志賀直哉「暗夜行路」を読む (5) 51〜58

前篇第二 (五)〜(六)

引用出典「暗夜行路 前篇」岩波文庫 2017年第11刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 51 弱った神経と「肉の缶詰」 「前篇第二  五」 その1  2020.8.16

 

 その夜彼は金刀比羅で、一人では泊めまいといわれた宿屋へ行って泊った。そして翌朝金刀比羅神社へ行った。其処の宝物のある物が彼を楽(たのし)ました。伊勢物語、保元平治語などの昔の装幀を彼は美しく思った。それから日頃嫌いな狩野探幽の雪景色を描いた墨絵の屏風もいいと思った。それほどにそういうものに餓えていたようにも彼は感じた。本社へ行くまでの道にも人工の美を見出した。
 本社へ上る急な石段がある。その前が殊にいいように思った。しかし本社から奥の院までの道は、最近に作ったものらしく、人工の美は皆無だった。ただ、尾の道で松ばかり見ていた眼に色々変った山の大きい木が物珍らしかった。が、その内、ふとその木の肌を気味悪く思い出すと、彼の弱った神経は、それから甚(ひど)く劫(おびや)かされた

 

 金刀比羅では、下品な商人みたいな若者が勧めてくれた宿ではなくて、それはやめた方がいいと言われた宿に泊まった。天邪鬼である。「一人では泊めまい」と言われていたのに、泊めてくれたのは、謙作が金持ちだったからに違いない。

 ぼくはもう10年以上も前だが、ひとりで金比羅に行ったことがある。行ったというよりは、高知の親戚に行ったおりに立ち寄ったわけだが、なかなか印象深かった。しかし、この「宝物」のことはとんと知らない。急いでいたので、気にもしなかったのかもしれない。

 謙作は、そこで、さまざまな「美」を味わう。尾道での暮らしは、そうした「美」との出会いを生まなかったのだ。東京での謙作は、そうした「美」にしょっちゅう出会い、味わっていたということになる。

 自然にしても、謙作の感じ方は独特で、尾道では「松ばかり」見ていたという。尾道にどれだけ松が多いか知らないが、そうして樹木の植生に敏感なところがおもしろい。

 松以外の木が物珍しかった、というが、その木はどんな木だったのだろうか。木の肌が「気味悪い」というのは、どんな木だったのだろうか。特別に気味の悪い肌を持った木があるのではなく、たぶん、見慣れない木の肌をじっとみているうちに、「気味が悪く」なったのだろう。つまりは、謙作の「弱った神経」の作用である。

 この旅に出るときに、謙作の神経に特別の異常があったという記述はないが、随所に、例の「不愉快」が出てきていて、謙作の気持ちがコロコロと変わりやすい状態にあったことは確かだ。

 そもそも尾道に来たこと自体、謙作が心身ともに疲れ、少しのんびりしようという思った結果だったろう。その疲れというのは、放蕩の疲れでもあり、また、創作に関わるものの疲れでもあったろう。尾道滞在中のこの旅も、「旅の中の旅」で、それだけに、精神的な状況はより濃いものがあるわけだ。


 午後、予定に従って彼は高松へ行った。的(あ)てにして来た城内の庭は見られなかったが、栗林公園というのを見た。それから彼は町を少し歩いた。或る町角に洋酒洋食品を売る軒の低い、しかし割りに品物の充実した店があった。其処へ入った。尾の道にはいいそういう店がないので何か缶詰を買込んで行くつもりだった。彼は黙って棚を探し歩いた。しかし大和煮、五三焼、そういう尾の道にもある物ばかりで欲しいようなものはなかった。
 「何か御入用(おいりよう)ですか」髪を油で光らした番頭だか、若主人だかが出て来た。
 「舶来の肉の缶詰がありますか?」
 「ございます」こういって若い男は直ぐ奥から大きい濃藍色(のうらんしょく)の缶詰を持って出て来た。貼紙にはPure english oatsと書いてある。
 「これは肉だね?」
 「そうです」とその男は何の遅疑なしに答えた。
謙作は缶を振って見た。中で乾いたゴソッというような音がした。
 「肉かい?」とまたいった。その男は受取った缶の貼紙を見ながら、至極流暢な発音で、
 「ええ、ピューワ・イングリシュ・オーツ」といった。
彼は黙ってその店を出た。ちょっと腹も立ったが、その若者の眼に映った自分がどんな者だったろうと思うと、彼は初めて自身の見すぼらしい姿に心づいた。きたない鳥打帽、二十年も前に出来た黒綾羅紗の二重廻、鼻緒のゆるんだ安下駄、太巻の洋傘、それに不精鬚を生やした物憂気な顔……肉の缶詰に選り好みをする柄でなかったに違いない。
 しかし彼はもう一度還って、其処でそれを開けさして、返してやろうかしらというような小さな余憤も感じた。


 今では高松というと、栗林公園が観光スポットだが、謙作はそれほど興味を示していない。「栗林公園というのを見た。」というだけで、詳しく書かれるのが、町角の「洋酒洋食品」の店だ。

 尾道にはないそういう店で、謙作は缶詰を買い込もうとする。尾道の家では、隣の婆さんが食事を用意してくれるわけだが、さすがに田舎料理には飽きたということだろう。東京での謙作の「ハイカラ」な生活が伺える。

 棚にあった「大和煮」というのは、今でも「牛肉の大和煮」などとしてお馴染みだが、意味は「牛肉などを醤油・砂糖・生薑(しょうが)などを使って甘辛く煮たもの。」(日本国語大辞典)ということだ。

 では「五三焼」って何だ? と思って、検索をかけたら、なんとカステラの、しかも最高級のものらしい。といっても最高級だとしてもてはやされているのも今の話で、ここの記述からすれば、この当時は、ポピュラーなカステラだったことがわかる。

 「舶来の肉の缶詰」があるかと謙作は聞くのだが、これにはちょっと驚く。今の世の中では、わざわざ「外国産の肉の缶詰」が欲しいなんて思わない。というか、そもそもあるのだろうか。「肉の缶詰」っていう言い方をしない。あることはあるのだろうが、「コンビーフ」ぐらいしか思いつかない。謙作が欲しかったのは、いったいどういう「肉の缶詰」だったのだろうか。当時はどんな「肉の缶詰」が輸入されていたのだろうか。

 それはそれとしても、大麦(oats)の缶詰をどうどうと「肉の缶詰」だといって売る店の「番頭だか、若主人だか」には思わず笑ってしまう。謙作はもちろん英語が分かるから(ちなみに、ぼくは「oats」の意味を調べてはじめて知った。)、「これは肉だね?」というのは、もちろん嫌味である。嫌味というか、なんというか、試しているわけだ。ところが、若い店員は、そうだと「遅疑なしに答え」る。

 それに対して、普段は怒りっぽい謙作なのに、奇妙にも、怒らない。内心怒っているのだが、反論しない。店員が流暢な英語で、「ええ、ピューワ・イングリシュ・オーツ」というのを聞いて、黙って外へ出てしまう。

