追憶
夢を、見ていた。
戦乱の炎は瞬く間にアグストリア全土に拡大した。
暗愚なアグストリア国王もさることながら、グランベル帝国の、いや、アルヴィス皇帝の真意を見抜けなかった我らも今となっては憐憫の対象にすらならないかも知れない。
しかし、当時の私たちは何とか戦乱を最小限にくい止めようと必死だった。
特に、母国を軍靴で蹂躙されたあのひとは。
「シグルド様、私にも出陣の許可を」
「駄目だ。君にもしものことがあったら、エルトシャンに顔向けが出来ない」
顔向けが出来ないのはノディオン王にではなく、大事な人質を失った中央のグランベルに対してではないか。第三者はそう思うことだろう。シグルド様のひととなりを知らない者は。
「自国の軍隊と戦わせるのは酷すぎる。君は城にいた方がいい。フィンに守護を任せておくから」
「私は大丈夫です!自分の身ぐらい自分で守れます。フィン殿こそ私などのために後方の守備を仰せつかってご迷惑でしょう?」
「いえ、私は決して…」
あのひとの傍にいられるのは何より喜ばしいが…
私の内心の想いをよそに、事態は逼迫していた。
「私が兄を説得してみせます」
「どうかお願いです。私に説得の機会を与えて下さい」
あのひとはシグルド様に懇願した。
「…君を危険な目に遭わせたくない。それは何よりエルトシャンが願っていることだ」
「でもこのままでは…!」
「エルトシャンは君の顔を戦場で見ることを何よりも恐れているはずだ」
「…」
あのひとは唇を噛んで俯いた。ご自分でも判っているのだろう。
それもつかの間、あのひとは毅然と顔を上げて宣言した。
「それでも私は行きます」
こういうときのお姿は誠に凛々しく、見る者を惹きつける。
「後悔したくないのです。成し遂げられるのならたとえ死んでも悔いはありません」
「ラケシス」
「私は行きます」
もう彼女の意志を止めることは何人を持ってしても不可能だった。
混戦の最中だった。
いち早く、エルトシャン様のお姿を見つけなければ、貴重な人命が損なわれる。
無駄死にを見たくないのは皆一緒だった。
獅子王はいずこに在らせられるのか。
魔剣を振りかざす獅子王は―
!…真っ直ぐにシグルド様に向かって飛翔するが如く駆けてくる一騎。
その一騎こそ、獅子王だった。
獅子王は御親友との一騎打ちを望んでおられる。
…おそらくは信頼する友の手で旅立ちたいとお望みなのだ…
しかし、そのお望みは他ならぬ妹君に阻まれた。
お互いの剣気が限界に達し、今まさに一触即発と思われた瞬間。
獅子王の前にラケシス様が立ち塞がったのだ。
溺愛する御妹君の死を賭しての説得にはさしもの獅子王も敵わなかった。
妹姫に一振りの剣を与え、馬首を翻して、獅子王は去った。
あるいは、無念であったかも知れない。
主君が無益な挙兵を行った時点で、聡明な獅子王は御自分の運命を知っていたに違いないのだから。
あのひとは大地の剣を抱えられたまま、魂を失ったように立ちつくしていた。
死闘の中で、無事に兄王を見つけだし、対面を叶えた。
果たしてノディオン王は主君を再度説得にシルベール城へ戻られた。
成すべき事を果たした、というのにその顔色は冴えない。
青ざめてさえいた。
「いってこいよ」
おもむろにあの傭兵が私の背中を叩いた。
私は振り返り、視線で問うた。
「…俺みたいになって欲しくねえからな」
「?」
「昔の俺を思い出すんだよ。お前さんを見ていると」
じれったそうな顔がいらだちのそれに変わるのは数秒も必要とはしなかった。
「いけ」
何時になく真剣な声と表情に気圧されて、私は動いた。
あのひとは私を必要とはしていない。
私がいっても何の変化もないかも知れない。
かえって状況が悪化するかも知れない。
でも。
それでも、あのひとの力になりたい。
あのひとの笑顔が見たい。
微笑んで欲しい。
どうか、微笑んで…。
樫材の扉をノックした。
