志賀直哉「暗夜行路」を読む (10) 87〜96

後篇第三 (三)〜(六)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 87  お栄のこと  「後篇第三  三」 その1 2021.10.10

 

 

 兄の信行からの手紙は、お栄のことだった。

 

 実は一昨日お栄さんから手紙が来て相談したい事があるから、上京の折り寄ってくれとの事で昨日行ってみた。  お前も知ってるだろうがこの頃大森にはお才さんというお栄さんの従妹が来ている。お栄さんはお才さんの前身について余りいいたがらないが、察するにやはり身体(からだ)で商売をした人らしい。現在もはっきりした事は分らないが、何でも天津で料理屋をしているのだという事だ。料理屋といっても東京あたりの普通の料理屋とは異った性質のものだろうと思う。
 それでお栄さんのいう事は、本来ならば、お前との関係もお前にいい嫁さんが出来、ちゃんと、新しい家庭が作れた所で、身を退くのが本統とは思うが、今となれば本郷の父上の《おもわく》もあり、どうしたものかと実は迷っていたというのだ。これをいい出すとまたお前の気を悪くするかも知れないが、お栄さんとしたらもっともだと俺は考える。
 そこで今度十年ぶりとかでそのお才さんという人が帰って来て、出来る事なら自分の仕事をお栄さんにも手伝ってもらいたいというのだそうだ。勿論手助けだけではなく金の方が主なのだろうと思うが、何しろお栄さんの方もそれには大分乗気らしい。で、お栄さんはこういったからとて、前に話のあった本郷からの金を貰いたいとか、そういう気持は少しもないので、もしこの事にお前でも俺でもが、不賛成でないという事なら、幸(さいわい)お前も今度京都へ住むというし、この家を畳み、千何百円かの貯金を持ってお才さんと一緒に天津へ行きたいというのだ。まあ簡単にいえばこれだけの事だ。

 

 なんとも唐突な話の展開である。 回りくどい言い方をしているが、要するに、元売春をして生活していた従妹が、今、天津でやはり売春もする「料理屋」をやっているが、金もないので、金の工面と同時に商売も手伝ってくれないかと持ちかけたわけだが、お栄も、それに「乗り気」だというのだ。

 謙作の実の父の妾として生活してきたお栄も、お才と同様に「体を売って」生きてきたのだとも言える。謙作との関係は肉体関係抜きのものだったが、今また、そういう世界に戻ろうということなのだ。このお栄の気持ちが分からない。「体を売る」ということへの抵抗感がないのだろうか。あるいはそうやって生きてきたので、諦めているのだろうか。

 謙作が、母とも慕い、そして結婚までも考えたことのあるお栄のこの気持ちに対して、謙作はどう反応しただろうか。

 

 謙作は読みながらちょっと異様な感じがした。お栄が天津へ行って料理屋をする、この事が如何にも突飛な気もし、ちょっと如何にも有り得そうな気もした。しかしそのお才という女がどんな女か、それにだまされるような事があっては馬鹿馬鹿しいと思った。  とにかく、謙作にはその手紙に書かれた事は余りいい気がしなかった。自分とお栄との関係が今後どうなって行くか、それは彼にもはっきりした考はなかったが、こんなにして、二人が遠く別かれてしまい、交渉がなくなってしまうという事はやはり結局二人は赤の他人であったという──余りにそういう気のされる事で彼にはそれが淋しく感ぜられた。しかしどうすればいいか、その的(あて)もなかった。

 

 謙作の「感想」は、どこか他人事だ。

 天津に行って料理屋をやるということが、「突飛」ではあるが、「如何にも有り得そうな気」もするというのだ。お栄らしいや、ってことなのだろうか。とすれば、お栄が大げさにいえば再び「身を落とす」ことに対する同情がぜんぜんないことになる。

 結婚までしたいと思い詰めた相手が、「売春婦」になろうとしているのに、そのことを「あわれ」とも思わない。あるのは、「このまま離れるのは寂しい」という自分の感情だけだ。

 「なんとかしてやりたい」と本気で思わずに、「どうすればいいか、その的もなかった。」で、おわりだ。どうも、そっけない。謙作の頭は、今は、「美しい女」のことでいっぱいで、お栄のことなど真剣に考えている余裕はないということなのかもしれない。

 このことを、小説としての展開上からちょっと考えてみる。

 今、謙作は、ひとりの美しい女に一目惚れして、その女となんとか交渉をもちたいと考えている。できれば結婚したいと考えている。それは、今までの謙作の生活を根本から変える一大事だ。しかし、第一部からずっと引きずっている「お栄問題」にどう決着をつけるかというのが、この後の展開には大きな問題なのだ。そこで、お栄の「天津行き」を設定したのではなかろうか。とすれば「お栄」には、この小説の中でどのような意味があるのだろうか、という疑問が当然わいてくる。

 しかし、お栄は、この後にも登場してくるし、この問題は、意外に大きな意味を持っていそうなので、今は「疑問」にとどめておきたい。

 

志賀直哉『暗夜行路』 88 鳥毛立屏風の美人 「後篇第三  三」 その3  2021.10.21         

 

 謙作の友人の画家である高井は、そんなに女にご執心なら、積極的にアプローチすべきだといい、なんならその女の住む家に空き部屋があれば、自分がそこに一時住んで、様子をみて、接触してみようと提案し、すぐに部屋の交渉に出かけたのだったが、やはり、断られてしまった。

 帰ってきた高井は、謙作の宿の女主に、情報を求めると、それは「東山楼」という宿で、ちょっとした付き合いもあるから、聞いてきましょうと言って出て行く。その前に、信行からの手紙を置いていったのだった。

 信行の手紙を読み終わったころ、女主が戻ってきて、やはり空間はないということだったと伝える。

 

  女主が入って来た。東三楼という家にはやはり空間がないという返事だった。
 「今、表にいられます、お年寄りの病人さんが二十日もしたらお国へ帰られますはずやで、そしたら、そのお座敷が空きますがちゅう御返事でござりました」
 「ありがとう」高井はこういった。「どうも、それでは仕方がない」
 女主は帰って行った。
 「しかし訊いて見てよかったよ」と謙作はいった。「二十日するとあの老人がいなくなる事がわかっただけでもいい」  「そうだ。それまでにどうかしていい手づるを作るんだ」と高井もいった。
 「もしかしたら兄貴に来てもらおうかしら。今手紙が来て、自家の方の事でも少し話したい事があるし。もっとも僕が帰る方が早いかも知れないが、そうしてると、此方が不安心だから」
 「うん、それがいいかも知れない。そうしたまえ。兄さんは何時でも出て来られるんだね」
 「大概来られるだろうと思う」
 「早くその人が何所の人か、そしてあの老人とはどういう関係の人か、それを確かめるといいね」
 「あの人の娘かね?」
 「さあ」
 「姪かね?」
 二人は笑った。
 「そう観察力が鈍くちゃ仕方がないな」
 「眼がくらんでるんだ。──しかし娘じゃあないよきっと」と謙作はいった。
 「兄さんへ手紙を書くなら遠慮せずに書いてくれたまえ。そしたら僕はちょっと五条まで買物に行って来る」こういって間もなく高井は宿を出て行った。

 

 謙作が見た老人は、どうやら近くの病院へ通うために「東山楼」に住んでいるらしい。では、あの女は、その老人の娘なのか、それとも姪なのか、と二人は想像するわけだが、もちろん分かるわけもない。

 老人と若い女──というぐらいの情報しかここにはないが、今の感覚で考えるとおそらく間違える。老人とはいっても、たぶん、50代だろうし、若い女といっても、10代かもしれない。これが今だと、80代の「老人」と、30代の「若い女」ぐらいが相場だろう。

