光と影のラビリンス
Nanase
1
何かが狂いはじめている。
何かが……。
ジャムカは窓からのぞく月を見ながら今宵もそう感じていた。
ヴェルダンの王子。
そんな肩書きをジャムカは持っていたが、それは名ばかりのものだった。
末子として生まれたジャムカを父王はことの他可愛がった。だが、兄達はそれが気にいらない。元々、母の違うこの弟を疎ましいと思ったことはあっても愛しいと思ったことなどこの兄達にはただの一度もなかったのだが、それはジャムカが歳を重ねるごとに強くなっていった。
口には出さずとも……誰もがジャムカこそがヴェルダンの後継者にふさわしいと考えている。この地を統一し、治め、王となった父の資質を継いだのはジャムカだと……誰もが思い始めている。
それを二人の兄達は感じ取っていた。
ヴェルダンは歴史が浅い。他国のように王家の威厳は民に浸透していない。
民が従ったのは父が賢く強かったからであり、『王』だからではない。『王族』であるだけで民の尊敬と羨望を得られる他国とは違う。 それを兄達は知ってもいた。
だから、日々成長し、皆の尊敬を集め、部隊を統率しはじめたジャムカが兄達には目障りで仕方がない。
「ガンドルフの兄貴、どうするつもいだい? 兄貴が弓なんぞ持たせるから、ジャムカの奴、いい気になって」
「うるさい。キンボイス。俺達とは違うってことを見せつけるためにそうしたんだろうが。あんなオモチャで何ができる? そう思ったから許したんだ。それを……ジャムカの野郎」
ヴェルダンでは武器は斧だった。斧が最も強く男らしい武器とされていた。だからガンドルフは心良く思っていない末弟に斧を使うことを許さなかった。だが、建て前上、丸腰で戦えとも言えない。そこでガンドルフは最も威力のなさそうな……見栄えも悪そうな華奢な弓をジャムカに投げ与え、これで戦えと笑った。
だが、その弓はガンドルフが思ったほど華奢でも弱くもなかったのだ。
見た目の繊細な美しさとは裏腹に、その弓を引くには相当な力がいった。半端な力で弓を放てば、もうそれはオモチャでしかない戦力だったが……強靭な肉体と鋭い直感で的を射抜いた時の威力は何者にも勝った。
ジャムカはすぐにそれを感じ取り、自らの身体を鍛え、まるでその弓を自分の身体の一部のように使いこなし、瞬く間にヴェルダン1の弓使いとうたわれるようになっていた。
「でも兄貴、このままじゃ……」
「わかってるって。そのうち危険な戦にわざと出陣させて……先陣を切らせ、野郎には消えてもらう。親父も老いぼれて息子の俺達に頼らなければどうしようもなくなったことだし、親父がジャムカを後継者になどと言い出さないうちに奴には消えてもらわなくちゃだからな」
「へっへっへっ……さすが兄貴だ。ちゃんとわかってるってもんだ」
「ふふふ、当たり前よ!ハ!」
そんな兄達の思惑などジャムカにはどうでもよかった。
ジャムカが気にしていたのは、近頃頻繁に出入りするようになったサンディマという黒づくめの服を身にまとった祈祷師の存在。
ジャムカは彼が王宮に現れただけで、鳥肌がたつような闇の圧力をその鋭い感性で感じていたのに、誰も……賢王とうたわれた父でさえ気づこうとはしない。
どうにかしなければ………。
だが、自分には……そんな力はない。
もしも自分があの男は危険だと公言したら、兄達は自分への反発心から、なおのことあの男を重用するだろう。
ジャムカにはそれがわかっていた。
そう。兄達は父とは違う。この地を統一し治め、民の暮らしを考えてきた父の想いなど、あの兄達には少しもわかっていない。それどころか……。
だが、それは末弟のジャムカに言えることではなかった。
そんなある日、一人のシスターが兄ガンドルフの手でマーファの城に連れて来られた。
どうしたのだと訪ねるジャムカにガンドルフはニヤニヤと笑いこう答えた。
