志賀直哉「暗夜行路」を読む (11) 97〜104

後篇第三 (七)〜(九)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 97  「汽車」と「電車」 「後篇第三  七」 その1 2022.2.6

 

 

 お才は、翌朝、故郷の岐阜へ用があるらしく出かけていった。

 その日の午後、謙作は、鎌倉に住んでいる兄の信行を訪ねた。そこには、石本がいて、信行は風邪をひいていた。信行は熱があるらしく、目がとろんとしているので、謙作は心配になって、「本郷」へ連絡してみたらと聞いてみたが、二三日こうしていれば治るというので、「吸入器」だけ買ってきて、大家のおかみさんに後を頼み、石本と東京へ向かう汽車に乗った。

 

 汽車の中では、謙作は一人ぼんやりと薄暮の景色を眺めていたが、気が沈んで仕方がなかった。やはりお栄と別れる事が淋しかったのだ。 自身のためにも淋しかったが、お栄のためにも淋しい気がした。窓外の薄暮が彼を一層そういう気持に誘っていた。

 

 「後篇第三  六」は、これで終わり、「七」へと進む。

 

 謙作は近く別れねばならぬお栄と一緒にいながら、今までにない一種の気づまりを感じた。こうしている事もそう長くないと思うと、彼はなるべく外出もひかえるようにしているのだが、それが不思議に気づまりで、かつ退屈でかなわなかった。第一、一緒にいて、話の種が急になくなったような気がした。お栄の方は、しかし忙しかった。その忙しさからそういう気持には遠いらしく見えた。  お栄は女らしい心持で、謙作の着物は一つでも汚れたものを残したくなかった。それらを洗張りにやり、縫直し、それに余念なかった。

 

 謙作とお栄との関係は、「恋人」でもなければ「親子」でもない。実に不思議な関係だ。鎌倉から東京へ向かう汽車の中で謙作が感じた「淋しさ」は、親しい人との別れの淋しさには違いないが、かといって、その人とずっと一緒に暮らしたいという気持ちでもない。

 現に、こうして残りわずかな同居生活は、なんともいえない「きづまり」を感じさせる。急に話の種がなくなり、気づまりのうえに、退屈でもある。まあ、そういうことってあるんだろうなあとは思う。「恋愛」とは明らかに違う、「親愛の情」、それも、「肉親」に限りなく近い情愛。そんなものなのだろうか。

 

 ある朝、謙作はいつになく早く眼を覚ました。彼は理(わけ)もなく変に落ちつかない気持になって、朝の食事もせずにそのまま自家(うち)を出た。停車場へ来たが汽車までは時間があるので、京浜電車の方へいって乗った。そして品川まで行くその間に彼はふと、明け方夢を見ていたという事を憶い出した。そしてその夢が彼の落ちつかない気持の原因だった事は分ったが、それを思い出そうとすると、不安な気持だけが、はっきりしていて、どういう夢だったか、その事実の方はかえってぼんやりしていた。

 

 ここに出てくる「京浜電車」というのは、今の京浜急行のことだ。1898年に設立された「大師電気鉄道株式会社」は、1899(明治32)年に、川崎駅(後の六郷橋駅)から大師駅(現在の川崎大師駅)の営業を開始し、社名を「京浜電気鉄道株式会社」に変えた。これが現在の京急の始まりである。その後、1901(明治34)年には、「大森停車場前駅(現在の大森駅)」から、現在の「大森海岸駅」を経て、川崎駅までが開業している。「品川駅(現在の北品川駅)」が開業したのは1904(明治37)年。志賀がこの小説を書いていたころ(大正10年から断続的に、昭和12年まで。「後編」の前のほうは、大正11年ごろ)は、「京浜電車」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉へは「汽車」で行っていたが、こっちは「電車」なのだ。

 ここでふと思うのだが、志賀直哉の小説には、「鉄道」がよく登場する。この「暗夜行路」にしても、尾道までの汽車とか、鎌倉までの汽車や、京浜電車などが頻繁に出てくるわけだが、有名な「城の崎にて」は、「電車にはねられた」話である。その冒頭からして、「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。」である。初期の名作「網走まで」も、宇都宮へ行こうとして乗った、青森行きの「汽車」の中の出来事だ。また、「出来事」は、東京の路面電車に子どもが跳ねられた話。「正義派」の冒頭も、「或る夕方、日本橋の方から永代を渡って来た電車が橋を渡ると直ぐの処で、湯の帰りらしい二十一二の母親に連れられた五つばかりの女の児を轢き殺した。」だ。また「真鶴」では、弟を連れて夜の道をえんえんと歩いていく子どもの脇を「列車」が走っていくさまが印象的に描かれている。ちょっと引用しよう。

 

 夜が迫つて来た。沖には漁火が点々と見え始めた。高く掛つて居た半かけの白つぽい月が何時か光を増して来た。が、真鶴までは未だ一里あつた。丁度熱海行きの小さい軌道列車が大粒な火の粉を散らしながら、息せき彼等を追い抜いて行つた。二台連結した客車の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照して行つた。

 

 この「軌道列車」が散らす「大粒な火の粉」の印象は、初めてよんだ若い頃から今に至るまで、鮮烈さを失わない。

 「文学と鉄道」ということで言えば、ドストエフスキーの「白痴」の冒頭は列車の中。トルストイの「アンナ・カレーニナ」では、アンナは鉄道自殺をする。プルーストは眠れぬ夜に、遠くの汽笛を聞いている。岩野泡鳴の樺太への旅も鉄道がふんだんに出てくるし(しかも北海道の鉄道だ!)、萩原朔太郎は、汽車にのって、フランスを夢見、絶望の魂を抱えて汽車で故郷に帰る。啄木は、故郷の言葉を聴きに上野駅に行く。池澤夏樹の芥川賞受賞作「スティル・ライフ」には、京急が出てくる。

 「まあ、きりのないことだが、「鉄道と文学」なんて、アンソロジーがどこかにきっとあるんだろうな。

 

志賀直哉『暗夜行路』 98  「不安」の正体 「後篇第三  七」 その2  2022.2.21         

 

 謙作が見た夢というのは、こんな夢だった。

 

 何でも近頃南洋から帰ったTを訪ねた所から始まる。雨中体操場のような雑な大きな建物の中に、丁度曲馬団の楽屋に見る猛獣を入れた檻のようなものが沢山あって、その一つに何十疋という栗鼠くらいの小さな狒々(ひひ)が、目白押しに泊り木にとまっているのが、甚(ひど)く彼には面白かった。
 急に不安な気持に襲われると、そわそわとしてTと別れ、上野の博物館の、あの大きい古風な門 、あすこへ彼は逃がれて来た。遠巻に何人かの刑事が取り捲いている事が姿は見えないが分っているのだ。で、彼自身は反逆人という事になっている 。
 彼はそっと扉の陰から外を覗いていると日曜かなんぞのように兵隊が三々伍々、前を通り過ぎる。その一人に「君は脱営する気はないか」こう訊(き)いたらしい。直ぐ承知して二人は扉の陰で、急いで和服と軍服とを取りかえて着た。「これでいい」彼は思った。両方にいい事を考えたものだと思った。そしてその和服の兵隊と別かれ、彼は何食わぬ顔で、兵隊になり済まし、一人淋しい方へ歩いて行った。道幅の狭い両側が堤のようになった所へ来ると、駅長のような制服を着た男が前から来て、いきなり彼を捕えてしまった。忽ちに見破られたのである。見破られるのも道理、彼は自分で気がつくと、軍服の着方が全然いけなかった。襟のホックを一つもかけずに其所がだらしなく展(ひろ)がっている。それからズボンが、ずり下がり、誰れの眼にも借り着という事は直ぐ分かる。ひどい恰好をしているのである。彼は我れながら余りの不手際に苦笑し、同時に、捕えられた事に戦慄した。大体こんな夢だった。

 

  「暗夜行路」には、これ以前にも「夢」が出てきた。「夢」そのものもあるし、「夢から覚めたような」とか「夢のような」という比喩も多い。リアルな小説ではあるが、案外、「夢」が大事な役割を果たしているのかもしれない。