 ここに謙作の「神経の弱り」をみることができる。自分を英語も分からないヤツだと見限った若者に、反射的に怒りを表せない。それどころか「ちょっと腹が立った」だけで、後は自省するのだ。気の弱りだ。

 そして、自分の外から見える姿をかえりみる。こんなみすぼらしい格好をした男が、「oats」の意味を知っているはずがないと若者が思っても致し方ないと思うのだ。

 この「ピューワ・イングリシュ・オーツ」というのは、当時の日本人はどういう食べ方をしていたのだろうか。ずっと昔「オートミール」というのがあって、牛乳をかけたりしたぐちゃぐちゃした食べもので、なんだかえらくまずかったという記憶があるが、あんな食べ方だったのだろうか。ちなみに、あのまずかったオートミールは、今ではダイエット食で人気らしい。

 謙作は、「小さな余憤(おさまらずに残っている怒り)」を感じるが、電車に乗るために、俥に乗った。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 52 もたれ合い 「前篇第二  五」 その2   2020.8.18

 

 

 謙作は高松から屋島に行くことにした。「志度寺」行きの電車は、屋島経由である。今の「琴電志度線」だろうか。乗ってみたい電車だ。

 

 屋島へ行く事にして、俥で電車の出る処へ向う。志度寺(しどじ)行きの電車に乗る。彼が乗った電車は空いていたが、帰って来る電車はどれも一杯の客だった。それは市の新聞社と電車の会社とが一緒になって、屋島で宝探しとか、芸者役者の変装競争とかいう催しをした、その帰り客だった。彼が屋島で下りてからもまだ帰り客がゾロゾロと通った。鬱金木綿(うこんもめん)の揃いの手拭を首へかけたり鉢巻きにしたりした番頭小僧の連中、芸者を連れた酔漢、帽子のリボンから風船玉を上げている子供連れの男、十日戎(とおかえびす)のほい駕籠*のような駕籠に乗った連中、書生、駅員、その他荷をかついだ縁日商人等、種々雑多な連中が大概は赤い顔をして、疲れた身体を互にもたれ合って、帰って来た。彼は一人それらの連中とは全く異った気持で擦れ違いに歩いて行った。が、彼の心は淡い情緒を楽しんでいた。子供の頃、亀井戸の藤見、大久保の躑躅(つつじ)見、それでなければ駒場の運動会の帰途(かえり)、何かしらそういう漠然とした淡い情緒が起っていた。平地の塵埃(ほこり)っぽい処から、漸く坂道にかかる頃から帰り客も段々疎(まば)らになって行った。彼は松林の中の坂道を休み休み静かに登って行った。高松からずっと続いている塩浜が段々下の方に見えて来た。塩焼きの湯気が小屋の屋根から太い棒になって、夕方の穏やかな空気の中に白<立っている。それが点々と遠く続く。彼の物憂い沈んだ気分もさすがに慰められた。


 この一段落で一気に書かれた屋島の光景は、まるで昨日見た光景のように細かく鮮やかに書かれているのだが、実際には10年も後になって書いているのである。こんな光景は、フィクションでは書けないから、実際の体験をもとにしていると考えるべきだろうから、やはり10年経って思い出して書いていると考えるのが妥当だろう。志賀直哉は写真を撮ったわけでもなく、細かいメモをとったわけでもないのに、過去の出来事を実に事細かに思い出して書くことができたらしい。「暗夜行路」のクライマックスとも言うべき大山の描写などもそうした驚異的な記憶力によって書かれたということは、有名なことだ。

 こうしたまるで写真を見るような描写によって、書かれてから100年(!)もたった今でも、ぼくらは当時の風俗を目の当たりにすることができるのだ。

 それにしても、こうした賑わいは、今はほんとうに姿を消してしまった。コロナ禍がなくても、それはもうとっくに失われた世界だったのだ。

 この頃の人々というのは、一目でそれが「芸者」なのか「番頭」なのか「書生」なのかが分かるような格好をしていた。それぞれの人がその人間の「輪郭」をくっきりとさせていた。それは自ずと社会の中での「階層」を顕わにするものだっただろうが、人間の「種々雑多」性を、人々に明示していたともいえる。

 今は、町を歩いていても、ひとびとはみな一様に見える。その実体は実は多種多様なのだが、その違いが見えない。しかし、それはみんなが平等になったということではなく、恐ろしいほど格差と分断は進んでいるのだ。

 「種々雑多な連中が大概は赤い顔をして、疲れた身体を互にもたれ合って、帰って来た。」という社会は、格差は顕わでも、分断は見えない。いやむしろ、格差を超えて、「もたれて合って」いるように見える。今はその逆だ。みな似たように見えるが、ひとりひとりは孤独なのだ。
高松だけではなく、東京もまた、そうした社会だった。「亀井戸の藤見」「大久保の躑躅見」「駒場の運動会」と並ぶが、それがいたるところにあったのだろう。そして、そこには「多種多様」な人間が、「もたれ合って」暮らしていたのだろう。

 もっともその「もたれ合い」というのは、必ずしも美しい「助け合い」ではないだろう。喧嘩したり、軽蔑したり、悪口言ったりしただろうが、それでも、それを含めての「もたれ合い」であり、それは分断からはほど遠かっただろうと思うのである。

 高松から屋島に続く「塩浜」の描写も素晴らしい。そうした光景に、謙作の病んだ気持ちも次第に慰められていくのだった。

 しかし、その「慰め」も束の間、謙作のこころにまた憂鬱が忍び込んでくる。

 

 彼が上の平地へ上(あが)った頃は、其処にはもうほとんど人影もなく、折(おり)の壊れ、蜜柑の皮、そんなものが落ち散っているばかりだった。絵葉書や平家蟹の干物を売る小さい家が店をしまいかけていた。彼は歩いている内に自然に、下の方に海を望む、小松林の中の宿屋の前へ出た。一組帰り遅れた客が離れの一つで騒いでいたが、女中たちは忙しく後片づけに立働いている所だった。
 彼は海を見下す、崖の上の小さな風雅作りの離れに通された。右の方に夕靄(ゆうもや)に包まれた小豆島が静かに横たわっている。近く遠く、名を知らぬ島々が眺められた。遥か眼の下には、五大力(ごだいりき)*とか千石船とかいう昔風な和船がもう帆柱に灯りをかかげて休んでいる。夕闇は海の面(おも)から湧き上った。沖から寄せる《うねり》の長い弓なりの線が、それでも暗い中に眺められた。──とにかくいい景色だった。が、彼の心は不思議にそれを楽しまなかった。


*注

【十日戎のほい駕篭】大阪市今宮、兵庫県西宮で、正月十日に芸者が花で飾った駕篭に乗って蛭子神社に参詣する。宝恵(ほえ)駕篭。
【五大力】五大力船の略。伝馬船(てんまぶね)よりやや大きく内海に用いる。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』  53  いよいよ核心へ! 「前篇第二 五」 その3   2020.8.23         

 

 屋島に着いた謙作は、とある宿に泊まった。女中が食事を持ってきても、食欲はなく、気持ちは沈んでいた。「それは旅愁というような淡い感じのものではなく、もっと暗い重苦しい気持だった。」と書かれる。

