志賀直哉「暗夜行路」を読む (13) 117〜125

後篇第三 (十三)〜(十六)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 117  危うい感じ  「後篇第三  十三」 その1 2022.10.26

 

 

 二人の結婚はそれから五日ほどして、円山の「左阿弥(さあみ)」という家(うち)で、簡単にその式が挙げられた。謙作の側からは信行、石本夫婦、それから京都好きの宮本、奈良に帰っている高井、そんな人々だった。直子の側はN老人夫婦と三、四人の親類知己、その他は仲人のS氏夫婦、山崎医学士、東三本木の宿の女主などで、簡単といっても謙作が予(かね)て自身の結婚式として考えていたそれに較べれば賑やかで、むしろ自分にはそぐわない気さえした。そしてこの日も上出来にも彼は自由な気分でいる事が出来た。種々(いろいろ)な事が、何となく愉快に眺められ、人々にもそういう感じを与え得る事を心で喜んでいた。
 舞子、芸子らの慣れた上手な着つけの中に直子の不慣(ふなれ)な振袖姿が目に立った。その上高島田の少しも顔になずまぬ所なども、変に田舎染みた感じで、多少可哀想でもあったが、現在心の楽んでいる謙作にはそういう事まで一種ユーモラスな感じで悪くは思えなかった。

 

 こうして、謙作と直子は、結婚式を挙げたわけだが、この結婚式の簡潔な記述のなかで、中心になっているのは、謙作の気分のありようである。「そしてこの日も上出来にも彼は自由な気分でいる事が出来た。」というところに、結婚式がどのように進行して、どんな印象を受けたのかよりも、その結婚式の間に、自分の気分がどうであったかが謙作にとっては大きな関心事だったことがよく表れている。

 こうしたことは、志賀直哉の小説では、ごく普通のことだが、一般的にはどうだろうか。普通がどういうものかよくわからないが、しかし、結婚式という「大事」の中で、その当事者が、いつも自分の気分のありように神経を集中させているというのは、あんまり普通のことじゃないような気がする。

 直子の高島田が似合わなくて田舎じみていても、「現在心の楽んでいる謙作には」、それが「一種ユーモラスな感じで悪くは思えなかった。」というのは、細かい分析だが、どこか危うい感じがある。つまり、そのとき、謙作の心が「楽しんでいない」状態だったら、「悪く思える」ことになるということだ。自分の気分がまずあって、そこから、対象となるものへの感じ方が波及するということは、日常生活ではよくあることだが、その逆もまたありうる。直子の高島田がちっとも似合わなくて田舎じみているのを見て、「おもわず」笑ってしまって、「その結果」気分も明るくなる、というように。

 そして、この後者のほうが、軽薄かもしれないが、どこか「健全」な感じがする。「自分の気分」が、中心にどっかと座っていると、では、その気分はどこから生まれてくるのか、ということがいつも問題になる。それは、おそらく、今、目の前の外界ではなくて、自分の心の奥底に横たわる「何か」ということになるだろう。それは奥底にあるだけに、執拗であり、ときに忘れていても、繰り返し浮かびあがってくる「何か」である。それを制御することは難しい。

 

 十一時頃に総てが済んだ。帰り際に信行は、
 「俺は石本の宿へ行くよ。それからお栄さんには明日早く俺から電報を打っておこう。精しい事は少し落着いた所でお前から手紙を出すといいね」とこんな事をいった。信行はこの日かなり甚く酔い、一人でよく騒いでいた。しかしその騒ぎ方も何となく厭味がなく、少しも皆に不快な感じを与えなかったが、それでも初めて信行のこんな様子を見る謙作はそれが物珍らしくもあり、同時に多少心配でもあった。今はいいが、もう少し酔ったら脱線しはしまいかという気がしていた。が、今、信行から、思いの外の正気さで、そんな事をいわれると、彼はさすが信行だというような心持で、心から肉親らしい親しさを感じないではいられなかった。
 帰ると仙が、昔風な小紋の紋附きを着て玄関に出迎えた。

 

 

 ここも危うい。信行に対する謙作の感情は、実に複雑で、基本的には「きらい」なのだろうが、それでも「肉親」の情はあって、その感情はつねに揺れ動いている。

 ここなどは、いつになく酔っ払って騒ぐ信行に、いつも感じる「厭み」や「不快」は感じないのだが、それでも、「不安」が残る。いつ信行が「脱線」して、言わなくてもいいこと、皆を不快にさせることを、言い始めやしないかとハラハラしてしまうのだ。この辺の謙作のピリピリする神経の描き方は、やはりスゴイ。

 そして、さりげなく描かれる女中のお仙。その言動を描かず、着物だけを描いて終える筆致の素晴らしさ。

 さて、結婚したあとどこに住むか。今まで謙作が住んでいたところでは狭すぎるので、引っ越しをすることになる。

 

 謙作の寓居は八畳に次の間が北向きの長四畳、それに玄関、女中部屋、という小さな家だった。北向きの四畳が使えない部屋なので二人になると、どうしてもまた引越さねばならなかった。
 謙作は直ぐ仕事をする必要もなかったのであるが、結婚後暫くは何も出来なくなったという風になりたくない気持から、殊更何時でも仕事の出来る状態を作っておきたかった。ある日二人は前に一度見た事のある高台寺の方の貸家を見に行った。前に見た家は既にふさがっていたが、同じ並びに新築された二軒棟割りの二階家があって、その東側のが気に入って大概それと決めた。

 

 「長四畳」というのは、「@横一列に畳を四枚並べて敷いた部屋。道具などを置く実用本位の部屋に多い。A畳四枚を横に並べ敷いた茶室。床がない。宗旦好みの佗び茶席。」(精選版 日本国語大辞典)とのこと。こういう部屋があるというのは、知らなかった。

 「結婚後暫くは何も出来なくなったという風になりたくない気持」というのは、よく分かる。相撲取りも、「結婚したから勝てなくなった。」と言われるのが嫌で、現役時代には結婚したがらないという話を聞いたことがあるが、そんな感じだろうか。謙作の場合は、外聞よりも、自分に対する「不安」もあっただろうとは思うけれど。

 しかし、「大概それと決めた」家を見にいったとき、謙作は若い大家の息子と、ささいなことで喧嘩をしてしまう。

 二階の南向きの窓から首を出すと、すぐに隣が見えてしまうのが具合が悪いというと、大家の息子は、すぐに小さな塀を建てましょうと応じてくれたのだが……。

 

  この辺まではよかった。が、それからまた階下(した)に下り、茶の間になる部屋の電燈がやはり天井から二尺ほどしか下がっていないのを見ると、謙作は、
 「これも少し困るな」といった。「これじゃあ針仕事に暗いだろう」
 「延びるんじゃないこと」と直子がちょっと脊延びをしてそれを下げようとした。
 「延びまへん」大家の息子は気色(きしょく)を害したような調子でいった。そして少し離れた所に立って黙ってそれを見ていた。
 謙作は自分たちが余りに虫がいいのを怒っているな、と思った。虫がいいには違いないが、またどういうわけでこんな事まで吝(しわ)くするのだろうと思った。大家の方は延ばそうとはいわない。延ばしてもらいたいといっている事が分かっていて、知らん顔をしている事が謙作には彼の我儘な本性からちょっと癪(しゃく)に触った。
 「これは私の方で入ってから延ばしてかまいませんね」と彼はいった。
 「困ります、── それは」無愛想に若い大家はそれをはねつけた。
 「どうしてかしら」
 「京都の者にはそれで事が足りとるさかいな」
 「…………」謙作は腹を立てた。
 「そう紐を長うしたら見ようのうなる」
 「還(か)えす時元通りにして返したら、いいだろう。それでも駄目か?」
 「あきまへん」若い大家は顔色まで変えている。
 「そんな馬鹿な奴があるもんか。そんなら借りるのはやめだ。 ──帰ろう」謙作の方も短気にこんな事をいい、挨拶もせずにさっさと出て来た。直子一人閉口していた。それでも直子が何かいってお辞儀をすると、若者も「いや」といって、叮嚀(ていねい)に頭を下げた。
 「まあ、両方お短気さんなのねえ」と日傘を開きながら小走りに追って来た直子が笑った。
 「しかし彼奴(あいつ)、割りに気持のいい奴だ」謙作は苦笑しながらいった。若者の怒るのも無理ない気もしたし、自分が一緒にむかっ腹を立てた事も少し気まりが悪かった。
 「喧嘩してほめてちゃ仕方がないわ。あんないい家、惜しいわ」
 「いくら惜しくても、もう追いつかない」
 「今度はね、黙ってて、入ってから勝手に直すのよ。そんな、初めっから色々註文をするから怒ってしまいますわ」

 

 なんとも面白いやりとりである。ここに出てくる大家の息子も、直子も、そして謙作も、実に生き生きと描かれている。描かれている内容は、どうということもない、この長編小説の中ではなくてもいいような場面だが、ここだけで、一編の短編小説のような味わいがある。

 電燈の位置をもう少し下げろという謙作に、ぜったいダメだという大家の息子。そのやりとりを、呆れて見ていて、明るく批評する直子。癇癪を起こした自分を、照れくさく思う謙作。

 謙作の一直線な性格は、この若者の妥協しない頑固さに、腹をたてながらも、共感してしまう、というあたりも、志賀直哉という人の素肌に触れる感じがある。

 それにしても、電燈をもう少し低くしてくれという謙作に対して、「京都の者にはそれで事が足りとるさかいな」といって拒否する若者の「論理」もフシギである。京都というところは、こういうところなのだろうか?