 この「夢」は、妙にリアルだ。いかにも夢らしく、「栗鼠くらいの小さな狒々が、目白押しに泊り木にとまっている」というなんとも珍妙なイメージもあるが、主要なテーマは「反逆」だろう。その「反逆」を隠そうとするのだが、たちまち見破られて捕まってしまう。それが謙作の「不安」の反映なのだろう。

 謙作は何に対して不安なのか。それは謙作自身にもよく分からない。その不安がはたして謙作だけのものなのか、それとも、謙作が生きる社会全体に広がっているものなのか。「檻」「捉えられた狒々」「刑事」「反逆人」「兵隊」「脱営」といったイメージは、やはり社会的な不安の反映にしか思えないが、それはまた謙作自身が抱える「落ち着かない気分」の反映でもあったわけだ。

 近くお栄と別れなければならないこと、そのお栄とまだ一緒に暮らしていること、そんな状況にいらだっていたのだろうか。朝起きたときの「落ち着かない気持ち」の原因がこの夢にあったのだと謙作は納得して、夢を思い出してよかった。そうでなければ、一日中いやな気分で過ごさねばならなかったと思うのだった

 「落ち着かない気持ち」の原因は夢であることは分かったにしても、その夢の原因が何であるかを謙作は追究しないところがおもしろい。

 謙作は、石本を訪ねた。

 

 

 石本は起きたばかりの所らしく、謙作は縁の籐椅子で石本の出て来るのを待っていた。少し秋めいた静かないい朝で、苔のついた日本風の庭に朝日が斜に差していた。軒に下げられた白い文鳥がちょっと濁ったような丸味のある声でしきりと啼き立てた。
  「御機嫌よう」石本の六つばかりになる上の娘が長く畳んだ三、四枚の新聞を持って来て彼に手渡した。すると、その下の二つか三つの肥(ふと)った女の児が、一束の手紙を持ってよちよちと歩いて来て、「はい。はい」こういって同じようにそれを彼に手渡した。
「ありがとう」彼はその児の頭をなぜてやった。
 上の児が駈けて行くと、下の児もよちよちと後から帰って行った。

 

 うまいものだ。朝のひとときの様子が、透明感をもって描かれている。

 「軒に下げられた白い文鳥」とあるが、もちろん軒に下げられているのは文鳥を飼う籠で、その中で文鳥が啼いているわけだ。

 漱石にも「文鳥」という小品があるが、昔はよく鳥を飼ったものだ。その趣味は、ぼくが幼いころまでずっと続いていて、ぼくの叔父などは、一時期、小鳥のブリーダーを仕事としていたことがあるくらいだ。主にジュウシマツや、セキセイインコだったが、そのほかの小鳥もたくさんいたように思う。

 小鳥の中でも文鳥は、格別に品がよくて、しかも「手乗り文鳥」としてかわいがられたものだ。その声を志賀直哉は「ちょっと濁ったような丸味のある声」と表現している。絶妙だ。小鳥の声をこんな風に表現できるひとは、そうはいないだろう。

 鳥といえば、ジュウシマツやセキセイインコなどのいわゆる「飼い鳥」だけではなくて、野鳥もずいぶん飼っている人が多かったが、メジロなどは、餌が「すり餌」で、なかなか大変だということもよく耳にした。叔父も飼っていたような気がするが、よく覚えていない。

 ヒバリを飼っている人も、近くにいた。このヒバリの籠というのは、ちょっと特殊で、ずいぶん背の高い籠だった。ヒバリは、まっすぐ空へ向かって上昇しながらさえずるので、そんな籠を使ったのだろうか。それとも、そんなのは、ぼくの記憶違いなのだろうか。

 もちろん、現在は、すべての野鳥の飼育は法律で禁じられている。

 今では、野鳥はもちろんのこと、鳥を飼っている人は少なくなった。その代わりに犬を飼う人が激増した。しかも家犬だ。ぼくが幼い頃には、犬を家に入れて飼っている人なんてまずいなかった。みんな家の外で飼っていて、番犬としていた。

 さて、元にもどって。子どもの描写も相変わらずうまい。上の児と同じように行動する下の児。よく観察している。

 

 彼は新聞を膝の上に置き、手を延べて、そのまだ開封してない石本への手紙を前のテーブルヘのせた。一番上になっている子爵石本道隆様としてある厚味のあるのが、S氏からのらしく、何となく彼にはそんな気がした。

 

 S氏からの手紙には、謙作の運命に関わることが書かれているはずだ。謙作の出生の事情まで先方に話したことを、先方はどう受け取るだろうか。それこそが謙作がずっと抱えてきた「不安」の正体だったのだと、ここで改めて気づかされるのだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 99 隠れた涙 「後篇第三  七」 その3 2022.3.6

 

 

  石本のところに届いた手紙は、やっぱりS氏からのものだった。

  水で綺麗に髪を分けた、石本が出て来た。
  「それはSさんからの手紙じゃないかしら 」  謙作は一番上のそれを指していった。
  「そう」石本は直ぐ取り上げ、「そうだ」といった。
  石本は黙ってそれを読み始めた。謙作はその僅かな間が待遠しい気がした。

 

 

 待ち遠しい謙作の気持ちが、よく伝わってくる文章だ。状況の説明に必要なことだけを簡潔に書いて、それで、その場の状況にとどまらず、人物の気持ちを的確に描いている。やっぱり志賀直哉は「名文家」なのだ。

 

 

 「いい返事だ」長い手紙を巻き返しながら石本がいう。謙作はそれを受取った。
 それは実際気持のいい手紙だった。女の人には大分年の異(ちが)った兄があり、母親があり、それらによく相談して返事をするという事だった。そして何よりも謙作を感動させたのは彼の不純な出生(しゅっしょう)に就いて、Nというあの老人がいった言葉で、「……それはその人物の問題にて、かえってそのため奮発する底(てい)の人物なればさような事は少しも差支えなきものと信ずる由(よし)申され候」とこう書いてあった事である。なお、謙作の最近の写真と、何か書いたものがあれば、それを早速送ってもらいたいと書いてあった。 「何しろ、年寄りにしてはよほど、解った人らしい」石本はその老人を讃(ほ)めた。
  「…………」謙作はそれに返事をしなかったが、腹の底では甚(ひど)く興奮していた。涙ぐみそうになるのを出来るだけ堪らえた。

 

 ようやく謙作の不安は払拭されたのだ。謙作がいちばん心配していた「不純な出生」について、Nという老人(つまり、川端から見かけた、女と一緒にいた老人)は、それは本人の問題だし、そのことでかえって「奮発」するような人間なら、ちっとも問題じゃないというのだ。謙作は、その言葉に、涙が出そうになるほど感激した。

 「年寄りにしてはよほど解った人」とあるが、確かに、年寄り、しかもそれが男であれば、なかなか頑固な人が多いものだ。それは今でもちっとも変わらないから、まして、当時のことなら、なおさらだろう。「頑迷固陋」といったジイサンたちが、ゴロゴロいたことだろう。孫の婿の候補者が、祖父の妾の子どもであり、しかも実の父に育てられていないだなどという、あり得ないような出生の者だと知って、別にいいんじゃないの、彼の責任じゃないんだし、そういう境遇にあってそれでよし頑張ろうって思って生きてきた奴ならかえって見込みがあるさ、などとは、なかなか言えないことだ。

 しかも、そういうことを言った人間が、「華族」と縁のある、いわば上流階級の人間ともなれば、いっそう珍しいとも言えるわけだ。いまだって、ちょっと血筋のいい人間なら、余計な外聞などを気にして、嫌がるところだ。とすれば「年寄りにしては」というよりは、ここは、「血筋のいい人にしては」という意味なのかもしれない。もっとも、Nという老人の、つまりは女の家系がどの程度のものであったかは、まだ分からないわけだが。

