志賀直哉「暗夜行路」を読む (9) 78〜86

後篇第三 (一)〜(二)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 78  「別世界」としての京都   「後篇第三  一」 その1 2021.6.7

 

 謙作の大森の生活は予期に反し、全く失敗に終った。彼は恐しく惨めな気持に絶えず追いつめられ、追いつめられ、そして安々とは息もつけない心の状態で来たが、ふとした気まぐれで、一卜月ほど前からこの京都へ来てみて、彼は初めてい<らか救われた気持になった。

  しばらく休憩していたこの「暗夜行路」の読書だが、ようやく再開する気持ちになった。いちど休むと、なかなか腰が上がらないものである。「前編」は77回にも及んでしまったが、この「後編」は、せめてその半分を目指したいが、どうなることやら。

 「前編」は、雑誌「改造」大正10年の1月号〜8月号に連載されたのだが、そのラストは、世にも有名で、皆目意味のわからない「豊年だ! 豊年だ!」という謙作の叫びだった。その回にも書いたとおり、そうした収束の仕方は、志賀が行き詰まった証拠だと今でも思うのだが、その後数ヶ月を経て大正11年1月号から昭和12年の4月号まで「後編」を断続的に発表した。なんと、全編完結まで、17年かかったわけである。「暗夜行路」の出発となった「時任謙作」からは26年となる。なんとも、気の長い話だが、気が長いというよりも、それだけ執筆に苦労したということだろう。

 ぼくのこの「読書」が遅々として進まないのも仕方ないというものである。書いたほうが難航しているんだから、読む方はもっと難航する。まあ、書き手がどんなに難航しても、読む方はちっともそれに気づかず、スラスラ読めるというのが普通というものだろうが、志賀直哉は、正直だから、難航している様子が手に取るようにわかっちゃうのだ。(なんて言っていいのだろうか?)

 さて、「後編」は、今までの話を全部「謙作の大森の生活は予期に反し、全く失敗に終った。」という簡単な説明で、ぜんぶチャラにして、舞台を京都に移す。謙作の「安々とは息もつけない心の状態」がいったいどんなものであったかの説明もないし、京都へ来た理由も「ふとした気まぐれ」としか書かない。でも、とにかく、京都へ来て「いくらか救われた気持」になったのだ。

 出生の秘密を知ってしまい、ほとんどやけっぱちな気分になった謙作は、「今までの自分を知らない自分」になりたいと思った。「今まで呼吸していたとは全く別の世界、何処か大きな山の麓の百姓の仲間、何も知らない百姓、しかも自分がその仲間はずれなら一層いい。其処で或る平凡な醜い、そして忠実な《あばた》のある女を妻として暮らす、如何に安気(あんき)な事か」とまで思ったのだ。

 しかし上流階級の師弟として生まれた謙作にとって、そんな生活は幻想でしかないのは明白で、謙作はまた遊郭に通い、遊女の乳房をもてあそびながら、「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶに至ったのだ。それが何の解決にもつながらないこともまた明らかだった。

 謙作が見つけた「今まで呼吸していたとは全く別の世界」は、百姓の世界ではなくて、京都だった。その意味は小さくはないだろう。

 

 古い土地、古い寺、古い美術、それらに接する事が、知らず彼をその時代まで連れて行ってくれた。しかもそれらの刺激が今までのそれと全く異っていた。それが現在の彼には如何によかったか。そして如何によき逃場であったか。しかし彼は単に逃場としてでなく、これまでそういう物に触れる機会の比較的少なかった自分として、積極的な意味からもこの土地にともかくも暫く落ちつく事は悪くない事だと考えたのである。
 彼は丁度快癒期にある病人のような淡い快さと、静けさと、そして謙遜な心持を味わいながら、寺々を見て廻った。

 

 
 「前編」では、そうした「別の世界」としては尾道が出てきて、強い印象を与えている。尾道が、観光地としても有名になったのも、近年では、大林宣彦監督の「尾道三部作」によるものかもしれないが、それ以前では、この「暗夜行路」が果たした役割も大きいだろうし、また、林芙美子の作品もそうだろう。

 「後編」となると、あの「大山」があまりにも有名だが、まずは出だしは京都である、ということに注目しておきたい。

 「古い土地、古い寺、古い美術」が謙作にとってどんなにいいものだったかは、あまり詳しくは書かれていないが、まずは「逃場」だったという。自分が抱えている大きな悩みからの「逃場」。長い歴史的な時間の中に浸ることで、自分の抱える問題の卑小さが痛感されるということはある。

 「古い土地」も、「古い寺」も、「古い美術」も、みな長い時間をたたえているのだ。今目の前にある「古い寺」は、寺という建築物ではなくて、時間そのものだと言ってもいい。古寺を前にして、昔をしのぶというが、そうではなくて、数百年という時間そのものが、今、目の前に現前しているのだ。

 そういう風に謙作が感じたかどうかは知らないが、単に「逃場」としてだけではなくて、そうしたものに「積極的」に触れていこうと考えたことも、大事なことだと思う。

 引用ぶ最後にある「彼は丁度快癒期にある病人のような淡い快さと、静けさと、そして謙遜な心持を味わいながら、寺々を見て廻った。」の一文も、印象的である。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 79  ポクリポクリと歩きたい   「後篇第三  一」 その2  2021.6.17         

 

 住むべき家を探して、謙作は京都を歩く。

 

   それにしても、早く住むべき家(うち)を探さねばならぬのであるが、行く先々に何かしら見るに足る寺々のある京都では、貸家探しはいつか寺廻りと変る方が多かった。
 その日も朝涼(あさすず)の内に嵯峨方面を探すつもりで、天気続きにポクリポクリほこりのたつ白い道を釈迦堂から二尊院、祇王寺の方へ廻り、結局、目的の貸家は一軒も見ず、二尊院の「法然上人足びきの像」と称する偉(すぐ)れた肖像画をその日の収穫とし、満足して午頃(ひるごろ)、川に望んだ東三本木の宿へ引き上げて来たのである。
 午後中、彼はその宿の暑い小さな座敷でごろごろして暮らした。
 やがて、日が入りかけ、宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、晩の食事に向かった頃には漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。
 食事を終った彼は敷居に腰を下ろし、団扇を使っていた。低い欄干の下を小さい流れが気忙わしく流れている。新しく出来た河原の広い道で男女の労働者が川底から揚げて来た砂利を大きさに従ってふるい分けている。それから所々、草の生えている加茂川。それから日の当った暑そうな対岸の往来、人家、その上に何本かの烟突(えんとつ)、そして彼方に真正面に西日を受けた大文字から東山、もっと近く黒谷、左に吉田山、そして更に高く比叡の峰が一眸の中(うち)に眺められた。
 「早く秋になるといいな」彼はそう思った。冷え冷えと身のしまる朝、一人南禅寺から、若王子(にゃくおうじ)、法然院、あのあたりに杖をひく自身の姿を想い浮べると、彼にはしみじみそう思われるのであった。

 

 こういうところを読むと、やっぱり志賀直哉は文章家だなあと思う。

 詩人の吉野弘が、「山本周五郎小論」(「現代詩文庫 12 吉野弘」所収)というエッセイで、「山本周五郎の文章は、溜息が出るほど巧みである。文章のうまいという点では、志賀直哉と並ぶ作家だと、私は思っている。」と書いている。

 吉野弘、山本周五郎、志賀直哉という取り合わせは、なんか珍しい感じだが、吉野弘は山本周五郎に共感しつつも、そこに、世間では「民衆を描いた作家」と思われているが実は「民衆嫌い」が潜んでいるのではないかと指摘している。そしてその嫌いな民衆を、理想的な民衆にしたてあげたいと思うのが周五郎で、彼の作品は「教訓物語」なのだとしている。