誰何の声はなかった。
名を名乗り、再びノックした。
やはり声はおろか、物音一つ聞こえない。
私は覚悟を決めて、ドアを開いた。鍵さえ掛かっていなかった。
暗い部屋の中に浮かび上がる金色の細い滝。
あのひとが、居た。
人形のように何も動かなかった。
「ラケシス様」
入室してしまった以上、私は意を決してやや遠慮がちに声を掛けた。
しばらく無音の時が過ぎて、ようやくかすかな声が聞き取れた。
「私がお兄様を殺したの」
このひとは御自分の行った言動の帰結するところを完全に悟っていた。
しかし、今となっては。
「エルト兄様を殺したのはこの私なの」
最初は静かだった声に感情が次第に突き刺さってくる。
「お義姉様やアレスに何と言えば…兄様に一縷の望みを掛けていた多くの人たちに…もうあわせる顔なんてない…私なんて生きている価値もない…兄様を助けるどころか……ああ」
力無く傷嗟されるそのお姿は余りに痛ましい。
黙ってみていられなかった。
「しっかりなさい!貴女はそんな弱い心を持った方ではないはずだ。逃げずに現実に立ち向かうのです。貴女ならそれが出来る。私がよく存じ上げている貴女なら」
はっとされてあのひとが私の顔を見る。
「エルトシャン様は貴女のお言葉によって本来の自分のあるべき道に戻られたのです。貴女のお言葉がなかったらあのお方は御自分の御本心に背かれたまま、無念のうちに天上に昇られることになったかも知れないのです。悔いることは何もありません。あの方は本望の生き方を貫くことができた。きっと貴女に感謝しておられます」
私を黙って見つめる、あのひと。
その表情は私が初めて見るものだった。
私は胸を突かれ、言葉を失った。
また無言の時が幾ばくか流れた後、あのひとは虚ろに呟かれた。
「もうどうしたらいいのかわからない」
「どうすればいいのかわからないの」
「…今までは兄様がいてくれた。兄様の御為になることを考えていればよかった。生まれながらに重責を背負わされているエルト兄様をささやかでもお助けできることが何よりも嬉しかった…エルト兄様はこの上なく優れた方だったもの…兄様を必要とする人は私の他にも大勢いたもの…兄様の名を讃える声はあんなに高く大きかったのに…なぜ…どうして…兄様…」
辛かった。
片恋とはいえ、懸想するひとからこんなことを聞かされたくはなかった。
耳を塞いで逃げたかった。
だが、それはできない。
このひとのすべてを受け止めなければ、その覚悟がなければ、ここにいる資格はないのだ。
「兄様、兄様、兄様…」
あのひとは辺り構わず泣きじゃくった。
金色の滝が激しく波打ち、荒れ狂う。
私はどうする術もなく、ただ見守ることしかできなかった。
言葉にできない愛を込めて。
永劫にも思えた慟哭の時間を経て、あのひとがようやく泣きやまれた。
現実を受け止める準備が出来たらしく、赤い目には強い意志の輝きが戻りつつある。
私は掛ける言葉も見つからないまま、手巾を差し出した。
と、その瞳が私に向かって潤んだ。僅かな羞恥の表情と共に。
「…ありがとう」
信じられなかった。
あのひとが私にこんな優しい表情を向けてくださる。
これはいつもの夢ではないのか。
あのひとが手巾を載せた私の手―手巾ではなく―を、ゆっくりと握った。
私は息が詰まって、呼吸すらおぼつかなくなった。
私の心臓の高鳴りがあの人に聞こえてしまうのではないか、とさえ思った。
それが、すべての始まりだった。
あのひとの寝顔をじっと見つめながら夜を明かしたこともある。
今の境遇が信じられなかった。
このひととこんなことになったとは…
貴女は後悔しているかも知れない。
本来ならシグルド様に縁付かれてもおかしくはない方だったのだ。
いや、その見方が至極当然であった。
貴女を幸福には出来ないかも知れない。
…あの方に私は比べるべくもない。
それでも…
貴女を、愛しています。
貴女を愛していきます。
