YAMAHA TRAIL AT125

まことに残念ながら、写真がありません。当時貧乏学生で、カメラを持ち歩くやつがまだ少ない時代だったので、ツーリングの写真すらありません。あしからず。ちなみに、使い捨てカメラの登場は、私が21歳のときでした。確か最初は2000円ぐらいだったと思います。


16歳のとき。1972年。
当時の私は純粋な自転車少年で、自転車と心中してもいいと思えるほど自転車を愛していました。
中学2年のとき、友人が乗ってきた生まれて初めて見るロードレーサーに心を奪われて以来、自転車浸けの毎日が始まり、分解しては組み立て、組み立てては乗り回し(若かったなあ。今じゃ組み立てすらしないで、バラバラのままだもの。)一日180km走ったこともあったっけ。
真剣に日本一周を考えていたある日、私を自転車漬けにした張本人が、今度はとんでもない物に乗せてくれたのです。
YAMAHA RX350。2ストパラレルツイン。
現在の2ストに比べるとパワーはなかったんでしょうが、正真正銘、生まれて初めて乗ったバイクが、これ。当然無免許。こわかった。ジェットコースターなんか目じゃない。なんせ自分の右手がコントロールするんだもの。
この日から、バイクが欲しい病にとりつかれ、・・・・なかったんだなあ。これが。
確かに気持ちいいけど、自分でこがないと先に進めない自転車のほうがやっぱりよかったんですねー。
結局、その年に2台目の自転車を、250ccのバイクが買える値段を出して買ったのでした。約15万円。当時CB750が31万円ぐらいだったからかなり高い買い物でした。値段に「約」がつくのは、この自転車、自分で部品を買って、自分で組んだから。ネジ1本まで自分で選び組んだのです。この自分で組み立てないと気がすまない性格が、その後、私をバイクの泥沼にへと引きずり込むのでした。


17歳を目前に控えたある日、クラスの何人かいっしょに学校をサボって原付免許を取りに行こうということになり、なぜかついていってしまったのです。朝、学校の寮を出て、(全寮制の学校でした。だから、15歳の時から家を出て、一人暮らしです。それからずっと。今も・・・・。しくしく。)裏門から脱走。運良く1発合格。あとで学校にばれてえらい目にあいましたが。
でもバイクは禁止されてませんでしたから、みんなすぐバイクを買いました。
当時の寮の駐輪場は今思い出すとすごいものがありましたねー。
CB750でしょ。マッハVでしょ。XS650でしょ。R1でしょ。ビッグホーンにバイソン、ボブキャット。CB72、らくだタンクのCB450、ウルフにバンバン。ハスラーにトレール。その他もろもろ。それもみんな新車。(あたり前か。)いまじゃみんなプレミアもんばっかり。
しかも同室にマッハの神様と呼ばれる人がいて、いろいろな伝説を次々と作ってゆくんだな。

うちの学校は門の前が400メーターほどの直線になっていて、ある日、パトカーを引き連れて、2人乗りのバイクが全開で門の中に飛び込んできたんです。ちょうど教室の窓がその直線の真っ正面でしかも2階だったので遠くから見えるわけ。門に入る寸前フルブレーキング。正面の噴水をフルバンクで避けみごとパトカーを振り切ったのでした。(うちの学校は外部の物は警察すら入れなかったのです)
ある日なんか、寮内の狭い道をCB750でアクセル1発でUターンしたし、マッハVでウイリーしたまんま、寮から正門まで突っ走ったし、学校まで後1歩というところで、バイクが炎上したなんてこともありましたっけ。
きっともう生きてないだろうな。昔はすごい人がいましたねー。
そんな自由な学校なのに、わたしはバイクを買いませんでした。まだ自転車少年だったのです。
で、ある日、友人が夏休みの間、バイクを預かって欲しいといってきたのです。
うちの寮は県外からの生徒が8割ぐらいで、休みの間、持ち物は寮に置きっぱなしになるのです。
当時盗難が多く心配だったのでしょう。こうして、私はSUZUKIの50ccの臨時オーナーとなったのでした。
実際乗ってみると、行動半径が自転車とは比べ物にならず、しかも楽しいじゃありませんか。
バイトも軌道に乗ってきたし、足が1台欲しいなと思い始めた頃、友人が2万円でAT1を買わないかと言ってきたのです。(AT1というのは、YAMAHAのDT1の子分で、125cc。ちなみにHT1が90cc、RT1が360ccでした。)2スト、5ポートピストンバルブで10馬力。けっこういいバイクでした。しかしAT1は当時でも旧型だったため、もう一人が売りに出していた新型のAT125を買ってしまったのです(こちらも2万円だった。)
このバイクはAT1のモデルチェンジで、7ポートトルクインダクションエンジンという、今でいう、ピストンリードバルブエンジンを積んだ125ccでした。掃気ポートが2個追加され、リードバルブの採用でやたら低速のある(そのかわり7000回転ぐらいしか回らない)傑作エンジンをつんでます。この頃はまだ4ストは非力で低速の無い物ばっかりで、この後も自然と2ストを乗りつづけることになったのは、一番はじめにこのエンジンがあったからです。


