陽だまりの中で…… (光と影のラビリンス 2)
Nanase
1
「そろそろあがりにするか」
「うん、ジャムカ」
エヴァンス城の西に夕日が傾く頃、デューは今日もジャムカとの訓練を終えた。
訓練と言ってもジャムカはデューに何を教えるというわけでもなく、ただ黙々と自分の鍛錬を続けているだけなのだが……。
その集中力と、瞬発力。それが鍛えあげられた精神と肉体から繰り出されることを感じ取ったデューは自分もそうありたいと、常にジャムカの練習風景を眺め真似るようになった。
デューには弓は使えない。
まだ子供のデューにはアイラのように大剣も使えない。
でもいつか……。
デューは自分の身軽さに技や力が加われば、戦力にもなりえると夢見ていた。
子供だからといって、いざという時、留守番ではエーディンを守れない。
本来なら剣を使うアレクやノイッシュあたりの練習風景を見ていた方がためになるのだろうが、皆……危ないと……デューが傍にいることを許さなかった。
言葉は優しかったが、それは「子供の来る所ではない」という完全な拒絶。
ただ一人、ジャムカだけが、何も言わずデューが傍にいることを黙認してくれたのだ。
それは相手があり、競い合うことが鍛錬になる他の者と、弓兵のジャムカは違うというのもあってのことだったが、デューにはありがたいことだった。
言葉は悪いが……泥棒あがりのデューには自身の身体を鍛えるすべすらわからない。逃げるために必要だった素早さと、走ることにだけは自信があったが、それ以外はさっぱりで……剣の使い方もほとんどが我流の見よう見真似。集中力や気合いなどという武芸とはかけ離れた世界で生きてきたデューにとって、ジャムカの戦士としての資質は素晴らしく才能に満ちた芸術ともいえる技に見えた。
遠く離れた的をいとも簡単に射抜く。それは時には動く的であったり、ほんの小さな目印であったりもした。
ジャムカの後ろにいれば絶対にデューに危険はなかったし、その正確な的中率に自信のあるジャムカは弓を放つことももちろんだったが、日々肉体の鍛錬に時間を割いてもいたから、デューにはジャムカは真似ることのできる最もいい師でもあった。
ジャムカがデューの年頃にはこなしていた基礎。
精神の集中を高めることに重点をおきながら、肉体を鍛える。そんなジャムカの鍛錬の仕方が今のデューには必要にも思えた。
それに……そんなことよりも何よりもデューはジャムカが好きだった。
口は悪いがジャムカは優しい。それをデューは知っていたし、ジャムカの不器用な優しさがデューには心地よかった。
皆、優しいけれどデューをどこか子供扱いし、戦力という意味で仲間と認めてはいないのに……ジャムカだけは違う。
ジャムカはデューを最初から一人前の『男』として扱ってくれた。
前にデューが、
「みんな、オイラを子供扱いするんだ。そりゃ確かにオイラはガキだけどさあ……」
と、イジけた時、ジャムカはニコリともせずにこう言った。
「何を言ってる、デュー。あの時、エーディンを守ったのはお前だろう?お前が同行していなければ、あんな所にエーディンを置き去りになどできなかった。いくら戦のさなかとは言ってもな。お前なら何としてもエーディンをシグルドのもとへと連れて行くだろうと、そう思えたから俺は父のもとへと戻れたんだ」
額から流れる汗を手のひらで拭いながら、デューは同じように流れる汗を拭おうともしないジャムカの横顔を見て、そんなことを思い出していた。夕日がジャムカのターバンをオレンジ色に染め……流れる汗を赤みがかった金色に輝かせている。
訓練の後には必ずここに座って夕日を見るジャムカ。
まるで何かを想うかのように、その瞳は遥か彼方を見つめている。
それは……自分の国ではなくなったヴェルダンへの郷愁なのか、未来を見据えた展望なのか、デューにはわからなかった。
けれど、押し黙るジャムカの隣で同じ夕日を見るのがデューはなぜだかとても好きだった。
