志賀直哉「暗夜行路」を読む (1) 1〜11

前篇第一 (一)〜(二)

引用出典「暗夜行路 前篇」岩波文庫 2017年第11刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 1 下品な祖父  「前篇 序詞(主人公の追憶)」その1  2019.5.28 


 

 私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月(ふたつき)ほど経って、不意に祖父が私の前に現われて来た、その時であった。私の六歳(むっつ)の時であった。
 或る夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処へ来て立った。眼の落ち窪んだ、猫背の何となく見すぼらしい老人だった。私は何という事なくそれに反感を持った。

 

 志賀直哉『暗夜行路』の「序詞(主人公の追憶)」の冒頭である。

 実にそっけない出だしだが、長編小説というものは、こうした何気ない始まりをするもので、たとえば小説ではないけれど、『源氏物語』の出だしは、「いつの御代だったかしら、女御とか更衣とかいった方々がたくさんいらっしゃる中で、特別に寵愛を受けていらっしゃる方がおりました。」というようなもので、これもある意味そっけない。そっけないけれど、そこには物語の進行上必要な事項がしっかり書かれている。源氏でいえば、こうした特別に帝に愛されたというそのことがそのお方の悲しい運命を導くわけだし、その女の子供として生まれた源氏自身の運命にもかかわることだったわけだ。

 この『暗夜行路』でも、いきなり登場してくる「祖父」が、これからの物語の焦点となる。そっけないようでいて、大事なことをきちんと書いているのである。

 この祖父に対する「私」の感情の動きが、六歳の子供にしてはありえないほど精密で、「私はなんという事なくそれに反感を持った。」とあるその後には、こんなふうな文章が続く。

 

 老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。釣上がった口もと、それを囲んだ深い皺、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私は腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。

 

 志賀直哉の文学というのは、「快・不快」の文学だとよく言われているのだが、この短い冒頭部分にすでにその特徴が現れている。まずは何となく感じた「反感」。その後に、「一種の悪意」、そして「下品な印象」、「意固地に下を向く」。すべてが、「私」にとっての「不快」の表現である。

 この小説は私小説ではなくてあくまでフィクションだから、「私」が祖父に不快な印象あるいは敵意を持つ理由は、あらかじめの設定にあるわけで、六歳の子供がほんとうにこのように感るものかどうかを詮索してもしかたがない。

 しかし、とにかく、冒頭からただ事ではない空気が流れるこの小説が、主人公のこれからの人生の暗闇を描くものであることは、この「暗夜行路」という題名とともに、まずは深く印象づけられるわけである。

 それにしても、志賀直哉は、題のつけ方がうまい。特にこの「暗夜行路」という題名は秀逸だ。四字熟語にあるのかと思えるぐらいビシッと決まっている。オシャレだ。だから作詞家の吉岡治が、これをパクって『暗夜航路』なんて歌を作ったりする。キム・ヨンジャが歌ってそこそこヒットしたこの歌も、この題名だけでずいぶん得をしている。

 さて、その老人はお前は謙作か? と尋ね、頷いた「私」に近づいて頭に手をやり「大きくなった」と言う。

 

 この老人が何者であるか、私には解らなかった。しかし或る不思議な本能で、それが近い肉親である事を既に感じていた。私は息苦しくなって来た。

 

 子供がこんな「不思議な本能」を持つものかどうか怪しいものだが、とにかく、「近い肉親」であることが「息苦しさ」を感じさせるとはどういうことか。それが本当の祖父なら、息苦しさではなくて、親しさとか安らぎとかであってもよいはずだ。それが「息苦しさ」を感じるというのは、その「肉親」が、普通の「祖父」ではないからなのだろう。ここではまだその「祖父」がどのように普通じゃないかは明かされていないのだが。

 この辺の書き方が、どうもリアルでない、という感じがする。そこまで「私」の感情を書き込まずに、むしろ老人の戸惑いを書くことで、その老人が何者なのかを暗示するほうがよいと思うのだが、志賀はそうしない。むしろ性急に私の感情を書くのである。

 やがて、「私」は、この突然現れた祖父のもとに引き取られることになる。家は「根岸のお行の松に近いある横町の奥の小さい古家」だった。この「お行の松」というのは、実在するもので、ぼくはとんと知らなかったが、台東区根岸の西蔵院の不動堂にあるそうで、「江戸名所図会」にあるほど有名な松らしい。ちなみに、wikiによれば、現在は2018年に植樹された4代目があるらしい。

 この地名を出したというのは、別に志賀直哉がそこに住んでいたということではなくフィクションだ。実際には志賀直哉は、2歳の時に、生地石巻から父母とともに上京し、父方の祖父の家に入った。家は麹町区(現千代田区)内幸町である。

 

 其処には祖父の他にお栄という二十三、四の女がいた。
 私の周囲の空気は全く今までとは変っていた。総てが貧乏臭く下品だった。
 他(ほか)の同胞(きょうだい)が皆自家(うち)に残っているのに、自分だけがこの下品な祖父に引きとられた事は、子供ながらに面白くなかった。しかし不公平には幼児から慣らされていた。今に始まった事でないだけ、何故かを他人(ひと)に訊く気も私には起こらなかった。しかしこういう風にして、こんな事が、これからの生涯にもたびたび起こるだろうという漢然とした予感が、私の気持ちを淋しくした。それにつけても私は二か月前に死んだ母を憶い、悲しい気持ちになった。

 

 ここに登場するお栄も重要な人物だ。いったい祖父とどういう関係にあるのかと興味をひく。

 初めて会ったとき祖父に感じた「下品」さは、周囲の空気までも「下品」なものにしている。始まってまだ2ページなのに、「下品」という言葉が三回も出てくる。異常である。

 自分だけが「不公平」な目にあっているという不快感は、しかし、「幼児から慣らされていた」として増大することはなく、むしろこれからの人生への漠然とした嫌な予感が「私」の気持ちを「淋しく」し、母を思って「悲しく」なった。どこまでいっても色濃い感情に塗りつぶされている。

 こうした感情過多とも言っていい文章は、徳田秋声の乾いた文章に親しんできた身には、一種異様なものとして映る。田山花袋の文章も感情過多だったが、たとえば『田舎教師』では、それは甘い感傷が主で、このような「不快」「おもしろくない」「息苦しい」「貧乏臭い」「下品だ」といった激しいものではなかった。

 志賀直哉の文章というと、「写実の名手」とか「鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現している」とか「無駄を省いた文章」とかいった評価がよくされるが、ここに引用した文章はその対極にあるといっていいほど主観的だ。自分の感情抜きでは何一つ書けないといった風である。

 それは、この部分が「主人公の回想」として書かれているからだろか。それとも、この文体は、この小説全篇を通じて貫かれているのか、興味深いところである。

 何はともあれ、これからしばらく『暗夜行路』を読んでいくことなる。別に研究論文じゃないので、勝手気ままに読んで勝手な感想を書き付けるだけのことだが、ただ、引用は、なるべく短くしたい。それは、志賀直哉は徳田秋声と違って、まだ著作権が切れていないからだ。それどころか、あのTPPの発効によって、著作権が70年に延長された結果、志賀直哉の作品の著作権が切れるまで、まだ20年近くあることになってしまった。したがって、「青空文庫」に収納もされていない。秋声の『新所帯』は結局全文引用してしまったが、今回はそうもいかないので、本を手元に置いていただければ幸いです。ぼくが読んでいくのは、岩波文庫版『暗夜行路 前篇・後篇』で、引用もこれによります。

 

志賀直哉『暗夜行路』 2 冷たい父と邪慳な母  「前篇 序詞(主人公の追憶)」その2   2019.6.1

 

 父はいつも冷たかった。そして、母もまた。


 父は私に積極的につらく当る事はなかったが、常に常に冷たかった。が、この事には私は余りに慣らされていた。それが私にとって父子関係の経験としての全体だった。私は他の同胞の同じ経験をそれに比較するさえ知らなかった。それ故、私はその事をそう悲しくは感じなかった。

 

「常に常に」と畳みかける語法が、どこか拙い。拙いけれど、それだけ父の冷たさが身にしみて感じられる。その冷たさも、私には慣れっこになっていて、特別なこととは思えなかったという。だから悲しくもなかったと。

 日常的にずっと冷たかったら、それが基準になってしまうから、他と比較でもしないかぎり「冷たい」と感じとられることもないだろう。その比較すらすることを「知らなかった」というのだから徹底している。それなら母はどうだったか。

 

 母は何方(どちら)かといえば私には邪慳(じゃけん)だった。私は事々に叱られた。実際私はきかん坊で我儘でもあった。が、同じ事が他の同胞では叱られず、私の場合だけでは叱られるような事がよくあった。しかし、それにもかかわらず、私は心から母を慕い愛していた。

 

 母の場合は、比較がなされている。他の同胞(きょうだい)が叱られないのに、自分だけ叱られたという経験があったからだ。父の場合は、「積極的につらく当る事はなかった」とあるとおり、叱るということすらなかったのだろう。子供を思うからこそ「叱る」のであって、無関心なら叱りもしない。

 だから、なぜ自分だけ叱られるの? って思いつつ、「それにもかかわらず」とあるけれど、むしろ「そのゆえにこそ」、母を慕い愛したのだ。

 その具体的な事件が次に語られる。

 4歳か5歳のある秋の夕方、「私」は、母屋の屋根に登っていって、鬼瓦のところに馬乗りになり、いい気分で唱歌を歌っていた。

 

 私としてはこんな高い処へ登ったのは初めてだった。普段下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。
 西の空が美しく夕映えている。烏が忙しく飛んでいる……

 

 幼年時代のどこかに、こんなシーンのいくつかを人は持っているものだ。柿の木が「足の下にある」という非日常感に、子供は酔いしれる。思わず歌も出ようというものだ。その子供の目に映る夕映えの美しさ。

 「私」が、人目を盗んでこっそり屋根に登っていったのは、単なる冒険心ではないだろう。冷たい父と邪慳な母に息の詰まる日々を送っていた少年が、そこからの脱出を試みたに違いない。その屋根の上で、少年は、心の自由を感じていただろう。

 やがて、母に発見される。母は、「気味の悪いほど優しい調子」で、「謙作、謙作」と呼ぶ。

 

 「あのネ、其処にじっとしているのよ。動くのじゃ、ありませんよ。今山本が行きますからネ。其処に音なしくしているのよ。」
 母の眼は少し釣上って見えた。甚(ひど)く優しいだけ只事でない事が知れた。私は山本の来るまでに降りてしまおうと思った。そして馬乗りのまま少し後じさった。
 「ああっ!」母は恐怖から泣きそうな表情をした。「謙作は音なしいこと。お母さんのいう事をよくきくのネ」
 私はじっと眼を放さずにいる、変に鋭い母の視線から縛られたようになって、身動きが出来なくなった。
 間もなく書生と車夫との手で私は用心深く下された。
 案の定、私は母から烈しく打たれた。母は亢奮から泣き出した。