 そんなふうに論じながら、吉野は志賀に触れて、次のように言っている。


 志賀直哉は、私の、最も傾倒している作家だが、この作家ぐらい「不快」という感情をむき出しにする作家は、他にないような気がする。そのたびに私は、育ちが違う、という思いにとりつかれるのであるが、志賀直哉という作家にとって、この「不快感」の赤裸々な表出は、頗る重要な意味をもっている。つまり、作家としての志賀氏は、「不快」を「不快」として、はっきり外へ示すことを通じて自己確立を押し進めていったと私には思われる。
 ところで、「不快」を「不快」として外部に表出するということは、そういうことができるという生活環境ときりはなしては考えられない。青年期の志賀氏は、不快という感情を抑制しなくてもすむような、経済環境に育ち、その中で、対自己、対社会、対自然の感情を育てていった。


 なるほど、「不快」を「不快だ」と外に向かって臆面もなく表出できるのは、「育ちがいいからだ」というのは実に分かりやすい。けれども、それならそんな贅沢は許されない育ちの悪い人間が、「不快」を感じたとき、どうなるか、というのが、この後のこのエッセイの展開だが、ここでは深入りしない。ただ、吉野弘という詩人が志賀直哉に「傾倒していた」ということを、ちょっと心にとどめたいと思って引用してみたまでだ。

 さて、本題に戻るが、志賀の「名文」によって紹介される京都の町の姿には魅了される。

 「朝涼」という言葉は、俳句の季語でもあるらしいが、初めて知った。(あるいは忘れていた。)いい言葉だ。真夏になるとそんなことも言ってられないほどの暑さで、「朝暑」としかいいようがないが、ちょうど今日などは、ぴったりの言葉。京都の夏は暑いから、よけい「朝涼」はありがたいのだろう。

 謙作が宿をとっているのは、加茂川のほとりの「東三本木」(京都御所の近く)。そこからポクリポクリと歩いていけば、小一時間もしないで嵯峨野にいける。

 嵯峨野は何度も行ったところだが、修学旅行の引率も多く、なかなかポクリポクリというわけにはいかなかった。直近では、6年ほどまえに京都に行っているが、その時は嵯峨野に行ったかどうか記憶にない。その後、京都は外国人観光客でごった返し、そのうちコロナ禍となって、今では、行くことすらできない。

 ああ、嵯峨野あたりに杖をひきたい。ポクリポクリと歩きたい。そうして、昼過ぎには宿に戻って、ごろ寝したい。

 「やがて、日が入(はい)りかけ、宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、晩の食事に向かった頃には漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。」という文章は、これが果たして「名文」だろうかと思うほど、素朴だ。小学生の作文みたいだ。とくに、「宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、」の部分。江戸っ子なら、「ひとっ風呂あびて」で済ますところだし、風呂に入ったなら「出る」のは当たり前だから、「出て」なんてわざわざ書くこともない。それなのに、志賀直哉は、そんな当たり前のことを、将棋の駒を置くように、ぽん、ぽん、と書き連ねる。幼稚のようでいて、巧みなのだ。

 これを、「夕方になったので、風呂に入って、食事をするころには涼しくなっていた。」としても、意味するところに大差はない。まあ、「女主」が出てこないぐらいの差だ。しかし、実は大差があるのだ。それは、そこに流れる「時間」である。

 「やがて(この言葉自体が時間を含んでいる)────日が入りかけ(この「入りかけ」の中に数十分が流れているわけだ)──宿の女主が風呂をいいに来て(「お風呂が入りました」という女主の言葉に対して、謙作は何か答えたはず。さらに、世間話があったかもしれない。)────それから出て(風呂から「出る」のは当たり前だが、あえてこう書くことで、風呂に入っている時間が流れる。)────晩の食事に向かった頃にには(「食事に向かう」までに、おそらく数十分のゆったりした時間が流れたことだろう。)────漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。(「漸く」には、今までの暑かった時間とともに、今は涼しさを感じる謙作の喜びが感じられる。その謙作の心の中には、今日一日の出来事の回想の時間も流れるわけだ。」

 小説を読むということは、ただ物語の筋・展開を追うのではなく(それも必須だが)、そこに流れる時間を味わう、あるいはその時間に身を浸すということだ。筋や展開は、「論理」が主導するが、時間は、たぶん「感覚」に導かれる。

 食事を終わったあとの描写も秀逸である。加茂川べりの風景が、繊細に描かれ、まるでそこにいるかのような錯覚にとらわれ、やがて、謙作とともに「早く秋になるといいな」としみじみ思うのだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 80  新しい出会い   「後篇第三  一」 その3 2021.6.29

 


  彼は巻烟草(まきたばこ)に火をつけ、起ち上がって、庭へ下り、流れにかけ渡した一枚板の橋から河原へ出て見た。草いきれのした地面からの温か味が気持悪く裾から登って来る。そして其所には汗と埃で顔に隈取りをした町の児らが甚兵衛一枚の姿でまだ、ばったを追い廻していた。彼はぶらぶらと荒神橋の方へ歩いて行った。

 

 加茂川沿いの宿からは、すぐに河原に出ることができる。謙作は一休みすると、また川べりを散歩する。

 軒を並べた河原の家々では、電燈のついた下で、向き合って酒を飲んでいるのなどが見られた。
 その一軒に多分地方から出て来たらしい病人で、近いこの辺に部屋借りをして大学病院に通っているという風の老人がいた。謙作は四、五日前から、一人の若い看護婦とその老人の細君らしい五十余りの女の人のいるその家に心づいていた。そして今、彼が何気なくその前へ来ると、毎日は見掛けない若い美しい女の人がその縁で土鍋をかけた七厘の下をあおいでいるのを見た。大柄な肥った、そして火をおこしているためかその豊かな頬が赤く色づいている。それも健康そうな快い感じで彼に映った。彼はその人に惹きつけられた。普段何気なく美しい人を見る時とは、もっと深い何かで惹きつけられ、彼の胸は波立った。それはそれほどにその人が美しかったというのとも異う。彼は自分ながら初心者(しょしんもの)らしい心持になって、もうその方を見られなかった。そして少し息苦しいような幸福感に捕えられながらその前を通り過ぎた。

 

  出会いはこんなふうに語られる。

 今の都会では、道から家の中をのぞかれないように、最大限の注意をはらって視界を遮断するから、こんな光景にはめったにお目にかかれない。何十年と同じ家に住み、何十年と隣合わせながら、その隣人が家の中で何をしているか、まったく分からない。見たこともない。見えるとすれば、向かいの家のジイサンが、ベランダに干した洗濯物をときどき裏返したり(その奥さんによれば、そんな必要はないらしいのだが)、その隣のジイサンが開け放した窓辺で、ウクレレを弾いているぐらいなものである。しかし、その人たちが家の中で何をどのようにしているかなど、まったくうかがい知れない。

 それが、ただ通りがかっただけで、「多分地方から出て来たらしい病人で、近いこの辺に部屋借りをして大学病院に通っているという風の老人」と見えてしまうということは、謙作の鋭い観察眼があるからだろうが、やはり何度も通りかかっただけではなくて、家の中までよく見えるということが大きい。この老人がどうして「地方から出て来たらしい」と分かるのか。京都人らしくないたたずまいだろうか、着ている衣服が野暮ったいのだろうか、それとも、ちょっとだけその話し声が聞こえてきたのだろうか。うん、きっとそうだ。

