志賀直哉「暗夜行路」を読む (2) 12〜26

前篇第一 (三)〜(六)

引用出典「暗夜行路 前篇」岩波文庫 2017年第11刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 


志賀直哉『暗夜行路』 12 ちょっと寄り道(1)──本多秋五と池内輝雄の志賀直哉論   2019.8.23

 

 率直にいって、私は志賀の作品を読んで、つよいリアリティーを感じる状態にはいれるときと、はいり切れぬときとある。だから私は、志賀文学を向う岸の存在とみる人の気持も、志賀文学の偶像性をやっきになってうち破ろうとしている人の気持も、また、いまも依然として志賀直哉に傾倒している人の気持も、それぞれにわかるつもりである。私自身、前に志賀文学について書いたときには、主として否定的な角度から書いた。そのときには、それが偽らぬ気持の表明であった。しかし、いま日本の小説が通俗読物化への傾斜を急速度にすべり下りつつあり、安易な志賀否定論がこの小説読物化の大勢に援軍を送る結果となる惧れのあるのをみては、かえって志賀文学の長所をはっきり再確認したい気持である。志賀の作品には、時をへだてて読み直してみると、思いがけぬ発見をするものが多い。こういう作品が、最近の量産小説のうちにどれだけあるか?
 西欧のロマンの概念を、国の特殊な事情を無視して、右から左に移植しようとすれば、自国の文学を骨抜きにしてしまう惧れがある。魯迅などは、西欧のロマン作者の観念にあてはめてみれば、片々たる作品しか残さなかった群小作家の一人にすぎないであろう。

本多秋五「志賀直哉素描」(「『白樺』派の文学」新潮文庫・1960年初版)

 

 

 ここのところ、『暗夜行路』と平行して、本多秋五の「『白樺』派の文学」を読んでいるのだが、非常に面白い。この本はどうも大学生のころに買って読んだらしく、ところどころに傍線が引かれているのだが、とんと記憶にない。ほんとに、いいかげんな大学生だったわけだが、それでも、傍線なんか引いて一生懸命読んだというだけでも、自分を褒めてあげたい気持ちでいっぱいになる。

 本多秋五のこの本は1960年の刊行だが、この「志賀直哉素描」は1957年に書かれている。そのことを頭において読むと、当時の日本文学の状況がよく分かって面白い。ぼくがこれを最初に読んだのは 1968年らしい(文庫本が7刷の1968年刊だから)から、書かれてまだ10年ほどしか経っておらず、志賀直哉はもちろん存命で(志賀直哉は1971年没)、志賀をどう評価するかが、これからの日本文学の行く末と密接に関係があると誰もが信じて疑わなかった時代だったわけである。

 本多は、当時の文学状況が「小説が通俗読物化への傾斜を急速度にすべり下りつつ」あるのだという認識に立って、志賀の文学を「安易に否定する」ことは、「自国の文学を骨抜きにしてしまう」ことに通じるのではないかと危惧しているわけである。

 志賀直哉を否定する者は、「私小説」を否定し、もっと西欧的な「ロマン」を! と叫んでいたわけだ。その時代の空気をぼくもよく知っている。

 その急先鋒にあったのが中村光夫で、その『志賀直哉論』は、全面的に志賀直哉を否定したらしい。その本もぼくは読んだはずなのだが、これもとんと記憶がなく、しかも肝心の本が手元にないので、さっきネット古書店で注文したところだ。(こちらは1200円)

 もう一冊、今日手元に届いたのが池内輝雄『志賀直哉の領域』(有精堂・1990年)で、これも以前買って持っていたはずなのに、どうしても見つからずにネット古書店で買ったのだ。(こちらは1000円)この本は持ってはいたが、まだ読んでおらず、どうしても読みたくなったのだ。というのも、著者の池内先生は、ぼくの大学の先輩にあたり、大学時代には面識がなかったのだが、その後、教科書の編集委員として数年にわたってお仕事を一緒にした方なので、今回、志賀直哉をいろいろと読んでいて、池内先生はどう思っていらっしゃったのかなあと思うことが度々だったからなのだ。

 その今日届いた本の「あとがき」を読んでいたら、こんな文章が目に付いた。

 

 私が志賀直哉について、多少考え始めたのは、いわゆる「大学問題」が起こったころであった。
 この時期を私は大学院生・助手として過ごしたが、教育や研究のありかたをめぐって周囲の人々と論争を繰り返すことが多かった。外部に対する批判の眼は、同時に自己に向かう。私は自己のまずしさに恥じ、くじけ、にもかかわらず、今から考えると全く幼いとしか言いようがない生意気な姿勢を取り続けていた。そのうち、分銅惇作先生を中心に授業とも研究ともつかぬものが学外で開かれた。たしか場所は文京区の公民館だったように思う。そこで最初に取り上げられたのが志賀直哉だった。それまで私は志賀直哉の作品をほとんど身を入れて読んだことがなかったので、急いで改造版『志賀直哉全集』全九巻を一巻から通読した。
 そのとき、はじめて志賀直哉を見いだしたように思われた。なによりも強く意識されたのは、若き日の志賀直哉が自身の存在を押しつぶそうと牙を剥く外部世界に対し、闘い、傷つき、内的崩壊の危機を予感しながら、それを手さぐりのかたちで表現しようとしていたことである。したがって志賀直哉の文学は、安定とか肯定とかいったことから遠く、苦渋に満ち、懐疑的であり、暗欝な様相を持ったものとしてイメージされた。それは私の「現在」と共通するように感じられた。その後志賀直哉に関する研究文献などを読んでみて、こうした「暗い」イメージに論及しているものが少なく、私も少しばかり発言できるような気がした。


 池内先生はぼくより11歳年上だが、ちょうど大学紛争の時期には、助手として東京教育大学に勤務されていたわけだ。分銅惇作先生は、ぼくの卒論の指導教官だったのだが、ぼくはその頃、源氏物語の読書会を「学外」で(大学はロックアウトで中に入れなかったのだ)友人と細々と続けていた。池内先生はちょうどその頃、分銅先生と「学外」で、志賀直哉を読んでいた、ということになる。このことを、今日初めて知った。数年前に知っていたら、編集会議の休憩時間にでもこのお話しを直接伺うことができたのにと悔やまれる。(まあ、池内先生はお元気だから、いつだって伺いにいけるわけだが。)

 それにしても、今、ぼくが、こんな年になって志賀直哉を曲がりなりにもちゃんと読むようになったなんて、周回遅れなんてもんじゃない。でも、いいじゃないか。ぼくにはぼくの道がある。というわけで、ぼくも、「志賀直哉全集」の岩波の旧版全15巻をネットで注文したのだった。池内先生みたいに「通読」なんてできないけれど、折りに触れて読むことができるようにと思ってのことだ。なんと、その全15巻の値段が3500円。恵まれている時代なのか、悲しい時代なのか、よく分からない。

 さて、この本多秋五、池内輝雄の二人に共通しているのは、やはり、志賀直哉は重要な作家なのだという認識なのだ。2019年の今、志賀直哉がどのように読まれ、どのように評価されているのかはぼくには知る由もないが、少なくとも、ぼくが全力を傾けて読むに値する作家であることは確かなのだ。そのことをここで確認しておくのも悪くないだろう。

 

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 13 「旦那衆のリアリズム」  「前篇第一  三 」その1   2019.9.2

 

 兄の信行が来た翌日、信行の依頼で、妹の咲子と妙子を「帝劇のマチネー」に連れて行った。そこで彼らは「帝国座の女優劇」を見た。

 観劇のあいだも、謙作の頭から芸者の登喜子の事を考えてばかりいた。

 劇場で謙作は友人の石本と出会った。

 

 石本は彼の友達というよりはむしろ信行の友達だった。信行は自分が中学を卒業して仙台の高等学校へ行く時に謙作を石本に頼んで行った。謙作と石本とは以前からもよく知ってはいたが取り分けその時から親しくするようになった。謙作はその頃中学の三年生で、信行の眼からはそれが中学生の一番危険な時代のような気がしたからであった。一体本郷の謙作の実家の人々が謙作に冷淡である中に信行だけが何故か彼の事をよく心にかけて心配していた。石本とすればその年頃の青年としてそういう依頼を受ける事が既に悪い気のしない事である上に、謙作に対する好意からもよく世話をした。謙作が代数の試験で危かった時などは石本は自身の試験勉強を後にして、徹夜で彼にそれを教えたりした。

 

 中学三年というのは、旧制のことだから、16、17歳ということになるだろう。この16、7歳のころが「一番危険な時代」というのは、世情が変わってもやはり普遍的なようだ。志賀直哉が悪い道に踏み迷って人生を台無しにしないで済んだのは、単なる幸運にすぎなかった、というようなことを確か本多秋五が言っていたような気がする。

 この石本は、信行から頼まれたということもあるが、また謙作に好意を感じていたので何かと世話をやくのだが、それが謙作にはだんだん煩わしくなってくる。

 

こういう謙作と石本との関係はそれからもずっと続いて来た。何時までも石本は先輩で、謙作は後輩だった。それはいいとして、今の謙作には昔ながらの石本の自分に対する老婆心が段々閉口になって来た。同じ自分の事を心配してくれるのでも兄の信行のはその呑気な性質の内に神経の行き渡った所があるだけに彼にはそれほど気にならなかったが、石本には絶えず何か教えようとする気が見えるので、好意は認めながら彼は時々腹を立てた。

 

 難しいものである。自分のことを心配してくれるにしても、信行は「呑気な性質の内に神経の行き渡った所がある」のに対して、石本は「絶えず何か教えようとする気が見える」から、腹が立つのだという。

 勝手な言い分のようでいて、人情の機微を穿った分析だ。「何か教えようという気」というのは、相手に対して自分の優位を無意識的であれ前提としていることから出てくる。それは相手のことを心配するというより、相手の弱点を自分が発見してそれを指摘し、あわよくば相手を自分の支配下におこうとする意識だ。だから謙作のように自尊心の強い人間は、腹が立つ。

 信行の「呑気な性質」というのは、そうした相手に対して優位に立とうとか、立っているとかいう競争意識がない、と理解できる。だから、常に相手の身に沿っての「心配」となる。それは「神経の行き渡った」ものであるに違いない。つまり、相手の状況を想像する神経の働きがなくては、相手をほんとうに「心配」することなどできないからだ。

 石本は、話したいことがあるから、芝居が終わったらつきあわないかという。

 

 「料理屋だとそう長く話せないから、いやでなかったら待合へ行こうか」と石本がいった。
 二人はそれから歩いて銀座を越して築地の方へ行った。石本は其処の或る大きい家ヘ謙作を連れて行った。
 「話がしたいのだから、誰れも呼ばずに、飯だけ食わしてくれ」石本は女中にこういった。
 奥まった八畳の間に通された。それは茶がかっていて、しかも小細工のない気持のいい座敷だった。前の小さい庭も品よく出来ていた。前日の引手茶屋の座敷とは大分様子が異っていた。床には京都の画かきの稲荷山の軸が掛けてあった。この画かきの画を謙作は前から積極的に嫌いだった。しかしこういう家の座敷にはこんな画も悪くはないと思った。殊に水盤に生けた秋草が、その稲荷山の山路に合っていた。


 念のために「待合」とはどういうところかを確かめておく。

 

待合茶屋の略。江戸時代に待ち合わせや会合に利用する貸席として出現した待合は、明治以後芸者の主要な出稼ぎ場に変質して急増した。その多くは、主業態であるべき貸席よりは、芸者らの売春に場所を提供することを主とした。待合は、関西などの「席貸し」を除いて、調理施設をもたないことが原則であり、席料のほか酒食提供料や芸者の玉代(ぎょくだい)の一部を手数料として徴収する。現在は風俗営業等取締法に基づく各都道府県の施行条例によって、待合または料亭・貸席などの名称で取締りの対象とされ、主として和風の接待をする場所として営業場所、客室の構造設備などに指定基準が設けられている。[原島陽一]《日本大百科全書》

 

 「引手茶屋」とか「待合」とか、こういった場所についての知識がないと、こういう小説は読めない。

 「料理屋だとそう長く話せない」ということは、料理屋というのは、食事をしたらさっさと席を立たねばならぬ場所だったということだろう。だからちょっと長くて込み入った話をするには、「待合」がいい。でも、そこは、「芸者らの売春に場所を提供する」ところだから、「話がしたいのだから、誰れも呼ばずに、飯だけ食わしてくれ」と石本は言う。そんなワガママが通るのは、石本が常連だからだろうか。

 いつの時代でも、こういう場所を「勝手知ったる場所」として自在に使える男が「できる男」なのだろう。今だって、お金持ちや政治家は、こんな場所をたくさん知っているんだろうなあ。ぼくみたいに、ちょっと静かに話したいことがあるなんて場合でも、結局居酒屋しか思いつかなくて、というか行けなくて、回りの騒がしい飲み客にうんざりしながら、結局は自分も声を張り上げているなんざ、「できない男」の見本みたいなもんである。

 こんなことを考えていると、志賀直哉の「リアリズム」は、結局のところ「旦那衆のリアリズム」なんだという本多秋五の言葉を思い浮かべて憂さをはらしたくなるのである。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 13 ちょっと寄り道(2)──本多秋五の『志賀直哉』   2019.9.3

 

 

 寄り道ばかりだけど、どうにも紹介したいので。

 本多秋五は、岩波新書『志賀直哉 上・下』を1990年に刊行している。この本は、ずっと前に買ったのだが、数年前に「自炊」してパソコンに格納してあった。ぼくがそのころ自炊した本は3000冊に及ぶので、なかなか一覧できず、この本があったことに気づかなかったのだが、たまたま今日検索にひっかかり、なんだこんな本があったんだと思って、その「はしがき」を読んだら、とてもおもしろかった。こんな率直な「はしがき」ってめったにない。謙遜といえばそうなのかもしれないが、嘘のない謙遜で、この人のどこかとぼけた人柄が実に味わい深い。