 高井が出て行ったあと、謙作は信行へ返事を書く。その手紙を書き終わったあとの描写が素晴らしい。

彼が座り疲れた身体を起こし、その手紙を頼みに立って行くと、玄関の狭い廂合(ひあわ)いから差込んで来る西日で、いつもは薄暗い廊下の縁板が熱くなっていた。

 何ということもない描写だが、手紙を書くために座っていた謙作が、よっこらしょと立ち上がって廊下に出ると、その縁板が西日のために熱くなっていた、というのだ。だからどうした、ということではなくて、こうした冴えた描写によって、謙作が住んでいる家の構造やら、位置やらが、立体的に浮かび上がってくる。さらには、疲れた体に、足からしみこんでくる板の「熱さ」が、謙作には心地よく感じられただろうと思うと、一種の心理描写ともなっているわけで、その巧みさに驚かされるのだ。

 その後の、「帰ってくる高井」の様子の描写も見事だ。これ以上簡潔には書けないというほど、高井の行動を写している。

 

 彼は少時(しばらく)して湯に入り、また前日のように団扇を持って腰を下ろしていた。遥か荒神橋の方から何気ない真顔で、急足(いそぎあし)に帰って来る高井の姿が眼に入った。そして前まで来ると今度は割りに大胆にその方を見ていた。間もなく高井は一枚橋を渡って微笑しながら帰って来た。
 「よく見た」
 「そうだろう。恐らく一度で僕よりよく見たらしい」
 「あれは君、鳥毛立屏風の美人だ」突然こんな事を高井がいった。この評は割りに適評であり、謙作には大変感じのいい評であった。
 「ふむ、そうかな」そういいながら謙作は自分が赤い顔をしたように思った。
 高井は湯へいった。その間(ま)に謙作はまたちょっと河原へ出て見た。前まで行く気がせず、遠くからそれとなく気をつけていると、その人の姿は時々見えた。
 その晩二人は新京極へ活動写真を見に行った。「真夏の夜の夢」を現代化した独逸(ドイツ)物の映画を二人は面白<思い、晩(おそ)くなって二人は、東三本木の宿へ帰って来た。

 

 「そして前まで来ると今度は割りに大胆にその方を見ていた。」という「前」とは「女の家の前」であり、「その方」とは、女の方、であるわけだが、大胆な省略である。この前の記述を読んでないと、なんのことやら分からない。まあ、小説というのはそういうものだけど。

 高井がその女にどういう印象を持ったかは、「微笑しながら帰って来た」で分かる。「うん、こりゃあいい。すてきな人だ」という弾んだような高井の気持ちが伝わってくる。その高井はその女を「鳥毛立屏風の美人だ」という。これはまた大きく出たものだ。ちょっと下ぶくれの顔だったのだろうか。

 謙作はその言葉を聞いて「謙作には大変感じのいい評であった。」と感じる。「うれしかった」と書かないところが志賀直哉風である。「そういいながら謙作は自分が赤い顔をしたように思った。」も同じだ。平凡に書けば、「謙作はうれしくて、ちょっと顔を赤らめた。」となるところ。あくまで謙作の気持ちを「外側」から書こうとしているということだろう。

 高井に褒められたものだから、謙作は、高井が風呂に入っている間に、女の家のほうへ出て行って、ちらちらとその女の姿を見る。素直でいい。浮き立つような謙作の気持ちが切ないほど伝わってくる。

 シェイクスピアの「真夏の夜の夢」のドイツ版映画って、いったいどんな映画なんだろうと思って調べてみたら、詳しいことは分からなかったが、1925年(大正14年)に作られたドイツ映画らしい。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 89 「お栄問題」 「後篇第三 四」 その1 2021.11.6

 


 三日目、それは珍らしく明方から雨になり割りに涼しい朝だった。毎朝雨戸を照りつけられるので寝坊の出来なかった謙作はよく寝ていた。其所へ夜行で来た信行がついた。 
 「おい、朝めしがまだだが貰えるかい」こんな風に挨拶よりも先に、信行がいう。
 謙作は一体寝起きの不機嫌な方だったが、その日はよく眠ってもいたし割りに愛想よく兄を迎える事が出来た。
 暫くして二人は雨に烟ぶる河原の景色を眺めながら朝の食事をした。

 

 相変わらず簡潔な描写である。そもそもあまり気の合わない兄の信行だが、十分に寝ていたから、不機嫌じゃなかった、というのは、いつものことながら、「機嫌」が謙作の生活の全体を覆っていることがよく分かる。こんな男と結婚したら大変だろうなあと思うのだが、まあ、人間というものは、ちょっとした天気の具合で、不機嫌になったり、体が不調になったりするものだから、仕方のないことではある。

 で、信行の話は、「お栄問題」である。この後の部分は、ほとんど二人の会話で進行していくが、その最初の部分だけ引用しておく。

 

 

 「お前の方の事をお栄さんに話したら大変喜んでいられたよ。ぜひともというような事を切(しき)りと俺に繰返していた。それは本統に俺も嬉しい事だし、うまくやりたいもんだね」信行は続けて、
 「それでね、お栄さんの方の事を先に話すと、俺はね、その事が本統にお栄さんのためになる事かどうか、はっきりしないんだ。お栄さんという人も元々そういう空気には親しんで来た人で、自分では他の堅い商売よりはいくらか自信もあるらしいのだが、俺にはそれがあてにならないのだ。それからお栄さん自身はそのお才さんにすっかり勧め込まれてしまって非常に乗気なので、この場合俺たちが不賛成をいえばよすにはよすだろうが落胆も随分するに違いない。で、俺の考としては、お栄さんの考え通りに総てして、つまり、全く自由にして、もし、それで不成功だった場合、あとを此方(こっち)でどうにでもするようにしたらいいかと思うんだ。一と言にいえばまた金の事になるが、金は本郷からのと、お前からのがあれば、それを一つにして俺でもお前でもが保管しておく、そんな事にしておいてはどうかと思うんだ」
 「全体何をするんだろう?」
 「それが、どうも余り感心しないのだが、お才さんという人が天津で料理屋をしているのだ。其所にいわゆる内芸者(うちげいしゃ)というのがあるのだそうだ。芸者といっても勿論二枚鑑札だが、それを今までは両方一緒にやっていたが、手が廻りきらないためにその芸者の方一切をお栄さんにやってもらいたいというのだそうだ。つまり、上方でいえば置屋見たようなものだ。それが別になっていずに同じ家(うち)に一緒にいて資本は別でやって行こうというのだ」

 

 この信行の話し方というのも、相変わらず、回りくどいが、それだけに、この小説での信行という人間の造形がしっかりしていることがうかがわれるのだ。

 話が「芸者」とか「置屋」とかいった話になると、とたんに分かりにくくなる。「二枚鑑札」など、お手上げである。ただこれは、調べてみれば単純な話で、「二枚鑑札」とはもともと大相撲の言葉で、「 一人の人が同時に二つの資格などをもつこと。現役の力士・行司が、同時に年寄の株をもつことなど。」(デジタル大辞泉)だが、そこから派生して「芸者が娼妓も兼ねること。」(同書)という意味となる。芸者は、「歌舞・音曲を行って酒宴の席に興を添えることを職業とする女性。芸妓(げいぎ)。」(同書)だが、「娼妓」は、「1 宴席で歌をうたったり舞をまったりして客の相手をした女。 2 特定の地域内で公認されて売春をした女。公娼。」(同書)であり、特にここでは「2」の意味だ。

