志賀直哉「暗夜行路」を読む (8) 74〜77

前篇第二 (十三)〜(十四)

引用出典「暗夜行路 前篇」岩波文庫 2017年第11刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 74  弱った心   「前篇第二  十三」 その1』 2021.3.8

 

 謙作はまた段々と参り出した。気候も悪かった。湿気の強い南風の烈しく吹くような日には生理的に彼は半病人になっていた。そして生活もまた乱れて来た。彼は栄花の事を書こうとすると、勢い女の罪という事を考えなければならなかった。男ではそれほど追って来ない罪の報が女では何故何時までも執拗につきまとって来るか。ある時、元、栄花のいた辺を歩き、その本屋の前を通って、彼よりも若いその男が、何時か赤坊の父となっているのを見てちょっと変な気がした事があった。赤坊を膝に乗せ、ぼんやり店から往来を眺めているその様子は過去にそういう出来事のあった男とは思えぬほど、気楽に落ちついて見えた。それはそういう男でもある時、過去の記憶で心を曇らす事はあるだろう。殺された自身の初児、こんな事を憶い出す事もあるだろう。が、それにしろ、それらはみなその男にとって今は純然たる過去の出来事で、その苦しかった記憶も今は段々薄らぎ遠退きつつあるに違いない。ところが、栄花の場合、それは同じく過去の出来事ではあるが、それは現在の生活とまだ少しも切り離されていないのは、どうした事か。今の生活はむしろその出来事からの続きである。── こういう事は必ずしも女にかぎった事ではないかも知れない。一つの罪から惰性的に自暴自棄な生活を続けている男はいくらもあるだろう。が、女の場合は男の場合に較べて更にそれが絶望的になる傾きがある。元々女は運命に対し、盲目的で、それに惹きずられ易い。それ故周囲は女に対し一層寛大であっていいはずだ。子供の事だからというように、女だからといって赦そうとしてもいいはずだ。ところが周囲は女に対して何故か特に厳格である。厳格なのはまだいいとして、周囲は女が罪の報から逃れる事を喜ばない。罪の報として自滅するを見て当然な事と考える。何故女の場合特にそうであるか、彼は不思議な気がした。

 

 女は過去の「罪」に縛られ、いつまでたっても許されないのに、男は過去は「純然たる過去の出来事」であり、苦しかった思い出も薄れていってしまうのは何故だろうと謙作は思うのだが、そういう対比的思考は、ほとんど無意味ではなかろうか。

 女の「罪」を許さないのは、世間であり社会である。謙作も「周囲は女に対して何故か特に厳格である。厳格なのはまだいいとして、周囲は女が罪の報から逃れる事を喜ばない。罪の報として自滅するを見て当然な事と考える。」と分析している。そこまで分析しながら、それを「彼は不思議な気がした。」で締めくくってしまうのが、むしろ不思議というものだ。

 「不思議な気がした」などと言っていないで、そういう社会の在り方へと目を向け、批判的に検討するべきであろう。女に対しては「寛大であっていいはずだ」とは言うけれど、その理由が「元々女は運命に対し、盲目的で、それに惹きずられ易い。」という一方的な決めつけである以上、なんら説得性を持たない。

 周囲が女に対して「何故か特に厳格である。」としながら、「厳格なのはまだいいとして」と言ってしまう。厳格なのを否定しないかぎり、この問題は解決しない。

 こうした思考の杜撰さは、驚くほどで、志賀直哉という人は、男は、女は、人生は、とかいった大上段に振りかぶった議論にはつくづく向かないんだなあと思う。これ以前にもそういうところがあった。