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 118  「頼み方」の問題  「後篇第三  十三」 その2  2022.11.9         

 

 謙作と直子が、新しい家を探しにいって、これはよさそうと思った家の大家の息子とちょっとした諍いをする。その場面で、大家の息子が、天井からつるした電燈の位置を下げてくれという謙作に、けんもほろろの応対をするのだが、その不思議な論理について、「京都というところは、こういうところなのだろうか?」と疑問を呈してみた。

 この疑問は、京都に住む旧友を念頭に置いたもので、こう書いておけば、あとで、必ずメールをくれるはずである。で、案の定、数日たってメールが来た。
それによると、彼の奥方が、知り合いに聞いてくれたというのだ。というのも、彼も彼の奥方も、京都の人間ではないので、確かなことは言えないが、さんざん「京都人」には悩まされてきたので、聞いてみる相手には事欠かないということらしい。

 で、その返事はこうである。(転載の許可いただいたので。少々手をいれています。)

 

(1)そもそも京都人は、京都人(碁盤の目の内に住んでいる人)以外はバカにしている。
(2)頼み方が率直過ぎる。何でも遠回しに、相手に言わす。ちょっと針仕事するのに、暗(くろ)おすけど・・・(大家に)どないか、方法ありますやろか? なんて、頼み方をする。相手に主導権を。自分で決めない(ズルい)。
(3)壁の頼み方は、丸見えで困る、と言っただけ。塀を作ると言ったのは大家。要は、京都人特有の下らないプライド。困ったな〜、どないしよ? 二階で着替えられしまへんな〜。(大家に) どないしたら、宜しいやろ? と聞くのが、いわゆる「相手にするのがめんどくさい」京都人。

 

  なるほど、ちょっとした「頼み方」が問題だったのだ。目からウロコである。

  そういえば、大家の息子は、この直前までは機嫌がよかったのだ。

 

「此所がちょっと具合悪そうだな」二階の南向きの窓から首を出して謙作はいった。
 「隣りから首を出すと、直ぐ向かい合いになる」
 「本統に」と直子もいった。鍵を持って案内に来た大家の若い息子が、
 「其所でしたら、その便所の屋根に小さい塀を立ててもよろしいです。西日除(よ)けにもなりますよって……」と心持よくいった。
 「そう。そうしてもらえば上等です。それから、この電気の紐を部屋の隅に置く机の上まで引張れないと困るのですが、もし何だったら私の方で直してもいいけど……」
 「へえ、それ位、私方でさせましょう」

 

 ここでは、謙作も直子も、「直接」に、苦情を言っていない。大家の息子が来る前には、「具合悪そうだな」と謙作は言ったが息子はその言葉を聞いていない。やってきたら、二人が困っている。それを息子が「察して」、自分のほうから直そうと言ったわけで、「主導権」は息子にあるのである。だから機嫌がいい。

 ところが、その後は、こうなる。

 

 この辺まではよかった。が、それからまた階下に下り、茶の間になる部屋の電燈がやはり天井から二尺ほどしか下がっていないのを見ると、謙作は、
 「これも少し困るな」といった。「これじゃあ針仕事に暗いだろう」
 「延びるんじゃないこと」と直子がちょっと脊延びをしてそれを下げようとした。
 「延びまへん」大家の息子は気色を害したような調子でいった。そして少し離れた所に立って黙ってそれを見ていた。

 

 ここでの「問題点」は、まず、謙作も直子も、それぞれ苦情を言葉にした。これが、(2)に当たるわけだ。つまり、「頼み方が率直過ぎる。」ということ。「頼み方」というよりも、文句を言ってるわけだから、当然、息子にしてみれば、むっとする。更に、直子が「勝手に」電燈(のヒモ)を伸ばそうとする。これはもう絶望的にダメだ。息子が主導権をとられてしまったからだ。だから、「延びまへん」と突っぱねる。実際には「延びる」のかもしれないが、とっさにそう言うわけだ。

 その後の、電燈を下げなくても「京都の者にはそれで事が足りとるさかいな。」というのは、もう、「売り言葉に買い言葉」で、意地を張っているということになる。実際に、京都の人間が暗くても平気である、ということを言っているというよりは、意地を張っていると考えたほうがいいだろう。

 この部分については、横浜に住んでいる旧友とのやりとりで、彼が言っていたことだ。

 ヘタに読むと、「手暗がりでも京都人は我慢するけちん坊だ」といったような結論に向かいかねないところだが、「頼み方が率直過ぎる」という観点によって、その結論は回避されることになるわけだ。

 それにしても、「京都人」というのが、「碁盤の目の中に住む人」に限定されるというのも、スゴイなあ。まあしかし、「千年の古都」なんだから、そういうこともあるのかもしれない。「横浜人」と称するわけもわからない人間が、中区と西区と南区(いい加減です。まあ、中心部ぐらいの意味。)以外は「横浜」じゃないみたいなことを口走るのとはワケが違う。中区だろうが、西区だろうが、果ては、港区だろうが大田区だろうが千代田区だろうが、「碁盤の目の外」であるという点においてはなんの変わりもない。京都人、最強である。

 とまあ、そんな嫌味めいたことも言いたくなる、「京都人」だが、その「京都人」の一面(あくまでも一面にすぎないだろう)を、志賀直哉は、ここもサッと見事に描きだしているのである。

さて、その後、二人は貸家探しをやめて、祝い物の返しの品を買いにいく。謙作の母方の伯母が嫁にいった陶工の店などに行き、「赤絵の振出し」(注:振出し= 茶道で、小型の菓子器。また、香煎を入れる器。)を買って、その店を出る。

 

 二人がその家を出た時には既に日暮れ近く、寒い風が道に吹いていた。謙作にはその寒さがこたえた。
 「早く何所(どこ)かで飯を食わないと風邪をひきそうだ」彼はこんな事をいって二重まわしの襟を立てた。  「きっと仙が支度をして待ってますわ」
 「どうだか?」
 「そう? そんなに平時(いつも)そとであがっていらしたの?」
 「そうでもないが、出掛けた時間がおそかったから、そとで食って来ると思ってるだろうよ」
 なだらかな五条坂を二人はこんな事をいいながら下りて行った。五条の橋はかけ更えで細い仮橋が並べてかけてある。二人はそれを渡って行った。

 

 寒風の中、五条の橋を渡っていく二人の姿が印象的だ。

 そして、ちょっとした会話から、結婚までの謙作の日常をふと垣間見る直子の心のうちも思いやられる。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 119  「不幸」の予感  「後篇第三  十三」 その3 2022.11.23

 

 

 文学なんて分からないほうがかえっていいのだと、以前にも謙作は直子に言ったことがあるわけだが、五条の橋の古い台石を直子の伯父さん(N老人)が譲り受けて、お茶室の踏み石にしたというようなことから、話題が、お茶のことになったときに、五条の橋を渡りながら、また、それを言うのだった。

 

  「貴方もなかなかお茶人なのね。今日のお買物を見てもそうらしいと思ったわ」こんな事をいって直子は笑った。
 「兄さんはどうなの?」
 「兄さんも私もお母さんの子ですもの、そういう方は一向いけない方よ」
 「その方がいい。若い人のお茶人はあまりいいものじゃないよ」
 「貴方のは何でも解らない方がいいのね。文学も解らない方がいいし、風流も解らない方がいいし」
 「本統だよ」と謙作はいった。「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」
 「妙なお説ね。私、それも解らないわ」直子は大きな声をして笑い出した。謙作も笑った。直子はそれを覗き込むようにして、「やはりそれも解らない方がいいの?」といって自分でも堪らなそうに笑いこけた。
 「馬鹿」そして謙作も思わず、こんな言葉を口に出した。

 

 直子に、文学なんて解らないほうがいいんだと以前に言ったのは、妻がなまじ文学に詳しかったりすると、自分が文学に集中できないというようなエゴイスティックな観点からだとなんとなく思っていたのだが、どうもそればかりではないようだ。

 「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」というのは、文学や風流が「悪趣味」だということではなくて、「文学」にしろ、「風流」にしろ、「解った」と思うことが「悪趣味」だということだろう。

 そういうものを「解った」と思い込んで、「解っている人」と自分を規定して疑うことなく振る舞うということ、それこそが「悪趣味」なんだということだ。文学にまだ無知な直子が、急に「文学が解った女」なんかになられたら目も当てられない。むしろ「解らない」という自覚を持っていてほしい。そういう自覚をもって、文学なり風流に接することが、文学や風流に対する礼儀だということだろう。文学も風流も、いわゆる「通人」のものではなくて、あくまで、「解らないという自覚をもった素人」が憧れ、尊敬する対象であり、到達する目標でもあるはずだ。そういう思いが謙作、そして志賀直哉にはあったのではなかろうか。

 二人は橋を渡ると、其所から四条まで電車で行き、菊水橋という狭い橋の袂から蠣船(かきぶね)に行った。謙作には尾の道以来の蠣船である。で、彼にはあの頃の苦しい記憶がちょっと気分を掠(かす)めて通ったが、しかしそれから被われるにしては今の彼は余りに幸福だった。一つはいる場所の雰囲気がまるで変っていた。あの薄暗い倉庫町の蠣船とは此所(ここ)は余りに変っている。前に祇園の茶屋茶屋の燈(あか)りがある。四条のけばけばしい橋、その彼方(むこう)に南座、それらの燈りがまばゆいばかりにきらきらと川水に照反(てりかえ)していた。

 

 「蠣船」って何だろうと思って調べたら、ちゃんとWikipediaに載っていた。牡蠣は、牡蠣フライなら好きだが、生牡蠣は絶対に食べたくない。2、3度食べて、おいしかったけど、知人や生徒で、生牡蠣にあたった例を何度も見たので、それ以来、食べる気にならない。この「蠣船」では、生牡蠣は供されたのだろうか。

 尾道の「蠣船」にのったころの謙作は、苦しい思いを抱えていたのだが、その気分が甦りそうになるけれど、謙作の今の「幸福」な気分が、それを押さえ込んでしまう。しかし、チラッと思い出されたその嫌な気分が尾を引いたのか、謙作は、この後、かつての栄花やお政の芝居のことを思いだし、それを話題にしてしまう。小さい気分の波が、やがて中くらいの波を起こし、そして、やがてクライマックスの大きな波へと増幅してゆく過程を、志賀直哉は叮嚀に描こうとしている。

 蠣船の周辺の街の描き方も、簡潔だが、油絵のような印象で、見事である。

 

