太陽と月に背いて

 レオナルド・ディカプリオ扮するランボーはいつも、こちらの世界とあちらの世界のぎりぎりの所に立って、ヴェルレーヌを、そして観客をいざなっているように見える。それは、冒頭、駅のホームのぎりぎりに立っているシーンから、ラストの岬へ向かっていくシーンまで変わることはない。

 ランボーはそのぎりぎりの場所に立って何を見ていたのか。駅のホームのへりに立っていた時、彼は16歳。パリへと続く線路の向こうに、詩人としての未来を見ていたに違いない。そして、パリで一人で暮らし始め、屋根裏部屋の窓の外に立ったとき、彼はヴェルレーヌを見下した。この時の笑いは自信に満ちあふれている。ぎりぎりの場所に立つというのは、安穏とした詩人に対するランボーなりのスタイルの表明であり、それはありていに言えば「攻撃」だったのだろう。このギリギリの部分まで接近せざるを得ないランボーはその生き方故に、ヴェルレーヌを挑発し同性愛行為も含めた、奇妙な放浪生活を始めることになるのだ。

 では、ヴェルレーヌはどうであったか。ランボーとは違い、彼は、ぎりぎりの部分に立つことはできない小市民であった。無職となった彼が不満を持ちながらも義父母の下で暮らしていることや、ランボーが馬鹿にする詩人の集いに参加していることからも、彼の(才能は別にして)俗物ぶりははっきりしている。だが、彼がそのほかの小市民と違ったのは、ぎりぎりの部分に立てないまでも、そこに立つことへのあこがれを自覚していたからだ。でなければ、10歳も年下のランボーにああまで振り回されることはなかったはずだ。そして、彼は小市民的な生活と、ランボーの誘うぎりぎりの光景の中で引き裂かれ続けることになる。一度は妻の下に帰る決意をしたヴェルレーヌが国境で列車を乗り換え、ランボーの列車に乗り換える下に戻るシーンは、そんな彼の揺れ動きがダイレクトに見てとれる場面だ。

 2年間の交際は、ヴェルレーヌがランボーをけん銃で傷つけることで終わりを告げる。決してブレーキをふむことのないランボーの生活に、ヴェルレーヌがついていけなくなったためだ。そして、この傷害事件を境に、2人はそれぞれが望んだ方向に向かって、結果的に袂を分かつことになる。ヴェルレーヌは、2年間の投獄を経てカトリックの信仰に目覚め、ランボーは詩作にピリオドを打って放浪の旅に出ることになる。ランボーがアビシニアで交易場を開くことになるが、その土地が彼の心を捉えたのは、そこが西欧文明の縁だったからこそではないだろうか。詩を作らなくても、ぎりぎりの部分に立つという彼の姿勢はここでも変わっていない。

 ラストは、白い布をはためかせながら岬の先端へと向かうランボーの姿が映し出される。ぎりぎりのばしょを目指す彼らしい姿だ。そして「見つけたよ/何を?/永遠を・・・・/太陽を溶かし込んだ海だ」というセリフ。それは、ぎりぎりの向こう側にある、ランボーにしか見えない風景かもしれない。
(97/05/08)


映画印象派 RN/HP