 謙作は、栄花のことを小説に書き出すのだが、なかなかはかどらない。

  彼はこれまで女の心持になって、書いた事はなかった。その手慣れない事も一つの困難だったが、北海道へ行くあたりから先が、如何にも作り物らしく、書いて行く内に段々自分でも気に入らなくなって来た。
 そして、彼は何という事なし気持の上からも、肉体の上からも弱って来た。心が妙に淋しくなって行った。彼が尾の道で自分の出生に就いて信行から手紙を貰った、その時の驚き、そして参り方はかなりに烈しかったが、それだけにそれをはね退けよう、起き上ろうとする心の緊張は一層強く感じられた。しかしその緊張の去った今になって、丁度朽ち腐れた土台の木に地面の湿気が自然に浸み込んで行くように、変な淋しさが今ジメジメと彼の心へ浸み込んで来るのをどうする事も出来なかった。理窟ではどうする事も出来ない淋しさだった。彼は自分のこれからやらねばならぬ仕事──人類全体の幸福に繋りのある仕事──人類の進むべき路へ目標を置いて行く仕事──それが芸術家の仕事であると思っている。──そんな事に殊更頭を向けたが、弾力を失った彼の心はそれで少しも引き立とうとはしなかった。ただ下へ下へ引き込まれて行く。「心の貧しき者は福(さいわい)なり」貧しきという意味が今の自分のような気持をいうなら余りに惨酷な言葉だと彼は思った。今の心の状態が自身これでいいのだ、これが福になるのだとはどうして思えようと彼は考えた。もし今一人の牧師が自分の前へ来て「心の貧しき者は福なり」といったら自分はいきなりその頬を撲りつけるだろうと考えた。心の貧しい事ほど、惨めな状態があろうかと思った。実際彼の場合は淋しいとか苦しいとか、悲しいとかいうのでは足りなかった。心がただ無闇と貧しくなった──心の貧乏人、心で貧乏する──これほど惨めな事があろうかと彼は考えた。

 

 ここに描かれているのは、謙作の心の弱りである。それは「妙に淋しくなって行った」「変な淋しさが今ジメジメと彼の心へ浸み込んで来る」「理窟ではどうする事も出来ない淋しさ」「ただ下へ下へ引き込まれて行く」というふうな表現で畳みかける。

 今で言えば一種の「うつ状態」ということだろう。その状態は、結局、出生の秘密を知った衝撃以来の心の傷がまだ癒えていないということだろう。尾道ではまだ緊張感があったから、なにくそ! といった立ち直りもできたのだが、緊張の去った今では、心が腐っていくようだ、というのである。それは十分に理解できるところだ。

 しかし、その後に書かれる、自分の「仕事」の目標が、あまりに壮大で、空虚だ。逆に、自分の仕事をそのような絵空事のような壮大さで捉えるからこそ、自分が書こうとしている栄花のみじめな生活の話が行き詰まってしまうのではなかろうか。

 文学史的にいえば、謙作が書こうとしている小説は多分に自然主義的なものなのに、その文学理念は白樺派風の理想主義だということになるのだろうか。なにかそうした混乱と矛盾がここに来て露呈しているように思えてならない。

 さらにここにイエスの言葉が登場してくるのだが、いかにも、とってつけた風である。「心の貧しき者は福なり」というイエスの言葉を引いてくる必然性がまったく感じられない。というより、イエスの言葉をぜんぜん理解していないというべきだろう。この謙作の「うつ状態」を「心の貧しさ」に置き換えることなどできるわけがないのだ。なぐられる牧師はたまったものではない。

 このイエスの言葉の関連だろうか、この後に、信行が出てきて、禅の話をする。謙作はその禅の言葉のいくつかに、泣き出してしまうのだが、どうして泣くほど感動するのかは、詳しく語られることはなく、「その話が彼の貧しい心に心の糧として響くからばかりでなく、一方それの持つ一種の芸術味が、烈しく彼の心を動かした。」というふうに抽象的に語られる。

 それで、信行は鎌倉へ来いというのだが、謙作は素直になれない。「師につくという事が、いやだった。禅学は悪くなかった。が、悟り済ましたような高慢な顔をした今の禅坊主につく事は閉口だった。」というのだ。どこまでいっても、ワガママな謙作である。

 キリスト教も禅も、謙作の感情の表面を通り過ぎるだけなのだ。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 75  終焉へ   「前篇第二  十三」 その2  2021.3.31         

 

 鎌倉へ来いという兄信行の誘いも、禅の言葉の持つ「一種の芸術味」が心を動かしはするが、「悟り済ましたような高慢な顔をした今の禅坊主」につくのはごめんだといった理由で、禅には入っていかず、むしろ高野山とか叡山に行きたいと思ったりする。その理由は書かれていないから分からないが、まんとなく思いつきの範囲を出ないようだ。