 次に「置屋」だが、Wikipediaで「置屋」と検索してみたら、ひととおりの解説のあとに、「外部リンク」があったので、そこを開いたら、なんと、「国立国会図書館デジタルコレクション」が開いた。大正3年に出た「東京の表裏八百八街」という本だ。こんな本がスキャンされてデジタルアーカイブに収蔵されているとは驚きである。おもわず読みふけりそうになるが、肝心のところだけを引用しておく。この後を読みたい人は、こちらをどうぞ。(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917718/84)

 この本は、ネットで古書店を探してみたら、5250円〜19330円。買うのはキツい。

 

 置屋と云っただけでは判るまい況や品行方正の読者諸君の於てをやである、と云ふと編者は如何にも通人で、且又道楽者の如(やう)にも見えるが、実は編者が置屋なるものを知ったのは、四五年前にて、置物専門の口入屋を渡世として居た、品川本宿△△屋と云ふ小料理屋の女将が教へて呉れたので、道楽の結果覚えたのでも何でもない事と先ず以て御了承願ひたい。
 一体置屋とは何であるかといふに、本所深川や、日本橋の浜町牡蠣殻町と筆頭に芝の神明浅草九段等に於ける淫売婦を提供する所を言ふので、即ち銘酒屋では飲食物も出来るが、置屋は只だ、抱への淫売婦を安待合あるいは料理店の要求に依って、提供することを専門として居る所をいふので、例外は別として置屋へお客を取る事も出来ねば、又た一般に取らないやうな風習になって居る、而(し)かして安待合と置屋との関係は、恰(あたか)も待合と芸者屋との関係と云った如(やう)なものであって、只だ異って居る所は、一は公然と営業が出来るけれども、置屋は秘密に営業して居ると云ふ点丈(だけ)である。

「置屋の裏面────淫売婦の問屋」(杉韻居士「東京の表裏八百八街」鈴木書店 大正3年刊)

 

 信行は「上方でいえば置屋見たようなものだ」と言っているので、関東ではそれに相当するのが何なのか判然としないが、まあ、関東でも「置屋」と言っていたのではなかろうか。杉韻居士氏の説明も、どこか曖昧なところがあるが、要するに、お才さんが天津でやっている「料理屋」というのは、実態は「置屋」と「芸者屋」をかねていて、ほんとは「置屋」にはいない芸者が「内芸者」としてそこにいて、表の看板は「料理屋」であるから、料理も出すかもしれないけれど、だいたいは出さずに、お才さんが「淫売婦」として客をとったり、他の「内芸者」を派遣したりしていたが、それが大変だから、お栄に、「芸者」だけやってくれ、つまりは「淫売婦」の方をやってくれ。私は「置屋」に専念するから。しかも、会計は別だよ、ということらしい。

 間違っているかもしれないが、だいたいはそんなことだろう。ここで、こんなことにこだわるのも、そもそも、この話は、お栄が「売春婦」に身を落とそうとしているのに、長いこと世話にもなり、憧れてもいた謙作が、案外冷淡だということだ。日本国内ならまだしも、遠く天津までいって、売春婦になろうとしているのに、信行が「そうかといって、それに不賛成をいって、他にどうという、うまい考もないとすると、一途に否定するわけにも行かず、また案外それでうまくやって行くかも知れないとも思うし。」なんて暢気なことを言っているのが、どうみても他人事だし、謙作もそういう信行に激しく突っかかることもない。

 杉韻居士氏は、「置屋」の説明をするために、自分はそういうところを利用したことがあるから詳しいんだということではないということをムキになって強調しているが、つまりは、自分が「品行方正」でないという誤解を受けたくないわけである。それに対して謙作は、そういう世界にもうどっぷり浸ってきた男だから、そういう世界に対する拒絶感はすでになくて、お栄がそっちの世界に行くことに対しても、躍起になって阻止しようとはしないのだ。

 まあ、所詮お栄は、そういう世界に生きてきた女なんだから、やるだけやらせて、ダメだったら、金のほうは面倒みてやろうぜという信行の提案は、腹立たしいほど「金持ち」の態度である。「そういう世界」の悲惨さ、残酷さへの想像力がないのだ。ということは、悲惨な境遇にほんとの意味で触れたことがないから、自分の経験の範囲内での想像力しか働かない。だから、お栄の身の上に対しても、「それならそれでいいんじゃないの」みたいな反応しか心のなかに生じないのだ。

 謙作もそれとほぼ同等だ。「僕はこんな風にしてお栄さんと別れてしまうのは何だか物足らない。」という感想しかないのだ。じゃあ、どうすれば「物足りる」というのだろうか。どうにも理解に苦しむ謙作である。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 90 「お栄問題」の誤読 「後篇第三  四」 その2  2021.11.7

 

 

 前回、お栄の問題について、お栄が「売春婦」に身を落とそうとしているのに、謙作や信行がまるで他人事のように冷淡なのはケシカラン、わけがわからん、と息巻いたのだが、それを読んだ友人ふたりから、疑義が提出された。

 ひとりは、フェイスブックで友達になっている旧友から、そもそもお栄さんていくつだっけ? 大年増だろうとは思うけど、30代? まあ、「転び芸者」なんかは、50、60になっても売れたらしいけど、というような「質問」だった。

 ここで旧友の言う「転び芸者」というのは、「体も売る芸者」のことで、「みずてん」ともいい、この「みずてん」は、岩野泡鳴なんかがさかんに使っていた言葉である。で、その旧友の「質問」は、「質問」という形をとってはいるけれど、やはり、いくら何でも、お栄が売春をするっていうのはあり得ないんじゃないの? という疑問から出たものだったろう。それに対して、ぼくは、まだ自分の「読み」を疑っていなかったから、お栄の年齢は、だいたい40前後ぐらいだろうとコメントして、まあ、そのくらいのトシならあり得るだろうなと思っていたのだった。

 ところが、それから数時間後、今度は、フェイスブックをやろうとしない遠隔地に住む旧友が、ブログのそれを読んで、メールをくれた。その文面を勝手に引用すると、

 

 きみの文章を誤解してるかもしれないけど、天津でお才さんが経営している料理屋には料理屋と置屋の二面があって、いまは両方をお才さんが管理してるけど、手が回らないから、置屋の経営はお栄に任せたい、どうか内芸者(たち)の二枚鑑札(たち)をお栄が管理してくれないか、料理屋の経営、板場とか仲居たちとかはわたし(=お才)がやるから、というんじゃない? 薹のたったお才やお栄に内芸者(=淫売婦)はむりじゃない? よほどのときは、みずから内芸者の勤めも果たすかもしれないけど。

         

 というものだった。

「きみの文章を誤解してるかもしれないけど」という謙虚な前書きがあるけれど、誤解もなにもない、実に的確にぼくの「読み」の誤りを指摘する文章で、ズバリその通りじゃないかとはたと気づいた。そうに決まってるじゃないか。なんで、そんな誤解をしたんだろうと、今度は、謙作が「わけのわからない男」じゃなくて、オレのほうこそ「わけのわからない男」じゃないかと、自分自身に呆れた。

 誤読でした、お詫びして訂正しますとすれば、それで終わりだけれど、言い訳がましく、その誤解の原因をちょっと探ってみる。

 お才さんというのがこの小説に出てくるのが、これが初めてではなくて、これより前の信行の手紙に登場する。その信行の手紙の中に、こんな文章がある。

 

 お前も知ってるだろうがこの頃大森にはお才さんというお栄さんの従妹が来ている。お栄さんはお才さんの前身について余りいいたがらないが、察するにやはり身体(からだ)で商売をした人らしい。現在もはっきりした事は分らないが、何でも天津で料理屋をしているのだという事だ。料理屋といっても東京あたりの普通の料理屋とは異った性質のものだろうと思う。


