志賀直哉「暗夜行路」を読む (4) 39〜50

前篇第二 (一)〜(四)

引用出典「暗夜行路 前篇」岩波文庫 2017年第11刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 39 船の別れ 「前篇第二  一」その1   2020.5.11

 


 冬にしては珍らしく長閑(のどか)な日だった。謙作の乗った船は何時か岸壁を離れていた。下には群集に混ってお栄と宮本とが立っていた。彼は神戸で降りるのに見送りは仰々しいからと止めたが、船が見たいからとお栄は宮本に頼んで連れて来てもらったのだ。鐘が鳴って見送人が船から降りねばならぬ時に、お栄は「身体を大切にね」とか「お便りは始終して下さいよ」とかいった。謙作はちょっと感傷的な気持になった。

 


 「暗夜行路」前篇の「第二」の冒頭である。実に簡潔な描写で、これだけで、出港の様子が手に取るように分かる。見事なものだ。

 まず最初の一文で、季節と天候が述べられる。これだけで、そのときの登場人物のだいたいの気分が分かる。「長閑な日」というのは、天候が「長閑」ということもあるが、人間の気分の反映でもあるからだ。次の一文では、すでに謙作の乗った船は岸壁を離れつつある。ここがやっぱり非凡なところ。船が動き出す前から動き出す瞬間まで、どうしても書きたくなるのを抑えて、その後を書く。次に、「下」の様子を描く。そこには、「群集」と「お栄」と「宮本」がいる。お栄はわかるが、なぜ宮本もいるのか。その理由が次に書かれる。さてその次は、時間がちょっと戻る。お栄と宮本が「下」にいる時間より前の、船上での別れが書かれるのだ。そして最後の一文「謙作はちょっと感傷的な気持になった。」は、船上でのお栄との別れの気持ちなのだが、もちろん、その気持ちは続いているのである。

 たった6つの文だが、時間がいったり来たりしていて複雑な構造になっている。

 そして、この後、更に詳しい描写が、今度は時間の経過を追って続く

 

 船は一方の推進機で水を後ろへ、もう一つのでそれを前へやり、時々はそれを止めなどしながら段々と岸壁を離れて行った。三人は時々微笑しながら手を振り合っていた。その内謙作はそうして両方でいつまでもいつまでも見送っているのが苦しくなった。船の方向が定まり船尾が岸壁を三、四十間離れた処で彼は口の中で「じゃあ」といいながら頭を下げ、具合悪いような気持を無理に二人へ背を向けて自分の室(しつ)へ下りて来た。


 船がスクリューを動かして方向を変えたりしながら岸壁を離れていく様だが、いつも横浜港でそんな船を見ながら、こんな簡単な文章でそれを描けるとは思わなかった。なるほどなあ、こう書けばいいのかというお手本のような文章だ。

 船はなかなか岸壁を離れないから、船上と岸壁との距離がなかなか縮まらず、送る者と送られる者とは、妙な間の悪さを感じるものだが──と言ってもそういう船での別れを体験したことはないが──その間の悪さは、鉄道でもある。新幹線でも、乗り込んでしまった乗客が、窓の外の見送りの人と手を振っているのに、数十秒ほど発車しないと、これも間が持たない。別れのテープを持っているわけでもないし、声も届くわけもないから、口の動きで何か伝えたりして間を持たせるが、妙にその数十秒が長く感じられる。それが船だとほんとに長い。謙作は、気が短いのか、照れ屋なのか、相手が見えているのに、船室の入ってしまう。これはこれで、妙な行動だ。自分勝手というべきか。

 船室に入ったはいいが、することがない。そのうち、岸壁の二人が気になるので、もう一度甲板に出た。


 彼はまた甲板へ出て行った。案(おもい)の外、船は進んでいて、もう人々の顔は分らなかった。しかし群集を離れて、左の方に二人立っている、それがそうらしかった。つぼめた日傘を斜にかざしているのはお栄に違いなかった。彼は手を挙げて見た。直ぐ彼方(むこう)でも応じた。宮本が大業(おおぎょう)に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。顔が見えないと謙作も気軽な気持でハンケチが振れた。そして船が石堤(せきてい)の間へかかる頃には二人の姿も全く見えなくなった。薄い霧だか烟りだか港一杯に拡がっていて、船が進むにつれ、陸の方は段々ぼんやりと霞んで行った。そしてちょっと傍見(わきみ)をしても今出て来た岸壁を彼は見失った。艦尾にミノタワと書いた英国の軍艦が烟突から僅ばかりの烟りをたてながら海底に根を張っているかのようにどっしりと海面に置かれてあった。その側を通る頃はもう、岸壁に添うて建並んだ、大きな赤煉瓦の建物さえ見えなくなった。
 彼は今は一人船尾の手すりにもたれながら、推進機にかき廻され、押しやられる水をぼんやり眺めていた。それが冴えて非常に美しい色に見えた。そして彼は先刻自分たちの通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮べていた。

 

 船室にいたのが何分ほどだったか分からないが、謙作が再び甲板に出てみると、二人はまだ岸壁にいる。なんだ、もう中にはいちゃったんだ、じゃ行こう、っていって、さっさとその場を離れたわけではなかったのだ。宮本は行こうって言ったのだろうが、お栄が承知しなかったに違いない。その辺の描き方もうまい。

 「宮本が大業に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。」なんて、お栄の心の動きが震えるように感じられて、せつなくなる。

 船が横浜港を進むにつれて見える光景は、映画でもみるかのような臨場感があって、うれしい。「赤煉瓦の建物」なんかも出てくるのもいい。

 そしてまたふと時間が戻る。「そして彼は先刻自分たちの通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮べていた。」の味わいも深い。三人で歩いてきた石畳は、謙作の前にすでになく、今そこをお栄と宮本の二人が歩いて行く。その姿を想像するのだ。重なる時間。

 この「第二」の冒頭部を読むと、ここから今までとはまったく違った世界が展開する予感があって、先を読むのが楽しみになってくる。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 40 自然との対峙 「前篇第二  一」その2   2020.5.24

 

 

 謙作は船でオーストラリアの若者と出会う。若者はトランプをしようなんて言ってくるが、謙作は面倒がって相手にしない。それでも、「富士山を是非見たい」などという若者と、ポツポツと話していると、若者はこの船でオーストラリアのシドニーに帰るのだという。え? 神戸行きじゃなかったの? って思って読んでいくと、謙作が横浜から乗った船は、オーストラリア行きだったのだ。その船が途中で神戸に寄るわけである。そういう航路は別に不思議じゃないのだろうが、横浜からオーストラリアに行くというと、なんか、真下(真南)に下るような感覚があって、神戸に行くのでは「遠回り」じゃなかろうかなんて思っていると、この船は神戸のあと、マニラに向かうとある。まあ、どこへ寄ろうと勝手だが、悠長な話である。

 三崎の沖を廻る頃から、彼は和服に着かえ寝床へ入ると、直ぐぐっすりと眠った。そして再び眼を覚ました時は四時過ぎていた。和服の上に外套を羽織って、甲板へ出た。夕方の曇った灰色の空に富士山がはっきりと露われていた。それが、海を手前に、伊豆の山々の上に登え立ったエ合が如何にも構図的で、北斎のそういう富士を憶い出さした。
 喫烟室では下手なピアノが響いていた。そしてそれが止むと若い外国人が其処から出て来た。その男は「初めて富士山を見た」と満足らしくいった。
 大島はもう後ろになっていた。風が寒いので彼は喫姻室から外の景色を見ていた。伊豆の七島が一つ一つその数を増して行った。若い外国人はまた下手なピアノを弾き始めた。そして、ブライアの烟管(きせる)を横ぐわえにしたまま何か小声で唄っていた。その間々にパデレウスキーを聴いたとか、自分の女同胞(きょうだい)にヴァイオリンの名手がいるというような事を話した。

 船旅もいいものである。といっても、飛行機同様、船もまず乗らないのだが。そういう個人的なことは別として、風景がパノラミックに展開していく様は、鉄道よりもダイナミックで、ゆったりしている。島々がだんだん数を増していく、なんていうあたりは、昔乗った宇高連絡船から見た瀬戸内海の島の姿を思い出させる。

 それに「和服に着替える」というのがいい。寝台列車に乗ると、真っ先に浴衣を来て、サラリーマンで溢れるホームの方を眺めるのが好きだったが、「和服」はすでに「非日常」を感じさせるからだったのだろう。駅という世俗まっただ中の場所の、わずか数メートルを隔てた場所に、「和服」(しかも浴衣!)と「洋服」が相対する。この面白さもあった。


 若い外国人が、本を忘れて来て弱った、しかし明日は船のライブラリーを開けてもらうはずだといった。謙作はガルシンの英訳本を持っていたので、それを貸してやった。
 寒い晩になった。晩になると、習慣からかえって謙作の眼はさえて来た。彼は大きな薄ら寒い食堂で、今日新橋まで送ってくれた人たち、信行、咲子、緒方たち、それから、お栄と宮本と、それから今頃丁度ペナンあたりまで行っているだろう竜岡に巴里の大使館気付で端書を書いた。
 竜岡と別れた事は何といっても彼には淋しい事だった。竜岡は芸術には門外漢らしい顔を何時もしていたが、自身の仕事、飛行機の製作、殊にその発動機の研究に就いては、そしてそれに対する野心的な計画を話す時などには彼は腹からの熱意を示し、よく亢奮した。謙作は仕事は異っていたが、そういう竜岡を見る事で常にいい刺激を受けた。今そういう友を近くに失った彼は本統に淋しい気がされたのである。


 謙作が「ガルシンの英訳本」を持っていたというのが面白い。当時よく読まれていたのだろうか。このガルシンというロシアの作家は、たしか高校時代、国語の教科書に「あかい花」という小説が載っていたはずだ。内容は覚えていないのだが、この題名と作者名だけはよく覚えている。どういう話だったんだろう。読み返してみようか。