 

 迫真の描写である。簡潔な言葉で、事件を的確に描きだしている。普段は邪慳な口しかきかない母が、「優しい調子」で呼びかける。「優しいだけ只事でない事が知れた」というのも、子供の心理をよくとらえている。子供は自分のしていることの意味がよく分からないのだ。

 母が死んだあと、「私」はこの事件の記憶が、急にはっきりしてくる。そして、思い出すたびに涙を流すのだ。

 

何といっても母だけは本統に自分を愛していてくれた、私はそう思う。

 

 誰かが自分を「愛していた」と確信がもてるのは、やはり言葉ではない。どんなに邪慳な言葉を投げつけられようとも、その人の「行動」はそれを木っ端微塵に打ち砕き、「愛されていた確信」へと導いてくれるのだ。

 しかし、そうした「事件」ではない日常では、はやりその「愛」も信じられなくなる衝突が頻繁におこる。その些細な衝突が、愛を確信させた事件を超えるような「事件」に発展してしまうこともある。

 ちょうどその屋根の事件の前後だ。「私」が一人で茶の間に寝ころんでいると、そこへ父が帰ってきて、袂から歌詞の紙包みを取り出し、茶箪笥の上に置いて出ていった。「私」は、それを寝たままジロジロみていたが、やがて父が戻ってきて、その菓子の入った紙包みを戸棚の奥へしまい込んで出て行った。

 

 私はむっとした。気分が急に暗くなった。間もなく母が、父の脱ぎ捨てた外出着を持って、次の間へ入って来た。私には我儘な気持が無闇と込み上げて来た。泣きたいような、怒りたいような気持だった。

 

 この気持ち、ほんとによく分かる。子供が可愛い父だったら、外から帰ってきて、茶の間に子供がいたら、菓子は「ほらお土産だよ」かなんか言って渡すところだろう。それを渡しもせずに、もう一度戻ってきて、わざわざ「戸棚の奥」にしまいこむ。お前、これを食うなよ、と言わんばかりだ。むっとするのも当然だ。

 「私」は、それから母にむかって、「その」菓子を食わせろといいつのる。母はもうお菓子は食べたじゃないかと言ってとりあわない。けれども、「私」は、なんとしても「その」菓子、父が隠した「その」菓子を食いたい。いや食いたいんじゃない……。

 

 「もう食べたじゃ、ありませんか。何です」母は私をにらんだ。
私は露骨に父の持って帰った菓子をせびり出した。
 「いけません。そんな……」
 「いや!」私は権利をでも主張するように頑固に首を振った。何しろ、私は気持がクシャクシャしてかなわなかった。その菓子がそれほどに食いたいのではない。とにかく、思い切り泣くか、怒られるか、打たれるか、何かそんな事でもなければ、どうにも気持が変えられなくなっていた。

 

 この辺の書き方もほんとにうまい。今さらながらだけど、ほんとにうまい。この子供は、おそらく志賀少年に違いない。まったくのフィクションで、こんな気持ちが書けるわけがない。父母に溺愛されて育った人間には、こんな感情が存在することすら気づかないのではなかろうか。
だからこそ、小説を読む意味があるのだ。

 それはともかく、この後がもっとすごい。

 母は私の手を振り払って、出て行こうとした。私は後ろから不意に母の帯へ手をかけ、ぐいとカ一杯に引いた。母はよろけて障子に掴まった。その障子がはずれた。
 母は本気で怒り出した。そして、私の手首を掴み、ぐんぐん戸棚の前へ引張って行った。母は片腕で私の頭を抱えておいて、いやがる私の口ヘその厚切りの羊羮を無理に押し込んだ。食いしばっている味噌歯の間から、羊羮が細い棒になって入って来るのを感じながら、私は度胆を抜かれて、泣く事も出来なかった。
 亢奮から、母は急に泣出した。少時(しばらく)して私も烈しく泣出した。

 

 圧巻である。「母はよろけて障子に掴まった。その障子がはずれた。」と短い文を二つつなげる。普通だったら、「母はよろけて障子に掴まった拍子にその障子がはずれた。」と因果関係をはっきりさせるだろう。それをしないで、事実だけを並べる。そのことで、映像がくっきりする。出来事が立体的になる。

 そして羊羹の件。父が持ち帰った菓子は、どうやら羊羹だったようだ。その羊羹を母は「私」の口に押し込む。すると、その羊羹がまるでトコロテンのように味噌っ歯の間から口の中に入ってくる。この鮮烈なイメージ。度肝を抜かれる。母の心の中にある怨念とか憎しみとかその他モロモロのドロドロした感情が、羊羹という固形物と化して「私」の歯の間から流れ込んでくるかのようだ。これがもしフィクションだったら、志賀直哉は天才以上の天才だ。

 このムチャクチャな母の行動は、あの屋根にのぼった「私」を心配する母の行動とは正反対のようだけれど、だからといって、この羊羹事件での母の行動が「私」への憎しみから来ているのではないことは明白だ。

 「私」もムシャクシャしてどうしようもないが、母もまた同じなのだ。母もまた自分の夫に対して、どうにもならない感情を抱え込んでいる。その感情がこういう場面で爆発するのだ。その爆発の場面を、こういう形でイメージ化する志賀直哉という作家は、やはりただ者ではない。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 3 祖父と父  「前篇 序詞(主人公の追憶)」その3   2019.6.14

 

 根岸の家では総てが自堕落だった。祖父は朝起きると楊子をくわえて銭湯へ出かけた。そして帰るとその寝間着姿で朝餉の膳に向った。

 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした、とは、民謡「会津磐梯山」の一節だが、ぼくはこの歌詞を幼い頃に知って、片時も忘れたことはない。朝寝はともかく、朝湯、朝酒は、ぼくにとっては極悪非道の行いのごとく心の底に叩き込まれ、いまだに、それをしたことはない。それをやっちゃあオシマイだよと、心のどこかで誰かがいつもいうのだ。

 だからこの一節の「自堕落」は、不思議なほどよく分かる。朝起きると──それもきっとさんざ朝寝して遅く起きるということだろうが──「楊子をくわえて銭湯へ出かけ」る祖父は、まさに「自堕落」の極地である。ちなみに、楊枝を加えて外を歩くという行為は、ぼくにはどうにも容認できない。よく居酒屋かなんかから「楊枝をくわえた」オヤジが出てくるが、ぼくはいつも目をそむけてしまう。それは別に「自堕落」といった類いのものではないが、なんだか品がない。

 まして朝湯から帰った祖父が「寝間着姿で」朝食の膳に向かうなど、自堕落にもほどがあるというものだ。

 ぼくは横浜の下町の職人の家に生まれたけれど、どういうわけか「品よく」育ったらしく、そうした下町にありがちな生活態度には本能的な嫌悪感を持っているわけだが、思えばそうした「自堕落」さは、職人とは無縁なのかもしれない。

 まあ、それはそれとして、主人公が祖父に対してもった嫌悪感は、こうした記述の端々から感じられておもしろいのだ。

 その祖父に家には、種々雑多な人間が集まってきて、「花合戦」をする。つまりは花札だ。これもなんだか下卑ている。またまた私事で恐縮だが、我が家には、「賭け事」の匂いもなかった。祖父からも父からも、また我が家に雇われているペンキ職人の誰からも、「賭け事」の話を聞いたことがない。家庭内で、ちょっとしたことで「賭ける」ことすら皆無だった。そのためか、ぼくはパチンコを数回やったほかは、一度も「公営ギャンブル」にすら手を出したことがない。宝くじ一枚買ったことがないのだ。だから、主人公の祖父の家で、日ごとにわけのわからない連中が集まって「花札」をやっているなんて、ぼくには無縁の世界だ。

 そういえば、都立高校に勤めていたころ、修学旅行の引率で京都へ向かう新幹線の車内で、生徒達が花札をやってるのを見つけて驚愕したことがある。ぼくは慌てて、やめろ! と叫んだが、生徒たちはぽかんとして、どうしてトランプはよくて花札はダメなんですか? と聞いてきた。それにぼくがどう答えたか忘れたが、そんな品のないことはやめろと言ったかもしれない。

 

 来る客も変った色々な種類の人間が来た。殊に花合戦をする、その晩には妙な取合せの人々が集まって来た。大学生、それから古道具屋、それから小説家(?)、それから山上さんと皆がいっている五十余のちょっと未亡人らしい女などであった。この女はその頃の医者が持ったような小さい黒革の手さげ鞄を持って来た。それには、きまって沢山な小銭と、一揃いの新しい花札と太い金縁の眼鏡とが入っていたそうである。しかしこの女は未亡人ではなく、その頃大学で歴史を教えていた或る年寄った教授の細君で、この女の甥がかつてお栄と同棲していた、その縁故で、良人に隠れて好きな遊び事のために来たのだということである。その甥という男は大酒飲みで、葉巻のみで、そして骨まで浸み貫った放蕩者で、とうとうその二、三年前にほとんど明かな原因なしに自殺してしまったという事を私は二十年ほどしてお栄から聞いた。

 

 これが「根岸の家」だ。得体のしれない人間ばかり。こういう人間たちに対して、主人公が相容れないものを感じていたのだ。けれども、「お栄」だけは違った。

 

 お栄は普段少しも美しい女ではなかった。しかし湯上りに濃い化粧などすると、私の眼にはそれが非常に美しく見えた。そういう時、お栄は妙に浮き浮きとする事があった。祖父と酒を飲むと、その頃の流行歌を小声で唄ったりした。そして、酔うと不意に私を膝へ抱き上げて、力のある太い腕で、じっと抱き締めたりする事があった。私は苦しいままに、何かしら気の遠くなるような快感を感じた。
 私は祖父をしまいまで好きになれなかった。むしろ嫌いになった。しかしお栄は段々に好きになって行った。

 

 主人公の「性の目覚め」だろう。普段は少しも美しい女ではないのに、「湯上りに濃い化粧などする」と急に美しくなる女。5、6歳の男の子が、そんなことに気づくものだろうかという疑問は残る。それは急に抱きしめられた快感から遡った後付けの印象なのだろうか。

 祖父は最後まで「好きになれなかった」、そしてお栄は「段々に好きになって行った」。では父はどうだったのか。ここで、父とのエピソードが印象的に語られる。
「根岸の家へ移って半年余り経った或る日曜日か祭日かの事であった。」というのだから、主人公がやはり5、6歳の頃だ。久しぶりに祖父に連れられて本郷の父の家にいった主人公は、珍しく機嫌のいい父と角力をとることになる。

 