 「懺悔という事も結局一遍こっきりのものだからね」彼はこんな事をいった。「二度目からはもう最初の感激はないんだから、懺悔の意味はなさないと思うよ。それを芝居で興行して歩くというのだから無理もない話だ。無論懺悔の意味は少しもないね」
 彼はそれよりも、現在、罪を犯しながら、その苛責のため、常に一種張りのある気持を続けている栄花の方が、既に懺悔し、人からも赦されたつもりでいて、その実、心の少しも楽しむ事のないお政の張りのない気持よりは、心の状態として遥かにいいものだと思うというような事をいった。
 「そうでしょうか? 私、悪い事をしても、いわない間は、それは苦しいの。だけど、それをいってしまうと本統にせいせいしますわ」
 「あなたの悪い事と、お政や栄花の悪い事とは一緒にならないよ」
 「異(ちが)うの?」こういった直子の言葉の調子が謙作には如何にも無邪気に響いた。
 「そりゃあ、異うよ。あなたのはいいさえすれば誰れでも赦せる程度のものだし、お政や栄花のはそう簡単には行かないだろう。あなたのはいって直ぐあなたがそれを忘れた所で誰れも何とも思わないが、悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」
 「誰れがいい気がしないの?」
 「誰れがって……悪い事をされた人が……」
 「執念深いのね」
 「懺悔もいっそ懺悔しなければ悔悟の気持も続くかも知れないが、してしまったらかえって駄目だね」
 「そんなら、どうすればいいの」
 「…………」謙作は不意にいい詰まった。彼にはふと亡き母の事が想い浮んだ。彼は陥穴(おとしあな)に落ちたような気がした。そして、口を噤(つぐ)んでしまった。二人は暫く黙って歩いた。五、六歩行った時に、
 「もうそんな話、やめましょう。ね?」と直子も何か不安な気持に襲われたかのようにいった。直子は謙作の母の事は聞いていた。が、それがその時、想い浮んだのではないらしかった。ただ何となく気配が彼女を不安にしたらしかった。そして、
 「何か、もっと気持のいいお話ないの? 気持のいいお話をして頂戴。……ねえ、私、そんなお話よく解らないのよう」殊更甘えるような調子にいって、その丸味のある柔かい肩で押して来た。
 「何でも解らないね」謙作は笑った。「解らないといえば讃められるかと思って……」
 「そうよ。私、何にも解らないから、わからず屋よ。いいこと。貴方もその方がいいんでしょ」
 間もなく二人は軽い気持になって北の坊の寓居へ帰って来た。

 

 ここは重大な伏線となっている。直子がこの後大きな過ちを犯すことになるわけだが、その過ちを、謙作がどう受け止め、どう対処していったか、ぼくはまだ読んでいないから分からないわけだが、(高校生の時に一度読んだが、もちろん、ぜんぶすっかり忘れている。)ここで謙作が言っている、「悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」という言葉は、実に重苦しい響きをもっている。結婚式をあげたばかりの謙作が、妻に向かって言う言葉としては、あまりに重く、息苦しい。

 悪いことをした以上、勝手に懺悔されたって何にもならない。本人はそれでさっぱりスッキリするかもしれないが、そんなものはされた方にしてみれば、なんの役にも立たない。悪いことをした者は、とことん最後まで苦しみ続けてくれなくては、困る、気が済まない──そんな気持ちは、誰でもが抱く思いだ。けれども、まだ「何にもしていない」直子は、そんな人間のどうしようもない気持ちのありようを、いきなり提示されても、「そんなら、どうすればいいの」と言うしかない。どうして、幸福な今、そんなことを謙作が言い出すのか、直子は理解に苦しむわけだし、謙作自身も、理解できないだろう。けれども、謙作は、この「幸福な今」の向こうに控えている「不幸」の予感におびえているのかもしれない。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 120  波乱の幕開け  「後篇第三  十四」 その1  2022.12.8

 

 

 さて、謙作夫婦の住む家もようやく決まる。

 

 十日ほどして二人は衣笠村(きぬがさむら)にいい新建ちの二階家を見つけ、其所(そこ)へ引移った。一月の、それは京都でも珍らしい寒い日だった。建って漸(ようや)く壁の乾いた所で、まだ一度も火の気の入らぬ空家では、寒さは一層身に堪えた。
 S氏の会社の年寄った小使が手伝いに来た。その小使が、
 「此所(ここ)は女御(おなご)はんだけでは御留守が淋しいですな。別に物騒なちゅう事もありますまいが、犬を飼われたら、よろしな」といった。それで謙作はその人に犬の世話を頼んだ。
 その晩は、あるだけの火鉢に火を一杯におこして部屋を温めてから寝た。

 

 相変わらず簡潔な記述である。

 新築の家の寒さ、それも「京都でも珍しい寒い日」の寒さが肌に実感される。

 手伝いに来た小使が、犬を飼ったらどうかという。いわゆる番犬である。今では、犬を飼うといえば室内のペットとしてばかりだが、犬の本来の(?)飼育目的は、「番犬」としてだ。だから、当然、屋外で飼う。つい最近まで、そういうものだった。といっても、その「つい最近」が、数十年前だったりするのだが。

 ここにある「衣笠村」は、1918(大正7)年に廃止されて、京都市北区に編入されているから、志賀直哉がこれを書いている時点では「衣笠村」はすでにないことになるが、「衣笠」の地名は今でも存在するから、特に問題はないだろう。

 この「衣笠村」には、堂本印象などの日本画家たちが多く住んでいたということで、そういう土地柄もあって、ここを新居の地として設定したのだろう。

 

 彼は二階に書斎をきめた。机を据えた北窓から眺められる景色が彼を喜ばした。正面に丸く松の茂った衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峰の一部が見えた。それから左に高い愛宕山、そして右に、ちょっと首を出せば薄<雪を頂く叡山が眺められるのである。彼はよく机に向ったまま、何も壽かずにそういう景色を眺めていた。
 二人はよく出歩いた。花園の妙心寺。太秦の広隆寺、秦の河勝を祭った蚕の宮、御室の仁和寺、鷹ヶ峰の光悦寺、それから紫野の大徳寺など、この辺をよく散歩した。そして夜は夜で、電車に乗って新京極の賑やかな場所へもよく出掛けた。近くでは「西陣京極」といわれる千本通りのそういう場所へも行った。

 

   こんな場所に新居を構えるなんて、羨ましい話だが、家賃はどのくらいだったのだろうか。作家としての収入がどのくらいあったのかしらないが、いずれにしても謙作は、「お金持ち」だったことは確かだ。しかし、実家からの援助というのも、考えにくいし、この辺がちょっと分からないところである。

 この書斎からの眺めは、「羨ましい」を通りこしている。金閣寺の一角に住んでいるようなものだもの。

 書斎というものは、北向きの部屋がいいとされている。日当たりが悪い部屋のほうが本が焼けずに済むということもあるし、気も引き締まるというものだろう。日がな一日、ぽかぽかと日が当たるような部屋では、思索どころではないだろう。ちなみに、ぼくの「書斎」にも、いっさい日は差し込まない。理想的な北向きの部屋である。だからといって、思索が深まっているわけではないのは、いうまでもない。

 こういう、眺めのいい書斎を持ち、ちょっと出歩けば、いろいろなお寺巡りもできて、さらには歓楽街にもすぐに行ける。やっぱり羨ましいとしかいいようがない。

 そういう理想的な環境で、二人は新婚生活を始めたのだが、はやくも波乱の予兆がある。ようやく物語は動き始める。

 

 その頃丁度中学では謙作より二つほど下だったが、家の近い所からよく遊んでいた末松が、岡崎の或る下宿に来た。四、五年前に此所の大学に入ったのだが、病気のために二年ほど休んで、いまだに年の半分位ずつ東京から出て来ては残った試験を受けている。この末松がある晩、謙作の書いた物をよく見ているという青年を連れて訪ねて来た。
 「水谷君は君の書くものと阪口君の物とが一番好きなんだそうだ」こう末松がいった。
 謙作は返事に困った。阪口と一緒に好かれてる事も困ったが、面と向かって自分の作物をこういわれると彼は毎時(いつも)返事に当惑する方だった。
 「水谷君も文科で、今年大学へ来るんだ。僕にはよく分らないが詩でも歌でも何でもやるよ」
 「その内何か出来たら、お暇の時に見て頂きます」水谷は割りにハキハキした調子でいった。
 「阪口には会った事あるんですか?」
 「いえ、まだ一度もお眼にかかりません」
 直子が茶や菓子を持って入って来た。謙作は末松に紹介した。それから水谷にも。
 直子は何時の間にか着物をかえ、髪も綺麗になでつけて、如何にも新妻らしい、しとやかさで、客の前に茶や菓子を進めた。
 「君は奥さんのお従兄(いとこ)を知ってるんだね」末松は顧みていった。
 「ええ。要(かなめ)さんとはずっと中学が一緒でございました。それから、久世(くぜ)君もそうです」
 直子は故(わけ)もなく赤い顔をした。要というのはN老人の息子で今東京の高等工業に入っている。謙作は会った事はないが、名だけはよく知っている人だ。そして彼は、
 「久世君というのはどういう方?」と直子の方を向いて訊(き)いた。
 「要さんの御親友で、同志社の大学にいらっしゃる──そら! 貴方(あなた)のもの讃めていらっしゃる方よ」直子は謙作にだけは如何(いか)にも自由な調子で後を早口にいった。結婚の話の時、作家としての謙作の評判を訊いたというその人の事である。
 「そうか」
 「久世君もぜひお伺いしたいといっておりますがお差支えございませんか?」
 「ええ。何時(いつ)でも」
 直子はほとんど寄添うように近く謙作の側に坐っていた。謙作は何か、客の手前、具合悪い感じをしながら、故意(ことさら)、直子に無関心でいようと努めたが、それがまた、故(わざ)とらしくなりそうで困った。彼は何気なく居ずまいを直す時になるべく直子から身を離した。
 「要さんからは時々お便りがございますか?」水谷は年に似合わず、こんな風に直接直子に話しかけたりした。  
「いいえ、ちょっとも」こういいながら直子は謙作の方を向いて、「ひどいわ。此方(こちら)ヘあがってから一度も便りをくれないのよ」といった。謙作は黙っていた。

 

 いろんな人間が、過去のいきさつも含めて出てくるので、しっかり読まないと混乱するので、整理しておく。

 まず、末松というのは、謙作のいわば幼なじみで、近所に住んでいた。それが、おとなになって、大学の関係で京都に来たり、東京へ帰ったりしていたわけだ。謙作より2歳年下。