「ふふ、いい女だろう?俺達が遊び飽きたらお前にもまわしてやろうか?ユングヴィの姫君でシスターなんて女、滅多に抱けるもんじゃないからな。ま、しばらくはそれどころじゃない。地下牢にいる間抜けなガキの盗賊と一緒にぶち込んでおけ」
「…………」
清楚な美しさの中に見え隠れする強い意志。こんな状況でありながら、泣き叫ぶどころか少しも動じないシスターにジャムカはしばし見惚れた。だが、そんな自分が今しがた下劣な言葉を吐いた兄と同じ男に思え、ジャムカは自分を恥じた。
「お前…名は何という?」
冷静さを取り戻そうと、わざとキツイ声で尋ねたジャムカに当然のように少女は答えた。
「エーディンよ。あなたが……ジャムカ?」
「なぜ俺の名を知っている?」
「うふふ、お父様が……前に言っていた。お前の婿に迎えるのならヴェルダンのジャムカしかいないと……。シグルド様がお相手ではわたくしが嫁ぐしかない。それは困ると…。でも、シグルド様はただの幼なじみ。なのにお父様はわたくし達の仲の良さを勘違いされて……予防線を張ってらした。だから、あなたの名は何度も聞かされたわ。ヴェルダンのジャムカ。一国の王にもなれる男だと………」
「………」
ユングヴィやシアルフィは由緒ある家柄の貴族が統治している。王族とは言ってもヴェルダンなどは成り上がりの田舎ものだと馬鹿にされているとジャムカは感じていたから、この言葉には驚いた。
冷静になりかけた頭がまた混乱する。
父王はグランベル王国がヴェルダンを侵略するやもしれぬと危惧していたが、エーディンの言葉を聞けば、それは間違いだとはっきりわかる。
この少女が今の状況下で、こんな手の込んだ嘘をつくわけがない。
自分を娘婿にと……本気でユングヴィの当主が考えていたのなら、侵略などはありえない。
ならばこの略奪はこちらからの宣戦布告と同じ!
静かな笑みをたたえ、ジャムカを見つめるエーディンの前でジャムカは立ちすくんだまま顔色を変えた。
戦いの火ぶたは切られてしまった。
それも、こちらからの奇襲・略奪という形で。
あの……嫌な予感。何かが起こっているという不安。それはこれだったのか。
ジャムカは唇を噛んで自分を叱咤した。
あの時、父にどう思われようがもっと厳しく意見していれば!
謀反人と罵られようが兄達に叛意を見せていれば!
このままではヴェルダンは滅びてしまう。父の誤解と卑怯な兄達の暴挙で戦いの渦に巻き込まれ、苦しみもがくのは民と兵士なのに。
ジャムカはそう心で叫び、何もできなかった自分を情けなく思った。
だが、もう取り返しはつかない。
エーディンがここにいるということは……兄達の手でユングヴィの城は落とされたということ。互いに犠牲もでただろう。
和平を誓いながら、卑怯な手を使ってグランベルに叛旗を翻したヴェルダンを……グランベルは許しはしまい。
「どうしたのです?ジャムカ」
一瞬で顔色を変えたジャムカに気づいたエーディンが問いかけるようにつぶやくと、ジャムカは被っていたターバンをはずし、深々と一礼してから言葉を発した。
「すまない、エーディン。今度のことはたぶん……父の誤解と、それにつけいった兄の独断で行われた暴挙だ。だが、これだけは信じて欲しい。父バトゥは例え戦を仕掛けたとしても、女、子供を人質に取るような戦いはしない。ましてや落とした城を守っていた女を戦利品にとさらい、次の戦いで盾にしようなどとも、慰みものにしようなどとも考えはしない……」
「ジャムカ」
「だが、今すぐにでも、お前を我が物にしたいと……そんな目でお前を見ていた兄が慌てていたところを見ると、ユングヴィへの奇襲は成功したものの、シアルフィの素早い動きにあせり、表向きは勝利の凱旋を装いながらも、その実兄はお前をさらって逃げ帰ったということなのだろう。ということは……シグルドの率いる軍がじき、ここへやってくるということ」