 「その老人の細君らしい五十余りの女の人」というが、この「老人」って、いったい何歳ぐらいなのだろうか。今では「老人」といえば、たいていは70代とか、あるいは80代を連想するが、おそらく当時は60代だろう。斎藤茂吉は71歳で死んだが、その年譜をみると、64歳の項に「老いた茂吉の心に再び創作意慾が燃え立った。」(「日本詩人全集10 斎藤茂吉」昭和42年刊)と書かれている。昭和42年(1967年)においては、64歳で「老いた茂吉」と表現しても少しも違和感がなかったはずだ、ということだ。この「細君」が「五十余り」だとすれば、まあ、「その老人」は、60歳そこそこであったろう。今の感覚からすると、すごく年の差がある、ように感じてしまうので、注意する必要がある。

 そして、謙作は「美しい人」を発見する。「美しい女の人」と言っておきながら、すぐに「それほどにその人が美しかったというのとも異う」と否定するのは、「普段何気なく美しい人を見る時とは、もっと深い何かで惹きつけられ」たからだと言う。

 それは、東京での遊蕩生活の中で出会ってきた女とはまるで違うなにか、つまりは、外面の美しさを越えた「もっと深い何か」を感じ、「惹きつけられた」からだというのだ。

 その「深い何か」がなんなのかを言葉にはできない。できないからこそ大事な「何か」なのだ。こうした出会いは、第一部にはなかったような気がする。

 謙作は、これまでの女性関係において、それほど「美人」にこだわってきたわけではない。商売女との付き合いにおいても、そこに、商売女を「越えた」何かをいつも求め、その挙げ句に幻滅するということの繰り返しだったし、謙作がある意味、ほんとうに愛した女は、「お栄」であったのかもしれないが、それは祖父の妾で、かつまた「育ての親」でもあったような不思議で不自然な関係だった。

 また結婚しようとした愛子は、別に謙作が見初めたわけではなく、恋愛とは別の結婚相手として考えたところがあって、ただ、一方的に断られたことが謙作のプライドを傷つけ、同時に出生の秘密を恨むことにもなったわけだ。

 あとはただ遊郭に入り浸り、娼婦を相手に「無い物ねだり」をしていたに過ぎない。娼婦の乳をささげて、「豊年だ! 豊年だ!」と叫んでみても、それがそのまま謙作に新しい生活を約束したわけではなかった。

 しかし、この京都で、謙作は、初めての「出会い」をしたのだ。謙作の「幸福感」は、手に取るように伝わってくる。

  荒神橋の下まで行って引き返した。彼は遠くから注意した。その人は縁へ立って、流れをへだてた河原の人を見下ろして話していた。河原の人は年とったいつもの女の人で、いう事はわからなかったが、何かいって二人が一緒に身を反らして笑うと、若い人の声だけが朗らかに彼の所まで響いて来た。その快活な響に思わず彼は微笑する気持へ誘われた。間もなく年とった人は川べりの方へ歩いて行った。湯上りらしく団扇を片手に持っている。そして若い方の人は土鍋のふたをとって中へ入って行った。
 その人はたすきがけで働くにしてはいい着物を着ている。その日特別に手伝いに来たらしく謙作には察せられた。そして働き方もいそいそとそれに興味を持っているような所が、何か小娘の飯事遊びの働きかたに似て見えた。
 彼が前まで来た時にまたその女の人は縁へ出て来た。彼は少し堅くなったが、自分でもなるべく何気ない気持になって通り過ぎた。後ろから見られるような気がして身体が窮屈であった。

 

  まるで、淡い陰影に彩られた川瀬巴水の木版画のような光景である。

 謙作は、対岸へ行ったのだろうか。それとも、同じ道を引き返し、「その人」の家の遠くから見ていたのだろうか。たぶん後者だろう。加茂川は相当幅広い。

 遠くに見える人を、その姿や動き、そして時々聞こえてくる声で描く文章は、ほんとに巧みだ。

 特に「その人」を、着ている着物と、「働き方」で描ききる手腕には感心する。「働き方もいそいそとそれに興味を持っているような所が、何か小娘の飯事遊びの働きかたに似て見えた。」なんて、そうそう書ける文章ではない。

 確かに「主婦」は、そんな「働き方」をしない(だろう)。七輪に土鍋をかけるのも、その鍋を家に持ち込むのも、べつに「いやいや」やってるのが目に見えなくても、あるいは「いやいや」じゃなかったとしても、そこには習慣をこなすことへのめんどくささとか、疲れとか、諦めとか、そんなものがほのかに、あるいは濃密に、漂うものだ。けっして「いそいそそれに興味を持って」という感じにはならない。

 そんなふうに、「その人」を描くのに、いわば「裏側」から描くとでもいうのだろうか、「あ、これは絶対、主婦じゃないよなあ」という描き方が素晴らしい。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 81  「不恰好な白い浴衣」の秘密  「後篇第三  一」 その4  2021.7.10

 

 

散歩の途中、偶然見かけた「美しい人」のことが、宿に帰ってからも思い出されて、謙作は落ち着かない。それで、再び外へ出た。

         

 「彼は宿へ帰ってからも落ちつけなかった。しかしそれはやはり幸福な気持だった。そしてそれをどうしたらいいのか、そして全体これはどういう気持なのか、と思った。確かに通り一遍の気持ではなかった。
 彼は今日もう一度通っておかねば、明日はもう其所にいないだろうと思った。で、自身玄関の下駄を庭へ廻し、再び暗い草原道(くさはらみち)へ出て行った。その時は既に暮れ切ってはいたが、河原はかえって涼みの人たちで賑わった。彼は多少気がひけながらその方へ歩いて行った。
 女の人は年とった方の人と縁へ坐って涼んでいた。屋には蚊帳が釣られ、その上に明かるい電燈が下がっていた。並んで川の方を向いている二人の顔は光りを背後(うしろ)から受けているので見られない代りに、此方(こっち)はそれを真正面(まとも)に受けねばならぬので、余り見る事が出来なかった。女の人は湯上りらしく白い浴衣を不恰好に角張らして着ていた。そしてその張った不恰好さもまた彼には悪くなかった。二人は団扇を使いながら、しんみりと話込んでいた。


 「落ち着けない」気持ちは、やはり「幸福な気持ち」であったが、それが「どういう気持ち」なのかを言葉にはできなかった謙作だが、それが「通り一遍の気持」ではない確信を得た。どうしても、もう一度見てみたいと、気持ちははやった。

 もう一度そこへ行ってみなければ、その人は明日はもういないかもしれない。とにかく行ってみよう。「そう思った謙作は、玄関を飛び出した」、とは書かないところが志賀直哉である。

 「で、自身玄関の下駄を庭へ廻し、再び暗い草原道へ出て行った。」と書く。描写が精密なのだ。どうしてそのまま玄関の下駄を履いて出て行かなかったのか。おそらく宿の主人が、あの人、出たり入ったりなにしてはるん? とか思うことを、はばかったのだろう。

 外へ出ると、「暗い草原道」で、「暮れきって」いる。しかし、河原は、さっきよりも賑わっている。夕暮れどきの暗さの中での賑わいが、「音」として感じられる。

 女はまだそこにいた。この部分の描写が素晴らしい。さっき見たときは、女は七輪で鍋を作っていて、そこに老人もいた。(挿絵は、「日本の文学」(中央公論社)で、石井鶴三が描いたものだが、まさにこのシーンを描いたわけだ。)それから、どれくらい経ったかしらないが、再び行ってみると、老人の姿は見えず、二人の女だけが縁にすわって、「団扇を使いながら、しんみりと話込んでいた。」何を話しているのか分からないが、二人の仲の良さが感じられる。

 「女の人は湯上りらしく白い浴衣を不恰好に角張らして着ていた。」とあるが、おそらく、その白い浴衣は洗い立てで糊がきいているのだろう。女はたぶん、そこの住民ではなくて、よそからやってきたので、洗ったばかりの浴衣を出してもらったのだろう。