 この時の手紙が「巻紙」だということも、注目したい。巻紙に毛筆で手紙を書くということは、まだまだ普通のことだったわけだ。ぼくもここ10年ほどの間に、巻紙に毛筆という手紙を数人からもらったが、まだ現代でもそういう風流な人はいるのだと感激したものだ。

 謙作は、来客をしおに、石本の家を辞した。

 

 謙作は急ぎ足に歩いた。自然に急ぎ足になった。十中七分通りもう大丈夫だと考えた。そう決めていいと思った。むしろそう決めなければ駄目だと考えた。それほどに珍らしく彼は自信が持てた。そして、彼の頭ではその人が急に近くに来ていた。それまで東京へ帰ると同時にお栄の事が余計考えられ、その人の方は不知(いつか)遠退いた形であったが、今急にそれが近づき等身大に見えて来ると、結婚後の生活までが不意と断片的に浮んだりした。何時の間にか町には風が吹いていた。

 

 謙作の喜びが、「急ぎ足」によく表れている。

 「十中七分通りもう大丈夫だ」という思いは、案外控えめで、謙作はあくまで慎重だが、大丈夫だと「決めていい」「決めなければ駄目だ」と自分を励ます。「それほどに珍らしく彼は自信が持てた。」のだ。逆にいえば、謙作が今までどうしても自信が持てずに悶々として苦しんできたのは、ひとえにこの「出生の問題」があったからだったのだ。

 そこで「お栄問題」が、ぼくの中で、改めて浮上する。謙作がどうしていつまでもお栄にこだわるのか、そして、お栄と結婚することまで夢見るのかということが、どうも分からなかったが、ひょっとしたら、お栄は、この問題についてはほとんど当事者に匹敵するほど深く理解しており、何もかも初めから知っていたことが、謙作を安心させていたからではではなかったか、ということだ。

 謙作の結婚への、唯一の「逃げ道」は、お栄だったのではないか。赤の他人と結婚するには、この「出生問題」は、ハードルが高すぎたのだ。

 とまあ、ここでは、そう結論めいたことを述べておきたい。

 謙作は、この後銀座に赴き、お栄への餞別の品を探す。いろいろと考えたすえに、時計を購入して大森の家に帰ってきた。

 お栄は、S氏の手紙の内容を謙作から聞いて感動していた。

 謙作はその日奈良の高井にその後の事を知らす手紙を書いた。それからS氏へも礼手紙と、それから自分の写真と二、三冊の自分のものの載った雑誌とを送った。自分の作物が芸術品としてよりも、もっと実用的な目的で読まれるのだと思うと、余りいい気がしなかった。しかも、これが自分の芸術だといって見せるにしては、何れも貧弱な気が今更にされるのであった。

 

 自分の小説(雑誌に載っていたのは「小説」だろう)はあくまで芸術なのだが、それが「実用的な目的」つまりは、その作者の人間性を見極めるという目的のために読まれるということに謙作は「いい気がしなかった」というのは、なんでもないようなことに見えるが、案外大きな問題のような気がする。

 謙作(=志賀直哉)が書いた小説がどんなに「私小説」的なものであったにしても、それはあくまで「虚構」でもある。その小説に自然と作者の「人間性」がにじみでたとしても、作者本人からにじみでるものとは自ずと異なったものであるはずだ。だから、「この小説を書いた人間はいったいどういうヤツなんだろう」という意識で、小説を読まれることは、作者としては「いい気がしない」のも当然のことなのだ。

 謙作の手紙へのS氏からの返事は5日ほど後にとどいた。ことは順調に運んだ。その手紙のなかで、謙作は、その女の名前が「直子(なおこ)」だということを初めて知るのだ。もちろん、読者も初めて知ることになる。

 そのS氏からの手紙を、謙作はお栄に見せる。

 

 彼はその手紙をお栄に見せた。そして、
 「どうするかな」といった。彼は迷った。
 「ぜひいらっしゃい」とお栄はいう。
 「お目見得に行くようなものだ」彼は自分の作物を送って見せるさえ多少拘泥した所に、わざわざ自身そういう風に呼び出されて行く事が何となく自尊心を傷けた。
 「どうせ十日ほどしたら、行く所です。今更そんな事に拘泥るのはよくありませんわ。Sさんでも石本さんでも本気で心配していて下さるんですもの」
 「うん、……」それもそうだと謙作は考えた。そして行こうと思った。「しかし僕がいなくても、《あと》大丈夫ですか 」
 「何、いってるの……」とお栄は笑い出した。「此所へ来る時だって、何にも役に立たなかった癖に。 謙さんなんかいない方が、よほど邪魔にならなくっていい」
 謙作も笑い出した。
 「よろしい。それじゃあ、出掛けましょう。邪魔という事なら仕方がない」
 「ええ、邪魔邪魔」とお栄は謙作が案外素直に承知した事を喜んだ。
 謙作の家は一年以上借りる約束で、いくらか家賃が割引してあった。しかし今、一年経たぬ内に引き上げるとなると、その計算をしなければならなかった。毎月女中ばかりやっていたが、彼はそれをしに、自身山王の方の大家の家へ行き、ついでに電話を借りて、翌朝たつ事を石本へ知らせた。

                               注:《 》は傍点部。

 

 謙作とお栄の気の置けないやりとりが見事に描かれている。上質な映画のワンシーンのようだ。もちろんすぐに浮かんで来るのは、小津安二郎の映画だ。

 特にお栄の気持ちが痛いほど伝わってくる。明るく振る舞えば振る舞うほど、お栄の淋しさがそくそくと胸に迫るのだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 100 小説の力 「後篇第三  八」 その1  2022.3.16

 

 謙作が京都駅に降り立つと、S氏が出迎えにでていた。電報を打っただけなのに、そんなふうに出迎えてくれるとは思っていなかった謙作は、「小さい自尊心から色々拘泥していた自分」を恥じた。それは、自分の方から会いに出かけるのは、「呼び出されていく」ようで、謙作の自尊心を傷つけたからだ。育ちがいいんだね、やっぱり。

 翌日、N老人(これから会おうという女性の祖父)に会うこととなった。

 

 翌日約束の時間にS氏は訪ねて来た。そして二人は直ぐ近い東三楼へ行く事にした。
 謙作は余りに社交馴れない自分がいくらか不安でもあった。しかし前夜よく眠っていたし、気分はよかった。
 女中がS氏の名剌を持って入ると、何時も河原からばかり見ていた老人の細君が、その日は常よりいい着物を着て、玄関へ出て来た。
 「さあ、どうぞ」細い薄暗い廊下を先へ立って歩きながら、「えらい、むさくろしい所で……」などといった。
 一重羽織を着たN老人が河原の方を背にして、きちんと坐っていた。謙作はいつもの癖で袴も穿かずに来たが、それがちょっと気になった。
 「初めまして、……」老人は瘠せた身体に似合わぬ幅のある、はっきりした声を出した。
 「このたびはこちらにお住いやそうで……」こんな風にいわれると、謙作はただ、
 「ええ」と答える。後は大概S氏が要領よく続けてくれるのである。
 謙作は様子では窮屈らしくなっていたが、気持はもっとずっと楽だった。彼はN 老人がそれとなく自分をじろじろと見でもしそうに予想して来たが、そういう所は少しもなく、むしろそれを避けると思われるほどに見なかった。
 割りに質素な食事が運ばれ、女中でなく、細君自身お酌をして廻った。が、酒は誰れも余り飲まなかった。

 

  「東三楼」というのは、N老人と女が逗留していた宿で、その縁側に座っている老人と女を、謙作は河原から見て、女を見初めたわけである。

 今まで河原の方からしか見たことがなかった老人や細君を、今度は、逆の方向から見ている。「一重羽織を着たN老人が河原の方を背にして、きちんと坐っていた。」という描写は、シャープな映像だ。光の関係で、おそらくは顔も着物もシルエットめいているのだろうが、それがとても印象的だ。