 この文章がまだ頭の隅に残っていて、お才さんは、「身体で商売をした人らしい」ということがまずすり込まれた。そのうえ「料理屋といっても東京あたりの普通の料理屋とは異った性質のものだろう」というところから、その「料理屋」の性質も見当はついたのだが、その料理屋の実態が今回の手紙で明らかになったというわけだが、ぼくはその辺の記述を早とちりして、「料理屋」とは名ばかりで、実際には料理などは出さないで(出したとしてもそれはほんのちょっとで)、その実態はもっぱら「置屋」をこととする店であったと考えてしまったわけである。

 「芸者といっても勿論二枚鑑札だが、それを今までは両方一緒にやっていたが、手が廻りきらないためにその芸者の方一切をお栄さんにやってもらいたいというのだそうだ。」という信行の説明も、「それを今までは両方一緒にやっていた」の「両方」を「置屋」と「芸者」と考えてしまったことになる。しかし、曲がりなりにも「置屋」というからには、遠隔地の旧友が丁寧に指摘しているごとく「内芸者(たち)「二枚鑑札(たち)」と複数であるはずで、お才さんひとりが「芸者」をやるなら、なにも「置屋」など必要ない。というか、自分がどこかの「置屋」のやっかいになるはずである。

 まあ、そういうようなわけで、ぼくの「読み」は実にトンチキなもので、さすがに、そりゃおかしいでしょ、と二人の旧友が思ったのも当然である。

 フェイスブックの方でコメントをくれた旧友も、遠隔地からメールをくれた旧友も、ぼくの中高の同級生で、卒業してからも、ずっと付き合いが続いている。そういう旧友が、1年たっても半分しか読み終わらない「暗夜行路」のぐだぐだした感想文を懲りもせずに毎回読んでくれて、時に、こうしたリアクションをくれるということは、なんともありがたいことだ。まったく、持つべきものは友達である。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 91 「手蔓」 「後篇第三  四」 その3 2021.11.20

 

 

  お栄がお才という女と一緒に、天津へ行って「料理屋」をやりたいという言い出したことを兄の信行から聞いた謙作は、その「商売」が「余り感心しない」ものだと感じたが、それに反対したところで、別に妙案はない。信行は、お栄はやはり水商売の女だから、どうしても、そっちへ気持ちが行ってしまうんだと言うが、謙作は煮え切らない。

         

 「何といってもお栄さんはやはり水商売の人だね。いくらか昔の経験があるから考がどうしても自然そっちへ入って行くらしい。それでお才さんという人がどういう人か、それが信用出来る人なら、一切任せてもいいが、其所がはっきりしない点で、此方で後の余裕を残しておく必要があると思うよ」
 「僕にはよく分らない。他に仕事があるものなら勿論他の仕事を探す方が賛成だが、他にないなら仕方がないし、もしまた自分で急にそんな事をする必要がないという気になれるようなら、二、三年これからも一緒にいてもらって少しも困らないがな。少しセンチメンタルかも知れないが、僕はこんな風にしてお栄さんと別れてしまうのは何だか物足らない」

 

 こう謙作は言うのだが、謙作のお栄に対する気持ちには、なかなか複雑なものがある。自分は結婚にむかって邁進中なのに、お栄との関係をすっぱりと切ることができない。その「関係」といっても、今までの経緯からいっても、肉体関係はないわけだし、かといって、母親でもないわけだから、「母への情愛」ともちょっと違っていて、そうかといって、恋愛でもない。要するに説明できない。

 「二、三年これからも一緒にいてもらって少しも困らない」というが、「一緒にいる」というのは、どういうことなのか。結婚しても、女中のように一緒に住んでもらってもいい、ということなのだろうか。しかし、そんなことをしたら、「新しい妻」はどう思うだろう。単なる女中じゃないぐらいのことは、すぐに気づくだろう。それでいいのだろうか。

 なんて思うのだが、謙作にしても、そういったことは承知のうえでなお「少しセンチメンタルかも知れないが、僕はこんな風にしてお栄さんと別れてしまうのは何だか物足らない」と言っているわけだろう。

 このお栄に対する思いは、この後もずっと尾を引いていくことになる。

 

 「まあ、それは……やはり二、三年後に別れるものなら、今別れてしまった方がいいと俺は思う。それはセンチメンタリズムだよ。やはり何にでも時期というものがあるよ。時期によっては生きる事柄が、それを外して、生きなくなる場合がある」
 「つまり本郷から金を貰う事かい?」謙作は結局信行はこの事をいってるのだろうというおかしいような、同時に多少いらいらした心持もして露骨にこういった。
 「それも一つだ」と信行は案外真面目な顔をして答えた。「それで、そっちの方は手紙にも書いた通り一切俺に任せる事にして、なるべくお前は立入らん事だ。お前のは強迫観念的に金の事というと損をしておきたがる潔癖がある。慾の深いよりはいいが、利口な事じゃない」
 「そんな事あるもんか」
 「それはまあ何方(どっち)でもいいが、そこでどうだろう、今いった俺の考にお前は賛成するか、どうか」
 「お栄さんのいい出した通りにするという事かい?」
 「そうだ」
 「そうだな……賛成は出来ないが、仕方がないな。賛成するといえばいやいやの賛成だな」

 

 謙作には「強迫観念的に金の事というと損をしておきたがる潔癖」があると信行は言う。金銭欲を汚いものと感じる謙作は、やはり「いいとこの坊ちゃん」なのだということだろうか。ほんとうに金のことで苦労をしたことがないから、そういう「潔癖」が培われたのだとも言えるが、しかし、兄のほうがよほど恵まれた環境に育っているのに、そういう潔癖はない。そう考えると、やはり、謙作の持っている資質なのだと考えたほうがよさそうだ。

 二、三年ずるずると一緒にいて──そんなことができるとしての話だが──それから別れるとなると、「本郷の父」(つまりは、謙作の父ということなっている父、実の父の息子)から、出るはずの金も出なくなってしまうかもしれない。そうなると、お栄がかわいそうだ。だから今すっぱり縁を切れ、という信行の合理主義は、謙作のセンチメンタリズムと衝突せざるを得ないわけだが、だからといって、謙作のセンチメンタリズムが勝つことはない。金がなければ生きていけないからだ。謙作の「賛成」が「いやいやの賛成」であるゆえんである。

 さて、本題は、結婚問題だ。

 友達の高井は、ずいぶん世話をやいてくれたが、あれっきりだと聞いた信行は、山崎という男の名を出す。高等学校で「ボール」(野球のことか)の選手をしていた男で、信行とは寮が一緒で親しかった。その山崎が、ここの大学病院(つまり、女と一緒にいるジイサンが通っている病院)にいるはずだから、そこから手蔓を作ることが出来そうだと言うのだ。
謙作は、半信半疑だった。信行はそれでもダメだったら、石本に頼んでみるという。石本は公卿華族だから、手蔓を作るには便利なのだそうだ。なるほど、そういった身分の人たちには、強固なネットワークがあるわけだ。

 そんな悠長なことをしているうちに、女は国へ帰ってしまうと謙作は不安がるが、信行は、それならそれでもっといい手蔓が出来るといって、まずは、山崎に会うことにして家を出る。
その気になれば、「手蔓」は、いろいろと作ることが出来るものであり。そしてその「手蔓」によって、日本の社会は構成されてきたと言っていいのだろう。

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 92  尾をひく「出生」の問題  「後篇第三  五」 その1 2021.12.8

 