 水谷というのは、その末松の京都での友人。文学青年である。

 この水谷が直子の従兄である要と中学が一緒で友人だった。要というのは、N老人の息子。

 久世も、水谷・要と中学が一緒で、要の親友。この久世は、同志社にいて、謙作のファン(?)である。

 あとは、阪口だが、これはもうこの小説の発端から出てきていた謙作の友人で、一悶着あった男だ。「時任謙作の阪口に対する段々に積もって行った不快も阪口の今度の小説でとうとう結論に達したと思うと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持になった。」というのが、「暗夜行路」の最初の(「序」は別として)一文で、「暗夜行路」は、この阪口との反目をもって、始まるのだ。

 まあ、だからといって、ここで阪口が大きな役割を担うわけではない。しかし、この阪口をまたぞろ持ち出すところに、謙作の(志賀直哉の)しつこさがあるといってもいかもしれない。

 問題なのは、従兄の要のようである。

 とにかく、直子の不倫行為が、この「暗夜行路」後半の一大問題なのだから、ここは細かく読んでいかねばならない。

 目に付くのは、直子の意外な態度である。「意外」というほどのこともないが、謙作には「意外」な感じを与えたであろう直子の態度だ。まずは、

 

 直子は何時の間にか着物をかえ、髪も綺麗になでつけて、如何にも新妻らしい、しとやかさで、客の前に茶や菓子を進めた。直子は何時の間にか着物をかえ、髪も綺麗になでつけて、如何にも新妻らしい、しとやかさで、客の前に茶や菓子を進めた。

 

 の部分。ここには「意外」性は少しもない。むしろ、新妻としては当たり前の心使いだろう。謙作もそれに不快を感じているふうでもないが、しかし、「何時の間にか」に、「え?」という心理を匂わせている。いつ着替えてきたんだろう。着替える必要があるんだろうか。といった、ちょっとした戸惑いだ。

 その後、

 

 「ええ。要(かなめ)さんとはずっと中学が一緒でございました。それから、久世(くぜ)君もそうです」 直子は故(わけ)もなく赤い顔をした。

 

 とあるわけだが、この直子の赤面は、「わけもなく」と書かれているが、そう書くということは「わけがありそうだ」と謙作が思ったからだろう。「わけがありそうだが、そのわけがわからない」といえば、より正確だろうか。

 

直子は謙作にだけは如何(いか)にも自由な調子で後を早口にいった。

 

 直子が謙作だけには「自由な調子で」ものを言うのは、謙作にとっては好ましいことだろうが、「後を早口にいった」のは、自分の気持ちを悟られまいとしての「早口」じゃないのかといった疑念があるようにも勘ぐれる。

 

 直子はほとんど寄添うように近く謙作の側に坐っていた。謙作は何か、客の手前、具合悪い感じをしながら、故意(ことさら)、直子に無関心でいようと努めたが、それがまた、故(わざ)とらしくなりそうで困った。彼は何気なく居ずまいを直す時になるべく直子から身を離した。

 

 ここでも、謙作は必ずしも「不快」を感じているわけではない。むしろ、そういう直子の態度を内心では喜んでいるのかもしれない。二人の客の手前を恥じているだけのようにも思える。しかし、そうであってもなお、「おまえ、ちょっと馴れ馴れしいんじゃないか。」と咎めるような気分も混ざっているようにも見えるのだ。そして、

 

 「要さんからは時々お便りがございますか?」水谷は年に似合わず、こんな風に直接直子に話しかけたりした。

 

 直子へのちょっとした戸惑いは、水谷へも向かう。「年に似合わず」という表現がこの後も出てくるのだが、その背景には、年若いものは、年長者の前では控えめであるべきだという謙作の倫理観のようなものがあるのだろう。そういう謙作の前で、水谷の物言いは、馴れ馴れしい。初対面の、しかも、「作家」の謙作の新妻に対して、「直接に」話しかけていいものだろうか、と謙作は感じるわけだ。

 そういうところへ、直子は、こんなふうに答える。

 

 「いいえ、ちょっとも」こういいながら直子は謙作の方を向いて、「ひどいわ。此方(こちら)ヘあがってから一度も便りをくれないのよ」といった。謙作は黙っていた。

 

 「ひどいわ」とか「くれないのよ」とかいった甘ったれたものいいは、さすがに慎みを欠いたもので、「ひどいかどうか、そんなことはオレの知ったことか!」とばかり、謙作は、ムッとするのだ。少しばかりの嫉妬も混じっただろう。それを、「謙作は黙っていた。」の一言で表す。

 波乱の幕開けである。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 121  リアリズムの真骨頂 「後篇第三  十四」 その2 2022.12.28

 

 

 要の噂はまだ続く。

         

 「この春休みには敦賀の行きか帰りに京都へも寄るような事を久世君の所へいって来たそうですよ。此方(こちら)の新家庭を拝見しがてらに……」水谷はそういって一人笑った。
 「いやな人!」と直子は腹立たしそうにいい、ちょっと赤い顔をした。
 末松が謙作とは親しい間柄でいながら側(わき)に馴染(なじみ)の薄い直子がいると、平時(いつも)の半分も喋れずにいるのに、初めての水谷が年に似ず何の拘泥(こだわ)りもなくそんな串戯(じょうだん)をよく喋れる事が謙作にはいい感じがしなかった。水谷は色の白い小作りの、笑うと直ぐ頬に大きく縦に笑窪(えくぼ)の入る、そして何となく眼に濁りのある青年だった。紺絣の着物にセルの袴を穿(は)いて、袴の紐を駒結びに結び切って、その先を長く前へ二本垂らしていた。末松とは同じ下宿で今度初めての知り合いで、将棋、花合わせ、玉突、そういう遊び事がうまく、二人はその方での友逹であった。

 

 「いやな人!」というのは、要に対してである。そういって、また直子は「ちょっと赤い顔」をする。二度目だ。しかし、それに対する謙作の反応を書くことなく、筆は、水谷に対する不快感へと向かっている。それは、間接的に、そういう水谷と気安く話す直子への不快感を暗示しているようにも読める。

 

 「奥さん」仙が唐紙の彼方(むこう)で呼んだ。「奥さん、ちょっと、来ておくれやすな」
 直子は急いで立って行った。その姿が隠れると、今までそれを待っていたかのように、末松は花を打ちつける手真似をしながら、
 「やるかい?」といって笑った。
 「いや」と謙作も微笑し、首を振った。二人はまだ中学生だった頃お栄と三人でよくそれをした事があった。
 「道具はあるの?」
 「何所(どこ)かにあるわけだよ。例の古い奴が……」
 「やりたいなあ」末松は如何にもその遊びをしたいらしく、子供らしい調子でいった。
 「何だい、そんなに熱なのか?」
 「末松さんの熱は下宿でも一番高いんです」
 「奥さんはどうだい?」と末松がいった。
 「どうかな」
 直子が仙に襖(ふすま)を開けさせ、林檎の切ったのを山に盛った大きい切硝子(きりこ)の鉢を両手に持って入って来た。  「花を知ってるかい?」謙作はまだ立っている直子を見上げて訊いた。
 「花って……?」直子は立ったまま首を傾けた。
 「これだ」謙作もその手附をして見せた。
 「ああ、そのお花?」直子は坐り、鉢をいい位置に置きながら、「知っててよ」といった。
 「うまいな!」水谷が浮かれ調子にそういって如何にも乗気な風をした。
 「道具のあるとこ分るかしら?」
 「お引越しの時ちょっと見たんですけど、赤い更紗(さらさ)の風呂敷に包んであるのがそうでしょうか」
 「それだ」
 「持って来るの?」と、よくする癖で直子はまた首を傾けて訊いた。
 「うむ」
 少時(しばらく)して四人は電燈の下の白い布れに被われた一つの座蒲団を囲んだ。

 

  ちょっとしたやりとりだが、情景が生き生きと伝わってくる見事な文章である。

 末松の浮かれた気持ち、直子のかわいい仕草、そして謙作の直子への視線。それらが、見事に交錯して描かれる。

 話は、この後、花札の遊びを、数ページにわたって、こと細かに描写する。花札のシーンをこれだけ細かく描いた小説を読んだことがない。しかし、残念なことに、ぼくには、花札に関する知識が皆目ないので、さっぱり分からない。いろいろ調べてみたが、やっぱりダメだった。

 脱線するが、花札といえば、こんなことがあった。青山高校に勤めていたころ、修学旅行の引率で京都に行ったことがある。その行きの新幹線の中で、生徒が、花札をやっているのを見つけたのだ。ぼくは、すっかり驚いてしまって、ダメだダメだ、花札なんて! と言って止めさせたのだが、生徒はぽかんとして、どうしてダメなんですか? トランプがよくて、花札はダメなんですか? と詰め寄られたような気がする。その時、ぼくはどう説明したのか覚えていないが、とにかくダメだ、花札なんてヤクザのやることだ、ぐらいのことは言ったのではなかったか。

 ぼくは、柄のわるい横浜の下町の職人街に生まれ育ったわりには、(実際、ぼくの町内には、入れ墨をしたオジサン、ジイサンはそこらじゅうにいたし、我が家で雇う臨時職人には、全身入れ墨をした人もずいぶんいた。)そういうものにはとんと縁がなくて、花札をやったことがないばかりか、花札をやっているところを実際に見たこともない。家にも花札1枚なかった。それでも、花札のことを知っていたのは、ヤクザ映画の中で頻繁にみたからだ。だから、「花札=ヤクザ」の図式は、ぼくの中では確固とした信念と化しており、カタギの者が手を出していいものでは金輪際なかったのである。その後も、ぼくは、花札を触ったこともないし、もちろん遊んだこともない。

 ペンキ屋の親方だった父も、そのまた親方だった祖父も、そういう仕事のわりには、バクチにはまったく縁がなく、我が家では、冗談にも賭け事をしたことがない。それは、我が家のタブーに近かったのだ。裏を返せば、それだけバクチが周囲に蔓延していて、それを幼いぼくから懸命に遠ざけたということなのかもしれない。

 そういうぼくの目からすると、世田谷方面のインテリの家庭の生徒が、新幹線の中で花札をやるということは、まさに想像を絶する、驚愕だったわけで、慌てたのも当然だったわけだ。