 細君の着物が「常よりいい着物」だということも、謙作がどれだけ細密に河原から眺めていたかを思わせる。

 そして、それらの「反映」として、自らの着物が気になるのだ。

 「老人は瘠せた身体に似合わぬ幅のある、はっきりした声を出した。」という描写もいい。声というものは、時としてその人の人格まで表すものだが、「幅のある声」は、その人格の深み、そして「はっきりした声」は、その知性を感じさせる。

 老人が謙作を「じろじろ」見ることがないということも、その人格を見事に表現している。初めてみる、孫の婿となる男、それも不自然な出生を持つ男に対して「品定め」をするような態度を微塵も示さないということは、出来そうで出来ないことだろう。これは、いわば教養というものだろう。

 

 話は極く普通の世間話しかしなかった。山崎医学士の噂などが出た。敦賀の漁業の話から、昔は大概塩魚にして出したもので、それを貯蔵しておく倉が沢山あって、維新前の事、筑波山の武田耕雲斎一味のものが、東海道を通れぬため、北陸を廻って、京都へ入ろうとする所を、敦賀で捕え、その塩魚を入れる倉へとじ込めた事があるというような話を老人はした。日のささぬ、じめじめした倉で、それに塩気が浸込んでいるから、浪士の人たちは皆、《しつ》にかかり、それが身体中に弘まって、その様子が実に見ていられなかった。……
 「おい、ちょっとその袋を持って来い」N老人は謙作の背後(うしろ)の違い棚を指し、話を少時(しばらく)きった。
 「御免やす」細君は謙作のうしろを通り、その袋を取って老人の前へ置いた。古代紫という色が、実際いい具合に古びた羅紗の「火の用心」のような袋だった。老人は中から眼鏡や財布やマッチや小刀や磁石などを出してから、
 「この根付けが、その時の浪士で、佐々木重蔵という磐城相馬藩の男でしたが、世話になったというので、記念にくれた物です、……」こういってその袋を二人の前へ出した。
 「ははあ……」S氏はちょっと見て、直ぐ謙作へ渡した。水牛の角にしてはもっと肌理(きめ)の細かい割りに軽い質のもので、応挙の絵に見るような狗児(くじ)を四、五疋かためて、彫ってある。
 「その男なぞも話すと、なかなかしっかりした男でしたが、可哀想に寒さに向って、段々に、皆死んでしまいました」
 謙作は自分が一週間ほど前に見た夢を憶い起こし、自分の場合幾分、愛嬌味のある反逆人だったが、それでも覚めてまで変な恐怖が残った事を想い、そういう連中が暗い、じめじめした塩魚の倉で、全身《しつ》に悩まされ、寒さに向って一人一人仲間が死んで行くのを見ている時の気持を考えると、ちょっとかなわない気がした。
 最初その連中は福井に隠れていて、福井なら大丈夫のつもりでいたのを、そういう時代で福井でもはっきりした態度が取れず、おためごかしに領内を立退かせ、敦賀で捕えさしたのだという。
 「あの頃の事を考えると、この先どうなる事か、まるで、分りませんでしたからな」と老人はいった。  その日結婚の話は誰れの口からも出なかった。それは謙作にも気持がよかった。そしてS氏が帰りかけた時、老人は、
 「お近うござります。如何です」と謙作だけを止めた。
 謙作は老人の好意を嬉しく思った。それは普通のお世辞でなく、本統にもう少しいてもらいたいらしかったからで、謙作は残る事にした。

 

 N老人は、孫娘と結婚したいという謙作と直接会って、どういう人間かを確かめたかったのだろうし、謙作としても、自分の出生問題について、寛大な考えを示してくれたN老人に会いたいと思ったわけだろうが、実際的な問題は、結婚が成立するかどうかということだったはずだ。しかし、この「会見」で、結婚の話が「誰の口からもでなかった」。そのことを謙作は「気持ちがよかった」と感じる。

 結婚とはまったく関係のない、維新のころの経験談を、しかも、決して気持ちのいい話ではない経験談を、えんえんと話す老人に、謙作は親しみを感じたということだろう。しかも、その老人が、「会見」終了後も、残って話そうと誘ってくれた。それが謙作には嬉しかったのだ。

 老人が語る維新のころの経験は、それはそれで、おもしろい。読者もおもわず引き込まれてしまう。「朝敵」となってしまった、磐城相馬藩の武士たちの悲劇が、具体的に描かれていて、興味深い。志賀はこの話をどこから仕入れたのだろうか。

 老人の話というものは、ときに、いや、実にしばしば、とりとめのない繰り返しとなって、聞く者をうんざりさせるものだが、こうした体験談は、歴史そのものを「生」なものとして提示してくれる貴重なものであることもある。

 志賀直哉が、この話を、このN老人に語らせているのは、実際に聞いたからなのか、それとも、他で聞いた(あるいは読んだ)話を挿入したのかは分からないが、話の筋からすれば、こんなに詳しい話は必要ないわけで、「作品」としての「完成度」あるいは「純度」を高める要素にはならない。けれども、こういう「雑談」をはさみ込むことで、「作品」の「厚み」あるいは「深み」がでる。これから妻にしようとする女性の背後に、敦賀という土地と、明治維新からの時間の層が加わるからだ。

 小説というものは、「物語」だけで成り立つのではなくて、そこに、ある特定の「時間」と「空間」を閉じ込め、あるいは定着することによって成り立つのだろう。それは、作者が意識しようとしまいと、必然的にそういうことになる。それが、小説の、あるいは文学の、魅力であり、「力」なのだ。

         

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 101 小さな変化 「後篇第三  八」 その2 2022.4.2

 

 

 N老人たちは、翌々日、敦賀へ帰った。急にヒマになった謙作は、一週間先に来るお栄が待ち遠しく思い、それまでの無為な日が落ち着かない気がしたので、友人の高井を誘って、伊勢参りでもしようかと考える。

         

 翌日、それは気持よく晴れた日だった。彼は高井が何処かへ出掛けぬ内に行くつもりで京都を早く出た。そして奈良の浅茅ヶ原の茶店の離れにいるはずのその友を訪ねたが、高井は既に二、三日前、郷里へ引上げて、いなかった。謙作はちょっとがっかりした。彼は室生寺へでも行こうかと考えた。ただ、室生寺が何処で汽車を下り、どう行くのか、そういう事は精しく知らず、それを調べるのも億劫な気がし、で、やはり一番近い伊勢参りをする事にして、奈良では博物館だけを見て、直ぐ停車場へ引きかえした。

 

 室生寺へでも行こうかと思ったが、どういくのかよく分からないし、調べるのも億劫だというところが面白い。当時の奈良の交通事情はどうなっていたのだろうか。今なら、近鉄線を使えば、一度の乗り換えでいけるが、そんなに便利でなかったことは確かだろう。

 それにしても、室生寺より伊勢のほうが「近い」というのにはびっくりする。距離的にいえば、おそらく伊勢のほうが、室生寺より二倍は遠い。京都から伊勢まで、どのようなルートで行ったのか、調べてみたい誘惑に駆られるが、まあ、やめておこう。

 室生寺には何回か行っているが、「室生口大野」からは、バスで行かねばならず、今でも行きやすいところではない。それよりずっと「近い」伊勢に、ぼくは一度も行っていないというのも皮肉な話である。

 

 伊勢参りは思ったより面白かった。神馬(しんめ)という白い馬にお辞儀をさせられるという話を聴いていたが、まさかにそれは嘘だった。五十鈴川の清い流れ、完全に育った杉の大木など見てみなければわからぬ気持のいい所があった。それから古市(ふるいち)の伊勢音頭も面白く思った。
 芝居で馴染の油屋という宿屋に泊り、その伊勢音頭を見に行く事にしていると隣室の客が一緒に行きたいといい、食事も一緒にしたいからと境の唐紙(からかみ)を開け放さした。「丁度県会の方が暇になったものですから」こんな風に、その人はいいたがる人だった。鳥取県の人で彼より三つ四つ年上の人だったが、県会議員が、どの程度に自慢の種になる事か全く知らない謙作は県会が出るたび、気の毒なような軽い当惑を感じた。
 山陰に温泉の多い事、それから、何とかいう高い山が、叡山に次ぐ天台での霊場で、非常に大きなそして立派な景色の所だというような話をした。、