  謙作の結婚の話は案外うまく進みそうになった。それは信行の学校友達の山崎という医学士が丁度、その老人を診ている博士の助手だった事から、急に色々な事がはっきりした。女の人は老人の姪であるという事、敦賀の在のいわゆる物持ちの家の人であるという事、そして、京都へは老人の見舞いを兼ね、冬物の衣裳その他を買うために出て来たのだというような事まで分った。
 それからもう一つ謙作のために幸だった事はその老人を博士へ紹介して寄越した市会議員のS という人が偶然にも石本のいわゆる旧臣だった事である。この事は東三本木の宿でその人の名が何気なく山崎の口から出た時に女主が「そのお方さんやったら、石本さんの元の御家来やと思うとりますが……」といったので分った。

 

 今までああでもあろう、こうでもあろうと想像しかできなかった細部が、この数行で一気にすっきり解明される。瞬間的に霧が晴れたような思いがする。 

 「在」というのは、「(「在郷(ざいごう)」の略)いなか。在所。特に、都会から少し離れた所をいうことが多い。また、地名の下に付けても用いる。」(日本国語大辞典)の意。

 「いわゆる物持ち」という語句もちょっと分かりにくいが、「物持ち」というのは、「多くの財産を所持する人。財産家。素封家。」(日本国語大辞典)の意で、明治の初期ごろから使われていた言葉らしい。

 ここに出てくる「石本」というのは、前回出てきた、「手蔓」を作るのに便利だという公卿華族の男だが、ほんとうに、手蔓があったわけだ。「市会議員のS という人が偶然にも石本のいわゆる旧臣だった」ということで、石本は「公卿華族」だと紹介されていたが、元は武家だったのだろう。「華族」という名称は、明治になった使われたが、いろいろな呼び名があって、混乱していたらしい。後に華族で統一されたようだ。

 Wikipediaによれば、【華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。】ということになる。

 宿の女主人からも「石本さんの元の御家来やと思うとりますが」などという言葉がすっと出る時代。まだまだ、江戸時代はそんなに遠くはなかったのだ。

 このように周囲の人間が、謙作のために奔走してくれることに対して、謙作は、素直にありがたいと思うことができるようになっていた。

 

 前に「君たちにそういう心配はしてもらいたくない」とか「そういう老婆心が不愉快なのだ」とかいった自分が一年経たぬ内に結局その事で世話にならねばならなくなった事を彼は面白く感じた。「それ見ろ。あんな立派な口をききながらとうとうあたまを下げる事になったろう」こんな風に石本が思うかも知れない、と考えた。そう思うなら思ってもよろしいと彼はまた考えた。

 

 謙作の強烈な自我は、氷が溶けるように、徐々に柔らかくなっていったのかもしれない。

 

 要するに自分は不幸な人間ではないと謙作は考えた。自分は全くの我儘者である。自分は自分の想う通りをしようとしている。それを人は許してくれる。自分は自分の境遇によって傷つけられたかも知れない、しかしそれは全部ではない、それ以上に自分は人々から愛されていたのだ。こんな事を思った。

 

 ずいぶんと柔らかくなったものである。謙作が悩み苦しんできた出自の暗さは、謙作を「不幸」にしたが、「それ以上に自分は人々から愛されていたのだ」と思い至ったというのだ。そして、この件を石本に頼んでよかったと思った。

 ところが、人間の気持ちというのは、なかなか一筋縄ではいかないもので、細かい行き違いはどうしても生じてしまう。その辺のことを、志賀直哉は、実に細密に描いている。

 石本が、先方にもこちらの事をできるだけ詳しく話したほうがいいね、といったのに対して、そうしてくれといいながら、こちらのことというのは「何(ど)の程度までをいうのか不安心に思った。多分、総てをいってくれるのだろうとは思ったが、自分さえ近く知った自分の出生を、本統によく石本も知っているかしら? それが疑われた。」のだ。それで、「つまり僕の出生の事もいってくれるんだね」と謙作は言ったのだが、謙作はそれを「言ってほしい」というつもりで言ったのに、石本は「僕の出生の事のことまで言ってしまうのか?」という意味だととってしまって、「いやな顔」をして、「その事は隠さず打明けねばならぬという事をくどくどといい出した」のだ。

 そういう石本に対してイライラしながらも、自分も、この件を兄に話すときに、ちゃんと言っておかなかったからいけないんだと反省もする。しかし、ちゃんと言わなかったのは、無意識だったのか、意識的だったのか、自分でもよく分からない。やはり、この出生の問題は、根深く謙作のこころを支配し、苦しめているというのが現実なのだ。

 石本との行き違いはあったものの、謙作はあまりこだわらずに済ませることができたのだが、一方では、やはり、どうしたら、この出生のことを相手に伝えることができるだろうかと考える。石本に任せておけばいいとは思えなかったのだ。

 

 謙作は自分の事を彼方へ打明ける一つの方法として、自伝的な小説を書いてもいいと考えた。しかしこの計画は結局この長篇の序詞に「主人公の追憶」として掲げられた部分だけで中止されたが、その部分も何かしら対手に感傷的な同情を強いそうな気がして彼はそれを彼方(むこう)へ見せる事をやめた。そして彼は後になってそれを聴いたが、石本は謙作がその事について尾の道から信行へ出した、最初の手紙を持って来ていて、その中のお栄に関する部分だけを消して先へ見せたという事である。

 

 

 謙作にとっては、小説を書くということが、生きる手段でもあったということがよく分かる。それは、志賀直哉にとってもそうだったのだろう。

 結局、石本は、後に、謙作が信行に書いた手紙の一部を見せることで、この出生の事実を先方へ知らせたということなのだが、「お栄に関する部分だけを消して」というのはどういうことだろう。手紙でお栄に触れているところは、最後の部分だから、そこは見せなかったということだろうか。

 謙作の手紙というのは、尾道で兄からの手紙で、初めて出生の秘密を知って、はげしく動揺した後に、気を取り直して兄に書いたものだ。謙作の苦しみと決意が述べられている長文のもので、なるほど、これを見せるという手があったのかと、感心した。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 93  描写の奥行き  「後篇第三  五」 その2 2021.12.27

 

 

 お栄のことを、相手の女性にどう伝えるべきなのか、あるいは伝えないほうがいいのか、謙作は迷っていたが、こんな結論に至った。

 

 お栄に関する事も打明けねばならぬと思いながら、謙作にはこの事の方は、ひどく苦しかった。何故かわからなかった。そんな事を今いうという事が、あの美しい人に対し、冒漬である、そんな気持に近かった。石本もそれには触れようとしなかったし、彼もある時、打明ける機会に隠さなければいいのだと考え、それは殊更にはいわない事にした。

 

 

 まあ、懸命な判断である。

 謙作が家に帰ると、石本からの使いが来ていて、今夜S氏に会ってもらいたいとのこと。それで謙作は、すぐに出かけた。石本は一人で待っていて、こんなことを言った。

 

 石本は一人で彼を待っていた。  「本人に就いての精しい事は何も分らなかったが、極く大体の事は聴いた」こう石本はいった。それによると、老人は明治三十年代の代議士だった人でS 氏とは同じ政党の関係で前からの知り合いだという事、そしてその女の人は老人の妹の娘で、敦賀の女学校を二年前に出て、嫁入り前の支度かたがた衣裳を買いに来たのだという事、この程度の事だった。

 

 ここで、ようやくかの女性についての、概略が明かされたわけである。

 それで、その後、謙作は、石本とS氏とともに、飯を食いに出かけることなった。

 

 間もなくS 氏が誘いに来た。S氏は五十余りの額のぬけ上がった痩せた人でその薄い柔かな髪の毛を耳の上から一方ヘ一本並べに綺麗になでつけていた。そして石本の事を道隆という名で道様道様と呼んでいた。  すっぽん料理へ行く事にして三人はその宿を出た。そして或る所から電車に乗り北野の方へ向った。

 

