思ってしまうということだろう。そのことを、謙作は、深刻にとらえる。「結婚の第一歩」がこんなことでは「幸先が悪い」と思うわけだが、それは自身への反省に導く。そしてそれは、あの忌むべき祖父からの「醜い遺伝」なのだとまで思うに至るのだ。どこまでも、祖父の「性的放縦」が謙作の身に蛇のようにまとわりついて離れない。

 「何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。」と反省する謙作。そんなに悩むこともないだろうにと思うのだが、自身の性欲にどこまでも敏感で、それ故に、なんとかしてそれを抑制しなければならないという思いで一杯になる。そして、結婚後に、自分にも祖父のような「醜い遺伝」によってとんでもない過ちを犯すことは絶対にあってはならないと決心するのだ。

 そういえば、最近読んでいる西村賢太の絶筆となった小説「雨滴は続く」は、この「性欲」の問題を、「問題化」することもなく、とにかく、真正面からぶつかっていく「私小説」だ。志賀が「反省」しているのが「妄想という悪い習慣」だとしたら、その「妄想」だけで、数百ページ書いてしまうという凄まじさだ。その西村を根本から脅かすのは、志賀のいう「醜い祖父」どころか、性犯罪で刑務所に入っていたという父の影だ。上流階級の典型のような志賀直哉と、社会の底辺に生きる西村賢太だが、結局、人間というのは、どうにも愚かしいものである。だからこそ面白い。
それにしても、結婚当初から、こんな思いにとらわれるなんて、思えば謙作も気の毒な男である。

 

 彼が直子と結婚したのはそれから一週間ほどしてからであったが、その前一度直子ら親子三人が彼の寓居を訪ねて来た事がある。曇った寒い日の午後だった。仙が台所で何か用事をしている時で、彼は石本と信行に出す端書を出しに二、三町ほどある、ボストまで出かけて行くと、彼方(むこう)から歩いて来る親子三人を遠くから見た。母だけ一足後れに、直子は先に立った兄にその大きな身体(からだ)を寄添うようにして何か快活に喋っている所だった。見違えるほど美しく、そして生々して見えた。謙作は心の踊るのを覚えながら立止まって待った。

 

 思ったほど美人じゃなかった直子が、こんどは「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」印象的なシーンである。

 美人とか美人じゃないとかいうけれど、生きている人間は、時に美しく、時に醜い。写真は、その「美しい」瞬間を切り取ることができるが、現実の人間には「瞬間」というものはない。流れていく川のようなものである。ドラマや映画でも、人間の美しさが際立つ場面があるが、それも「瞬間」ではなくて、「流れ」として認識される。

 しかし、小説のこうした場面は、映像とはまったく異なった印象を与える。写真のように切り取られた「瞬間」でもなく、映画のような「流れていく映像」でもない。それはおそらく「映像」ですらない。

 「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」直子は、その「瞬間」において捉えられているのではなく、最初に見たあの時から、謙作の勝手な妄想を経て、初めて相対した「見合」にいたり、そこでがっかりして、その挙げ句、よこしまな妄想に苦しめられたという謙作の心理的なプロセス全体を「すべて」包含して目の前に現出している「直子」である。

 うまく言えないが、言葉によって表現される小説と、映像によって表現される写真や映画とは、「まったく違う」表現なのだということだ。

 謙作も至極気持が自由だったし、万事気持よく行き、皆、愉快そうにしていた。仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。謙作は久しく出した事のない手文庫の写真──亡き母、同胞、母の両親、お栄、その他学校友達などの──を出して見せたりした。

 ここに「女主人公」という言葉が出てくるが、以前、謙作のことを「主人公」と書いてあることを問題としたが、やはり、ここでは「女のご主人さま」という意味となることが分かる。

 それにしても、「仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。」という描写は、仙という女の可愛らしさをさっと一筆で描きだしていて、感心する。「焦っていた」が効いている。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 114 「理解する」ということ  「後篇第三  十二」 その5 2022.9.19

 

 前回の「性欲」に関するぼくの「読み方」に、呆れた人も多かったのではないかと思う。で、もう一度、その部分を引用しておく。

 