 座敷から庭をみると、乞食のような男がぐったりとうつぶして倒れている。女中に尋ねると、独身の乞食だという。酒を飲みすぎて寝ているんだという。女中はいろいろと世話を焼こうとするが、謙作は女中を追い出すようにして、一人になり、寝間着にも着替えず床につく。


 彼は寝ながら持って来た本を拡げたが、どうしても、それに惹き込まれて行かなかった。暗い淋しい気持が廻りから締めつけて来る。彼はそれにおさえられ、身動きもならず、ただ凝然(じっ)としているより仕方ない気持だった。実に静かな夜だ。そして寒く、火のある部屋でも頬は冷え冷えと、まだ足の先は温まりきらずにいた。
 戸外から先刻の乞食の軒がかすかに聞えて来た。彼は眠れぬままに、帰る家もなく、それを待っ人もない乞食の身の上を想い、それが丁度自分の身の上だと思わずにいられなかった。自分の仕事が成功しようが、失敗しようが、それを心から喜ぶ者も悲しむ者もない。父や母や、同胞や、しかしそれらは自分の家族ではない。それは差支えないが、……こんな風に思った。
 彼は心から自分の孤独を感じた。それは今、寒い空の下に酔い倒れている乞食の孤独と変りない孤独だった。──彼は急にお栄に会いたくなった。


 謙作の暗い淋しい気持ちは、この自分の境遇もこの乞食のようなものだというところに落ちていく。

 謙作の孤独感は、根本的には「家族」の問題から来ていることが明らかになる。いよいよ、「暗夜行路」の核心へと進む気配である。

 自分のことを心から思ってくれる身内がいない。父も母も「家族」ではない。生母は既に亡い。父はなぜか自分には冷たい。だれも自分の成功や失敗を親身になって共有してくれない。そうした孤独感は、お栄への思いにつながる。

 あの横浜の港で自分を送ってくれたお栄に会いたくなる。けれども、そのお栄との関係は単純なものではない。というより、実になんとも不自然な関係なのだ。


 何といっても感情的に、一番近い人間はお栄だ。そのお栄が何故もっと本統に自分の生活に結びついては来ないのだろう、そして、結びついてはいけないのだろう。自分にとってもお栄にとっても、気持の上ではほとんど肉親の近さにいながら、本郷の父が決めた関係、依然雇人(やといにん)、そして、自分の結婚と同時に身を退(ひ)くはずの女として、何故二人ともがそれを無条件に認めているのだろう。この事は本統に何という変な事だったろうと彼は考えた。
 祖父の妾(めかけ)だった女と結婚する事は変な事だ。しかし心にお栄を穢している事からすれば、実際の関係に進まない前に正式に結婚してしまう事の方がどの位気持がいいか知れないと思った。嘲罵の的となる事、それも自分の気持をひきしめてくれる。年の余りに違う事、かつて祖父の妾だった事、この二つを別にすればこの結婚は自分にもお栄にも一番いい事だ。自分も落ちつけるし、お栄も本統の安定が得られるわけだ。何故自分はこの事をもっと早く考えなかったろう。
 お栄と結婚するという考は彼の気持を明るくした。この決心が尾の道へ帰るまで変らなかったら、早速手紙を書こうと思った。しかしお栄が承知するかどうかが疑われた。もし承知しないとすれば帰京しよう。そして自身彼女を勇気づけよう。そう彼は考えた。


 謙作の生母は謙作が6歳のときに、産後の病気で亡くなった。母を失った謙作は、祖父の家に預けられる。そこにいたのが、祖父の妾であるお栄だ。そのとき、お栄は23、4歳だったので、謙作とは17、8歳ほど年上である。

 このお栄と幼い謙作は一緒に過ごしてきたのだから、お栄は育ての母のようなものだ。しかも、そのお栄は祖父の妾だ。そのお栄を、謙作の父が、「雇人、そして、自分の結婚と同時に身を退くはずの女」と決めたという。これは謙作からすれば、いや世間一般からすればなおさら「本統に何という変な事」に違いない。

 謙作は幼い頃から祖父は好きになれなかったが、お栄は好きだった。そのお栄への思いは、謙作が成長するにつれますます募ることになった。謙作が放蕩に走っていたころには、その性欲の矛先はお栄に向かうこともあったのだが、謙作はそれをずっとこらえてきたのだ。
謙作が尾道に来たのも、お栄との問題を自分の中で解決できないという悩みからだったのかもしれない。だから、尾道に来て以来の謙作の心の大きな部分は、実はお栄によって占められていたのだろう。

 気持ちの浮き沈みの激しいこの旅で、謙作は、「そうだ、お栄と結婚すればいいんだ。」とはっきりとした決意を抱くことになった。

 「心にお栄を穢している事からすれば、実際の関係に進まない前に正式に結婚してしまう事の方がどの位気持がいいか知れない」というのは、謙作の倫理感・潔癖の故だろうが、この謙作の考える「結婚」が、かならずしも精神的な愛だけの問題ではなく、自分の性欲のあり方とも密接に関係していることを示している。ぼくが若い頃でさえ、「婚前交渉」「婚前旅行」などという言葉が普通に使われ、結婚まえに同棲するなんてことがごく当たり前になった昨今とはまったく状況は異なるのだから、明治から大正へという日本だということを考えれば、この辺の謙作の思考回路は不思議なことではないのだ。

 

謙作は、翌日尾道に帰った。そしてさっそく手紙を書いた。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 54 迷う心 「前篇第二  六」 その1  2020.8.30

 


 お栄と結婚しようと思い立った謙作は、翌日、鞆の津の月も見ずに、尾道へ帰った。

 直接お栄に手紙を書こうと思ったが、「寝耳に水」を恐れて、兄の信行からお栄に「静かに」話してもらうより道はないと思った。


 謙作は信行にあて、これまでお栄に対しそういう衝動で随分苦しんだ事から、屋島で結婚を想い立つまでを正直に書いた。
 そして、しかしこの事は父上や義母上(ははうえ)や、その他本郷の人たちには甚だ不愉快な事であるのは勿論だが、愛子さんとの場合には父上はそういう事は自身やるようというお考だったから、改めて誰にも相談はしないつもりです。相談する事で、思わぬ邪魔が入っても面白くないし、それにもしこの事のために今後本郷へ出入りを差し止められるような事があっても、それは父上や義母上としては無理ない事だから、僕は素直な心持でそれをお受けするつもりです。というような事を書いた。
 恐らくお栄さんは吃驚(びっくり)する事でしょう。しかし其処(そこ)を君からよく理解の行くよう話して頂きた<思います。そしてこの事に関しては君にもお考があると思いますが同時に僕の性質も知っていて下さるのだから、甚だ虫のいい事ですが、とにかく僕の心持をそのままにお栄さんに伝えて頂く事をお願いします。と書いた。


 愛子との結婚については、父は、こういうことはお前が勝手にすればいいというような冷たい態度だったから、お栄のことについても相談なんかしない。一度言い出したら聞かないというぼくの性質も分かっているはずだから、お栄に、分かるように説明してほしいというはなはだ勝手な願いだが、それなら、わざわざ信行の手を煩わさなくてもよさそうにも思うのだが。