「ジャムカ……」
「ならば、エーディン。機を見てお前は俺が逃がしてやる。先ほどの話ではシグルドとお前は仲のいい幼なじみ。お前を盾にされては…シグルドは手がだせない。兄ならば、それぐらいのことは平気でする。だが俺は嫌だ。俺はそんな戦いはしたくない。俺もヴェルダン1の弓使いと名を馳せた男。戦となれば国のために戦いもしよう。たとえそれが不本意な戦いであろうとも。だが、お前は助けたい。たとえ、どんな兄の逆鱗に触れようと」
エーディンは突然のジャムカの言葉に驚きながらも、静かにうなずいていた。
(でも、そんなことをしたら、あなたの立場が……。そっと……見つからないように逃がしてくれれば。いいえ、牢の鍵だけこっそり渡してくれれば……後は自分でなんとかします)
そう言いかけて、エーディンはそれもやめた。
なぜなら、風に揺れるジャムカの薄茶の髪と、意思の強そうな黒い瞳に……ふとある人物の面影を見て、言っても無駄なことだと感じ取ったからだ。
幼なじみで親友だったエスリンが恋をして……焦がれて嫁いだレンスター家の王子。
シグルドの親友でもあり、エーディンにとってもシグルド同様、兄のような存在だったキュアン。
顔形はどこも似ていないのに……なぜかエーディンはジャムカにキュアンの心をだぶらせていた。
できればこの方とは戦いたくはない。
父の言った通りだ。この方がヴェルダンの王ならば……。
そう……。キュアン様には幼き頃より王家を継ぐ者としての自覚があった。
それを今、私はこの方にも感じる。
エーディンはそう思い押し黙ったのだ。
王たるもの、誰が何と言おうと、おのれが決め、誓った言葉を翻しはしないと、知っていたから。
2
地下牢に着いたエーディンは(心配するな)と目で合図して立ち去ったジャムカを見送ると怪我をしたミデェールに心を馳せた。
常に自分に忠実な側近であり、優秀な弓兵でもあったミデェールが簡単に倒された。
手当てもしてやれぬまま、連れ去られてしまったけれど……どうか無事でいて欲しい。
命だけはどうか……。
今のエーディンにはそう祈ることしかできない。
膝をつき、瞳を閉じ、手を合わせて祈り続けたエーディンは、しばらくすると人の気配を感じ振り返った。すると明るい目をした少年があどけない笑顔でエーディンを見つめていた。
「もうお祈りは終わったのかい?シスター」
「あなたは……?」
「デューっていうんだ、オイラ。ケチな泥棒さ。まったくドジったもんだよ。けど、ガンドルフってのは本当に嫌な奴だぜ。キンボイスも同じ。オイラは盗賊だけど、いい奴からは盗まないって決めてるんだ。えへっ、一応ね」
まだ子供じゃ……。
エーディンは明るくそう言い放ったデューを見て、そう感じ驚いた。
「ガキの泥棒と一緒に牢に」と。そういえば、ガンドルフがジャムカに言っていた。
でも、本当に子供じゃないの。
そう思ったエーディンは静かにデューを見つめると、ゆったりとした口調で語りかけた。
「そう……。でも盗みはよくないわ、デュー。例え相手が悪い人でも。だけどきっと、それが今までのあなたの生きる手段だったんでしょう。だから、そのことにはわたくしは何も言わない。でも、これからは……ダメよ?いいわね、デュー。約束して」
「シスター?」
「エーディンよ、デュー。ここから逃げられたら……ずっと一緒にいましょう?あなたには、友達や仲間や教師が必要だわ。だから、わたくしと一緒に行きましょう。盗みをしなくても生きていけるすべを教わればいいのよ。あなたは根っからの悪じゃない。ただ、盗みが悪いことだって知らなかっただけで」
「エーディン……」
言いながらそっと頬に触れてきたエーディンに今度はデューが驚いた。
泥棒だと告げて、優しくされたことなどこれまでデューにはただの一度もなかった。
ガキのくせに!とんでもない野郎だ!