 女中の由(よし)を博覧会へ連れて行くかどうかという話がこの後突然出てきたり、鎌倉から来る信行を迎えに行ったので、博覧会の話はなくなったり、話の展開も、どこか行き当たりばったりの感がする。

 その信行を停車場で待つ間、懐から本を出して読む。

 

  大森の停車場へ来たが新橋行まではなお三十分ほどあった。彼は品川行の電車の方ヘ廻った。間もなく電車は来た。彼は懐(ふところ)から西鶴の小さい本を出して『本朝二十不孝』のしまいの一節から読み出した。彼は二、三日前お栄から日本の小説家では何という人が偉いんですか、と訊かれた時、西鶴という人ですと答えた。そういったのは、丁度その前読んだ『二十不孝』の最初の二つに彼は悉く感服していたからであった。それは余りにというほど徹底していた。病的という方が本統かも知れない。彼はもし自分が書くとすれば、ああ無反省に惨酷な気持を押通して行く事は如何に作り物としても出来ないと考えた。親不孝の条件になる事を並べ立てて書く事は出来るとしても、それをあの強いリズムで一貫さす事はなかか出来る事ではないと思った。──弱々しい反省や無益な困惑に絶えず苦しめられている今の彼がそう思うのは無理なかった。で、実際西鶴には変な図太さがある、それが、今の彼には羨しかった。自身そういう気持になれたら、如何にこの世が楽になる事かと思われるのであった。
 彼はしまいから見て行くと、どれも最初の二つとは較べ物にならなかった。品川で市の電車に乗換えると、もう読むのも少し面倒臭くなった。彼はただぼんやりと車中の人々の顔を見ていたが、その内ふと前にかけている人の顔が、写楽の描いた誰かに似ているように思われ出すと、どれもこれもが、写楽の眼に映ったような一種のグロテスクな面白味を持って、彼の眼に映って来た。

 

 ここでいきなり西鶴が出てくるのには驚いた。志賀直哉と西鶴、って考えたこともなかった。本朝二十不孝は読んだことないが、ほんとうに志賀は感動したのだろうか。

 スタンダールの「パルムの僧院」を読んで、ファブリスのことを「なんだ、ただのヤクザじゃないか。」と言ったという話を三島由紀夫が書いていたが、どうにも、志賀直哉という人は分からないことが多い。

  薩摩原(さつまばら)の乗換へ来ると、本郷の家へ行って見ようかしらという気がちょっと起った。暫く会わない咲子や妙子に会いたい気が急にしたのである。しかし父がいるかも知れないし、それに咲子とでも気持がしっくり行きそうもない気が直ぐして来ると、彼はやはりそのまま乗越してしまった。宮本か枡本かの家へ行ってもいいと思うが、妙にいそうもなく、仮りにいても今の気分で行けば、きっと気まずい事をするか、いうかしそうで彼は気が進まなくなる。気まずい事を避けようと気持を緊張さすだけを考えてもつらくなるのであった。打克てない惨めな気持を隠しながら人と会っている苦み、そしてへとへとに疲れて逃れ出て来る憐れな自分、それを思うと、何処へも行く処はないような気がするのであった。結局ただ一つ、彼が家を出る時から漠然頭にあった、悪い場所だけが気軽に彼のために戸を開いている、そう思われるのだ。彼の足は自然其方に向うのである。
 そして彼は同じ電車の誰よりも自身を惨めな人間に思わないではいられなかった。とにかく、彼らの血は循環し、眼にも光を持っている。が、自分はどうだろう。自分の血は今ははっきり脈を打って流れている血とは思えなかった。生温く、ただだらだらと流れ廻る。そして眼は死んだ魚のよう、何の光もなく、白くうじゃじゃけている、そんな感じが自分ながらした。


 志賀直哉らしくない、「うじゃじゃけている」文章である。

 この「暗夜行路」第一部の最終盤に来て、文章は弛緩し、話の筋は場当たり的になり、惨めな自分の感情や感覚だけがダラダラと続くことになった。おそらく、志賀はもうここでこの先を書き切れない思いでいたのだろう。この第一部が、あと一章を残して急速に終焉を迎えるのも、もうこれ以上どうしていいのか分からない、といった志賀の思いからではなかろうか。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 76  ただのプロスティチュート   「前篇第二  十四」 その1 2021.4.13