 この手紙とともに、謙作はお栄にもこんな手紙を書いた。


 大変御無沙汰しています。御変りない事と思います。……僕はこの手紙で何にも書きません。精しい事は総て信さんの方へ書きました。それはこれと同時に出しますから、恐らくこの手紙を御覧になった翌日には信さんが行って色々お話するはずです。そしてそれはあなたを吃驚さす事です。しかしどうかただ驚いていずに、よく僕の心持を汲んで静かに考えて下さい。そして臆病にならぬよう、何者も恐れぬよう、この事切にお願いしておきます。


 なかなか周到なことではある。「寝耳に水」を避けるために、クッションをもうけたということだろう。

 この手紙の文面をみるかぎり、謙作は、お栄が拒絶する場合の理由として、「臆病」を挙げている。結婚はしたいが周囲が何というだろうと考えて「臆病」になるかもしれないと思っているのだ。つまりは、お栄もできることなら謙作と結婚したいと思っているに違いないと踏んでいるわけである。「それ以外」の、お栄の「拒否の理由」は思いつかないのだ。

 

 彼はこの二つの手紙を書き終ると、かえって変な気落ちを感じた。これで自分のそういう運命も決ってしまったと思うと淋しい心持になった。しかしもうその事を迷う気はしなかった。そして、その時はもう夜も十二時過ぎていたが、この手紙をまだ投函しないという事でなお迷うようでは不愉快だという気持から、提灯をつけ、それから彼は停車場まで、それを出しに行った。


 妙な実感のあるところである。

 この重大な手紙を書き終わって感じた「変な気落ち」「淋しい心持」というのは、「これで自分のそういう運命も決ってしまった」という思いから生まれているわけだが、なんだかとても分かるような気がするのだ。

 人間というのは欲張りなもので、特に若いころは、自分には無限の可能性があるとどこかでうっすらと思っている。もちろん、うっすらどころか、盛大に思っている若者もいるはずだが、よほどの脳天気でないかぎり、自分の限界というもののほうをより強く感じるものである。それを知らない、というか目を向けようとしない想像力貧困な教師などは、声を張り上げて「君たちには無限の可能性があるんだ!」などと教壇で飛び上がって叫んだりするわけだが、想像力がありすぎるゆえのマイナス思考のぼくなどは、「君たちには無限の不可能性があるんだ。」なんて言っては生徒をしらけさせていた。

 ひとりと結婚することは、他の数千人、数万人という魅力的な女性との結婚を「不可能」にしてしまうことだ、なんてことは、なんの意味もない言説だが、事実としてはその通りなのだ。

 自分がせっかく勇気を出して書いた手紙が、自分の運命を決めてしまうということに、「なんだ、つまらない。オレの人生は、こんなもんだったのか。」といった思いを呼び起こしたということは、ある意味自然なことだと言えるだろう。

 しかし、若者が自分が恋い焦がれて身も世もあらぬ異性に、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、告白の手紙を書いた(メールでもラインでもいいけど)とき、「なんだ、つまらない。」とは普通思わないだろう。何年かたって、ああ、なんてつまらないことをしてしまったんだと、後悔することはあったとしても、少なくともその時は、若々しく、やったあ、これでオレの未来は薔薇色だ! って叫んだっておかしくないし、むしろそれのほうが普通かもしれない。

 この時の謙作が、「変な気落ち」「淋しい心持ち」を感じたのは、やっぱり、この結婚が、謙作が心から望む唯一の道ではなかったからだろう。20歳近くも年上のお栄は、40歳をすぎた、当時でいえばバアサンである。そんなことは障害にならないと謙作は思っているが、心の奥底では、なにもそんなバアサンと、という思いがないとはいえないだろう。しかも、その女性は、いわば義理の母のような存在なのである。

 謙作はお栄が昔から好きだったが、いざ結婚となると、そこにはやはり大きな飛躍があるのだ。それを自覚しない謙作ではないのである。


 返事の来るまでが不安であった。直ぐ返事を書くとしても間が三日かかる。しかし何かとぐずぐずしていれば五日位はかかるに違いないと思った。この五日間の不安な気持が今から想いやられた。彼はお栄に、「強くなれ、恐れるな」と書きながら、自身時々弱々しい気持に堕ちる事を歯がゆく思った。信行に対しても、自分の性質は知っていてくれるのだからと、他人の考では動かされないからという気勢を見せながら、いまだに二つの反対な気持が、自身の中でぶつかり合うのを腹立たしくも情なくも感じた。

 

ここは解釈の難しいところだ。国語の試験なら、最後のほうの、「「二つの反対な気持」とはどのような気持ちのことか。」といった設問をしたくなるところ。

 ひとつの答は、「自分の中の強い気持ちと、不安におちいる弱い気持ち。」ということになるだろうか。しかし、信行に「他人の考では動かされないからという気勢を見せ」ながら、「二つの気持ちが自分の中でぶつかりあう」というのだから、強い気持ちと弱い気持ちのふたつの衝突といったのでは、すっきりしない。

 信行に対しては強がっているのに、何かが心の中でぶつかり合っている。それは、先の「変な気落ち」「淋しい心持ち」と関係があるのではないか。

 謙作は、二通の手紙を書いてから、投函するまでに「迷っている」。これで自分の運命を決めていいのか。ほんとうに自分はお栄と結婚したいのか。その「迷い」である。しかし、「この手紙をまだ投函しないという事でなお迷うようでは不愉快だという気持」から、えいやっとばかり投函してしまったのだ。「迷う」という心理的状態が「不愉快」だから、投函した。ということは、「迷い」がふっきれたから投函したということではないということだ。

 その「迷い」が尾を引いている。謙作が、「腹立たしくも情なくも感じた」のは、心の弱さのことではなく、まだ迷っている自分のことなのだ。

 実はそのことは、次の段落で詳しく書かれている。それを示したら「試験問題」は成立しないのだが。


 

 

志賀直哉『暗夜行路』 55 「結婚」と「肉情」 「前篇第二  六」 その2   2020.9.6

 

  「その次」は、こんなふうに書かれている。これだけちゃんと書かれると、「試験問題」も成立しないよね。

 

 実際彼には同じ位の強さで二つの反対した気持があった。この事がうまく行ってくれればいいという気持と、うまく行かないでくれ、というような気持と。何方(いずれ)が彼の本統の気持かよく分らなかった。何方にしろ決定すれば、彼はそれに順応した気持になれるのだった。しかしそうはっきり決定しない内は、変にこういう反対した二つの気持に悩まされる。それは癖で、また一種の病気だった。そして、結局はお栄の意志で運命を決める。それより他はないという受け身な気持におさまるのであった。

 「ちゃんと書かれている」とは言ったものの、ほんとに「ちゃんと」してるだろうか。

 「二つの反対した気持ち」は、確かに、「この事がうまく行ってくれればいいという気持と、うまく行かないでくれ、というような気持」というふうに「ちゃんと」書かれている。しかし、どうもこの「二つの反対した気持」は、正確な対比関係にはない。ずいぶんと温度差がある。「うまく行ってくれればいいという気持」は、どこか他人事のような冷静さがつきまとい、「うまく行かないでくれ」には、どこか懸命な願いが込められているように感じる。