そう言われ、殴られ、腕を切り落とされそうになったことすらある。
なのに。
優しい手は暖かくて柔らかくて……思いやりに満ちている。
デューは泣きたくなる心を抑え、はにかんだ笑みを浮かべると、小さくつぶやいた。
「わかったよ、エーディン。約束する。二度と盗みはしないよ。でも、どうやってここから逃げるんだい?」
エーディンはそれには答えず、ニコリと笑ってデューを抱き寄せた。
3
シグルドの軍は思いの他、早くジェノアの城に近づいた。
ジャムカは今しかないと判断し、そっと地下牢に降り立った。
牢番には「二人をヴェルダン城に移す」と言えばそれでよかったし、簡単にエバンスの城を落とされたことで動揺している兄ガンドルフは戦の準備に忙しい。
今を逃したら……兄はエーディンを傍に置き、いざという時の盾にしようと考えるに違いない。
そう感じたジャムカの行動は速かった。
そして……。
「悪いがここまでだ。できればシグルドの軍と合流するまで見送りたいが、そうもいかない」
そう言って、マーファ城を少し離れた場所で立ち去ろうとしたジャムカにエーディンは囁いた。
「ありがとう、ジャムカ。あなたはいい人です。できればあなたとは戦いたくない……」
「エーディン」
「シグルド様は話せばわかるお方。どうか……この無意味な戦いに終止符を打つべく、あなたからバトゥ王にお話を」
「わかった。できるものなら……そうしたい。もう一度、父に話をしてみる」
二人の会話を聞いていたデューは、「どうせならもっと安全なところまで送ってくれればいいのに」と憎まれ口をきいたが、ジャムカは「お前を助けたのはエーディンのたっての頼みだからだ」と突っぱね、姿を消した。
「こんなとこに置き去りじゃあな……」
ぼやくデューを促しながら、エーディンはまた囁くように言った。
「いいえ、デュー。これだってジャムかにはとても危険なことなのです。あなたはともかく……わたくしは人質。それを逃がすということは……謀反も同じ。もしも、彼がこのことで処刑されでもしたら………わたくしは………」
泣き顔になったエーディンにデューは慌てた。
「泣かないでよ、エーディン。わかったよ、ここからはオイラがエーディンを守るから。エーディンが死んだら、それこそジャムカのしたことが無駄になっちまう。話は後だよ。今はなんとか逃げることを考えなくちゃ。シグルド様の軍がもうすぐそこまで来てるって、ジャムカも言ってた。なんとかそこまで自力で行かなきゃ!ね、エーディン」
「ええ、そうね、その通りね、デュー。ごめんなさい、私……」
涙を拭いたエーディンは精一杯の笑顔を見せ、小走りにデューの後に続いた。
胸が痛い。不安で……怖くて……寂しくて……。
エーディンはそう感じ、そして、それはなぜかデューも同じだった。
(何だ?この感覚。寂しいなんてどうかしてる……)
デューは走りながらそう感じていた。
だが今はそれどころではない。
自分の命。そしてエーディンの命。それが自分の肩にかかっている。
デューは差し向けられた追っ手と死にもの狂いで戦い、何とかエーディンを守り抜いた。
それは今後のデューの誇りともなる、大きな意味のある戦いでもあった。
大切な人を……守れた。
その瞬間にデューは本当の意味で大人になっていた。
そう……外見や歳はともかく、デューはその時、本物の『男』になったのだ。
そんなデューの心の変化を知らないエーディンは、何度もデューを抱きしめ礼を言った。
合流したシグルドもデューの働きに感謝し、頭を撫でて礼を言い、自軍と行動を共にすることを許可した。そして、エーディンを助け出そうと怪我をしながらも合流した騎士、ミデェールも………。
みんな優しい。オイラが今まで会ったどんな大人より、みんな優しい。
でも……。
デューはその時、冷たく憎まれ口をききながら、自分も逃がしてくれたジャムカを思い出していた。
ジャムカは無事だろうか?