 著作権の問題もあるかもしれないが、「はしがき」なので、許してもらえると勝手にきめて、全文を引用しておく。おとがめを受けたらすぐに削除します。

 

  

 はしがき

 

 これは、一九八三年五月から八六年一月まで足かけ四年間、「群像」に隔月連載した『晩拾志賀直哉』を読み直して、訂正加筆したものに、短い「結び」を加えたものである。

 私は旧制高等学校(旧制第八高等学校、現在の名古屋大学の前身。山本注。)三年間の後半に、藤枝静男の影響のもとに志賀直哉を読んで、はじめて文学に眼を開かれた思いをした。一番よく話し合ったのは文科乙類同級の平野謙で、文学書の多読ということでは彼は私よりはるか前方を歩いていたが、藤枝から志賀文学を学んだ点では、彼も私とほぼ肩を並べていたといえよう。

 その後、私はプロレタリア文学への傾斜やトルストイの『戦争と平和』への没入などによって、志賀直哉から遠ざかった時期もあったが、戦後数年して、いわば文芸思潮としての「白樺」派全体のなかに位置づけて、志賀直哉を読み直すようになった。

 一九六〇年代のいつか、私は一篇の志賀直哉論を書いてみたいと思いはじめた。それから間もなく岩波書店から、新書の一冊として『志賀直哉』を書かないかとの交渉を受けた。私は喜んで承諾した。しかし、実際にはいつまでも着手できなかった。

 七九年に明治大学を停年退職したとき──ということは満七十歳をすぎた年ということになるが──これからは人生の残務整理に専念するのだ、と自他に宣言した。その残務整理の筆頭課題が志賀論であった。

 私は「ダモクレスの剱、頭上にあり」などと自己鞭撻したりしたが、思わぬ仕事が横合いから押しこんで来たりして、一行も書かぬうちに、また四年の歳月がたってしまった。

 それまでは、志賀論のペンをとるにはいろいろの意味でまだ蓄積が不十分である、もう少し蓄積に励まねばと思っていた。ところが、そのうちに人名や地名がとっさに思い浮ばなかったり、時間の遠近法が怪しくなったりする老化現象に気づくようになった。人間の脳には一四〇億の神経細胞がある(今では一兆ともいわれるが、そのころは一四〇億といわれていた)が、三十歳をすぎると毎日五万個づつ死滅し、これは再生しないとあるのをどこかで読んだ。いつか蓄積と死滅が釣り合う日が来る。

 その日以後は、死滅の方が蓄積を上まわるようになるだろう。これではならぬ。蓄積十分になる日を待っていたら、頭のなかは真白なスクリ―ンになってしまう。見切りをつけて出発せねばならぬと思った。

 しかし、私は長年の経験によって、自分が何ものかに追い立てられないと書けない人間であることを知っていた。そこで岩波新書は書下ろしが建前ではあるが、最初は「群像」に一部分づつ連載することを認めてくれ、その代り最後に総括的な一章をつけ加える、と頼んだ。「群像」に対しては、宿願の志賀直哉論を連載させてもらいたい、ただし、岩波新書に『志賀直哉』を書くことは昔からの約束なので、完結した場合、単行本はそちらから出すことを諒承してほしい、と頼んだ。両方とも難色を示さないではなかったが、結局、この身勝手な希望を容認してくれた。

 四年たって、連載は八六年の新年号で終った。やれやれと思った。新年号は前年の一二月初めに出る。ここで一休みして(怠け者の私は休むことが大好きである)、正月がすぎたら早速読み直しにかかろう。順調にすすめば来年桜の花の咲くころには本が出るだろうと思った。

 年が明けて、読み直しにとりかかってみると、南無三宝、気に入らぬところがべた一面である。私の難行苦業はこのときからはじまった。最初の原稿を書くときは、骨は折れたが、そこに楽しみもあった。こんどは純粋の苦役である。おまけに八七年の夏には老人結核の再発(最初のときは「群像」の連載を休まずに約一年で治癒した)を宣告された直後に、ある夜不意に急性膵炎におそわれて一ヵ月入院した。ここが大切なところだが、このときを境にして、ボケ症状がさらに進行したことがだんだんにわかってきた。

 老化の兆候が見えはじめたころに着手した著作に、ボケ症状があきらかに深まった頭で訂正を加えたという、変てこな本がここに出来上がった。私は恥しい。しかし、執念はある。志賀直哉の作品は永く読みつがれるだろう。それら志賀読者のうちには、この書物のなかに前後六〇年の読者、八十歳を越えた老人でなければ書けない数行ないしは数ページを見出してくれる人があるかも知れない。それが私のひそかな望みである。

 最初は、文学に目覚めるころの回想もまぜて書くつもりで、魯迅の『朝花夕拾』の連想から『晩拾志賀直哉』の表題を掲げたが、いざ書いてみると回想を交える余裕はほとんどなかった。そこで、この本では「晩拾」を削って、単に『志賀直哉』と題した。

 この本の最初の担当者で、気長に親切に遇してくれた都築令子さんと、実際に編集の仕事がはじまってから、一切の面倒を引き受けて、辛抱づよくここまでに仕上げてくれた小川寿夫氏に、心からの感謝をささげる。

この「はしがき」では西暦を使っている。本文で原則的に明治・大正・昭和の元号を使っているのは、志賀全集付録の年譜に照応させたのである。

 一九八九年―一月

             本多秋五

 

 この文中の「私は恥しい」のところで、思わず吹き出してしまった。こんなてらいのない表現はそうそうできるものではない。恥ずかしいけれど、「執念はある」。志賀直哉の魅力を伝える執念だ。しかも、本多秋五ならではの数行、あるいは数ページ。

 「前後六〇年の読者、八十歳を越えた老人でなければ書けない数行ないしは数ページ」とは、果たしてどういう数行、数ページだろうか。

 それにしても、70歳を過ぎてもなお「蓄積が足りない」という本多は、自分を怠け者だというけれど、やはり努力の人である。しかも、『群像』に連載して、「岩波新書」で単行本にするという契約を最初から取り付けるところなんぞは、なかなかのワガママだ。それを承諾する出版社もエライものだ。

 ぼくは間もなく70歳を迎えようとしているわけだが、本多のように「残務整理」など思いも寄らない。「残務」があるということは、それなりの「業績」があるということで、ぼくには最初から残すべき「仕事」もなければ、なしえた「業績」もない。ただただベンベンと日を暮らしてきたにすぎない。これからもそうだろう。けれども、この本多秋五の文章を読んで、なぜか、清々しい気持ちになるのはなぜだろう。

 さて、この本多秋五の著書としては『白樺派の文学』を最近手元において読んでいるのだが、ずいぶん前に、『物語 戦後文学史 上・中・下』(岩波現代文庫・2005年刊)を面白く読んだことがある。その時の印象を書いたエッセイがあるので、これも全文引いておく。こちらは自分の文章だから著作権を気にすることもない。

 

 

     分からないこと

 

 大岡信という詩人かつ評論家は、若い頃「理解魔」というあだ名がついていた。大岡信は、朝日新聞に長いこと連載されていた「折々の歌」の著者として一般的には知られているが、その彼が「理解魔」とあだ名されたのは、その批評活動の幅広さもさることながら、どんなものに対しても恐るべき理解力で消化したからだった。この人には理解できないものなんてない、といった趣があったのだろう。東大の国文科出身であり、家も学問的な雰囲気に満ちていたようだから、この切れ味するどい批評家に対して半分やっかみもあったのかもしれない。

 大岡信ほどではなくても、世の中には「理解魔」とでもいいたくなるほど、何でも分かっている人が多いものだ。どんなことに対しても、そこそこイッパシの口をきき、「それ分かんない」とか「そんなこと知らない」などとは口が裂けても言わない人。そういう人をみると、たいしたもんだなあと思い、心から羨ましくも思い、その挙げ句、それにくらべてこの俺はとコンプレックスに苛まれるのがオチだった。

 そんな日々を物心ついた時からずっと過ごしてきたような気がするのだが、最近、本多秋五の「物語戦後文学史」を読んでいたら、何とも面白く、時のたつのも忘れて読み耽った。こういう本は、ある程度戦後文学を読んでいないと何のことやら分からないから、まあ一種の専門書のようなもので、この本が世に出た一九六六年といえば、ぼくがまだ高校生の時代、確か大学の頃に少し読んだような気もするが、いずれにしてもその頃のぼくにはやはりちっとも面白くなかったろう。それが、ようやく今になって、「面白く読める」ということに、オコガマシイが自らの成長を今更ながら実感し、嬉しかった。

 しかし、そんなことを自慢したくて書いているわけではない。本多秋五がこの本の中でたびたび口にする「あのころはよく分からなかったが、今になると分かるような気もする。」とか「○○という作家を彼は完全に否定したが、そんなに否定していいものかと当時は思っていた。」とかいった率直な言葉にひどく惹かれたということを書き留めておきたかったのだ。

 何でもかんでも理解できなくてもいいのだ。無理して分かったようなフリをするより、分からないことは分からないと素直に言えばいいのだ。むしろそのほうがずっと大切なことなのだ。そんなふうに思ったのである。何でもないことのようだが、ぼくには大事な「発見」だった。

 

        2005年10月(「100のエッセイ 第5期・7)

 

 

  ここでもぼくは本多秋五の「率直な言葉」に惹かれている。

  本多の書く文章は、誠実そのもので、自分をエラくみせようなどという魂胆はカケラほどもない。分からないことは分からないと言い、ボケてきたらボケてきたと言い、それでも執念を隠さない。ものを書く人間はこうでなくちゃいけないと思わせるものがある。

  その本多秋五の『志賀直哉』もこれからは手元において、『暗夜行路』を読み進めていきたい。


 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 14  志賀と小津、あるいは性欲の問題 「前篇第一  三 」その2   2019.9.14

 

 

 「待合」での話は、謙作の結婚話だった。

 

 石本の話というのは謙作の結婚の事だった。
 「実は信行に頼まれた事なんだがね」こんな風にいった。「信行は自分が独身(ひとりもの)でいながら、君にそれをいうのは変な気がするらしい。しかしもし君にその気があれば僕たちは本気でいい人を探したいと思うんだが……」
 謙作は断った。
 「何故」
 「他(ひと)にそういう心配をしてもらいたくないんだ」
 「何故だい」
 「何故でも厭だ」謙作は不愛想にいった。彼は凝(じ)っと自分を見詰めている石本から顔を反向(そむ)けて、庭の方を見ながら黙っていた。彼は我れながら石本に会うと如何にも駄々っ児らしくなる自分を変に思った。そして、「第一君のそういう老婆心が《うるさい》んだよ」と附加えた。
 「それじゃあ、よそう」石本も白けた気持で答えた。そして、二人は暫く黙っていたが、石本は直ぐまたくどくどと始めた。謙作が何かいおうとすると、
 「まあ、僕のいう事だけいわしてくれ」といった。謙作は苛々しながら聴いていた。
 しかしとうとう彼は、
 「もう閉口だ」と露骨に不快を現わして、それを遮った。
 石本は急に笑い出した。謙作も思わず笑った。

 

 なんだか小津の映画を見ているような感じがする。特に最後に二人が笑い出す感じが小津風。もちろん、会話のぶっきらぼうさも。別にこれは目新しいことでもなんでもなくて、小津は志賀直哉を尊敬していたのだし、交流もあったわけだから影響は小津が受けたということだろう。

 小津は志賀の作品を映画化していないが、里見怩フ作品は映画化している。『彼岸花』『秋日和』がそれだ。まあ、里見も小津も鎌倉在住だったからね。それに最近知ったことだけど、小津の映画の制作に長く係わってきた山内静夫さんは、里見怩フ四男なのだそうだ。山内さんは今年94歳でご健在。最近エッセイ集『谷戸の風』を出版された。この本の挿絵(版画)を、知人が担当したので送ってくださったので知ったというわけだ。

 小津安二郎と志賀直哉というのも興味深いテーマだけど、そんなところに深入りしていては、肝心の『暗夜行路』がどこかへすっ飛んでしまうので、今はそこそこにしておきたい。

 で、小説に戻るけど、この会話の流れというものは、実に興味深い。

 「『実は信行に頼まれた事なんだがね』こんな風にいった。」というところは、欧米風。(he saidを挟む言い方だったっけ?)その後の石本のセリフを「……」で省略しておいて、改行したかと思うと、いきなり「謙作は断った。」と書く。そうしておいて次行で「何故」だけ。

 くどいけど、会話の部分だけ取り出すと、小津映画のシナリオみたいになるよね。

 謙作はどうして「厭」なのかを話す。

 

 謙作は今の自分は精神的にいい状態にいないのだという事、そして他人に対し、変に疑い深くなっていて、とても人頼りの結婚などは思いもよらないというような事を話した。彼は今、愛子の事をいい出したくなかったが、信行でも石本でもが、殊更に結婚の話を持出すのは明らかに愛子との事があったからだと思うと、やはりそれをいうより仕方がなかった。
 「今、僕は愛子さんとの事を書いているんだが、どうしても彼方(むこう)の気持が分明らない」
 こんな事もいった。
 彼は石本の好意には礼をいった。しかしこれからの自分には余り立入ってもらいたくないという事もいった。
 石本は少し淋しい顔をして黙ってしまった。丁度女中が食事を持って来た。間もなく二人は気楽な事に話を移した。そして気楽な気分にもなって行った。

 

 あれ? 「愛子の事」って何? とつまづく。

 今まで一度も「愛子」なんて出てこないじゃないかと思って調べたら、一カ所あった。阪口の小説が自分をモデルにしてるといって怒っている冒頭近くの場面で、

 