 ここで言われる「癖」「一種の病気」というのは、ものごとが決定しないうちは迷って悩むということを指しているようでもあるが、「結局はお栄の意志で運命を決める」とあるような、迷った挙げ句、自分の意志で運命を切り開くのではなく、他人の意志で、自分の運命を決める、というか、その運命を受け入れるという「受け身な気持におさまる」という、謙作の生き方のパターンを指すようにも思えるのだ。

 自分では、積極的にお栄との結婚が決まることを望んではいない。それなのに、お栄に結婚を申し込んでしまう。その上で、この結婚がうまくいかないでくれと願う。けれども、もしお栄が承諾すれば、自分はそれを自分の運命だとして受け入れるだろう。

 まったくメンドクサイことである。謙作の「本統の気持ち」は、本人も言っているとおり、ぼくにもよく分からない。いったいどうなってるんだろう。

   そう思って次の記述に目を移すと、驚くべきことが書いてある。

 

 彼は心ではそんな状態にいながら、一方、急に肉情的になった。お栄との結婚、この予想は、様々な形で彼のそういう肉情を刺激し出した。そして実際にも彼はその間に幾度か放蕩した。

 

 こんな迷いの中で、謙作は「急に肉情的」になったというのだ。お栄との結婚のことを思うと、「肉情が刺激された」というのだ。その結果、「幾度か放蕩した」ということになる。この「放蕩」が何を指すのかよく分からないが、いつぞやの田舎娘の芸者と遊んだといったあたりだろうか。

 お栄との結婚を願う核心には、こうした「肉情」があるのだということだろうか。「だろうか」などと推定している場合ではない。「あるのだ」と断定すべきだろう。

 だからといって謙作の結婚願望が不純だなんていうことではない。むしろ、ある意味では純粋だと言える。内村鑑三の教えを厳密に守ろうとして果たせず、内村のもとを去った志賀直哉だが、性に関しては、やはり「婚外」での交渉には大きな抵抗があったのだ。遊女との交渉はすでに解決済みだが、(もちろん、内村はそれを罪として禁じたのだが、内村のもとを去った以上は、それに縛られることはない、というか、それに縛られないために、志賀は内村を去ったというべきだとすら思う。)一般女性との間の性交渉は、あくまで結婚が必要だと謙作(志賀直哉と考えてもいいだろう)は思っているのだ。

 謙作がお栄に結婚を申し込もうと決意したときに、「心にお栄を穢している事からすれば、実際の関係に進まない前に正式に結婚してしまう事の方がどの位気持がいいか知れないと思った。」と書かれているとおり、お栄との結婚は、精神的な「愛」というようなものよりも、性の問題がまず第一にあったと考えるのが妥当だろう。

 そうであるならば、お栄との結婚は、自分の「肉情」が牽引するものであって、それが自分でもどうにも制御できないものである以上、もし、お栄が承諾したなら、自分はその結婚を「運命」として受け入れざるをえない。しかし、それは、自分の「肉情」への敗北を意味するのではないか、そんなふうに謙作は心の底で思っていたのかもしれない。

 しかし、そんな謙作の苦悩をよそに、兄信行からの手紙は、謙作の予想もしない激動をかれの内にもたらすものとなったのだ。

 それこそが、この「暗夜行路」前篇の核心である、謙作の出生の秘密であった。

 なんと、謙作のほんとうの父は、父の父である祖父だったのだ。謙作は、祖父と母との密通によって生まれた子どもだったのだ。これは「暗夜行路」という物語の核心で、その核心とは「性」の問題なのだということだ。このことを考えると、この信行の手紙が来る前の、謙作の心中の葛藤の意味というものも自ずと納得される。

 お栄との結婚の中心的なしかし隠された問題たる「性」は、この手紙によって、俄然、前面にせり出してくることとなったのだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』  56  衝撃の事実 「前篇第二  六」 その3   2020.9.13          

 6日後、兄の信行から手紙が届いた。

 信行は、手紙を見て驚いたこと、できれば思いとどまって欲しいと思ったこと、しかしそんなことを聞く謙作ではないと思ったこと、それで、お栄に謙作の手紙を見せたこと、お栄はその手紙を見て驚かなかったが、きっぱりと「それはいけない」と言ったことなどを述べた後で、本題に入った。


 俺は今、この手紙で何も彼もお前に書かねばならなくなった事を非常に心苦しく思う。俺はお前に対し、今まで本統に済まない事をしていたのだ。そして今でもそれを打明けるのは非常に心苦しい。しかし黙っていて、この後(のち)何時(いつ)までもお前を苦しめる事を思うと、一時は崖から突落すような事ではあるが、思い切って書かねばならぬと決心した。
 お前は母上と祖父上との間に出来た子供なのだ。精しい事は知らない。俺も中学を出る頃、神戸の叔母さんに聴いて初めて知ったので、俺がそれを知っている事は父上でも義母上でも恐らく今だに知ってはいられまい。それ故、俺にも精しい事を知る機会がない。また知りたくない気持もあって、そのままでいるが、とにかく、若荷谷に自家(うち)があった頃、父上が三年独逸(ドイツ)へ留学された、その間にお前は生れたのだ。そして、こんな事まで書くのはお前を一層苦しめるばかりだとは思うが、知ってるだけは総ていう決心で書きだしたから書く。自家の祖父上祖母上は父上に秘密で堕胎してしまおうとしたのだそうだ。しかし芝の祖父上が「あなたはこの上にも罪を重ねるおつもりですか」と非常に怒られたそうだ。それ故そういう事なしに済んだが、母上は直ぐ芝へ引とられて行った。そして、芝の祖父上は何から何まで正直に書いて独逸へ送られたという事だ。勿論離婚を覚悟してだ。しかし父上からは、総てを赦すという返事が来た。そしてその手紙が来ると間もなく自家の祖父上は一人自家を出て、何処かへ行ってしまわれたのだそうだ。


 こういうのを「衝撃の事実」というのだろう。お栄との結婚を考えて、その相談をした兄から、まったく思いがけない、とんでもない事実を告げられるなんて、謙作は思ってもみなかっただろう。

 自分が祖父と母との間に出来た子であり、しかも、祖父と祖母は、自分を堕胎しようとしたということ。しかし芝の祖父(母の父)から強くたしなめられたということ。芝の祖父は、そのことをドイツにいる父に告げたということ。そして、それを知った父が総てを許したということ。そのどの一つをとっても、謙作にとっては重すぎる事実だった。

 けれども、自分の出生になにかいいようもないものがあるということを、謙作は、早くから予感していたのだ、という書き方をしているのが「暗夜行路」だ。

 ここで、「暗夜行路」の冒頭部分を振り返ってみよう。

 