 国語の教科書というのは、馬鹿にできない。教科書に載ると小説も面白くなくなる、なんてことを言う人がいるけれど、それは文学青年の言うことで、文学に縁のない者にとってはそれが唯一の文学との接点になりうるのだ。

 実は今こうして読んでいる「暗夜行路」も、最初の出会いは、教科書だった。この小説の一部が載っていたのだ。子どもが丹毒という病気になって、親があたふたする。シューベルトの「魔王」が聞こえてくる、、、とかいった内容で、これもよく覚えていないのだが、「暗夜行路」という題名だけはしっかりと頭に刻み込まれた。その授業から発展して、「暗夜行路」を全部読むというような殊勝な生徒ではなかったけれど、その後何年かして通読することになり、そしてまた今、再読することになっているというわけである。

 教科書作りは、現在のぼくの唯一の「仕事」だが、やはり、こういう経験があるので、あだやおろそかにはできないと気を引き締めている次第だ。
それはそれとしても、謙作にとって、芸術を目指す同好の士ではなくて、まったく別のジャンルの仕事をしている竜岡が大事な友だったというのも面白い。「熱意」とか「情熱」とかいったものを介した「尊敬」が、友達というものの大事な要素だということだろう。


 彼は何枚かの端書を書き終ると、寝る前にもう一度、外の景色を見ようと思って、甲板へ出て行った。真暗な夜で、見えるものは何にもなかった。ただマストの高い処に小さな灯が一つ、最初星かと思ったほどに遠く見えただけだった。人っ子一人いない。ヒューヒューと風の叫び、その風に波がしらを折られる、さあさあというような水音、それだけで、汽缶の響も、鎖の音も今は聴えなかった。船は風に逆らい、黙って闇へ突き進む。それは何か大きな怪物のように思われた。
 彼は外套にくるまって、少し両足を開いて立っていた。それでも、《うねり》に従う船の大きい動揺と、向い風とで時々よろけそうになった。風は帽子を被らずにいる彼の髪を穿つように吹きつけた。そして、睫毛が風に吹き倒されるので眼がかゆくなった。彼は今、自分が非常に大きなものに包まれている事を感じた。上も下も前も後も左も右も限りない闇だ。その中心に彼はこうして立っている。総ての人は今、家の中に眠っている。自分だけが、一人自然に対し、こうして立っている。総ての人々を代表して。と、そういった誇張された気分に彼は捕えられた。それにしろ、やはり何か大きな大きなものの中に自身が吸い込まれて行く感じに打克てなかった。これは必ずしも悪い気持とはいえなかったが何か頼りない心細さを感じた。彼は自身の存在をもっと確めようとするように殊更下腹に力を入れ、肺臓一杯の呼吸をしていたが、それをゆるめると直ぐ、また大きなものに吸い込まれそうになった。

 

 真っ暗な闇の中、甲板に立ってヒロイックな気分に襲われる。こうした気分というのは、若い頃にはよくとらわれるものだ。ぼくも、いつ、どこで、とまでは分からないが、こんな気分になったことはある。「自分だけが、一人自然に対し、こうして立っている。」という気分。「総ての人々を代表して」とまではいかないけれど、「自分」と「自然」が一対一だという感覚。

 と同時に、その自然に「吸い込まれる」ような「心細い」気分。どんなに頑張っても、所詮はこの大きな自然の前では、砂の一粒ほどのものでもないという一種の絶望、あるいは安らぎ。

 この船上の場面は、「暗夜行路」において、一つの「画期」となるのだろう。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 41 美しい車窓風景 「前篇第二  二」その1   2020.6.4

 

 

 謙作を乗せた船は、翌日の朝8時ごろには、紀州の海岸に沿って進み、神戸には午後の3時に着いた。港から俥で三の宮に行き、そこから汽車に乗ったのだった。


 塩屋、舞子の海岸は美しかった。夕映を映した夕なぎの海に、岸近く小舟で軽く揺られながら、胡坐(あぐら)をかいて、網をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く綱を延ばして、もう夜泊(よどまり)の支度をしている漁船がある。謙作は楽しい気持で、これらを眺めていた。そして汽車が進むに従って夜(よ)が近づいた。彼はまた睡むくなった。眼まぐるしい、寝不足続きの生活の後ではいくら眠っても眠足りなかった。彼は食堂へ行って、簡単な食事を済ますと、和服に着かえて空いている座席に長くなった。そして十一時頃ボーイに起され、尾の道で下車した。


 美しい描写だ。まるで、彩色写真を見るような古びた風景。こんな車窓風景があったなんて、信じられないくらい。今ではもうそんな風景はどこにもないだろう。それでも、一度この路線を各駅停車で走ってみたいものだ。

 JRの路線を乗り潰した鉄ちゃんの長男によれば、車窓風景がもっとも美しかったのは、山口県の岩国駅から由宇駅に向かうあたりの海の景色だったのだそうで、自分の息子にも第二の故郷を、ということで、その名前を由宇とした。鉄ちゃんの極みだが、そのことを聞いて、ぼくら夫婦も家内の両親も、由宇を訪ねたものだった。瀬戸内海は、そんなわけで、ぼくにとってはとても親しみの深いところである。

 それに、家内の故郷の高知へ行くには、かつては、宇高連絡船を使ったもので、これもまた瀬戸内海への特別な思いをかきたてる。

 そして尾道。旅行をあまりしてこなかったぼくだが、ここへは一度だけ行ったことがある。学校の研修で、広島学院に行ったおりに、立ち寄ったのだった。この時、志賀直哉が住んだ住居も訪れたのだが、その縁側から眺める瀬戸内海の風景と、住居の質素さは、心に深く残っている。もう一度行ってみたいと思いつつ、結局その後は行っていない。

 「塩屋」「舞子」と続く地名も美しい。調べてみれば、それは、須磨の海岸から続いているのだった。


 旅行案内に出ている宿屋は二軒とも停車場の前にあった。彼はその一軒へ入った。思ったより落ついた家だったが、三味線の音が聴えていたので、彼は番頭に、「なるべく奥の静かな部屋がいい」といった。
 二階の静かな部屋に通された。彼は起(た)って、障子を開けて見た。まだ戸が閉めてなく、内からさす電燈の明りが前の忍返(しのびがえ)しを照らした。その彼方(むこう)がちょっとした往来で直ぐ海だった。海といっても、前に大きな島があって、河のように思われた。何十隻という船や荷船が所々にもやっている。そしてその赤黄色い灯の美しく水に映るのが、如何にも賑やかで、何となく東京の真夜中の町を想わせた。


 尾道の宿屋の風情、窓の外の光景などが、簡潔に、そして印象深く描かれている。まったくこうした箇所を読むと、志賀直哉というのは、ほんとうにすごい文章家だなあと思い知る。

 謙作は、女中に按摩を頼み、やってきた按摩から土地の情報を得る。なるほど、按摩は、そうした一種の観光案内的な役割も果たしていたのだ。

 

 彼は按摩から、西国寺、千光寺、浄土寺、それから、講談本にある拳骨物外(げんこつもつがい)の寺、近い処では柄(とも)の津の仙酔島(せんすいとう)、阿武兎(あぶと)の観音、四国では道後の湯、讃岐の金刀比羅、高松、屋島、浄瑠璃にある志度寺(しどじ)などの話を聴いた。彼は東京からの夜着その他の荷の着くまで一週間ほど、何処か旅してもいいと考えた。

 

 そのうち、海の方から「美しい啼声だか音だか」が聞こえてくる。

 

 海の方で、ピヨロッピヨロッと美しい啼声だか音だかがしている。丁度芝居で使う千鳥の暗声だ。もう人々の寝静まった夜更、黙ってこれを聴いていると何となく、淋しいような快い旅情が起って来た。
「あれは何だい?」
「あの音かえな。ありゃあ、船の万力(せみ)ですが」
翌日十時頃、彼は千光寺という山の上の寺へ行くつもりで宿を出た。その寺は市の中心にあって、一卜眼に全市が見渡せるというので、其処から大体の住むべき位置を決めようと彼は思った。

 

 この音は、鳥の声のようでもあり、何かの音のようでもある。それを「丁度芝居で使う千鳥の啼声だ」とする。歌舞伎をみていると、よくこの「千鳥の啼声」が聞こえてくる。竹製の笛による擬音だ。この笛の音に似ているとすることで、その音が鳥の声のようでもあり何か人工物の立てる音のようでもあることが見事に表現される。その上で、按摩の説明によって「船の万力(せみ)」だということが明らかになる。この「船の万力」というのは、「帆をあげおろしする時に使う小さな滑車」(岩波文庫注)のこと。つまりは人工的な音だったわけだ。

 按摩の説明を聞いての謙作の感想は書かれずに、次へと進む文章の呼吸もいい。余韻がある。

 翌日、謙作は、千光寺へ行って、そこから尾道の町を見下ろして、どこか住むのにいいところを探そうとする。このあたりの描写は楽しい。尾道を謙作と一緒に散策しているような気分になれる。


 漸く千光寺へ登る石段へ出た。それは幅は狭いが、随分長い石段だった。段の中頃に二、三軒の硝子戸を閉め切った茶屋があって、どの家にも軒に千光寺の名所絵葉書を入れた額が下っていた。段を登り切って、左へ折れ、また右へ少し、幅広い石段を登ると、大きな松の枝に被われた掛茶屋があった。彼はその床几に腰を下ろした。
 前の島を越して遠く薄雪を頂いた四国の山々が見られた。それから瀬戸海のまだ名を知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼には如何にも物珍らしく愉快だった。烟突に白く大阪商船の印をつけた汽船が、前の島の静かな岸を背景にして、時々湯気を吐きちょっと間を措(お)いて、ぼーっといやに底力のある汽笛を響かしながら、静かに入って来た。上げ汐の流れに乗った小船が案(おもい)の外の速さでその横を擦れ違いに漕いで行く。そして、幅広い不恰好な渡し船が流れを斜に悠々と漕ぎ上っているのが見られた。しかし彼はこういう見馴ない景色を眺めていると、やがてこれにも見厭き、それがいい景色だけにかえって苦になりそうだというような気がした。