こんな平和な時が……永遠に続けばいいと願いながら。
いつまでもこうして、ジャムカと共に穏やかな時を過ごしていたいと願いながら。
2
デューのそんな願いが砕かれるのにそう時間はかからなかった。
シグルドの親友、エルトシャンの妹、ラケシスから救援を求める書簡が届き、一気に城内は殺気だった。
「なぜだ?!」
シグルドはその理由がすぐにはわからず困惑したが、助けを求めてきたラケシスを見捨ててはおけない。
ノディオンの姫君。獅子王エルトシャンの義妹。
ディアドラと出会っていなければ……妻にと迎え入れたかもしれない相手。
エルトシャンをラケシスが敬愛し、焦がれていることをシグルドは知っていたが、だからこそと……エルトシャンが本気で望めばそうしていたかもしれないと、シグルドは思った。
酒の席で冗談半分によく言われたものだ。
「誰に似たのか、気が強くてじゃじゃ馬で……。おまけに私のような男でなければ嫁がないなどと公言するものだから、嫁のもらい手がなくて困っている。ハイラインのエリオットはそれでもラケシスを欲しいと言ってきているが、ラケシスはそれだけは死んでも嫌だと吐き捨てた。まあ、あの男は私も気にいらぬが……。いつまでも独り身で置いてもおけぬ。シグルド?おぬしがラケシスをもらってはくれぬか?」
と。
そんな戯言を、いつもシグルドは笑ってはぐらかしていたが、だからといってラケシスを愛しく思っていなかったわけではない。エーディン同様、妹のようにしか思えなかっただけで。
だが、ディアドラをめとり、幸せの絶頂にあるシグルドには、エルトシャンの想いが前よりもずっとわかるようになっていた。
エルトシャンこそ……本当はラケシスを妻に迎えたかったのではないだろうか?
義理であろうと、兄妹として生まれたからにはそれは望めぬ夢。だからエルトシャンはそんな感情を押し殺し、当然のようにそれを見守る愛に変えた。
ディアドラを愛し、求め、添い遂げたシグルドにはそれがやっとわかった。
そんなシグルドには、なおさら、今度のことは許しがたい出来事だった。
エルトシャンの留守を狙っての進軍。信じがたいことだったが、それはラケシスを強引に我が物にするためのエリオットによる狂行としか思えない。
誰よりも幸せになって欲しいとエルトシャンが願った最愛の妹。
自分にならと……エルトシャンはあんなことを言ったのだろう。
それなのに、ラケシスを妻として迎えることもできず、卑劣極まりないエリオットに奪われる?
エルトシャンの留守に……そんなことをさせてなるものかと、シグルドは立ち上がった。
まさかこれが後に、エルトシャンと刃を交える戦いに発展していくなどとは夢にも思わずに。
3
ノディオンは落ちなかった。
それはラケシスの頑張りと、エルトシャンが残していった信頼ある3騎士の活躍によるものも大きかったが、知らせを聞いて電光石火のごとく駆けつけたシグルド達の素早さに助けられたことも否めなかった。
ラケシスはシグルドに感謝し、エリオットにノディオン攻略を指示したのであろうハイラインの当主ボルドーを攻撃するため軍に加わることを決めた。
それは侵略ではなく、リベンジ。
追い詰め、降伏させねば、ボルドーはいつまた同じことをするかわからない。
尊敬する兄の留守中に、城を守れないようではヘズルの血が泣く。
ラケシスはそんな思いに捕らわれてもいた。
だが、結果それは兄・エルトシャンと親友シグルドと戦わせることになってしまった。
賢王とその名をとどろかせたアグストリアの王イムカはあろうことか息子のシャガールに暗殺されもうこの世になかった。
シグルドが信頼できたのはもう今となっては親友エルトシャンだけ。
しかし、シャガールが父王イムカを暗殺したことを知らないエルトシャンは、主君への忠誠心からシャガールの命じるままにシグルドを侵略者として討伐せねばならなくなっていた。