「どうだ、謙作。一つ角力をとろうか」父は不意にこんな事をいい出した。私は恐らく顔一杯に嬉しさを現わして喜んだに違いない。そして首肯いた。
「さあ、来い」父は坐ったまま、両手を出して、かまえた。
 私は飛び起き様に、それへ向って力一ぱい、ぶつかって行った。
「なかなか強いぞ」と父は軽くそれを突返しながらいった。私は頭を下げ、足を小刻みに踏んで、またぶつかって行った。
 私はもう有頂天になった。自身がどれほど強いかを父に見せてやる気だった。実際角力に勝ちたいというより、私の気持では自分の強さを父に感服させたい方だった。私は突返されるたびに遮二無二ぶつかって行った。こんな事は父との関係ではかつてなかった事だ。私は身体全体で嬉しがった。そして、おどり上り、全身の力で立向かった。しかし父はなかなか私のために負けてはくれなかった。


 なぜか幼稚園か小学生のころの父とのことを思い出す。正月だったのか、夏休みだったのかまったく覚えていないのだが、何かの遊びを父としていたぼくは嬉しさのあまり、キャッキャと声を挙げて笑ったようだ。それを聞いた祖母が「ほらこんなに喜んでいるじゃないか、お前ももっと遊んであげな。」というようなことを父に向かって言った。その祖母の言葉をはっきりと覚えているのだ。

 父はペンキ屋の親方として忙しい日々で、ぼくと家で遊ぶというようなことはめったになかった。だから、何の遊びかしらないが、珍しく父が相手をしてくれたことがぼくにはひどく嬉しかったに違いないのだ。父が遊び相手になってくれるということが、子供にとってどんなに嬉しいことかということを、その祖母の言葉によってぼくは初めて気がついたのかもしれなかった。けれども、そんな嬉しい時間は、その後、二度となかったような気もしている。その祖母の言葉を聞いたぼくが、なぜかひどく悲しい気分になったような気がするからだ。

 いわば自分を捨てた父が、思いがけず「角力をとろう」と言ってくれたことに主人公がどんなに喜んだか、この一節は、その子供の気持ちを実に見事に描いている。「私は身体全体で嬉しがった。」というような稚拙とさえ言える表現をも辞さないで志賀直哉はその喜びを描く。

 しかし、その喜びがいつしか憎しみへと変わっていく。そこの描き方も実に見事なものだ。長いが引用しておく。

 

 「これなら、どうだ」こういって父は力を入れて突返した。力一ぱいにぶつかって行った所にはずみを食って、私は仰向け様に引っくりかえった。ちょっと息が止まる位背中を打った。私は少しむきになった。そして起きかえると、なお勢込んで立向かったが、その時私の眼に映った父は今までの父とは、もう変って感じられた。
 「勝負はついたよ」父は亢奮した妙な笑声でいった。
 「まだだ」と私はいった。
 「よし。それなら降参というまでやるか」
 「降参するものか」
 間もなく私は父の膝の下に組敷かれてしまった。
 「これでもか」父はおさえている手で私の身体をゆす振った。私は黙っていた。
 「よし。それならこうしてやる」父は私の帯を解いて、私の両の手を後手に縛ってしまった。そしてその余った端で両方の足首を縛合せてしまった。私は動けなくなった。
 「降参といったら解いてやる」
 私は全く親みを失った冷たい眼で父の顔を見た。父は不意の烈しい運動から青味を帯びた一種殺気立った顔つきをしていた。そして父は私をそのままにして机の方に向いてしまった。
 私は急に父が憎らしくなった。息を切って、深い呼吸をしている、父の幅広い肩が見るからに憎々しかった。その内、それを見つめていた視線の焦点がぼやけて来ると、私はとうとう我慢しきれなくなって、不意に烈しく泣き出した。
 父は驚いて振り向いた。
 「何だ、泣かなくてもいい。解いて下さいといえばいいじゃないか。馬鹿な奴だ」
 解かれても、まだ私は、なき止める事が出来なかった。
 「そんな事で泣く奴があるか。もうよしよし。彼方へ行って何かお菓子でも貰え。さあ早く」こういって父は其処にころがっている私を立たせた。
 私は余りに明ら様な悪意を持った事が羞かしくなった。しかし何処かにまだ父を信じない気持が私には残っていた。
 祖父と女中とが入って来た。父は具合悪そうな笑いをしながら、説明した。祖父は誰よりも殊更に声高く笑い、そして私の頭を平手で軽く叩きながら「馬鹿だな」といった。

 

 小学生などが、ふざけてじゃれ合っているうちに、だんだん本気になってきて、とうとう激しい喧嘩になってしまうということがよくあるが、それに似ている。似ているがまったく違う。それは、主人公と父との間に決定的な溝があるからである。

 ずいぶん後になって明かされることだが、謙作は、実は祖父と母との間にできた不義の子で、この父とは血のつながりがないのだ。この父にすれば、謙作はどうしても愛することのできない子供なのだ。たまに遊びにきた謙作に「角力をとろうか」と愛想を言うことはできても、とことん謙作の相手になって遊んでやることができない。謙作が、ムキになってかかってくればくるほど、心の中からは憎しみの感情が湧き出てしまう。謙作はそんなことはまったく知らないから、夢中になって父に向かって行く。ただ自分の強さを父に見せたいために。けれども、父の意外な反応に驚く。「その時私の眼に映った父は今までの父とは、もう変って感じられた。」のである。

 こともあろうに自分の妻と自分の父が過ちを犯し、不義の子を産んだ。そのことの耐えがたさに、子供を手放すが、それでも自分の父ゆえに、義絶することもできず、その子供がこうして遊びにくれば相手もしてやらざるをえない。けれども、その子供に対するわだかまりは、子供への冷たい仕打ちとなってしまう。苛立ちは子供への暴力となる。なんともやるせない話だ。

 そこへ入ってきた祖父にむかって、「具合悪そうな笑いをしながら、説明」する父。それを聞いて「誰よりも殊更に声高く笑」う祖父。「私の頭を平手で軽く叩きながら『馬鹿だな』」という祖父。

 ほどきようもない感情のもつれのまっただ中に成長していく主人公。その主人公、時任謙作は、その後どのような人生を歩むことになるのか。「序章」はここで終わり、いよいよ「第一」に入っていく。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 4 どっちだろう  「前篇第一 一 」その1   2019.6.23

 

 時任謙作の阪口に対する段々に積もって行った不快も阪口の今度の小説でとうとう結論に達したと思うと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持になった。そして彼はその読み終った雑誌を枕元へ置くのも穢らわしいような心持で、夜着の裾の方へ抛って、電気を消した。三時近かった。
 彼はやはり興奮していた。頭も身体も芯は疲れていながらなかなか眠る事が出来なかった。彼は頭を転換さすために何か気楽な読物を見ながら睡むくなるのを待とうと考えた。が、そういう本は大概お栄の部屋へ持って行ってあった。ちょっと拘泥したが、拘泥するだけ変だとも思い返して、再び電気をつけて二階を降りて行った。


 「序章」の後に始まる『暗夜行路』前篇の冒頭部だ。

 最初の一文からしてずいぶんと特徴的な文章だ。なんの前触れもなく、いきなり主人公時任謙作の不快感が出現する。いったい何が不快なのかというと、坂口が不快だというのだ。それも「段々に積もって」きた不快だ。それが「今度の小説」で「結論に達した」というのだ。

 そんなことを言われても、何のことか分からない。それはおいおい話すということなのだ。こういう書き方というのは、小説においては常套手段なのだろうが、この時代は、どうだったのだろうか。案外新しいのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。

 阪口に対する不満が高じてきて、それが「結論に達し」たと思うと、「腹立たしい中にも清々しい気持になった」というのは、いったいどういうことだろう。

 それまで何だか阪口には不快感を感じていたのだが、いったいどこが不快なのかがいまいち言葉にできなかった。それが、この小説を読んで、ああ、オレはコイツのこういう点が気にくわなかったのだとハッキリした。そのハッキリしたということで、気分は「清々しい」ものとなった、ということだろうか。

 確かに、何となく気にくわないという気分は、つかみようがなくて、それだけに対処のしようがない。「ここが」気にくわないのだとハッキリすれば、自分の気持ちも整理できて、ひょっとしたら対処法も見つかるかもしれないと期待もできる。そういうことだろう。

 眠れなくなったとき、「気楽な読み物」を読むと眠くなるものかどうかぼくは知らないが(ぼくはきわめて寝付きがいいので、そういうことをほとんどしたことがないので)、謙作は「塚原卜伝」を読もうと思うのだが、「お栄の部屋」にそういう本は持って行ってある、という。ここでまたいきなり「お栄」の登場だ。しかも、同じ家に住んでいる。「お栄」は「序章」で、祖父の家にいた女であり、主人公が「好きになった」と書いてあった女だ。いったいどういうことなのだろうと興味がわく。うまいね。

 本がお栄の部屋にあるので、とりにいこうと思うのだが、「ちょっと拘泥したが、拘泥するだけ変だとも思い返して」とりにいく。この「拘泥」は、「あることを必要以上に気にしてそれにとらわれること。」〈日本国語大辞典〉の意だが、謙作は何を「必要以上に」気にしたのか、そしてなぜ「必要以上に気にする」のは「変だ」と思ったのか。なんか、現国の試験問題みたいだけど、ちょっと問題にしたいところだ。

 夜中の三時に、どういう関係かしらないが、女のいる部屋に行くことは十分に「気にする」に値することで、それはそんなことをしたら、その女が「誤解」する恐れがあるということだろう。けれども、自分にはそんなやましい気持ちはないのだから、「必要以上に気にする」ことはかえっておかしなことだ。むしろ気にすれば気にするだけ、「その気」があることを証明する結果になってしまう。まあ、そう考えれば分かりやすい。

 

 「ちょっと本を貰いに来ました」と声をかけて、「塚原卜伝は戸棚ですか」といった。
 お栄は枕元の電燈をつけた。
 「床の間か、茶箪笥の上ですよ。まだ起きてたの?」
 「眠むれなくなったんで、見ながら眠むるんです」
 謙作は茶箪笥の上から小さい講談本を持って、「明日」といってその部屋を出た。
 「御機嫌よう」こういって、お栄は謙作が襖を締めるのを待って電燈を消した。

 

 ちょっと声をかけただけで、パッと電灯がついて、返事をする。ねぼけてない。

 「ちょっと本を貰いに来ました」「塚原卜伝は戸棚ですか」という謙作の敬語。それに対して、「まだ起きてたの?」というお栄のくだけた言葉遣い。

 これだけで、何となく二人の関係性が透けて見えるような気がする。もっともそれは、すでに「序章」でお栄の方が謙作よりも年上らしいと分かっているからでもあるが。それにしても「まだ起きてたの?」に、ちょっとドキドキするのは、「気にしすぎ」だろうか。