 最後の一文「しかし彼はこういう見馴ない景色を眺めていると、やがてこれにも見厭き、それがいい景色だけにかえって苦になりそうだというような気がした。」が気になる。

 見慣れない景色というのは最初は新鮮だが、やがて見飽きる。その景色が何の変哲もない景色ならそれでもいいが、「いい景色」だと「かえって苦になりそうだ」というのだ。どういうことが「苦になる」のだろうか。毎日見れば飽きるに決まっているが、それが「いい景色」だと、「飽きる」ということになにか一種の「罪の意識」みたいなものを感じてしまうということだろうか。「罪の意識」というのも大げさだが、毎日「いい景色」を押しつけられて、「どうだいい景色だろう」と言われ続けるような、鬱陶しさを感じるということだろうか。
よく分からないが、なんとなく、分かるような気もする。

 美人の奥方を持つ亭主が、なんで浮気をするのかといつも疑問に思うのだが、それはこういうことなのかもしれない、などとふと思ったりする。

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 42 町の匂い 「前篇第二  二」その2   2020.6.7

 


 彼はうで玉子を食いながら、茶店の主から、前の島が向い島、その間の小さい海が玉の浦だというような事を聴いた。玉の浦に就いては、この千光寺にある玉の岩の頂辺(てっぺん)に昔、光る珠があって、どんな遠くからでも見られ、その光りで町では夜戸外(そと)に出るにも灯りが要らなかったが、ある時、船で沖を通った外国人が、この岩を見て売ってくれといいに来た。町の人々は山の大きな岩を売った処で真逆(まさか)に持っては行かれまいと、承知をすると、外国人は上の光る処だけを刳抜(くりぬ)いて持って行ってしまった。それからは、この町でも、月のない夜は他の土地同様、提灯を持たねば戸外を歩けぬようになったという話である。
 「今も、岩の上には醤油樽にニタ廻りもあるおおけえ穴があいとりますがのう。まあ今日(こんち)らで申さば、ダイヤモンドのような物じゃったろういう事です」
 彼は町の人々が祖先の間抜だった伝説をそのままいい伝えている所が、何となく暢気で、面白い気がした。

 

 千光寺の茶店で聞いたこんなエピソードも、おもしろい。まさか、実話ではないだろうが、ひょっとすると似たような話があったのかもしれない。なんか、この岩、ぼくが訪れたときにもあったような、なかったような。通りすがりだったので、記憶があいまいだ。

 謙作は、これから自分の住む家を探している。


 彼は茶店の主から聴いて、先頃死んだ商家の隠居が住んでいたという空家を見に行った。枯葉朽葉の散り敷いたじめじめした細道を入って行くと、大きな岩に抱え込まれたような場所に薄暗く建てられた小さな茶室様の一棟があった。が、それが如何にも荒れはてていて、修繕も容易でないが、それより陰気臭くてとても住む気になれなかった。
 彼はまた茶店まで引きかえして、石段を寺の方へ登って行った。大きな自然石、その間に巌丈な松の大木、そして所々に碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石が建っている。彼は久しい以前行った事のある山形の先の山寺とか、鋸山の日本寺を憶い起した。開山が長崎の方から来た支那の坊主というだけに岩や木のただずまいから、山門、鐘楼、総(すべ)てが、山寺、日本寺などよりも更に支那臭い感じを与えた。玉の岩というのはその鐘楼の手前にあった。小さい二階家ほどの孤立した―つの石で、それが丁度宝珠の玉の形をしていた。


 そういえば、ぼくが訪れたときも、こんな感じだった。しかし、時代が違うので、「碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石」がどれほど建っていたかは分からない。寺の雰囲気が「志那臭い」というのも、記憶にない。


 鐘楼の所からはほとんど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟まれた市はその細い幅とは不釣合に東西に延びていた。家並もぎっしりつまって、直ぐ下にはずんぐりとした烟突が沢山立っている。酢を作る家だ。彼は人家の少しずつ薄らいだ町はずれの海辺を眺めながら、あの辺にいい家でもあればいいがと思った。


 この景色は、ほとんど変わっていないのだろう。ただ、烟突はどうだっただろうか。尾道に「酢を作る家」が多いということは知らなかったし、ぼくが行ったころには、そういう家も少なくなっていたのだろうか。そんなことを思いつつ、ちょっと調べてみると、尾道の酢というのは、歴史があるのだということが分かった。(こちら「尾道造酢」参照)


 暫くして彼は再び、長い長い石段を根気よくこつこつと町まで降りて行った。その朝、宿の者に買わした下駄は下まで降りると、すっかり鼻緒がゆるんでしまった。
 不潔なじめじめした路次から往来へ出る。道幅は狭かったが、店々には割りに大きな家が多く、一体に充実して、道行く人々も生々と活動的で、玉の岩の玉を抜かれた間抜な祖先を持つ人々には見えなかった。
 彼はまた町特有な何か臭いがあると思った。酢の臭いだ。最初それと気附かなかったが、「酢」と看板を出した前へ来ると一層これが烈しく鼻をつくので気附いた。路次の不潔な事も特色の―つだった。瓢筑を下げた家の多い事も彼には物珍らしかった。骨董屋、古道具屋、またそれを専門に売る家はもとより、八百屋でも荒物屋でも、駄菓子でも、それから時計屋、唐物屋、印判屋のシヨー・ウィンドウでも、彼は到る所で瓢箪を見かけた。彼は帰って女中から宿の主も丹波行李にいくつかの瓢箪の持主だという事を聴いた。


 町の匂いというものは確かにあって、それだけは現地に行かないと分からない。海外旅行というものを一度もしたことのないぼくは、まあ、BSなんかの「世界街歩き」なんかで、けっこう行った気になっているけれど、実は、「匂いを知らない」という点で、何にも知らないのと同じことである。

 しかし、時として、映画ではその「匂い」を強烈に感じることがある。ぼくの愛する映画「ベニスに死す」では、まさにこのベニスという町の路次の匂いが全編に溢れていた。それはコレラが蔓延する中での白い消毒液の匂いだったわけで、けっして本当の町の匂いではないけれど。

 「路次が不潔だ」ということが強調されているが、その「不潔さ」(から来る匂い)は、やはり生活の匂いに他ならないだろう。

 どこへ行っても瓢箪が多いということも指摘しているが、この瓢箪というのは、作るときに水に浸けて中身を腐らせるわけで、その匂いも強烈だという話を聞いたことがある。酢の匂いに、この瓢箪の匂いも混ざっていたのかもしれない。

 しかしそれにしても、どうして尾道という町にはこれほどの瓢箪愛好者が多いのだろうか。不思議である。志賀直哉には「清兵衛と瓢箪」という短篇があるが、尾道にかぎらず、日本には瓢箪愛好者が多いのかもしれない。

 この後、謙作は4日ほど四国などを旅して住むところを探すが、結局、尾道に戻る。そして、「千光寺の中腹の二度目に見た家」を借りることにした。ぼくが訪れたことのある住居である。

 


 

 

志賀直哉『暗夜行路』 43 音の情景 「前篇第二  三」その1   2020.6.19

 

 

 謙作の尾道での生活が始まった。

 

 謙作の寓居は三軒の小さい棟割長屋の一番奥にあった。隣は人のいい老夫婦でその婆さんに食事、洗濯その他の世話を頼んだ。その先きに松川という四十ばかりのノラクラ者がいて、自分の細君を町の宿屋へ仲居に出して、それから毎日少しずつの小使銭を貰って酒を飲んでいるという男だった。
 景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと鉄槌(かなづち)を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市(まち)の遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。
 夕方、伸び伸びした心持で、狭い濡縁へ腰かけていると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が根棒を振っているのが小さく見える。その上を白い鳩が五、六羽忙(せわ)しそうに飛び廻っている。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、また一っ、また一つ、それが遠くから帰って来る。その頃から、昼間は向い島の山と山との間にちょっと頭を見せている百貫島(ひゃっかんじま)の燈台が光り出す。それはピカリと光ってまた消える。造船所の銅を熔かしたような火が水に映り出す。
 十時になると多度津(たどつ)通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。紬(へさき)の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市からは何の騒がしい音も聴えなくなって、船頭たちのする高話(たかばなし)の声が手に取るように彼の処まで聞えて来る。


 いい文章である。最初の一段落だけで、謙作の住む長屋のあらましがはっきりと分かる。隣の婆さんに食事、洗濯の世話を気軽に頼めるのだから楽なもんである。もちろん、タダじゃないだろうが、それほどの額でもあるまい。謙作が金持ちだからというだけではなくて、何か、こうした生活がごく普通に成り立ってしまうというのんきな世界は、現在ではほぼないだろう。

 松川という「ノラクラ者」にも、そののんきな世界が垣間見える。謙作だって、親の金でこんなところに一人で住んで、小説を書こうというのだから、「ノラクラ者」には違いがない。

 家から見える景色の描写も素晴らしい。特に「音」が効果的だ。造船所から聞こえてくるカーンカーンという金槌の音、石切人足の歌声、千光寺の鐘の音、多度津通いの連絡船の汽笛の音、そして、静かになった町に響く船頭たちの高話(大声で話すこと)の声。それらが、目に入る情景を緊密に結びつけ、また情景に奥行きを与えている。

 それにしても、こうした音が坂道の途中にある謙作の家に聞こえてくるということは、いかに、当時の世の中が静かだったかという証である。「前の島」がいくら近いとはいえ、その金槌の音や人足の歌が聞こえてくるというのは、驚きだ。