あの城で……唯一マトモだった王族。
ちっとも王族らしくない王子様だったと……デューは思った。
捕まってすぐ、牢に入れられ、ふてくされていた時、ジャムカはあきれたため息をつきながらもポケットから木の実の入った袋を取り出し、牢に投げ込んでくれた。
「非常食だ。腹の足しにもならないが……飢えはしのげる。泥棒のガキに食事が出されるかどうか……この城では怪しいものだからな。大事に食えよ」
と。
(ジャムカ………)
小さくつぶやいたデューの傍で、エーディンは一心不乱に祈りを捧げている。
エーディンが同じ想いでいることが、デューにははっきりとわかる。
でも、同じ想いでいるにもかかわらず、その姿に胸が痛む。
「エーディン……少し休んだ方がいいよ」
「え…?あ、ええ」
「ジェノアは落ちたけど、マーファはガンドルフが守ってる。そう簡単にはいかない。それに、もしジャムカが先陣を切ってきたら……」
「………」
「ジャムカを説得できるのはエーディンだけだよ、きっと。だから、エーディンは疲れた顔をしていちゃダメだ。わかるでしょ?」
「ええ、ありがとう。デュー」
「へへへ、テレちゃうなあ。ここに来てから、お礼言われたり褒められてばっかで」
「まあ……」
微笑んだエーディンの表情が、あまりに美しかったのでデューはしばらく見惚れていたけれど、大きくうなずくと立ち上がった。
「さあ、出撃だよ。シグルド様はエーディンを助け出すために進軍してきたけど……戦いの意味がもう変わってしまったと言っていた。ヴェルダンにはもう、無条件降伏しか道はないって……。どうしてこんなことになっちゃったのか……オイラみたいな子供にはわからないけど……ジャムカはここで死んでいい人じゃないってのだけはわかるんだ。だから」
「そうね、デュー。わたくしもそう思うわ。ジャムカはわたくし達を救ってくれた。だから今度はわたくし達がジャムカを救う番だと……そう思います。だから、わたくしも戦います。わたくしはまだ……リライブの杖しか使えない未熟なプリースト。戦力にはなれないかもしれないけれど………。そして必ずジャムカを……」
「うん、そうだよ、エーディン」
思いつめた顔のエーディンにデューはとびきりの笑顔を見せた。
4
マーファは意外にも簡単に落ちた。
ジェノアで仲間になったイザークの王女アイラの流星剣にはシグルドさえ目を見張るものがあった。
シグルドの手勢だけではこうはいかなかっただろうが……レンスターから駆けつけたキュアンにエスリン。そして、キュアンが最も信頼を寄せる騎士見習いのフィン。ドズルから馳せ参じたレックスに、同じくヴェルトマーからエーディンの危機を知り駆けつけたアゼル。数ではガンドルフの部隊に遠く及びはしなかったが、少数精鋭のこの部隊は敵の予想以上に強かった。
数だけで勝てるといい気になっていたガンドルフは足元をすくわれた。
最後には盾にするつもりだったエーディンにも逃げられ、ガンドルフはジャムカに恨み言を言いながらこの世を去った。
エーディンはマーファにジャムカがいなかったことにほっと胸を撫で下ろしたが、次はヴェルダン城に攻撃を仕掛けなければならない。
バトゥ王が降伏しない限り、ジャムカは先陣を切って攻撃を仕掛けてくるだろう。
それがジャムカの使命。
主君であり父である王が降伏せず戦うと言明すれば、ジャムカは全力で戦うしかない。それが戦士の宿命。
だが、その時しかチャンスはないと、エーディンは考えていた。
だから、ジャムカを説得するためには自分が前線にいなければならない。
プリーストであるエーディンをシグルドは決して前線には出さなかったが……今度ばかりはとエーディンはシグルドに懇願した。
「しかし、エーディン。君は戦えない」
「わかっています。けれど、ジャムカを説得できるのはわたくしだけです。彼が逃がしてくれなかったら……わたくしは未だガンドルフの手中にあり、不本意ながらもシグルド様達の足手まといになっていたでしょう。ジャムカは自分の身の危険もかえりみず、わたくしを救ってくれたのです。今度のことはジャムカの意志ではありません。それに、バトゥ王を説得できるのはジャムカだけ。これ以上無駄な血が流れるのをわたくしは見たくありません。どうか……ジャムカの説得をわたくしに……」