 けれども、今、こうして「暗夜行路」を読みながら、楽しそうに「良家の子弟」が花札をやるシーンに接すると、そうか、花札というのは、必ずしもヤクザ専用のものじゃなくて、一般市民の楽しみでもあったんだと納得される。

 と同時に、このように屈託なく花札を楽しめるということは、育ちがいいからこそであって、バクチのために地獄をみなければならないような底辺の人間には、やはりそれはあくまで「地獄の入り口」だったのではないか、などと思うのだ。

 さて、本題に戻ると、この花札をやっている最中に、直子がちょっとしたズルをする。これが、この部分の眼目である。その部分だけを引用する。

 

  こんな風に初めてなのであるが、誰れか一人ずつ寝た者が後見についていると、何時(いつ)か直子が一番の石高となっていた。そしてその後に水谷の後見で五光を作ると、これで大概銀見(ぎんみ)は決ってしまった。直子の大きな銀見で、一年済んだ所で、
 「今度は一人でやって御覧。大概解ったろう?」と謙作がいった。
 「ええ、いいわ。今度は一人でやるわ」
 しかし一人になると、直子はやはりよく負けた。結局また誰れか後見をする事になったが、一卜勝負済んで数勘定の時など、直子はよく、
 「私に何か手役なかったこと?」こういって考える事があった。「あったわ、《たて三》でしょ」
 「何いってんだ。そりゃあ、前の勝負だ。慾が深いな」謙作は串戯(じょうだん)らしくそういいながら、直子には女らしい小心で、実際慾の深い所があるようだというような事を思った。
 水谷の親で、親が出るといった。次も出るといった。その次が謙作で、謙作には二タ役がついていたので、出るといい、最後の直子が追込まれる事になった。
 「買ってやろう。何かあるかい」そういって謙作は直子を顧みた。
 直子は扇形に開いた七枚の札を彼に見せて、
 「丹兵衛さんよ」といった。
 「よし。桜の丹だ」こう皆にいって、何気なくもう一度見た時に《かす》の菊がちょっと彼の注意をひいた。彼は手を出し其所だけ扇をもっと開いて見た。それは盃のある菊で、それがあってはその手は役にならなかった。謙作はその盃だけが上の札で完全に隠されてある所から、これは直子が《ずる》をしようとしたのだと思った。
 「ちょっとも気がつきませんでしたわ」直子もちょっといやな顔をしていった。
 「よろしい。それじゃあ、桜の丹があるが、罰としてただだ」彼は何気なくその札を受取り、めくり札に切り込んで、直ぐ勝負にかかったが、「猾(ずる)い奴だな」と直ぐ一と口に串戯(じょうだん)のいえなかった処に何となく、それが実際直子の猾(ず)るだったような気がした。勝負をしながら、彼はその事を考えた。彼は気を沈ませた。そして、思いなしか、皆も妙に黙ってしまったような気がした。

 

 花札のことは分からなくても、こうした「ちょっとしたズル」のことは、よく分かる。

 直子がほんとうにズルをしたのか、それとも誤解なのかは分からないが、しかし、そこに嫌な空気、嫌な気分が、確実に生まれたことは分かる。何気ないところに、ふっと顔を出してくる、人間性。それも、その人間の持つ本質的な悪というような深刻なものではなく、誰だってもっているに違いない小さな悪。けれども、それが、その人間への理解に落とす影は案外濃い。

 そんな微妙な空気の中で、あそびはお開きとなり、謙作と直子は、二人の客を送って外へ出る。

 

 椿寺、それから小さい橋を渡って一条通りの町になる。が、晩(おそ)いので何所ももう店を閉め、ひっそりしていた。直子は毛の襟巻(謙作の)に深く頬を埋め黙り勝ちに謙作の後からついて来た。
 「どうだい。もう帰らないか」と末松がいった。
 「あなたはどうだい?」謙作はいたわるようにいい、直子を振返った。
 「私、いいのよ」
 「そんなら大将軍(たいしょうぐん)の前あたりまで行こう」
 寒い晩で、皆(みんな)が黙ると、凍った路に下駄の歯音が高く響いた。
 「もう少し温かくなったら、一緒に何所かへ行って見ようかね」十年ほど前の春、末松と富士の五湖を廻った事がある、それを憶い出し、謙作はいった。
 「それは賛成だね。僕はこの春、月ヶ瀬へ行って見ようと思ってるよ。君がまだなら、月ヶ瀬でもいいね。笠置の方から越して行くんだ」
 「月ヶ瀬はいいでしょうね。僕もまだ行かないが」と直ぐ水谷もいった。が、二人はそれには答えず、五湖廻りをした時の話などを始めた。
 そして間もなく大将軍という町中にある丹塗の小さい社の前まで来て、其所で謙作たちは二人に別れて引返して来た。直子は何となく元気がなかった。やはり先刻(さっき)の事が直子の心を傷けているのだと謙作は思った。謙作はもしそれがいえる事なら何とかいって慰めてやりたかった。そして彼にもまたそれが自身の事柄のように心を傷けているのであった。
 「疲れたかい?」
 「いいえ」
 カタリコトリ冴えた音をさせながら、野菜を積んだ牛車(うしぐるま)がすれ違って行った。牛は垂れた首を大きく左右に振りながら鼻から出る太い気霜(きじも)を道へ撒(ま)き撒き通り過ぎた。
 「猾(ず)るは悪い」謙作は思った。「悪い事は大概不快な感じで、これまで自分に来た。が、今、自分は毛ほどの不快も悪意も感じていない。これは不思議な事だ」と思った。彼には堪らなく直子がいじらしかった。彼はその事があって、かえってかつて感じなかったほどに深い愛情を直子に感じていた。
 彼は黙って直子の手を握り、それを自分の内懐(うちふところ)に入れてやった。直子は媚(こ)びるような細(ほそ)い眼つきをし、その頬を彼の肩へつけ、一緒に歩いた。謙作は何かしら甚(ひど)く感傷的な気持になった。そして痛切に今は直子が完全に自分の一部である事を感じた。

 

  ため息が出るほど、いい文章である。人間の心理と、情景が一体となって、心の底までしみてくる。末松との暖かい心の交流、さりげなく排除される水谷、そして、どこまでも、いじらしい直子。

 リアリズムの真骨頂である。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 122  あわれなる人間への眼差し 「後篇第三  十五」 その1 2023.1.12

 

 

 「第三 15」は、謙作と末松が連れだって、末松が入れ込んでいる「三流芸者」のところへ遊びに行くところから、謙作が直子の元へ深夜に帰ってくるまでが、簡にして要を得たとしかいいようのない文章で綴られる。

 謙作は、新婚故、直子を裏切るようなことはしたくないのだが、末松への配慮から、ずるずると付き合ってしまい、結果として、「裏切」ってしまう。

 始まりはこうだ。

 

 ーつは他に友達もない所から、自然彼は末松とよく会っていた。しかしその頃、末松は祇園の三流芸者との新しい関係でいくらか有頂天になっている時で、謙作は此方(こっち)から訪ねて行くような場合、多少はその心遣いもしなければならなかった。末松の方はまた、直子に対する遠慮から謙作を其処(そこ)へ誘おうとはしなかった。

 

 こうした背景をまず簡潔に説明しておいて、「ある晩」のことへを筆を進める。

 

 ある晩、謙作は出先きから晩(おそ)く末松の下宿を訪ねた。出掛けるものなら、もう出掛けているだろうと思いながら行った。ところが、末松はこれから出掛けようとする所で、二人は両方でちょっと気の毒な想いをした。
 「いいんだ。本統にいいんだよ」こんなにいい、末松は殊更(ことさら)寛いだ風で、火鉢に炭を次いだりした。しかし暫くするとやはり落ちつかぬらしく、
 「此所(ここ)へ呼んでみようか」といい出した。
 「呼ぶ位なら、彼方(むこう)へ行こう。その方がいいよ」謙作がいった。
 「本統にいいのかい? 何だか奥さんに悪いな」末松は羞入(はじい)ったような嬉しそうな顔をして頭を掻いた。
 二人は間もなく寒い戸外(そと)に出たが、その時はもう九時を過ぎていた。平安神宮の前の広い静かな通りを真直ぐに電車路の方へ歩いた。
 「何所(どこ)で呼ぼう?」末松がいった。
 「君の普段行く所でいいじゃないか」と答えた。
 「芸者も赤切符なら、茶屋も赤切符なんだよ。どうもヴァニティを傷けるからな」末松はこんなにいって笑った。「それより何所か料理屋へ行こう」
 「肝心の本人がいなかったら仕方がないね。僕は今飯を食ったばかりだし、君もそうだろう?」
 「うむ。だけど、余り売れっ児(こ)でもないから、……」
 とにかく、何所かで一度電話を掛ける事にして、二人は電車で祇園の石段下まで行き、近いカフェーに入った。末松は直ぐ電話口ヘ立った。
 「うむ」──「うむ」──「うむ」末松は返事ばかりしていたが、
 「じゃあ、さいなら」ガチャンと邪見(じゃけん)に受話器を掛け、不愉快な顔をしてテーブルに還(かえ)って来た。
 「六十円じゃ威張れないが、何しろ癪(しゃく)に触るな」こんな事をいいながら、傍に立っていた給仕女に強い酒を命じた。
 「いないのか」
 「大阪の芝居へ行って、今日は帰らないというんだ。──嘘だよ」気の毒なほど露骨に苛々していた。彼は何所かで自身以外のいわゆる旦那と一緒に騒いでいるその女をまざまざと見るかのような不愉快な顔をした。

 


 末松の、謙作に対する気兼ね、女に対する焼け付くような欲望、そして嫉妬。そして自嘲。そうしたことが、手に取るように描かれている。

 芸者と会うには、まずは茶屋に連絡して、その芸者を確保し、その上で、どこかに一緒に行くということになる。芸者本人と直接連絡を取ることができないわけで、その仲介をする茶屋が大事。しかし、その茶屋もピンキリで、「三流芸者」を扱っている茶屋は「赤切符」(=「汽車に三等があった当時、その切符の色が淡紅色であったので、これをもじって下等の意に使われた。」岩波文庫・注)なぞと呼ばれたわけだ。「六十円じゃ威張れない」とあるが、この60円は、茶屋に払った金だろうけど、その明細はどうなってるのかよく分からない。まあ、とにかく、三流どころで遊んでいたということだ。