 そして特に、静寂が訪れた町に「手に取るように彼の処まで聞えて来る」船頭たちの声が印象的。しずかな町の息づかいが聞こえてくるようだ。

 謙作の部屋はどんなだったか。ずいぶんと細かい描写が続く。


 彼の家は表が六畳、裏が三畳、それに士間の台所、それだけの家(うち)だった。畳や障子は新しくしたが、壁は傷だらけだった。彼は町から美しい更紗の布を買って来て、そのきたない処を隠した。それで隠しきれない小さい傷は造花の材料にする繻子(しゅす)の木の葉をピンで留めて隠した。とにかく、家は安普請で、瓦斯ストーヴと瓦斯のカンテキ*とを一緒に焚けば狭いだけに八十度*までは温める事が出来たが、それを消すと直ぐ冷えてしまう。寒い風の吹く夜などには二枚続の毛布を二枚障子の内側につるして、戸外(そと)からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風でその毛布が始終動いた。畳は表は新しかったが、台が波打っているので、うっかり坐りを見ずに平ったい薤(らっきょう)の瓶を置くと、倒した。その上畳と畳の間がすいていて、其処から風を吹き上げるので、彼は読かけの雑誌ちぎひばしを読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸でその隙へ押込んだ。

 

     *(注:カンテキ=「しちりん」のこと。関西地方の方言。 八十度=華氏80度。摂氏では26.7度ほど)

 

 外の世界は、あっさりと描きながら、この小さな部屋の様子は、微に入り細に入り書き込んでいる。壁の傷を隠すために、「造花の材料にする繻子(しゅす)の木の葉」なんか持ってくるなんて、芸が細かい。このあたりは、事実をそのまま書いたのだろう。とてもフィクションではここまで書けない。

 こうして、なんとか尾道での生活を始めた謙作は、「計画の長い仕事」にとりかかる。それは、「自分の幼時から現在までの自伝的なもの」であった。つまりは自伝的な小説ということだろう。

 謙作の頭には幼いころの思い出が次々と浮かんでくるのだが、中でも、妙に印象的な思い出がある。


本郷竜岡町の家へ引移ったのは父が帰朝して間もなくの事だった。ある時女中に負ぶさって父の食パンを買いに上野の山下の方へ行った帰途、池の端で亀の子を見ていると、通りすがりの綺麗な奥さんが、彼が女中の背中で持たされていた食パンを包みのままツイと引き抜いて持って行ってしまった事、


 これだけのことだが、なんとも、不思議なことがあるものだ。今の世の中で、背中におぶさった幼児(も、実はほとんどいないが)が持っている食べ物を、「ツイと引き抜いて持って行ってしまう」人なんているだろうか。どう想像力を働かせても、そんな人を思い浮かべることができない。その「綺麗な奥さん」がどうのこうのというよりも、時代の空気みたいなものを感じるといったら大げさだろうか。

 その点、次のようなエピーソードには普遍性がある。そしてこの「暗夜行路」全体の問題にもつながるものがある。


そしてそれらは、何れも毒にも薬にもならないようなものが多かったが、ただ一つ、まだ茗荷谷(みょうがだに)にいた頃に、母と一緒に寝ていて、母のよく寝入ったのを幸い、床の中に深くもぐって行ったという記憶があった。間もなく彼は眠っていると思った母から烈しく手をつねられた。そして、邪慳に枕まで引き上げられた。しかし母はそれなり全く眠った人のように眼も開かず、口もきかなかった。彼は自分のした事を恥じ、自分のした事の意味が大人と変らずに解った。この憶い出は、彼に不思議な気をさした。恥ずべき記憶でもあったが、不思議な気のする記憶だった。何が彼にそういう事をさせたか、好奇心か、衝動か、好奇心なら何故それほどに恥じたか、衝動とすれば誰にも既にその頃からそれが現われるものか、彼には見当がつかなかった。恥じた所に何かしらそうばかりはいいきれない所もあったが、三つか四つの子供に対し、それを道徳的に批判する気はしなかった。前の人のそういう惰性、そんな気も彼はした。こんな事でも因果が子に報いる、と思うと、彼はちょっと悲惨な気がした。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 44 プロスティチュート 「前篇第二  三」その2   2020.6.28

 

 

 幼い頃の記憶を書いていくことで、小説を書くという謙作の仕事は、初めのうちは順調に進んだが、やがて、それもうまく行かなくなってきた。

 仕事がうまく行かなくなるに従って、生活の単調さが彼を苦しめ始めた。彼の一日一日は総て同じだった。昨日雨で、今日晴れたという他は一日一日が少しも変らなかった。彼は原稿紙の一角ごとに日を書き、それを壁へ貼っておいて、一日一日と消して行った。仕事が出来る間はまだよかったが、気持からも健康からも、それが疲れて来ると、字義通りの消日(しょうじつ)になった。誰からも一人になることが目的であったにしろ、今はその誰もいない孤独さに、彼は堪えられなくなった。下の方を烈しい響をたてて急行の上り列車が通る。烟だけが見える。そしてその響が聴えなくなると、暫くして、遠く弓なりに百足(むかで)のような汽車が見え出す。黒い烟を吐きながら一生懸命に走っている。が、それが、如何にものろ臭く見えた。あれで明日の朝は新橋へ着いているのだと思うと、ちょっと不思議なような、嫉ましい気がした。無為な日を送っている彼自身の明朝までは実際直ぐだった。間もなく汽車は先の出鼻を廻って姿を隠す。

 ここのところの、列車への思いが面白い。こんなふうに煙をはく蒸気機関車に引かれる列車を自宅から眺めることができるなんて、今から見れば、羨ましい限りだが、まあそんなことはともかく、いかにものろ臭い列車が、明日の朝には新橋に着くということが、「ちょっと不思議なような、嫉ましい気がした。」というのは、気分としてはよく分かる。自分はといえば、「無為な日を送っている彼自身の明朝までは実際直ぐだった。」というわけだから、その差は歴然である。

 登山などをしているときにも、こうしたことは感じるもので、重い足を一歩一歩前に出していくということは、ひ弱なぼくには辛くて苦しい以外の何ものでもなかったのだが、それを続けていくと、大きな山を二つも三つも越えてしまう。下山して、その越えてきて道筋を目で辿るとき、なんとも「不思議」な思いにとらわれたものだ。あんなに長い距離を、あんなにノロノロ歩きで踏破できたのかという感慨は、この時の謙作とは逆の心境ではあるが。

 これを「継続は力なり」などという教訓に収斂させてはつまらない。無為に過ごす時間は短く、有意に過ごす時間は長いということでもない。尾道でゴロゴロしていた10時間と、列車が新橋まで走っていく10時間は、同じ長さだ。列車が走り続けたということが「継続」ならば、ゴロゴロしていたというのも立派な「継続」だ。

 問題なのは、謙作という人間が過ごす時間と、列車が走る時間とが、生み出すものが違うというだけのことだ。列車が生み出す「距離」に匹敵するものを、謙作は生み出したいのだろうが、そんな比較は無意味だ。無意味だけれども、「嫉ましい」と感じる。そこが面白い。

 謙作はそれでも、東京に帰ろうとは思わなかった。なんとかこの仕事をし遂げようと決心するのだった。


 或る北風の強い夕方だった。彼は何処か人のいない所で、思い切り大きな声を出して見ようと思った。そして市(まち)を少し出はずれた浜へ出掛けて行った。其処には瓦焼きの窯が三つほどあって、それが烈しい北風を受け、松の油がジリジリと音を立てながら燃えていた。強い光が夕閤の中で眼を射た。彼は暫くぼんやりそれを眺めていたが、暫くして海辺の石垣の方へ行って、海へ向ってその上へ立った。しかし彼にはうたうべき唄はなかった。彼は無意味に大きい声を出して見た。が、それが如何にも力ない悲し気な声になっていた。寒い北風が背中へ烈しく吹きつける。瓦焼の黒い烟が風に押しつけられて、荒れた燻銀(いぶしぎん)の海の上を、千切れ千切れになって飛んで行く。彼は我ながら腹立たしいほど意気地ない気持になって帰って来た。


 なんだかやけに悲壮感が漂うが、しょぼくれた声しかでない自分に、「腹立たしいほど意気地ない気持」になる。

 北風に中で、大きな声を出してみようなんて芝居がかったことを考えたのは、せめて自己陶酔にでも浸りたかったということだろうが、みじめな結果に終わるのも致し方ない。中学生じゃないんだから。
それはそれとして、この海岸の描写は見事なものだ。「瓦焼の黒い烟が風に押しつけられて、荒れた燻銀(いぶしぎん)の海の上を、千切れ千切れになって飛んで行く。」なんて、やっぱり名人芸としかいいようがない。

 その名人芸の後で、こんなヘンテコなエピソードが出て来る。


 「旦那さん、銭は俺(わし)が出しますけえ、どうぞ、何処ぞへ連れて行ってつかあさい」こんな上手な事をいう百姓娘のプロスティチュートがあった。丸々と肥った可愛い娘で、娘は愛されているという自信から、よく偽りの悲しげな顔をして、一円、二円の金を彼から巻き上げた。
 或る長閑(のどか)な日の午後だった。彼は向い島の塩田を見に、渡しを渡って行った帰り、島の向う岸まで出て、日頃頭だけしか見ていない百貫島を全体見るつもりで、その方へぶらぶらと歩いて行った。或る丘と丘との間のだらだら坂へかかると彼は上から下りて来る男と女の二人連れを見た。その一人がそのプロスティチュートらしかった。彼は何気なく竹藪について細い路へ曲った。そして十間ほど行った処で立止り、振りかえって、往来の方を見ていた。その娘だった。派手な長い袖の羽織を着て、顔を醜いほどに真白く塗っていた。そして何か浮れた調子で男へ話しかけながら通り過ぎた。男は中折れ帽を眼深く被った番頭という風の若い男だった。

 

 どうということはないシーンなのだが、ここに出て来る「プロスティチュート」という言葉に躓いた。何のこと? と、英語の不得意なぼくは、すぐに調べたら、「売春婦」のことだったのでびっくりしてしまった。とんまな話だが、まさか「プロスティチュート」なんていう観念的な響きのする言葉が「売春婦」を意味するとは。