 結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。しかし何よりも悪いのはやはり自分だと彼は思った。自制出来ない悪い習慣──そういって自身いつも責任を逃がれる気はないが、もしかしたら祖父からの醜い遣伝から自分は毎時(いつも)、裏切られるのだ。そんな気も彼はするのであった。何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。これから本統に慎み深い生活に入らなければ結局自分は自分の生涯をそのため破滅に導くような事をしかねない。そして結婚後は殊にこの事は慎まねばならぬ。そう考えた。彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した。

 

 「自制できない悪い習慣」「何しろ慎もう」「今日のことは今日のことだ」「結婚後は殊にこの殊は慎まねばならぬ」と、しつこいほどに書いていることに関して、ぼくは、「この『悪い習慣』とは、具体的にはどういうことなのかがよく分からないが、おそらく『性的な妄想』のことだろう。それしか考えられない。」なんて書いて、さらに、「目の前に直子の姿を見て、ああこの女とはやく性的な交渉をしたいと、そればかり思ってしまうということだろう。」と想像している。そして、「『何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。』と反省する謙作。そんなに悩むこともないだろうにと思うのだが」と、アタマの中が「分けが分からん」状態であることを、まあ、ある意味「率直」に書いている。

 この一連のぼくの「感想」を読んだ、中学以来の旧友が、次のようなメールをくれた。いちおう本人には転載の許可をもらっている(と思う)ので、長いが引用しておく。

 

 そうか、洋三はこういうふうに読んでるのか、と、とても腑に落ちた。
 「悪い習慣」は、妄想のような、そんな目で女を見るだけのことではなくて、じっさいに女を、冒頭の芸者屋であれこれ見ていた女たちのような女を、ただ性欲だけで、買って抱いて、性欲を晴らすことだと思ってた。妄想だけで済むようなことだとは、まったく思ってなかったのね。だから、きみの読み方でストンと腑に落ちなかったことが、すべて腑に落ちる気がしてる。
 直子が美しいかどうかではなくて、直子がみにくく見えるところは、直子を美しく見ていない謙作を、実際行動に移さずにはおかない性欲に蔽われている謙作を描いてると、ぼくは思い、それ以外の読み方をしていなかった。直子を美しくみている謙作は、直子との結婚で性欲から救われるという希望にあかるく輝いてる謙作なのね、ぼくが読んでいたのは。
 天網島で河庄の場面は、いいなづけの直子がそこにて見ているにもかかわらず、性欲に振り回されて、女房のおさんでなく、性欲をぶつける相手の小春と沈んでいく治兵衛に、じぶんの未来が重なるようで不安な、性欲に押しつぶされそうな謙作が、いつもの予定どおりの結末に向かって好演する「此役者」にすら暗い未来を見てしまうところが描かれてると思って、それ以外の読み方をしてなかったんだよね。天網島の粗筋紹介で舞台描写を済ませないところはさすがに20世紀の小説、とおもってた。
 どうじに、「慎もう」なんて言葉は、自慰に悩む男子高校生とか放蕩三昧の真面目な若旦那とか、その類いしか使わない言葉遣いだと思って、謙作の、この真剣な性欲の見方は、中学・高校のころのぼくのような、性欲を大変なことと考える子どもの真剣さを、青年になっても持ちつづけている、大変な・純粋な・正面切った「性」意識を描いてるんだろうなあ、と感じ入ってたのね。
 だからこそ、「彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した」のに、そのあとの結婚までの一週間、またも女を買いに行ったのか、とはらはらして読み出したら、きょうのところと、さらに、そのつぎの場面「南禅寺の裏から疎水」にそって2人並んで歩く、きみのいう、「映像」には決してならない天上の明るさに満たされたシーンで、読者のぼくも謙作と直子のように結婚前のしあわせを実感できると、読んでいました。
 じつは、上記「だからこそ」までを書いていたときは、半分きみの読み方があってる、と思い、半分は、ぼくの読みでも通るかも、と、半々でしたが、「南禅寺の裏」からを書いていたら、この場面の、ほとんど清らかな幸福感は、ぼくのように読んだほうが強く感じられるのでは、と思えてきました。  次回を読んで、出したほうがいいメールだといま、おもってるのですが、こういうときは、読者の答案を先に送っておいたほうが公平だなと考え直して、いま出します。

 

 このメールを読んで、あんなに「分からなかった」ことが、すっきり分かった気がして、まさに「腑に落ちた」。というか、ぼくの読み方があまりに幼稚なので、穴があったら入りたくなったといったほうがいい。このメールの文章を読んだ後では、「ぼくの読み方」がまったく「間違っている」としか思えないし、事実間違っているのである。