風の魔法フォルセティの後継者シレジアの王子レヴィンや、同じくシレジアから王子を探しにやってきていたペガサスナイトのフュリー、レヴィンと行動を共にしていた踊り子のシルヴィア、そして傭兵のベオウルフ、ソードファイターのホリンの参入によって、シグルドの軍は圧倒的な強さで、アグスティー城を落としていたから、シャガールは怯えてもいたのだ。マディノの城に逃げ込んだシャガールはエルトシャンにシグルドの討伐を命じ、その戦いで目障りなエルトシャンまでもが命を落とすことさえ望んでいたのに、エルトシャンはそのことに気づこうとはしなかった。
主君への忠誠と親友への信頼。
その狭間でエルトシャンは悩み抜いた。だが、ラケシスの説得もあって、再びシャガールにこの戦いの無意味さを諭すため城へと向かう。
だが、シャガールの逆鱗に触れたエルトシャンは謀反人としてその場で処刑されてしまう。
ラケシスに残されたのは兄の形見、大地の剣のみ。
ラケシスは故郷ノディオンを捨て、シグルドと共にマディノの攻略に向かう。
そして……エルトシャンの仇、シャガール王を討ち果たし、その動乱に乗じて、マディノに侵攻してきたオーガヒルの海賊をも討ち果たしたシグルドに待っていたのは……グランベルを裏切った謀反人の息子という汚名だった。
誰もが耳を疑ったクルト王子の暗殺。
その犯人がシグルドの父、バイロン卿だと……。
信じられない出来事に茫然とするシグルド。
そして、行き場のなくなったシグルドの軍。
だが、そんな彼らを暖かく迎え入れてくれたのは、レヴィンの母、シレジアの王妃・ラーナだった。
バイロン卿の人柄を知るラーナ王妃は、シレジアでゆっくりと休養を取ればいいと……その間に誤解も解けようと……シグルドを促し、1行はその言葉に甘え、シレジアへと向かった。
そこは皆の生涯で最後の陽だまりの場所……。
陽だまりの時………。
まさかこの地で過ごした短い時が、皆の暖かな最後の記憶になるなどと……誰もが思ってもいなかった。
4
「ねえ、ジャムカ。オイラ、ずいぶん剣の腕、上達しただろ?シルヴィアさんに教わって、剣舞もできるようになったんだ。見て、見て」
「は……見事だか、男が剣舞を舞っても色気はないな」
「ふん、ジャムカのバ〜カ。じゃ、ブリギットさん教えてあげるから踊ってみる?」
「ふざけるな、デュー。そんなチャラチャラしたことが私にできるか」
「アハハ。ほんと、ブリギットさんって顔はエーディンにそっくりだけど、性格全然違うんだよね。どっちもオイラは好きだけどさ」
「ハ!子供にそういわれても、さほど嬉しくはないな」
「ぷっ……」
「笑うな、ジャムカ」
「ぷぷぷ……」
「そうだよ、失礼だぞ、ジャムカ。オイラにもその笑いは失礼なんだからね」
「ぷ……悪いな」
シレジアでの生活はこんな風にのどかなものだった。
こんな風に平和に時は流れていった。まるでそれが当たり前のように。
マディノ城を制圧をした頃に……突然姿を消したディアドラのことを誰もが気にしてはいたが、落胆しながらも気丈に振る舞うシグルドの前で、誰もディアドラのことを口にすることはできなかった。
だいいち、子供ながらもディアドラを守ろうとしていたイザークの王子、シャナンが気にする。だから、皆はなるべくその話題を避けるように時を過ごしていた。
オーガヒルでは……幼い頃、生き別れ、海賊に育てられていたエーディンの双子の姉、ブリギットが戦列に加わることになり、エーディンはこの偶然を神に感謝し、長いことその手の中で大切に守り通してきた聖弓イチイバルを姉に託した。
新しい出会いと別れ。
それはこのシレジアを訪れる前に立て続けに起こっていた。
ディアドラの失踪。そして、レンスターから救援に来てくれたキュアン、エスリン、フィンとの別れ。だが、シグルドの窮地を知らせてくれた神父クロードと、彼について来たフリージのティルテュ。そしてブリギット。この三人の参入は心強いものだった。
何が起こるのかわからない未来。
計り知れない不安の募るこれからの生活。