 私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月ほど経って、不意に祖父が私の前に現われて来た、その時であった。私の六歳(むっつ)の時であった。
 或る夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処(そこ)へ来て立った。眼の落ち窪んだ、猫背の何となく見すぼらしい老人だった。私は何という事なくそれに反感を持った。
 老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。釣上った口元、それを囲んだ深い微、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私は腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。
 しかし老人はなかなかその場を立去ろうとはしなかった。私は妙に居堪らない気持になって来た。私は不意に立上って門内へ駈け込んだ。その時、
 「オイオイお前は謙作かネ」と老人が背後(うしろ)からいった。
 私はその言薬で突きのめされたように感じた。そして立止った。振返った私は心では用心していたが、首はいつか音なしく点頭(うなず)いてしまった。
 「お父さんは在宅かネ?」と老人が訊(き)いた。
 私は首を振った。しかしこのうわ手な物言いが変に私を圧迫した。
 老人は近寄って来て、私の頭へ手をやり、
「大きくなった」といった。
 この老人が何者であるか、私には解らなかった。しかし或る不思議な本能で、それが近い肉親である事を既に感じていた。私は息苦しくなって来た。
 老人はそのまま帰って行った。
 二、三日するとその老人はまたやって来た。その時私は初めてそれを祖父として父から紹介された。
 更に十日ほどすると、何故か私だけがその祖父の家に引きとられる事になった。そして私は根岸のお行の松に近い或る横の奥の小さい古家に引きとられて行った。
 其処には祖父の他にお栄という二十三、四の女がいた。私の周囲の空気は全く今までとは変っていた。総てが貧乏臭く下品だった。


 ここで幼い謙作が感じた祖父への「反感」は、「釣上った口元、それを囲んだ深い微、変に下品な印象」からのみ来るものではなく、「或る不思議な本能で、それが近い肉親である事を既に感じていた。」とあるように、もっと深いところからくる「反感」だったことが手に取るように分かる。「近い肉親である事」が、どうして「親しみ」ではなくて、「息苦し」さを引き起こすのか、その深い理由を幼い謙作は知るよしもなかったが、感じてはいたのだ。

 そしてなぜだか分からぬが、兄弟の中で自分だけが父の家から祖父に家に引き取られる。そしてそこにいたお栄という女。謙作が6歳、お栄が23、4歳。そのお栄が祖父の妾であることを謙作はまだ知らなかった。

 この文庫本でたった2ページほどの文章の中に、「暗夜行路」の核心が既に明確に書かれている。初めてここを読む人は、なにやらえたいのしれない不愉快な感じを受け取るだろうが、その実態はもちろん分からないまま、読み進めることとなる。そこから長い長い話が続いた挙げ句、ここへきて、ぱっと秘密が明かされる。読者としても、なにかある、とは思っていても、まさかこんなことまで、という印象はきっとあるはずだ。

 けれども、ぼくが高校時代か大学時代に「暗夜行路」を読んだとき、ここにそれほど驚いた印象がない。「え? そうだったの? なんだそれ!」っていうような衝撃を受けた記憶がないのだ。

 ということは、結局、その頃のぼくは、「暗夜行路」をぜんぜん理解できなかった、ということだろう。頭では理解しても、感情のレベルで、ぼくの心が震撼することはなかったのだとすれば、それはやっぱり、「ぜんぜん分からなかった」ということになる。

 今回は、すでに志賀直哉論やら、暗夜行路についての評論やらに少しは触れていたので、この秘密については知っていたわけだが、それがどういう形で謙作に開かされるのかは、覚えていなかったので、なるほど、こういう経緯なのかと驚いた。周到に用意された筋である。

 お栄との結婚という問題がなかったら、この秘密は謙作には生涯開かされなかったかもしれない。あるいはお栄との結婚という問題なしには、この秘密が明かされる必然性がないようにも思える。唯一あったとしたら、愛子との結婚の時だったわけだが。

 そういうことも含めて考えてみれば、人生にとって結婚は、ほんとうに一大事なのだということが深く納得される。そういう一大事を、20歳前後のぼくが深く理解することなど土台無理というものだったわけだ。それなのに、ぼくは23歳で結婚してしまったのだから、無謀という他はない。というか、なんにも知らなかったから結婚できたのだとも言える。人生ってむずかしい。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』  57  「呪われた運命」 「前篇第二  六」 その4    2020.9.2           

 兄信行の手紙はつづく。

 俺はお前がそういう呪われた運命のもとに生れたと聴いた時、随分驚きもし、暗い気持にもなった。そして同じ同胞(きょうだい)でどうしてお前だけが別に扱われているのかという漠然とした子供からの疑問も解けた。そして俺はこの事はお前もきっと今は知っているに違いないと考えていた。長い間には何かでお栄さんがそれを知らさない事はあるまいと思ったし、それでなくてもお前自身そういう疑問を起したかも知れないと考えていた。ところが愛子さんの事で、お前が全くそれを知らずにいる事を知って実は俺も不思議に感じたのだ。俺は今日お栄さんと会ってこの事でも感心した。お栄さんは父上との約束を守ってお前に話さなかったのだ。「可哀想でそんな事、いえませんわ」とお栄さんはいっていられた。あるいはそれが本統かも知れない。しかし何れにしろ、この長い年月、遂に饒舌(しゃべ)らなかったという事は普通の女にはなかなか出来難い事だ。
 今になっていうが、愛子さんとの事も、調わない原因は全く其処にあったのだ。先方のお母さんは一方お前に同情していながら、いざとなると、其処までは出来なかったらしい。これはしかし慣習に従って考えるああいう人としては仕方がない。

 信行は、謙作がこのことを知っていると思っていたというのだ。その理由として、お栄がきっと謙作にしゃべっただろうと思ったからだということを挙げている。けれども、お栄は、「父上との約束」を守って謙作には話さなかったのだ。信行は、「普通の女にはなかなか出来難い事だ」というが、男にだってなかなかできないことだ。

 昨今、「女はすぐに嘘をつきますから」みたいなことを言って炎上している女がいるが、この信行の発言だって今なら炎上ものだ。ここでは「普通の女はすぐにべらべらしゃべる」ということを前提としてしまっている。「男は口がかたい」なんて、幻想以外の何ものでもない。とりわけおしゃべりが大好きなぼくのような男は、こういうことを、じっと黙って墓場までもっていくなんてことはできそうもない。

 女か男かは別として、こんな重大な秘密を、お栄が守り通したということはやはり立派である。それはお栄が「口がかたい」という以上に、やはり謙作への愛情が深かったからだろう。お栄にとっては、なんといっても、謙作は息子のような存在なのだ。

 この小説の冒頭あたりから出てくる「愛子とのこと」の顛末の不可解さは、ここに至って一挙に解消するわけだが、謙作の出自がこうしたものだったとしても、愛子は謙作の義理の従姉妹にすぎないわけだから(愛子の母は、謙作の母の姉妹だが、血はつながっていない。愛子の母は、謙作の母方の祖父母の養子である。)、結婚するには問題はないわけだが、「慣習に従って考えるああいう人」たる愛子の母は、「呪われた運命」の元に生まれた謙作に「同情」しつつも、「不義の子」である謙作と娘の結婚は認めるわけにはいかないと考えたのだろう。

