ロスト・ワールド ジュラシック・パーク

 映画はその極めて黎明期から、「自らは安全な場所にいながら、現場の目撃者たりえる」という機能を生かした作品を多数生んできた。映画「ロスト・ワールド」もその伝統の正統な後継者の一つである。この映画が現在の映画興行に占めているティラノサウルス・レックスのような圧倒的な地位を、過去のこの種の映画が占めていなかった事実は、もはや歴史の領域の話題だろう。特撮映画は、その出自の正統性にもかかわらず、長年の間、映画としては傍流だったのだ。

 こうした特撮映画の歴史はそのまま恐竜の歴史になぞらえることができる。特に目立たないは虫類であった恐竜が一時代を築いたのは、競合の生物の大量絶滅によるものだと知られているが、これは内向化したアメリカン・ニューシネマからロマンが消失したことに例えられるだろう。そして、新たな「ロマン」を語る器として、特撮映画は適応放散を進めていくのである。その結果、恐竜は大型化し、映画も大予算のものばかりになった。「ロスト・ワールド」はその進化の究極の位置にあるのだ。

 「ロスト・ワールド」はいうなれば、「安全な場所にいる目撃者」という骨格に、大予算という肉を盛りつけた映画だ。緊張と弛緩をいかに連続させるかということに腐心したシナリオと演出、、ドラマはそれらのシーンをつなげるための「つなぎ」に過ぎない。新しいロマンの器であった「特撮映画」は、その進化の過程で特撮部分が肥大し、特撮のためにロマンが奉仕するようになってしまったのだ。その意味で、ロスト・ワールドは既に映画ではない、別のものだ。ロスト・ワールドの血脈を受け継ぐ今後の作品は、映画ではなく「テーマパークのアトラクション」とでも呼ぶしかないものに進化していくに違いない。

 恐竜の絶滅は、その適応放散の果てに特殊な形態になり過ぎて、環境の変化に適応できなくなったため、という説がある。特撮映画がこの後滅びるかどうかは何ともいえないが、カタストロフを招きかねないほど「映画」としてのバランスを欠いているものが多いのは事実だ。そんな作品群の中において、ロスト・ワールドは、映画がアトラクションの中間に位置する「始祖鳥」のような映画として記憶されることになるだろう。珍しい「化石」として、博物館では注目を集めるかもしれない。
 ただ個人的には、それがメディアとしての「映画」の墓標とならないことを祈らざるを得ない。
(97/08/07)  


映画印象派 RN/HP