 浴衣のことはよくは知らないが、源氏物語などを読むと、着物の描写の中に「なえたる」という言葉が出てくる。有名なのは、「若紫」の巻で、幼いころの紫の上を初めて源氏が垣根のスキマから覗き見る場面だ。

 

きよげなる大人ふたりばかり、されは童べぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り着たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあるず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。

《口語訳》こざっぱりした女房が二人ほど、それから女童(めのわらわ)が出たり入ったりして遊んでいる。その中に、十歳くらいかと見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの着なれた表着(うわぎ)を着て、走ってきた女の子は、大勢姿を見せていた子どもたちとは比べものにならず、成人後の美しさもさぞかしと思いやられて、見るからにかわいらしい顔立ちである。

 

 「萎えたる」をここでは(「日本古典文学全集」小学館)、「着なれた」と簡単に訳しているわけだが、「萎える」というのは、糊のきいた着物の布地が、なんども着ることによって柔らかくなることを意味しているのである。平安時代においては、着物は、こうした「なえたる」ものを着るのが、美しいとされていた。

 現代においてはどうなのか、これもよく分からないのだが、ここに出てくる「白い浴衣を不恰好に角張らして着ていた」というのは、「萎えたる」の逆であることは確かだ。だから、「不恰好に角張らして着ていた」というのは、女の着方が下手なのではなくて、まだ糊がきいているので、どうしても「角張って」しまう様を言っているのだ。

 つまり、「角張ってしまう」白い浴衣は、「不恰好」だが、そこにはなんともいえない清潔感もあるのだということなのだ。だからこそ、「その張った不恰好さもまた彼には悪くなかった」と謙作は感じるのだろう。これを、「かっこ悪い着方だけど、それもまた味だった」というような読み取り方では、ここの情感は味わえない。

 

  荒神橋まで往ってあがり、今度は対岸を丸太町橋の方へ引きかえして来た。遠く影絵のように二人の姿が眺められた。
 橋の袂(たもと)から、彼は東山廻りの電車に乗った。丁度涼み客の出盛るで電車は混んでいた。彼は立ったまま、祇園の石段下まで行って、其所で降りた。

 

 謙作は、対岸へ渡って、もう一度女をじっくりと眺める。「遠く影絵のように二人の姿が眺められた。」とあるが、ほんとうに影絵のように美しい。

 まるで川瀬巴水の木版画のようだと前回も書いたが、川瀬巴水の木版画をちょっと紹介しておく。京都の風景ではないが、昭和6年ごろの日本には、全国至るところに、こうした風景はあったのだろう。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 82  気高い心  「後篇第三  一」 その5 2021.7.25

 

 

  影絵のように見えた「美しい人」のイメージを心に抱きつつ、謙作は、考え、歩く。

         

 彼は自分の心が、常になく落ちつき、和らぎ、澄み渡り、そして幸福に浸っている事を感じた。そして今、込み合った電車の中でも、自分の動作が知らず知らず落ちつき、何かしら気高くなっていた事に心附いた。彼は嬉しかった。その人を美しく思ったという事が、それで止まらず、自身の中に発展し、自身の心や動作に実際それほど作用したという事は、これは全くそれが通り一遍の気持でない証拠だと思わないではいられなかった。そして何という事なし、あの気高い騎士ドンキホーテの恋を想い出していた。彼は大森でその本を読み、その時はそれほどに感じなかったが、今自身の心持から、ドンキホーテの恋も、それを彼が滑稽を演ずる前提とのみ見るべきではない事に考附(かんがえつ)いた。勿論トボソのダルシニアと今日の人とを比較するのはいやだった。しかしドンキホーテの心に発展し、浄化されたその恋は如何に気高い騎土を更に気高くし、更に勇ましくしたか、──彼には変にそれがピッタリと来た。
 彼は自身のそれをどう進ますべきか、そういう事を考える気もなく、ただ、彼に今、起っている快い和らぎ、それから心の気高さ、それらに浸っていた。四条通りをお旅まで行き、新京極の雑沓を人に押されて抜けながらも彼の心は静かだった。そして寺町を真直ぐに丸太町まで歩き、宿へ婦って来た。

 

 美しい人を見た謙作は、そのことで心が「常になく落ち着き」「和らぎ」「澄み渡り」「幸福に浸っている」ことを感じる。「外部」としての、「美しい人」を「見た」ことで、自分の心に変化が起きたのだ。その変化のさまを、謙作は、じっくりとたどっていく。

 東京で「見た」女は、謙作の心をひいたけれど、そうした作用を及ぼすことはなく、ただ謙作の心を惑乱させるだけだった。惑乱させて、その挙げ句に幻滅させる、そういう経緯ばかりをたどった。

 それに対して、今度の「美しい人」は、謙作の心を、穏やかな澄んだ状態へと導いた。その心の状態は、やがて「気高さ」へと到達していることに謙作は気づくのだ。

 「その人を美しく思ったという事」は、「その人」が「美しかった」ということではない。人間が「美しい」かどうかなど、客観的に決められるものではない。「美しく思った」というのは、謙作の心がそう捉えたということだ。美はそこにしかないのか、あるいは、「客観的」に存在するのかという問題は、おそらく美学の古くて新しい根本的な問題だろう。謙作の立場は、決定的に、自分の心、つまりは、感覚や感性に重点をおいている。

 志賀直哉の「リアリズム」が、「主観的リアリズム」だと言われることがあるが、それはこういうところから来るのかもしれない。しかし、ここは「リアリズム」ですらないのではなかろうか。「その人」は、確かに、謙作が「美しい」と感じるような「美的要素」を備えてはいただろう。けれども、志賀は「その人」の「美的要素」については一切書かないのだ。問題は、自分が「その人を美しく思ったという事」に絞られる。
単純に言えば、ある女性を見て、「ああ、いいな。きれいだな。」と思ったということだ。それは誰にでもあることで、普通はそのこと自体はすぐに忘れてしまう。もちろん、その女性の面影がいつまでも心に残るということはあるにしてもだ。

 しかし、謙作は、「その人を美しく思ったという事」が「それで止まらず」に、「自身の中に発展し、自身の心や動作に実際それほど作用したという事」を重要なこととして考える。「きれいだな」と思ったことが、自分の行動に作用した──つまりは、家に帰ってからもう一度出かけて行ってその姿を見た──ということ、それを「通り一遍の気持でない証拠」だと謙作は思うわけだが、それとても、「よほどその女性が気に入った」証拠だということに過ぎない。

 真に重要なのは、その心が単にその女性への思慕に止まらずに、「心の気高さ」に到達するということだ。短絡的にいうと、「きれいな人を見たら、気高い心になった。」ということになり、これはあまり目にしない構図である。

 普通は──なにが「普通」なのかほんとは分からないが──こうはならない。ろくでもない人間なら、きれいな女性を見たら、欲情にかられ、なんとかこの女をものしたいとか不埒なことを考えるだろう。「心の気高さ」どころじゃない。「心の醜さ」を自覚──ならまだいいほうで、露呈することにもなりかねない。

 謙作の場合は、極端にいえば、「その人」のことは問題にならない。「その人」がどう自分の心に作用し、どのような心の状態に導いたかだけが問題なのだ。これは、「リアリズム」でもなんでもない。「主観的リアリズム」ですらない。

 その「心の気高さ」をドン・キホーテのそれに比するのは、なんとも滑稽だが、それすらも謙作(志賀)は恐れない。そして、こういうのだ。「彼は自身のそれをどう進ますべきか、そういう事を考える気もなく、ただ、彼に今、起っている快い和らぎ、それから心の気高さ、それらに浸っていた。」と。