 

  「伊勢参りは思ったより面白かった。」というのは、行く前は、お伊勢参りで有名だって、どうせたいしたことはないだろうと謙作が思っていたということだ。そうしたどこか突き放したような態度は、謙作には、そしておそらく志賀直哉にはある。

 それはまた人間に対してもそうなのであって、鳥取の県会議員に対する、ひややかな観察にもそれが表れている。田舎の県会議員なんて、自慢になるものかという侮蔑的な気分が、「県会議員が、どの程度に自慢の種になる事か全く知らない謙作は県会が出るたび、気の毒なような軽い当惑を感じた。」という皮肉な表現となっている。

 だからその県会議員が口にした山も、「なんとかいう高い山」としか記憶に残らない。しかし、「叡山に次ぐ天台での霊場」であるということは、それがこの小説のクライマックスの場面として夙に有名な大山であることは明らかだ。

 その大事な「大山」の登場を、こんなささいな場面で、卑俗な県会議員の口から出た「なんとかいう高い山」という形で示すという、見事な伏線であろう。

 伊勢について述べられている「見てみなければわからぬ気持のいい所」というのが、やがて「大山」にも適用されるのだろうが、考えてみれば、ぼくらは、こうした「どうせたいしたことはないだろう」という先入観をいろいろな場所や、人に対して持っているものだ。現にぼくなども、その典型で、伊勢も、「どうせたいしたことはないだろう」ぐらいにしか思っていない。もし今後行ったとして「伊勢参りは思ったより面白かった。」と思うのだろうか。

 その県会議員や下座敷の客などと一緒に、「伊勢音頭」を見にいくことになった。

 

 染めたのか、くすぶったのか、とにかく、黒ずんだ、ひどく古風な座敷へ通された。深い大きな床を背にして、皆が段通(だんつう)へ直かに坐っていると、その前の三宝に番組ようの刷物と他に菓子か何かが積んであって、前三方は御簾をへだてて、やがて舞台となるべき花道ほどの廊下に向っている。
 「あなたは偉い、一人でこれを見ようとされたのだから」と鳥取県の人が謙作を顧みて笑った。謙作は別にそういう事は考えずにいたが、なるほどそういえばこの広い座敷に一人ぽつ然(ねん)としていて、十何人かの女が出て来たら、ちょっと具合の悪い事だったかも知れないと思った。
 下方(したかた)が四、五人坐り、太悼とも細悼ともつかぬ三味線を弾き出すと、木が入り、三方の御簾が上がり、電気がつき、廊下が一尺ばかりせり上り、それに低い欄干がつき、そして両方から四人ずつの女が出て来て、至極単調な踊りを、至極虚心に踊るのである。十五分位で済んだ。その単調な調子も、その余りに虚心な処も、それから、太とも細ともつかぬ三味線の悠長な音色も面白かった。それに時代離れのした座敷の様子も、総てが謙作にはよかった。これを一人でぽつ然と見ていたらなお面白かったかも知れないと考えた。

 

 なんとも面白くなさそうな「伊勢音頭」なのに、謙作は、「面白い」という。「鳥取県の人」がエライというけれど、それもそうかもしれないけど、これを「一人ぽつ然」と見るのも「なお面白かったかもしれない」と思う謙作。

 どこか対象を突き放した見方をする謙作の心に、どうやら、わずかながら、変化が生じているようだ。自尊心の塊で、なにかといえば、すぐに「不快」を連発していた謙作が、こんな、わけもわからない「伊勢音頭」に「面白み」を感じている。これは「小さな」変化だが、やがて「大きな」変化へと発展していくのだろう。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 102 「俺が先祖だ」 「後篇第三  八」 その3 2022.4.10

 

 

 

 謙作たちは、別の座敷に導かれ、もっと遊んでいけと勧められたが、残るものは誰もなく、宿に引き返した。

 翌朝、伊勢神宮の内宮から外宮をまわり、それなりに興じた。その後、京都へ帰る途中、ちょっと寄り道をした。

 

 二見から鳥羽へ行き、一泊して、京都へ帰る事にしたが、その帰途(かえり)、彼は亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一卜通り町を見て廻った。
 亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから、神社の建っている城跡(しろあと)の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

 亀山というところを、ぜんぜん知らなかったので、地図で調べてみたら、鈴鹿市の東にあった。その亀山が「東海道五十三次」にあることも知らなかったので、そもそも「東海道五十三次」ってどういう道筋なのかをちゃんと把握してないことに気づいて、また調べたら、なんと(と、いまさら言うのもオロカだが)、亀山は46番目だった。ちなみに、ちょっとWikipediaから抜き出しておくと、

43.四日市(よっかいち)三重県四日市市
44.石薬師(いしやくし)三重県鈴鹿市
45.庄野(しょうの) 三重県鈴鹿市
46.亀山(かめやま) 三重県亀山市
47.関(せき) 三重県亀山市
48.坂下(さかした) 三重県亀山市
49.土山(つちやま) 滋賀県甲賀市
50.水口(みなぐち) 滋賀県甲賀市
51.石部(いしべ) 滋賀県湖南市
52.草津(くさつ) 滋賀県草津市
53.大津(おおつ) 滋賀県大津市

となっている。

 ちゃんとした人は先刻承知のことなのだろうが、ぼくなぞは、品川から神奈川を経て戸塚、藤沢あたりを通って、浜松あたりまでは、だいたい把握していたけど、桑名あたりからは、ぼんやりとしか認識してなくて、てっきり、大垣の方へ行って、それから大津へ行くコースだと思っていたのだからお話しにならない。

 地図に印をつけていくと、伊勢から大津までは、鈴鹿山脈を突っ切って、ほぼ直線でつながっていることが確認できた。だからこそ、謙作は、「室生寺より伊勢のほうが近い」と感じたわけだ。

 謙作が見たいと思った広重描くところの「大きい斜面」というのも、今回初めて見た。(下に画像があります。)広重の五十三次の絵も、ぜんぶちゃんと見てはこなかったわけだ。その点、謙作(あるいは志賀直哉)は、エライものだ。

 亀山は、「亡き母」の郷里だということが、ここで突然出てきて面食らう。今まで一度もこの地名は出てこないのだ。なんでいきなり「亀山」なのか。なにか理由があるのだろうか。この後にはもう「亀山」は出てこないから、永久にナゾであろう。

 謙作は、そこで、「亡き母を思わせる」女に出会う。

 

 俥を鳥居の前に待たし、いい加減にその辺を歩いて見た。下の方に古い幽翠(ゆうすい)な池があり、その彼方(むこう)がまた同じ位の山になっていた。彼はその方へ降り、そして、急な山路をその高台へ登って行った。上は公園のようになっていて、遊びに来ている風の人は一人もいなかったが、身なりの悪い、しかし何処(どこ)か品のいい五十余りの女が一人、其処(そこ)で掃除をしていた。彼が登って行くと、その女も掃く手を止めて此方(こっち)を見ていた。その穏やかな眼差しが、親しい気持を彼に起こさせた。そして丁度亡き母と同じ年頃である事が、そして昔の侍の家(うち)の人であろうという想像が、彼に何かその女と話してみたいという気を起こさせた。

 

 なにか思わせぶりな展開である。先日終わってしまった朝ドラ「カムカムエヴリバディ」だったら、これはきっと何かの伏線で、その女が亡き母の妹とか親戚とか幼なじみとかになるところだろう。しかし、さすがに「暗夜行路」ともなればそうはならない。筋の展開でひっぱる小説ではないからである。まあ、当たり前だけど。

 