これから何が起ころうとも、貴女だけを愛していきます。
私はあのひとの美しい寝顔にあらためて誓いを立てた。
愛を捧げることと愛に応えることとは一緒だと無邪気にも思い込んで。
今でもありありと思い浮かべることができる。
忘れることなど、できない。
あのひとの、後ろ姿。
こちらを振り向くことなど一度たりとて、なかった。
あのひとを見た、最後だった。
あのひとの柔らかくしなやかな精神と身体は私の法悦の全てだった。
どれほど過酷な道程でもあのひとが傍にいてくださるだけで乗り越えられる。
あのひとが微笑んでさえくれるなら。
レンスター王国全滅の危機を救ったのはまぎれもなく彼女だった。
あのひとは我々を力強く励まし続けた。
自暴自棄になってはいけない。我らにはまだリーフ王子が残されている。
今は力を蓄えるべきだ。王子が無事に成長するまでは決して短慮を起こすな、と。
結局、軽挙妄動の輩は出てしまった。
最悪としか言いようのない状況に追い込まれても、あのひとは諦めなかった。
ご自分も国を失われ、同胞の惨めな最期を目の当たりにしたというのに。
これ以上はない地獄を何度も味わってこられたというのに。
「私は決して諦めない。こうして貴方とまた逢えたのですもの」
あのひとの一言が、どれだけ私の今にも崩壊しようとする脆弱な精神を救ったか。
彼女が存在しなかったら、国王陛下の御遺命があったにもかかわらず、苦しい生よりも安直な死を選んでいたかも知れない。
そして、あのひとはもう1つ、宝物を私に授けてくれたのだ。
ナンナという宝物を。
「かわいい子」
あのひとは母親の顔で、生まれたばかりの嬰児を愛しそうに抱きかかえる。
「お嬢さん。あなたが生まれたこの時代は戦乱が絶えない世の中だけど、あなたが大きくなってレディと呼ばれる頃には世界は光に満ち溢れるはず。あなたは私に希望を与えてくれたのよ。今度は母様があなたに光ある世界を見せてあげるわ。かならず」
母を見つめたまま身じろぎ一つしない嬰児に語りかけるあのひとの目には、ナンナを透して別の我が子が映っているのかも知れなかった。
私は彼女の支えになれたのだろうか。
主を救えなかったのと同様、結局、あのひとを失ってしまった。
幼い娘や周囲には、彼女は息子を連れて戻ってくる、と話した。
しかし、その言葉を一番信じていないのは私自身であることも、私はよく知っていた。
イザーク行きを何としてもお止めすればよかったと何度思ったことか。
虚ろな心を抱えて、小さな娘を見やった。
「おかあしゃま、おにいしゃまといっしょにかえってくるって」
ナンナが笑った。
「おとうしゃま」
無邪気な笑顔がラケシスのそれと重なった。
あのひとの、陽の光のような、曇りのない笑顔。
あの微笑みの下で限りない哀しみが彼女を苛んでいたことを私は気付こうともしなかった。
いや、目を背けていただけだ。
御遺命に服することが騎士の務めと称して、あのひとを顧みることをしなかったのだ。
救いを必要としていたのは私ではなく、あのひとであったのに。
もう、遅い。
目覚めても傍らにあのひとはいない。
わかっているのに、私は無意識に手を伸ばしてあのひとの姿を捜し求める。
いつも私を抱きかかえるようにして眠っていたあのひとを。
あのひとは寒がりで、私を温石代わりにおもっていたふしがある。
あれは寒がりではなくて、寂しかったのかも知れない。
御家族を立て続けに失われたから、余計に。
あのひとは肉親というものに並々ならぬ執着を持っていた。
わかっている。
わかっているのだ。
騎士としては言うに及ばず、私は息子や娘に父として敬われる資格はない。
私は常に騎士であることを自分に課し、妻にもそれを強制した。
ラケシスは一人でデルムッドを産み、育てねばならなかったのだ。
レンスター有数の騎士である私の傍で、いつも周囲に気を配り、私の妻として相応しく振る舞わなければならなかった。