 しつこいようだが、謙作の心を占めているのは、「自分の心の状態」であって、「その人」のことではない。なんと不思議なことだろう。普通なら、その人のことで頭がいっぱいで、かろうじて自分の心を覗いたら、「俺はなんて汚い男なんだ、なんて汚れた男なんだ」という自己嫌悪ばかり、というのが相場じゃなかろうか。

 謙作に「自己嫌悪」がなかったわけではない。むしろ東京にいたころの謙作の心を占めていたのは、一種の「自己嫌悪」だった。その「自己嫌悪」が、「美しい人」によって一掃された、ということだろうとも考えられるが、どうにもしっくりこない。

 こういう謙作が、この「美しい人」に対して行動を起こし、やがて妻にするというストーリーのようなのだが、さて、いったい謙作はそのことによってどう変わっていくのか、あるいは変わっていかないのか、怖いようでもあり、また限りなく興味深いことでもある。

 余談だが、最近、小林秀雄と伊藤整の「作家論」を拾い読みしていたら、小林秀雄が初期の評論で志賀直哉を高く評価しているのに対して、伊藤整は、その初期の評論で、「おもしろくない」と一蹴しているのに、ちょっと驚いた。志賀直哉をどう評価するか、そのことで、その批評家や作家の考えがあぶり出されるのは面白い。その意味では、やはり志賀直哉は、「重要な」作家であることは間違いない。

 伊藤整の文章は、まことににべもないが、面白いので、ちょっと紹介しておく。伊藤整が27〜8歳のころの、若々しい評論である。

 

 「クローディアスの日記」を少年時代に、しかも小説ということを考えもせず、理解してもいなかった頃に、ある機会で読んだが、消し難い印象を受けた。そして誰の作であったかは忘れていた。後に志賀直哉という小説家を知り、その人の作品を読んでゆくうちにまた「クローディアスの日記」を読み、実にうまい、と思った。ところが志賀直哉という小説家が存在理由を獲ている作品は、「暗夜行路」だとか「和解」だとかいう自伝的な小説であることを知り、殆んどあらゆる文壇人がこれ等の作品を神聖視していたし、またいるので、それ等を読んで見たが、およそ問題にならない位に面白くもなく感銘もないのであった。作文として、ある人間の経験談として、克明に正確に書かれてあるのは事実であったが、特に大哲学者だとか、大詩人だとか別に大きな仕事を残している人の自伝というならばその意味で志賀直哉の問題志賀直哉読みもしようが、単に自分が「クローディアスの日記」なる小説に感心したことのある一小説家の正確な自叙伝を読むということだけでは無益に近いことのように思われた。死んだ梶井基次郎氏が作家として志賀氏を尊敬していて私にも読むことを奨めたが、読んでみて面白くなかった由を言ってやったことがある。志賀氏の自叙伝小説がある量感をもっていることは漠然と感ずるけれども、白樺時代の文学青年の得手勝手な生活やロレンスなどが十枚でも書けるような生存の悩みを何百枚もだらだらと書き続けてそれを他人に読ませうるものとしている気持は、育ちや環境の違う私にはとても我慢出来なかった。自叙伝にしてももっと省略すべきものは省略し、集中すべきものは集中すべきであろう。でなければスタイルや扱い方に何か特殊のものを示さなければなるまい。

「志賀直哉の問題」(「伊藤整全集第19巻」所収。昭和8年)

 

 伊藤整だけでは、公平を欠くので、小林秀雄の方も。こちらも27歳の小林の健筆。いやはや、伊藤整といい小林秀雄といい、今更だけど、頭いいなあ。

 

  嘗て日本にアントン・チェホフが写真術の様に流行した時、志賀氏は屡々(しばしば)チェホフに比された。私は今、氏に封する本質を外れた世の品評、言はば象に向つて、「お前の鼻はちと長過ぎる様だ」と言った様な一切の品評を無視しなければならないと信ずるのだが、志賀氏をチェホフに比するといふ甚しい錯誤は、餘り甚しい錯誤である点で、利用するに便利である。或る批評家は言った。「『或る朝』はチェホフの作品の様にユウモラスだ」と。
 チェホフは廿七歳で「退屈な話」を書いた時、彼の世界観は固定した。それ以来、死に至る迄彼の歌ったものは追憶であり挽歌であった。彼の全作は、彼が獲得した退屈といふ世界観の魔力から少しも逃れてゐない。嘲笑するためには彼の心臓は温く、哄笑する為には彼の理智は冷く、彼は微笑した。この最も宇宙的な自意識を持った作家の笑は、常に二重であった。人間の偉大と弱小との錯交を透して生れた。笑ひつつ彼の口許は歪んだ。彼の全作に定著された笑が、常に理智的であり、倫理的である所以である。
 然るに、志賀直哉氏の問題は、言はば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ。氏の歌ったものは常に現在であり、豫兆であって、少くとも本質的な意味では追憶であった例はないのである。氏の作品は、チェホフの作品の如く、その作品に描かれた以外の人の世の諸風景を、常に暗示してゐるが如き氛気(ふんき)を決して帯びてはゐない。強力な一行為者の肉感と重力とを帯びて、卓れた静物画の様に孤立して見えるのだ。かういふ作家の表現した笑は、必然に単一で審美的なのである。「助六」を見て、意休の頭に下駄がのる時、人々は笑ふであらう。嘗て「助六」の作者が、この行為にひそませた嘲笑が、今日何んの意味を持つてゐないとしても、この表現に一種先験的な笑がある以上、人々は笑ふのである。志賀氏の作品の笑は、この世界の笑である。美の一形態としての笑である。 「志賀直哉──世の若く新しい人々へ」

(「新訂 小林秀雄全集 第4巻」所収 昭和4年)

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 83  意志の問題  「後篇第三  一」 その6 2021.8.24

 

 美しい人を偶然見かけた謙作は、家に帰ってからも落ち着かず、再度、出かけて、その人を見るのだが、「快い和らぎ」「心の気高さ」を胸に抱いて家に戻った。さて、これからどうしたらいいのだろう、と謙作は思い悩む。

 

 この事はどうしたらいいか、彼はそれを考え始めた。このままにこの気持を葬る事は断じてしまいと決心した。しかしただ同じ家並みにいるというだけで、しかも両方が一時的に宿っているのであればなお、よほどにうまい機会を捕えない限り、この事は恐らく永久に葬られてはしまわないだろうか。此方(こっち)から積極的に機会を作って行くなどいう事は考えられなかった。同様に自然に或る機会が来るだろうとも考えられなかった。彼は自分が余りに無能な気がして歯がゆかった。彼は彼の或る古い友達が、そういう機会を作るためにその人の家の前で、故意に自分の自転車を動かせない程度にこわし、その家に預かってもらい、翌日下男を連れて取りに行き、段々に機会を作って行った話などを憶い出した。しかし自分の場合ではその前で偶然卒倒でもしない限り、そんなうまい機会は作れそうもなかった。

 「この事はどうしたらいいか」と考え始めた謙作は、「このままにこの気持を葬る事は断じてしまいと決心した。」という。夕方散歩に出て、偶然に見かけた「美しい人」というだけなのに、謙作の心は激しく動く。それは、その女がたぐいまれな美人だったとかいうことではない。その女を見ていると、自分の心がいわば浄化され、「気高く」なっていくのをはっきりと感じたからだ。

 謙作はそう分析するのだが、しかし、あくまでそれはギリギリの「言語化」であって、おそらく「正確」ではない。そこには、なまじな「正確さ」などというものを遙かに超えた、神秘的な、あるいは運命的なものが存在していたはずだ。ただ、それを、「言語化」することはできないのだ。
そんなふうにぼくが感じるのは、ぼくもまた、こうした「神秘的・運命的」な出会いを経験しているからだ。