今の謙作は阪口に対しては極端に邪推深くなっていた。前に彼を信じていただけに、それを裏切られた今は、事々にこういう邪推が浮ぶのであった。殊に愛子との事以来、それは甚だ面白くない傾向だと知りつつも、彼は妙に他人(ひと)が信じられなくなった。

 

 とある。いやはや小説を読むには、記憶力が重要だ。ぼくみたいに物覚えが悪い人間は、小説には向かないのかもしれない。そういえば、ぼくは歴史小説がとても苦手。登場人物が多すぎて覚えきれないからだ。

 しかし、それにしても不親切な書き方だ。読み進めれば、いずれ分かることなんだろうが、もうちょっと説明が欲しい。まあ、とにかく謙作は、今は結婚の話は不愉快以外の何ものでもないことは確かで、その理由は「愛子の事」にあるらしいということが分かればいいやということで先へ進む。

 実は謙作の頭は芸者の登喜子のことで一杯なのだ。

 

 「君の奥さんに似た人を見る興味はないかい?」謙作は先刻(さっき)からいい出したかった事をいって見た。登喜子の事を話したいという慾望にも誘惑されたが、石本を誘う事で行く理由を作りたい気もあった。
 「別に興味もないが、一体何処にいるんだい」
 謙作は登喜子の事を話した。そして、
 「どうかすると非常によく似ているんだ」といった。
 「そのうち連れて行ってもらおう」石本はこういったが、それに余り興味はないらしかった。

 

 ますます小津風。石本はさしずめ中村伸郎だろうね。

 謙作が、登喜子が石本の奥方に似ているということを話して、石本が興味を持ったら一緒に登喜子に会いに行こうなんて思うところ、なんといったらいいのか分からないイヤらしさがあって、そういうところも小津風だ。

 登喜子に惹かれる気持ちがイヤラシイというのではない。美人に惹かれるのは当然だろう。でも、なんで、その芸者が友達の奥方に似ているからといって、その当の友達にわざわざ言うのか。自分の女房に似ているホステスがいるからといって、そのバーにのこのこ出かけて行く男っているのだろうか。石本も石本で、「別に興味もないが、一体何処にいるんだい」って、何なのか? 挙げ句の果てに「そのうち連れて行ってもらおう」と言う始末。もっとも「余り興味はないらしかった」ということだが。

 この「迂回ルート」が何ともイヤラシイと思うのだ。友人の女房に似ているから行ったんだと言えば、芸者と遊ぶ後ろめたさが回避できると思ったということなのだろうか。

 小津の映画にも、こういったイヤらしさを感じることは度々あって、今、どこ、と指示することはできないが、男の性的なイヤらしさが小津の映画には随所にある。それが別にいけないというわけじゃないけど、時としてどうにも我慢がならなくなることがある。

 それは、たぶん、まだ遊郭があったころの日本人男性が普通に持っていた体臭のようなイヤらしさであって、何も小津特有のものではないけれど、小津の映画にはそれが特に強く感じられるとぼくは感じているわけである。それは、小津の表現が直接的ではなくて、一見上品そうに見えるところから来るような気もするのだ。

 まだ遊郭があったころの日本人男性が普通に持っていたイヤらしさと書いたけれど、じゃあ、遊郭がなくなった現代にはもうそういうものはないのかというと、そんなことは全然なくて、今ではむしろそのイヤらしさがあまりに日常に露骨になっているので、感覚が麻痺してしまっているというべきだろうか。

 いずれにしても性欲あっての人間なのであって、それを無視して人間は描けない。まして志賀直哉は、この性欲の問題に若い頃とことん苦しんだとあっては、イヤラシイとかそんなレベルでは語れない問題なのである。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 15  和蝋燭の愛 「前篇第一  三 」その3   2019.9.21

 

 登喜子のことで頭がいっぱいのはずの謙作なのだが、石本と別れると、ふと恋愛の永続性について考えを巡らすのだった。


 石本と別れて、彼は自家(うち)まで歩いて帰った。途々(みちみち)石本が誰かの言葉としていった「若い二人の恋愛が何時までも続くと考えるのは一本の蝋燭が生涯点(とぼ)っていると考えるようなものだ」というのをふと憶い出した。「しかし実際そうかしら?」と彼はまた思った。この言葉は懐疑的になっている現在の彼には何となく悪くない響きもあったが、そう彼が思ったのは、彼の実母の両親の関係が彼に想い浮んだからであった。二人は愛し合って結婚した。そして終生愛し合った。「なるほど最初の蝋燭は或る時に燃え尽されるかも知れない。しかしその前に二人の間には第二の蝋燭が準備される。第三、第四、第五、前のが尽きる前に後々(あとあと)と次(つ)がれて行くのだ。愛し方は変化して行っても互に愛し合う気持は変らない。蝋燭は変っても、その火は常燈明のように続いて行く」この考は彼に気に入った。そして、母方の祖父母は実際それだったに違いないと考えた。彼は先刻(さっき)石本にそれをいってやれなかった事を残念に思った。すると、不意に、
 「しかし西洋蝋燭は次げないネ」と石本がいったような気がした。ところが、同じ想像の自分が、
 「その二人は純粋に日本蝋燭なんだよ」と答えた。
 彼は歩きながらこんな事を考えて独(ひとり)でおかしくなった。
 そして彼には死んだ祖父母の姿が懐しく憶い浮んだ。


 若い頃の恋愛は、はかないもので決して長続きなんかしないという例として、「一本の蝋燭が生涯点(とぼ)っている」はずがないという石本の言葉は、謙作には「悪くない響き」を持っていたが、一方でそうでない例も謙作は知っていた。生母の両親、つまりは祖父母のことだ。

 ここで比喩として持ち出されるのが、蝋燭が「後々と次がれていく」ということだ。ところが、不意に石本が「しかし西洋蝋燭は次げないネ」と「いったような気がした」謙作は、想像の中で「その二人は純粋に日本蝋燭なんだよ」と答える。

 日本蝋燭、つまり和蝋燭は「次げる」けれど、西洋蝋燭は「次げない」というわけだが、それはどういうことかが分からない。西洋蝋燭だって、次から次へと継いでいけるではないかと思った。いったいどこが違うのか。

 それでネットで調べた。「和蝋燭」「継ぐ」で検索をかけたのだ。すると、見事にヒットした。「和蝋燭を継ぐ」という動画があったのだ。その動画の字幕を引用すると、

 

和ろうそくは洋ろうそくと違い灯芯が筒状の為、短くなった蝋燭の穴に新しい蝋燭を突き刺すことで、ロケット鉛筆の様に継ぎ足すことができます。古い蝋燭の芯と新しい蝋燭の芯が結合することで、新しい蝋燭の芯に火が引き継がれ灯り続けます。


 というわけだ。動画を見ると、なるほどその通りで、これは西洋蝋燭にはできない芸当である。(動画はこちらのブログバージョンからご覧ください。)

 和蝋燭を使っているお寺さんなどでは常識なのかもしれないが、これにはほんとにびっくりした。調べてみるものである。

 このことを知って、改めてここを読んでみると、「蝋燭は変っても、その火は常燈明のように続いて行く」ということが、何かしみじみとした実感を伴って理解される。西洋蝋燭だって、一本が消える前に新しい一本にその火を継げば、火は続いていくわけだし、オリンピックの聖火にしても、まさにそのようにしてリレーされていくのだが、和蝋燭の継がれ方は、芯が結合するところがまったく違っていて、その継続性がどこか神秘的ですらある。そして、それが「愛の持続」の見事な比喩となっている。

 若い頃の恋愛が、生涯続くということは稀なことなのだろうが、少なくともぼくの場合は、妻とは高校三年以来の付き合いで、その間に「離れていた期間」すらないので、別にそれほど珍しいという意識はないのだが、果たしてそれが、和蝋燭のような持続だったのかというと甚だ心許ない。ただとてもつもなく長い西洋蝋燭が、細々と灯り続けてきただけのような気もする。

 それはそれとして、謙作は、一方で芸者の登喜子に惹かれながら、生涯持続する愛の形に憧れていたことは確かなようだ。その愛が登喜子との間に育まれるものだという意識はたぶんなかっただろうけれど。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 16 キリスト教の戒律 「前篇第一  四」その1   2019.9.30

 

 

 謙作は、不愉快な夜だったのに、登喜子のことが忘れられない。


 謙作はやはり登喜子の事が忘れられなかった。彼はあの不愉快だった二、三日前の夜を憶い、軍師拳で登喜子と並んでいた時の事などを想うと、不思議な悩ましさが胸に上って来た。彼は自分で自分の指を握って見て、握る時の感覚と、その握られた感覚とを計って見たりした。それも両方が自分では明瞭(はっきり)しなかった。しかし、彼は登喜子に深入して行かずにはいられないほどの気持になっているとは我れながら思えなかった。ただこのままで自分のこの気持を凋ましてしまうのは何となく惜しい気がした。


 バカなことをするものである。自分で自分の手を握ってみたところで、登喜子の手の感触が蘇るわけはない。けれども、ウブなころというものは、誰でもこんなことをするものだろう。はっきりとした記憶はないが、なんとなくぼくも似たようなことをしたような気がする。こうした「バカなこと」を、真面目に文章化する志賀直哉という人も不思議な作家である。

 登喜子への思いがそれほど深いとも思えないけれども、今の「不思議な悩ましさ」を抱える自分の気持ちを「凋ましてしまうのは何となく惜しい気がした」というのも面白い。

 自分を実験動物のように見ているのだろうか。このままこの気持ちを凋ませないで、先へ進めていったらどうなるのかしら、といった興味。その興味がやがてそれでのっぴきならない所に追い詰められたらどうなるのか。そこから果たして引き返せるのか。謙作の、そして志賀直哉の放蕩の始まりである。


 それにしろ、そんな下心を自ら意識しつつ出掛けて行く事は、相手がそういう職業の女にしろ、如何にも図々しく、気がひけた。
 とにかく、何かしら表面的にも行くだけの理由がなければ彼には出掛けられなかった。それにはやはり石本を誘うより仕方がないと思った。
 彼は早速石本に端書を書いた。しかし何枚書いても書き損いをした。石本を利用するという意識が邪魔になった。結局端書をよして、電話を掛けに行った。

 

 前から直接続いている部分だが、「そんな下心」というのは、「不思議な悩ましさ」を先へ進めたい、つまりは自分の性欲を満足させたい、という「下心」だ。登喜子は「そういう職業の女」なのだから、むしろそういう「下心」は正当な理由になるわけだが、「そういう下心」があることを自分自身が「意識しながら」出かけていくことは「如何にも図々しく、気がひけた」という。今風に言えば、メンドクサイ奴、あるいは偽善者ということになるのかもしれないが、ここは志賀直哉にとってはとても正直な思いなのだ。

 その背景にはキリスト教の問題がある。

 志賀直哉は、明治33(1900)年、18歳のときに、「初めて内村鑑三を訪ね、以後七年間その門に出入りした。」(中村光夫著『志賀直哉論』年譜)25歳のときに、「夏、自家の女中と結婚しようとして、父と争う。この年内村鑑三から離れた。」(同書)

 明治の文学者にとって内村鑑三の存在は非常に大きい。特に志賀直哉の場合は、7年間もその門に出入りしていて、内村の思想に深く傾倒していたのだ。しかし、結局はそこから離れてしまう。その大きな理由は「性欲」の問題にある。内村門下ではないが、岩野泡鳴にしても、島崎藤村にしても、キリスト教の洗礼まで受けながら、やはり離れてしまう。それぞれに共通するのは、やはり「性欲」の問題のようだ。

 本多秋五の『志賀直哉』は、志賀直哉における「性欲」の問題を重視していて、その第一章は「性欲と戒律」と題されている。ここで詳しくは紹介できないが、要するに聖書で禁じられている「姦淫」とはどういうことを指すのか、ということが問題になっている。

 確かに「十戒」の中にも、「姦淫するなかれ」と言われているとおり、「姦淫」は大罪であろうが、そもそも「姦淫」とはどういうことを指すのか、それがはっきりしない。「姦淫罪は殺人罪と同程度に重い」と教えられた主人公が自慰行為をも「姦淫罪」と考えて「お前は人殺しの罪人だぞ」と言われたように感じるという志賀の小説『関子と真造』が紹介されているが、いくらなんでもそれは拡大解釈だろうと本多は言っている。

 この本の中では「姦淫」の定義がいろいろ紹介されているが、結局のところ、言葉は古いが「婚外交渉」は「姦淫」だという点では共通している。従って、罪を犯さずに、女性と性的な交渉をしたければ、まずは結婚することが必須となるわけで、25歳の志賀直哉が、「自家の女中と結婚しよう」としたのも、ここに理由があると考えられる。内村から離れかかっていても、あるいは離れても、そういう一種の「戒律」が志賀の中に消しようもなく残っていたわけである。

 このことを念頭におけば、芸者の元に「下心」を持って出かけることに気がひけるという志賀の気持ちがよく分かる。「罪の意識」から自由になっているわけではないのだ。それと同時に「如何にも図々しい」と志賀が感じるところに、「罪の意識」を超えた志賀の人間への基本的態度のようなものが見える気がする。

 自分の欲望をあからさまにして、そういう女に向かうことへのためらい。たとえ自分の性欲を満たすための行為だとしても、それがどこか男女の自然の付き合いから生まれたかのように装いたいという気持ち。あるいは人間への敬意。

 このある意味潔癖な倫理感は、「石本を利用するという意識が邪魔になった。」という正直な告白にも表れている。後ろめたさがあると、まともに文章も書けないという潔癖さ。文章というものは、むしろ偽りの自分を表現しやすいものなのに、志賀はあくまで自己に忠実であろうとするあまり、嘘が書けないのだ。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 17 「好き」の程度 「前篇第一  四」その2   2019.10.6

 