 「御機嫌よう」というお栄の言葉は、今では上品すぎる印象だが、当時はどうだったのか。「謙作が襖を締めるのを待って電燈を消した。」お栄の心遣い。謙作が襖を締める前に電灯を消せば、いかにも「用が済んだんだからもういいわ」といった素っ気なさが、謙作に伝わってしまう。謙作が襖を締めたことを見極めたうえで、電灯を消すことで謙作に不快感を感じさせずに済む、ということだろうが、この場面の「視点」はどうなっているのだろうか。つまり、誰の視点で書いているかということだ。第三者の視点なら、別にいいのだが、このあたりは謙作の視点で多く書かれている。もし、この部分も謙作の視点なら、謙作はいつお栄が電灯を消すのかに注意を払っていたことになる。としたら、お栄は、そういう謙作の細かい神経をよく知っていて、そのように行動したのだということになるわけだ。どっちだろう。

 さて、謙作は、せっかく気楽な読み物を手に入れたのに、結局は眠れなかった。

 

謙作はその気楽な講談本を読みながら、朝露のような湿り気を持った雀の快活な啼声を戸外に聴いた。

 

 見事な一文である。「朝露のような湿り気を持った雀の快活な啼声」という表現に魅了される。

 それと同時に、いったい眠れなかったのは、「塚原卜伝」が面白かったからなのか、阪口のことがまだ頭から離れなかったからなのか、それともお栄のことを考えていたからなのか、どっちだろうとまた思わされる。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 5 「事実」と「気持ち」  「前篇第一 一 」その2   2019.7.1

 

 翌日(あくるひ)はどんより曇った静かな秋の日だ。午(ひる)過ぎて一時頃、彼はお栄の声で眼を覚ました。

 

そこへ竜岡と阪口がやってくる。その小説に腹をたてていた当の阪口である。

 

「竜岡さんと阪口さん」
 彼は返事をしなかった。返事をするのが物憂くもあった。が、それよりも今日阪口に会うという事がまだ《はっきり》しない彼の頭では甚(ひど)く《こんぐらかった》問題であった。

 

  選りに選って「今日」その阪口に会うということが、まだ寝起きの、しかもすっかり寝不足の頭にはよく入ってこず、「こんぐらかった問題」として意識されたわけだ。

  で、謙作は阪口だけ断ってくれとお栄に言うのだが、「どうして」と驚いて聞くお栄に、事情を説明するのも面倒だったのか、二人とも通してくださいという。

  謙作はなぜ阪口の小説を不快に思ったのか、それは次のような理由だ。

 

 謙作をそれほどに不愉快にした阪口の小説というのは、ある主人公がその家(うち)にいる十五、六の女中と関係して、その女に出来た赤児を堕胎する事を書いたものであった。謙作はそれを多分事実だと思った。「そしてその事実も彼には不愉快だったが、それをする主人公の気持が如何にも不真面目なのに腹を立てた。事実は不愉快でも、主人公の気持に同情出来る場合は赦せるが、阪口の場合は書く動機、態度、総てが謙作には如何にも不真面目に映った。なおその上にそれに出て来る主人公の友達というのはどうしても自分をモデルにしているとしか彼には考えられなかった。その友達に対する主人公の気持が彼を怒らした。

 

 小説を読んで、その内容が「多分事実だと思」うということは、よくあることだが、それは日本に限ったことで、それはとりもなおさず「私小説」の悪しき伝統なのである、みたいなことを小説の授業のときによく話したものだ。しかし、ほんとうにそうなのか。西欧人はそうは絶対に思わないのだろうか、という点については何も検証したわけではなかった。おおいに反省しているが、といって、今さら検証するゆとりもない。

 西欧のことはさておき、少なくとも日本では、小説を読むと、多くの場合それが「事実」だと思いがちなことは確かである。大衆小説などのエンタテインメントは別として、いわゆる「純文学」においては、その傾向は顕著だ。だから、「純文学」なんていう「高級」なものでなくても、高校生が恋愛小説を書いたりすると、たいていは同級生から「事実」だと思われてしまって、いくらフィクションなんだと言っても信じてもらえない、というようなことが、少なくとも数十年前はあった。

 それと関連するけど、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』という恋愛小説があるが、これはラディゲが14歳の時に書いた「不倫小説」で、これを彼は「まったく経験がない恋愛を完全なフィクションとして書いたのだ」とどこかで聞いたか読んだかした覚えがあって、そんなことを授業で話したような気もする。しかし、今改めて調べてみると、どうもそんなことはなくて、この小説は彼の体験に基づいているとのことで、今さらながら拍子抜けである。いったいどこでそんなデタラメを覚えたのだろうか。(授業のことは、今さらだけど、ごめんなさい。)

 そんなデタラメを言った人というのは、たぶん、たった14歳で不倫なんてできるはずはないから、これは絶対想像だけで書いたのだと思って感心したのだろう。けれどもどっこい、ラディゲはたった20歳で死んでしまった天才だったのだ。天才だからなんでも想像できたということではなくて、天才だから14歳でも不倫ができたし、そのことを題材にして稀代の小説が書けたのだ。

 まあ、日本人は「私小説」に毒されているから、何かというと「事実」を重んじるけど、フランスでは、14歳でも「体験なし」でこんなすごい小説が書けるんだぞ、ということを「その人」は言いたかったのかもしれない。しかし、「その人」って誰だったのだろう。あるいは、ぼくの勝手な思い込みだったのだろうか。

 いずれにしても、志賀直哉自身をモデルにした謙作が、阪口の小説を読んで「多分事実だ」と思ったのは、やはり自然主義小説の洗礼をうけた時代の小説家としてはごく自然のことだったわけだろう。それだけじゃなくて、そこに出てくる「主人公の友達」は、自分をモデルにしていると思い込んでしまうところが面白い。まあ、当時の小説というのは、そういうものが多かったのだ。

 それはそれとして、この阪口という作家が書いた小説の中身はひどい。謙作でなくとも不愉快な話である。この小説は「事実」なのだろうか。阪口のモデルは誰なのだろうか。調べてみたい誘惑にかられる。

 その誘惑にかられて、「暗夜行路 阪口 モデル」で検索したところ、「《暗夜行路・前篇第一》の世界──謙作と阪口(または、または冒頭と末尾)──」(山口幸祐)という論文があっという間にみつかり、その全文もダウンロードできた。

 それによると、どうやらこの冒頭部分は、『暗夜行路』においてはとても重要な部分らしく、この「阪口」は「里見怐vがモデルらしい、というようなことが書いてある。しかし、この論文を読んでしまうと、ここにぼくが書いていることが阿呆らしく思えてくるから、ここはひとつ読まずに、勝手に書いていくことにして、いずれじっくりとこの論文を読むことにしたい。

 やれやれ、さすがに『暗夜行路』ともなると、隅々まで研究し尽くされていて、何を書いても、二番煎じだったり、勘違いだったり、誤読だったりするんだろうけど、ぼくは研究をしているわけじゃないので、「勝手なスタンス」でいくこととする。

 で、「その事実も彼には不愉快だったが、それをする主人公の気持が如何にも不真面目なのに腹を立てた。」という一文は、なかなか興味深い。ここでいう「事実」とは、「十五、六の女中と関係して、その女に出来た赤児を堕胎する」という「事件」である。そうした事件あるいは行為そのものは「不愉快」だが、その行為をする「気持ち」が「真面目」なら許せるということらしい。しかし屁理屈を言うようだが、どうしたら「真面目」にそんな行為ができるのだろうか。そんな行為をする人間に「真面目」も「不真面目」もないじゃないか。というかその人間が「不真面目」だからこそ、そういう行為が行わるのだろう。

 しかし謙作はそう考えない。「事実」と「気持ち」を分けて考えている。「強姦→堕胎」という一連の行為が、「真面目な気持ち」とセットになり得ると考えているらしい。そこが理解に苦しむところだ。

 この点について考えるに、「行為」は「事実」と言えるだろうかということがある。「十五、六の女中と関係した」という行為は、確かに「起きてしまったこと」という意味でいえば「事実」だろう。だから警察につかまって、「本当にそんなことをしたのか。それは事実か。」と聞かれれば「本当です。事実です。」と答えることになる。しかし、その「行為」はその時の「気持ち」と切り離すことはできない。あるいは「気持ち」は、その「行為」を離れては存在しないといったほうがいい。

 だとすれば、なぜ志賀は、「その事実も彼には不愉快だったが、それをする主人公の気持が如何にも不真面目なのに腹を立てた。」とわざわざ二段階に分けて書くのだろうか。その理由は、おそらくその後の「事実は不愉快でも、主人公の気持に同情出来る場合は赦せる」にあるのだろう。やったことは許せないけど、そんなことをしてしまった人間の気持ちには同情の余地がある、ということだろう。それはそれで分かるが、しかし、「事実」と「気持ち」を分けて書かなければならない必然性があるのか、やっぱり釈然としないものが残る。



志賀直哉『暗夜行路』 6 私小説的   「前篇第一 一 」その3   2019.7.12

 

 主人公はその女が余りに子供らしく無邪気なために誰からも疑われないのを利用して、平気で友達の前でその女を《からかっ》たり、《いじめ》たりする事を書いていた。お人よしで、何も気がつかずにいる友達がそれを切(しき)りに心で同情している。主人公はなお皮肉にそれを見抜きながら、多少苛々もして、その女を泣かす事などが書いてあった。
 謙作はその女中を実際嫌いではなかった。如何にも無邪気で人がよさそうな点を可愛く思った事もある。しかし阪口がこれとただの関係でいそうもない事は大概察していた。それが阪口の小説では何も知らぬ友達が心密かにその女を恋しているように書いてあった。そして主人公は腹に、ややともすると起って来る嘲笑を抑え、それを冷やかに傍観している事が書いてあった。主人公が他人の心を隅から隅まで見抜いたような、しかも、それが如何にも得意らしい主人公の気持が謙作をむかむかさせた。

 
 こういうところを読んでいると、これが「名文」だとはどうしても思えない。むしろ「悪文」ではないかとすら思うほどだ。「……ことを書いていた。」という類いの表現がこれだけの間に4回も出てくる。阪口の小説の内容を紹介する部分なので、そうとしか書けないのかもしれないが、しかし、もうすこし工夫があってもいいんじゃないだろうか。それを敢えて工夫せずに、拙劣に書く、という方法をとっているのかもしれない。実際のところはわからないが。

 文章が「名文」だとか「悪文」だとかいうことは、考えてみればどうでもいいことなのかもしれない。というか、そんなことに明確な基準があるわけではなかろう。

 それにしても、謙作の阪口に対するどうしようもない嫌悪感が虚構の枠を超えて伝わってくる。前回チラリと触れたように、この阪口のモデルは里見怩ナ、この小説は『君と私と』という作品ということだ。このことについてもう少し触れておく。