 

  いよいよ第一部の最終章である。前の「十三」は、とめどない自己嫌悪の感情が描かれたが、この「十四」に入ると、一転して遊郭の一室らしい場面となる。

 やけになって、遊郭へ行ったということなのだろうか、その説明はない。いかにも唐突である。


 小さい女は髪結いの処で丁度解いた所を呼ばれたのだといって、その沢山ある髪の毛を紅い球(たま)のついた髪差(かんざし)で襟首の上に軽く留めておいた。「朝鮮の女のようでしょう?」こんな事をいって横を向いて見せたりした。戸外(そと)はまだ明るかったが、天井の電燈がひとりでについた。風の音がして、それで部屋の中は甚く蒸々している。

 

 この「小さい女」がそっけないので、謙作が外へ出ようと階段を降りてくると、「美しい女」が坐っていた。

 彼は起ち上った。そして部屋を出ようとすると、小さい女は「失敬」といって手を挙げた。彼もちょっと手を挙げて、一人先に段々を降りて来た。そして出ようとすると、彼は其処(そこ)に若い女が坐っているのを見た。美しい女だった。何処(どこ)か感じのいい処があると彼は思った。
 戸外(そと)へ出た。そして電車路の方へ歩きながら、今からならお栄にいって来たように、明るい内に帰れそうだと思った。それはそうと、何故あの女はあんな処に坐っていたろう。客が来ていてあんな処にいるのも変だと思った。この次行けば、あの女を自分は望むだろう、と彼は思った。どんな人でしたと訊(き)かれる。その時どういえばいいか。いうような事は何もない。実際何の特徴らしい特徴も自分は見ていなかった。俺が帰る時、下に坐っていた女だ。美しい女だ。せいは? それは分らない。肥っていましたか? 脊せた方ではなかった。こんな事で結局要領を得そうもない。
 彼はこのまま電車に乗ってしまうのが惜しい気がした。今の小さい女がまだいるかも知れない。あるいは近所で会うかも知れない。「忘れ物をした」こういえばいい。そう思って彼はまた、前の家へ引きかえして行った。

 

 「特徴らしい特徴」も見ていなかったのに、ただ「美しい女」だと思った女のことが気になって、謙作は女の家に引き返す。

 彼は格子の中に立って女中とはなした。
「今、其処にいたのはお客さんで来ているのか?」
女中にはこれだけで通じた。
「今、上に一人呼んでいるんです。それと交代で上るんです。直ぐですから、お上がりなさい」
 「俺を先にしないか」
 女中は顔をしかめて見せた。そしてまた、「直ぐです」といった。
 彼は下駄を脱いだ。次の間を通る時、その襖のかげに今の会話を聴いていた女が隠れるようにして立っていた。彼は見ないようにして二階へ上って行った。が、上ると直ぐやはり後は困ると思って、彼は手を叩いて女中を呼んだ。隣りにはその客というのがいるので彼は小声でいった。
 「隣りは別の奴を呼べばいいじゃないか」
 「いいえ、名ざしなんです。それに先刻顔を見ちゃったんです」
 「困るな」彼は気六(きむず)ヶしい顔つきをして黙ってしまった。
 彼は別に根拠もなしにその女をおとなしい、素人臭い、善良な女という風に何時か心で決めてしまっていた。
 隣りから一人の女が出て行った。間もなくその女がその部屋に入って行った。彼はじっとしていられない気持になった。そしてまた手を叩いた。
 女中は入って来て、彼が何もいわない先に、
 「今入った所です。直ぐです」と、なだめ顔にいった。彼は、
 「硯を貸してくれ」といった。
 懐(ふところ)から白紙を出し、それを餉台(ちゃぶだい)の上に延べて彼は下腹に力を入れて習字を始めた。慈眼視衆生、福聚海無量、こんな文句を書いた。が、こんな文句をこんな場所で書くのは勿体ない気がしてそれは直ぐやめたが、とにかく彼は隣りを頭に浮べたくなかったのである。