 どうしても登喜子に会いたい謙作は、石本を誘って、明日行くことにした。けれども、金がない。いったい当時の吉原で遊ぶにはどのくらいの金が必要だったかよく分からないが、登喜子はかなり高級な芸者だから、そんな安いことはないのだろう。

 謙作は、本を売って金を作ろうとする。その際に、自分がもっている浮世絵もみんな売ってしまおうと思って骨董屋に持っていくのだが、いかにもうさんくさい骨董屋に、売る気も失せて持ち帰る。で、その浮世絵を、家で謙作の帰りを待っていた竜岡に譲ろうとする。

 

「これでよかったら、お餞別に進呈しよう」と謙作は今持って帰った浮世絵を包のまま、竜岡の前へ出した。
「ありがとう。しかしこれは君のコレクションの全部じゃないか。こんなに貰っちゃあ、済まない。僕はどうせ人にやる心算(つもり)なんだから、いい物だけを取っておいてくれ給え」
「いいんだ。皆とってもらう方がいいんだ」
二、三日前の夜の話が出た。
「あの登喜子という芸者はなかなか立派だね」と竜岡がいった。
「そうかしら?」謙作は不意に拘泥した気持から、こんな風にいってしまった。もっとも彼は普段から綺麗という言薬と立派という言葉とを多少区別して考えていた。立派という中には大きさあるいは豊さという要素もなければならぬと彼は思っている。ところが、登喜子の美しさにはそれらはなかったから必ずしも彼の言葉は偽言(いつわり)ではなかった。が、実は彼が拘泥したのは「もし竜岡も……」という疑問が不意に想浮んだからであった。
「立派というより普通、美しいという方だろう」謙作は最初の否定的に響いた言葉をこう訂正した。
「つまり、そうさ」
「君は登喜子が好きかい?」謙作は思い切って訊いて見た
「そう訊かれると困るが、君はどうだい」と竜岡は反問した。
謙作はちょっと困った。彼は自分で自分の顔の赤くなるのを感じながら、
「僕は好きだ。しかしもし君が好きなら、僕は遠慮するよ。それが出来る程度だから」といった。
竜岡は大きな身体を揺すって笑った。そして、
「その遠慮は要らないよ。第一僕はもう二ヶ月すれば彼方(むこう)へ行ってしまうんだ」といった。
「うん」
「しかしそれはよかった」竜岡はなおにこにこしていった。「この間君が何だか不愉快そうな顔をしていたので、あんな場所へ君を誘った事に気が咎めていたのさ」
「不愉快は不愉快だったよ」
「どうして」
「阪口の調子が厭だったじゃ、ないか」
「阪口のこの頃は何時だってああだろう」
謙作は黙っていた。
「じゃあ、また行って見る気があるネ?」
「明日石本と行くつもりだ」
「それなら、今晩僕と行こうか」

 

 結局浮世絵は全部竜岡に譲ったのだろうか。「いいんだ。皆とってもらうほうがいいんだ」の後、いきなり「二、三日前の夜の話が出た。」と登喜子の方へ話がとんでしまう。遊ぶ金ほしさに古本を売ろうとする謙作なのに、浮世絵は惜しげもなく友人にやってしまう。基本的に金持ちなのだ。それにしても、説明不足。というか、むしろ志賀直哉の本領発揮といったところ。この際、浮世絵を「全部」竜岡に譲ろうが、「一部」譲ろうが、どうでもいいことだ。どうでもいいことは書かない。それが志賀直哉の流儀だ。

 竜岡の「あの登喜子という芸者はなかなか立派だね」という言葉に、謙作は拘る。

 「立派」と「綺麗」は違うというのだ。確かに違う。今では女性に対して「立派」だといったら、たいていは、その生き方についてだろう。容姿について「立派」はあまり使わない。しかし当時は使ったようだ。竜岡はどういう意味で登喜子が「立派」だといったのか分からないのだが、謙作はそれを自分の理解する「(肉体的)大きさあるいは豊さ」の意としてとり、それに「そうかしら?」と軽く反論したわけだ。それは嘘ではなかったと謙作は言う。どこまでも嘘が嫌いな謙作である。

 ここを分かりやすく言えば、竜岡は「登喜子はボインだね。」というので、謙作は「そうかなあ」と答えた。実際に、登喜子は美人だったけどボインじゃなかったんだから、オレの言葉に嘘はなかった、ということになるだろう。その程度のことなのに、「綺麗」と「立派」は違うなんて、ずいぶんと回りくどい。しかも問題は実はそっちにはない。登喜子を竜岡が褒めたのに対して、自分はそれに異を唱えるようなことを言ってしまった。それはなぜかというと、「『もし竜岡も……』という疑問が不意に想浮んだから」だという。

 もしかしたら竜岡も登喜子が好きなのだろうか? しかしそれなら「立派」なんて言葉は使わないんじゃないのか。好きなことをオレに隠してるから「立派」なんて言葉を使ってるんじゃないのか? という疑問。

 で、「立派というより普通、美しいという方だろう」と言い直す。つまり、君は登喜子を「美しい」と思わないのか? という疑問にしたのだ。すると竜岡は「つまり、そうさ」と答える。竜岡は「綺麗」も「立派」も厳密には使い分けていないらしい。しかし、「美しい」と言わなかったのは、やっぱり謙作が思ったとおり、ちょっとした遠慮からだった。微妙に使い分けていたのだ。

 それを知った謙作は、いきなり「君は登喜子が好きかい?」と聞く。それに対して竜岡は、「そう訊かれると困るが、君はどうだい」と言う。つまりは「好き」なのだ。しかし好きは好きでも、深入りするつもりはない。だって、もうすぐ洋行する身なのだ。

 謙作は、竜岡が好きなら譲るという。「それが出来る程度」に登喜子を好きなのだという。もちろんほんとのところは分からない。謙作は自分の心が分からないのだ。今は、頭で考えて、自分の登喜子への好意は、「それができる程度」でしかないと判断しているのだが、そんなことはそうなってみないと分からない。

 竜岡は、芸者の登喜子に対して「好き」も「嫌い」もただ遊びの範囲でしか考えていないわけだが、謙作は、あくまで真面目で真剣だ。そんな謙作を竜岡は、「ウブな奴だなあ」ぐらいに思っているのだろう。謙作の言うことに大笑いして、むしろ、そんなふうに吉原に入れ込みつつある謙作に、自分の「案内」は結局よかったのだと安心するのだ。

 「明日」、石本と行くはずが、「今日これから」竜岡と行くことになってしまった。肝心の言い訳の「登喜子は石本の妻に似ている」は、どこかにふっとんでしまった。

 その夜9時に、二人は「西緑」へ行ったが、登喜子はいなかったので、結局、帰ってきた。

 翌日は雨だった。


 翌日彼は八時頃眼を覚ました。戸外では烈しい雨音がしていた。樋を伝いきれない水が二階の庇から直接、地面まで落ちる、その騒がしい響を聴きながら彼は困った降りだと思った。雨は別に困らないが、この降りの中をも行くという事が、相手にはどうしても気軽な事とは解(と)れないだろうと思うと、彼は重苦しい気持になった。第一、石本がこの雨では如何(どう)かとも考えた。その上、自分が似ていると思っても「これが……?」といわれる場合を思うと気遅(きおくれ)がした。


 雨の描写がいい。雨水がどこをどう伝わって地面に落ちようとこの際どうでもいいことではないか、というと、そうでもない。先ほどの、浮世絵譲渡の件は、ほんとうにどうでもよいことで、話の展開には係わらない。しかし、ここでの雨は、謙作の心の逡巡を描く重要な背景画となっている。そういうところはきちんと書くのだ。「樋を伝いきれない水が二階の庇から直接、地面まで落ちる」なんて表現は、さりげないけれど、実景を如実に浮かび上がらせて見事なものだ。

 謙作はどうしても登喜子に会いたいのだが、相手には、自分が真剣だと悟られたくないという気持ちがある。できれば「気軽な事」ととってほしい。ほんとうは真剣なんだけど、自分が相手にぞっこんで、夢中になってしまっているとは思われたくない。それは、登喜子とのことを遊びですませたいということとは違うが、どこか、本気になってしまうことを恐れているのかもしれない。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 18 本の値段、そして遊郭への道 「前篇第一  四」その3   2019.10.12

 

 頼んでおいた古本屋が来た。「総てで五十円ほどになった。」とある。

 この50円という金額に驚く。昔の1円って今でいうとどのくらいにあたるのかは、ネットで調べればだいたい分かる。それによれば、まあ、だいたい「明治時代の1円は現在の2万円」となるらしい。明治30年頃の小学校の教員やお巡りさんの月給が8〜9円だそうだ。この部分の話はだいたい大正2年ごろのことなので、ちょっとズレるけれども、単純に計算して、50円という金額は、小学校の教員やお巡りさんの月給の約6倍ということになる。ちなみに、明治20年ごろの吉原遊郭での最高級遊女の「揚げ代」は3円だという。「1円=2万円」だとすると、6万円。まあ、そんなとこか。つまりは、小学校の先生や巡査は、逆立ちしたって吉原の高級な遊女とは遊べないということだ。まあ、それは現代だって、小学校の先生や巡査は。銀座の高級クラブでは遊べないわけで、遊びの相場というのは時代を超えて変わらないのかもしれない。

 で、「古本を売った金」が100万円となる。すごい金額だ。それを「総てで五十円ほどになった。」とさらりと書くんだからびっくりする。

 古本の他に、謙作は、「母方の祖父の遺物(かたみ)として貰った法外に大きな両蓋の銀時計と、それに附いている不細工な金鎖」を古本屋に見せる。後で金額を知らせるといって古本屋は「大きな風呂敷包を背負って」帰っていく。

 銀時計と金鎖がいったいいくらになったのか、売ったのかやめたのか、書かれていないが、とにかく古本は50円で売ったらしい。しかも、その古本を古本屋は「背負って」帰ったらしい。背負えるのだから、古本の量はたかがしれている。それなのに100万円!

 今から30年以上も前の話だが、やたらと買い集めた個人全集を引っ越しのついでにまとめて神田の古書店に売ったことがある。その時は、ワゴン車に段ボールで10個ほど(数は正確には覚えてない)だったが、確か50万円ほどだったはずだ。それがたぶん古書の値段がピークに近く高かったころだ。当時「平野謙全集」全12巻が、20万を超える値段を付けていたころだ。ちなみに今では2万円でおつりがくる。

 今ならワゴン車一杯の本を売っても、銀座のクラブで遊べないわけで、遊びの相場は変わらねど、古書の相場は暴落したというわけだ。そういえば、この前、『志賀直哉全集全16巻』を3500円で買ったばかり。これをもし売ろうとしてもたぶん100円にもならない。つまりはバスにも乗れない。

 銀座のクラブはどうでもいいが、「本を売る」ということは、明治や大正の時代には、それだけで、借金を返せたり、吉原で遊んだりする為の資金と十分になったのだということは覚えておきたいものだ。

 朝から降っていた雨は、古本屋が帰っていったあとすっかり上がる。

 

 夕方になって雨はすっかり上がった。
 彼は風呂へ入って、さばさばした気持になって家を出た。美しく澄み透った空が見上げられた。強雨(ごうう)に洗われて、小砂利の出ている往来には、それでも濡れた雨傘を下げた人々が歩いていた。
 彼は知っている雑誌屋に寄って、約束通り西緑へ電話をかけた。その後で石本へかけた。
 「今用事の客があるんだが、もう帰るだろうと思う。早かったら是非行く」こういった。なお、石本は大門を入ってどれほど行くかとか、何方側(どっちがわ)かとか、西緑の字まで訊いて、電話を断(き)った。
 三の輪まで電車で行って、其処から暗い士手道を右手に灯りのついた廓の家々を見ながら、彼は用事に急ぐ人ででもあるように、さっさと歩いて行った。山谷の方から来る人々と、道哲(どうてつ)から土手へ入って来た人々と、今謙作が来た三の輪からの人々とが、明かるい日本堤(にほんづつみ)署の前で落合うと、一つになって敷石路をぞろぞろと廓の中へ流れ込んで行く。彼もその一人だった。
 大門を入ると路は急に悪くなった。彼は立ち並んだ引手茶屋の前を縁に近く、泥濘(ぬかるみ)をよけながら、一軒一軒と伝って西緑の前まで来た。

 

 雨上がりの街並みを、謙作が吉原遊郭へと歩いていく様が実に見事に描かれていてうっとりする。「三の輪まで電車で行って」とあるが、まだ開業したばかりの今の「荒川線」のことだろう。

 「三の輪」「山谷」「道哲」「日本堤」と続く地名をたどっていけば、そこに江戸からつづく歓楽街の姿が幻のように浮かび上がる。「日本国語大辞典」の説明をひいておこう。

 

【三の輪(三ノ輪)】
東京都台東区北部の地名。江戸時代は奥州街道の裏街道と日本堤の土手道との交差点にあたり、吉原の近くにあるところから遊女屋の寮などが置かれた。また、土器の産地として知られていた。目黄不動(永久寺)がある。三輪。箕輪。

【山谷】
東京都台東区北東部の旧地名。現在の日本堤・清川・東浅草の一帯にあたる。明暦三年(一六五七)江戸元吉原が火災にあい、代地の浅草日本堤(千束四丁目)に移るまでの間、この地で営業を許されたところから、移転後の新吉原遊郭をさしていうこともある。

【道哲】
江戸時代、浅草新鳥越一丁目(台東区浅草七丁目)日本堤上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五〜五八)の頃、道哲という道心者が庵を結んだところからこの名があるという。吉原の遊女の投込寺として著名。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。土手の道哲ともいう。

【日本堤】
江戸、浅草聖天町(台東区浅草七丁目)から下谷箕輪(台東区三ノ輪)につづく山谷堀の土手。荒川治水工事の一つとして元和六年(一六二〇)につくられ、新吉原通いの道として利用された。吉原土手。土手八丁。土手。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 19 「自然」と「不自然」 「前篇第一  四」その4   2019.10.24