当時のバイクは当たり前のように故障しましたねー。まず、オイルがよくなかったためか、簡単に焼き付くんですよー。一応はしれる焼き付きを、エンジンが抱きついたなんて言ってたなあ。
だからか、ピストンは消耗品扱いで、1個1000円もしなかった覚えがあります。
買ってから一番最初に行ったのが、このピストン交換。買った時点で20000km走行してましたから、当然ピストンとシリンダーのクリアランスはスカスカ。シリンダー壁には軽い抱きつきのあと。焼き付きを防ぐため、オイル量が多めだったのか、ピストンヘッドとシリンダーヘッドはカーボンがびっちり。エキゾーストパイプの入り口なんか、カーボンで面積が半分ぐらいになってる。
磨きましたよ、一生懸命。今じゃ考えられんけど、シリンダーは傷が消えるまでペーパー掛け。エキパイは一斗缶に木ぎれを燃やし、火であぶった上、ハンマーでこつこつたたきカーボンを落とす。(今のチャンバーでやっちゃだめですよー。消音材が燃えちゃうから。)
新品のピストンに新品のリングを組みつけ、コンロッド小端のニードルローラーベアリングを新品にして。
キャブレターも分解すると想像どおり、どろどろ。スロージェットがつまって満足にアイドリングしない。しかも、臭いんだ、これが。腐ったガソリンのにおいってやつは。
今思えば、免許取り立てで、よくやったと思います。自転車で、分解整備に抵抗がなかったことと、当時の雑誌に、結構詳しく整備の仕方が書いてあったおかげかな。みんな、新車なんか買えない時代だったしね。
ちなみに、中古車が一般に広く売られるようになったのは、今のレッドバロン、昔の名前だとヤマハオートセンターの岡崎本店ができてからと記憶してます。それまでは、中古車というのは、新車を売っている店に入ってきた下取り車をいきあたりばったり、あちこち探すしかなかったし、今のように一般人、特に学生がローンを組むことが不可能だったから、オートセンターが一カ所に中古車だけ集めて、誰でもローンで買えるようにした功績は非常に大きかったと思います。相手が僕みたいな子供でも、ちゃんと応対してくれたしね。
いまや、全国に支店を持つようになっちゃったけど、岡崎市に今も昔のまま(そういや、店内に試乗コースを持っていたっけ。いまは売場になっちゃったけど。)あるオートセンター。
私の2台目以降のバイクは、90パーセント以上この店のお世話になってます。
で、栄えある2台目はたぶんホンダエルシノアMT250だったような。(すんません。買った順番を覚えてません)


ヤマハ TRAIL AT125
2サイクル 7ポート トルクインダクションエンジン 13馬力/7000回転
前後18インチ ブルー タンク容量9リットル 燃費25km以上
購入に当たっての注意・・・・といっても、もう見かけることがありません。当然部品もなし。持ってる人。大事にしましょう。



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