 そんな「赤切符」の芸者と付き合っていることは末松の「ヴァニティ=虚栄心」を傷つけるわけだが、それでも、末松は、その芸者に「有頂天」になっているのだ。この「有頂天」という言葉の使い方は、今とは微妙に違う。今では、「得意の絶頂であること。また、そのさま。大得意。」(デジタル大辞泉)という意味あいで使うことが多いようだが、ここでは、「我を忘れること。夢中になり、他をかえりみないさま。」(日本国語大辞典)の意味で使っている。

 「有頂天」になっている末松を謙作は、「気の毒なほど露骨に苛々していた。」と冷静に観察している。この表現も面白い。つまりは、「こんなに誰が見てもイライラしていると分かるほど自分の欲望・嫉妬を露わにしたら、末松の尊厳が傷つけられるのに、それを顧慮する余裕もない末松が気の毒だった。」というようなことだろう。欲望にとらわれた者の哀れさを、謙作はジッと見つめているのである。これもまた「伏線」なのだろうか。

 そんな苛つく末松のところは、赤切符の茶屋の女将から電話が入る。カフェーの女給仕に、電話には出ないと言えという末松だったが、結局しつこい女将と押し問答の末に、茶屋に行くことを承知する。ヴァニティに欲望が勝ったのだ。

 

 「きたない家(うち)だよ。──しかしいないなら、急ぐ事もない。もう少し此所(ここ)へいよう」
 彼は続けて強い酒をいい、無理にも落ちつこうとした。また、女将にいわれ、直ぐ出向く事も業腹(ごうはら)だという風だった。そして、
 「本統にいいね? 何だかつまらないおつき合いをさせて、悪いな」ともいった。
 「僕はいいよ」謙作は末松を気の毒に思い、何気なくそうはいったが、末松の今の気分と自分の気分とが如何に離れているかが顧られ、それが具合悪かった。実際彼の心はともすると、淋しい衣笠村の家に彼の帰りを待ちわびている直子の上へ帰って行った。彼はそれが末松に映る事を恐れ、出来るだけ自分でも何気なくしていた。

 

 謙作は、末松の家を訪ねたとき、末松が遊びに行くと聞いたら、すぐに家に帰ればよかったのだ。ところが、そこで、お互いに気を遣ってしまって(これを志賀は「二人は両方でちょっと気の毒な想いをした。」と表現している。ここでの「気の毒」は、「困ってしまうこと。また、そのさま。困惑。迷惑。」〈日本国語大辞典〉の意で、今ではあまり使わない言い方。)

 お互いに困ってしまって、末松は、行きたいけど、行かないといい、謙作は、帰ろうかと思うが、そうも言えないというような妙な状態になってしまったのだ。

 その後も、カフェーに行っても、茶屋に行っても、結局、謙作は、直子のことを思いつつ、末松にも気を遣うということが続く。こういうところがいわゆる「日本人らしい」ところと言えるのだろうか。欧米人だったら、まずは自分の意志を明確に相手に示して、こういう混乱を避けるのだろう。実情は知らないけど。

 末松は、やはり、安っぽい赤茶屋に行くことを恥じていた。すっかり酔っ払った末松は、「花見小路」の方にもう一軒知ってる店がある、そっちへ行けばよかったなんてことを言いだす始末。見栄だけからくる発言だ。で、やっとその赤茶屋に到着する。

 

 そして茶屋へ来ると、やはり彼はどうしても上がる事を厭(い)やがり高台寺の方の料理屋へ行く事にして、既に十時を過ぎていたから、茶屋から先へ電話をかけさせ、二人だけでその家へ向かった。
 植込みの奥の小さい中二階に電燈がついていた。二人は其所へ通された。二十分ほどすると植込みの踏石を踏む三、四人の忙しい履物の響がして、女将と若い芸者二人とが女中に導かれ、賑やかに乗込んで来た。
 末松は絶えず苛々しながら、女将に当り散らした。若い芸者たちがその女の事で揶揄(からか)い、彼の機嫌をいくらかでも直そうと努めたが、末松はその手に乗らず、意固地に憎まれ口をきいた。
 「何しろ六十円の旦那だからな。威張れねえよ」こんなことをいい、そういう女にこんなにも嫉妬を起こす自身を憐れむ風さえあった。 
  女将も無理に呼び出しながら今は持て余していた。そしていよいよ白らけ切った座を持ち兼ねると、女将からいい出し、其所を引上げる事にした。

 

 まあ、しかし、くだらないといえばくだらない。欲望と見栄がからみあい、醜態をさらして恥じることを知らない末松。人間はあわれなものだ。あわれなものだが、こういうところにしかまた人間の真実はないのかもしれない。

 醜態をさらす末松の姿を、目を背けることなくジッと見つめている謙作の目は、また、志賀直哉の目でもある。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 123  書かない 「後篇第三  十五」 その2 2023.2.2

 

 自分の意志を明確に示すことをはばかるのは、日本人の特性らしいが、謙作がずるずる末松につきあって、芸者の元へ行ってしまうのも、謙作の中に「明確な意志」がなかったからだともいえるだろうが、しかし、意志の問題というよりは、欲望の強さの問題のようにもみえる。「意志」で何でも解決できるなら、人間も楽なものである。

 

 謙作は早く直子の所へ帰りたかった。十二時過ぎまで、家を空けた事がなかったから心配していそうにも思えた。が、やはり彼は一人先へ帰る事も出来なかった。
 寝静まった町を五人は安井神社の境内を抜けて帰って行った。脊の低い、癖毛の、ちよっと美しい芸者が何か末松に椰楡(からか)いながら暗い路で謙作の手を握った。謙作は握り合した手をそのまま自分の二重まわしのボケットに入れ、女の肩を二の腕に感じながら歩いた。彼は前夜直子との散歩で同じ事をした。そして、今、芸者とそうしながら、彼はやはり眠らずに待っている直子の上を考えた。握り合した手は両方で握締めなかった。そして何時(いつ)か、何方(どっち)からともなく離してしまった。

 

 まあ、こんな隠微な時間がしばらくながれ、謙作は、酔っ払った末松に引っ張り回された挙げ句、夜中の二時を過ぎてようやく家に帰った。

 家に帰るまで、謙作が結局直子を裏切る行為に及ばなかった理由を、こんなふうに書いている。

 

 謙作にはこれまでのそういう習慣から、それほど貞節である良心もなかったが、そういう事で、末松の前に妻を侮辱する事が何となく厭だった。妻を侮辱する事は間接に自身を侮辱する事だった。このむしろ主我的な心持からも彼はやはり帰ろうと思った。間もなく俥(くるま)をいい、寒い風の吹<往来を遥々(はるばる)衣笠村の方へ帰って行った。

 

 妻は裏切りたくないし、それを末松にも見られたくない。けれども、一番の理由は、妻を裏切る行為は、自分自身を侮辱する行為なのだ、ということ。どこまでも「主我的」(つまりは自己中心的)な謙作なのである。

 それにしても、煮え切らない謙作の心だ。やたらと指示語が多く、ぐだぐだとしたあいまいな表現で、イライラさせられる。それは、謙作の心のありかたをかえって端的に表しているともいえるだろう。

 帰宅する謙作と、迎える直子と仙のを描く段となると、うって変わって簡潔、明快な表現となる。こうした切り替えが実に見事だ。

 

 二時を過ぎていた。椿寺の前で俥を乗捨てると、一町余りの路を彼は走った。そして家の十何間か手前まで来て、走るのを止めると息を切りながら彼は何気なく咳をした。その咳で直子が急いで茶の間を出て来るのが女中部屋の硝子窓を透して見られた。
 「婆ァや。旦那様がお帰りだよ」こう大きな声でいうのが、彼の所には遠く小さく聞こえて来た。
 謙作は門を開ける間(ま)も待たず、苗木のまばらな、まだ低い要冬青(かなめ)垣を跳び越えて入って行った。
 台所口を開け、直子が飛び出して来た。
 「ああ、よかった、よかった」といい、直子は両手で《とんび》の下の手を探し、それを握り締めた。
 「寝ていればいいのに」
 茶の間へ来ると直子は直ぐ前へ廻り二重廻わしのホックやボタンを忙しくはずしながら、
 「私ね、貴方(あなた)が路で倒れていらっしゃるかと思ったの……」といった。
 「奥さんのまた、阿呆らしい事をおいやす」と次の間から仙がいった。
 「婆ァや、本統だよ──婆ァやにそういわれるんですけど、本統に心配しましたわ。まあ、よかった、よかった」
 「馬鹿だね。俺が行倒れになってると思ったのか」彼は笑った。
 「そうよ」
 「一時頃にこれから尋ねにいて見よう仰有(おっしゃ)って……そんな事したかて、何所(どこ)へおいきやしたも知れへんのに」仙は次の間で茶を淹れながら笑った。
 「もう茶はいいよ。早く寝るといい」謙作は直ぐ寝間着に更え、寝室に入った。直子は彼の着物を畳みながら、妙に亢奮(こうふん)していた。そして「よかった」という言葉を頻(しき)りに繰返しながらよく笑った。謙作は枕に頭をつけ、その方を向いてその晩の話をしたが亢奮している直子はそれを聞こうともしなかった。

 

 直子と謙作の言動も生き生きと描かれているが、注目すべきは仙である。志賀の京都弁の再現の緻密さは、杉本秀太郎のお墨付きだが、ほんとうに、仙の言葉は生き生きとしている。

 「手を握り締める」場面が、3回出てくる。手を握る相手は、1回目は直子、2回目は芸者、そして3回目はまた直子である。そして、それぞれの場面が、握る者、握られる者の気持ちのありようを反映していて、その3回に描かれる心情が、響き合っている。芸者の手を握るとき、謙作は直子の手を思う。帰宅した謙作の手を直子が握るとき、謙作は、芸者の手を思う、というように。

 「謙作は枕に頭をつけ、その方を向いてその晩の話をしたが亢奮している直子はそれを聞こうともしなかった。」とあるのが問題である。

 直子は、なぜ謙作の帰りがそんなに遅くなったのかの見当はついているだろう。だから、ほんとうは、ふて腐って寝てしまっていてもいいし、帰った謙作をなじってもいいのだ。しかし、直子は謙作の無事だけをひたすら喜んで、亢奮している。そのあどけない直子を見て、謙作は「その晩の話」をしたのだろうが、いったいどこまで話したのだろう。裏切らなかったのだからという安心感で、手を握った、ということまで話したのだろうか。