 そういえば、ちょっと前にJRがキャッチコピーで「デスティネーション キャンペーン」とかいうのをやったとき、「デスティネーション」を「デスティニイ(運命)」の親類だろうと勝手に思って(まあ一種の親戚ではあろうけど)、ずいぶん深刻なキャンペーンだなあと不思議に思ったことがある。

 それにしても、なんで志賀直哉は、こんなところで「プロスティチュート」なんて言葉を持ち出したのだろうか。当時のはやりだったのだろうか。大正時代というのは、結構外来語が持てはやされたような気もする。大正時代ではなくても、昭和のころは、「妻」のことを「ワイフ」なんていうオジサンがずいぶんいたけれど、最近はとんときかない。

 ところで、この百姓娘の「プロスティチュート」の「偽りの悲しげな顔」にほだされて、「一円、二円の金」を巻き上げられたというのは、どういうことなのか。ただ、可愛そうだから金をくれてやったということなのか、それとも、その「プロスティチュート」と遊んだのか。よく分からない。

 分からないけれど、その娘が、他の男と連れだって歩いているところをつけていって、派手な羽織を着ているだの、顔を醜いほど白く塗っているだの、浮かれた調子で話しているだの、となんとなくイチャモンをつけるような書き方に、うっすらと「嫉妬」めいた気分が入っているようにも感じられて、面白い。

 「暗夜行路」は長編小説じゃなくて、短編の寄せ集めみたいなものだと言われることがよくあるようだが、それには一理あると思う。緊密な構成をもつ長編小説なら、こんな「プロスティチュート」のエピソードなんていらない。この娘が後で重要な役割を果たすというならともかく、そんなことはなさそうだし。

 しかし、こうした不要のようなエピソードの一つ一つが、妙な実感と魅力を持っていることも確かで、たとえば、この百姓娘の「プロスティチュート」を主人公にした短篇は簡単にできそうではないか。そういう想像をかき立てるほど、この「プロスティチュート」の百姓娘は、輪郭がくっきり描かれている。

 そういう目でみると、この「暗夜行路」のいたるところに、「短編小説の種」が転がっていることに気づかされるのである。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 45 幸福感はどこから? 「前篇第二  四」 その1   2020.7.6

 

 

 春めいた長閑(のどか)な日だった。前の石垣の間から、大きな蜥蜴(とかげ)が長い冬籠りの大儀そうなからだ身体を半分出して、凝然(じっ)と日光をあびている。そういう午前だった。彼もいくらか軽い心持で、前の障子を一っぱいに開け、朝昼一緒の食事をしていた。向い島の山の上には青く、うっすりと四国の山々が眺められた。彼はふと旅を思い立った。そして旅行案内を出し、讃岐行の船の時間などを調べていると、隣りの婆さんが、
 「よう、嗅ぎつけおる」こんな事をいいながら前の縁へ来て腰を下ろした。飯時に何時(いつ)でも来る近所の小犬が二疋、濡縁の先に黒い鼻の先だけを見せていた。そのヒクヒクと動く鼻の先だけが何か小さい二つの生物のように見えた。
 「金ン比羅さんへ行くには連絡の方がいいのかしら?」
 「へえ、今日(こんち)らは大方御本山さんへ参られる者が仰山出やんしょうでの、商船会社の船はこんでいけやすまい」
 「二時ですネ」
 「へえ、──ああんさん、金ン比羅さんへ参られやんすか」
 「ああ。それから部屋はこのままにしといて下さい。盗られても困らないものばかりだから」
 「へえ。しゃあごじゃんせん」と婆さんは笑った。
 「大事なものは鞄へ入れとくから、それだけ預って下さい」
 「へえ。──今日らは鞆(とも)のお月様がよう見えやんしょうの」
 「お婆さんは行って見たことがあるの?」
 「えーえ」と否定して「先年お四国遍路に出やしての。その機(お)り船で通っただけでござんすけ」
 「そう。今晩鞆でお月見をして、あした金ン比羅さんへ行って、それから、あさって、高松で、今度開くというお城の庭を見て来ましょう」
 「立派なものじゃそうにごじゃんすのう。岡山のよりええんじゃいいよられやんした」
 彼は食事の余りを一つ皿に集めて、それを犬にやった。一疋が切(しき)りに唸って他を威嚇した。
 「しっ、しっ」婆さんは腰かけたまま、藁草履をはいた足でその犬を蹴る真似をした。
 下の方から、隠居仕事に毎日商船会社の船つき場に切符きりに出ている爺さんが細い急な坂路をよちよちと登って来るのが見えた。
 「帰って来た」
 「へえ」こういって婆さんは笑ってその方を見ていた。近所の六つばかりになる女の児が自分の家(うち)の小さい門の前に立って、
 「お爺さーん」と大声に呼んだ。爺さんは立止り、腰をのして此方(こっち)を見上げた。ぶくぶくに着ぶくれた爺さんの背中は、い<ら腰をのしてもまだ屈(まが)っていた。そして、
 「芳子さあー」幅のある気持のいい濁声(だみごえ)で呼びかえした。
 「お爺さーん」
 「芳子さあー」
 こう甲高(かんだか)い声と幅のある濁声とが呼び交わした。そして爺さんはまた前こごみの姿勢に変ってよちよちと登り出した。婆さんは隣りへ帰って行った。


 なんと素敵な文章だろう。わずかな言葉を通して広がる光景のなんという鮮やかさ! 解像度の高いカメラで写された映像のようだ。そのレンズは、前の島の向こうにかすかに見える四国の山を適度な柔らかさで写したかと思うと、今度は、縁の先にちょこんと見える子犬の鼻の先を驚くべきシャープさでとらえる。そんな映像の背後には、のんびりしたオバアサンの訛りの強い言葉が流れ、それに応じるいつになく穏やかな謙作の声も流れる。そして、こんどは、坂道をのぼってくるオジイサンのロングショットだ。まるで映画だなあと思っていると、そこに流れる女の子の甲高い声。それに答えるオジイサンの濁声。ほんとうに夢のようだ。

 この部分だけで、立派な短編小説だ。この短編小説には、よけいな心理描写は何一つない。けれども、ここにあるのは、人間の「幸福感」そのものだ。とくに、この町に暮らすオジイサンとオバアサンの幸福感を、少女の声が一挙に高め、謙作までをも包み込んでいる。

 最初の部分をもう少し細かく読んでいこう。

 「春めいた長閑な日だった。」──これは「客観的」な叙述ではない。なんの感情も含んでいないようでいて、実は違う。「長閑な日」という言葉は、そこにいる謙作が「ああ長閑だなあ」と感じたことを示している。たとえばもし謙作が花粉症で悩んでいる男だったら、こうは書けない。つまりこの短い一文で、これからの叙述がある種の「幸福感」に満たされていく予感が漂うわけである。

「前の石垣の間から、大きな蜥蜴が長い冬籠りの大儀そうな身体(からだ)を半分出して、凝然と日光をあびている。そういう午前だった。」──これも生物学的な事実を述べたものではない。蜥蜴の「大儀そうな身体」には、謙作の「大儀」が反映していて、「凝然と日光をあびている」蜥蜴の「気持ちよさ」が、謙作のそれとして感じられる。したがって、「そういう午前」というのは、直前の蜥蜴の描写を指しているのではなくて、「そういう長閑な、気持ちのよい午前」なのだ。

 「彼もいくらか軽い心持で、前の障子を一っぱいに開け、朝昼一緒の食事をしていた。」──謙作の気持ちの直接表現が出て来るのが「いくらか軽い心持で」だ。「軽い心持で」は、直接に「障子を開け」にかかるのではないのはいうまでもない。「軽い心持で」障子を開けるなんてナンセンスだ。論理的展開を期待すれば、「軽い気持ちで障子を開けたが、なんとそこにはスズメバチがいたのだった。」なんてことにでもなっていなくてはなるまい。当たり前のことだが、ここは「軽い気持ちの中で」ということなのだ。「前の障子を一っぱいに開け」の「一っぱいに」に、自分を鬱屈させていたものから、解放された気分が込められている。読んでいるほうも、目の前がぱっと明るくなる感じにとらわれる。「一っぱいに」などという表現は、稚拙にみえるが、それがかえって素直な感情の表出に一役かっていることも見逃せない。

 「向い島の山の上には青く、うっすりと四国の山々が眺められた。」──これは純客観的な描写のようにみえるが、それでもなお、謙作のどこか晴々とした気分が感じられる。「青く、うっすりと」から来る気分だろうか。(「うっすり」は今ではまったく使われなくなったが「うっすら」と同義。)

 「彼はふと旅を思い立った。」──そうした気分の流れのなかで、謙作は旅を思い立つのだ。実に自然な流れだ。気持ちのいい長閑な春の日、冬ごもりから目覚めた蜥蜴のように、そうだ、おれも旅に出てみようか、といった気分が、見事に表現されている。それは次に、婆さんを介して、金比羅宮、四国への連絡船、鞆の浦の月見、高松の城の庭、といった地名があらわれ、すでに旅に出たかのような気分を醸す。その旅への期待の中に、呼び交わすジイサンと少女の声。これが「幸福」でなくてなんだろう。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 46  作家の目  「前篇第二  四」 その2   2020.7.12

 

 

 文学作品の中での風景というものは、純粋に、客観的に存在するのではなくて、常に「見られた風景」として存在する。存在するというよりは、立ち現れるという方がいいだろうか。

 そんな当たり前なことだが、志賀直哉の小説を読んでいると、それがことさらに感じられる。そもそも志賀は、意識的にか、無意識的にか知らないけれど、まず自分の気分をそこに書き込むことで、その後描かれる風景に色づけをしてしまう。

 前回引いた部分も、まずは「春めいた長閑な日だった。」という一文で、風景全体を幸福感に満ちたいわば薔薇色のトーンに染めてしまう。

 もちろん、その後の気分の変化によっては、風景もまた違った様相を呈することもあるのだろうが、少なくとも、あのシーンでは、ジイサンと芳子さんが呼び交わすまで、そのトーンは変わらない。そこだけ切り取って短篇小説に仕立てたいほどのシーンである。「暗夜行路」には、そんな魅力的なシーンが随所に転がっているのである。