 近ごろ、もう一人の旧友が、「遺伝論理」と「共感論理」についてさかんに書いている(こちら参照してください)のだが、いわゆる「論理的な理解」を求められる数学やら科学の世界では、「正解」は一つしかないが、文学などの「共感的な理解」を求められる世界では、決して「正解」は一つではない。そして世の中の大部分のことは、じつは「共感的な理解」によって成り立っているのだということを力説しているのだが、それは、ぼくも大いに共感するところだ。

 世の中の出来事を、「理解」しようとするとき、自分がどのようなことを経験してきたかということがおおいに影響するわけで、経験したことがないことには、「共感」しようがないけれども、それでも、小説などを読んで得た「疑似経験」(旧友はその言葉を使っていなかったが)とでもいうべきものによって、ある程度の「共感」を得ることはできる。しかし、その「経験」やら「疑似経験」が、それぞれ人によって異なるわけだから、その「共感」は、人によって違ったものとなるだろう。つまり「正解」は一つではないわけである。

 しかし、今回の事例の場合、「女を買う」などといった経験がまったくない人間には、「慎まねばならぬ悪い習慣」が、「それ」だとはすぐには気がつかない。そうすると、「妄想」だの「自慰」だのといったレベルで落ち着いて「理解」したような気になってしまう。それでも、古今東西の小説をちゃんと読んだという「経験」があれば、実際の経験がなくても、そのくらいの想像はつくはずなのに、そこが「分からない」というのが「幼稚」だというのだ。いくら文学の世界は「正解は一つじゃない」といっても、「間違った読み」はあるわけで、これじゃ、岩野泡鳴だの、吉行淳之介だの、さんざん読んできた意味がないじゃないかと、しばらく、反省しきりであった。

 しかし、それにしても、この長い長い「暗夜行路を読む」シリーズを、毎回根気よく読んでくれて、適切なコメントを送ってくれる旧友がいるということは、なんというありがたいことだろうか。読書会をやっているように楽しい。恥ずかしい思いをしても、楽しい。

 さて、しかし、少しだけ言い訳もしておきたい。

 冒頭に引用した部分のさらに前はこういう文章である。

 

 舞台では「紙屋治兵衛」河庄(かわしょう)うちの場を演じていた。謙作は何度もこの狂言を見ていたし、それにこの役者の演じ方が毎時(いつも)、余りに予定の如くただ上手に演ずる事が、うまいと思いながらも面白くなかった。そして彼は何となく中途半端な心持で、少しも現在の自身──許婚(いいなずけ)の娘とこうしている、楽しかるべき自身を楽しむ事が出来なかった。彼はむしろ現在眼の前にいる直子を見、二タ月前の彼女を憶い、それが同一人である事が不思議にさえ思われた。
 直子は淋しい如何にも元気のない顔つきをしながら、舞台に惹き込まれている。ぼんやりした様子が謙作にはいじらしかった。が、同時に彼自身、どうにも統御出来ない自身の惨めな気分を持て余していた。
 彼は努めて何気なくしていた。しかし段々に今は一秒でもいい、一秒でも早くこの場を逃れ出たいという気分に被われて来た。こういう事は彼に珍らしい事ではなかったが、場合が場合だけに彼は一層苦しい一人角力(ひとりずもう)を取っていた。お栄との結婚の予想が彼を一時的に放蕩者にしたように、此度もまた、多少病的にそうなった事が、彼を疲らし、彼の神経を弱らし切っていたのだ。
 芝居のはねたのはもう晩かった。戸外には満月に近い月が高くかかっていた。彼は直ぐ皆と別れ、籠を出た小鳥のような自由さで一人八坂神社の横から知恩院の方へ歩いて行った。とにかく一人になればいいのであった。知恩院の大きな山門は近よるに従って、その後ろに月が隠れ、大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。

 

 この文章に直接続くのが、冒頭に引用した部分である。「知恩院の大きな山門は近よるに従って、その後ろに月が隠れ、大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。」のすぐ後に、段落を変えて、「結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。」と続くのである。