 中村光夫は、「『暗夜行路』全体の構想も、ある意味で、里見怩フ『君と私と』に対する抗議あるひは反駁と見られる。」と『志賀直哉論』で言っているとのことだし、三好行雄は、『暗夜行路 前篇第一』の「一〜十」は「典型的な私小説」「生活の微細なディテールにおいて、奇妙といってよいほどの一致、符合が発見され」「小説の時間も実生活のそれと一致し」「明治四十五年九月二十一日から十月下旬まで、ほぼ一月たらずの作者のあしどりを謙作に移して描いている」と、「仮構の〈私〉──『暗夜行路』志賀直哉」という論文に書いているとのことだ。(いずれも、前回触れた山口幸祐の論文から)

 つまりは、『暗夜行路』全体がというわけではなくて、この冒頭あたりは、極めて「私小説的」だというのが定説だったということだ。(山口論文は、そこから出発して、問題を更に掘り下げているようだ。)謙作の阪口に対する嫌悪感は、現実の志賀直哉の里見怩ヨの嫌悪感と重なると考えていいのだろう。

 どんなにこれはフィクションだよといっても、フィクションの中に埋め込まれた「実際の感情」は、隠しようもない。というか、実際の感情があるからこそ、フィクションも構築できるということではないか。作者の感情とまったく無縁なフィクション(小説)というものはないだろうし、あっても、あんまり面白くないだろう。

 この部分では、あくまで「謙作からみた阪口」が描かれていて、それは謙作の感情によって塗りつぶされているから、阪口が愚劣な男にみえるのは当然だ。その阪口を擁護するような「客観的な視点」はここにはない。ほんとうに、阪口はこんな嫌なヤツなのだろうか。そんなこともないと思うのだが。

 それはそれとして、ここでちょっと、冒頭の一文に戻る。

 

時任謙作の阪口に対する段々に積もって行った不快も阪口の今度の小説でとうとう結論に達したと思うと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持になった。

 

 この「結論」及び「清々しい気持」とはどういうことかについて、ぼくは、「それまで何だか阪口には不快感を感じていたのだが、いったいどこが不快なのかがいまいち言葉にできなかった。それが、この小説を読んで、ああ、オレはコイツのこういう点が気にくわなかったのだとハッキリした。そのハッキリしたということで、気分は『清々しい』ものとなった、ということだろうか。」と書いたけど、どうやらそういう単純なことではないようだ。

 当時の志賀直哉と里見怩フ不仲は有名だったようで、それを前提にして考えると、この「結論」は「決別」を意味しているらしく、「清々しい気持ち」も「決別すると決まればすっきりする」というようなことらしい。けれども、それですべて解決ということでもないみたいで、それが証拠に、この後の展開で、「清々しい気持」どころか、阪口への嫌悪が延々と書かれ、「決別」どころか、ずっと付き合っているのだ。まあ、その辺も含めて読み進めればよろしいということになりそうだ。

 勝手に読むとはいっても、これだけの「名作」──「駄作」という人もいることを考えれば、「有名作品」というべきか──を読むには、いろいろと参照していくほうが実りが豊かなのかもしれない。

 

 

 


志賀直哉『暗夜行路』 7 誤解   「前篇第一 一 」その4   2019.7.17

 

 謙作が茶の間で着物を着替えていると、座敷から阪口と竜岡の話声が聞こえてくる。

 

 二人は如何にも呑気な調子で話していた。謙作は何だか自分だけが鯱張(しゃちこば)っているような変な気がした。皆が平気でいる中に一人怒っている自分が狐につままれたように馬鹿気ても見えた。そして彼は一人不愉快を感じた。

 

 謙作は、いったい阪口はどういう魂胆でやってきたのだろうといろいろ推測して、阪口に何と言ってやろうかという考えで亢奮していたので、二人の呑気な話声が「不愉快」だった。

 しかし、二人の会話もよく聞いてみると決して呑気なものではなかった。

 

 「いやな小説だ。それもいいが、中に出て来る気の利かない友達は僕をモデルにして書いてあるのだ。昨日見てすっかり腹を立てて、今朝起きぬけに出掛けて、怒ってやった所だ」
 阪口は新聞から眼を放さず、にやにや笑っていた。竜岡は一人いい続けた。
 「大部分空想だというが、怪しいものだ。阪口のやりそうな事だ」
 阪口はこんなにいわれても別に不愉快な顔もしなかった。彼の腹は解らなかった。しかし彼の行為の上の趣味からいって、こんなにいわれながらただにやにやしている事は確かに彼自身気に入っているに違いなかった。そういう所に優越を彼は示そうとしている。また―つは竜岡が全然異(ちが)う仕事をしている所からも、その余裕を持てるらしかった。竜岡はその年工科大学を出て発動機の研究のため近く仏蘭西へ行くつもりでいる。
「他人の気持を見透(みとお)したような書きぶりが一番不愉快だといってやったんだよ。《たま》には当る事もあるが、人間の気持は直ぐ動いているから、次の瞬間にはもうそれを反省しているし、或る場合、同時に反対した二つの気持を持っている事もある。ところが阪ロの書く物では主人公に都合のいい気持だけが見られて、不都合な方にはまるで色盲なんだ」
 「もう解ったよ。何遍繰返したって同じ事だ」阪口もちょっと不快(いや)な顔をした。
 「今朝から散々油をしぼっているんだよ」竜岡は謙作の方を向いて多少神経的に笑った。
 「しつっこい奴だ」と阪口が独語(ひとりごと)のようにいった。
 「ええ?」竜岡もむっとしていった。「この位の事をいわれて君に腹を立つ資格はないよ。腹を立つなら、もっといくらでもいうよ。君は一トかど悪者がっているが、悪者としてちっともなってないじゃないか。書いたものでは相当悪者らしいが、要するに安っぽい偽悪者だ。──堕胎が何だい」竜岡はつっぱなすようにいった。彼は今まで快活らしくはしていたが、その実阪口のにやにやした態度に不愉快を感じていたらしかった。そして、それを破裂さした。竜岡は小柄な阪口に較べては倍もあるような大男で、その上柔道が三段であった。そういう点からも阪口はすっかり圧迫されてしまった。謙作は先刻(さっき)から阪口に対する自分の態度を如何(どう)決めていいかわからないでいる内に竜岡がこんな風にやってしまったので、その白けた一座をどうしていいか分らなかった。そのまま三人は黙っていた。

 

 竜岡は竜岡で、「中に出て来る気の利かない友達は僕をモデルにして書いてある」と言う。謙作も、竜岡も、阪口の小説に出てくる「友達」が、自分をモデルにしていると思い込んでいるのが面白いし、意外だ。

 謙作の気持ちのところを読んでいると、モデルは謙作以外にありえないように思えるのだが、竜岡の言葉を聞くと、え? って感じだ。二人とも自分だって思うってことは、二人とも思い当たるフシがあるってことで、それを阪口に「見透かされた」ことに不快を感じているわけだ。

 こういうことってどこにもあるような気がする。つまり、人間は多かれ少なかれ自意識過剰で、「友達」って書いてあるだけで、あ、オレのことか? って勝手に思い、その思い込みで読んでしまう。阪口に対する感情や言動は、仲間なら似ているところもあるだろうから、「オレだ!」と思うフシは至るところにあるわけだ。

 ほんとのところは多分「友達」は謙作なんだろうが、それを竜岡が勝手に思い違いしているのが、阪口には愉快なのかもしれない。だからニヤニヤ笑っているとも考えられる。

 謙作がどう思っているか阪口はまだ知らないにしても、竜岡が誤解するぐらいだから、阪口の書き方はそれほど個人を髣髴とさせる具体性がないのだろう。それだけ抽象度が高いともいえて、せっかく、そのように抽象的に書いているのに、竜岡が自らオレだと名乗り出て憤慨やるかたないのが、可笑しいのかもしれない。それはそれでよく分かる。

 竜岡の憤慨ぶりは、どうもこの小説だけから来るのではなくて、日頃の阪口の言動から来ているらしい。その点では、謙作と同じだ。謙作も阪口には日頃からため込んできた「不愉快」があり、それがこの小説で決定的になったのだ。

 で、二人に共通する阪口への「不愉快」は、竜岡の言葉では、「他人の気持を見透(みとお)したような書きぶり」であり、謙作の場合は、「主人公が他人の心を隅から隅まで見抜いたような」ところということになる。お前の心の中なんか、オレにはお見通しだぜ、といったような態度をとられたら、誰だって不愉快になる。とくに、謙作や竜岡のような自意識過剰な自信家にとっては耐えられないことだろう。

 いや、それほどの自信家でも自意識過剰でなくても、他人に自分の心を「見透かされる」ことほど腹立たしいことはないといえる。それは、ほとんどの場合、「誤解」だからである。いや「誤解」というのは不正確かもしれない。正確にいえば、「自分の認識とはずれている」ということだろう。

 たとえば、謙作の場合、その女中に対する気持ちは「嫌いではなかった」のだが、阪口がその気持ちを「見透かして」、「謙作は女中が内心好きだったのだ。」と書くと、謙作からすれば、「そうじゃない」と言いたくなるわけだ。「嫌いではない」と「好き」は同じじゃないかということにはならなくて、そういうふうに言語化してまとめられるとやっぱり「本当の気持ち」とは違うものになる。違うものになるけれど、一部は当たっているので、無視できない。そうかといって、その「違い」を事細かに言語化することはできない。

 謙作の場合に限らず、こうしたことは、よく起こるのだ。だから、まかり間違っても、「結局さあ、君の気持ちっていうのはこういうことなんでしょ?」って言ってはダメだ。「結局」は禁物なのだ。それが「当たらずといえども遠からず」であった場合、相手は必ず「見透かされた」と思って不愉快になる。誰だって「他人にオレの気持ちが分かってたまるか」と内心思っている。それは、自分の気持ちが単純なものであるはずがないと思いたいからだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 8 フィクションの威力 「前篇第一 一 」その5   2019.7.24

 

 竜岡は文学者ではなくて、工科大学を出た技術者で、今度発動機の研究のためにフランスへ行くことになっている。この竜岡のモデルについてはまだぼくは知らないけど、誰かいるのだろう。竜岡は、11月12日の船で出かけるらしい。

 謙作は、図体の大きい竜岡に気圧されてしまった阪口が気の毒になりながらも、やはり、作中の「友達」のモデルが果たして誰なのか気になってしかたがないのだった。

 モデルとする場合、場面や場所を変え、風貌も変えて、性格だけモデルにするとか、その逆とか、いろいろあるわけで、そういう場合も想定してあれこれ謙作は考える。

 