 前回から続く部分で、謙作は、金を取りに郵便局へ行くのだが、今日は午前中だけだと断られてしまう。その日のうちに旅に出ようと思っていたのに、謙作はやむなく翌日に出かけることにした。このちょっとした行き違いが謙作の気分に影響を与えたかのように、翌日の記述は、これまでとはまったく違ったトーンで語りだされる。


 翌日は薄日のさした、寒い、いやな日だった。空模様も本統でなく、風もあった。彼はちょっと迷ったが、やはり出かける事にして、一時半頃汽船の出る処へ行った。
 着くのが三十分遅れたために、それだけ二時発から遅れて、船は出発した。彼は祖父の着古した、きたない二重廻をきて、甲板へ出ていた。船は細長い市に添うて東へと進む。千光寺の山の中腹に彼の小さい家が一層小さく眺められた。先刻まで着ていた、綿入と羽織とが軒の物干竿に下っている。それも如何にも小さく眺められた。その前に婆さんが腰かけて此方を見ている。彼はちょっと手を挙げて見た。婆さんも直ぐ不器用に片手を挙げた。そして笑っているらしかった。

 

 いきなり「いやな日だった。」と書く。これが昨日の出発だったら、気持ちのいい航海となったのに、という思いが見え隠れする。それというのも、自分が郵便局の扱い時間を間違えていたからだ、いや、そもそも郵便局が気が利かないのだといった八つ当たり的気分。汽船は30分も遅れてきたから、出発も遅れた。(と解釈しておくが、「着くのが三十分遅れた」のが汽船なのか謙作なのかがあいまいだ。)そんな齟齬も気にさわる。自分の着ている「二重廻」も祖父が着古した汚いやつだ。これもなんか気に入らない。とまあ、そんな気分が流れている。

 けれども、船が進むにつれ、次第に気分も回復してくる。昨日のバアサンが見える。(果たしてほんとに見えるのだろうか、という疑問もわくが、志賀が嘘をつくはずもない。)手を振ると、振り返してくる。なんだか笑っているようにもみえる。すっかり気分もよくなった。というように、風景は単なる風景ではなくて、謙作の気分の鏡でもあるのだ。

 山と山との間の一番奥にある西国寺という寺が見え出した。間もなく、船は浄土寺の前を過ぎ、市を出はずれて、舵を南へ南へととり、向い島を廻って、沖へ出て行った。彼は因の島、百貫島、その位で島の名を知らなかった。しかし島は一つ通り越すとまた一つと並んでいた。島と島との間を見通せないので、ただ船で通っては彎曲の多い海岸を見ると余り変りなかった。

 船に同乗して移りゆく景色を眺めているような気持ちになる。うまいものだ。風景はさらに美しさを増していく。


 先刻まで薄日のさしていた空は何時かどんよりと曇って、寒い風が西から吹いていた。彼は船室へ入ろうかと思ったが、何かしらそれも惜い気持から、二重まわしの羽根をかき合せ、立てた襟に頤(あご)を埋めて、なお甲板のベンチヘ腰を据えていた。
 船は島と島との間を縫って進んだ。島々の傾斜地に作られた麦畑が、一卜畑(はた)ごとに濃い緑、淡(うす)い緑と、はっきりくぎりをつけて、曇った空の下にビロードのように滑らかに美しく眺められた。それから、島々の峰の線が如何にも力強く美しく眺められた。曇り日を背にした方が殊に輪郭がくっきりとよく見えた。彼は市(まち)の瓢箪屋で見た割れ瓢の割れ目の線を想い出した。自然の作る線、これにはやはり共通な力強さ、美しさがある事に感服した。


 「薄日のさした、寒い、いやな日だった。」わけだが、その曇り日が、意外な美しさを演出する。「島々の傾斜地に作られた麦畑が、一卜畑(はた)ごとに濃い緑、淡(うす)い緑と、はっきりくぎりをつけて、曇った空の下にビロードのように滑らかに美しく眺められた。」という表現は特に美しい。畑の色は、「はっきりくぎりをつけて」いるのだが、それが「ビロードのように滑らかに美しく」見えたというのは、晴天の強すぎるコントラストではなく、曇天の弱いコントラストが「滑らかさ」を生み出しているということで、こんなに精密な描写はそうそうお目にかかれるものではない。

 しかも、曇天の光にかえってくっきりとした島々の輪郭線が、「割れ瓢の割れ目の線」に似ているとし、「自然の作る線、これにはやはり共通な力強さ、美しさがある事に感服した。」と感想を述べていることにほとほと感心してしまう。

 島が作る線と、瓢箪の割れ目の線は、いずれも自然が作る線だ。その線には、「共通な力強さ、美しさ」があるというのだが、ここまでくると、志賀直哉という作家の目に尋常でない鋭さを感じるのだ。何気ない記述だが、瀬戸内の島の作る線と瓢箪の割れ目の線を結びつけることができる作家というのはそうはいないだろう。

 なぜいないのか。それは、普通の人は、割れ瓢箪をそんなふうには見ないからだ。割れた瓢箪を目にした場合、それが割れた瓢箪だと認識はしても、その割れ目の線が印象に残るほど精密には見ようとしない。たとえ見たとしても、それを「自然が作る線」だとは考えない。まして、その線のありようを覚えていて、それが目の前に見える島々の峰の線に「似ている」というふうな認識には至らないだろう。

 志賀直哉がそんなふうな認識の仕方をするのには、ひょっとしたら彼は無類の「瓢箪好き」なのかもしれない。(「清兵衛と瓢箪」を書いているぐらいだから。ちなみにこの「清兵衛と瓢箪」という小説は志賀直哉が尾道で暮らした頃に船の中で聞いた話を元にしているそうである。)しかし、そうだとしても、島々の線が、割れた瓢箪の線に似ているということを、ここでわざわざ書くのはどうしたことだろうか。

 「船が進むにつれて、島々が美しく眺められた。」とだけ書いておけばすむ話なのに、簡潔を旨とする作家が、どうしてこうした細かい、ある意味どうでもいい記述をするのだろうか。「自然の造形美」を強調するためだといえばそれまでだが、ここにはそうした目的意識とは別の、なにか書かずにはいられない衝動のようなものがあるように思うのだ。

 つまり、この類似を「発見」した志賀直哉は、驚き、感動し、そして、それを書き留めずにはいられなかったのだ。これは絶対にフィクションではない。物語を構成していく大事な要素として志賀直哉が考え出したディテールではない。この「発見」がまずあったのだ。それをただ書き留めた。そして、「物語」はそこから生まれていった。

 考えてみれば、別に志賀直哉でなくても、作家というのは、無から有を生み出すわけではない。どんなに荒唐無稽なフィクションでも、その核には、作家ののっぴきならない「経験」があるのだと思う。

 「昭和文学盛衰史」で高見順は、田畑修一郎のこんな言葉を紹介し、自分もこうした考えにくみする者だと言っている。

 

根っこにおいて広義の自己告白を持たぬ客観世界というものは作品の中にあり得ない、と考える。僕にはあらゆる作品は、作家が人間としてこの世の中で『何を見たか』ということの展開にすぎないとさえ思われる。(「ロマネスク論議」)

 

 

 


志賀直哉『暗夜行路』 47 船旅は続く 「前篇第二  四」 その3   2020.7.19

 

 

 瀬戸内の船旅は続く。この辺は、珠玉の紀行文だ。


 或る島は遠く、或る島は直ぐ側(そば)を通った。少し人家のある浜辺には出鼻の塩風に吹き曲げられた一、二本の老松(ろうしょう)の下にきっと常燈明と深く刻りつけられた古風な石の燈台が見られた。他の島の若い娘が毎夜その燈明をたよりに海を泳ぎ渡って恋人に会いに来る。或る嵐の夜、心変りのした若者は故意にその燈明を吹き消しておいた。娘は途中で溺れ死んだ。こういうよくある伝説にはどれも似合わしい燈明だった。


 この伝説はまたなんと残酷なことか。若者の欲望が突出してしまっていて、これでは娘の救いがない。この燈台を見て、土地の人は何をどう思ったのか。また謙作はなにを思ったのだろうか。なんの感想もないが、案外、心に深く刻み込まれているのかもしれない。「性欲」の問題は、「暗夜行路」の大きなトピックだから。

 

 阿武兎(あぶと)の観音というのが見え出した。それは陸と島との細い海峡の陸の方の出鼻にあり、拝殿が陸にあって、奥の院は海へ出ばった一本立ちの大きな石の上に、二間ほどに石垣を積み上げて、その上に建っていた。その間五、六間が、かなりの勾配の廊下でつないである。その他は自然のままで、人家もなく、如何にも支那画を見る心持であった。其処を廻って汽船は陸添いに進む。庭に取り入れていいような松の生えた手頃な小さい島がいくつかあって、やがて柄(とも)の津に船は止った。仙酔島(せんすいとう)が静かに横わっている。絵葉書で勝手に想像していた向きとは全く反対側にそれがあったので多少彼は物足らなかったが、とにかくそれは気持のいい穏やかな島であった。町の方は人家でごちゃごちゃしていた。保命酒(ほうめいしゅ)醸造元とか、元祖十六味(じゅうろくみ)保命酒とかペンキで塗った烟突が所々に立っていた。


 「阿武兎観音」「鞆の津」「仙酔島」などが地図上のどこにあるかを確かめながら読んでいくと、実際に旅をしているような気分になれる。

 まさに、今どきのリモート旅行といった趣だが、「暗夜行路」を読みながら、地図で辿るという行為は、ビデオ映像を駆使したバーチャル旅行に参加するのとは本質的に違っている。それは、志賀直哉(まあ謙作でもいいが)が実際に見て、その印象を言語化したもの(テキスト)を読んで、こんどは地図という映像を伴わない一種のテキスト(非連続テキストという)を媒介にして、現実の印象(イメージ)を読者が脳の中に再構成する過程だからだ。これはとてもおもしろい。