 何が言いたいのかというと、ここには大きな「省略」があるということである。「(知恩院の)大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。」とあるが、「その後」謙作はどこへ行ってなにをしたのかが、「まったく」書かれていない。書かれていない以上、想像するしかないわけだが、直ぐにその後に「結婚の第一歩がこんなにして始まった事は」云々と、自省の言葉が出てくるので、想像する時間がないままに、まあ、家に帰ったんだろうな、なんて思ってしまうわけである。だから「今日のことは今日のことだ」なんて、大げさなことをどうして言うのだろうという疑問につかまったりするわけだ。

 おまけに、「とにかく一人になればいいのであった。」の一文があることで、この後、馴染みなんだかどうだか知らないが、遊郭に行ったなんて、想像できない。しかも、謙作が京都に住むようになってから、一度として遊郭に出かけたという記述は出てこない。これがたびたび出てきたのなら、ああ、あそこへ行ったのかとすぐに分かるのだが。と、まあ、愚痴もいいたくなるわけだが、とにかく、肝心なことを志賀直哉は書かない。何故なんだろうか。読者に想像してもらいたいということではないだろう。むしろ、ここまで書いたんだから、あとは、何をしたかは、よほどトンチンカンなヤツでなければ誰だってわかるはずだということなのだろう。

 ぼくのようなトンチンカンやなヤツには「暗夜行路」を読む資格はない、というところがほんとうのところだが、それにしても、先に引いた旧友の文章は見事である。「河庄」の部分の読み方なんて、そんじょそこらの批評家の書ける文章じゃない。もっとも彼は、「そんじょそこらの批評家」を遙かに超えた立派な学者なんだから、当然といえば当然なのだが、この「読みの深さ」には頭がさがる。

 思えば、高校時代に突然「文転」して以来、文学的教養に欠けるぼくも、こうした友によって「文章読解力」も徐々に鍛えられてきたのだが、それも実に遅々たる歩みであったことをつくづく思い知る。國分功一郎の「いつもそばには本があった」という本では、「いつもそばに本がある」ことの大切さとともに「いつもそばには友がいた」ことの大切さが強調されていた。まことに宜(むべ)なるかな、である。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』  115  「女中の仙」  「後篇第三  十二」 その6 2022.9.5

 

 前々回のところで、女中の「お仙」について、ぼくは、こんなふうに書いた。

 

それにしても、「仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。」という描写は、仙という女の可愛らしさをさっと一筆で描きだしていて、感心する。「焦っていた」が効いている。

 

 これ以前にも、「お仙」について何か書いたかもしれないが、今、見つからない。とにかく、最初は「目刺しを思わせる」と描かれた彼女だが、謙作もだんだんと彼女のよさが分かってきて、その「お仙」を描く志賀直哉の筆が見事だなあと感心したのだった。

 その「お仙」について、たまたま「自炊」してあった本をパラパラと拾い読みしていたら、杉本秀太郎「音沙汰 一の糸」に、「暗夜行路」に触れた箇所がり、「女中の仙」と題した一文まであったので(102p)、嬉しくなってしまった。それは、こんなふうに始まっている。

 

 女中という言葉は廃語にひとしい。いまの世の中に女中さんというものは全く存在しない。戦後も昭和三十年をすぎて数年後まで、たぶん三十五年を下限としていいくらいの時代まで、女中というものは存在していた。そしてこの終り頃には家事手伝いという言い方が女中に代わって使われるようになっていった。「言葉」は「事」をのせて運ぶ、とむかし?園(けんえん)学派元祖の儒者が申されたがその通りで、女中という言葉がのせて運んでいたものは、言葉が変わったとき運ばれようがなくなって巷間に置き去りになった。行儀作法、台所の炊事仕事と畳の上の針仕事を身につけ、躾(しつけ)られることが女中奉公というものの眼目だった時代には、傭うほうもこの眼目を忘れることなく奉公人に対していた。自他のけじめがよく守られていた世の中には、他家に奉公している女中を呼び捨てにして「お宅の女中」などということはけっしてなかった。それはかならず「お宅の女中さん」であった。自家の女中のことを人に話すには「うちの女中」といって「うちの女中さん」などとはいわなかった。これを聞いて主人から呼び捨てにされたと腹を立てる女中などはいなかった。自他の区分を立てて物をいうのは言葉の作法の第一則であり、それが通らぬ世の中なら女中奉公がそもそも成り立つはずはなかった。

(山本注:?園学派元祖の儒者=荻生徂徠)

 