シレジアのラーナ王妃は皆を心から歓待してはくれたが、反逆者という汚名を着せられたシグルド達は安堵ばかりもしていられない。
だから、ここシレジアに来て、エーディンはジャムカにユングヴィの家宝ともいえる勇者の弓を授けたのだが……。
同じようにウルの血を引きながら、姉のように弓兵としての資質のなかった自分をエーディンはその時どこかで恥じていた。
どの家も長子、長女が聖宝を継ぐ力を持っていた。だから当然ウルの血を濃く引いたのは姉のブリギットでエーディンでも弟のアンドレイでもない。
それをエーディンはずっと当然だと考えていたのだが……ここへきてその想いが微妙に変わりはじめていた。
「シスターとして働くことはわたくしの天職。そう思ってはいるけれど……せめて自分の身を守る程度にでも弓が使えたなら」
エーディンはそう小さくつぶやくと、セイレーン城の近くの森に視線を走らせた。
今日も弓の腕を競い合うかのように、鍛錬を続けるブリギットとジャムカがその森にはいるはずだった。そして最近めきめきと腕をあげ、顔つきまで男らしくなってきたデューも一緒に。
まだ幼さの残るデューでさえ、ジャムカは連れて行く。
同じ女ながらも腕のたつ、ブリギットも。
しかし、エーディンはいくら頼んでも同行を許されなかった。
「だいじょうぶ、誰かが怪我をしたらすぐに戻る」
ジャムカはそう言って。
それがエーディンの身を案じてのことだとわかってはいても、エーディンは一人置き去りにされたような寂しさからどうしても抜け出せない。
ジャムカとブリギット。2人は同じ弓使いということもあって……初めから妙に気があった。
女だてらに屈強な弓を操るブリギットの腕前に、ジャムカは感嘆していたし、弓の扱いなら誰にも負けないと自負していたブリギットも、ジャムカの腕に素直に負けを認めた。
「ジャムカ。お前がウルの後継者だったら……イチイバルなどなくても怖いものなしだな」
「ふ、ブリギット。お前こそ、たいしたものだ。その弓が扱えるのはお前だけ。その弓にふさわしい腕の持ち主だと……お前なら認めざるをえぬわ」
言って顔を見合わせ、二人は瞳を輝かせ笑った。それは同じ武器を持ち戦う戦士同士にしかわからない不敵で大胆で自信に満ちた笑み。
その時走った胸の痛みをエーディンは今も忘れない。
ジャムカはいつもわたくしを守ってくれる。
その命にかえてもと……そんな想いで傍にいてくれる。
けれど……。
『対等』そんな関係でジャムカと接することができるブリギットが、エーディンは羨ましくてたまらなかったのだ。
けれど、それはない物ねだりというもの。
人を羨んだり妬んだり、そういった感情は醜いものだとエーディンは常々思っていたから、そんな自分を叱咤し、また湧き上がりそうになる邪念を追い払おうと、教会に足を向けた。
そして、懺悔ともいえる祈りを一心不乱に捧げ、やっと心を落ち着かせた時、森から帰ったデューがいつものように明るく大な声で語りかけてきて、エーディンは振り返った。
「ただいま、エーディン」
「あら、デュー、おかえりなさい。怪我はない?」
「うん、だいじょうぶだよ」
でもデューの顔はいつもとはあきらかに違う。激しい運動をしたから頬が上気しているとか、赤らんでいるとか、そういった類いではないことが、エーディンには一目でわかった。
「まあ、デュー、雪の照り返しで顔が真っ赤。今日は珍しく快晴だったから、日焼けしてしまったのね。いらっしゃい。かなりひどいわ。目も真っ赤だし。火傷にならないうちに、わたくしが治してあげる」
スタスタと歩み寄ったデューは当然のようにエーディンの傍に腰を降ろし、くるくるとよく動く瞳を輝かせて微笑んだ。
「ありがと、エーディン。ミデェールやアレクが心配そうに外で護衛してたよ。また一人で来たの?」
「え?ええ。だってここは教会だし、城からも近いもの」
「ふっ、でもあのナイト達は心配で仕方がないんだよ、エーディンの一人歩きがさ。その……ディアドラさんのこともあるし……」