 ぼくが家内と、高校生のころ出会ったとき、とうてい言語化できないある種の「神秘・運命」があった。その辺のことを、教師になってから、とくとくと生徒に語って、嫌がられたんだか、呆れられたんだか知らないが、「そういうことがある」ということを伝えるのに懸命になった。といえば、なんだか偉そうで、実際は単なるノロケに過ぎなかったのだろうが、それはさておき、そうした運命的(という言葉は後になって出てくる言葉だけれど)出会いの「後」が問題なのだ。そこには、その「運命」に任せるのではなくて、「決心」こそが必要なのだろうと思う。

 中原中也も言うように、「畢竟意志の問題」(「頑是ない歌」)なのだ。ここでの謙作の「決意」というのは、思いのほか重い言葉なのだ。

 「恋する人間」は、心は純粋でも、恋の成就のためには、実に狡猾な手段を考え出すもので、ここに出てくる友達もその一人だ。この程度のことなら、だれにでもできそうだが、謙作は不器用で、正直すぎる男なので、そんな狡猾な行為ができるはずもない。

 かといってこのまま何もしないでは、「同様に自然に或る機会が来るだろうとも考えられなかった」のも当然だ。とにかく謙作は、またまた出かけるのだ。

 

 とにかく、もう一度前まで行って見ようと思い、彼はまた庭から河原へ出た。まだ雨戸は開いていたが、電球には緑色の袋がかけられ、中はしんとしていた。町へでも出たか、さもなければその人の帰るのを送って出たか。彼はちょっと淋しい気がした。そして、第一、その人は純粋に独身なのか、あるいは自身望む人でもいるのではないか、こういう疑問を起こし出すと彼は甚(ひど)く頼りない気もして来た。

 

 河原から望むその人の家は、「まだ雨戸は開いていたが、電球には緑色の袋がかけられ、中はしんとしていた。」と描かれる。簡潔な文章だが、状況がくっきりと分かる。解像度のいいレンズで撮ったような鮮明な映像だ。

 電球にかけられたいた「緑色の袋」には、思い当たる節がある。当時の電球には、調光などできるはずもなく、豆電球もついていないとすれば、光を弱めるためには、袋をかぶせるしかない。ぼくが幼いころも、そんな袋を電球にかけていたような気がかすかにするのだ。

 雨戸が開いていて、そこから河原の方へ漏れてくる緑がかった光、だれもいない部屋の「しんとした」部屋の空気。そんなものを見ながら、そうだ、オレはあの人のことを何にも知らないんだ、と謙作は気づくのだ。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 84  あるまじき表現?  「後篇第三  二」 その1 2021.8.28

 

 翌朝、彼が起きた時にはもう陽は大文字の上に昇っていた。彼は顔を洗うと座敷の掃除の出来る間また河原へ出た。草の葉にはまだ露があり、涼しい風が吹いていた。彼は余りに明かる過ぎる広い道に当惑した。しかし故意に図々しく、自分を勇気づけ、その方へ歩いて行った。多分もういないだろう。しかしもしいてくれたら自分には運があるのだ、そう思った。  彼方(むこう)から朝涼(あさすず)の内にきまって運動をするらしい、前にも二、三度見かけたことのある四十余りの男の人が、今日も、身仕舞いを済ませた小さい美しい女の子を連れて歩いて来た。その人たちの無心に朝の澄んだ空気を楽しんでいるような、ゆったりした気持がその時の彼にはちょっと羨しく感ぜられた。

 

 京都の朝の光景。起きたときには、太陽が大文字の上に昇っていた、なんて、やっぱり京都は特別だなあ。ぼくなんかは、朝起きても、太陽が向こうの丘の団地の上に昇っているだけだもの。

 河原に出ると、「草の葉には露があり、涼しい風が吹いていた」というあたりも、単純だが、シャープな印象がある。「草の上の露」にピントがぴたりと合っているからだ。「草の葉には露がおりていて」とか「草の葉には露が光り」とか書くのが普通だろうが、「露があり」と、極限まで言葉を切り詰めている。それが余計な叙情性を排して、「露」そのものの存在感を描きだしているのだ。

 しかし、その後に、「彼は余りに明かる過ぎる広い道に当惑した。」とある。ここからいきなり心情に入り込むのだ。昨日の夜、河原に出て、まるで影絵のような女の姿を見た。その余韻が、「明かる過ぎる広い道」に「当惑」を呼び起こす。こんなにあかるい日のもとで、またその女に会えるのだろうか、会ってもいいのだろうか、そんな当惑かもしれない。謙作は勇気をふるいおこす。「故意に図々しく」という表現がおもしろい。自分に演技まで強いているかのようだ。
「朝涼」という言葉も、前にも出てきたが、いい言葉だ。

 朝涼のうちに運動をする四十余りの男が連れている「身仕舞いを済ませた小さい美しい女の子」とは、どういう子だろう。「身仕舞い」というのは、「身なりをつくろうこと」でもあるが、また「化粧して美しく着飾ること」でもある。この場合は、後者であろう。おそらく、舞子さんの修業にでも向かうのではなかろうか。この四十余りの男も、女の子の父とは限らない。いろいろな想像ができる。

 「その人たちの無心に朝の澄んだ空気を楽しんでいるような、ゆったりした気持」とあるが、彼らがほんとうにそういうゆったりした気持ちだったのかどうかは分からない。そういう気持ちを彼らの姿・行動から、謙作は感じ取ったということで、それに対する羨望とともに、この涼しい朝の謙作の心境がよく伝わってくる。

 そして女の人はやはり前日のように縁に出ていてくれた。彼はドキリとして進む勇気を失いかけた。が、その人は彼の方には全く無関心に、むしろぼんやりと、箒を持ち、手拭を姉さん被りにし、注意を奪われ切ってその美しい女の児の方を見ている所だった。この事は彼には幸だった。けれども同時にその人の顔には昨日のような美しさがなかった。彼は多少裏切られた。一々こんな事で裏切られていては仕方がないと自分で自分を食い止めたが、その内女の人は、ふと彼から見られている事を感じたらしく、そして急に表情を変え、赤い美しい顔をして隠れるように急いで内へ入ってしまった。彼の胸も一緒にどきついた。そして彼はその人のその動作を大変よく思い、いい感じで、その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。

 

 

 女はやはりいた。そしてその女も、「美しい女の児」にみとれていた。それほど、その女の子はきれいで目をひいたのだろう。その女の子に見とれている女を、謙作はじっくりと見ることができた。そこで発見したのは、「その人の顔には昨日のような美しさがなかった」ということだ。昨晩の、夜の闇と光のなかに浮かび上がっていた女が、朝の透明な光のなかで、「美しさ」を失っていたということはよくあることだろう。どんな瞬間でも、ずっと美しいなんて女は、この世にいない。だからこそ、絵画が(写真でも映画でもいいが)意味を持つというものだ。

 

 縁に出ていた女は、謙作に見られていることに気づき、顔を赤らめ、内に入ってしまう。そのときの謙作の心境を書いた文章が、なんともいえず稚拙なのはどうしたことか。

そして彼はその人のその動作を大変よく思い、いい感じで、その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。

 これではまるで小学生の文章ではないか。それとも、稚拙をあえて装った名文なのだろうか。

 謙作の視線に気づいたのか「急に表情を変え、赤い美しい顔をして隠れるように急いで内へ入ってしまった」という女の「動作」を、謙作は「大変よく思い」というのだが、これも「言葉を極限まで切り詰めた」例なのかもしれないが、この場合は、あまりにそっけない。