けれど、あのひとは不満一つこぼすこともなく、私に尽くしてくれたのだ。
私はそれを当たり前のように受け止め、彼女を労ろうともしなかった。
ひたすら彼女の奉仕のみを期待していたのだ。
あのひとの、あの笑顔を。
私は愚かだった。
あのひとと初めて過ごした夜のことが脳裏によみがえる。
我が心の裡に住まうだけの、手の届くはずもなかった、神の恩寵をついに独占できた悦びに酔いしれる私の腕の中で、あのひとは美しい貌を歪めて破瓜の苦痛に耐えていた。
あのひとが息を吐いた。
当時の私が、愛に満ち足りた証、と疑いもなく思い込んだそれは、冥い絶望の徴―
あのひとの聞こえない悲鳴に耳を傾けるべきだったのだ。
聴こうとさえすれば、容易いことだったのにもかかわらず。
私は逃げたのだ。
予兆はあった。
「フィン」
聞き慣れているあのひとの声。
私は振り向きもせず、いつもの生返事を返す。
戻ってくるはずの声が聞こえない。
あのほんの少し苛立たしげでもあり、ほんの少し甘えたようでもある不思議な声が。
「ラケシス?」
私は不審に思ってようやく振り向いた。
あのひとが、立っていた。
彼女の顔を両手で挟んであのひとを覗き込んだ。
あのひとは今まで見せたことのない表情を一瞬浮かべた後、視線を私から逸らし、その後いつもの微笑みで私を見上げた。
私は何かを感じたはずなのに、それを強引に頭から消し去ろうとした。
あのひとがいなくなる三日前のことだった。
あのひとが私の許を去ったのは、他ならぬ私の責めに帰する。
彼女の哀しみ、苦しみを一欠片もわかってやろうとしなかった私の責任だ。
ナンナやデルムッドから母を奪ったのは、この私なのだ。
「おかあさまがかえってこないの」
日々が移ろい、時が経過すれば、この小さな娘も彼女なりに事態を把握する。
ある日、真剣な顔で私に訴えた。
「そんなことはないよ。お前の母上はちゃんとお前を気に掛けて帰ってきてくださる」
私は娘の前でさえ白々しい気休めの言葉を吐いた。
「おかあさま…」
「泣いていては、お母様は帰ってこないぞ。さあ、笑ってごらん」
しかし、ナンナは母の名を繰り返して泣きじゃくるだけだった。
私は母を求める我が子の叫びの前に完全に無力だった。
私には、どうすることもできないのだ。
誰に対して許しを請えばいい…?
請うたとして、第一、私は許されるのか…?
「さあ 笑っておくれ ラケシス」
この一言がどんなにあのひとの重荷になっていたことだろうか。
小さなアルテナ様が私に尋ねられた。
「おとうさまとおかあさまはどうしてわたしをおいておしろからいなくなっちゃったの」
「大切な方が助けを求めておられたからですよ。姫様も大事な人が困っていたら、お助けしようとお思いになるでしょう?」
「うん!おじいさまのおてつだいしてるの。アルテナをたよりにしてるっておじいさまおっしゃったもの。フィンもおとうさまたちといっしょだったんでしょ?」
「はい、少しでもお父上のお力になりたかったのですよ。姫様と一緒です」
その後、アルテナ様は可愛らしく首を傾げて一点を見つめておられたが、にわかに
「あのね、フィンもだいじなひとがこまったらたすけにいくの?おとうさまやおかあさまみたいに」
無邪気な質問が私の心に重く響いた。
私は、大事なひとを救えたのか。
あのひとの精神力の強さを鵜呑みにして、全てを放り出したまま、レンスターに戻ってきただけではないのか。
凍り付いた私を不思議そうに眺めるアルテナ様をキュアン様が抱きかかえられた。
「フィン…お前」
「…無様な所をお見せしてしまいました」
「やはり、ラケシスを連れてくるべきだったか」
「たとえシグルド様がお命じになってもあのひとは承知しないでしょう。誇り高いひとですから…しかし同時にあのひとの心に踏み込めなかった私の不甲斐なさを恥じております」