 「此所(ここ)は……」こんな事をいいながら彼は近寄って行った。「やはりお城の中ですか?」
 「そうでござります。こちらは二の丸で、あちらが昔の御本丸でござります」そういって女の人は神社のある方を指(ゆびさ)した。
  「昔、此所にいた人で佐伯(さえき)という人を御存知ありませんか」
 「佐伯さん。御旧臣ですやろ」
 「そうです」謙作はわけもなく赤い顔をしながら、「佐伯新(しん)というんですが、丁度あなた位の年です」謙作は当然「知っている」という返事を予期しながら少し焦(せ)き込んでいった。 「はあ──」とその女の人は呑込めない顔をして首を傾けた。「お新さんといわれたお方はよう覚えまへんが、お金さんとそのお妹御でお慶さんといわれるお方はよう存じとりますが」
  「女同胞(きょうだい)はないのです。──多分なかったんだろうと思うんです。もっと他にありませんか、佐伯という家は……」
 「さあ、どうですやろ? 私どもの覚えているのは御維新(ごいっしん)から後の事ですよって、他(ほか)土地へ出られたお方やと存じませんのやが、今申しました、佐伯さんでお訊ねやしたら、大方知れん事もござりますまい」
  結局謙作の予期に外れた。それに彼はそういう機会もなく、母の幼時の事などをまるで知らなかった。母が何時(いつ)から東京へ出て来たのか、母方の親類にどういう家があるのか、第一母の父の名さえ彼は知らなかった。「芝のお祖父様(じいさま)」で事が足りていたので、その祖父を自家(うち)の祖父よりも心から尊敬し愛していたにもかかわらず名を知らなかった。
 女の人はこの土地の佐伯という家(うち)を教えてくれたが、彼は別に行く気もなく、礼をいって別れた。彼は自分が余りにそういう事を知らなかった事を──知る機会が自分にかった事を今更に心附いた。
 夕陽が本丸の森を照らしていた。《ぬるで》だけがもう紅葉して青い中に美しく目立っていた。 「しかしそれでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ」こんな事を思いながら、彼はうるさ<折れ曲がる急な山道を、既に秋らしく澄んだ池の方へ、トントンと小刻みに馳け降りて行った。

 

 「総ては自分から始まる。俺が先祖だ」という謙作の言葉は、これまでの物語の流れの中での「画期」となるだろう。

 旅の途中で、自分の祖先のことを急に知りたくなって、母の郷里に立ち寄り、実家のことを尋ねてみるが、期待外れに終わるという展開は、この「俺が先祖だ」を導き出すためのものだったと言えるだろう。

 自らの出生にさんざん苦しめられ、最初の結婚話も訳の分からぬ拒絶にあい、挙げ句の果ての放蕩三昧。不自然とは知りつつ、やるせないお栄への愛による苦悩とその挫折。すべては、自分の出生のあまりに非常識なあり方ゆえだった。それにもかかわらず、自分が尊敬してやまなかった母方の祖父、その血筋を知ろうともしなかったのは、どうしてなのか。そちらに「救い」をどうして求めなかったのか、それはよく分からない。しかし、そんなことを知ったところで、果たしてなんの「救い」になっただろうか。「過去」は、もう、謙作にとっては、どうでもよいことなのだ。まして、どのような家に生まれたのかなぞ、これから生きるうえでは何の役にもたたないのだ。俺は俺の考えで生けばいい。謙作はやっとそのように思えるようになったのだった。

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 103 苦しい夜 「後篇第三  九」 2022.5.8

 

 

 京都へ帰ってくると、石本が来ていた。結婚話は、いい具合に進んでいるらしい。

 石本からの報告を聞いて、謙作は、素直に石本に礼を言えた。そういう自分の変化に少し戸惑っているような謙作である。

 謙作は京都で住む家をみつけていたが、そこに荷物も届いた。

 

 先発の荷が着いたので、謙作は人を頼み、入る家を掃除させ、其所で荷造りをほごさせた。
 福吉町(ふくよしちょう)以来の女中は暇を取る事になったので、彼は代りを宿に頼んでおいた。そして間もなくそれが見つかり、その日も謙作から知らせたわけではなかったが、手伝いに来ていた。瘠せた婆さんで、引込んだ眼や、こけた頬や、それが謙作に目刺しを想わせた。仙という名だった。そしてその晩から仙だけ其所へ泊る事になった。

 

 「福吉町以来」とあるが、「福吉町」なんてここで初めて登場する。調べてみたがどこだか分からない。

 新しい女中の紹介が、「瘠せた婆さんで、引込んだ眼や、こけた頬や、それが謙作に目刺しを想わせた。」とあって、簡潔だが、面白い。「目刺しのような婆さん」かあ。聞いたことのない比喩だ。名前も「仙」となると、なぜか小骨っぽい感じがする。

 

 それから三日ほどして、朝、お栄が着いた。お栄は家の方をすっかり片附けて行きたがった。
 「沢山です」と謙作はいった。「後の荷も着かないし、僕の世話より、ゆっくり見物をなさい。その方が此方(こっち)も嬉しいんです。いく日位いられるのですか?」
 「四、五日したら岐阜から来るはず」
 「そんならなお、引越しなんか、どうでもいい。まあ、僕に任せて下さい」そういって宿へ落ちつくと、直ぐ彼はお栄を見物に連出した。
 その前、お栄は旅鞄から奉書の紙に包んだキャビネの写真を彼の前へ出して、
 「一昨日(おととい)届いたの」といった。
 「うむ、これです。余り鳥毛立(とりげだち)でもないな」と謙作はいった。
 お栄は愛子と比較してちょっと何かいった。それには古い不愉快に対する女らしい反感が響いていた。それを愛子でいったのが謙作には不愉快だったが、しかしやはりあの頃の色々いやな事が憶い浮んで来ると、ちょっと腹立たしい気持にもなり、彼は黙っていた。

 

  お栄は、相変わらず、謙作の周辺にいて、なにかと世話をやいている。といって、謙作に未練があるようでもない。むしろ謙作のほうが、まだ未練を捨てきれない。

 お栄のところに、結婚相手の写真を送ったらしい。その写真について、お栄が何を言ったのかちゃんと書かれていないが、どこかで感情がきしむ。そのところがどういうことかよく分からない。

 「愛子と比較してちょっと何かいった」とは、何を言ったのか。「古い不愉快に対する女らしい反感」とは何なのか。これではなんのことやら分からない。けれども、「あの頃の色々いやな事が憶い浮んで来ると、ちょっと腹立たしい気持にもなり」となると、そこは分かる。愛子へ求婚したのに、「出生の秘密」を自分は知らないままに拒絶されたこと。それはやはり、いつまでたっても消えない傷なのだ。

 とすれば、それを百も承知のお栄が、なんでまたここで、「愛子」を持ち出して「比較」するのか。そんな余計なことをどうしてするのか。それは、何らかの「嫉妬の感情」しか考えられない。

 まあ、それを詮索するすべもないが、謙作がお栄に対する妙な未練だけは、依然として続いている。謙作はお栄を京都見物に連れ出し、見るもの見るものに説明するのだった。

 

 謙作はお栄がうるさく思うだろうと自分でも思えるほど、見る物、見る物に説明したくなって弱った。子供らしい気持だと思いながら止められなかった。殊に対手がお栄だと、自然臆面なく自分の子供らしさが出るのであった。

 

  こういうところを読むと、謙作のお栄に対する愛情は、やはり母への愛情に重なるのだろう。母に甘えた経験のない謙作は、どうしてもお栄に甘えてしまうのだ。しかし、それだけでもない。お栄に対する性愛の衝動はやはりまだ根深く存在しているのが次のようなところを読むとよく分かる。

 