 実際阪口が竜岡にそういうかどうかは分らないが、「場面はなるほど君との場面を借りた。しかし性格がまるで異うじゃないか」こんなとをいいそうな気が謙作にはした。謙作はこれは阪口の猾(ずる)いやり方だと思った。もし自分が性格だけは僕をモデルにしたに違いないと掛合って行けば、それは同時に自身の性格をその作中の下らない人物のそれに近いものと認めることになる。むしろ書かれた場面が実際自分との間にあった事ならばかえって怒りいい。しかし性格だけを自分に取ったろうとはいいにくかった。それほどに下らない人物に書いている。竜岡が怒れば君をあんな性格の人間とは誰が思うものかといい、自分が怒れば、君はああいう性格の人間と自分で思っているのだねといい兼ねない。此処に阪口の変な得意がありそうに思うと謙作はなお腹が立った。

 

 なるほどここらあたりが「モデル問題」の難しいところなのかもしれない。実名で名指しして書いたエッセイなんかのノンフィクションならともかく、いくら似ていても、いくら思い当たるフシがあったとしても、あくまでフィクションとして書かれた小説なのだから、いくらでも言い逃れはできるわけで、「お前、これはオレのことだろ!」って言うのは、かえって剣呑だ。自己認識をさらしてしまうことになるからだ。

 その点で、フィクションとしての小説は、「批判」のための強烈な武器になる。たとえば、現政権を痛烈に批判する意図があるならば、当の政権担当者が、「これはオレのことだろう!」って言えないほど徹底的なフィクションを構築する必要がある。今公開中の映画『新聞記者』は、その点でちょっと残念だった。この映画のスジだか概要だかを官邸が知って「激怒した」という噂があり、マスコミの宣伝を阻害しているとかいう噂まであるけれど、その妨害をSNSで突破して上映され集客も順調だということに拍手していればいいというものでもない。

 官邸が「激怒した」ことがほんとなら、それこそ「これはオレのことだろう!」って言ってることになり、官邸も窮地に追い込まれるはずなのに、そうならないのは、この映画が、原作者の望月衣塑子や前川喜平を(といっても、ぼくはこの2人のことはあんまりよく知らないのだが)、テレビ映像の引用とはいえ、実際に登場させてしまって(それも何度も)、フィクションの密度を薄めてしまったことによる。そのことで見る者は、現実の望月衣塑子や前川喜平の言動に引きずられてしまって、フィクションの世界に没頭できなくなる。現実にはみんなうやむやになっている事件がほとんどそのまま出てくるから、観客も、まあ実際にはそんなこともあるんだろうけど、ほんとのところは分からないよね、といった地平で見てしまう。

 そういう中途半端なことをしないで、現実から一端切り離して、望月も前川も一切出さないで、新聞社の名前も実名を出さないで、全部フィクションとして作りあげ、その上で、真に震撼すべき「真実」を、フィクションとして提出する、それがこの映画をもっと恐るべきものにする鍵だったと思うのだ。それがどんなに「ありえない」ことであろうと、その「ありえない」ことを、「ありうるかもしれない」と感じさせるフィクションこそが求められている。というのは、今現実に起きていることは、なまじなフィクションを遙かに超えて「ありえない」感満載だからだ。

 映画にしても、小説にしても、フィクションの問題は、いつも新しい。

 さて、竜岡だが、なぜわざわざ謙作に家に阪口と一緒にやってきて、阪口への非難をことさらのように謙作に聞かせるのだろうか。モデルが自分だと確信しているのなら、謙作は無関係じゃないのか。そういう疑問を謙作も持つのである。

 

 竜岡には昔気質(むかしかたぎ)がある。もしかしたら作中の友達が同時に謙作をもモデルにして書かれてある事を承知の上で、故意(わざ)と自身だけがモデルかのようにいって、阪口をやっつけたのではあるまいかと、謙作は思った。竜岡はそうする事で一方阪口を懲(こら)し、他方で、二人の間を多少でも気まずくなくして日本を去りたいと思っているのではあるまいか。それでなければ阪口をわざわざ連出して来て、自分の前でこれほどにやっつけることが普段の彼の気質としては少し不自然に考えられた。竜岡には短気な性質もあった。しかし自分だけの問題に第三者のいる前であれほどに露骨にいう彼とも思えなかった。謙作には其処に何か彼の昔気質から出た思惑がありそうにも思われた。

 

 「昔気質」──これをどう解釈するのか問題だが、まあ、いちおう「義侠心」とでもしておこうか。友達のことを思うあまり、時には自分のことを犠牲にしてしまうというような。ここでいえば、自分が小説のモデルであるという損な立場をひっかぶってでも、謙作と阪口の仲を取り持とうとするような義侠心ということだろう。

 この部分が書かれたのは、おそらく1921(大正10)年。なんと今からほとんど100年前である。100年前に「昔気質」と言われてもなあという戸惑いがある。この竜岡のような「気質」が、すでに100年前に「昔」のものであったなら、それから100年たった今、そんなものが残っているはずもないような気もするのだが、どっこいそうでもない。こういう「気質」の人間は、今だってそこらじゅうにいるだろう。もちろん少数派だろうが、それは100年前だって同じことだ。

 時代がどんなに変わっても、世の中には一定数の「昔気質」の人間が存在するということだろう。彼らはいつも周囲から「古い、古い」と言われ続けるわけだが、その「古さ」は、いつまでたっても「古い」ままだから、ある意味、いつまでも「新しい」ともいえるのだ。

 謙作は、竜岡の「気質」をよく分かっているから、そこにある「思惑」に気づくのだ。なかなか細やかなことである。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 9  吉原──下品な光 「前篇第一 二 」その1   2019.8.8

 

 竜岡は、パリに、浮世絵をお土産として持っていきたいから買い物に付き合ってくれと謙作に言う。

 

「支度はもう出来たのかい」
「別に大した支度もないからネ。──それはそうと、浮世絵を少し買って行きたいと思うんだが、何時か一緒に見に行ってもらえないかな。どうせそう高い物は買えないが、彼方(むこう)で世話になる人の贈物にしようと思うんだ」
「此方(こっち)もよくは解らないが、何時でもいい。行こう。しかしこの頃は随分高くなったらしいよ。前の相場を知っていると買う気がしないそうだ。もしかすると巴里で買う方が安い物があるかも知れないよ」
「そいつは困るな。何か別の物にするかな」
「榛原(はいばら)の千代紙でも持って行っちゃ、どうだい。生じっかな浮世絵より子供のある家なんかは喜ぶだろう」

 

 竜岡は、3人の気まずい場面からの脱出を考えたのだろうか。

 ここに出てくる「榛原」は、今ではとっくに潰れているかと思いきや、調べてみると、今でも日本橋にちゃんとある和紙の店だ。もっとも知っている人は知ってるんだろうけど、ぼくはちっとも知らなかった。東京というところは、やっぱり奥が深い。

 で、さっそく3人は、赤坂福吉町の謙作の家を出た。午後の四時頃だったとある。日本橋の「榛原」で千代紙を買って、木原店(きはらだな)の料理屋で食事をした。

 この木原店というのは、「食傷新道」とも呼ばれたそうで、「東京都中央区日本橋一丁目の東側にあった新道『木原店』の俗称。魚河岸をひかえて食物の店が多かったという。食傷通り。」(日本国語大辞典)ということらしい。日本橋高島屋があるあたりだろうか。こういうのをいちいち調べて、現地へ行ってみるというのも面白そうだ。

 食事のあと、竜岡が突然、これから吉原見物に行きたいと言い出した。謙作は、ためらったが、結局は行くことになる。その吉原の光景がこんなふうに描かれる。

 

 新開地のような泥濘路(ぬかるみみち)に下品な強い光がさしている。両側の家々からは鮮やかな、しかし神経を疲らしている者は、そのため吐気を催すかも知れないほど、あくどい色の着物を着た女たちが往来を通る男に叫びかけている。それは憐憫(れんみん)を乞うようにも、罵るようにも聴きなされる叫声であった。


 この描写は、謙作の視点から書かれているのだろう。謙作の嫌悪感に色濃く染まった描写だ。こういうところに足を踏み入れたことのない謙作には、さし込む光も「下品」に見えたわけだ。それにしても、こんな書き方、普通はしないよなあとちょっと驚く。と同時に、「あくどい色の着物を着た女たち」なんていう表現は、確か、室生犀星の小説にはあったなあという記憶がある。

 さて、竜岡に誘われたときの謙作の心境だが、こんなふうに書かれている。

 

 竜岡が突然、これから吉原見物に行きたいといい出した。西洋へ行く前に見た事のない吉原を一度見て行きたいというのだ。
「謙作、いいだろう? ただ見物だけだ」彼は気兼ねをしながら謙作を顧みた。謙作もまだそういう場所を知らなかった。彼は不愛想に生返事をしたものの、心ではかなり拘泥した。そういう場所には決して足を踏入れまいというほどの気はなかった。何方(どっち)かといえば多少の興味もあった。それ故、今竜岡にそれをいわれると冷淡を粧いながら、妙にドキリとした。

 

 なんだかヘンテコな書き方だ。「そういう場所には決して足を踏入れまいというほどの気はなかった。何方(どっち)かといえば多少の興味もあった。」なんて回りくどいこと言わなくても、「とても興味があったけれど、勇気がなかった。」って書けばいいじゃんって思う。「妙にドキリとした」のは、どうせお前は勇気がないから、何にもできやしまい。だから見物だけだ、いいだろ? って言われて、自分の臆病さを見透かされたと思ったからだろうか。ここのところは結構複雑微妙だ。

 

 ──謙作と竜岡は電信柱の多い仲の町(なかのちょう)まで出て、其処で遅れた阪口の来るのを待っていた。阪口は如何にも酔漢らしい様子をしながら、格子とすれすれに、時々何か女に串戯口(じょうだんぐち)をききながら歩いていた。
「オイ、早く来ないか」と竜岡が声をかけた。「空模様が少し変になって来た」
阪口は聴えない振りをしてやはりぶらぶらと歩いている。謙作は空を仰いで見た。黒い雲が建並んだ大きな建物の上に重苦しく被いかぶさっていた。

 

 阪口は謙作や竜岡とは違って、遊び慣れているのがよく分かる。この辺の描写はとても生き生きとしている。この後も、店に入ってから翌日帰るまで、実にいい。吉原というところの面白さがよく伝わってくる。こういうところがなくなってよかったのか、悪かったのか知らないが──たぶんよかったのだろうが──やはりひとつの「文化」が消えたことは確かだ。

 雨が降り出して、3人は一軒の店に入る。

 

 ポツリポツリ雨が落ちて来た。三人はかなり疲れていた。結局その辺の茶屋で少し休んで行く事にした。筆太に色々な屋号を書いた行燈を出した同じような家が両側に軒を並べている。三人はいい加減に西緑(にしみどり)と書いた、その一軒に入った。

 

 短い文を淡々と重ねていく書き方。うまい。省略せずに続けて引用する。

 

