現代の浮世絵・妄想のアニメ論

 日本のアニメーションは、今や欧米や東南アジアから注目を集める数少ないコンテンツの一つだそうだ。アニメーションは本来、非常に広い範囲を指す言葉だが、ここではその注目を浴びているテレビや劇場で上映されるセルアニメーションに限定し、いわゆる「アニメ」という言葉でくくられている。僕自身、いわゆるファインアート的なアニメーションを見たことはほとんどなく、子どものころからこの「アニメ」に染まって成長してきた。
 これまで、アニメを見ながら疑問に感じていたのは、アニメはどうしてこれほどまで一般の文化に広く受け入れられたのか?という点だ。この問題は、映画の代替品としての要素、ディズニーの影響、手塚治虫の存在など、さまざまな視点から論じることが可能だろう。そして僕は、かなり以前からから日本人にはセルアニメを抵抗なく受け入れる文化を下地に持っていたのではないか、と想像している。
 セル画と背景で構成されたアニメの画面を1枚の絵と見立てると、次のような特徴が上げられる。  一つはパンフォーカスであること。背景は水彩画のテクニックである程度ぼかして書かれることはあっても、それはピントが合っていないという記号に過ぎない。ましてや前後に並ぶキャラクターで微妙にピンが違うことなぞありえない。立体感をだすマルチプレーンという手法もあるにはあるが、それでピントを移動させても実写ほどの効果を産まないのは、登場人物そのものが平面であるため、かえって2次元の世界を意識させる結果になるからだ。
 次に、セル画にはトレス線というキャラクターの周囲を取り囲むアウトラインが存在することが挙げられる。これは通常黒いラインで描かれ、これがないとキャラクターの印象が散漫になってしまうという、セル画絵のキャラクターの「特徴」といってもいいポイントだ。
 これの2点を特徴として持つ日本文化が過去にもあった。それは浮世絵だ。遠景まできっちりとしたラインで縁どられたパンフォーカスの画面、人物を描くために不可欠な黒い縁取り。浮世絵は極めてセル画と似ている。
 改めて似ているという視点から、浮世絵とセル画を比べるとまだ類似点はある。浮世絵は絵師が元絵を描き、掘り師が版木を製作し、刷り師が刷った。これは、キャラクターデザイナー(あるいは作画監督)といった絵の基準者を置き、各アニメーターが描いた原動画が、トレス、彩色の工程を経ることに対応する。ここのポイントはこうした作業工程の類似ではなく、オリジナルを見るのでなく、一般の視聴者はコピーを楽しむという構図が共通している点であろう。こうした文化が背景にあったからこそ、海外で生まれたセルアニメが日本で産業として成立しえた一因ではないかと思う。
 浮世絵は役者絵、風景画とともに、枕絵という一代ジャンルを築いた。解剖学者の養老孟司氏によれば、江戸時代はイメージが実際の身体より優位にあった文化を持っており、枕絵の巨大化した男性器はそのイメージの産物であるという。また、こうした浮世絵が欧米で日本のイメージをつくったことは今更指摘するまでもないことだ。
 とすれば、浮世絵の文化を引きずるアニメが、はと胸、デカ目という、いわばかわいい女性の記号(イメージ)を集積したアニメ系美女を生み出しし、それが米国などで「ANIME」として受け入れられているのも、むしろ当然のことと言えるかもしれない。(97/03/28)


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