 S氏は、石本の「旧臣」だったので、「道様道様」なんて呼ぶのだろうが、もちろん、「石本家」の「旧臣」だったということだろう。まあ、よくある話だが、庶民にはよく分からない感覚である。それはそれとして、この数行で、S氏の風貌が一筆書きで描かれたようにくっきり浮かびあがり、そのうえ、この「道様道様」で、石本との関係までわかる。相変わらず見事な書きっぷりである。

 書きっぷりといえば、この後に出てくる「すっぽん屋」の描写も素晴らしい。

 

 すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へ入り、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当りにあった。金あみをかけた暗い小行燈(こあんどう)が掛けてあり、そしてその低い軒をくぐると、土間から、黒光りのした框(かまち)の一ト部屋があり、其所(そこ)から直ぐ二階へ通ずる、丁度封印切りの忠兵衛が駈け降りて来そうな段々があって、これも恐らく何百年という物らしく、黒光りのしている上に、上の二、三段は虫に食われてぼつぼつと穴があいていた。それをそのままにしてあった。これも一つの見得には違いないが、悪くないと謙作は思った。 すっぽんも、うまかった。昔このすっぽん屋が、蝦蟇(ひきがえる)を捕りに来たという話を謙作は北野の方の池のある屋敷へ住んでいた人から聴いた事があったが、今はそういう事はないに違いないと思いながら食った。

 

 なんという無駄のない、それでいて、細密な描写だろう。極めて映像的で、そのまま映画になりそうな描写だが、「封印切りの忠兵衛が駈け降りて来そうな段々」となると、もう言葉ならではの世界となる。

 「封印切りの忠兵衛」についての、岩波文庫の注はこうなっている。「人形浄瑠璃『冥途の飛脚』の主人公。遊女梅川に迷った忠兵衛が、金に困って他人の金の封印を切るという筋。」

 この芝居は、歌舞伎で見たことがあるが、その歌舞伎独特の暗いなかにも華やかな色調が、この場面の奥行きを深いものにしている。

 そして、その階段の板の描写に至っては、うなってしまう。映像表現なら、この「穴」をアップで撮ればいいが、「それをそのままにしてあった。これも一つの見得には違いないが、悪くないと謙作は思った。」のところは表現できない。まさか、「そのままにしてあるのか。うん、一種の見栄だろうが、悪くないな。」なんてセリフを主人公にしゃべらせるわけにいかない。逆にいえば、映画を見るということは、ある意味途方もない「努力」「想像力」を要するということなのだ。

 「すっぽん料理」のことにしても、老舗にしても、どこかあやしげな店の「陰」の部分を、否定しながらも、書き込むことで、やはり奥行きが出る。ひょっとしたら、出てきたのは「すっぽん」じゃなくて「ヒキガエル」だったのかもしれないという想像は、このエピソードを書いたことで生まれるわけで、何も書かずに「うまかった」だけとは雲泥の差がある。

 どうやら、この結婚話は、うまくいきそうな気配である。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 94  お栄への執着 「後篇第三  六」 その1 2022.1.4

 

 

 石本とS氏との会食は、主従関係にある石本とS氏の話の調子に謙作はなかなか入っていけなかったが、石本が気を遣ってくれた。会食後、謙作は石本は丸山の方を散歩し、翌日の夜行で一緒に東京へ帰ることになったのだった。

 横浜で石本と別れ、大森の家に帰ってくると、お栄が迎えてくれた。お栄は、謙作の結婚話に喜びの言葉を言ったが、自分のことはなかなか話そうとしなかった。しかし、その話があまりに出ない事が変になってきたころに、お栄は切り出した。

 

 

 「……でもね、貴方や信さんが賛成して下すったんで、私、本統に安心しました」
 こんなにいった。こういわれると謙作は弱った。彼は信行の伝えた事が嘘でないまでも、自分の気持を本統に伝えてない事を知った。その信行の上手な所がちょっといやな気がした。
 「あのね、……信さんはどういったか知りませんが、本統をいうと、僕は余り賛成してないんです。不賛成がいえないから賛成したので、実はいやいやなんです」
 これを聞くとお栄はちょっと意外な顔をした。
 「この話がうまく行ったとしても、二、三年は自家(うち)の事を貴女に見て頂きたいんです。そうだと僕には非常にいいんです」
 「そう?……それは私だって、今、貴方とお別れするのはつらいのよ。だけども仕方がないと思っている。それに、そういっちゃあ、何だけれど、私、やっぱり本郷のお父様がこわいのよ。近頃段々そうなって来た。その後は御遠慮して、伺わないけど、こわい眼で何時でも凝然(じっ)とこう睨まれてるような気がして仕方がない」  「そんな事ないさ。それは貴女の気のせいだ。きっと何所(どこ)か身体(からだ)が悪いんだ」
 「ええ、もしかしたら、そうかも知れない」
 「きっとそうだ。第一貴女は本郷のお父さんを恐れる事は何にもないんだ。本郷の父さんとの事は対僕の問題で、貴女の知った事ではありませんもの」
 「そうもいえないわ。お祖父(じい)さんのいらした頃から、私はお父さんの嫌われ者でしたわ」
 「しかしそれでもいいじゃあ、ありませんか。それより、身体が悪いようなら医者に診てもらって、それから直してかからなければ駄目じゃありませんか。とにかく、こんな事はもっとよく考えてから決める方がよかったんです」
 お栄は今更の反対に当惑していた。そして、愚痴っぽい調子で賛成という事だったからお才にもそう返事をし、その支度で今もお才は東京に出ているのだというような事をいった。

 

 謙作の兄信行への気持ちは相変わらずだ。謙作は正直でまっすぐな性格だが、信行は世間ずれして如才ない。だから、言いにくいことは言わなかったりぼかしたりして、うまく取り繕ってしまう。そういう信行に謙作はいつも「嫌な気」がしているのである。

 信行に悪気があるわけではないし、むしろ、信行は誠実なのだ。けれども、謙作の複雑に入り組んだ気持ちをお栄にうまく伝えることはできない。というか、謙作自身、自分の気持ちを正確に把握しているわけではない。「不賛成が言えないから賛成した」「実はいやいやんなんだ」なんて気持ちを、どう他人が説明できるだろう。

 お栄のほうも、自分の気持ちがよく分かっていない。いや「よく分かることができる」ような単純なものではないのだ。謙作が結婚することはうれしいけれど、別れるのは辛い、と言ってしまえばそれまでだが、その心の根底にあるのは、謙作への「愛」といっていいのかどうか。ほんとうは謙作が好きで、できることなら結婚したいと思っているのか、それとも、そういう類いの「愛」ではなくて、むしろ母(代わり)としての「愛」なのか。その辺は曖昧なままだし、自分でも把握できないのだろう。

 父親の妾に対して、「いい気持ち」を持てる息子なぞいまい。むしろ憎しみを持つ方が普通だろう。お栄はその憎しみをいやというほど味わってきている。それなのに、謙作は、「しかしそれでもいいじゃあ、ありませんか。」なんて無責任なことを言うのである。「いやいや」にせよ、賛成したことには違いないのだから、今更そんなこと言われたって困るというお栄の気持ちもよく分かるし、謙作にしても、反省せざるを得ない。

 

 謙作の方も最初はそれほどにいう気はなかったが、いい出すとやはり其所(そこ)までいってしまって、今はいくらか後悔していた。それに、こんな事をいう自分の心持が、自分でもちょっとはっきりしなかった。お栄のためにいっているのか、自分のためにいっていのか、そう考えると、何しろ、お栄に対する、変な未練気から、こんなにして別れてしまうのは、つまらないという駄々っ児のような我儘な気持が起っているのであった。お栄の方だって、もう少し自分に執着していいはずだというような不満があった。離れているとそれほどに露(あら)われなかったこういう気持が、会うと急に出て来るのである。
 しかしこれはいい事ではないと、彼は思った。こういう幼稚な我儘に自身を渡し切ってはならないと考えた。で、彼は今いった言葉を取消すような意味で、ぐずぐずとまずい調子で何か繰返していた。