 「どうぞ」といって、まだニスの香(か)の高い洋風の段々から彼らを表二階の座敷へ導いた。新築の白っぽい木地には白熱瓦斯(がす)のケバケバしい強い光りが照り反(かえ)していた。そしてそれとはおよそ不調和に、文晃とした、汚れ切った横物の山水が浅い置床に掛けてあった。ニスの香の高い洋風の段々といい、この不調和な生々しい座敷の様子といい、芝居の仲の町とは大分趣の異(ちが)ったものだと謙作は思った。彼は多少落ちつかない気持で、柱に背を寄せかけて、ジーンと音でもしていそうな疲れ切った膝から下を立膝にし、抱えていた。

 

 「ニスの香」「白熱瓦斯の光」「文晁の(もちろんに獲物だろう。「お宝探偵団」なんかでも、文晁ときたらまず偽物だ。)山水」すべてが不調和で、汚らしい。そして、現実に見る吉原の店と、歌舞伎で見るそれとのギャップ。ギャップは二重になり、混沌としているさまは、まさに日本の近代そのものだ。これらの「不調和」は、現代でも至るところにあるけれど、現代人はそれを「不調和」とすら感じなくなっている。まだまだこの頃は、「不調和」は「不調和」として意識されていたのだ。

 

 女将と入れ代って眼の細い体の大きな、象のような印象を与える女中が茶道具を持って入って来た。
 「小稲(こいね)という人はいるかい」物馴れた調子で阪口が訊いた。
 「さあ、もう晩(おそ)うござんすから、有ればようございますが。お馴染なんですか」
 「いいえ」阪口は済まして答えた。
 人のよさそうな女中はそれを真に受けていいものか、どうかを迷うらしかった。そして、
 「ちょっと見て参りましょう」と降りて行った。
 謙作も竜岡も何かしらぎごちない気持に捉えられていた。竜岡はそれを払いのけるように餉台(ちゃぶだい)の上の姻草盆から紙巻へ火を移すと、勢よく立ち上って、障子を開け、一人縁ヘ出て行った。彼が、がたがたいわして其処の硝子戸を開けると、同時に雨の音、泥濘を急ぐ足音などが聴えて来た。
 「いい恰好をして駈けて行く」彼は通を見下ろしながらいった。
 女中が今いった芸者の断りと、代(かわり)をいって来た事とをいいに来た。

 

 「彼が、がたがたいわして其処の硝子戸を開けると、同時に雨の音、泥淳を急ぐ足音などが聴えて来た。」がいい。それまでの「ニスの香」「瓦斯の光」といった嗅覚・視覚の描写に、「硝子戸」を開ける「がたがた」という音、その次に「雨の音」「泥濘を急ぐ足音」と聴覚が加わり、一挙に現実感が増すさまはさすがに見事というほかはない。

 それにしても、「象のような印象を与える女中」なんてひどいなあ。こんな書き方も今ではしない、と思う。阪口もどこまで遊び人なんだかよく分からない。お馴染みでもないのに「小稲」なんて名前を知ってるというのはどういうことなのか。「西緑」という店も、ただふらっと入ったというわけでもなさそうだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 10 雨の吉原、きらめく瓦斯灯 「前篇第一 二 」その2   2019.8.14

 

 間もなく、その芸者が入って来た。芸者は若かった。そして変に不愛想にしている三人を見ると、取りつき端(ば)がないようにちょっと赤い顔をした。芸者は長い綺麗な襟足を見せて、静かに高いお辞儀をした。謙作は美しい女だと思った。そして、物馴(ものなれ)ない自分たちは仕方がないとしても、阪口までが何故いやに冷淡な顔をしているのかしらと思った。しかし間もなく阪口は「何ていうの?」とか「何家(どこ)?」とか訊いた。登喜子という名であった。
 小鼻の開いた、元気のいい、しかし余り上品でない、名まで男の児のような豊(ゆたか)という雛妓(おしゃく)が入って来た。
 登喜子は豊と一緒に次の間へ下ると、豊が太鼓を張る間、三味線を箱から出して、調子を合せた。
 登喜子は痩せた脊の高い女であった。坐っていても何となく棒立のような感じがした。動作にも曲線的な所が少なかった。その癖妙に軽快な、やはり女らしい感じがあった。


 今さら言うのもなんだけど、ぼくはこういう場所を実地としてはまったく知らない。吉原がなくなったのは、ぼくが小学生のころだから知るわけもないのだが、大人になったあとも、教師などという固い仕事についたから、こうした遊びの場に身をおいたことがほとんどない。ほとんどない、というのは、職員旅行の宴会などで、芸者が来たことが二度ほどあったからで、なるほどお座敷で三味線なんかをまだ弾くんだあと感心はしたが、別に楽しくもなかった。

 吉原で、どんなふうに遊んだのかということなんかは、落語や歌舞伎で、あるいは小説で、ある程度の知識は得てきたけれど、実際のところはよく分からない。

 ここに出てくる芸者の登喜子というのも、美人なんだか、そうじゃないのかよく分からない。「謙作は美しい女だと思った。」とあるのだから、美人なんだろうとは思うけれど、座っている姿が「棒立」のような感じがして、動作に「曲線的なところが少なかった」ということになると、どうもあんまり魅力的じゃない。でも、「その癖妙に軽快な、やはり女らしい感じがあった」というのでは、イメージの描きようがない。

 そのうえ、一緒に入ってきた豊という雛妓が「小鼻の開いた、元気のいい、しかし余り上品でない」女の子で、名前が男の子みたいというわけだから、こっちも可愛いのかどうなのかはっきりしない。

 で、準備が済んで、豊が下手な踊りをして、その後トランプをして遊ぶことになる。そのうち、11時を過ぎてしまう。こんなふうに遊んだのだろうか。「その先」もあるんだろうけれど、どうにも「手順」が分からない。ぼくも、そして、ひょっとしたら謙作たちも?

 

 十一時過ぎていた。謙作は硝子戸越しに戸外を眺めながら、
 「どうするネ?」といった。
 「そうだなあ」と竜岡も生返事をして一緒に戸外を眺めた。雨はひっきりなしの本降りになってしまった。もう人通りも前ほどではなかった。一台の自動車が雨の糸をその強い光りで銀色に照らしながら通り過ぎた。
 有耶無耶(うやむや)に尻を落ちつける事になって、皆はトランプの二十一をした。

 

 へえ、そうなんだ。男三人と女二人で、トランプしているうちに夜があける。夜道を走る自動車の描写がいい。

 そのうち、「軍師拳」という遊びをすることになる。

 

 竜岡が大きな声で、
 「オイ、皆、賭けろ賭けろ」といった。
 眼の細い女中も仲間入をして、軍師拳の遊びをする時だった。謙作は時々登喜子と手を握合わせねばならなかった。
 「今度はこれだ」こんな事をいって、肩と肩とを附けて背後で暗号の指を握る。そして敵方の支度がおそかったりすると、
 「ちょいと、これでしたわネ」と登喜子は謙作の顔を覗き込むようにして、同じ指を握返したりした。そんな時、他の人の場合では、感じない鋭敏さを以って、その握方の強さを彼は計った。そして此方から彼方を握る場合にも、同じ鋭敏さで握方が、それ以上、何の意味をも現わさないように注意した。彼は登喜子が多少でも意味のある握方をする事を恐れた。望みながら恐れた。これは矛盾だった。しかし、それが彼の神経で、また行為の上の趣味でもあった。その癖彼はやはり何かで登喜子の好意の証が見たかった。

 

 「軍師拳」のやり方がイマイチよく把握できないけど、まあ、要するに手を握ることが必然となる遊びだろう。その時に、その手の握り方で、お互いの気持ちを確かめるみたいなことなんだろう。

 せっかく吉原に繰り込んだんだから、もっと盛大にいけばいいのに、これではまるで中学生じゃないか、って吹き出しそうになる。まして「望みながら恐れた。これは矛盾だった。しかし、それが彼の神経で、また行為の上の趣味でもあった。」なんて、大真面目に書いているところが実に滑稽だ。しかし、この滑稽さを滑稽だと思わずに、大真面目で書くところに志賀直哉の真骨頂があるのだろう。

 そのうち、こんどは「ニッケル遊び」をやることになる。まず二組に分かれる。

 

 親になる人が真中になって、五銭の白銅を握った拳(こぶし)を他の拳と重ねる。交る交る一方を上にして、しまいにその白銅が何方(どっち)の手にあるか分らなくした所で片々ずつ両側の子の握り拳に重ねる。そしてそれを移すとも移さぬとも見せて、最後に皆握った両手を膝の上へ置く。敵方は見ていて、白銅のないと思う手から開けさして行って、その空の手を余計取ったほど勝になる、そういう遊びである。

 

 まあ、何となくわかるが、たわいのない遊びである。しかしその光景が妙に鮮やかだ。「瓦斯灯」の光が味わい深い。蛍光灯やLEDじゃこうはいかない。コントラストが違うもの。


 今、まぶしいほどの瓦斯の光の下に、謙作の組の三人が並んで行儀よく手を膝の上に出していた。豊は子供らしいふっくらした小さい手を派手な友禅模様の上に並べていた。登喜子は女としては、大きい方だが、形と皮膚の美しい手をやはりそうしている。黒い着物の上だけに一層それは美しく見えた。その間で一人、謙作だけが、折目もなくなった着物の上に大きい節くれ立った、その上黒い毛の沢山に生えた手を節の上だけが白くなる位堅く握締めて出していた。


そうして、みんなが出した手を眺めながら、阪口が言う。

 

 「どうせ謙作にもないと思うがネ」と、もう一度、組へ確かめておいて、「へえ、その熊のような毛の生えた手を両方」といった。豊は大きな声を出して笑った。謙作は黙って武骨な空の手を膝の上で開けた。そして不愉快を感じた。
 彼は先刻(さっき)軍師拳の遊びを始めた時から自分の武骨な手に拘泥(こだわ)っていた。或る不調和な感じが、それに平気になろう、なろうと思いながらなかなか退かなかった。それを今、阪口が露骨に指摘した。勿論彼は指摘された事でも不愉快を感じたが、それよりも、そんな事で自分に不愉快を与えようとした阪口の低級な底意になお腹を立てた。

 

 冒頭で示された阪口への「不愉快」は、ここまで尾を引いていたというわけだ。

 それはそれとして、ここは妙に謙作の気持ちに共感できるのだ。というのも、ぼくも「毛深い手」なので、それに拘泥する謙作の気持ちがよく分かるのだ。人間のコンプレックスなんてどこにあるか分かったものではなくて、他人からみれば、別にいいじゃんと思うようなことでも、本人は死ぬほど悩んでいたりするものだ。

 阪口が謙作を不愉快にさせようとして、わざわざ謙作がコンプレックスを感じている「毛深い手」を持ち出したわけではないだろうが、謙作にはそうとしか考えられない。そうやって人と人は憎しみを深めていくのかもしれない。