 あの時俺はお前が少しもそれを知らずに一人苦しんでいるのを見て、これは苦しくても知らさねばならぬという気持にもなった。今いわなければきっと後でお前に怨まれるとも思った。しかし一方では実に知らしたくなかった。姑息といえば姑息な気持だ。それを知ったお前が、ただでも苦しんでいる上にまたそれで苦しむ事も堪らなかった。それから亡き母上のそういう事を暴露する事もつらかった。その上に一番俺に問題だったのはお前が小説家である以上、もし知れば、そしてその事で苦しめばなおの事、きっそれがお前の作物に出て来ないはずはないと思ったからだ。こういうとお前の仕事に如何にも理解がないと思うだろうが、俺としては今更に母上のそういう過失を世間に知らして、今、漸く老境へ入られようとする父上にまた新しく苦痛を与える事が如何にも堪えられなかったのだ。父上が独逸でその事を知られてからの苦しみ、そしてその苦しみから卒業されるまでの苦しみは恐らく想像以上に違いない。その古傷を再び赤肌にする、これは考えても堪らない事だ。これは全く俺の弱い所から来た考かも知れない。実際俺は段々年寄って行かれる父上をどういう事ででも苦しめるのは非常にこわいのだ。


 信行の苦悩のほどが忍ばれる。とくに問題なのは、謙作が小説家だということ。謙作は苦しめば苦しむほど、このことを小説に書くだろう。直接には書かなくても、なんらかの影響が出るだろう。それをもし父上が読んだらどう思うだろうか。そう信行は考えるのだ。

 小説家といっても、いろいろある。こんな私事を小説には書かない小説家だってたくさんいる。けれども、謙作は、最初から「私事を書く小説家」として設定されているのである。

 志賀直哉は、いわゆる「私小説作家」とは簡単には言えない作家だが、本格的な「私小説作家」ともなれば、周囲の者は、自分のことが書かれるんじゃないかとヒヤヒヤものだったのではなかろうか。親戚などたまったものじゃない。ずいぶん前にどこかで読んだのだが、尾崎一雄(だったかなあ)が小説を書くのに難渋していたら、奥さんが、「私が病気になりましょうか?」って言ったという話がある。まあ、ことほどさようだから、「私小説作家」の評判が悪いのも無理はない。

 謙作に知らさなかった自分を「弱いところから来た考」だとしながらも、信行は、次のようにも書くのだ。


 しかし同時にお前にも非常に済まない気でいた。殊にお前のような仕事をする者に、その者の持って生れた運命を故意に知らさずにいるというのは悪い事に違いない。愛子さんの事があった時にもお前がどうしても愛子さんを貰いたい、といい張ったら、出来るだけの事をして掛合って見て、それでもし駄目なら、その時は仕方がない、本統の事を打明けてお前に断念してもらおうと思ったのだ。ところが、幸にお前が思いきるというので実はほっとしたのだ。
 神戸の叔母さんが俺にそれを打明けた時に「呪われた運命」というような言莱を使った。そして俺もそんな風にやはり考えていたが、後には段々お前の運命をそういう風に考えるのは少し邪気のある小説趣味から来た考え方だと思うようになった。今後来るお前の運命がそのために必ずしも呪われると決った事はない。総てが無邪気に順調に進んだならば、そういう風にして生れた事も呪われた事にはならないのだ。俺は気軽に考えようとした。総ては過ぎ去った事だ。過去は過去として葬らしめよ。そして新しくよき運命を拓いて行けばいいのだ、と思った。ところがやはり愛子さんの事などではそれが祟ったので、少しは変な気持にもなった。しかしそれとてもそう大きく考える必要はないと思っていたのだ。が、今度お前のいい出した事で、もしそれをお前が押し通せば、これは少し危険だというような気がして来たのだ。そういう事が二重になる。それがとなく恐ろしい気がしたのだ。
 お栄さんが、いうのも、他の理由はとにかく、致命的にそれを否定される所は、そういう事が二重になるのを恐れてなのだ。


 「お前のような仕事をする者に、その者の持って生れた運命を故意に知らさずにいるというのは悪い事に違いない。」と信行は言う。

 小説家という者は、自分の生まれた運命と対峙し、引き受け、それを創作に生かしていくべきものではないかと、信行も思っているということだ。小説家ではない信行も、そのように小説家というものを考えているということは、やはり注目しておきたい点だ。

 「呪われた運命」というふうにばかり考えるのではなく、過去は過去として、「新しくよき運命」を切り開いていけばよい、という信行の考えは、おそらくこの後の謙作にも影響を与えていくのだろう。この後の謙作を襲う「運命」を考えると、そんな気がする。

 それはそれとして、この謙作の出生の秘密は、祖父と母の密通というただならぬ事態であることも事実で、その祖父の妾と祖父の子である謙作との結婚ということになると、「不義」ではないものの不自然極まることだろう。「そういう事が二重になる」というのは、やはり「恐れる」べきことには違いない。それだけは、お栄としても絶対に容認することのできないことだったのだ。

 信行の長い手紙の末尾はこうだ。謙作への深い愛情が感じられる。


 俺は大概の事は賛成したい。実際賛成出来た。しかし今度の事はどうしても俺には賛成出来ない。何か暗いものが彼方に見えている。見す見すにその中へ進んで行くのを見るような気がする。お前のお栄さんに対する気持には同情する。それを不道徳という風には考えない。しかし道義的の批判は別として、何だか恐しい。この感じは軽蔑出来ないもののように俺は思う。
 以上で大概書くべき事は書いた。俺はただこの手紙がお前に、どれほど大きい打撃与えるか、それが心配だ。直ぐ東京へ帰って来ないか。それが一番いい。俺が行ってもいいが、帰る方が早い。しかし俺に来て欲しかったら遠慮なく電報を打ってくれないか。一緒に九州の方へ旅しても面白い。しかしなるべく帰って来ないか。自暴自棄を起すお前でない事は信じているが、随分参る事と思う。何事も一倍強く感ずる性には一層の打撃だ。しかしどうか勇気を出して打克ってくれ。
 お栄さんからは別に返事を出さないはずだ。まだ風邪も本統でないし、しかしお前が帰ればお栄さんは随分喜ぶ事と思う。俺も会いたい。直ぐ帰る事望む。
 こう書いてあった。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 58  読書のスピード 「前篇第二 六」 その5   2020.10.6

 

 

 謙作は信行の長い手紙を読み終わった。

 

 読みながら、謙作は自分の頬の冷たさを感じた。そして、いつか手紙を持って立ち上っていた。
 「どうすればいいのか」彼は独り言をいった。狭い部屋をうろうろと歩きながら、「どうすればいいんだ」とまたいった。ほとんど意味なく彼はそんな言葉を小声で繰返した。「そんなら俺はどうすればいいのか」
 総てが夢のような気がした。それよりもまず、自分というものが──今までの自分というものが、霧のように遠のき、消えて行くのを感じた。
 あの母がどうしてそんな事をしたか? これが打撃だった。その結果として自分が生れたのだ。その事なしに自分の存在は考えられない。それはわかっていた。が、そう思う事で彼は母のした事を是認出来なかった。あの下品な、いじけた、何―つ取柄のない祖父、これと母と。この結びつきは如何にも醜く、穢(けが)らわしかった。母のために穢らわしかった。
 彼はたまらなく母がいじらしくなった。彼は母の胸へ抱きついて行くような心持で、
 「お母さん」と声を出していったりした。