「そうね。平和なここでまで、皆に迷惑をかけてはいけないわね。これからは気をつけるわ」
「エーディン?」
そっと左手で杖を持ち、右手で頬に触れるエーディンを見つめながら、デューはエーディンのそのおかしな言葉に戸惑った。
いつものエーディンらしくない。
いつもこんな風にエーディンはゆったりと穏やかな口調で控えめな物言いをしたけれど、こんな風に自分を卑下するような言い方はしなかった。
それなのに。
エーディンが触れているだけで、見る見るうちに雪焼けした頬の火照りはおさまり、ヒリヒリと焼け付くような感触はあっという間に消えていったけれど、エーディンの瞳の中にあるそれとは別の痛みに気づいたデューは、小さくもう一度お礼のウィンクを投げかけると、試すような瞳になってつぶやいた。
「ジャムカもブリギットも同じだよ。二人はまだ森の近くにいるけど……じきここへ来るかも。そしたら同じように治してあげてね」
「ええ、でも……」
「ん?」
「お姉様もジャムカも……そんなことどうでもいいって言うに決まってるわ。日焼けや火傷なんて……痛みのうちに入らないって」
「ふっ、そうだね、そんなこと言いそうだよね。特にブリギットさんは。彼女は男として生きたいって願ってる人だから、無理してるよ。女じゃあるまいし、日焼けなど気にしてどうするって態度で笑うかもね。でもジャムカは……エーディンが言えば喜んで治癒してもらうと思うけど?」
「本当に?」
「うん。痛いとかさ、痛くないとかさ、そんなことどうだっていいんだろうけどジャムカは。でもエーディンの思いやり、無にするほど無神経じゃないから」
「そう……ね」
相変わらず少し歯切れの悪いエーディンの言葉尻に、デューは自分の勘が当たっていたことを確信した。
そして、どんなに不安だろうと……決してそれを口にできるエーディンでもないことを、デューはよくわかっていた。だから、デューはさりげなく、でもストレートにエーディンが本当は知りたいだろうことを口にした。
「ふふふ。ブリギットさんの気持ち、一番わかってるのってジャムカなんよね。だからあの二人は仲がいい。けどさ……それって……男友達と一緒の感覚だよ。オイラをガキ扱いしないのと一緒で、ジャムカは女だからってブリギットさんを特別扱いしないから、ブリギットさんはジャムカが好きなのさ」
「……………」
「あ、でもこの好きも、恋とか愛とかじゃなくってさあ」
「でもジャムカはわたくしのことは特別扱いするわ。いつも後ろにいろって。わたくしだって経験をつめば……多少の魔法ぐらいは使えるようになるのに、そんな必要はないって」
泣きそうな顔で訴えるエーディンをデューは初めて可愛いと感じたけれど、それはデューに向けられた感情からでたものではない。
それを自覚しながら、デューは話を続けた。
「ふふ、その特別はまた別なんだけど……これはオイラが言うことじゃないね。でも攻撃魔法なんて覚えなくていいってジャムカの気持ちはオイラにだってわかるよ。エーディンに……人を傷つけて欲しくないんだよ、どんな時だって。だから……。ああ、これ以上は本人から直接聞いた方がいい。ジャムカ呼んで来るよ。オイラに言ったみたいにさ、ほんの少しだけ正直になればいいんだよ。我慢してないで。自分の感情を表に出すのって……別に悪いことでも恥かしいことでもないよ?」
「デュー」
デューはもう1度クスクスと笑うと、イタズラな瞳でエーディンを見つめ、小さく手を振ってからその場を立ち去った。
そして、数分後、同じように雪焼けした顔のジャムカが、デューの言葉通り静かにエーディンのもとを訪れた。
「ジャムカ……」
「シレジアにしては珍しく晴天だったからな……。雪で目や肌をやられるなんてこと……考えもしなかったんだが」
「デューに聞いたの?わたくしがここにいるって」
