うなぎ

 生と死は不可分である。それはいわば磁石のようなものだ。反発し合う両極が一つになっており、それでいなくてはお互いが機能しない。その事実をこの映画は思い起こさせてくれる。そして「うなぎ」こそが、その相反するモチーフをまとめる象徴的な役割を果たしている。

 物語は川べりの理髪店が主な舞台。全編を通じて、川は「死」のイメージで飾られている。主人公のつり仲間である船大工は、「うなぎは何万匹もの犠牲を払いながら、日本の海に戻ってくる。死屍累々だよ海の中は」と。その意味で、川べりの理髪店は、死と生の狭間に立っている場所なのだろう。そして、理髪店の中にあるうなぎの水槽は、主人公が持て余している「死」や「嫉妬」そのものだ。その持て余している死は、同じ殺人の前科を持つ男の姿となって主人公の前に表れて、主人公を悩ませる。主人公が悩むのは、彼がまた自分の半身であることを認めたくないからに違いない。

 また、主人公の理髪店で働くことになる女も、持て余しているものがある。それは母の狂気の血だ。それが彼女に自殺を決意させる。母親の狂気は、フラメンコを踊るという形で表現されるが、クライマックスを超えた物語のラスト近くの宴会のシーン、女は自らフラメンコを踊ってみせる。彼女は決意したのだ。狂気の血というものがあるのなら、それを否定もしないし肯定もしない、あくまで自分の中になるものとして受け止めていこうと。

 狭い舞台でありながら、生と死を巡って展開したこの物語は、クライマックスにコペルニクス的価値観の逆転が行われる。逆転を起こすのは男だ。男は、女の腹の中の子供を、男が自分の子供として育てる決意をする。その結果彼はトラブルに巻き込まれ、刑務所に戻ることになるが。
 男が決意した瞬間、それまで泥の中でうごめく死や嫉妬としてしか語られなかったうなぎが、この瞬間に死者の群を乗り越える生や愛情のあかしとして語られ直すのである。
 男は言う。「うなぎは赤道までいって帰ってきて、ここの泥の中で生きるんです」。理屈をいうなら、赤道までいったウナギはそこでなかり死ぬのが事実である。日本に戻ってくるのはその子供たちだ。だが、男はそれを一匹のウナギの物語のように語る。それこそ、死と生を、嫉妬と愛情をともに一つのものとして自覚した男の決意表明なのだ。

 映画のタイトルを原作通りのタイトルから「うなぎ」に変更した監督の意図もここにきて明確になる。人生の味を知っている手練れの監督の佳作である。エキセントリックな設定にはしりがちなアニメーションばかり見ている人間には一度見てもらいたい。  
(97/7/21)


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