 その上で実際にそこに行ってみるというのもひとつの手だが、行かないでおくというのもまた一つの手である。行かないほうが、自分が構成してイメージを壊さずにすむという利点もあるだろう。

 そういえば、源氏物語を最初に英訳したアーサー・ウェイリーは、実際に訪れて幻滅したくないからと言って、日本には来なかったという。もっとも単に長旅が嫌いだったからだという「証言」もあるらしいが、しかし、そういう「証言」もあてにはならない。長旅が嫌いだったことは確かなのだろうが、それだけが日本に来なかった理由とは断言できない。もしアーサー・ウェイリーが源氏物語のイメージを求めて日本に来たら、幻滅したに違いないからだ。

 ところで、ここに出てくる「保命酒」というのは、今でも販売されている薬用酒で、かなり前に、テレビの旅番組かなにかで見たことがある。「養命酒」は全国的に有名なのに、それに似た「保命酒」はほとんど知られていないのも不思議なことだとその時思った記憶がある。

 今調べてみると、なかなか興味深い歴史を持っていることがわかる。


 彼はその晩此処で月見をするつもりだったが、空模様が、とても見られそうもないので、そのまま乗り越す事にした。
 段々身体(からだ)が冷えて不愉快になって来た。彼は船室へ降りて行った。二等というので客は五、六人しかいなかった。その中に混って彼も横になった。船は少しずつ揺れて、ばたんばたんと船の胴を打つ波の音が聴えた。彼は少し睡かったが、眠れば風邪をひきそうなのでまた起きて、持って来た小説本を読み始めた。


 謙作はここで月見をしようと思ったということは、すでに出発の時からの予定だったのだが、天候の具合で、あっさりと断念している。

 この「鞆の津」は、普通は「鞆の浦」と呼ばれるところで、万葉集以来、船待ちの港として有名らしい。(さっき調べたところ)

 いつの頃からなのかは分からないが、ここが月見の名所となったらしい。今でも「日本遺産」になっているほどの観光地で、なかなか興味ふかく、瀬戸内の景色というのは、やはりなんといっても日本では有数だろうから、一度は行ってみたいものだ。(自分のイメージもそんなに豊かにはふくらんでいないし。)

 体の冷えた謙作は、また「不愉快」になる。前にも書いたが、志賀直哉の「不愉快」は、有名なので、「あ、また出た!」とちょっと愉快になる。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 48 浪花節と義太夫と蓄音機  「前篇第二  四」 その4   2020.7.25

 

 

 謙作が小説を読んでいると、そこへ船員が入ってくる。手にはレコード、供の水夫に蓄音機を持たせている。


 「御退屈でござります」洋服の腕に二本金筋を巻いた船員が自分はレコード、蓄音器は水夫に持たせて入って来た。「どうぞ、御自由に御散財下さりませ」笑いながら、こんな事をいって、大概は寝ているので、起きていた謙作の前にそれを置いた。
 謙作はそのまま本を読んでいたが、誰も手を出す者がないので、レコードの函を引き寄せて見た。浪花節(なにわぶし)が多かったが、義太夫もあった。義太夫は好きだったので、彼はそれを三、四枚続けてかけた。
「呂昇(ろしょう)の艶(つや)は別じゃのう」二人で寝ながら株の話をしていた一人がこんな事をいった。その男はまた謙作の方を向いて、「浮かれ節はありやんせんかえなあ」といった。
「うう?」謙作は浪花節の事だろうとは思ったが、よく通じないような、そして故意に無愛想な顔をして、また義太夫をかけた。その男はそれなり黙った。ちょっと気の毒な気がして、彼はその次に吉原芸者「四季の唄」というのをかけた。「春は花、いざ見にごんせ、東山」という唄だろうと思っていると、最初ジイジイいっていた喇叭(らっぱ)から、突然、突拍子もない浮かれ調子で「春は嬉しや、二人揃うて……」という唄が出て来た。気六(きむず)かしい不機嫌らしい顔が自身見えるだけにこの浮かれ唄との滑稽な対照が自分でもちょっとおかしくなった。そのままにしていると、夏は嬉しや秋は嬉しやと蓄音器は無遠慮に浮かれた。ダンダンダンという汽缶の響、ぼうぼうと甲板で鳴らす汽笛、船の胴を打つ波音、それらと入り混って、およそ不調和に「雪見の酒」と浮かれている。彼は蓄音器をやめてまた甲板へあがって行った。

 

 これはまたなんと珍しいシーンだろう。瀬戸内海を航行する船の中に、こんな娯楽があったなんて。ラッパのついた手回しの蓄音機を持ち込んで、レコードを聞かせるサービスだ。そのレコードが、歌謡曲とかクラシックではなくて、「浪花節」とか「義太夫」ときてはこたえられない。何が「こたえられない」のかというと、その時代の空気が生き生きと蘇ってくるからだ。

 「御自由に御散財下さりませ」というわけだからむろん無料ではないのだろう。謙作は金持ちだから、三、四枚かけて見るのだが、他の船客は手を出さない。謙作のかけたレコードを聴いているのである。あのジュークボックスみたいなものだ。

 それにしても、日本での蓄音機の発売は、1909年ごろらしいから(ちなみに電気蓄音機の発明は1925年)、この志賀直哉の「尾道時代」の背景になっている1912年には、まだまだ新しい機械だったわけだが、それでも、こんな普及の仕方があったとは驚きである。

 船の上で、浪花節や義太夫が聴ける、というのは、当時としてはなんともいえない喜びがあったろう。そういえば、まだウオークマンが発売される前、ぼくは電車の中で好きな音楽が聴けないものだろうかと考え、小型のカセットテープレコーダーにイヤホンをつけて、地下鉄の車内で聞いたことがある。小型とはいっても結構な重さがあったし、それに音質はモノラルで決して満足のいくものではなかったが、それでも新しい音楽の聴き方を発見したみたいで、ああこういうのいいなあと思ったものだ。それからウオークマンが発売されるまで数年しかなかった。ウオークマン1号機の発売は、1979年のことだった。

 謙作が選んだのは義太夫だったのだが、それが「呂昇」だったことが船客の言葉から分かる。この「呂昇」というのは、岩波文庫版の注によると「豊竹呂昇(1874〜1930)本名は永田仲。名古屋の人。大阪に出て豊竹呂太夫に学び、名声を博した女義太夫。」とある。レコードもずいぶんと出たらしい。

 志賀直哉は、学生時代に女義太夫の呂昇と並び賞された豊竹昇之助の熱烈なファンになって寄席通いをしたという。志賀直哉だけではなくて、当時は大変なブームで、学生から著名人まで女義太夫に狂ったらしい。そんな話をよく耳にするので、ぼくも大学時代に、友達と語らってひとつ女義太夫を聴いてみようということで、上野の本牧亭(だったと思う)に行ったことがある。何人かの太夫が出ていたが、客はぼくら以外には数名しかおらず、それが桟敷の上に寝転がっていたりして、しかも、肝心の義太夫がぜんぜん面白くないので、そうそうに退散したことを思いだす。

 友人と、いったいあれのどこがよかったんだろうねえと不思議がったものだが、まあ、時代の空気というのは、激変するものだ。
船客は、呂昇をほめながらも、「浮かれ節」はないかと言う。関西では明治40年代までは浪花節(浪曲)のことを「浮かれ節」と言っていたようだ。そのことを謙作も知っていたと見えて、「浪花節の事だろう」とは思うのだが、面倒くさいので、「故意に無愛想な顔」をする。こういう偏屈なところは、志賀直哉その人ということだろうか。

 けれども、しばらくすると「ちょっと気の毒な気がして」きた謙作は、「四季の唄」というのを選んだ。しかし、その歌は、謙作の予想していた歌ではなくて、「突拍子もない浮かれ調子」だった。これが果たして浪花節だったのかどうかは分からないのだが、自分の気難しい渋面と、その浮かれ唄の「滑稽な対照」が「自分でもちょっとおかしくなった」という。こうしたところに、志賀直哉の「自己客観化」がみえて、面白い。

 どこか「えらそうな」態度の謙作には少々不愉快にもなるが、そういう自分を客観化できているところに愛敬があるというか、憎めない気がするのである。

 

志賀直哉『暗夜行路』 49 「象」の出現   「前篇第二  四」 その5   2020.8.3

 

 

船上で義太夫だの浪花節だのを聞いているうちに、船は四国へと近づいていく。


 いつか、もう讃岐の海岸が遠く見えていた。其処には三、四人の客が立っていた。
 「事務長さん、金ン比羅さんのお山はどれですかいな」
 「あれでござります」先刻(さっき)蓄音器を持って来た金筋を腕に捲いた男が指さして答えた。「あれが、その、象の頭に似とるいうので、それで象頭山(ぞうずさん)、金ン比羅、大権現、ですいな、そう申すのじゃそうにござんす。あのこちら側に黒う見えとりますの、此処からはほん《こまい》森のようにござんすけえ、そら、いたらエライ森でござんすが」
 帆を張った漁船が四、五艘、黒ずんだ藍色の海を力強く走っていた。事務長はこの辺が内海の真ん中で西からも東からも潮が上げて来て、此処でまた別れて両方へ干いて行くのだと説明した。
「来月は善通寺さんの御開扉(おかいひ)でまた一段と賑う事でござんしょう」こんな事もいった。


 ぼくはあまり旅をしてこなかったが、京都・奈良と四国だけは例外だ。京都・奈良は、修学旅行の引率やら映画祭への参加やらでずいぶんと行ったわけだが、四国は、家内の郷里が高知だったので、結婚前から訪れ、その後もいろいろな折りに出かけている。その高知への旅でも、やはり印象的なのはこの瀬戸内海だ。瀬戸大橋がなかったころは、宇高連絡船に乗ったものだが、あの風情は忘れ難い。昔はよかった、なんて言いたくないが、やはりあのころはよかったなあ。