 

 目当ての女にはすでに先客がいたのだが、謙作は、オレを先にしろという。ほんとにどうしようもないワガママ男だ。「美しい女」だと思い込んでいた女をこんどは「別に根拠もなしにその女をおとなしい、素人臭い、善良な女という風に何時か心で決めてしまっていた」というのも、とにかく自分本位で、思い込みが激しい性格がよく分かる。
 その女が、隣の部屋で別の男と過ごしている様子を想像したくないのは分かるけど、だからといって、硯を持ってこさせて、信行から聞いた禅語だかを書くなんてことするものだろうか。しかも挙げ句に、「こんな文句をこんな場所で書くのは勿体ない気がして」とくる。気持ちは分からないでもないが、それなら初めからしなければいいのに。
 やがて、女が来る。

 

 女が入って来た。笑い顔をした。いやな顔ではなかったが、彼が勝手に決めていた顔とは大分異(ちが)っていた。
 「ありがとう」少し斜めに向いて膝を突き、彼の顔を見ながら高いお辞儀をした。それが如何にもただのプロスティチュートだった。先刻の神妙らしい様子とは別人だった。

 

 「プロスティチュート」は娼婦のこと。娼婦を呼んでおきながら、それがいかにも娼婦らしい女だからといってガッカリしている。それは相手がたとえ娼婦であろうと、その裏に隠れた人間性をこそ謙作が求めているからだと言えないこともないが、しかし、謙作の傲慢な態度からは侮蔑の念しか感じられない。「一緒に旅をしないか」だとか言ってみたり、女の家族のことを聞いてみたり、嘘かほんとか分からない答を聞いて、その後どうしたのか、まあ、なるようになったのだろうが、謙作は「何もはっきりした話はせずに、間もなく彼は其処を出て、真直ぐに自家(うち)へ帰って来た。

 こういう書き方からすると、「なるようにはならなかった」のかもしれない。まあ、その辺のことはよく分からない。

 翌日になり、夕方になると、また女のもとへ出かけて行く。

 謙作は、信行が尋ねてくるのを実は待っているのだが、その信行もいっこうにやってこない。きっと自分の家を前を素通りして、本郷の父の家に行っているのだろうと思うと、不愉快な気分になるのだった。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 77  「豊年だ! 豊年だ!」   「前篇第二  十四」  2021.4.14           

 

 「何もはっきりした話はせず、間もなく彼は其処を出て、真直ぐに自家へ帰って来た。  そして翌日になり、夕方になると、また彼は前日と同じような気持で、妙に落ちついていられなくなった。彼は用意の出来かけた食事を待つ間も苦しいような気持で家を飛び出した。鎌倉の信行は今日も来なかった。きっと素通りをして本郷の家へ往ったのだと思うと、ちょっと不愉快な気分に被(おお)われた。軽蔑されたような気がした。《ひがみ》だとは知っていた。が、そう思っても何だか彼は愉快でなかった。彼は前から総ての人が自分に悪意を持っている、こう感ずる事がよくあった。しかし、それは本統は《ひがみ》で何の根拠もないものだと打消してはいたのだが、今自分の出生を知り、それをもしかえって皆(みんな)が前から知っていたとしたら、皆は自分の背後に何時も何か醜い亡霊を見、それに顔を背向ける気持を持っていたのではなかろうか、そう今更に彼には想い起されるのであった。皆のその気持が自分に反映する。自分は知らず知らずに意固地な気持をまた皆ヘ投返す。そして人々から更に何かしら悪意らしいものを感ずる。こんな事ではなかったか。  実際近頃の彼にとって接するもの総てが屈辱の種でないものはなかった。何故そうか。そう思っても自分でも分らなかった。ただ、彼はもの皆がそういう風に感ぜられるのであった。彼にとっては、根こそぎ、現在の四囲から脱け出る。これより道はない気がするのだ。二重人格者が不意に人格が変ってしまう、そのように自分も全く別の人間になる。どんなに物事が楽になる事か。今までの自分、──時任謙作、そんな人間を知らない自分、そうなりたかった。  そして、今まで呼吸していたとは全く別の世界、何処か大きな山の麓の百姓の仲間、何も知らない百姓、しかも自分がその仲間はずれなら一層いい。其処で或る平凡な醜い、そして忠実な《あばた》のある女を妻として暮らす、如何に安気(あんき)な事か、彼は前日の女を想って少し美し過ぎると思った。しかしあの女がもし罪深い女で、それを心から苦んでいるような女だったら、どんなにいいか。互に惨めな人間として薄暗い中に謙遜な心持で静かに一生を送る。笑う奴、憐む奴、などがあるにしても、自分たちは最初からそういう人々には知られない場所に隠れているのだ。彼らは笑う事も憐む事も出来ない。そしてたとい笑っても憐んでも、それは決して自分たちの処までは聴えて来ない。自分たちは誰にも知られずに一生を終ってしまう。如何にいいか──。