 

 「西緑」に着いた。


 登喜子はもう来て待っていた。お蔦と店へぴたりと坐って、往来を眺めながら気楽な調子で何か話していた。そして、謙作の姿を見ると、二人は一緒に「さあ、どっこいしょ」という心持で起上がった。──と、そんな気が謙作はしたのである。
「お一人?」と登喜子がいった。
謙作は段々を登りながら、
「今に、もう一人来る」といった。
「竜岡さんですか」
「君に似た人といった人の御亭主だ」
「ええ?」
「その人の奥さんが君に似てるんだよ」彼は少し苛々した調子で早口にいった。

 

 国語の試験問題を長いこと作ってきたということを突然思い出した。大嫌いな作業だった。評論ならともかく、小説となると、途方に暮れることが多かった。定期試験なら、授業でやったところから出せばいいのだから、少なくとも小説を探さなくてすむ。けれども、模擬試験やら、バイトでやった受験対策の問題作成やらでは題材の小説から探さなくてはならないので、難儀したものである。

 そんなことを思い出したのも、この部分なら出せるかも、って思ったからだ。最後の行の、「彼は少し苛々した調子で早口にいった。」というところに線を引いて、「謙作が苛々したのは何故か?」って聞けば問題になりそうではないか。解答は、「登喜子とお蔦が、謙作を見るや、さあ仕事だ、やれやれといった感じで、面倒くさそうに起き上がったような気がして、自分が歓迎されていないと思って不愉快になったから。」とでもしておけばよい。

 これで正解なのかどうか。「『さあ、どっこいしょ』という心持」というのは、「面倒くさそう」「大儀そう」ということでよいのだろうか。

 別解として考えられるのは、「石本の妻が登喜子に似ているということを前に登喜子に話したのに、そのことを忘れていたから。」という答え。これも正解かもしれないが、これだけではやはり不十分だろう。そんなことを忘れたからといって、「苛々する」というのはちょっとおかしい。この苛立ちは、そういうこと以前に、謙作の心に生じているもので、それは、そもそも自分がやってきたのを見て「さあ、どっこいしょ」と起き上がった登喜子に対しての「不愉快」であろう。謙作はかほどに敏感な神経を持っているのだ。

 だから本当の正解としては、「せっかくやってきたのに、登喜子が面倒くさそうに起き上がったように思えて不愉快になった謙作は、石本が登喜子に似ているということを以前に登喜子に話したのにそれを覚えていないことに、自分への関心の薄さを見せつけられたような気がして、腹が立ったから。」ということになるだろう。こんなに長い正解では、採点が大変なのは目に見えている。

 「似ていることを覚えてなかったから。」と書いた生徒は、どうしてこれだけじゃダメなのか? 二人が「『どっこいしょ』という心持ち」で起き上がったといっても、それが「めんどくさい」からだとは言い切れないんじゃないか。ただ、ふたりとも疲れていただけなんじゃないか、とか文句を言ってくるだろう。それに対しては、いや、二人が本当に「めんどくさい」って思ったかどうかは分からないけど、そう感じたのは謙作で、謙作がそう感じたということは、それがきっかけで謙作が不機嫌になったということになるんだと、縷々説明しなくてはならない。

 そんなことをいちいち考えなくちゃならないので、試験問題作成ってやつは、それこそメンドクサイのである。そのうえ自分の作った模範解答が果たして正しいのか自信が持てないことがほとんどなので、自己嫌悪までが加わってメンドクサさは倍増するのである。

 

「ああ」と登喜子は笑い出した。「何とかの御亭主だって仰有るんですもの」
餉台(ちゃぶだい)のまわりには座蒲団が一つ敷いてあった。謙作がその一つに坐った時、
「皆さんは?」と登喜子が訊いた。
「竜岡とは昨晩来たよ」
「ええ、それは昨晩ちょっと寄って伺ったわ。それからあの方は……阪口さんは?」
「あれから会わない」
お蔦が上がって来た。そしてこの女も、
「皆さんは?」と訊いた。
謙作はこういわれるたびに何か非難されるような気がした。こういう場所に不馴な自分が、それほどの馴染でもない家に電話まで掛けて、一人で出向いて来る事はどうしても不自然で気が咎めた。石本に見せるという事がなければ、いくら登喜子が好きでも自分は此処へは来られなかったと思った。

 

 謙作は石本と来るつもりだったが、石本が遅れるということで、一人で来た。だから実質上は一人で来たわけではなくて、二人で来るつもりだったが、一人が遅れたので先に着いたというだけのことだ。それなのに、登喜子たちに「皆さんは?」って聞かれただけで、「非難されたような気がした」のだ。「どうしてお連れがいないんですか?」「なぜ一人で来たの? どういう魂胆があるの?」「まさか一人で来て、私を口説くおつもり?」とか、まあ、いろんなセリフが謙作の頭のなかを廻るわけで、いたたまれない思いをしたのだろう。

 謙作にとって「不自然」というのは、許しがたいことなのだ。この場合、いったい何が「不自然」だというのか。遊郭に行くのに、そこの遊女と性的な交渉を持ちたいと思って出かけて行くことが「不自然」だとしたら、「自然」とは何か?

 この文脈からすると、登喜子が石本の妻に似ているから、その石本に登喜子を見せるために、石本を連れて登喜子に会いに行く、ということが「自然」だと謙作は思っていることになるが、それこそ「不自然」の極みではないか。

 こんなふうに考えてくると、試験問題はいくらでも作れそうだが、やっぱりメンドクサイことは変わりない。試験問題はともかく、謙作という男はとことんメンドクサイ奴である。

 登喜子と謙作は、その後、たわいもない話をして時を過ごす。けれども、二人じゃ何もできないから、他の女の子も呼びましょうかと言う登喜子だったが、謙作は呼んでくれとは言わなかった。


 しかし謙作は呼んでもらおうとはいわなかった。彼は今、こうして登喜子と会っている、そして余りに毒にも薬にもならない事を座を白らけさせまいと努力しながら互に饒舌(しゃべ)っている、全体これが、三日も前からあれほどに拘泥し、あれほどに力瘤を入れて来た事と何(ど)ういう関係があるのだろうという気がした。彼は深入した話をしようとは、初めから少しも思ってはいなかった。しかし今話している事は、あるいは話している心持は、余りに浅く、余りに平面過ぎると思った。
 彼はこれがしかし一番あり得べき自然な結果だったとも思い直した。自分が一人角カに力瘤を入れ過ぎただけの事だと思った。そして今日の登喜子はともかくもこの前よりは軽い意味での親みを現わそうとしているのだ。今はそれで満足するより仕方がない。それ以上を望むのは間違いだと思った。

 

 ここでも「自然」が問題となる。登喜子に会いたい、できれば性的な交渉にまで到達したいと思っていたのに、登喜子とこうしてたわいない話をしていることが「一番あり得べき自然な結果」だというのだ。つまりは、登喜子のことは好きで、性的な交渉を望んではいるけれど、どうもそこまで踏み込めない。踏み込む勇気がない。だから、そこまでいかない今の状態のほうが気が楽だ。「これ以上望むのは間違いだ」と思うのだ。

 それが「自然」なのかどうか知らないが、しかし、この謙作の気持ちは分かるような気がする。相手が遊女であれ、本気で好きになった女と、どこまで関係を深めるかは、そんなに簡単なことではない。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 20 「気分」の問題 「前篇第一  四」その5   2019.10.31

 

 

 その日は、小稲という芸者もやってきた。謙作は登喜子と対照的な彼女も美しいと思う。

 

 謙作は総てで丁度登喜子と対照するような女だと思った。姿勢や動作がそうだった。また近くで見ると登喜子の米噛(こめかみ)や頤(あご)のあたりに薄く細い静脈の透いて見えるような美しい皮膚とは反対に小稲は厚い、そして荒い皮膚をしていた。


 こうした皮膚の描写などを読むと、かつて愛読し、今ではほとんど読まなくなった吉行淳之介の小説をふと思い出す。特に『暗室』。そういえば、世間でも、吉行淳之介は最近読まれなくなっているような気がするが、どうなんだろう。そういえば、吉行が亡くなってもう25年経っているのだ。志賀直哉も亡くなってほぼ50年。この半世紀で、世の中はほんとうに変わってしまった。


 謙作は段々に窮屈な気分から脱け出して行った。五、六杯の酒に赤い顔をしている彼は今は気楽な遊びに没頭出来る気持になっていた。
 アルマの烟草を金口の処まで灰を落さないように吸うという競技を始めた。
「ア、ル、マのルまで来た」
「ちょいと見て頂戴」小稲は怖々(こわごわ)、蛍草(ほたるぐさ)を描いた小さい扇子で下を受けながら、それを謙作の前へ出した。
「ようよう、アの字にかかった所だね」
「字がおしまいになってからもまだ二分ばかりあるのネ。こりゃあ、とても金紙までは持たないわ」こういって小稲は笑った。
 登喜子は黙って、脣(くちびる)を着けたまま、ただ無闇にすっぱすっぱ吸っていた。その内小稲の方の灰がポタリと落ちると、小稲は「あっ」といってちょっと体を《はずます》ような事をした。その拍子に登喜子の方の灰もポタリと餉台(ちゃぶだい)の上に落ちてしまった。
「ああ、小稲ちゃん!」登喜子は怒ったような真面目な顔をして、横目で小稲の顔を凝(じ)っと見た。
「登喜ちゃん、御免なさい」
「…………」
「ね、御免なさい」といって小稲は笑った。
「お前さんが始末するのよ。よくって?」登喜子は指に残った金口を灰吹ヘジュッと投込むと、そのまま起って、
「この烟(けむ)」とちょっと上を見て、座敷を出て行った。小稲は懐紙(ふところがみ)を二枚ばかり器用にたたんで、それで神妙に灰を扇子へ落し、始末した。


 ちょっとした描写だが、水際だっている。その場に居合わせたかのように、イメージが鮮明だ。

 ここに出てくる「アルマ」という煙草は、明治42年から昭和5年にかけて売られていた煙草。10本入りの箱の絵は、「婦人像」で、「サモア」の箱の絵の女と、「アルマ」の絵の女ではどっちが別嬪かということが話題になっている。(こちらのブログバージョンに画像があります。)

 この「アルマ」で、たわいもない遊びをして、その後、トランプで「21」をして、夜中の1時ごろに謙作は帰宅する。結局石本は来なかった。

 帰宅時の描写もあっさりしているが、気分がよく伝わってくる。

 

 一時頃謙作は俥(くるま)で帰って来た。赤坂までは随分の長道中だった。しかし月のいい晩で、更け渡った雨上りの二重橋の前を通る時などは彼もさすがに晴々としたいい気持になっていた。


 謙作が「晴々としたいい気持ちになっていた。」と書かれると、不思議なことに読者も「晴々としたいい気持ち」になってしまう。この小説は、その出だしからして、謙作の「気分」が色濃く支配しているので、そのせいか、どこを読んでもそのときの謙作の「気分」がどうであるのかが非常に重要で、読者は、謙作とともに、不愉快になったり、晴々したりすることになる。

 こういうことは、他の小説ではどうなのだろうか。ちょっと考えただけでも、梶井基次郎の『檸檬』とか、芥川龍之介の『羅生門』などは、それぞれに、主人公の「気分」が色濃い小説だ。漱石の『こころ』にせよ、『それから』にせよ、やはり主人公の「気分」は色濃いし、花袋の『田舎教師』も『蒲団』も、みんな主人公の「気分」のフィルターなしには考えられない。ひょっとしたら日本の近代文学は「気分の文学」なのかもしれない、なんて大風呂敷を広げたくなる。(誰かそんなことを言っていたような気もするなあ。)

 まあそれはそれとして、『暗夜行路』は謙作の「気分」が物語のど真ん中に腰を据えている、ように思える。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 21 「愛子とのこと」(1) 「前篇第一  五」その1   2019.11.10

 

 二度目に登喜子と会う前と後では不思議なほどに謙作の気持は変っていた。彼は今も登喜子を美しく思っている。そして好きだ。しかしその美しく思い方も、好き方も、前の変に重々しく息苦しかった時に較べて、妙に軽快なものになっていた。彼は漸(ようや)く落ち着けた。彼は前の自分を想い、全体何を目がけて、あれほどにも力瘤を入れ、あれほどにも一人先走りしたものか解らない気がした。
 勿論、この変化は―つは登喜子の態度で導かれたものである。が、それよりも彼は愛子との事こういう事には変に自信がなくなっていた。そして、この自信なさが、知らず知らずこの落着(おちつき)に彼を満足させようとしているらしかった。
 或る彼はもっと突き進みたがっている。しかし他の彼がそれを怖れた。愛子との事で受けた彼の傷手はそれほどにまだ、彼には生々しかった。

 

「五」になって、初めて愛子とのことがはっきりと描かれることになる。

 登喜子のことは好きだが、今のところ深入りしない関係に「落着」ている。「こういう事」に自信のない謙作は、この「妙に軽快」な登喜子との関係が快いというのだ。

 なぜ「こういう事」に自信がないかというと、「愛子との事」があったからだ。

 この「五」の部分はそのすべてが、愛子とのいきさつを語ることに費やされているが、かいつまんで紹介しておきたい。

 

 愛子の父は水戸の漢方医であった。そしてどういう事情でそうしたかは謙作も知らなかったが、愛子の母は謙作の母方の祖父母を養父母として、其処からその漢方医に嫁入ったのであった。謙作の母と愛子の母とは幼馴染で特に親しかった。彼は母の死後、よく愛子の母から実母の事を聴いた。「いい方でしたよ。涙もろい、本統に親切な方でした」愛子の母はよくこんなにいった。芝居好きで、二人で芝居の真似をして祖母に叱られたというような話もした。