 「自他のけじめ」など、まるで遠い昔の話のような気がする昨今では、「女中」などという言葉を不用意に使うことはできないし、する必要もないわけだが、たしかに「言葉とともに滅びていく」ものはある。その滅びていくものを克明に文字として刻みつけるのもまた小説の役割であろう。

 杉本さんはさらにこう続ける。

 

 かようなこと、聞いて不可解という顔をする人もありそうなことを今更らしく持ち出したのは、志賀直哉の『暗夜行路』を読み返していて、仙という女中さんがじつにあざやかに書かれていて、仙の使う京都弁が抑揚も息遣いも、仙の立居振舞と合わせて、きっちりと写し取られているのに気付いたからである。むかしの女中さんには、この仙のような人がたしかにいた。昭和六年生まれの私が二十代後半にかかるまで、戦中から戦後の五年くらいを除けば、家には女中奉公の人がかならずいた。

 

京都生まれで、京都育ちで、京都に暮らした杉本さんが言うのだから間違いない。志賀直哉の筆は、この「女中」の「お仙」を通じて、京都の言葉や文化を鮮やかに刻みつけているのだ。

 この後、「暗夜行路」の中の文章の数例がひかれ、最後にこう結ばれている。(途中は省略するが、こころある方は、ぜひ、本書にあたられたい。)

 

 『暗夜行路』には、謙作の尾道暮らしのくだりに、土地の子供や老人、宿屋の女中などの尾道弁が再三あらわれる。京都弁がこんなに正確に写し取られているからには、それもきっと活写されているにちがいない。志賀直哉は言葉というものを体感を通して受信し、ミミクリー(口まね、物まね)を介して記憶に刻みこむわざに長じている人だった。『暗夜行路』作中の京都弁は、川端康成の小説『古都』の祇園訛りの特殊な京都弁などと同日の談ではない。付け足すと、『暗夜行路』から文中に持ち込んだ条々は「第三」(これより「後篇」)の「九」以下「十六」までのあいだに散らばっている。

 

 「尾道暮らしのくだり」にちりばめられている「尾道弁」が、「活写」されているかどうかは、自分には分からない。けれども、京都弁をこれだけ見事に「活写」した志賀直哉なら、きっと「尾道弁」も「活写しているに違いない」と推測する杉本さんの謙虚さにも、敬服する。

 ぼくが今なおダラダラと、この「暗夜行路」を読み続け、飽きることがないのも、実はこういう「部分」の魅力があちこちにあるからだったのだということにも、改めて気づかされた。

 その土地の言葉や文化といったものは、その土地の人が身にしみて知っていることだから、よそ者があだやおろそかに描けるものではない。よそ者が「京都弁」を小説で誇らしげに再現してみせたところで、その土地の人には噴飯物であることも多いだろう。それは、小説だけのことではなくて、ドラマなどでも頻繁に起こりうることであって、そうした「細部」にどれだけ心血を注げるかによって、ドラマも、また小説も、傑作になったり駄作になったりするわけである。

 どんなに荒唐無稽な筋立てのドラマであっても、小説であっても、その「細部」に、えもいわれぬリアリティが感じられれば、それは傑作になりうるだろう。

 「神は細部に宿る」は、どの世界でも、永遠の真実なのである。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 116  謙作の幸福と直子の不安  「後篇第三  十二」 2022.10.13

 

 さて、だいぶ寄り道したが、もとに戻そう。

 お仙の「焦った」姿をさっと描き出したあと、いよいよ謙作は直子と銀閣寺のほうへ出かけた。

 

 銀閣寺へ行く事にして歩いて出る。安楽寺、それから法然院を見、そこの阿育王塔の由来を話す時、直子は丁度女学生が崇拝する教師の話でも聴くような様子で熱心に耳を傾けていた。
 銀閣寺へ入ろうとすると、不意に兄が、「少し気分が悪いから先に帰る」といい出した。青い顔をして、額に油汗をかいている。皆ちょっと心配したが、謙作自身の寒がり癖から、無闇と部屋に炭火をおこした、それに当ったらしい。一人でもいいというのを丁度俥(くるま)があって、母と二人、直子だけを残して先に帰る事になった。

 

 この冒頭部分の「銀閣寺へ行く事にして歩いて出る。」の語尾、「出る」がいい。いわゆる「歴史的現在」の用法だが、ここが「歩いて出た。」だと平凡だが、「歩いて出る。」とすることで、ぐっと臨場感が増し、ワクワク感まで醸し出される。うまいものだ。