「ああ。だが聞かずともわかっていたし。外をミデェールとアレクがうろうろしていれば、確定だろう?そんなに気になるのなら、外で待たずに中で見ていればいいものを」
しらけた顔をしながらも、おどけたような口ぶりでそう言ったジャムカにエーディンは軽く反論した。
「ミデェールもアレクも……わたくしのお祈りの邪魔をしてはと気づかってくれているの。だから」
「俺も邪魔だったか?」
ジャムカの言葉にエーディンは慌ててかぶりを振った。
「いいえ……そんなことは。もうお祈りは終わったし、だいいち見ていられてもわたくしは平気。ただ、何となくここが一番落ち着くから帰りたくなくて、お祈りが終わっても長居してしまうだけで」
「そうか……。俺もそうだな。ここが一番落ち着く」
「ジャムカ?」
傍に膝を着きながら囁いたジャムカの言葉にエーディンは驚いた。
ジャムカが教会を好き?それはちょっとではなく大いにエーディンには意外だったから。
そのエーディンの反応に気づいたジャムカは、まるで弓で的を射抜く時のような真剣な眼差しでエーディンを見つめた。
「ここが落ち着くっていうのは教会って意味じゃない。お前の傍って意味で言ったんだ」
「ジャムカ……?」
その言葉はエーディンにとって今度は意外どころか、信じられない言葉だった。
ジャムカが素でいられるのは……お腹の底から楽しそうに笑えるのは姉・ブリギットといる時だけ。だからジャムカの安息の地はブリギットの傍。
そう思ったから、悲しかったのに。
戸惑うエーディンを見つめるジャムカの目は相変わらず鋭く熱い。でもその瞳の中に、不器用な優しさを見たエーディンはそれだけで動揺し、自分のなすべきことさえ忘れかけてしまった。
「火照った肌と焼かれた目……癒してはくれないのか?」
「あ……そうね、ごめんなさい。ジャムカ」
つぶやいたジャムかにそう答えながらそっと頬に触れると、ジャムカは静かに瞳を閉じ、そして伸ばした手で同じようにエーディンの頬に触れた。
「ジャ……ム…カ…?」
「ブリギットに叱られた。エーディンの気持ちがわかっているのかと」
「………?………」
「勇者の弓は……ユングヴィの家宝。それを譲り渡す相手は愛するものだけのはずだと。同じ弓兵でありながら、常に仕え、守ってきたミデェールではなく俺にあの弓を渡したエーディンの心がお前にはわからないのかと」
「……?!……」
ジャムカの頬の火照りはもうすでに冷め、雪目になりかけていた瞳も回復の兆しを見せていたのに、ジャムカに触れられているエーディンの頬は反対にどんどんと火照るばかりだ。
そして、震える指先でもう一方の瞼に触れたエーディンの手をそっとつかんだジャムカは閉じていた瞳を見開いてもう一度エーディンを見つめた。
「言われずとも……感じていた。お前があの弓を俺にくれた意味を……。だが」
「ジャムカ」
「妻が行方知れずのシグルドにも……やっとフィンという心のより所を見つけながら別れなければならなかったラケシスにも……お前をずっと想い続けているミデェールにも……一見お調子者だが、本当は誠実で純粋なアレクにも………そして、精一杯の心でお前を想うデューにも、悪い気がして俺はとぼけていた」
「………」
「だが、デューにもさっき叱られたよ。みんな知ってるって。エーディンがジャムカを愛しているのなんてとっくに気づいているって。それでも好きなんだからこれはしょうがないし……誰もエーディンの不幸を望んではいないって。エーディンの幸せを望んでるって」
「ジャムカ」
「愛している」
「ジャムカ……」
「デューの言葉で目が覚めた。お前の幸せを望んでいる。それは俺も同じだ。不安にさせてすまなかった。何度も言いかけて……言えずにいた」
「ジャムカ」
とうとう泣き出したエーディンをジャムカはそっと抱いた。
「ブリギットは心強い仲間だ。同じ弓兵として尊敬できる戦士だ。だが恋人とは違う。俺が愛したのは…お前だけ。傍にいて心安らぐのもお前だけ……」
「ジャム…カ……」