「エーディン……」
シグルドはしばし考え込んだが、もともとエーディンを救うために始めた戦い。ヴェルダンの制圧が目的ではなかったのだから、バトゥ王が降伏の意思を見せれば殺す必要はない。無血開城できれば……シグルドとてその方がいいのはわかっている。
だが……。エーディンを矢面に立たせるような戦いはしたくなかった。
しかし、結局シグルドはエーディンの想いの深さに押し切られる形になった。エスリン同様エーディンも言い出したら聞かない。見るからに活発な妹エスリンとしとやかなエーディンは見た目はまったく別のタイプに見えたが、内面の強さ頑固さは同じだと、シグルドは知っていた。
だから、くれぐれもと……他の騎士達に常にエーディンを守るようにと注意を与え、エーディンが最前線に混じることをシグルドはしぶしぶ承知した。
だが、その言葉にキュアンは信じられないという顔でシグルドを責めた。
「おい、シグルド?!何を言いだすんだ」
「キュアン……」
シグルドとて本音ではキュアンと同じ。だから、キュアンの気持ちもよくわかる。だが、どうしようもないのだ。
困りきったシグルドに助け船を出したのはキュアンの妻、エスリンだった。
「キュアン……。お兄様だって好きで認めたのではないわ。エーディンはああ見えても言い出したら聞かないの。それに今度のことは和平だ戦だというレベルだけではなさそう。エーディンはその身を矢面にさらそうと……ヴェルダンのジャムカを救いたいのよ。ジャムカは捨て身で死を覚悟して出てくる。彼には今、死しかないの。ヴェルダンの滅亡をその目で見るよりも……父王の最期をその目で見るよりも……討ち死にした方がマシだと彼は追い詰められているはずよ。その彼を救えるのはエーディンだけだわ。彼に死んで欲しくないと……ともに生きて欲しいと願っているエーディンだけ」
「エスリン?」
「うふふ、キュアン、相変わらず鈍い人。あなたは昔からそう。私がずっとあなたを好きだったことにも少しも気づいてくれなくて……何度一人で泣いたかわからないのよ?私。エーディンは誰にでも優しいけれど……自分の命をかけても救いたいと……そこまで思いつめたのは初めてのはずよ。気づいているんだかいないんだか……でも私にはわかる。私が初めてあなたを恋しいと感じた時と、エーディンはまるで同じ目をしている気がするんですもの」
「エスリン……」
エスリンは恐ろしく勘がいい。
そのエスリンが自信を持って言ったこのセリフにキュアンは押し黙った。
自分以上にエーディンを可愛がっていたシグルドが折れたほどの懇願。その裏にあったエーディンの想い。それをエスリンは一瞬で見抜いた。
なるほど、頼もしい奥方殿だ。
キュアンは冷笑を苦笑に変え、傍に控えていたフィンにも声をかけた。
「我々も全力でエーディンを守る。フィン?いいな、お前もそのつもりで」
「はい、キュアン様」
キュアンに似、女心には少し鈍そうなフィンは二人の会話の意味することがまだはっきりとはわからないようだったが、主君の命じた事柄に大きく返事だけはした。
その様子を見ていたエスリンはまた、クスクスと笑い、キュアンもそれにつられたかのように苦笑した。
5
ヴェルダン城へと続く森の中に、ジャムカは部隊を率いて現れた。
シグルドはジャムカの射程距離にだけは入るなと皆に注意を与え、進軍をはじめた。エスリンとエーディン。回復魔法を使える仲間が二人いる。だから少々の傷や怪我など恐れるに足りなかったが……ジャムカのキラーボウでの一撃は侮れない。いくらプリーストのエーディンだとて天に召された仲間を甦えらせることなどできはしない。
だから……ジャムカの必殺の一撃は脅威ではあった。
エーディンが説得する前に仲間が一人でも殺されてしまったら、諌めても突っ走る仲間は少なくはないだろう。