 直子の無邪気にみえる喜び方は、実は、自分の不安や嫉妬を忘れるための偽装であるのかもしれない。直子が謙作の「その晩の話」を「聞こうともしなかった」のは「亢奮していた」からではなくて、聞きたくなかったからではないのか。「聞かないための亢奮」だったのではないのか。

 そういう疑念を読者は持つが、作者はそこを書かない。書いてないからといって、ここでの直子の喜びを、純粋な「よかった」だけで、済ますわけにはいかない。山で遭難した亭主が、無事に戻ってきたのなら、それでいいかもしれないが、芸者遊びをして(あるいはしかかって)深夜に帰宅した亭主である。「よかった」だけで済むはずはないのである。

 しかし、志賀は頑として書かない。その後日談もあらばこそ、この「十五」章は、これで終わってしまう。そのため、「聞こうともしなかった」直子の心情が、余韻としていつまでも残るのだ。

 そして次の章「十六」は、「謙作夫婦の衣笠村の生活は至極なだらかに、そして平和に、楽しく過ぎた。」と始まる。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 124 見事すぎる描写 「後篇第三  十六」 その1 2023.2.10

 

 

 謙作夫婦の衣笠村の生活は至極なだらかに、そして平和に、楽しく過ぎた。が、平和に楽しくという意味が時に安逸に堕ちる時に謙作は変な淋しさに襲われた。そういう時、彼は仕事をよく思った。しかし彼にはまとまった仕事は何も出来なかった。前に信行を介して話のあった雑誌社からの催促も受けていたが、それが出来なかった。

 

 「変な淋しさ」は「安逸」からやってくる。「平和」で「楽しい」生活は、作家にとっては大敵なのだろう。田山花袋も、「東京の三十年」の中で、作家になってからの自分の生活の安定によって「書けない」状況に陥ったことを嘆いている。自然主義の作家は、家庭の不幸を肥やしに小説を書いてきたようなものだとも言えないこともないわけだ。

 尾崎一雄だったか、書けないと悩んでいたら、妻が、それなら私が死にましょうか? と言ったとかいう逸話もどこかで聞いたような気がする。

 相変わらず末松とはよく会って、花札をやったりしたが、あるとき、以前、直子のズルを疑ったのと同じ場面に出くわし、ああ、直子はあのとき、決してズルをしたのではなくて、見誤ったのだと納得した。しかし、そのことを、直子には言わなかった、とある。

 単なる間違いだったと納得したとはいえ、やはり、謙作は直子の「ズル」に傷ついていたのである。それがけっこう尾を引いているのが、なんとなく嫌な感じがする。それだけにリアルでもある。

 時は過ぎた。

 

 舞台では 二月、三月、四月、ー四月に入ると花が咲くように京都の町々全体が咲き賑わった。
 祇園の夜桜、嵯峨の桜、その次に御室の八重桜が咲いた。そして、やがて都踊、島原の道中、壬生狂言の興行、そういう年中行事も一卜通り済み、祇園に繋ぎ団子の赤い提灯が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した楠の若葉がもくりもくり八坂の塔や清水の塔の後ろに浮き上がって眺められる頃になると、さすがに京都の町々も遊び疲れた後の落ちっきを見せて来る。
 実際謙作たちも、もう遊び疲れていた。そして、謙作はその頃になって直子が妊娠した事を知った。

 

 相変わらず見事な筆の運びだ。

 京都の町の季節の推移が、年中行事によって綴られ、そのあとに、自然描写がくる。とりわけ、「東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した楠の若葉がもくりもくり八坂の塔や清水の塔の後ろに浮き上がって眺められる頃」という表現は、いかに志賀直哉が自然をよく観察し、また愛していたかが伝わってくる。

 「赤味の差した楠の若葉がもくりもくり」は、楠をちゃんと見てないと書けないところだ。そうした「自然の充実」は、「直子の妊娠」を自然に導きだしてくる。それと同時に、年中行事、自然の推移の中で、謙作と直子の夫婦生活も、若々しくなされていたことにも気づかされるのである。まあ、「気づく」というのも、変だが。

 というのも、前回の最後に、芸者のところから夜遅く帰ってきた謙作を迎えた直子が「亢奮」していたという場面で、ぼくは、それは直子が自分の嫉妬を抑え込むための「偽装の亢奮」だったのではないかと書いたことに対して、古くからの友人が、直子が亢奮していたのは、謙作が芸者と遊んでいることを想像しているうちに、自らの性欲を抑えがたくなったがためであろう。だから、謙作が帰ってきて、その欲望を開放することができたはずだ、とメールしてきたからだ。

 彼は、ぼくの「解釈」を「論理的」だといちおう褒めてくれたけれど、やっぱり、「書かれていない」部分がどうだったかは、彼のほうが「正しい」ような気がしていたのだ。その「正しさ」は、この直子の妊娠の描き方から考えてみても、やっぱり証明されるのではないかと思う。「解釈」はむずかしい。しかし、おもしろい。

 六月、七月、それから八月に入ると、よくいわれる如く京都の暑さはかなり厳しかった。身重の直子にはそれがこたえた。肉附のよかった頬にも何所か疲れの跡が見られ、ぼんやりと淋しい顔をしている事などがよくあった。丁度国から直子の年寄った伯母が出て来て、それからは謙作もいくらか気持に肩ぬけが出来た。伯母は大柄な、そして顔に太い皺のあるちょっと恐しい感じのする人だった。が、如何にも気持の明かるい、それに初めて来た家のようになく総てを自由に振舞い、謙作に対しても、それを包むような子供扱いをする所が、実の伯母であるかのような親しい感じを謙作にも起こさせた。
 余りの暑さに謙作は避暑を想い、この気のいい年寄りと三人で何所(どこ)か涼しい山の温泉宿に二、三週間を過ごす事を考えると、子供から全くそういう経験がなかっただけに、彼にはそれが胸の踊るほどに楽しく想像された。
 彼は直ぐこの思いつきを二人に話さないではいられなかった。
 「どうですやろう」伯母は何の遠慮もなくいった。「今汽車に乗せたら障(さわ)らんかな」
 「まだ大丈夫でしょう」謙作は答えた。
 「いいや。そら、この位の暑さは別に障るまいが、それより動かさんがいいやろう。お湯でお腹の児が育ち過ぎても困るしな」  折角の思いつきもこの反対でそれっきりになった。直子の淋しくぼんやりしているような事も少なくなった。月見、花見、猪鹿蝶、そういう旧いやり方の花合せなどをして遊ぶ事もあった。伯母は一卜月ほどいて帰って行った。 

 

 以前、女中の「仙」の描き方が素晴らしいと書いたことがあるが、この「伯母」の描き方もまたいい。たった128文字で(数えてみた)、一人の人間の外貌と内面をくっきりと描き出す。名人芸のクロッキーだ。

 「大柄な、そして顔に太い皺のあるちょっと恐しい感じのする人」は、まるで、「となりのトトロ」に出てくるバアサンみたいだが、外貌はそれで十分に伝わる。その内面は、「気持ちの明かるい」は平凡だが、「初めて来た家のようになく総てを自由に振舞い、謙作に対しても、それを包むような子供扱いをする」という叙述で、まるで身近なオバサンのように、謙作でなくとも親しみを感じるだろう。

 妊娠中の直子の「ぼんやりと淋しい顔」も印象的だし、温泉に行くことを子どものように胸弾ませる謙作の気持ちも面白い。そして何よりも、その温泉行きを、伯母さんに即座に否定されて、一言の抗弁もできない謙作のがっかり感がよく伝わってくる。そして、さっさと伯母さんを退場させる手際も水際立っている。

  九月に入ると、直子も段々元気になり、謙作がおそく二階の書斎から降りて来ると、電燈の下に大きな腹をした直子が夜なべ仕事に赤児の着物を縫っている事などがあった。
 「可愛いでしょ」
 一尺差しの真中を糸で釣った仮の衣紋竹(えもんだけ)に赤い綿入の《おでんち》を懸け、子供の立った高さに箪笥(たんす)の環(かん)から下げてある。
 「うむ、可愛い」
 謙作は其所(そこ)にそういう新しい存在を想像し、不思議な気がした。それは不思議な喜びだった。肩上げにくびられ、尻の辺りが丸くふくれている所が後向きに立った肉附きのいい子供をそのままに想わせた。
 「あなたは本統は何方(どっち)がいいんだ? 男がいいか、女がいいか」自分でもそんな事を思いながら謙作は訊いてみた。  「そうね。何方でも生れた方がいいのよ。どうも、こればかりは神ごとで仕方がないのよ」直子は貫(と)おした糸を髪でしごきながら済まして答えた。
 「伯母さんがそういったんだろう」謙作は笑った。それに違いなかった。
 赤児の着物は国の母親の縫った物が何枚も届いた。伯母からも洗(あらい)ざらした単衣(ひとえ)で作った襁褓(むつき)が沢山に来た。
 「まあ、きたならしい物ばっかり」その小包を解いた直子は予期の違った事から顔を赤くしながらいった。「羞(はず)かしいわ。こんなもの……」  
 「勿体(もったい)ない事おいやす。こういうものは何枚あったかて足りるものやおへんぜ。きたならしいいうて、そない洗晒(あらいざら)したんでないと、ややはんには荒うてあきまへんのどっせ」
 「これはあなたが着てたんだろう?」謙作にはこういう荒い中形を着ていた時代の直子が可愛らしく想い浮んだ。
 「そうよ。だから羞かしいのよ。いくら田舎でもこんなになるまで着てたかと思うと。伯母さんも本統に気が利かない」
 直子がそう腹立たしそうにいうと、仙が傍(そば)から、
 「奥さん。御隠居はんなりゃこそどっせ……」と多少厭やがらせの調子にいって笑った。

(注 おでんち=ちゃんちゃんこ)

 

 褒めてばっかりで気が引けるが──「名作」なのだから、褒められて当然とは思うが、一方では「暗夜行路」なんてくだらない小説だとする識者も意外に多いので、褒めることをためらいたくない──それにしても、こういった「リアル」なシーンを、志賀はどうして書けるのだろう。こういうことを、頭の中だけで考えて書けるとはとうてい思えない。