「俺がお前を守るのは……お前が弱いからじゃない。愛しているから……。そしてとても大切な女だから。いいや……誰よりも大事な女だからだ」
「ジャムカ……」
ヴェルダンの森で……敵からかばうように抱いてもらって以来の抱擁。
あの時とはまた違う力強さと甘さにエーディンは泣きじゃくった。
ジャムカは森の匂いがする。
清々しくてリンとしていて……穏やかで優しい。そんな森の匂いが。
そんなジャムカの胸に抱かれ、その逞しい腕に包まれる幸せをエーディンはかみしめていた。
「ジャムカ……愛しています」
瞳に涙を浮かべたまま、そっとジャムカを見上げ、囁いたエーディンにジャムカは優しく口づけた。 エーディンにとって……それは初めての口づけ。
神のご加護をと、幼い子供の額に何度も口づけたことはあったけれど……こんな風に触れられたのは初めてだった。
「神の御前でシスターのお前に口づけたからには……妻にと誓ったも同じ。だから、たった今からお前は俺の妻だ。俺にはもうジャムカという名しかないが………こんな俺をお前の父はもう婿にと望みはしないだろうが………不服はないな、エーディン?」
はにかみながらも、リンとした目でそうつぶやいたジャムカが愛しくて……しがみついたまま、エーディンは何度もうなずいた。
そして……
誰よりも…と。わたくしには生涯あなただけと……。つぶやきかけたエーディンの唇は、もう一度重なったジャムカの唇に封じられ、言葉を失った。
5
シレジアでの穏やかな日々はしばらくは続いた。
アイラはホリンと技を磨きあううち愛し合うようになり、二人はごく自然に結ばれた。そして、無理をして、まるで男のように振る舞っていたブリギットの心を熔かしたのは、意外にもドズルのレックスだった。
シルヴィアは常に穏やかで兄のようなクロードを慕い、ティルテュは幼なじみだったアゼルと恋仲になった。レヴィンは相変わらず吟遊詩人さながらに悠悠自適な暮らしをしていたが、フュリーがレヴィンを好きなのは周知の事実だったし、レヴィンも実はフュリーを愛していることを、皆は承知していた。ただ……シレジアの次期王という立場が邪魔をして、互いに想いを告げられないだけで。
妻を失ったシグルドも、その頃にはレンスターに帰ったフィンを想うラケシスを慰められるほどに回復していたし、ラーナ王妃の尽力で、バイロン卿の汚名もじき晴らされると皆が思いはじめていた。
シレジアでの暮らしは……その気候とは正反対に皆の心と身体を十分に温め、皆はやっと人らしさを取り戻しかけていた。
戦いのさなかには、忘れなければいけない優しい感情。ぬくもりや愛を求める純粋な心。だが、皆がそれらをすっかり取り戻し、その表情に厳しさが消えた頃……。
またもや新たな戦いが始まってしまった。
トーベのマイオスがザクソンのダッカーが……ドノバンが……ラーナ王妃に叛旗を翻したのだ。
シグルド達を匿い、心からもてなしてくれたラーナ王妃の危機を皆が放っておけるはずもなく、シグルドの部隊はまた新しい戦いに巻き込まれていった。
最強の部隊だと自負しながら進軍したシグルド達はシレジアの攻防を難なくこなしたが、ラーナ王妃は救えたものの……シレジアの打撃は大きい。
そして、自分達がそこにいるだけで、今度は内乱ではなく、侵略の対象にシレジアがなってしまうことを恐れたシグルドは一つの決心をした。
それは死へと向かう、帰り道のない進軍。
狂ってしまった運命の歯車を戻すこともできず……それに気づくこともなく、シグルドは追い詰められた手負いの獅子のように、両手を広げてシグルドを待つ、アルヴィスの罠へとはまっていったのだった。
グラン暦760年早春。
シグルド達の悲劇の行進は始まった。
その時、エーディンは……ジャムカは……。
嫌な予感に苛まれながらも、精一杯シグルドを助け、また柔らかな日々を取り戻そうと……歩を進めていた。
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