 顔を赤らめて内に入ってしまうことが、そんなに「よい」のか。では「よくない」動作というのはどういったものか、と考えると、たぶんそこに想定されるのは、東京の遊女のように、むしろ媚びを含んだ笑顔を見せるといった「動作」なのだろう。前編からの流れからすればそういうことになる。それがそうじゃなくて、恥ずかしがって家の中に入ってしまうのは、遊び女じゃない証拠で、だからこそ「いい感じ」なのだろう。それにしても、その後の、「その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。」には、驚く。

 こんなことを平気で書いてしまう志賀直哉という人は、ほんとうに文学者なのだろうかとすら考えこんでしまう。いったい、この女がどういう「動作」をしたら、「馬鹿」だということになるのか。今までの経験で、遊女はみな馬鹿だという結論に達したのだろうか。

 人間を、そのちょっとした動作・行動から、「馬鹿だ」とか「馬鹿じゃない」とか簡単に決めつけることなど、文学者たるものが絶対やってはいけないことだろう。それができないということを生涯かけて追求するのが文学者というものではなかろうか。

 というように考えると、志賀直哉は「文章家」ではあるが、「文学者」ではない、という、坂口安吾の言葉が再び思い出されるのである。

 志賀直哉というのは、「小説の神様」とまで言われ、非常に高く評価されるいわば文豪だが、それを頭から信じ込むのはよくない。事実、さまざまな批判もあびる「文豪」でもあるのだ。

 坂口安吾が、どういう意味合いで、志賀は文学者じゃないと言ったのかの細かいニュアンスは忘れてしまったが、たとえば、今ひいたこのこの一文などからうかがわれる、志賀直哉の意識というものに、その理由の一端があると、今のぼくなら思う。そうした「文学者らしからぬ」側面を持ちつつ、それでもなお、志賀直哉は、「偉大な文学者」でもあるのかどうか。それは、この読書を通じて、ぼくなりに検証していきたいところでもある。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 85 「絵からなにか話しかけてくる」  「後篇第三  二」 その2 2021.9.5

 

 

 「美しい人」のことは、一段落して、その翌日、謙作は博物館に出かける。この美術館は、現在の「京都国立博物館」のことだろう。「京都国立博物館」の開館は、明治30年だ。

 

 

  彼は今日は家探しをやめ、午前中博物館で暮らそうと思った。博物館は涼しかったし、それに来た時見た物は大概陳列更えになっているだろうと考えた。宿へ引きかえし、朝飯を済ますと、直ぐ電車で博物館へ向った。
 博物館の中は例の如く静かだった。分けてもその日は静かで、観覧者としては謙作以外に一人の姿も見られなかった。
 そしてこういう静けさがかえって謙作を落ちつかない気持に追いやった。制服を着た監視の一人が退屈そうにカッタン、コットン、カッタン、コットン、と故(わざ)と靴で調子を取りながら腰の上に後ろ手を組み、靴の爪先を見詰めながら歩いて来た。そのカッタン、コットンいう響が高い天井に反響し、一層退屈な、そして空虚な静けさを感じさせる。その辺に掛けられた古い掛け物の絵までが、変に押し黙って、まわりから凝っと此方(こっち)を見ているように謙作には感ぜられた。彼は親しみ難い、何か冷めたい気持でそわそわと急ぎ足にそれらの絵を見て廻った。しかしふと、如拙(じょせつ)の瓢鏑鮎魚図(ひょうたんでんぎょず)の前へ来て、それは日頃から親みを持っていたものだけに暫く見ている内にその絵のために段々彼の気持は落ちついて来た。絵から何か話しかけて来るような感じを受けた。
 支那人の絵で南画風の松にも彼は感服した。気持が落ちつくに従って絵との交渉が起って来ると、呂紀(りょき)の虎、それからやはり支那人の描いた鷹と金鶏鳥の大きい双幅の花鳥図などに彼は甚く惹きつけられた。泉涌寺(せんにゅうじ)出陳「律宗三祖像」、顔は前日見た二尊院の肖像画に較べて遠く及ばないような気がしたが、それでも曲?(きょくろく)に掛けた布(きれ)とか袈裟などの美しさは感服した。総じて彼がこういうものに触れる場合彼の気分の状態が非常に影響した。興に乗るという事は普通能動的な意味で多く用いられるが、彼では受動的な意味でも興に乗ると乗らぬとでは非常な相違があった。これはこういう美術品に触れる場合、殊に著しく感ぜられる事であった。そして今日も最初は妙に空虚な離れ離れな気分で少しも興に乗れなかったが、段々にそれがよくなって行くのが感ぜられた。彫刻では広隆寺の弥勒思惟像、これは四、五日前太秦まで見に行って、かえって此所へ出してある事を聞き、この前は見落していた事に気附いたものであった。
 少し疲れて来た。いい加減にして其所を出ると、彼は歩いて西大谷の横から鳥辺山を抜け、清水の音羽の滝へ行った。水に近い床几に腰を下ろすと彼は何よりも先ず冷めたい飲物を頼んだ。彼は疲れた身体を休めながら、東京からすると一体に華美(はで)な装いをした若い人たちの姿などを見ていた。

(注)曲?=僧侶が使う椅子の一種。

 

 謙作が美術愛好家であることは、第1部にも何度か出てくるが、それは志賀直哉自身の反映だろう。フィクションとはいえ、この作品は半分は自伝のようなところがある。

 博物館の中の様子は、非常によく描かれている。今では、わざと靴音をたてて巡回するような係員はいないが、当時の「監視員」の威張った感じがよく出ている。しかし、その靴音が、かえって館内の静寂を際立たせ、謙作は息苦しさのようなものを感じるのだが、如拙の瓢鏑鮎魚図を見ているうちに、「絵から何か話しかけて来るような感じを受けた」という。

 今では、博物館だの、美術館だのに行くと、おおくの場合、人の波にのまれることになる。警備員の靴音どころではない。それこそ、新宿の雑踏なみの靴音と、なにやらごちゃごちゃとしゃべる声。それでは、「絵から何か話しかけて来るような感じ」など感じようもない。

 絵を見る、ということは、案外難しいもので、ここに書かれているように、こちら側の心理状態によって絵の印象も変わるものだし、それ以上に、こちらの気分がどこか悪いと、絵を見る気もしない、あるいは反感を感じることすらあるものだ。そうなるともうどうしようもなくて、せっかく展覧会に足を運んだのに、あまりの混雑ぶりに、腹を立てて会場を後にする、というようなことがぼくにも何度あったかしれない。

 自分をある意味で「無」にすること。それが大事なのかもしれない。しかも、無理矢理「無」の状態に持って行くのではなくて、落ち着かないなら落ち着かないなりに、自然に絵を見ること。すると、絵のほうから「語りかけてくる」ことがあるのかもしれない。
ぼくには、あまりそういうことはなかったなあと思う。それは、自分のほうから「何かを感じ取ろう」とする気持ちが強すぎたのかもしれない。もっと素直に、無心で、絵に対すること。それが大事なのだろう。

 謙作は「興に乗るという事は普通能動的な意味で多く用いられるが、彼では受動的な意味でも興に乗ると乗らぬとでは非常な相違があった。」というが、確かに「受動的な意味」で、「興に乗る」ということがあるはずだ。というか、美術の鑑賞では、それがすべてなのかもしれない。

 こうやって、博物館に行って、疲れると清水寺に行き、「冷たい飲物」を飲み、きれいな着物をきた若いひとを眺める。そんな半日がすぐに手に入る京都って、やっぱりぼくの中では「住みたい町」第1位だ。実際に住んでみると、関東人とは気質が違うから大変だという話もよく耳にするけど、それなら、どこかのマンションにでもはいって、近所付き合いはやめて、日がな一日、町中をぶらぶらしてみたい。そして、ときどきは奈良にも足を伸ばす。なんて空想するだけで楽しくなってくる。