 そんなことをしているうちに3時、4時になってしまう。

 

 三時、四時になると戸外も静まって来た。雨も小降りになって、地面を突きながら廻る鉄棒の響が冴えて聴えた。
 阪口の眼は引込んで、はっきりとニタ皮になっていた。彼は何かしら苛々しながら肉体からも精神からも来る凋残(ちょうざん)な気持に自身を浸し尽くして、かえってだらしなく絶えず饒舌(しゃべ)っていた。

 

 「凋残」とは「すっかり衰えること」「おちぶれること」の意。ここに阪口の内面がやっとほの見える。この阪口のすさんだ気持ちが見えることで、この吉原の遊びのシーンは一挙に内面的になる。


 夜が明け始めた。疲れと酔いとで、竜岡も阪口も、もう其処へ寝ころんで、うとうととしていた。豊は縁へ出て、秋らしい静かな雨の中を帰って行く人々をぼんやり眺めていた。騒ぎに着崩れた彼女の着物は、裾拡がりの不様な恰好になっていた。瓦斯の光りが段々に間が抜けて来た。食残された食物の器とか、袋なしに転がっている巻煙草とか、トランプとか、碁石とか、それらの散らかっている座敷の様子が、如何にも何か一段落ついたという感じを与えた。
 謙作も疲れていた。彼は前日の寝不足からもかなり疲れていたが、何かしら腹の底で亢奮していた。そして一人「席取り」の遊びに使った座蒲団を積み重ねた上に腰掛けていた。酒と塵埃(ほこり)で薄よごれた顔をしながら、こんなにしている自分たちが甚く醜く不愉快に感ぜられた。彼は一刻も早くこの場面から自由になりたかった。彼は自分の普段の気分を根こそぎ何処かへ持って行かれたような気がした。そしてそれを取戻そうとでもするように下腹に力を入れて、自身の胸や肩のあたりを見廻したりした。


 一晩中他愛ない遊びに夢中になったその後の気分の描写として、こんな見事な文章はめったにないだろう。

 疲れ切った謙作は、「一刻も早くこの場面から自由になりたかった」という。謙作にとっては、「普段の気分」こそが大事なのだ。「この場面」にいるかぎり、その気分はどこかに持っていかれ、「不愉快」しかない。はやく、普段の気分を取り戻そう、そういう謙作の強い意志のあり方が印象的である。

 謙作はふと兄の信行のことを思い出し、電話をするが、まだ寝ているとのこと。三人が「しとしと降る秋雨の中へ出た」のは、朝の9時頃だった。

 雨がどこまでも印象的な吉原である。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 11 引手茶屋、山羊、大阪料理  「前篇第一  二 」その3   2019.8.21

 

  前回、謙作が竜岡、阪口と一緒に行った吉原の「西緑」という店は、詳しい記述がなかったので、どういう店なのかよくわからなかったのだが、その後を読むと、それが「引手茶屋」だったと書いてある。書いてあっても、浅学なぼくにはそれの何たるかを知らないから、調べてみたら、こんなことだった。

 

遊廓で遊女屋へ客を案内する茶屋。江戸中期に揚屋(あげや)が衰滅した江戸吉原でとくに発達した。引手茶屋では、遊女屋へ案内する前に、芸者らを招いて酒食を供するなど揚屋遊興の一部を代行した形であった。そこへ指名の遊女が迎えにきて遊女屋へ同道した。引手茶屋の利用は上級妓(ぎ)の場合に限られたから、遊廓文化の中心的意義をもった。全盛期には仲ノ町の両側に並び尽くしたが、明治中期ごろから急速に衰退した。[原島陽一]《日本百科全書》

 

 なるほど、そういうことならよく分かる。夜が明けるまで、トランプなんかして遊んでいたのも、そういう場所だったのね、ということだ。謙作たちは、引手茶屋に居続けて、遊女屋には行かなかったのだ。

 昔の読者はこういうことは、その場所の描写をちょっと読めば、ああ、これは引手茶屋ね、とすぐに分かったのだろうが、今の読者にはなかなかそうはいかない。この読書も遅々として進まないのも、ある意味、仕方ない。仕方ないというよりも、こうしたことにいちいち拘って読んでいると、そこにいろいろな発見があっておもしろい。

 さて、その引手茶屋から帰った謙作だが、その家の様子がこんなふうに書かれている。

 

 謙作は午頃(ひるごろ)疲れ切って自分の家へ帰って来た。門を入ろうとすると、その一週間ほど前から飼っている仔山羊が赤児のような声を出して啼いていた。彼はそのまま裏へ廻って、物置と並べて作った小さい囲いの処へ行った。仔山羊は丁度子供が長ズボンを穿(は)いたような足を小刻みに踏みながら喜んだ。
 「馬鹿馬鹿」
 仔山羊は小さい蹄(ひづめ)を囲いの金網へ掛けて出来るだけ延びあがった。謙作は隣から塀越に落ちる黄色い桜の葉が前日からの雨で、ピッタリ地面へくっついているのを五、六枚拾って、中へ入って行った。仔山羊は細かい足どりで忙(せわ)しく彼へ随いて廻った。謙作が蹲踞(しゃが)むと仔山羊は直ぐ前へ来て、懐へ首を入れそうにする。
 「ヤイ、馬鹿」
 仔山羊は美味(うま)そうにその葉を食った。揉むように下顎だけを横に動かしていると、葉は段々と吸い込まれるように口ヘ入って行った。―つの葉が脣(くちびる)から隠れると謙作はまた次の葉をやった。仔山羊は立ったままの姿勢で口だけを動かし、さも満足らしく食っている。謙作はそれを見ている内に昨夜来自分から擦抜(すりぬ)けて行った気分を完全に取りもどしたような気がした。


 家で山羊なんかを飼う習慣は、都会ではもうないが、田舎では結構飼っていたらしい。家内の母なども、高知の出身だが、子供のころは山羊が家にいたとよく言う。このころは、東京のど真ん中でも、山羊なんかを飼っていたのだ。

 その山羊に「馬鹿馬鹿」と呼びかけるわけだが、すごい違和感がある。最初読んだとき、何のことか一瞬分からなかった。これは謙作だけの特殊な言葉遣いなのか、それとも、当時は飼っていた動物を「馬鹿」って呼ぶのが一般的だったのだろうか。今時は、「ウチの犬がね」なんて言ったら顰蹙もので、「ウチの子がね」って言わねばならないらしいから、犬の散歩中に、その犬に向かって「おい馬鹿、そっちへ行くな」なんていったら、通報されそうだ。

 それはそうと、この仔山羊の描写は必要以上に精密だ。「丁度子供が長ズボンを穿(は)いたような足」なんて漫画みたいで可愛いし、葉っぱの食べ方の描写も目に見えるよう。『城の崎にて』を髣髴とさせる。こういうのは、志賀直哉は大得意のようだ。
動物の子供というのは、猛獣だろうとヘビだろうとみな可愛いけれど、山羊とか羊の可愛さはまた格別で、できることなら、我が家でも飼ってみたいと思うほどだ。ま、もちろん無理だけど。

 こうした微笑ましい動物の様子を見ているうちに、謙作は昨日からどこかへ行ってしまったかにみえて普段の気分を「完全に取りもどしたような気がした」のだった。そういう意味では、この仔山羊の描写は「必要以上」ではないのだろう。

 お栄が顔を出す。

 

 「昨晩は竜岡さんへ?」
 「妙な処へ行きました。吉原の引手茶屋で夜明しをしました」
 「へえ。阪口さんの御案内なの?」
 謙作は前夜からの事を簡単に話した。そして、
 「初めてああいう処へ行ったんだけど、何だかそんな気がしなかった」といった
 「初めてじゃあ、ありませんもの。お行の松にいた頃にお祖父さんと三人で行った事がありますよ。何でもあれは国会が開けて、梅のつき出しのあった時だったかしら」
 「そんな事はない。国会の開けた年なら、僕が三つか四つだもの」
 「そう? そんなら何時だろう。夜桜かしら」
 お栄は、夜桜の頃の仁輪加の話をした。そういわれると謙作にはそれを見たような記憶がかすかにあった。

 

 ここで、ようやく「西緑」が引手茶屋だったことが分かるわけだ。

 「梅のつきだしのあった時」って何だろうか。「つきだし」に傍点がふってあるのが、どうにも調べようがない。

 それに、「国会が開けた年」って帝国議会の開催だろうか。とすれば、明治23年ということになって、時代的にはあうが、「お祖父さん」と「国会」との関係はどうなっているのか。これはいずれ分かるのだろうか。

 お祖父さん」と「お栄」と「謙作」で、引手茶屋に行く、というだけで、これはちょっと普通じゃないないなと思われる。この三人の複雑な関係を暗示しているようである。

 さて、そこへ謙作の兄の信行がやってきて、ちょっと出かけないかと謙作を誘う。謙作はついていく。

 

 信行は日本橋の方の小綺麗な大阪料理屋へ謙作を連れて行った。謙作は此処でまた、兄に吉原見物の話をした。そして登喜子という芸者の事をいうと、「あれはなかなかいい芸者だよ、俺も半玉の時分に一度会った事があるが、何処の土地へ連れて行っても恥かしくない芸者だ」信行はこんなにいった。そして不意に、
 「深入する気でもあるのか?」といった。
 謙作はちょっとまごついた。彼は少し赤い顔をしながら、
 「深入するとすれば、如何(どう)すればいいのか僕には見当が附かないもの」といった。
 信行は大きな声をして笑った。そして、
 「金がかかるぞ」といった。
 信行は学生時代からそういう方には通じていた。一(ひ)と頃芸者を囲っているというような噂を謙作は聞いた事がある。今も独身で、贅沢好きで、始終金には困っていた。


 「日本橋の方の小綺麗な大阪料理屋」かあ。いったい「大阪料理」ってどんなものなのだろう。今じゃ「お好み焼き」とか思いつかないけれど、そんなものじゃなくて、ちゃんとした「大阪料理」というジャンルがあったのだろう、きっと。

 謙作が登喜子のことを話すと、信行が知っている芸者だと言うところにびっくりする。つまり、三人が繰り込んだ吉原でも、「西緑」という引手茶屋は、高級なところだったのだ。そもそも「引手茶屋の利用は上級妓(ぎ)の場合に限られた」と百科事典にもあるのだから、そこへ出てくる芸者の登喜子も、体の動きが直線的だなんて謙作は思ったけれどやっぱりそうとうに美しい芸者だったのだ。

 ここでふと、岩野泡鳴の小説が頭に浮かぶ。その小説に出て来る芸者は、この登喜子などとは比べものにならない最下級の芸者ばかりだった。今さらながら、「白樺派」の志賀直哉だよなあという感慨が深い。

 

 

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