 謙作は一人船尾へ行って、其処のベンチに腰かけた。彼は象頭山、それから、それに連なる山々を眺めた。彼は今事務長がいった山よりもその前の山がもっと象の頭に似ていると思った。そして彼はそれだけの頭を出して、大地へ埋まっている大きな象が、全身で立ち上った場合を空想したりした。それから起る人間の騒ぎ、人間がそのために滅ぼし尽されるか、人間がそれを倒すかという騒ぎ、世界中の軍人、政治家、学者が、智慧をしぼる。大砲、地雷、そういうものは象皮病という位で、その象では皮膚の厚みが一町位あるために用をなさない。食糧攻めにするには朝めしと昼めしの間が五十年なので如何する事も出来ない。賢い人間は怒らせなければ悪い事はしないだろうという。印度(インド)の或る宗旨の人々は神だという。しかし全体の人間は如何(どう)かして殺そうと様々な詭計を弄する。とうとう象は怒り出す。……彼は何時か自分がその象になって、人間との戦争で一人亢奮した。
都会で一つ足踏みをすると一時に五万人がつぶされる。大砲、地雷、毒瓦斯(ガス)、飛行機、飛行船、そういうあらゆる人智をつくした武器で攻め寄せられる。しかし彼が鼻で一つ吹けば飛行機は蚊よりも脆(もろ)く落ち、ツェッペリンは風船玉のように飛んで行ってしまう。彼が鼻へ吸い込んだ水を吐けば洪水になり、海に一度入って駈上って来ると、それが大きな津波になる。…………
「御退屈でござりました。もうあれが多度津(たどつ)でござります。十分で着きますで、御支度を……」こう、事務長が知らせに来た。彼は退屈どころではなかったのである。
 ぼうぼうと耳の底へいやに響く汽笛を頻にならしながら船は屋根の沢山見える多度津へ向って進んでいた。
 彼はたわいない空想から覚めた。しかしそれをそう滑稽とも彼は感じなかった。人類を対手取(あいてど)る所に、変な気がしたが、子供からの空想癖が、一人になって話し相手もない所から段々に嵩じて来たこの頃、彼は今した想像に対しても別に馬鹿馬鹿しいとも感じなかった。


 この「象頭山」から展開する想像は、なんとも唐突な印象をうけるが、いったいどうしてこんな空想が生まれたのだろうか。

 志賀直哉が尾道に住んだのは、1912年(明治45年・大正元年)のことだが、当時の世の中は、こうした想像を生むような騒然としたところがあったということだろう。

 たとえば、ハレー彗星の大接近をめぐってデマが乱れ飛んだのが1910年(明治43年)のことだから、尾道に暮らしていたころの志賀直哉も当然その騒ぎを経験したことだろう。

 この彗星をめぐっては、そうとうなドタバタがあったようで、先日キンダースペースが上演した岸田國士の「遂に『知らん』文六」(昭和2年)という芝居は、まさにこのハレー彗星のドタバタをモチーフとしていた。ハレー彗星が地球に激突して世界が終わってしまうというというのはデマだったが、そのハレー彗星そのものは現に出現したのだから、これを「たわいない空想」と片づけることはできない。

 ハレー彗星の地球激突という「想像」は、日頃の「常識」を根底からひっくり返すという点で、「象頭山」の象が立ち上がって大暴れするという空想とまったく同質なもので、それはまたゴジラも同じ、そしてまた今の「コロナ」においても同じことなのだ。

 「たわいない空想」だが、それを「滑稽とも感じない」のは、謙作の「空想癖」が一人暮らしによって嵩じたという面もあるだろうが、やはり当時の社会を背景にしているからだろう。

 ここに出て来る「ツェッペリン」は、1937年(昭和12年)にヒンデンブルク号が爆発事故を起こしているし、「大きな津波」は1923年(大正12年)の関東大震災を想起させる。そして、スペイン風邪は1918年〜1919年(大正7〜8年)に流行した。

 「暗夜行路」前篇は、1921年(大正10年)から1937年(昭和12年)にかけて断続的に発表されたわけで、こうした厄災をすべて網羅する時代背景があるのである。

 

 船は多度津に向かっている。

 この多度津という地名は懐かしい。JRでいえば、土讃線はこの多度津駅を出発点とする。瀬戸大橋を渡ってきた列車はしばらく予讃線を走るが、この多度津駅を出ると、いよいよ高知へまっしぐらというわけである。なんどもここを通過しながら、なんとなくこの多度津というところは、列車が海を離れて進んでから多度津駅に着くので、すでに海岸から遠く離れているような印象でいたが、実際はそうではなくて、「津」とあるように、まさに海沿いの町なのだった。

 高知へ行くときに、飛行機に乗れない(乗りたくない)ぼくは、今でも必ず鉄道で行くのだが、そしてそのことをいつも不思議がられるのだが、もし飛行機で行っていたら、宇高連絡船とか、瀬戸内海とか、瀬戸大橋とか、多度津とか、そういった場所はぼくには無縁だったろう。鉄道旅行は時間がかかるという「損失」はあるかもしれないが、また違う意味での「損失」がある。こうして「暗夜行路」なんかを、ああ多度津ね、ああ金比羅さんね、といちいち頷きながら読める幸せは、やはり鉄道の旅からもたらされたものなのだということを実感するのだ。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 50 多度津の追いかけっこ 「前篇第二  四」 その6  2020.8.11

 

 

象頭山からの巨大な象への空想から覚めると、もう多度津が近かった。


 彼は別に支度もなかったので、洋傘を取りに一度船室へ降りてまた出て来た。夕日が沖の島という上に赤く輝き出した。甲板には十四、五人の客が立っていた。
「金ン比羅さんへ参られますか」
「ええ」
「お一人ですか」
「そうです」
「お淋しいですの」
「ええ」
「お宿は」
「何という家(うち)がいいんですか」
「先ず虎屋。それから備中屋ですが、これらはお一人で行かれても、どうですか」とその男がいった。
 謙作はただ点頭(うなず)いて見せた。「よし吉(きち)というのがよろしいでしょう。俺(わし)も用は多度津ですが、今夜は其処へいって泊ろうと思うとります。何でしたら御一緒に」
 顔でも手でも甚(ひど)くきたない皮膚をした下品な二十五、六の商人風の男だった。その男はもう自分から一緒に泊る事に決めて、「よし吉」のあり場所などを説明した。


 お一人ですか? と声を掛けてきた男。その男を「顔でも手でも甚くきたない皮膚をした下品な二十五、六の商人風の男」と表現する。それは、その男の客観的な描写ではなくて、謙作が感じた男である。顔や手が「きたない」というのは客観的ではありうるが、「下品」と感じるのは謙作である。そしてたぶん志賀直哉である。

 ただその「下品」は、必ずしも皮膚のきたなさから来る感じではなくて、「何でしたらご一緒に」という男のなれなれしさ、あるいはひょっとしたら下心から来るのかもしれない。

 宿は「虎屋」か「備中屋」がいいけれど、そういうところは一人で行くのはどういうものか、というのは、確かに高級な宿は、連れがある客をおもに相手にするから、いい顔をされないかもしれないし、そんなところにひとりで泊まるのはもったいないということかもしれない。

 ひとりなら「よし吉」程度の宿がいい、というわけで、男は、一緒に泊まることを提案する。それは単なる親切心ではなくて、あわよくば、同じ部屋に泊まって、宿賃を折半してもらおうという下心があるのかもしれない。それ以外に「一緒に泊まる」メリットがありそうもない。

 そういう男の下心を感じて、謙作は「下品」だと思うのだろう。

 

 多度津の波止場には波が打ちつけていた。波止場の中には達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さんたちが日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三、四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊(き)いているとその男に追いつかれそうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
 もうその男もついて来なかった。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行った。
 停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分ほど待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。


 なんか下品なヤツだなという謙作の直感は、いつの間にか「確信」に変わったのか、謙作は、ムキになってその男から逃げる。男もなんだかムキになって追いかけてくる。このシーンは、妙に滑稽だ。男がなんでそんなに謙作と一緒に泊まりたいのか、謙作はなんでその男と一緒に泊まりたくないのか、それぞれの思惑はなんとなく推測はできるのだが、それが「気持ち」ではなくて「行為」として現れると、滑稽になる。

 別に追い剥ぎをしようというんじゃないんだから、そんなに「露骨」に逃げなくたっていいわけで、オレはお前さんと一緒に泊まるなんて嫌だよと一言いえば、それで済む話ではないのか。男にしても、謙作が嫌がっているんだから、それを後から走るようにして追いかけなくたっていいのに、なんか取り憑かれたように追いかけてくる。

 なんだか、コント55号のコントを見ているような気分になってくる。「なんで逃げるんだ?」とひとりが聞くと、「お前が追いかけてくるからだ。」ともうひとりが答える。「なんで追いかけてくるんだ?」とひとりが聞くと、「お前が逃げるからだ。」ともうひとりが答えて、一向にラチがあかないけれど、追いかけっこは続いていく。コント55号だとこれがどんどんヒートアップしていくのだが、さすがに志賀直哉の小説ではそうはならずに、すぐに終わるが、なんだかやっぱり滑稽だ。

 追いかける男と逃げる男。その滑稽な二人と対照的に、彼らの周囲には、のんびりとした多度津の光景が広がっている。
桟橋に揺れる「達磨船」「千石船」、船に乗ろうと、急な坂になったかけ橋を、「日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来」る「団体の婆さんたち」、そして、窓からヒマそうに首を出している郵便局員。

 桟橋、船、かけ橋、日和下駄、裸足、婆さん、郵便局員、そんな単語が、的確に置かれ、その光景を映画のセットのように形作っている。

 「暗夜行路」という小説全体の中では、ほんの小さなエピソードだが、妙に記憶に残りそうなシーンである。

 今度高知へ行く機会があったら、多度津で途中下車して、多度津の港を訪ねてみたいものだ。昔のような賑わいも、のどけさももう期待はできないだろうけれど。

 


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