 昔は特に養父母というのが多くて、複雑だが、要するに愛子は謙作の血縁のない従姉妹ということになる。謙作の母はすでに亡くなっているので、その母と親しかった愛子の母は、謙作にとっては亡き母のことを聞かせてくれる大事な人だったわけだ。


 誰からも本統に愛されているという信念を持てない謙作は、僅(わずか)な記憶をたどって、やはり亡き母を慕っていた。その母も実は彼にそう優しい母ではなかったが、それでも彼はその愛情を疑う事は出来なかった。彼の愛されるという経験では勿論お栄からのそれもなくはない。また兄の信行の兄らしい愛情もなくはない。しかしそれらとは全く度合の異った、本統の愛情は何といっても母より他では経験しなかった。実際母が今でもなお生きていたら、それほど彼にとって有難い母であるかどうか分らなかった。しかしそれが今は亡き人であるだけに彼には益々偶像化されて行くのであった。


 謙作の母は、謙作にいつも優しかったわけではなかったけれど、やはり実の母だけが、本当の愛情を注いでくれたのだという謙作の気持ちはよく分かる。「本当の愛情」というのは、言葉では表現できないほど微妙なものであるのだろう。いつも優しい言葉をかけてくれたり、頭をなでてくれたからといってそれが「本当の愛情」を保証するわけではない。

 言葉や行動を超えたところにそれはたぶんある。続く部分は、その辺のことを語って見事である。


 そして彼は何となく亡き母の面影を愛子の母に見ていた。ある時──多分それは母の十三回忌の時であった。彼はその日本郷の実家に行って、其処で、愛子の母が旧式な大小小紋に黒繻子(くろじゅす)の丸帯を締めて来ているのを見た。その姿が彼の心に不思議な懐しさを起した。彼は何気なくその姿に時々眼をやっていた。すると、何かの機会に偶然並んだ愛子の母がその着物の袖を引いて見せて、
 「これも、帯も、今日のお仏様の御遺物(おかたみ)ですよ」といった。彼は妙な気持になった。一種の感じに打たれた。そして彼は黙っていた。少時すると愛子の母は手を袖の中で縮めながら、
 「《ゆき》がもう出ないので、腕の方に《あげ》をしてるの」こんな串戯(じょうだん)をいって笑った。

 

 ここで謙作が感じた「妙な気持ち」「一種の感じ」は、なかなか印象的で、当然のように『源氏物語』が頭に浮かぶ。源氏が亡き母の面影を藤壺に見て慕うのも、ひょんなことから耳にした「藤壺は桐壺更衣に似ている」という女房のヒソヒソ話だったはずだ。

 「本当の愛情」は、言葉や行動をはるかに超えたところ、「面影」にこそ内在しているのだろうか。

 それにしても、こういうところの描き方、志賀直哉はほんとにうまい。


 愛子の長兄は慶太郎といって、中学は異っていたが、信行とは同年、謙作よりは二つの年上で、三人は子供の頃からよく遊んだ。しかし信行も謙作も彼とそう親しくはなれなかった。性質に何処(どこ)か合う事の出来ないものがあった。が、その割りには謙作だけは牛込の愛子の家へよく出入りをした。彼は何よりも愛子の母に会いたかったからである。

 

 慶太郎のことを簡潔に紹介している。ここで言及される、慶太郎との「性質の齟齬」は、この後の展開に重要なポイントとなる。大事なことをズバッと書いて、先へ進む。いいテンポだ。


 愛子は彼より五つ年下であった。子供の頃は彼は何方かというと愛子を少し五月蠅(うるさ)く感じていた。例えば慶太郎らと何かして遊んでいる時に、何も出来ない癖に仲間入りをしたがったり、またある時は愛子の母と割りに真身(しんみ)り話込んでいるような場合、「もう《ねんね》するの。もう《ねんね》するの」こんな事をいって、母を自分の寝床に連れて行きたがったりする事がよくあったからである。彼はそういう時代から知っているだけに愛子が相当の年になっても妙に異性としては強く来なかった。


 次に幼い頃の愛子についても簡潔に描かれる。これだけで、幼い愛子が生き生きと目の前に浮かんでくる。


 そして彼が本統に愛子を可憐に思い出したのは彼女が十五、六の時に彼女の父が死んで、その葬式に白無垢を着て、泣いている姿を見た時からであった。
 愛子の女学校での英語の試験勉強の手伝などした事もあったが、そういう時には彼は自分の気持を出来るだけ現さないように努めていた。―つは彼の臆病からも来ていたが、同時に彼の感情はそれほど燃えてもいなかった。その上まだ子供気の脱けていない愛子にはそんな事が如何にも遠い事のように感じられたからでもあった。けれども、これは彼の主観の勝った感じ方で、愛子が特別に年よりそういう感情で遅れていたわけではなかった。愛子からすれば、子供からの関係上、謙作にはそういう感情で至極、《あっさり》していられたからでもあったろう。


 愛子の母に生母を感じたときが「黒繻子」で、愛子を可憐に思い出したときが「白無垢」という対比も面白い。志賀直哉はそこまで考えていたかどうか分からないが、鮮やかな印象を残す。

 愛子が好きになってからも、謙作は「臆病」だった。謙作は、愛子に成熟をみていなかったけれど、それは「彼の主観が勝った感じ方」だとも評されている。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 22 「愛子とのこと」(2)──父への不快 「前篇第一  五」その2   2019.11.17

 

 

 葬儀での白無垢姿の愛子に、謙作は初めて可憐だと感じ、それからは、愛子への愛情を心に秘めていた。愛子はまだ子どもだと思っていたからだが、現実には愛子には結婚の話が舞い込んでくるようになっていた。

 

 愛子の女学校の卒業期が近づくに従ってぼつぼつ結婚の話が起った。謙作は自分の申出が万々一にも不成功に終る事はないと信じていたが、それでも何か知れぬ不安が、とても六ヶしそうに私語(ささや)く事もあった。しかし彼はこの不安を謂(い)われないものと考えていた。自分の臆病からだと思っていた。彼はこれを愛子の母に打明けたものか、慶太郎に打明けたものかと考えた。愛子の母に打明けるという事は如何にも彼女の好意につけ込むような気がしていやだった。しかし慶太郎に一番先きにいうのも彼は何となく気が進まなかった。仕事の相違、人生に対する考え方の相違、それらから互に相手を軽蔑する気持が作られていた。慶太郎は今、大阪のある会社に出ている。そして彼は最近その会社の社長の娘と結婚する事になっているが、それにもかなり不純な気持があった。慶太郎は彼にそれを平気で公言していた。謙作は万々(ばんばん)断られる事はないと信じながらも、こういう慶太郎に打明けて行く事は何だか気が進まなかった。
 彼はやはり本郷の家の人に打明けて、父の方から、彼方(むこう)に話してもらうより他ないと思った。

 

 高等女学校の卒業は17歳ぐらいなので、愛子より5歳上の謙作は、この時22歳ぐらい。今で言えば、高校2年ぐらいで、お見合いの話が舞い込むというのは、隔世の感があるけれど、ぼくがまだ大学生の頃には、付き合っていた彼女にはやはりお見合いの話が来始めていたから、50年ほど前までは、明治時代とそんなに大きな隔たりはないわけである。

 時代は変わったというときに、科学技術の発展のことばかりが語られるけれど、こうした「結婚事情」などの観点から見ると、また別の時代の移り変わりが見えておもしろい。

 それにしても、謙作は、どうしてこんなに自信家なのだろうか。「自分の申出が万々一にも不成功に終る事はないと信じていた」という自信はいったいどこから来るのだろうか。その割には不安も大きくて、打ち明ける相手に迷うのだ。その相手というのは、間違っても愛子その人ではない。これもまた時代を感じることのひとつだ。

 愛子の兄の慶太郎は、勤め先の会社の社長と結婚することに(それを公言することに)なんのためらいもない男。そういう点で、謙作とは気質が違い、それがお互いの軽蔑のもとなっている。

 謙作は、愛子の母に打ち明けることさえ、「如何にも彼女の好意につけ込むような気がしていやだった」というような潔癖な性格で、これは芸者の登喜子に対するときも変わらない。芸者に言い寄るのに、自分の欲望を顕わにすることを恥じる潔癖さは、倫理感というよりは、美意識のようなものだ。

 会社の社長の娘と結婚するからといって、それが必ずしも「不純」な動機とは限らないけれど、それを「平気で公言」するところに、慶太郎の美意識の欠如を謙作は嗅ぎ取っているのだろう。

 結局、謙作は父に相談することにする。ところが、この父は謙作とは妙に疎遠なのだ。けれども、そうするしかない。

 

 一体彼は止むを得ぬ場合の他は滅多に父とは話をしなかった。それは子供からの習慣で、二人の間ではほとんど気にも止めない事だったが、さてそういう事を頼みに行こうとすると、それがやはり妙に億劫な気がした。しかしある夜、彼は思い切って父にそれを頼みに行った。
「彼方で承知すれば、よかろう」と父はいった。「しかしお前も今は分家して、戸主になっているのだから、そういう事も余り此方(こっち)に頼らずに、なるべく、自身でやって見たらいいだろう。俺はその方がいいと思うが、どうだ」

 

 この父との「疎遠感」には、深い理由があるわけだが、まだここではそれが明らかになっていない。そのため、滅多に父とは話さないということが「子供からの習慣」であり、頼み事も「妙に億劫な気がした」というような、捉えどころのない感覚として語られている。

 そして父の答。普通に読めば、別に反対されたわけじゃないから、いちおうほっとしたぐらいに謙作は受け取ったのかと思おうと、実はそんなことはない。むしろ、この答を「不快」に思うのだ。人間って、複雑だ。

 

 謙作は最初から父の快い返事を予期していなかった。しかし予期通りにしろ、やはり彼はかなり不快(いや)な気持がした。彼は悪い予期は十二分にして行ったつもりでも、それでも万一として気持のいい父の態度を空想していたのが事実だった。ところが父の答えは予期より少し悪かった。変に冷たく、薄気味悪い調子があった。何故乗気で進もうとする自分の第一歩に、父がこんなちょっと躓(つまづ)かすような調子を見せるのだろう。彼には父の気持が解らなかった。

 

 いったい謙作が言う「気持のいい父の態度」とはどのようなものだったのか。試験問題にでもしたいような箇所である。

 「そうか、そりゃよかった。愛子はお前とは幼なじみだし、いい子だからな。よし、そういうことならオレがなんとか話をつけよう。なあに、心配するな。オレに任せろ!」てな反応だろうか。それが謙作が「万一として」期待していた態度だったのだろう。

 その「万が一」の期待はもちろん見事に実現しなかったわけだが、それなら、「最初から父の快い返事を予期していなかった」謙作の「予期」とはどういうものだったのか。「十二分にして行った」「悪い予期」は、もちろん頭から反対するということだろうが、それはなかった。

 父の言葉は、「向こうがいいんなら、いいと思うよ。でも、お前も一人前になったんだから、オレに相談するんじゃなくて、自分でやったら?」てことだろう。それを謙作は「変に冷たく、薄気味悪い調子」だと謙作は受け取る。その父の答と、その調子が、「予期より少し悪かった」というのだ。

 となると、謙作の「予期」は、おおよかったなと喜ぶ父ではもちろんなく、といって、ムキになって反対する父でもない。結局のところ、そこにあったのは「いつもの父」だったのではないか。だから謙作は「やはり不快な気持ちがした」のだ。「やはり」というのは、父の「親身になってくれない」態度を予期していたということで、その態度や調子が、改めて「不快」の念を謙作の中に呼び起こした。

 そればかりか、その「予期」より「少し悪い」というのは、父の冷たさはもとより、「薄気味悪い調子」が、謙作にはどうしても理解できないものとしてクローズアップされたということだろう。

 「何故乗気で進もうとする自分の第一歩に、父がこんなちょっと躓(つまづ)かすような調子を見せるのだろう。」という思い。それは父に対する根本的な不快の念で、「序章」に念入りに書かれていたことでもあったのだ。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 23 「愛子とのこと」(3)──冷たい調子 「前篇第一  五」その3   2019.11.27

 

 

 父の冷たい態度に不快な気持ちになった謙作は、兄の信行に頼もうかとも思ったが、どうもその気にもなれず、「どうせ同じことだ。やはり総てを自分一人でやろう。結局その方が簡単に済む。」と考えて、ある日、自ら愛子の家に出かけていった。

 

 ところが、愛子の母はそれを聴くと非常に吃驚(びっくり)したらしかった。彼がそれを切り出した時のドギマギした様子はむしろ惨めな気さえした。謙作の方も少しドギマギした。そして、これは自分の知らない許嫁(いいなずけ)があるのかしらと思った。
 「とにかく、慶太郎や、此方(こちら)の親類方にも相談した上で本郷の方へ御返事をしましょう」
 彼はこの申込は本郷とは全然無関係に自分がいい出すので、父も勿論知ってはいるが、直接申込むというのも実は父の意志から出た事だと話した。
 「へえ。それは不思議ですネ」愛子の母は顔を曇らせていった。
 謙作は不快(いや)な気持で帰って来た。父の返事はとにかく予期の内だが、この返事──返事の表面上の意味は至極当然で別に不思議はないが、これに含まれた変に冷たい調子は彼の予期には全く入り得ないものだった。

 

 ここでも「変に冷たい調子」が出て来る。父の場合もそうだった。父の言葉には「変に冷たく、薄気味悪い調子」があった。

 愛子の母の「返事の表面上の意味」は「至極当然で別に不思議はない」のだが、「これに含まれた変に冷たい調子」は予想外だったというのだ。

 「これに含まれた」の「これ」が何を指示するのかが難しいが、「この返事」と考えるのが妥当だろう。「返事の表面上の意味」というのは、愛子の母が発した言葉そのものが含む意味だ。