 衣紋竹にかけた「おでんち=ちゃんちゃんこ」を見て、そこに生まれてくる子どもの肉体を想像して「不思議な気がした」というあたりも、実感があって、きっと志賀がどこかでそういう実感を持ったのだろうと思わせる。

 古着で作ったオムツを田舎から大量に送られてきたのを見て、直子が恥ずかしがるあたりも、フィクションではとうてい書けそうもないことで、実に細やかな実感がある。

 そしてまた「仙」である。この仙の言葉によって、直子や伯母さんの輪郭がくっきりするような印象がある。見事としかいいようがない。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 125 スッキリしない関係 「後篇第三  十六」 その2 2023.2.24

 

 

 直子のお産は、10月末か11月初めということで、直子の母親が出てこられないようなら、病院ですることに決めた。

 そんなある日、ふいに信行がやってきた。相談があるというのだ。

 

 「実はお栄さんの事なんだがね。──今、お前の所に三百円ばかり金あるか?」
 「あるよ」
 「そうか、そんなら早速それだけでも送ってやるかな」
 「どうしたんだ」謙作はお栄が少しも自分の方に相談せず、信行にばかり頼るような所が、そうする気持は解っているが、ちょっと不満に感ぜられた。
 「お才かね、あの女はお前もいっていたが、やはり、本統の親切気はなかったらしいんだね。お前の方には知らさなかったそうだが、この六月からお栄さんはもう天津にいなかったんだよ。何でもそれから奉天の方へ暫く行っていて、今は大連にいるんだ」
 「何をしているんだ」
 「何にもせずに印判屋の二階で近所の小娘を使って自炊してるんだそうだ。──それはいいが半月ほど前に泥棒に入られて今はほとんど無一物になっちまったというんだがね」
 「君の所へそういって来たのかい?」
 「一昨日そういう手紙を貰った」
 「馬鹿だな! そんならさっさと帰って来るがいいんだ」謙作は何という事なし苛々していった。

 

 謙作はいつもお栄に対してはイライラしている。お栄に対する気持ちが完全にはふっきれていないのだ。

 新婚の身である自分に、お栄が相談を持ちかけることを遠慮していることは分かっていても、お栄が信行を頼っていることが「不満」だなんて、子どもっぽいにもほどがある。

 このお栄という存在は、「暗夜行路」という小説にとって、実に重要な存在で、ことがお栄にからんでくると、どうもスッキリしない展開となる。実の父(祖父だと思っていたのに、実は父だった)の妾であり、謙作の幼い頃からの母親代わりという、まあ、あり得ないような関係であるうえに、謙作がそのお栄と結婚したいと思い詰めたが、諦めざるを得なかったという、更にあり得ないほど「スッキリしない」関係のお栄であるから、話の展開だって、どうしてもスッキリするわけがないのである。

 「馬鹿だな! そんならさっさと帰って来るがいいんだ」という謙作の言葉には、お栄に対する愛情がにじみ出ている。それを謙作が気づいていないかのように、「謙作は何という事なし苛々していった。」と志賀は書く。

 

 「俺もそう思うよ。だけど、その印判屋にも少し借りがあるらしく、直ぐも動けないような事が書いてあったからね。旅費とも三百円あったら足りるだろうと思ったが、生憎(あいにく)俺の所に今まるで金がないんだ。自家(うち)から貰ってもいいが、その事を今ちょっといいたくないからね。もっとも、それだけでわざわざ出て来るほどの事もないが、今度寺で庫裏の修築をやるんで寄附金を集めてるんだ。──此所(ここ)の管長は絵かきだって?」
 「絵かきでもないかも知れないが、とにかく白木屋あたりで、時々見るよ」
 「なかなか高いそうじゃないか。寄附代りに五、六枚描いてもらうんで、それを頼みに行く使を《うち》の和尚に頼まれたんだよ。まあ、そんな事もあるんで急に出て来た」

 

  信行が、いきなり300円ばかり金があるか? と聞いてきたとき、謙作は即座に「あるよ」と答えたわけだが、今の金で、だいたい20万円ほどだ。その程度の金は、謙作には考えなくても「あるよ」と答えられるわけで、まあ、一般庶民とはほど遠いということだろう。今ぼくが「20万あるか?」と聞かれれば、「あるよ。」とは答えることはできるが、それを出せとか、貸せとか言われるに決まっているので、「ない」と答える可能性が高い。実際に、そんな金、おいそれとは貸せないし、出せない。

 謙作は「ある」のに、信行には「ない」。「まるで金がない」という。勤めをやめてしまったからだろうが、暢気なものである。寺の寄付帖に、金を出してないのに金額を書いてしまうというおおらかさ(あるいはいい加減さ)が後で出てくるが、信行という男も不思議な男である。

 

 「お栄さんは無一物になったというだけで、別に心配な事はないんだね」
 「瘧(おこり)を病んでいるといって来たが、瘧といえばマラリヤだね。あんな所でもそういう病気があるのかね」
 「それは何所だってあるだろう。しかし別に危険な病気じゃないだろう?」
 「大した事ではないらしいよ。そうだ、その瘧で、薬を呑む時間を間違えたために、それがおこって苦しんだ挙句、すっかり疲れて、うつらうつらしていると、暑いんで夜でも開け放しておいた窓から支那人が二人入って来るのをぼんやりと見てたんだそうだよ。例の東京で買い集めた芸者の衣裳が三行李(こうり)とかあって、それを部屋の隅に積んでおいたんだね。つまりそれを資本に、また同じ商売を何所かでやる気だったらしい。それをすっかり持って行かれたんだ。泥棒だなと思いながら、あんまり疲れているんで、そのまま眠っちまったんだそうだ」
 「泣っ面に蜂だね」しかしまたお栄と会える事が謙作には妙に嬉しい気がした。彼は我知らず快活な気分になっていた。
 「しかしそれで早く帰って来れば大難が小難みたようなもんだ」
 「そうかも知れない」信行も一緒に笑った。
 元々謙作はお栄の支那行きには不賛成だったのだ。間に入った信行の話が不充分で、それがお栄まで徹しなかったのである。しかし今案外早く帰って来る事を知ると、「そら、見た事か」とでもいって、手を差しのべてやりたいような気持になっていた。

 

 謙作がお栄にイライラするのは、未練からだけではなさそうだ。このお栄に起きた出来事は、なんともヘンテコだ。マラリアの薬を飲み間違えて、ぼんやりしている所に泥棒が入ってきたのに、「ああ、泥棒だあ。」と思いつつ、眠ってしまうなんて、いくら薬が効いていたからといって、あまりにとろい。(「とろい」なんて言葉は死語かもしれないが、ここではぴったりくる。)

 お栄は全財産を盗まれてスッカラカンになってしまったのに、それを聞いて「泣っ面に蜂だね」と冗談を言える謙作も、ことの重大さを感じていない。300円で済むことだからだ。そんな金はいくらだって出す。それでお栄が帰ってくるなら、御の字だ、といったところだろう。

 「しかしまたお栄と会える事が謙作には妙に嬉しい気がした。彼は我知らず快活な気分になっていた。」とか、「「そら、見た事か」とでもいって、手を差しのべてやりたいような気持になっていた。」とか、はずむような謙作の気持ちが率直に描かれていて、ほほえましい。

 しかし、そのほほえましさの陰で、直子の気持ちがどうなのかという思いが拭いきれない。謙作は、直子の感情を想像するだろうか。

 信行は、寺への寄付を謙作にも求める。

 

 「どうだい。お前も少し寄附しないか」こういって信行は角張った手提鞄の中から、袈裟の古布か何かを表紙にした鳥の子紙の帳面を出した。
 謙作はそれを取上げて見た。「二百円、──二百五十円──三拾円──拾円、五百円、── なかなか大きいんだな。百五拾円、──これが君か」
 「金がないから、払わないんだ」
 「払わずにただ書いておくのかい」
 「そりゃ何時か払うよ、ある時に……」信行は笑った。
 「お兄様。いくらでもよろしいの?」傍(わき)から直子がいった。
 「ああ、いくらでもいいよ。二円でも三円でも」
 「そう? そんなら私五円奉納しますわ」
 「それは、ありがとう。早速これへ書いておくれ」
 直子は箪笥の上の硯箱を持って来て、
 「貴方は?」といった。
 「あなたがすればもう沢山だよ。僕は寺なんかがよく保存される事は大賛成だが、自分が寄附するのは不賛成だよ。そういう事はもっと政府で金を出すのが本統だよ」
 「猾(ずる)いのね」
 「猾かないさ。しかしいくらでもいいなら、僕は十円だ。一緒に僕のも書いてくれ」
 謙作は人並はずれて字が下手だった。殊に毛筆で書くと自分でも下手なのに感心した。そして彼に較べれば直子の方が遥かに人並である所から、近頃は筆の字は大概直子に代筆さす事にしていた。
 「いや、ありがとう」信行は墨の乾くのを待ってその帳面を手提にしまった。

 

 このやりとり、おもしろい。志賀直哉という人がよく出ている。寺の保存は大賛成だが、自分は金は出したくない。政府がやればいいんだ。というのは、なかなか筋が通っている。しかし、直子に「ずるい」と言われると、なにを! と思って、直子の倍額を寄付する。合理主義者のエゴイストで負けず嫌い。

 戦後間もなく、志賀直哉は、国語はフランス語にしたほうがいいというような、びっくりするようなことを言って世間を驚かせたが、それもこの延長線上にあるのかもしれない。
ちなみに、謙作は「人並はずれて字が下手だった」とあるが、志賀直哉自身は、決して悪筆ではない(と思う。)

 最後の引用文、「信行は墨の乾くのを待ってその帳面を手提にしまった。」は、なんの変哲もない文章のように見えるが、普通なら「信行はその帳面を手提にしまった。」と書いてしまうところ。ちゃんと「墨の乾くのを待って」を入れるあたりは、志賀らしい細やかさが際立つ文章だ。こう書くことで、信行のいい加減にみえて、案外几帳面な性格をサッと描き出している。毎度のことだが、感心してしまう。

 

 

 


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