「そんなことはないわ。貴方はラケシス姫の心を救った。貴方が救ったからこそ、ラケシス姫は貴方と離れても力強く生きられるのよ」
いつの間に来られたのか、キュアン様に代わってエスリン様が口を開かれた。
「また、逢えるわ」
エスリン様のお言葉は不思議なことによく当たった。
シグルド軍は遥かなシレジアだ。あのひとは恩人であるシグルド様のお力になろうと必死で戦っておられる。私の願いを退けてまで、あのひとは信義の道に生きようとしている。
「私はシグルド様に命を救われた。まだ、そのご恩は返していないの。シグルド様の潔白が証明される日まで、私はシグルド様の力になろうと思う」
「私の力にはなっていただけないのですか」
「貴方にはやらなくてはならないことがある。でも、私のことは必要としていないわ。キュアン様とエスリン様がいらっしゃる。でも、シグルド様には国も、奥様も…」
「私にも妻が必要なのです。貴女という妻が」
「フィン」
ラケシスは辛そうな表情で私を見た。
「わかって…このままでは、私の拠って起つところが無くなってしまう。最後までやり抜きたいの」
無理にでも連れ去りたい。しかし彼女の尊い意志は侵せなかった。
「私をここまでにしてくれたのは貴方なのよ。だから、また貴方と再会することを誓うわ」
その言葉も私には慰めとしか感じられなかった。
理性では彼女の主張を是としていたが、感情では納得できなかった。
「約束して欲しい。また私と暮らしてくれますね」
「私の身体に流れるヘズルの血に賭けて、全てを見届けたら、必ず、生きて貴方の許へ」
あのひとがたまらなく愛おしかった。
別れの朝まで、何度も、何度も、同じことを尋ねては、同じ答えを誓わせた。
「私は貴方にも恩返しをしていないわ。だから、貴方と再会して十分な借りを返すまでは絶対に死なないから」
「絶対に死なない、なんて戦場に立って戦う以上、断言できるわけがないではありませんか。貴女が危険な目にあっても、私はこれからはどうすることもできない…」
あのひとは私の顔を覗き込んだようだった。
「…何か、貴方、変わったみたい」
「…何が、ですか」
「そんなこと言わなかったじゃない。いつも私を励ましてくれたじゃない。槍術の稽古だって望めばいつでも付き合ってくれた。兄様の時だって私を輔けてくれた。…なのに、どうして」
私は自分の感情を押さえ込むのに失敗した。
「…貴女を失うことが恐ろしくてたまらない…」
あのひとの手が私に触れる。私の頭を抱きかかえる。
「フィン、私たちいろんな人の死を見てきたわよね。肉親や敵国の兵士や…ごく普通の人たち。死は生と隣り合わせだわ。そこから目を背けてはいけない」
私を包み込む、あのひとの二つの腕。
「だからこそ私はこれからも戦うの」
「信じるもののために」
私は深くうなだれた。
私はこのひとのことを全く理解していなかったのではあるまいか。
自分の身勝手な愛情をこのひとに一方的に押しつけていただけではなかったか。
「大丈夫よ、フィン」
ラケシスが私に微笑みかけた。
あの、笑顔だった。
あのひとが再び、私に微笑みかけてくださる日が来るのだろうか。
あの白磁のようになめらかな肌に触れることが、この世のすべての光を集めたように輝く金の髪をこの指で梳くことが、あのひとの清流のように澄み渡る声を聞くことが、できるときが来るのだろうか。
あのひとは昔のように、力を込めて抱きしめればすぐにも壊れてしまいそうなその身を、私にそっと預けてくれるのだろうか。
逢いたい。
その一言だけが、私の真実だった。
年のせいで心弱くなったのか。
いや、違う。
常に私の胸奥で留まっていた想いだ。
臆病だった。
すべてを知るのが恐ろしかった。
しかし、今は―――ただ、どうしようもなく、貴女に、逢いたい。
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