 愛子の母の言葉は「こちらで相談してから返事をします。」ということと、謙作が直接やってきたのは「父の意志」によるということに対する「不思議ですね」ということだ。「相談した上で返事をする」のはむしろ当然だから、謙作も「別に不思議はない」と思うのだが、後の「それは不思議ですね」はどうか。当時は結婚話は、当事者が持ち込むことは当たり前のことではないから、謙作の父が、そうさせたのは「不思議」といえばいえる。だから、この言葉もそれほど「冷たい」わけではないのだ。

 けれども、謙作は「冷たい調子」を感じとる。なぜか。それは、「この返事」に決定的に欠落しているものがあったからだ。つまり、「単純な喜び」がなかったのだ。愛子の母が、謙作から結婚の話が出たことを喜んでいるのなら、「あら、そうなの? 嬉しい! でもね、こういうお話しはもちろん私の一存では決められないから、慶太郎にも、親戚にもいちおう相談して、改めてお返事をするわ。でも、嬉しいわ〜」という風な応対を謙作は予測していたのだろう。それがない。「嬉しい」の一言がない。

 「それは不思議ですね。」の方も、「あら、それは不思議。お父様も変わってるわね。でも、あなたが直接来てくださって嬉しいわ。」でもよかったはずなのだ。やっぱり「嬉しい」がない。それが「冷たい調子」と感じられるのである。

 その後、謙作は、慶太郎に会って話をしようとするが、慶太郎はああだこうだと理由をつけて会おうとしない。

 そうこうしているうちに、兄の信行がやってきた。


 

 十一時過、彼は漸く自家(うち)へ帰って来た。自家では兄の信行が待っていた。そして、いきなりこういい出した。
 「お前はどうしても愛子さんでなければ、いけないのか? 如何(どう)なんだ。」
 「それは、そうじゃない」
 「本統にそうじゃないネ?」
 「…………」
 「もしそうなら、俺は慶太郎や先方のお母(つか)さんと喧嘩をしてもやって見るよ。出来るかどうか分らないが、とにかくやる所まではやって見る。しかしそれは、お前がどうしても、という場合だけだ。お前の愛子さんに対する気持が其処まで突きつめていないのなら、念(おも)い断(き)る方が俺はいいと思っている。何方(どっち)なんだ」
 「念い断ろう」
 「うん」と信行はちょっとお辞儀でもするように点頭(うなづ)いて黙った。
 二人は少時(しばらく)黙った。
 「念い断れるのなら、念い断った方がいいだろう」と信行がいった。「お前の不愉快な気持はよく解る。お前にとってはこれは二重の不愉快だったのだ。しかし何しろ慶太郎がああいう男だし、お母さんもお前に好意はあるのだが、何しろこういう時には女は手頼(たよ)にならないものだから……」
 「慶さんの態度がいけない。断るなら断るだけの明瞭(はっきり)した理由を何故いわないのだ。変に一時逃ればかりして此方(こっち)に不愉快を与える事で間接に断る意志を仄(ほの)めかしている」
 信行は返事をしなかった。
 「する事が余りに良心がなさ過ぎる」
 「昔からそういう奴だよ」と信行がいった。
 暫くして信行は帰って行った。


 

 信行の「どうしても愛子さんでなければいけないのか?」という詰問に対して謙作は「それは、そうじゃない」と答える。「そうだ」と答えればよかったはずだが、謙作の性格からしてそうは言えない。そうは言えないということを信行は見越してこう詰問しているのだ。そこがとてもイヤラシイところ。

 このように聞けば、謙作は、思わず「そうじゃない」というだろうと見越して、案の定「本統にそうじゃない」との言葉を聞いてから、自分の「誠意」を思い切り開陳してみせる。そんなところがある。そこがイヤラシイわけだ。

 謙作は「断る理由」を知りたいのだ。それなのに、愛子の母も、兄の慶太郎も、そして信行までもが、その理由をはっきりと言わない。謙作はひとり「泥田に落ち込んだような」気分になるのだった。

 

 謙作はもう慶太郎の来る事を、あてにしてはいなかった。しかしもし来て、明瞭(はっきり)した理由をいってくれたら、自分は《まいる》としても、とにかく今の一人泥田へ落込んだようなこの不愉快からは脱けられるのだがと思った。慶太郎はやはり愛子の結婚を手段として何かに利用する気に違いない。理由としてはそれ以外にない。しかしそれでもはっきりいってもらう方がいいが、慶太郎もそんな事をいうはずはないと思った。

 

 

 


志賀直哉『暗夜行路』 24 「愛子とのこと」(4)──俗悪な人生観 「前篇第一  五」その4   2019.12.9

 

 

 慶太郎はやはり来なかったが、速達郵便と、そしてその後に長い手紙が来た。

 それによれば、実は愛子には先約があった。慶太郎の勤める会社の永田という課長からの話で、やはり会社の人。君の話を聞いて母も驚き、ぼくも驚いて、先方へ事情を話して解約しようとしたが、どうしても本人が承知しない。自分はもう親類だの友人だのに話してしまっているので、今更解約されたら顔が立たないというのだ。こうなっては、やはり君のお話を断って先約を守るしかない。どうか理解してもらいたい。といったような内容だった。


 謙作は読みながら、「嘘つけ! 嘘つけ!」と何度となく呟いた。よくも空々しくこんな事が平気で書けるものだと思った。
しかし愛子はそれから一月ほどして実際大阪へかたづいて行った。それは、或る金持の次男であったが、慶太郎のいる会社の男ではなかった。
 謙作の心に受けた傷は案外に深かった。それは失恋よりも、人生に対する或る失望を強いられる点でこたえた。元々愛子は仕方なかった。それに腹を立てる事は出来なかった。それから慶太郎も仕方ない。今度のやり方でも腹は立つが如何にも慶太郎のやりそうな事と思われる点で、段々それほどには思わなくなった。ただ一番こたえたのは愛子の母の気持であった。日頃その好意を信じ切っていただけに、この結果になると、その好意とは全体如何(どう)いうものだったかが彼には全く解らなくなった。断られるまでも何か好意らしいものを見せられたら彼はまだ満足出来た。ところが、それらしいものもまるで見せられずに彼は突き放された。彼は不思議な気がした。
 しかし、「世の中はこんなものだ」こう簡単に諦める事も出来なかった。もしそう簡単に片附けられたら、彼はまだしも楽だった。が、これが出来ないだけに彼は一層暗い気持になった。

 

 

 この手紙のわずか一月後に、愛子は、慶太郎が言っていた会社の男ではなくて、別の金持ちの男のもとへ嫁いでいった、というのも妙な話だ。慶太郎の言っていたことが嘘だったのか、それとも急に話が変わったのか判然としない。これでは謙作の気持ちもおさまらないのもよく分かるのだが、しかし、謙作がいちばんこたえたのは、愛子の母の冷たい態度だったということが、注目に値する。謙作は愛子の母に、自分の母の面影をみていたのだ。もういちど引いておきたい。


 誰からも本統に愛されているという信念を持てない謙作は、僅(わずか)な記憶をたどって、やはり亡き母を慕っていた。その母も実は彼にそう優しい母ではなかったが、それでも彼はその愛情を疑う事は出来なかった。彼の愛されるという経験では勿論お栄からのそれもなくはない。また兄の信行の兄らしい愛情もなくはない。しかしそれらとは全く度合の異った、本統の愛情は何といっても母より他では経験しなかった。実際母が今でもなお生きていたら、それほど彼にとって有難い母であるかどうか分らなかった。しかしそれが今は亡き人であるだけに彼には益々偶像化されて行くのであった。
 そして彼は何となく亡き母の面影を愛子の母に見ていた。

 

 亡き母が、「彼にそう優しい母ではなかった」し、実際に生きていたら「それほど彼にとって有難い母であるかどうか分らなかった」と謙作は思うのだが、それでも亡き母こそが「本統の愛情」を注いでくれたのだと信じてやまない。その亡き母の面影を愛子の母に見ていたのだから、愛子の母は、「生きた偶像」であったわけで、この人が自分に少しでも冷たい態度をとったということが理解できないわけなのだ。

 「断られるまでも何か好意らしいものを見せられたら彼はまだ満足出来た。ところが、それらしいものもまるで見せられずに彼は突き放された。彼は不思議な気がした。」ということからも、彼が愛子の母をいかに偶像化していたかが分かるというものである。特に「不思議な気がした」というあたりに謙作の失望の深さが感じられる。


 人の心は信じられないものだという、俗悪な不愉快な考が知らず知らず、自分の心に根を下ろして行くのを感ずると、彼はいやな気持になった。それには近頃段々面白くなくなって来た阪口との関係もあずかって力をなしていた。
 しかしこう傾いて行く考に総て人生の観方(みかた)をゆだねる気は彼になかった。これは一時の心の病気だ、彼はそう考えようとした。が、それにしろ、新たに同じような失望を重ねそうな事にはいつか、用心深くなっていた。むしろ臆病になっていた。


  「人の心は信じられないものだ」という考え方を謙作は「俗悪な不愉快な考」だという。ここはこの小説にとって、とても重要なところだろう。

 「俗悪」というのは、「下品」だということだ。どうして「人間不信」が「下品」なのか、詳しい説明はない。説明する必要もないくらい謙作にとっては、あるいは志賀直哉にとっては当然のことだったのだろう。

 嘘、裏切り、嫉妬など、人の心のあり方を考えれば醜い心がいくつでも思い浮かぶ。そういう心が人間の心の本質だと捉えれば、すぐにでも「人の心は信じられないものだ」という結論が得られるだろう。そしてそれこそが人生の真実だと言いたくもなるだろう。けれども、謙作は、それを「俗悪で不愉快」だというのだ。

 生きていれば、人間は、様々な嫌な目に合う。騙され、裏切られ、告げ口され、冷笑されることなしに、人生を終えることなんて不可能だ。そうした「誰でも」する経験をもとに、「人の心は信じられないものだ」という人生観に落ち着くのは安易なことだ。それがもし人間の真実だとしたら、人生とは何と楽なことだろう。何も戦わずして人生の真実を掴めることになるのだから。

 だからこそ、謙作は、それを「俗悪」として嫌うのだ。人の心は信じられるのか、信じられないのか、そんなことは分からない。分からないけれど、謙作はあくまで人の心を信じたいのだ。醜い心と戦って、「人は信じられるのだ」という人生観を勝ち得たい。それこそが謙作にとっては「愉快」なのであって、できればその愉快な気分で生きていきたいと思っているのだ。ここに謙作の、そして志賀直哉の「理想主義」があるのかもしれない。

 けれども、謙作の周囲には次から次へと人を信じることができなくなりそうな出来事が起こってくる。阪口の件もここで引き合いに出される。

 謙作は、もうこれ以上、人が信じられなくなるような出来事に遭遇したくない。だから、芸者の登喜子との関係にも一歩を踏み出せないのだ。


 そして登喜子との事が既にそれであった。彼は自分に盛上がって来た感情を殺す事を恐れながら、さて近づこうとして、それが最初の気持にはまるで徹しない或る落着きヘどうそこ来ると、それでもなお、突き進もうという気には如何(どう)してもなれなかった。其処で彼の感情も一緒に或る程度に萎(しな)びてしまう。


 登喜子との深い関係に踏み込めない理由を語る「五」は、こう締めくくられる。

 

 


志賀直哉『暗夜行路』 25  放蕩と自然 「前篇第一  六」   2019.12.15

 

 

 

 「前篇第一の六」は、「謙作が二度目に登喜子と会ってから二、三日しての事」として、夜遊びの様が描かれる。これが、時間と場所を明示しながら、実に簡潔に、しかもリアルに書かれていて、読んでいて気持ちがいい。

 結局二晩家を空けることになるのだが、その三日間の「足取り」をまとめてみたい。

 「その日」は、一四、五年前に死んだ親しい友の命日で、謙作はそのころ親しかった友人たちと染井に墓参に出かけた。

 墓参を済ませて、巣鴨の停車場へ来たのは日暮れどきだった。この巣鴨の停車場というのは、今でいう山手線の停車場だろう。

 

 墓参を済まして巣鴨の停車場へ帰って来たのはもう日暮れだった。彼らはそれから賑かな処へ出て、一緒に食事をするはずだったが、この電車で上野の方へ廻るか、市内電車で直ぐ銀座の方へ出てしまうかで、説が二つに分れた。謙作は何という事なしに、上野の方へ出たい気がしていた。上野から登喜子のいる方へ行くというほどの気はなかったが、ただ何となく、その方へ心が惹かれるのだ。

 

 登喜子のいるのは吉原だから、上野から近いわけだ。この当時は、巣鴨から「山手線」で上野に行くか、「市内電車」つまりは都電で、銀座へ出るかの選択肢があったわけだ。今だとバスか地下鉄だろうか。

 結局、銀座に出ることになったのだが、「近頃フラン人が開いた西洋料理屋」に行くか、「うまい肉屋」に行くかで意見が分かれ、お互いにワガママ言って譲り合わなかった。金持ちの坊ちゃんたちのワガママなのである。

 西洋料理屋は分かるが、「肉屋」って何だろう。すき焼き専門店だろうか。

 で、結局別々に行くことになって、食事の後のお茶だけを、肉屋に行った連中が西洋料理屋に来て一緒にすることになった。どうも、悠長な話である。時間も金も余裕があるということかしら。今なら絶対にどこかで妥協するし、妥協しなかったら、お茶だけ後で一緒になんてこともしないだろう。

 その西洋料理屋を出たのが、午後の九時頃。謙作は、一緒に西洋料理屋に行った緒方という男を誘って登喜子の所に行こうとするが、緒方は、今夜は兄や姉が来ているので家を空けるのはまずいと言う。しかし、どうしても登喜子に会いに行きたい謙作は、例によって一人では行けなくて、緒方を誘う。緒方は酒の誘惑にまけて、謙作についてくる。