もしも、エスリンが彼の矢に射抜かれたら……キュアンが黙っていない。もしもキュアンが倒れたら……今度はエスリンが、フィンが冷静ではいられない。アゼルにしてもレックスにしてもノイッシュにしてもアレクにしてもアーダンにしても……それは同じ。
戦とはそういうものだ。
だが、シグルドの戦略は成功を収めた。
エーディンを守りながらの進軍。それは生やさしいものではなかったが、全員の心が一つになったこの戦いでの団結力は先のマーファの戦いよりも優れていた。
そしてとうとう、エーディンは……ジャムカの目の前に無防備なまま立ちはだかった。
「エーディン……。こんな所で何をしている!?」
その姿を見、驚いたジャムカはかばうようにエーディンをその胸に抱いた。
「ジャムカ、あなたに会いにきました」
「バカなことを!ここは最前線だぞ。俺はお前をこんな危険な目に合わせるために逃がしたんじゃない!ここにいるだけでどれほど危ないか……わかっているのか?!」
「ええ、それはわかっています。でも、こうするしかなかったのです。ジャムカ?あなたは死ぬ気でここに来たのでしょう?きっともう、あなたは誰の話にも耳をかさない。それでもわたくしの声だけは聞いてくださるのではないかと……賭けてみたかったのです」
「エーディン……」
その時、ジャムカがエーディンを抱く直前に味方が放った矢がジャムカの腕を貫き、ジャムカは苦痛に顔を歪めた。
「ふっ。さすが俺の側近、いい腕をしている。俺が抱いていなかったら、お前の胸かその綺麗な顔にこの矢は突き刺さっていたんだぞ!」
「ジャムカ!」
刺さった矢を抜こうともせずに、ジャムカはエーディンを強い瞳で見つめていた。
その瞳は「さらば」と、「もう二度と会うことはないだろう」とはっきり告げていた。
「帰れ。ここはお前の来るような所ではない。仲間が心配ならば最後尾で負傷兵を助ければいい。それがお前の役目だ」
「ジャムカ……」
その激しさにエーディンは一瞬たじろいだ。
前に会った時のジャムカとは違う。弓を持ち、戦士として戦場にいるジャムカは戦士以外の何者でもない。女、子供の懇願など無意味かもしれない。
エーディンにはそうも思えた。けれど、言わずにはいられなかった。いいや、勝手に言葉が口から飛び出していたのだ。
「仲間を救いたい。それはわたくしの役目。その通りです。けれど!わたくしは……あなたも救いたい!死んではダメよジャムカ!バトゥ王を説得できるのはあなただけ!ここで討ち死にするのがあなたの仕事ではないはずよ。いいえ、そんなことより何より……わたくしは……あなたに生きていて欲しい。あなたに死んで欲しくない。あなたに……」
「エーディン……」
大粒の涙を目にためて、懇願するエーディンにジャムカは心を動かされた。
そして、最強の兵士、ジャムカが動きを止めている間に、他の者は一掃されていた。
これもシグルドの戦略。
刃向かわず降伏すれば、シグルドはジャムカの仲間を殺しはしなかった。だが、ジャムカと同じく死ぬ気で出撃した部隊は誰一人として降伏はせず、戦いの果て死んでいった。
「とんでもない裏切り者だな、俺は……」
「ジャムカ」
「もう一度、父上を説得してみる。お前のために……そしてヴェルダンの民のために」
「ありがとう、ジャムカ」
だが、森を抜け、城への進撃をはじめる前にと、つかの間の休息を取ることにした部隊に、思いがけない凶報が伝わった。
バトゥ王は暗殺され、ヴェルダン城でシグルド達を待ち受けているのはサンディマだというのだ。
父王の無念に激高するジャムカをエーディンは優しく手当てした。
自分をかばうために射貫かれた腕の傷は見た目よりずっと深かった。けれど、その痛みよりもジャムカには父王の死の方がはるかに辛そうで、エーディンは言葉を失った。
「すべては奴の罠だったんだ。兄達をそそのかしたのも、父上をたぶらかしたのも……そして最後の戦いの先陣を俺にきらせたのも、すべて奴の仕組んだ罠。くそ……俺たち一族はたった一人の妖術使いに踊らされ滅ぼされた。悔やんでも仕方のないことだとわかっているが、無念でならない。自分の早計さが……未熟さが」