  自分の出生の秘密を知って以来、謙作は、それが「ひがみ」だと認識しつつも、「皆は自分の背後に何時も何か醜い亡霊を見、それに顔を背向ける気持を持っていた」のではなかったかという思いに苦しんできた。ここで言う「皆」とは、もちろん世間一般の人間ではなくて、兄の信行や父、そして親戚の人々といった身内をさすわけだが、やがてそれは世間一般にも適用されていくだろう。

 謙作は、「全く別な世界」で生きることを夢見る。しかも、その世界とは、今まで謙作が生きてきた「上流階級」の対極にあるような暗く惨めな世界であり、そこでこそ、謙作は、あえて「醜い」「忠実な」「あばたのある」女、あるいは、「罪深い女」であることを願う。誰も知らない農村で、むしろ周囲から仲間はずれにされて暮らす。それはどんなに「安気」だろうというのである。そして、そのまま「誰にも知られずに一生を終ってしまう」、それがどんなにいいかというのである。

 本気だろうか? 本気であるわけはないと思う。これはいわば自暴自棄の、やけのやんぱちの、夢想にすぎない。自分をとことんおとしめて、泥のなかではいずりまわりたいといった、いわば倒錯的な願望だ。そしてそれは、逆に、謙作の計り知れない自我の強さを証するように思えるのだ。

 この第一部のどんずまりに来て、謙作の思考は、脈絡を失い、錯綜し、物語としてもほとんど破綻してしまっている。それは、これにつづく記述によってますますその感を強めるのだ。

 謙作は、新橋まで汽車でいき、そこから銀座へ足を伸ばす。

 銀座に夜店《あきうど》の出始める頃だった。彼は夜店のない側の人道を京橋の方へ歩いて行った。出来るだけしっかりした足どりで歩こう。彼は下腹に力を入れて、口を堅く結んでみた。そして毎時(いつも)のように、きょろきょろせずに穏かな眼で行く手を真直ぐに見て歩こう、そう思った。松が叫び、草が啼いている高原の薄暮を一人、すうっと進んで行く、そうありたかった。現在銀座を歩きながら、そういう気持でいたかった。多少そんな気持がしないでもなかった。

 街を歩きながらも、高原を歩いているような気分でいたい、という心境は、信行からもらった「寒山詩」にあったはずだと思った謙作は、日本橋へ行くまでの間にある本屋に立ち寄り、そこで見覚えのある友だちに声を掛けられたりしたが、さらに古書店をまわり「寒山詩」を探す。それでも本はなかなかない。丸善とか青木嵩山堂とかいった店により、李白の詩集を買ってみたり、たぶんプラチナだろうと思う時計を欲しいと思ったりしているうちに、「前日の家」、つまりは、あの女のいる家に着いた。