 

 「自分というものが──今までの自分というものが、霧のように遠のき、消えて行くのを感じた。」という感じ。今まで信じて疑うことのなかった「自分」が急に遠のき、消えていく、という感じ。これは「自我の崩壊」ということだろう。謙作のように──それはまた志賀直哉のようにと言ってもいいだろう──とりわけ自我意識の強烈な人間にとっては、その信じて疑わなかった自分という存在が根底から覆されるような感じであったろう。

 まさに「そんなら俺はどうすればいいのか」としかいいようのない心理的状況である。

 出会った瞬間から「下品だ」と直感した祖父と、幼くして別れた母の間に自分が生まれたのだということ。そのこと自体が「穢らわしい」。だとすれば、自分の存在そのものも「穢らわしい」のではないか。「お母さん」と声に出した謙作は、いったいどこで救われることになるのだろうか。

 こうした余韻を残して、「前篇第二  六」は終わる。そして、「七」以降で、謙作の心のうちが詳細に語られることになる。

ところで、最近、阿部公彦の「文学を〈凝視する〉」という本を読んでいたら、実に面白いことが書いてあって、共感のあまり吹き出してしまった。こんな部分である。

 

 多くの人が実感していると思うのだが、小説や、あるいはもっと広く散文で書かれた書物一般を含め、読書というものは読み進めるにつれてスピードがあがっていくものではないだろうか。最初の一〇頁、中盤の一〇頁、最後の一〇頁と、読むのにかかる時間が短くなっていく。これはおそらく、文章の前提となるものを、読み進めるに従って読者が取り入れ蓄積していくからである。出だしでは、描かれている世界の設定なり常識なりをゼロ地点から構築する必要があるのだが、次第にその必要がなくなり、情報量が一定であっても、あるいは増えても、吸収の効率はぐっとよくなる。あるいはこの吸収速度の高まりが、「おもしろさ」として感じられ読書の快楽が幻想されるということもあるかもしれない。
 ところがどうも志賀直哉の文章というのは、効率性の高まりということがあまり起きないのではないかと思うのである。読みすすめてもスピードがあがらない。これは証明するのが難しい感覚にすぎないのだが、先の問題とからめて考えると、ひとつの提案ができそうだ。すなわち、志賀直哉の文章では”蓄積”があまり起きないのではないかということである。速度の増加は一種の慣性によるものだ。ある文章の読み方をめぐる文法がノウハウとして蓄積され、読者がその文法に慣れれば慣れるほど読みの勢いも増してくる。ところが、志賀の場合、この蓄積をさまたげる何かがある。


 確かに長編小説の場合、最初の数十ページは、「情報の蓄積」をしなければならないから大変だ。だからなかなか進まない。しかし、だいたいの情報が「蓄積」されると、ああ、ここはこういう展開だな、ああこれはこういう事情があるんだなとかいうことがわかってくるから、読書のスピードは断然あがる。エンタテインメント系の長編小説などは、数ページを斜め読みしたってぜんぜん問題がないことだってある。極端に言えば、途中を全部すっとばしても、あまり問題のない小説だってありそうだ。

 ところが、こと志賀直哉の小説に至るとそういうことは起こらない。阿部公彦の言うように「読みすすめてもスピードがあがらない。」阿部公彦は、「証明するのが難しい感覚にすぎない」と言うが、このぼくの「暗夜行路」の読書が、そのことを見事なまでに「証明」している。読み始めてから既に1年を優に越えているのに、まだ半分にも至っていない。これはぼくが読書能力がないからではなく(いや、もちろんそれもあるが)、また一週間に一回しか読まないからでももなく(いや、もちろんそれも大きな理由だが)、まさに志賀直哉の文章のせいなのだ。

 なんで進まないのか。それは簡単に言えば、「すっとばしてもいい部分」がほとんど「ない」からだ。別の言い方をすれば、「部分が部分として独立している」からだ。

 この辺を阿部公彦は、志賀の随想を引用した後で、次のように分析している。


マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰り返してゐれば段々「うまく」なるから、いい筈だが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなって了ふからだ。「うまい」が「つまらない」と云ふ芸術は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。(『志賀直哉全集 第六巻』、二三四)

「精神のリズム」などという言い方の「立派さ」に辟易する人もいるかもしれないが、これは単なる理念ではなく、しごく具体的な文章作法でもあると思う。「うまさ」に溺れずあくまで「リズム」を保つとは、志賀にとっては、勢いを増しつつも勢いを蓄積しないような文章との付き合い方のことを意味していたのではないだろうか。
 別の言い方をすると、それは文があくまで文として独立し、文章に取り込まれてしまわないということである。一般に文章の中で文が連なっていけばいくほど、それぞれの文は文章全体の中の一要素にすぎなくなってくる。文は文章に従属し、蓄積された勢いに巻きこまれる。しかし、志賀直哉の文章では、先の長短の使い方にも表れていたように、なかなか文が文章に取り込まれない。あくまで文を文として語ろうとするような気構えのようなものがある。


 「精神のリズム」などという言い方に、別に辟易するわけではないが、なんだかよく分からないなあという印象は持つ。しかし、「うまさ」が「リズム」を壊すということは、確かにある。それは書でも絵でも同じことだ。うまいなあと思うことは、同時に、つまらないなあと思うことに通じる。

 つまり、「リズム」というのは、わざわざ「精神のリズム」と言い換えるまでもなく、表現者の心のあり方、あるいは心の叫び、のようなものであろう。

 そう言ってみてもなんだか要領を得ないが、阿部公彦の「別の言い方」はとても分かりやすい。つまり、「文があくまで文として独立し、文章に取り込まれてしまわないということ」という部分。一つの文が、「文章に取り込まれる」ということは、部分が全体の流れに消化されてしまい、それゆえ、流れさえつかめれば、その「部分としての文」は「すっ飛ばされ」ても構わないことになる。「部分としての文」が「すっ飛ばされる」ということは、「部分としての文」が持つ独特の味わいとか、多義性とか、流れには直接関わらない逸脱とかが「無視される」ということだ。というか、流れを重視する文章では、そうした「味わい」「多義性」「逸脱」を極力避けるということになるはずだ。

 この「流れ」を「ストーリー」と言い換えてしまえばもっと分かりやすいかもしれない。

 大衆小説の作家などでも、ほんとうに文章がうまい人もいて、まさに流れるように書いている。だからスラスラ読めて、ストーリーも把握しやすい。読書もどんどん進む。

 志賀直哉はそういう作家の対極にある。一文一文をすっ飛ばせない。独立しているからだ。

 高校時代にこの「暗夜行路」をぼくは確かに読んだのだが、ぜんぜん面白くなかったのは、このことがぜんぜん理解されていなかったからではなかったか。「あくまで文を文として語ろうとするような気構え」に気づかず、ただただストーリーを追いかけていたからではなかったか。そんなふうに思う。

 

 

 


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