 謙作がいくぶんか得意になってうんちくを傾けるのを、直子は「丁度女学生が崇拝する教師の話でも聴くような様子」で熱心に聞く。ここもいい。志賀直哉は教師の経験はないはずだが、どこかで、そんな「女学生の様子」を感じたことがあるのか、あるいは、それをよそながら見たことがあるのか。いずれにしても、そういう「女学生の様子」は、現代では望みえないものだろうが、当時では、そこここに見られたはずである。

 兄の信行がここで、具合が悪くなり、母と二人で先に帰ってしまうというお膳立ても自然な流れだ。ほんとうに油汗をながしているようだから、「気を遣った」というのともちょっと違うのだろうが、結果として、謙作と直子をそこに残した。

 

 二人は瓦を縦てに埋ずめた坂から、黙って門を入って行った。「徳」と一字の衝立てがあって、その側で案内者を待っ間も話が途断れていたが、間もなく短かい袴を穿いた案内の子供が出て来て、「向月台に銀砂灘」「左右の唐紙は大雅堂の筆」こんな風に一人大きな声をしていてくれるので具合悪さは何時か去れた。
 「帰り、もし直ぐ俥で帰るようなら、置いて来た日傘や信玄袋は宿の方へ、晩にでも届けて上げますが、どうしますか」と謙作は訊いた。直子は黙ってちょっと怒ったような眼付きで、彼の方を見ていた。「それとも寄って行きますか?」こういうと、当り前だというように「ええ」と不愛想に答えた。

 

 銀閣寺の門前の「瓦を縦てに埋ずめた坂」は、今でもあるだろうか。以前、訪れたときにはあったような気がするのだが。細かい観察である。

 案内係が子どもであるというのも、おもしろい。こうした子どもの無邪気な説明が、ぎこちない二人をいつしか解きほぐしていく。これが、録音テープなら、こうはいかない。

 帰りの話で、直子のとる態度も生き生きと描かれている。「直子は黙ってちょっと怒ったような眼付きで、彼の方を見ていた。」なんて、模擬試験の問題に出せそうなところだ。「直子は、どうしてこういう態度をとったのか?」なんて設問で、答は「謙作とはもう結婚したも同然なのだから、自分だけで宿に帰るというのは不自然だし、またそんな気にもなれないから。」といったところだろうか。まあ、しかし、それ「だけ」が「正解」ではない。いろんな答え方があっていい。「え〜〜! なにそれ!」って思ったから、とか、せめて宿まで送ってほしいと思ったからとか、いろいろだ。

 しかし、注意しなければならないのは、ここでは、直子の気持ちを、直子の「言葉」ではなくて、「黙って」「怒ったような眼付き」「彼の方を見ている」という、外側から分かる態度で、表現しているということで、それをまた「言葉」に変換させるというのは、好ましいことではない。試験問題というものは、やはり、文学とは縁遠いものなのであろう。ここでは。直子の「沈黙」とか「眼付き」とか、「無愛想」とかいった、「言葉」にならない直子の思いを、そのまま、丸ごと味わうことが大事なことだ。

 

 南禅寺の裏から疏水を導き、またそれを黒谷に近く田圃(たんぼ)を流し返してある人工の流れについて二人は帰って行った。並べる所は並んで歩いた。並べない所は謙作が先に立って行ったが、その先に立っている時でも、彼は後(あと)から来る直子の、身体の割りにしまった小さい足が、きちんとした真白な足袋で、褄(つま)をけりながら、すっすっと賢(かし)こ気(げ)に踏出されるのを眼に見るように感じ、それが如何にも美しく思われた。そういう人が──そういう足が、すぐ背後(うしろ)からついて来る事が、彼には何か不思議な幸福に感ぜられた。

 

 驚くべき表現である。

 謙作の後からついて歩く直子の「足」を、謙作は、もちろん見ていないのだが、それを「くっきり」と「見る」。「眼に見るように感じ」と書いているのだが、その「感じ」は、ほとんど「見ている」のと変わりない。それほど、謙作の頭の中に、鮮烈に浮かび上がる「像」である。そして、その「像」を、「如何にも美しく思われた」と書くのだ。ため息が出るほど素晴らしい。