 先日、大学時代の友人の柏木由夫君が今、気象協会のホームページに連載している「百人一首の世界」を読んでいたら、「河原院(かわらのいん)」というのが出てきて、それはどういうところで、どこにあるのだろうと調べていたら、それが「源氏物語」の「六条院」のモデルであったり、「夕顔」と源氏が一夜をあかした廃屋のモデルであるとも言われているということを初めて知った。無知にもほどがあるということなのだろうが、ことほどさように、京都というところは、東京などとは、そしてましてや横浜などとは、比較にならないほどの文化の層の厚みのあるところなのだ。何度か観光に訪れたところで、その奥の奥まで知ることができるはずはないのだ。

 京都のそうした「深み」については、吉田健一が、「食」をテーマにさんざん書いている。それは、東京なんかに旨いものなんてない、ぐらいの勢いで、関東の者としてはいささか鼻白むが、もっともだとも思う。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 86  「自分らしい本統の新しい生活」への予感  「後篇第三  二」 その3  2021.10.3

 

 

 博物館へ行ったあと、謙作は家探しのことを思い出す。そして、話はふたたび「美しい人」のことに戻っていく。

 博物館へ行き、そこで絵から何かを語りかけられるような気分になったというエピソードは、一見、話の展開とは無縁のように思えるが、この小説では、謙作の気持ちのありようこそが重要なので、この後につづく展開にはむしろ必須だったのだとも思える。

         

 高台寺の中に貸家が出来つつあるという話を憶い出し、彼は少時(しばらく)して、その方へ行った。貸家は二階建の二軒棟割りになった家で悪くなかった。町への出端もよく、彼は気に入ったが、疲れから大家まで行く事が大儀に思われ、そのまま八坂神社へ出て四条通りを帰って来た。
 四条の橋を渡った所に、川へ突き出しを作った安値な西洋料理屋がある。それへ入った。どのみち風のない日だったので、彼はなるべく陽に遠い空いたテーブルを選んで腰を下ろしたがやはり先ず飲物が欲しく、椅子へ横向きにかけ、振返っていたが丁度立て込む時で女中はなかなか廻って来そうになかった。

 

 鴨川沿いには、いわゆる「床」がある料理屋が今でもあるが、ぼくは遠目にみただけで、そこにあがったことはない。何度も京都に行ったのに、残念なことである。

 貸家を探して、こんなふうにぶらぶらと京都市内を歩き回る謙作には、心の奥に鬱屈を抱えているとはいえ、どこか、ふっきれたような明るさが感じられる。

 この西洋料理屋で、偶然、謙作は友人に出会う。

 

  彼はふと、自分から三つ四つへだたったテープルで一人、忙しくナイフとフォークを動かしている男に気がついた。まだ食っている内からナイフを挙げて、
 「オイ、シチュウ。──わかりましたか」こんな事を太い声でいった。やはり高井だった。
 謙作は自分の麦藁帽子を取上げ、起って行った。
 「オイ」こういってちょっと肩を突(つつ)くと、高井は不審そうに振向いて眼を見張ったが直ぐ、  「オオ」といって起ち上がった。
 「うまく会えたね」
 「本統に」と高井も嬉しそうにいった。
 二人は丁度二年ぶりで会ったわけである。その頃謙作は五、六人の友達と同人雑誌を出そうとした。高井もその一人として、彼が洋画家である所から、装禎を引き受け、詩や短歌なども出すはずであったが金の事がうまく行かず、一卜先ず雑誌は延ばす事にすると、間もなく高井は胃から来た割りに烈しい神経衰弱にかかり*水治療法をやる神戸の衛生院に入り、其所(そこ)に一年近くいて、ほとんど全快し、それから但馬の方の郷里へ帰っている、という事を謙作は人伝手(ひとづて)に聞いていたのである。

(注)水治療法=冷水・湿水または蒸気の温度および剌激を利用して病気を治療する方法。

 

 高井の発した「オイ、シチュウ。──わかりましたか」という言葉が、なんだか面白い。「オイ」という尊大な呼びかけに対して「わかりましたか」という妙に丁寧な言葉のギャップ。今だから「ギャップ」と感じるのだが、そのころは、どうだったのだろう。「オイ」「コラ」などが警官の常用語だったらしいから、当時の男言葉というのは、基本的には権威的、男尊女卑的だったことは確かだろう。

 「暗夜行路」は「自伝的フィクション」だから、この高井も、モデルがいるかもしれない。研究書を調べれば分かるかもしれないが、有島生馬あたりかもしれない。

 この後、謙作は、自分の「恋」のことを高井に打ち明ける。

 

  暫くして二人は其所を出、連れ立って東三本木の宿へ帰った。そして謙作は前日からの事を割りに精しく高井に話した。
「随分真剣なんだね」高井は二十前後の青年かなぞのような初々しい謙作の感情をちよっと意外に感じたらしかった。 「僕としては純粋な気持だ。しかしこれからどう進ませるか、それは今の所ちょっと見当がつかない。もしこのままにしていると今までの経験では、また、有耶無耶になりかねないが、何となくそうはしたくない気があるんだ」
 「積極的にやるのさ、どういう人か調べて、誰れかに申込んでもらうんだ」
 「そう《てきぱき》行けばいいが……」
 「頼むのさ、誰れか人にやってもらうのさ」
 「うん」
 「僕でも出来る事ならやりたいが、こんな書生っぽでは彼方(むこう)が信用しまい」
 「君にやってもらえれば僕には最も嬉しい事だ」
 「そう……やれるかしら。やれれば僕も喜んでやるが」高井はちょっと考えていたが、「その家に部屋があるかね。僕がそれを借りて住む事が出来れば……、大概、人の見当はつくが……。もし君に不賛成がなかったら、こんな事も一つの手段だね」といった。

 

 こういう友人というのはありがたいものだ。高井は謙作に比べて、実に闊達で、積極的で、面倒がらずにどんどんと話を進めていく。とれる手段をいろいろ考えて実行する。

 二人はさっそくその女のいる家に向かう。

 そんなふうに事が運んでいく中で、謙作は、こんなことを考える。

 

しかしこうしてこの事がもし順調に行くものとすれば高井のあのおかしな後姿もただ笑ってはいられないと思った。それにつけても自分は自分の出生を少しも隠す事なしに、話し、彼方(むこう)にその事から先ず解決してもらわねば……と考えた。

 

 やはり、どうしても謙作の心の中から、「出生」のことが離れないのだ。

 

 二人は荒神橋の袂から往来へ出た。謙作は自分が自分ながらおかしいほど快活な気分になっている事に気がついた。その人の姿の片鱗を見たというだけでこうも変る自分が滑稽にもまた、幸福にも感ぜられた。こうしてこの事が順調に運び、うまく行けば、今までにない、本統の新しい生活が自分に始まるのだと思った。実際今までは総てが暗闇に隠されていた。そのために、かえって恐ろしい徽菌が繁殖した。総ては明るみへ持ち出される。そして日光にさらされる。徽菌は絶やされる。そして、初めて、自分には、自分らしい本統の新しい生活が始まるのだ。

 

 しかし、そうした「出生」の問題も、謙作の「快活な気分」のなかで、自然に解消していくような予感がある。謙作を待っているのは、「自分らしい本統の新しい生活」なのだ。

 高井が、まずその女の住む家に部屋を借りるという案は、先方から断られてしまうが、謙作の宿の女主が仲介を申し出た。なにやらうまくいきそうな気配だが、そこへ謙作の兄信行からの手紙が来る。

 

 


Home | Index | Back |Next