 

 「いい事ではない」に決まっている。それは分かっているのに、「駄々っ児のような我儘」が心にうごめくのをどうすることもできないのだ。

 「お栄の方だって、もう少し自分に執着していいはずだというような不満があった。」というあたりは、笑ってしまうほどの我儘ぶりだが、案外人間の心の真実をついているのかもしれない。

 お栄に対する「執着」は、恋愛感情というより、やはり母的存在への執着であろう。母と祖父の間に生まれ、母からは愛情をたっぷりと与えられず、父からも疎まれ、かといって実の父たる祖父が猫かわいがりしてくれたわけでもない。ただお栄にすがって生きてきたのが謙作なのだ。お栄が実の母ではないだけに、その「母への愛」と「女性への愛」が入り交じってしまう。

 ことの経緯がぜんぜん違うが、光源氏の藤壺への愛を思い起こさせるところがある。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 95  下品な女 「後篇第三  六」 その2  2022.1.18

 

 

  謙作がお栄に未練を感じて、ぐだぐだ考えているところへ、お才が帰ってきた。

         

 お才という女が大きな風呂敷包を抱え、俥で帰って来た。瘠(や)せた脊(せ)の高い、そして顔に険のある案外年をとった女だった。謙作は最初から不快(いや)な印象を受けた。
「こちら、謙さん?」こう一度お栄の方を向いて、「私、才。初めてお眼にかかります」こういって年に似合わぬ蓮葉(はすっぱ)なお辞儀をした。
 そしてお才は眼尻に小皺(こじわ)を作り、色の悪い歯ぐきを露わし、笑いかけ、臆面もなく親しげに謙作の顔へ眺め入った。謙作は参った。お才に好意のある事が感じられるだけになお、彼は一種圧迫を感じた。とにかくお才は彼の想像以上に下品な女だった。
 彼は自分の好悪感が、そのままにお栄で、働かない事を歯がゆく思った。余りにそれがお栄にはなさ過ぎる気がした。そしてこんな女と一緒に何かしようというお栄の気が知れなかった。
お才は風呂敷を解き、何枚かの華美(はで)な女着物を出して見せた。何(いず)れも古着らしく、何所か垢染(あかじ)みていた。お才は時々、
「これがね……」こんな風にいって、起ってそれを自分の胸に当てて垂らし、お栄に説明した。

 

 実に見事な描写力である。こんなところは、小津安二郎の映画じゃなくて、溝口健二の「赤線地帯」なんぞを思い起こさせる。「お才」は、もちろん、杉村春子だ。「背が高い」という感じでは、浪花千栄子のほうがいいかもしれないが、彼女にはこの「下品」な感じは出せないかもしれない。

 「顔に険のある」の「険」は「性格がとげとげしいこと。顔つきや物言いなどにとげとげしさのあること。」(日本国語大辞典)の意だが、あまり最近は使わないような気がする。

 瘠せて背が高くて、顔に険がある女──謙作の「好悪感」は全開で、「不快」だと判定する。謙作の面目躍如だ。

 「年に似合わぬ蓮葉なお辞儀」というのが、どういうものだかよく分からないが、これも杉村春子がうまく演じそうだ。首をちょっと傾けて、ちょこんと頭をさげる。そんな感じだろうか。この「蓮っ葉」という言葉もほぼ絶滅しかかっているが、調べてみると面白い。

 「蓮っ葉」は「蓮葉」の転じたもので、「蓮葉」とは、もちろん、「蓮の葉」のことだが、そこから後の意味がずらりと並んでいる。「日本国語大辞典」では、
(1)浮薄なこと。軽はずみなこと。軽率なこと。言動につつしみがないこと。また、そのさま。
(2)特に、女性の態度・動作が下品で軽はずみなこと。浮気なこと。また、そのさま。
(3)服装、つくりなどが軽薄なまでに派手であること。また、そのさま。
(4)「はすはおんな(蓮葉女)」の略。
となっている。どうして「蓮の葉」からそんな意味が生じてくるのかは、どうも諸説あるようだが、「日本国語大辞典」には、二つの語源説が紹介されている。
(1)蓮葉商いから。蓮葉商いは盆の供物の物盛りに使う蓮の葉のようにその場かぎりの際物商いの意〔すらんぐ=暉峻康隆〕。
(2)ハスハ(斜端)の意か〔大言海〕。

 どちらもイマイチ説得力がないが、「蓮葉商い」から来ているのだとすると、「軽薄さ」が中心的な意味となるだろう。

 「お才は眼尻に小皺(こじわ)を作り、色の悪い歯ぐきを露わし、笑いかけ、臆面もなく親しげに謙作の顔へ眺め入った。」となると、もうとまらない。これでもかとたたみかける「不快感」だ。そして「下品な女」ととどめを刺す。

 謙作は、その自分の感受性が、そのままお栄のものではないことに歯がゆさを感じる。オレがこれほど下品だと思っているのに、どうしてお栄はそう思わないのだろう? という謙作の思いは、謙作の心のありかたの本質をついている。

 謙作は、滅多にない忌まわしい出自を持つが、それを知ったのは最近のことで、それまでの20数年というものは、金持ちの坊ちゃんとして育ってきたのだ。それに対して、お栄は、謙作の祖父の妾だった女だ。それ以前には、どういう境遇にあったかは分からないが、社会の底辺をさまよってきたのかもしれない女なのだ。その二人が「同じ感受性」を持ちうるはずがない。そんなことは、ちょっと考えれば分かることなのに、謙作は、考えようとしないし、考えたとしても、たぶん想像がつかない。

 

 謙作は少し疲れてもいたし、その場にいにくい気持もし、挨拶して一人二階へ上がって行った。そして彼は床の中に寝そべりながら、今、抱えて来た、東洋美術史稿の挿画(さしえ)を見た。古い時代のものが殊になつかしかった。中には今度の旅で見て来たものもあり、今までになく彼はそれらに惹き入れられた。こうして自分には今までになかった世界が展(ひ)らけて来、そして結婚によって新しい生活が始まるだろう、など考えると、彼の胸には静かな幸福な気持が自然に湧き上って来た。それにつけても、今階下(した)で何か小声で話している二人を想うと、丁度反対な世界が今、お栄に展らけつつあるのではないかという気がし、このままにしていていいのだろうか、という気がした。  久しぶりで、自分の寝床はよかった。暫くして彼は燈を消し、快い眠りに沈んで行った。

 

 謙作とお栄の「違い」は、過去においては明らかだったが、また将来においてもまた明らかであることを謙作は感じる。

 「丁度反対な世界が今、お栄に展らけつつあるのではないかという気がし」どころではない。「丁度反対な世界」がどんな世界であるかは、謙作にはだいたいの想像はつくはずなのに、「このままにしていていいのだろうか」という程度の心配でしかない。そしてその心配は、謙作の「静かな幸福な気持」を寸分も乱すことなく、謙作は「快い眠り」に沈んでいくのだ。

 翌朝起きてみると、お才はもう出かけて、いなかった。話はどんどん進んでいて、謙作は「こう、どんどんと事が運びつつあるのを見ると今更どうもならない気がした。」ということで、結局のところ、謙作は、お栄のために親身になることもなく、傍観者たるにとどまるのだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 96  言葉を聴く 「後篇第三  六」 その3  2022.1.31

 

 