 暗くなって二人は宿へ帰って来た。其所には狭い座敷に掛蒲団の端しを重ね合わして二つの寝床がとられてあった。出掛けに、それを訊かれ、謙作は何気なく、「いえ、この部屋でかまいません」と答えたのだが、今それを見ると彼は永年一緒に暮して来て、(極く子供の頃は別として)お栄と二人こう一つ部屋に寝た場合を一度も憶い出せなかった。
 「少し窮屈だな」彼はちょっと顔をしかめ、独言のようにいった。お栄はまたそれとはまるで別な心持で、枕元の僅かな空地に、疲れた身体を据えるように坐り、
 「おかげで、思いがけない見物をしました」と、もう見物が皆、済んだような事をいった。
 「これで、かまいませんか?」
 「ええ、結構」
 「もう、直ぐ寝るんでしょう?」
 「謙さんは?」
 「僕は少し町を散歩して来ます」
 「そう、それじゃあね、私、昨晩汽車でよく眠むれなかったから、お先へ失礼します」
 「ええ、そんなら直ぐお休みなさい」
 謙作は町へ出れば大概寺町を真直ぐに下がるのが癖のようになっていた。そして今もその道を歩きながら、やはり、彼は無心ではなかった。
  晩くなって帰って来た。お栄は明かるい電燈の下でよく眠入っていた。最初彼が帰って来た事も知らぬ風だったが、少時(しばらく)して、まぶしそうに薄眼を開くと、ちょっと醜い顔して、「今、お帰り?」といい、直ぐ寝返りを打ってうしろを向いてしまった。

 

 お栄が何を思っているのか分からないが、謙作の気持ちの動きはよく分かる。長年お栄とは同じ家に暮らしてきたのだが、同じ部屋に蒲団を並べて寝たことは一度もない。そのことに、謙作は心が動くのだが、お栄は、さっさと寝てしまう。散歩に出かけた謙作は「無心ではなかった。」ということになる。

 これから新婚生活を送ることになるであろう家で、謙作は、並べた蒲団に「無心」で寝られないのだ。しかし、そんな謙作の気持ちを知らないはずのないお栄(彼女は謙作から求婚されたことがあるのだ)は、どうしてまた、謙作の新居にやってくるのだろう。

 家に帰った謙作は、眠れないままに、シェイクスピアの喜劇などを読むが、やっぱり寝られない。

 

 半分ほど読んだ。そして彼は電燈を消し、案外早く眠りに沈んで行った。が、どれだけか経って、彼は不意と、丁度人に揺り起されたかのように、暗い中ではっきりと眼を覚ましてしまった。そしてもう眠れなかった。眠ろうといくら努めても眠れなかった。直ぐ側にお栄の安らかな呼吸が聞こえている。
 それでも頭が疲れて来、ぼんやりと、熱を持ったようになると、実際部屋の空気も濁り、暑苦しくもなっていたが、彼はやはり苦しさから、自分の腕をドサリとお栄の方ヘ投げ出したりした。

 

 「苦しい夜」である。

 翌朝、ここはやっぱり狭いということで、別に部屋を借りようかという話になる。

 

 「この座敷は二人じゃあ、やはり狭いのね」
 「今日変えましょう」  「もし謙さんにお仕事でもあるなら、別に借りてもいい、今どうなの?」
 「何にもしてません」謙作はお栄のこういう言葉をどう解していいか分らなかった。
 単にいってるだけの意味のものか、もっと考えていっているのか見当がつかなかった。しかし何れにしろ、彼は別に困らなかった。前夜の彼の苦しみを知っていていってるとしても、お栄に対し、彼はほとんど恥かしいという気は起こらなかった。それは恥知らずの気持ではなかった。総てを赦していてくれるだろうというむしろ安心からであった。もしそれがお栄に知られたとしても、そのため、お栄は怒りもせず、また自分を軽蔑しもしないだろうという気がはっきりしていたからであった。

 

 う〜ん、どうなってるんだ、この二人は。謙作も謙作なら、お栄もお栄だ。などとじれったく思って読んでいると、今度は一緒に嵐山にいったりして、金閣寺にも寄ろうとするが、お栄はもうたくさんだというので、家に帰った。その翌日、岐阜に行っていたお才からの電報がきて、その次の日、謙作はお栄と一緒に停車場に行く。

 

 その翌日二人は時間を早めに停車場へ行った。
「多分三等だろうと思うの」こういってお栄は下関までの汽車賃を謙作に渡した。
「あの人だけですか?」
「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」
「子供があるんですか?」
「本統の子供の事じゃ、ないの……」お栄は仕方なしに苦笑した。「──京都からも一緒になるのがあるかも知れない」 年のよく分らない脊の低い、眼瞼(まぶた)のたるんだ一人の女が華美(はで)ななりをし、大きな男の人形を抱いて、先刻(さっき)から、その辺をうろついていた。それに二人の連(つれ)だか見送りだかの女がついていた。謙作は何という事なし、それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。
 皆がプラットフォームに出ている所に下りの汽車がついた。三等客車の、一つからお才と他の二人の若い女が顔を出していた。そして、眼瞼のたるんだ女は五十余りの女に手を惹かれながらその方へ急いでいた。お栄がこういう連中の一人になる事は謙作にはちょっと堪らない気がした。彼は見知らぬ二人の見送人と一緒に三等客車の窓の前に一足退がって変に空虚な心持で立っていた。 見送りの若い方の女が一人で、しきりにはしゃいでいた。先年は泣かない約束で来て、泣いてしまったが、今こう自分がはしゃげるのは今度こそ成功なさる前兆だろう、などといった。こんな話を聴くにつけ謙作はお栄のために危なっかしい気がした。
「そんな附景気ばかりいってないで、ちっと、お前さんの資本を此方(こっち)へお廻しなさい」お才はその若い女に椰楡(からか)った。「お前さんの六百円の電話を売って、それだけでもいいからお廻しなさい」
つけつけいわれて若い女は不安そうな顔をした。お栄はお才の後ろで、黙って穏やかに微笑していた。そして、それが見かけは大変よかったが、同じような心持でお才から勧められ、それにうまうま乗せられ、これから冬に向かって天津くんだりまで金を失いに出掛けて行くのだと思うと、謙作はその若い女よりも「馬鹿だな」と頭ごなしにいってやりたいような気持になった。

(注)「附(付)景気」=「実際はそうでないのに、景気がいいように見せかけること。から景気。」
《  》部は傍点を意味する。

 

 ここはどうにも分からないことだらけなのだが、「下関までの汽車賃」をどうしてお栄は謙作に渡すのだろうか。このことの説明が前にあったのだろうか。(ぼくが忘れてるのか?)「眼瞼のたるんだ女」が抱いている「大きな男の人形」って何だろう? 「本統の子供の事じゃ、ない」という《こども》って何を意味しているのだろう?(分からない)「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」とお栄が言ってるのに、「それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。」というのは、書き間違いなのか?

 と、まあ、珍しく文章が乱れているとしか思えないのだが、とにかく、なんだか怪しい連中と一緒に「天津くんだり」まで出かけていくお栄に、「『馬鹿だな』と頭ごなしにいってやりたいような気持になった。」というなら、どうして実際にそうしないのか。これまでのいきさつもあるけれど、やっぱり、このまま見送るっていうのは、いかにも薄情に思えるのだが。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 104 文学は楽しい 「後篇第三  九」その2 2022.5.14

 

 

 その翌日二人は時間を早めに停車場へ行った。
 「多分三等だろうと思うの」こういってお栄は下関までの汽車賃を謙作に渡した。
 「あの人だけですか?」
 「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」
 「子供があるんですか?」
 「本統の子供の事じゃ、ないの……」お栄は仕方なしに苦笑した。「──京都からも一緒になるのがあるかも知れない」
 年のよく分らない脊の低い、眼瞼(まぶた)のたるんだ一人の女が華美(はで)ななりをし、大きな男の人形を抱いて、先刻(さっき)から、その辺をうろついていた。それに二人の連(つれ)だか見送りだかの女がついていた。謙作は何という事なし、それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。
 皆がプラットフォームに出ている所に下りの汽車がついた。三等客車の、一つからお才と他の二人の若い女が顔を出していた。そして、眼瞼のたるんだ女は五十余りの女に手を惹かれながらその方へ急いでいた。お栄がこういう連中の一人になる事は謙作にはちょっと堪らない気がした。彼は見知らぬ二人の見送人と一緒に三等客車の窓の前に一足退がって変に空虚な心持で立っていた。
 見送りの若い方の女が一人で、しきりにはしゃいでいた。先年は泣かない約束で来て、泣いてしまったが、今こう自分がはしゃげるのは今度こそ成功なさる前兆だろう、などといった。こんな話を聴くにつけ謙作はお栄のために危なっかしい気がした。
 「そんな附景気ばかりいってないで、ちっと、お前さんの資本を此方(こっち)へお廻しなさい」お才はその若い女に椰楡(からか)った。「お前さんの六百円の電話を売って、それだけでもいいからお廻しなさい」
 つけつけいわれて若い女は不安そうな顔をした。お栄はお才の後ろで、黙って穏やかに微笑していた。そして、それが見かけは大変よかったが、同じような心持でお才から勧められ、それにうまうま乗せられ、これから冬に向かって天津くんだりまで金を失いに出掛けて行くのだと思うと、謙作はその若い女よりも「馬鹿だな」と頭ごなしにいってやりたいような気持になった。
 「ちょいと、これは上へのせた方がいいよ」とお才にいわれると無智らしいその女は黙って、その手を離し、大きい男人形を上の網棚へのせ、そして直ぐまた、元のように坐って、年寄った女の手を取上げ、さも、離せないもののように、それへ頬を擦りつけていた。