 女が来るまで、李白の詩集を読んでいたが、本の最初に乗っていた李白の伝記が現在の謙作にとっての理想的な生活に思えた。


 詩集の初めに伝記が二つついていた。それは現在の彼には実に理想的に思える生活った。が、余りに性格が異っている。──階下(した)の騒ぎがやかましい。もっとも「白猶与飲徒酔於市」こんな事が書いてある。李白ならこんな中でも平気に自分だけの世界にして呼吸していたろうと思う。「嚢中自(のうちゅうおのず)から銭あり」こんな事をいって酒屋で仰向けになっている李白を杜甫か誰かがうたっているのを想い出す。李白が酒好だった事は鬼に鉄棒に違いなかった。しかし六十余歳で死んだのは酒のためである所を見ると、酒から来る不快もあったにはあったろう、など考える。彼は酒はどうしても好きになれなかった。それ故その鉄棒は別に羨しくも感じなかった。── 女はなかなか来ない。
 雑に本文(ほんもん)を見る。「荘周夢瑚蝶。瑚蝶為荘周(そうしゅうこちょうをゆめむ。こちょうそうしゅうとなる)」何という事なし、こんな句が彼の心を惹いた。


  李白の詩集に、荘周の「胡蝶の夢」がどうして出てくるのか、よく分からないが、とにかく、娼婦がやってくるまで、李白の詩集を読んでいるのが悪いというわけじゃないが、どうにも違和感がぬぐえない。「とってつけたような」印象しかないのだ。

 自らの出生を知ってどうしても自暴自棄になってしまった謙作が、それでも酒に溺れることもなく(飲めないのだから無理だけど)、銀座の雑踏をまっすぐに歩き、李白の詩集を買い、遊郭に辿り着く。この辺がちっともリアルじゃないのだ。

 そして、この直後に、いきなり、あの有名なシーンが出てきて、突然、この第一部は幕を閉じてしまうのだ。

 

 漸く女が来た。前日とは大分異った印象を彼は受けた。前日ほど女のいい処が彼に映って来なかった。何か表情をするとやはり美しかった。笑う時八重歯の見えるのが妙に誘惑的だった。しかし済(すま)していると、如何にも平々凡々だった。多少裏切られたような心持で彼は一切前日の話は持ち出さなかった。女も忘れたようにいわなかった。
 彼はしかし、女のふっくらとした重味のある乳房を柔かく握って見て、いいようのない快感を感じた。それは何か値うちのあるものに触れている感じだった。軽く揺すると、気持のいい重さが掌(てのひら)に感ぜられる。それを何といい現わしていいか分からなかった。
「豊年だ! 豊年だ!」といった。
 そういいながら、彼は幾度となくそれを揺振(ゆすぶ)った。何か知れなかった。が、とにかくそれは彼の空虚を満たしてくれる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴として彼には感ぜられるのであった。

 

 「暗夜行路」のあらすじなどを読むと、必ずこの「豊年だ! 豊年だ!」が引用されている。とても重要な部分らしいのだが、ここまでこの最終章をつぶさに読んでくると、あまりの唐突さにあきれてしまう。なんだ、ばかばかしい! と思ってしまう。

 醜いあばたのある女と、農村で周りから軽蔑されて生きたいと言ってみたり、李白の生き方に共感したりしていたのに、いったいなんだこの「豊年だ! 豊年だ!」は。

 「彼の空虚を満たしてくれる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴」としての乳房、というのは、分からないわけじゃない。そう「感じた」ってちっともかまわない。けれども、これまで、この女と寝たのか寝なかったのかすらはっきり書かなかったのに、いきなりここで、乳房をさわっての感動を書く。じゃ、いままで、ほんとに触ったことなかったの? なんて聞くのも野暮には決まっているけれど、まあ、それはそれとして、乳房が、謙作の空虚を満たしてくれる「唯一の貴重な物の象徴」であるということが、そうだろうなあという読者の「納得」やら「共感」を呼ばないだろうと思うのだ。

 この「結論」までの道筋が、小説のなかで、丁寧に描かれていないこと、つまりは、この第一部の最終部分になって、どうにも物語が行き詰まってしまって、どうしていいか分からなくなってしまって、とにかく、いろんなことをぶち込んで、強引に幕引きをしてしまったということではなかったろうか。

 まあ、「第二部」を読んでみないと、この最後の部分の評価もしようもないが、いちおうのぼくなりの結論である。

 それにしてもそれにしても、なんと、「暗夜行路」第一部を読むのに一年以上かかってしまった。途中、なんど投げ出したくなったかしれないが、なんとかここまでやってきた。第二部は、こんなに綿密に読むのはやめて、さっさと読み終えたいと思っているが、さてどうなることやら。

 


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