 ここは、極めて映画的な表現だとも言える。ここを映像化するのは極めて簡単で、謙作が歩いていく姿、あるいは謙作の表情のカットの間に、直子の歩く足のクローズアップを、幾度かインサートすることになるだろう。森田芳光なんかなら、鮮やかに処理するだろうなあと、果てしない空想にぼくを誘う。

 

  小砂利を敷いた流れに逆って一疋の亀の子が一生懸命に這っていた。如何にも目的あり気に首を延ばして這っている様子がおかしく、二人は暫く立って眺めていた。
 「私、文学の事は何にも存じませんのよ」直子はその時、とっけもなく、そんな事をいい出した。謙作は踞(しゃが)んで泥の固鞠(かたまり)を拾い、亀の行く手に目がけて投げた。亀はちょっと首を縮めたが、解けた泥水が去ると、甲羅に薄く泥を浴びたまま歩き出した。
 「知らない方がいいんです」謙作は踞んだまま答えた。
 「ちょっとも、いい事ありませんわ」
 「その方が僕にはかえっていいんです」
 「何故?」
 こういわれると謙作も判然(はっきり)した事はいいにくかった。昔はそうでなかったが、今の彼は細君が自分の仕事に特別な理解があるとか、ないとか、そういう事は何方(どっち)でもよかったのである。お栄と結婚したいと考えた時に既に不知(いつか)その問題は通り過ぎていた。そしてむしろ「文学が大好きです」といわれる方が、堪らなかった。

 

 この亀の子のシーンは、当然のように「城の崎にて」を思い起こさせる。小動物を見ると、石を投げたり、泥を投げたりするのは、なにも志賀直哉の癖ではなくて、昔の人間にはよく見られた行動だが、昨今は子ども以外にそういう行動をする大人がいなくなったことは、むしろ不思議な感じもする。

 小動物に対するこうした行為は、なにも動物虐待ということではなくて、むしろ、一種の「対話」なのだろう。幼い子どもが興味を惹かれた大人の足をぶって逃げたりするようなものだ。そして、そういう行為には、善悪はなく、ただ自然なありのままの人間の姿が現れる。いわば「無の時間」が流れる、といったらよいだろうか。

 謙作は泥の塊を亀の子に投げ、その行方をじっと見る。直子もそれをみつめる。そこに流れる「時間」。「無の時間」。

 その後に、「とっけもなく」(「とっけもない」=途方もない。とんでもない。また、思いがけない。思いもよらない。の意。ここでは、「思いがけない」の意だろう。)直子が言い出した言葉は、その「無の時間」の中で、直子が何を思っていたのかを示唆する。はたして自分は小説家たるこの人とうまくやっていけるのだろうか、といった、不安であろう。

 亀の子の前に突然現れた「泥の塊」は、亀の子の行く手を遮った。しかし、時間とともに、泥の塊は溶けてなくなり、亀の子はまた歩き出した。自分の前の「泥の塊=前途への不安」は、これと同じように無事解消してゆくのだろうか──といったような深読みすらしたくなるところだ。

 

 直子の方はこの事を早く断わっておかぬと気になるらしかった。それともう一つ、直子の伯母で、出戻りで、直子の生れる前から自家(うち)にいる人がある。この人が、自身に子のない所から直子を甚(ひど)く可愛がっていた。今はもう六十余りで直子と別れる事を淋しがっている。この伯母はこれからも時々京都へ出て来て御厄介になる事があるかも知れない。その事をどうか許して頂きたい。「伯母からもくれぐれもお願しておいてくれと申されましたの」といった。
 寓居へ帰って二人は暫く休んだ。直子は次の間の本棚を漁りながら、「どういう御本を読んだら、よろしいの?」とまだこんな事をいっていた。
  二人は一緒に出て、謙作は宿まで直子を送って行った。兄はもう起きていた。帰って暫く眠ったら直ったという事だった。

 

 直子は、謙作から「文学なんて知らないほうがいい」と言われたが、やはり、それでは納得いかず、本棚の本を自分も読んでみようかなどと考える一方で、小さいころから親しんでいる伯母との付き合いを今後も続けることの許可を、謙作に求める。

 そんなことまで夫の許可がいるのかと思うが、案外昔はそんなもんだったのだろう。サザエさんだって、デパートに買い物に母親と出かけるには、いちいち、波平の許可を求めているわけだから。

 こんなふうに、結婚式直前の、謙作と直子の姿が描かれ、「第三の12」は終わる。

 

 


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