《  》部は傍点を意味する。

 

 前回の最後の引用部分だが(最後の一段落は前回はカットしてしまっていたので、それも入れた。)、「分からない」の連発になってしまった。

 なにかと気ぜわしい状況で書いていたので、最後の方にきて、めんどくさくなってしまって、丁寧に読み込むことができなかったのだ、という言い訳もできるが、ぼくの読解力のなさの現れでもある。

 アップしてすぐに、旧友Aから、こんなメールが届いた。

 

 《こども》っていうのは天津の置屋であずかって、春をひさがせる(これ、日本語としてあってるかな?)女の子なんじゃない? それから、お栄が「京都からも一緒になるのがあるかも知れない」って言ってるんだから謙作も想像ができてておかしくはないと思うけど。ただ「汽車賃」の件は、確かに疑問といえば疑問。素直に読めば謙作が切符を買いに行かされたんだろうけど、そんなパシリに使うとは思えないし。

 

 なるほど、言われてみれば、その通りだ。それなのに、ぼくは《こども》って何を意味しているのだろう? とか、「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」とお栄が言ってるのに、「それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。」というのは、書き間違いなのか? とか、トンチンカンなことを書いている。

 《こども》と傍点付きで書いてある意味が、ぼくにはパッと分からなかったのだ。このメールの後、電話で話したことだが、当時は、人身売買的なことが横行していて、貧しさ故の「身売り」など珍しくなかった。だから、売られてきた(買われてきた)少女が、天津まで連れて行かれるということも当然あったわけだ。だから、「子ども」ではあるけれど、売春をさせられる少女という意味で、隠語的に傍点を付けて《こども》と表現されているわけだ。

 お才は、岐阜から京都へやってくる。その時に、《こども》も連れてくるだろうと、お栄は謙作に言っているわけだ。その岐阜から連れてくるであろう《こども》とは別に、「京都からも一緒になるのがあるかも知れない」というのだ。つまり京都でも《こども》が合流するかもしれない、ということだ。別に、志賀直哉の「書き間違い」ではない。

 まったく、読解力がないこと甚だしい、と、嘆いていたその夜、別の旧友Bからもメールが来た。その全文を引用してみる。

 

 汽車賃を謙作に渡す理由は分からないんだけど、謙作がこれから切符を買うのかなあ。
 で、「こども」は例の店ではたらく娘だとおもうよ。だから、はっきり言わないと謙さんには分からないのね、こまったお坊ちゃんだこと、てな具合で「仕方なしに苦笑した」。「京都からも一緒になるのがあるかも」と言われて、さすがの謙作も気づいたということでありましょう。
 「眼瞼のたるんだ」「華美ななり」の、因果を含められたようにおっきな「男の人形」をかかえて、そこらを「うろついて」いる、ちょっと知恵遅れだかの女の子、って寺山修司の映画だったら、ありそうだなとおもった。寺山修司のばあいでは、すでに陳腐だけど、志賀直哉では、あざやかな描写かも、とおもいました。その白痴みたいな子が、見送りの50ばかりの女の手の甲に頬すりよせるから、この子でも先行きの不安、だからこその別れの嘆きは感じているのに、お栄にはそうした不安・嘆きと無縁らしい、としたら、読者は、謙作の怒りが、お栄に対する危うい感じ、から、さらに憐れみへと変わるだろう、ことを予測するんじゃないかなあ。バカだなと頭ごなしに怒鳴りつけたいけど、そんなことを思ってもみないなんて、お栄はなんてかわいそうな女なんだ、って謙作は考えてしまう。だろうと、読者はおもってしまうのでした。

 

 実に見事なものである。特に「仕方なしに苦笑した」の解釈。まだ頑是無い子どもに売春をさせるということへのはばかりから、わざわざ「こども」とほのめかしたのに、謙作にはちっとも分からない。(その点、ぼくと同じだ。)「はっきり言わないと謙さんには分からないのね、こまったお坊ちゃんだこと。」というお栄の内心の説明は、そうか、そういうことだよね、と納得させる。お栄からすれば、謙作は、「こまったおぼっちゃん」なのだ。でも、大事な息子のような、「おぼっちゃん」なのだ。「仕方なしに苦笑する」しかないではないか。それでも、「京都からも一緒になるのがあるかもしれない」と言われて、謙作は、ハッと気づくのだ。さっきから大きな男の人形を抱いてうろうろしていた女が、その「子ども」に違いないと。

 ここで、一挙に、謙作の前に事態は明らかになる。Bが言うように、一種異様な感じの女の子は、寺山修司の世界に出てくるようなたたずまいだが、そんな子どもも、売られていく。しかも、その子は、とても不安そうだ。そんな「連中」を見ている謙作は、どんな気持ちだったか。Bの解釈で、ほぼ言い尽くされている。

 こんな読解力を身につけたかったとしみじみ思う。

 Bは更に、「愛子」問題にも、きちんとした解答を与えてくれている。

 お栄が、謙作の結婚相手の写真を見て、愛子と比較して何か言ったのに対して、謙作が腹を立てる場面である。そこについて、ぼくは、よく分からないと書いているのだが、Bはこう書く。

 

 お栄は「愛子さんなんかより、よっぽど、よさそうな人ですね」とでも、いったんじゃない? 愛子の周辺の人々に、あのときの悔しい思いをぶつけるつもりで、あのとき、ああなって、かえって、よかったかもしれないですね、とかお栄は言いたかったんじゃないでしょうか。愛子は、まったく判断にタッチしてないんだからそれに、愛子への思いは、けなされたくも、けがされたくもない謙作にしたら、愛子の名を出さなくてもいいのに出したのは、不愉快で、でも、それとは別に、やはりあのときの腹立たしさがよみがえって、「黙っていた。」

 

 そうか、そう考えればいいのか。完璧である。

 まあ、AにしろBにしろ、中高時代の友人だが、ぼくなんかよりずっと頭がクリアな人間だから、今更感心してもしょうがないのだが、それにしても、自分の頭の回転がどうも近ごろ鈍くなってきているのを実感するものだから、オレと同じように老いてもなお明晰な頭脳を持つ友人に恵まれていることをありがたいことだと思いつつも、忸怩たる思いもつのるというわけである。

 ただ、AもBも、そしてぼくも、同じように「切符問題」に関しては、ちゃんとした解答ができないのは、志賀直哉のせいだということになるだろう。謙作がお栄のために、下関までの切符を買いにいくのだというところに落ち着くのだろうが、謙作がお栄の「パシリ」に使われるわけないだろうし、というAの言葉も気になるところで、いや、謙作なら「パシリ」もやるかもよ、ってぼくは言ったけれど。

 

 文学は楽しい。こうやって、旧友と、60年近く付き合ってきた間も、なにかと話題を提供してくれる。文学に限らない、音楽でも、野球でも、なんでもいいのだ。興味の共通するものについて、ああでもない、こうでもないと、語り合うことができるということは、やはりなんといってもシアワセなことである。

 

 

 


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