「ジャムカ…」
慰めようにも言葉がでてこない。
今さら、それを言った所でどうにもならないことをジャムカはわかっている。それでも言わすにいられない悔しさがエーディンにはわかった。
ジャムカにはもう帰る場所はないのだ。
父を暗殺したサンディマを殺しても、ヴェルダンは返らない。
主力部隊が遠征し、手薄になったユングヴィに突然奇襲攻撃をかけ、城を落とし、公女をさらい……。誰がそそのかしたにせよ、それをしたのはヴェルダンの王子である自分の兄。
そして、それを王は容認したのだから、これはもうグランベルに対する反逆でしかない。
その父は後悔する間も、自分の間違いを詫びる間もなく殺された。
これではヴェルダンの再興など……望めるはずもない。
それがジャムカにはわかっていた。
そしてそのせつない思いがエーディンにはわかっていた。
「ずっと共に生きましょう。ジャムカ」
見上げるようにジャムカの目を見て囁いたエーディンにジャムカははっとした。
「エーディン?」
「王子という身分など……もともとあなたには必要のない肩書き。あなたはあなたですもの。ヴェルダン1の弓使いの名は……消えはしないのだから」
「エーディン」
「シグルド様の元で……どうかその腕をいかしてください。わたくしも、シグルド様にお仕えいたします。シスターとして……プリーストとして」
「エーディン」
エーディンの言葉はジャムカの胸に深く響いた。
そう、それしかもう生きる道はないと、ジャムカには思えた。
華奢な腕で杖を揮い、仲間を癒す。
それがエーディンの役目ならば、自分はそのエーディンを常に守りたいと……ジャムカは思った。
守る国や民のなくなったジャムカにはそれこそが新たなる生きがい。
自分がこれからもこの世にある意味を、ジャムカはその時、見いだした。
何があろうと、この少女を守ろうと……誓うことで。
静かに微笑んだエーディンに笑みを返して、ジャムカは両手を握り締めた。
まだ戦いは終わっていない。
サンディマを倒しても王家も父も返らない。
けれど、倒さなければ。
傷をすっかり治してくれたエーディンに礼を言ってジャムカは立ち上がった。
ヴェルダンの地の利は誰よりも知っている。
より犠牲を出さぬよう戦うためには戦略も必要。主と認め、従となった今、それを指揮官であるシグルドに伝えねばと、頭を切り替えてジャムカは歩き出した。
6
サンディマの黒魔法は恐ろしいものだった。
精霊の森の少女が味方になっていなければ、ああも簡単に倒せはしなかったかもしれない。
不思議な力を持つ少女ディアドラはシグルドを助けるためだけに森から抜け出し、二人は一瞬で恋に落ちた。
そして最終決戦。
ディアドラの力や、皆の結束。そしてヴェルダンの地の利を隅々まで知るジャムカの活躍でヴェルダンは簡単に落ちた。
複雑な思いを胸にジャムカはシグルドに従うことを誓い、王子の肩書きを捨て事実上、シグルドの臣下となった。
ヴェルダン城を制圧したシグルドはエバンスの城を居城とし、ディアドラを妻に迎え、一見平和は戻ったかにも見えた。
だが、この戦いはすべての悲劇の序章に過ぎなかったのだ。
それにシグルドやジャムカが気づくのには、まだまだ時間がいった。
それほど巧妙に仕組まれた罠が………今、グランベルを根底から揺るがそうとしていた。
だが、まだ誰もそれに気づく者はいない。
グラン暦757年。
シグルドは少ない手勢でユングヴィの公女エーディンを取り戻し、ヴェルダンを制圧し勇将としてその名を馳せた。
しかし、その手柄とは裏腹に悲劇の戦いの幕は切って落とされようとしていた。
運命の歯車は静かに、そして狂おしく、闇に向かって回りはじめていたのだ。
誰も知らない遠い世界で。
そんな中、ジャムカは……エーディンは……
互いの想いを深め合いながら、はかなくも哀しく熱い一生を精一杯生き抜こうとしていた。
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