 謙作は、お栄のことは今更どうにもならないと観念して、翌日、石本のところに行ってみたが、石本は京都にいっていていなかった。

 謙作は、お才と会いたくなかった。お栄と自分との関係に「変な興味」を持っていそうな気がしたし、蔭でお栄にどんなことを言っているか、見当がつく気がした。それで時間つぶしもあって、「落語の寄席」に行った。

 久しく東京言葉を聴かなかったような気持から、一つはお才と一緒になりたくない気持から、彼は夜になって落語の寄席へ行き、晩くなって大森の家へ帰って来た。

 しばらく京都にいた謙作は、「久しく東京言葉を聴かなかったような気持」になったという。それで、「落語の寄席」に行ったというのだ。

 ここはちょっと面白い。東京に帰ったのなら、まわりは東京言葉だらけだろうに、わざわざ「東京言葉」を聞くために、寄席に行く。謙作の生活範囲がせまく、日常では石本とか信行、あるいはお栄とかお才とかいった人間しか話し相手がいなかったからだとも考えられるが、日常会話というのは、無意識に使ってしまうので、言葉そのものが際だって聞こえることはない。ちょっと出かけた京都では、そういう日常会話に出てくる京都言葉でも、珍しく、注意もひくけれど、住み慣れた東京ではそういうことはない。

 それと同時に、明治に入ってからの東京というのは、おそらく純粋な東京言葉というか江戸弁は、だんだんと聞かれなくなっていったのだろうと思う。お栄がどこの出身だか分からないが、お才は、岐阜の出身だから、江戸っ子ではない。その言葉は東京言葉のようでありながら、微妙に方言のまざったものだろう。
当時のお偉方ともなれば、薩長閥だろうから、それこそ方言のてんこ盛りである。いってみれば、東京は方言のるつぼといってもいいわけだ。

 だから、東京言葉を純粋に聞く、という目的のためには、確かに落語がいいかもしれない。そこではフィクションの中で、存分に東京言葉が語られる。言葉だけ聞いていても面白い。というか、古典落語の場合は、話そのものは、だいたい知っているわけだから、言葉そのもの、あるいは話し方そのものを聞くことになる。

 そうして事情は現代でも変わりはないどころか、ますます、変化の激しい東京だから、「純粋な東京言葉」を話す人間なんていやしない。NHKのアナウンサーですら、アクセントなどに微妙に関西なまりが混ざったりする始末だから、ますます「古典落語」の言葉が、異国の言葉のように感じられてくる。

 まあ、言葉の「純粋さ」などといっても、実際のところなんのことやら分からないわけで、むしろ昨今はやりの「多様性」という観点からすれば、どこの言葉か分からないという状況は、好ましいのかもしれない。

 ここで、「寄席」と言わずに、わざわざ「落語の寄席」といっているのは、当時は、「寄席」といっても、講談の寄席やら、浪花節の寄席やら、いろいろあったからであろう。一時期、浪花節の人気はすさまじいものがあり、落語の寄席などがガラガラになるようなこともあったらしく、「落語の寄席」に浪花節を出演させたらどうかとか、いやダメだとか、いろいろあったらしい。

 さて、その「落語の寄席」から大森の家に帰ってみると、お栄とお才が話し込んでいる。

 

 お栄とお才はまだ起きて、茶の間の電燈の下で何か話し込んでいた。
 お才はその話で興奮しているらしく、前夜のような世辞もいわず、自分で急須へ湯をさし、それを茶碗へしたむと、謙作の前へ置いて、直ぐ、話を続けた。
 「それが、お前さん、ちっとも私は知らなかった。その春から、これだったんだ……」
 こう荒っぽくいって、お才はその瘠せこけた片手の指と小指の先をお栄の鼻先きで二、三度忙(せわ)しく、くっ附けて見せた。
 お栄は眼を伏せ、黙っていた。
 「口惜しいっちゃ、ない。旦那も何だけれど、妹の奴、食わしてもらっていて、そんな事をしやがるかと思うと、まさか本気でもなかったが、私は出刃庖刀を振廻してやった」
 謙作は何だかいたたまらない気持になって来た。茶を飲みながら、腰を浮かしていると、それと察したお栄が急に顔を挙げ、
 「お菓子でも出しましょうか」といった。
 「もう沢山」こういって起ちかけると、お才も気がついて、
 「いやな話で、済みません」と殊更に作り笑いをして謙作の方を向いた。
 「石本さん、いらしたの?」とお栄がいった。
 「いなかった。今日いない事は知ってたんですが、すっかり忘れてたんです。仕方がないから、《はなしか》を聴いて来ました」謙作は火鉢の傍(そば)へいって、腰を下ろした。

 

 こういうところもうまいものだ。お才の話の内容は、これではちっとも分からないが、想像すると、お才の妹はある旦那の妾になっているが、その妹が浮気でもした、てなところだろうか。いやいやそうじゃなくて、お才は妹を食べさせてるが、お才の旦那と浮気をしたということか、どうもそんな感じだ。いずれにしても、出刃包丁を振り回すなんて尋常じゃない。そんな話を聞いて、謙作がおそれをなして、「いたたまらない気持」になって、「腰を浮かしていると」というところが愉快だ。

 ぼくだったら、「ほう、それで、それからどうなった?」って首を突っ込むところだろうが、育ちのいい謙作は「聞いていられない」のだ。
 お栄は、そういう謙作の気持ちをすぐに察するが、お才もまた、それが分かる。自分と謙作の住んでいる世界がまるで違うことをちゃんと分かっているのだ。しかし「殊更の作り笑い」がやっぱり下品だ。

 「自分で急須へ湯をさし、それを茶碗へしたむと」の「したむ」が分からなかったので、調べたら、いろいろな意味があるなかで、「残りなくしずくをたらす。また、特に徳利や杯などの酒を、こぼしたり、のんだりしてまったくからにする。」(日本国語大辞典)がしっくりきた。今でも使う人がいるだろうか。「茶碗へ注ぐ」ではなくて「茶碗へしたむ」とすると、最後の一滴まで茶をそそぐ様が目に見えるようだ。

 謙作が「《はなしか》を聴いてきました。(《  》は傍点)」と言うが、この言い方もおもしろい。「落語を聴いてきた」ではなくて「はなしかを聴いてきた」と、当時はよく言ったのだろう。落語の場合は、その内容よりも、どの噺家が話すかを重視していたということだろう。まあ、これも、落語に限らず、歌謡曲だって、ロックだって、謡曲だって、みんな同じことだろう。

 「矢切の渡し」を聴いた、ではダメなので、「細川たかしの『矢切の渡し』」を聴いたのと、「ちあきなおみの『矢切の渡し』」を聴いたのとでは、「体験」が、あるいは「体験の質」が、まるで違うわけである。

 お才は、自分も落語は好きだが、「彼地(あっち)」じゃいいものが来ないなどといって、話を続ける。

 

 お才は食卓に両臂(りょうひじ)を突き、米噛の所に両の掌(たなごころ)を当て、電燈の光りから顔を陰にしながらそんな話をした。それはそうする事で顔の小皺が見えなくなり、艶を失った皮膚の色が分らなくなるためにいくらか美しく 見えた。勿論お才はその効果を十二分に知って、しているので、そして謙作にも実際それが美しく見えた。少なくもこの女が若かった頃は相当に美しかったかも知れないという気を起こさせた。

 

 こうした描写も見事なものだ。お才という女は、下品だが、その女がこんな美しさを演出できる。お才の生きてきた世界では、こうした演出は必須で、それはそれでひとつの美だ、ということだろうし、だからこそ、男は永遠に女に惹かれ続けることにもなるのだろう。いいとこの坊ちゃんたる謙作だが、さすがに遊び慣れているだけあって、こういう美には敏感なのだ。

 

 


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