 途中の「カッフェ」から電話をすると、登喜子はまだ帰っていないという。その辺のやりとり。

 

 とにかく、電話をかける事にして、二人は或るカッフェに入った。
 電話に出たのはお蔦だった。
 「登喜ちゃんは今日は市村座で、小稲さんは昨日から遠出で、まだ帰って来ないんです」と気の毒そうにいった。
 「しかし《はね》たら帰って来るだろう」
 「さあ、帰るだろうとは思いますが、今訊いて見ましょう。そちらは何番ですか? 伺っておいて、直ぐ御返事致します」
 そして暫く待っていると電話が掛って来た。
 「芝居を見残して、お客様と蔵多屋へ行ってるんですって。今御飯を頂いているから、もう直きお暇が出そうだというんですけど……」
 「それなら行こう」そう謙作はいった。


 芸者をつれて、芝居を見て、それから食事をする男が、当時もゴロゴロいたわけで、なんだか羨ましい。

 行くと決まったらもっと飲むと緒方は言って、そのカッフェで酒をがぶがぶ飲む。

 それから一時間ほどして、二人は「西緑」(登喜子のいる待合)に行った。しばらくして登喜子も来たけれど、登喜子も疲れているとみえて、「その夜も子供らしい遊びでとうとう夜明しになった」。このまま泊めてくれというのもどうなんだろうなんて思っているうちに、二人はうとうとしてしまい、結局目が覚めたのは翌朝十時ごろ。

 

 戸外(そと)には秋らしい静かな雨が降っていた。その音を聴きながら二人がうとうとしている間に女たちは帰って行った。
 十時頃眼を覚まして、二人は湯に入ると、いくらか気分がはっきりした。また前夜の二人をいったが、小稲だけ来て、登喜子は同じ家の表二階の客の方へ行く事になっていた。
 緒方は少し醒めかけると飲んだ。もう遊び事も話もなかった。小稲はそのだらけて行く座をもち兼ねて、ただぼんやりと淋しい眼つきをして、其処に仰向けに、長くなっている緒方の顔を凝っと眺めていた。


 

 やっぱりこの連中は、金も時間も持て余すほどあるんだよなあ。こんなにダラダラした時間の使い方、しかも金のかかる使い方は、そうそうできるもんじゃない。

 この後、緒方は「何か面白い話はないか」と小稲にいい、小稲も「下谷の芸者衆が白狐に自動車の後押をされた」とかいう嘘かほんとか分からない話をしたりするが、どうにも盛り上がらないで時間が過ぎていく。そのうち、緒方はイビキをかいて寝てしまう。謙作は所在なさに、小稲と五目並べなんかしていると、むこう座敷から登喜子の声が聞こえてくる。

 

 時々彼方(むこう)の座敷から登喜子の声が聴こえて来た。謙作は今はもう登喜子との関係に何のイリュージョンも作ってはいなかった。しかしそれでも此処に登喜子がいない事、そして彼方の部屋で誰れかと話しているという事は変に淋しく感ぜられた。いないならばまだいい。彼方にいるという事、それはどうしても彼の意識を離れなかった。で、実際にも登喜子は謙作らの座敷の前を通る時には必ず何か声をかけた。中へ入って来る事もあった。すると謙作の気分は、自分でも不思議な位に生々した。

 

 登喜子の客はなかなか帰らず、謙作と緒方は、吉原をあとにして、またまた西洋料理屋に入って緒方はウイスキーを飲む。謙作はもう飲めない。二人は三の輪まで歩いて、其処から人形町行の電車に乗った。

 その電車の中で、赤ん坊を連れた女に出会う。この描写がとても生き生きとしていて見事だ。長いが引いておこう。

 

 車坂の乗換に来た。乗る人も降りる人も多かった。眉毛を落した若い美しい女の人が、当歳位の赤児を抱いて入って来た。その後ろから十六、七のおとなしそうな女中が風呂敷包を抱えてついて来た。二人は謙作の前の丁度空いた処へ腰かけた。
 よく肥った元気な赤児だった。綺麗な友禅の着物にやはり美しいチャンチャン児(こ)を着ていた。しかし身体が小さいので着物がよく着(つ)かぬかして、だらしなくそれがぬき衣紋になって、其処から丸々と盛り上った柔らかそうな背中の肉が白く見えていた。赤児は頭(かぶり)を振り、手足を頻(しき)りに動かして、一人元気に騒いでいた。女の人は二十二、三だったかも知れない。しかし細君になった人を見ると誰でも自分より年上のような気のする謙作には《はっきり》した見当はつかなかった。その人は友達と話すような気軽さと親しさで女中と何か話していた。

 

 すると、女中の向こうに、女におぶさった四歳ぐらいの女の子が、赤ん坊をじっと見ている。赤ん坊はその女の子の方に手を伸ばして、からだをもがいている。


 余り赤児が《もがく》ので、話に気を奪られていた女の人も、漸く気がついた。そして至極軽快な首の動作で、女の児の方を振向いた。それは生々とした視線だった。
 「おや、この人はお嬢さんのとこへ行って話し込みたいんだネ」といって女の人は笑った。女の児は平気で《むっつり》としていた。おぶっている女中が何か鈍い調子でお愛想をいった。
 女の人は連れの女中との話をそのまま、打切って、今度は急に──むしろ発作的に赤児の頬だの、首筋だのへ、ぶぶぶと口でお灸(とも少し異うが)日本流の接吻を無闇にした。赤児はくすぐったそうに身もだえをして笑った。女の人は美しい襟足を見せ、丸髷を傾けて、なおしつっこく咽(のど)の辺りにもそれをした。見ていた謙作は甘ったるいような変な気がして、今は真正面(まとも)にそれを見ていられなくなった。彼は何気なく首を廻らして窓外を眺めた。そしてこの女の人はまだ甘ったれ方を知らぬ赤児よりも遥かに上手に甘ったれていると思った。
 若い父と、母との甘ったるい関係が、無意識に赤児対手に再現されているのだと思うと、謙作は妙に羞かしくもなり、同時に余りいい気持もしなかった。しかし、精神にも筋肉にも《たるみ》のない、そして、何となく軽快な感じのするこの女の人を謙作は美しく感じた。彼は恐る恐る自分の細君としてこういう人の来る場合を想像して見た。それは非常な幸福に違いなかった。一時は他(た)に何物も欲求しないほどの幸福を感じそうな気さえした。
 「さあ、今度おんりするのよ。君やにおんぶしてエッチャエッチャって行くのよ」美しい細君は赤児を女中におぶせながらこんな事をいった。そして電車の停るのを待って降りて行った。
 謙作は何という事なし、幸福を感じていた。この幸福感はその人の印象と共に後まで、彼の心で尾をひいていた。
 二人は小伝馬町で降りると、人道を日本橋の方へ歩いて行った。雨に濡れた往来が街の灯りを美しく照りかえしていた。日本橋の仮橋を渡って暫くいった横丁の或る小綺麗な料理屋へ二人は行った。


 放蕩の合間に、まるで晴れ間のように描かれるこの「幸福」の何としみじみと身にしみてくることか。

 芸者たちのもつ「けだるさ」とは対照的に、この母親は、「生き生きとした視線」、「筋肉にも精神にもたるみのない軽快さ」で、印象的だ。

 この後、二人は、電車を小伝馬町で降りて、日本橋の「小綺麗な料理屋」で9時ごろまで酒を飲み、銀座をぶらつき、緒方の馴染みの「清賓亭」へ行って、そこの女たちを相手にまたさんざん酒を飲み、夜中の十二時ごろに「西緑」に行く。

 

 その夜十二時近くなって、二人はまた西緑へ行った。惰性的になかなか別れられなかった。夜が更けるとかえって一時の疲れた気分もはっきりして来たが、それも長もちはしなかった。三時頃いよいよ参ると、謙作はもう自分の寝床が無闇と恋しくなった。それで思う様の眠りに落ち込みたかった。彼は緒方に翌日帰途に必ず来てもらう約束をして、一人褞袍(どてら)を借りて俥で帰って来た。
 途中で夜が明けて来た。雨後の美しい曙光が東から段々に湧き上がって来るのを見ると、十年ほど前の秋、一人旅で日本海を船で通った時、もう薄く雪の降りている剣山の後ろから非常な美しい曙光の昇るのを見た、その時の事を彼は憶い出した。

 

 この最後の段落の自然描写も美しい。放蕩の果ての自然の美。それがなんども繰り返されている。

 電車の中の女の美しさも、また自然の美なのではなかろうか。

 

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 26  目薬のこと 「前篇第一  六」(補遺)   2019.12.18

 

 

 前回紹介しなかったのだが、緒方の馴染みの「清賓亭」で、そこの女たちと緒方はイチャついたのだが、その中に「目薬」のことがでてくる。馬鹿馬鹿しいことだが、なんか興味深いので、ちょっと紹介しておきたい。

 

 謙作は、夜明かしとタバコの飲み過ぎで、目が充血して気持ち悪いといって、買ってきた目薬をさしてから、テーブルに両肘をついてじっとしていたのだが、緒方は女たちと、やれ濃いウイスキーを飲めだの、やれ半分ずつ飲もうだのとか言って、デレデレしてイチャついている。

 謙作は仰向いて、また眼薬をさした。
 「僕にもくれないか」と緒方が手を出した。謙作は眼を瞑ったまま、それを手渡した。
 「Oさん、私が注(さ)して上げてよ」
 「大丈夫かネ?」
 「大丈夫よ」お加代はそれを受取って、緒方の背後へ廻った。
 「もっと仰向いて」
 「こうか?」
 「もっと」
 その間に、お鈴は手早く椅子を四つ並べて、
 「Oさん、これがいいわ」といった。
 お加代はその一つに腰かけて、
 「膝枕をさして上げるわ」といった。
 お鈴がナップキンを取って渡した。
 「おやおや水臭い膝枕だネ」そういいながらお加代はそれを膝の上に拡げた。
 緒方は並べた椅子の上に仰向けに寝た。
 「私の指で開けても、よくって?」
 「自分で開けよう」緒方は両臂(ひじ)を張って眼ぶたを拡げた。
 お加代は注(さ)し損じた。薬は耳の方へ流れ落ちた。お加代は笑いながら、
 「もう一遍」とまた眼ぶたを拡げさした。
 「暗かないの?」お鈴が覗込むようにしていった。
 「明るくてよ、この通り」とお加代はお鈴を見上げていった。そしてまた注意を集めて注そうとしたが、細い硝子管(ガラスくだ)の薬が少なくなっているので、なかなか落ちなかった。緒方は白眼をして待っていたが落ちないので、眼ぶたを拡げたまま、見ようとした。
 お加代は発作的な叫びをあげて立上った。椅子が後ろヘガタンと倒れた。緒方も驚いて起上った。
 「まあ、どうしたの?」とお鈴も驚いていった。
 お加代は眼薬の瓶を持ったまま、黙って立っていた。そして少し嗄(しゃが)れ声で、
 「白眼だと思っていると、急にギョロリと黒眼が出て来たのよ。それが私を見たじゃ、ないの……」といった。
 「何をいうの、この人は……」お鈴はちょっと不愉快そうな顔をした。
 お加代は少し青い顔をして黙って立っていた。


 まあ、どうでもいいことなのだが、たかが「目薬をさす」ことが、どうしてこれほどの大事となるのだろうかと、可笑しくなる。ぼくなら3秒で終わる。もちろん、自分で注す。人になんか注させない。というか誰も注してくれない。

 しかし、人それぞれだから、「自分で注すのが苦手で人に注してもらう」ということがあり得ないことではないと思うわけだが、ここでは、目薬を注すという口実で、緒方に「いい思い」をさしてやろうという女の魂胆なのであって、だから、目薬なんて自分で注せとかそういう野暮なことじゃない。

 不思議なのは、「緒方は白眼をして待っていたが落ちないので、眼ぶたを拡げたまま、見ようとした。」というところ。なんで目薬を注すときに、「白眼」をするのだろうか。ちなみに、ぼくはしない。黒眼のままなので、目薬のしずくが落ちてくるのがだいたい分かるので、ほとんど失敗しない。

 そればかりか、つい最近まで、ぼくは指で目を開かないで、ただ目を開けて、目薬を注していた。だから時々まばたきしてしまったりして、失敗することもあったのだ。それがつい最近、かかりつけの眼科の待合室で、「目薬の注し方」というポスターをみたら、片手でマブタの下を「あっかんべー」するみたいに引っ張ると注しやすいですよと書いてあって、そうか、そうすればいいのかと思ってさっそく実行したら、確かに、失敗しないでちゃんと注せることが分かったのだ。

 ぼくは、昔から眼圧が高いので、もう何十年も毎晩欠かさず目薬を注しているのだが、そのやり方をずっとしらなかったのだ。

 まあ、そういう次第なので、わざわざ苦労して白眼にして、目薬を注すってことが不思議でならないわけなのだ。

 しかも、マブタを開けたまま、白眼で待って、待ちきれないから、マブタを開けたまま黒眼になった、というのは、そんなに簡単にできることじゃないんじゃないのかなあと思うのだ。人によるのかもしれないけどね。

 この「人による」ということで、今でも可笑しくてならないのは、家内の父である。

 家内の父は、眼科の開業医だった。晩年に、ほとんど寝たきりになって家内は数年家で介護したのだが、その父が、目薬を注されるのを非常に怖がったというのだ。自分では患者さんに何万回、何十万回と注してきたのに、自分が注されるを怖がるとはいったいどういうことなんだと思ったが、死ぬまで怖がり、嫌がったらしい。人間というものはそういうもんなのだろう。

 やっぱり、家内の父も、白眼になっていたのだろうか。(現場を見てないから知らないけど。)黒眼のままだと、落ちてくる目薬が見えてしまうから、怖かったはずだ。いちど聞いておけばよかったと悔やまれる。

 

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