子どもの笑いは変わったのか(村瀬学、岩波書店 1236円)

 60年代から90年代にかけて流行したテレビ、マンガの「笑い」の系譜を系統立てて分析することで、「笑い」の社会の中での意味づけを行っている。作者は「笑い」を「一定の状態からの崩れとそこへの戻り(への予感)」であると定義づけ、それを基準点にさまざまな笑いを分析する。筆者のスタンスは例え「悪い番組」「悪いマンガ」と言われても人気を集めているのは事実だ、というところに立脚しており、その分析は的確だ。個人的にはオバQが「テレビ」の象徴であるという指摘と、ドラえもんとの相違点の分析はとても興味深かった。(ただ「ママはぽよぽよザウルスがお好き」を「笑い」に入れるのはどうかと思うが)。
 作者は笑いの子供への影響に関する部分で、ビートたけしとドッキリカメラを素材にこう分析する。たけしがさまざまな「禁止事項」をギャグにできるのは、軍団という殿のルールを知っている(それを視聴者も知っている)一種の舞台装置があるためで、それ故、禁止事項も「芸」となる。一方、ドッキリカメラは、ルールを知らない人を、一部のルールを了解している人が陥れる「イベント」で、「芸」ではない。これに、80年代から集団全体の共通項がなくなり、テレビの笑いが集団をつなぎ止める役割を果たすという背景が加わった不幸な(というには重すぎる)結果が、1986年の「葬式ごっこ」事件となる、と筆者は「毒」のある笑いの罪の部分を説明する。お笑いと子供文化の歴史という視点で見るなら、「葬式ごっこ」という暗部を生み出した80年代の子供の気分というのは、正しく作者の分析通りであったと僕は思う。
 そこで、作者は笑いそのものに罪を求めるのではなく、むしろ、一人ひとりがばらばらになり、「みんな」というのがどうしてもルールを了解している「特定の者」になってしまうというが現実の社会情勢にこそその根を求めている。ここでも、例え禁止事項がギャグになるとしても、それは社会の気分を反映しているからだという作者のスタンスは一貫している。
 作者も書いている通り、こどもは笑いの作法をテレビからこっそり学んできたのである。そうした語られることのなかった歴史を考えることが、子供にとっての笑いの意味を捉え直すことにつながり、「質」の高い番組という不毛の論議を見直すきっかけになるのではないだろうか。いわゆる物分かりの悪い親御さんに読んで欲しいと思う。

<追記>この本の中でのキン肉マンの分析は的確だ。とはいうもの千石保氏の「まじめの崩壊」(この本の評価は別。こうした内容の指摘は当時画期的だったと思う)で、まじめ状態の崩壊した子供の気分の象徴として「キン肉マン」を挙げているからである。これはマンガというメディアの特性をまるっきり見落としていると思われるからである。(少し前に読んだので間違いがあればご指摘ください)
(97/1/16)


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