エヴァンゲリオン試論

 巷で話題の「新世紀エヴァンゲリオン」について考えて見る。ただまだ答えが出るには時間がかかりそうなため、ここではいくつかポイントを絞って疑問点を挙げ、僕自身への答えへの道しるべとするつもりだ。
 僕は弐拾五、弐拾六話はなるべくしてなったと思っている。決して、ライブ感覚といったものではないと思う。製作スケジュールの都合で細かく演出を練ることなく、感覚的に判断していたことはあっただろうし、本来の物語を破綻したスケジュールではアニメーションとして表現できない、といった制約もあったかもしれない。だがそれらは、決して必要にして十分な条件ではなかったと思う。僕は、庵野秀明監督はドラマではすでに完結させることが不可能な地点にキャラクターを追い込んでしまったのだ。そのために、通常の物語とは違った手法でしかキャラクターを救えなくなってしまったのだと思う。
 では、何故庵野監督はそこまでキャラクターを追い込まざるをえなかったのか。おそらく、それが庵野監督の演出・作劇の持ち味であるとともに、本人も感じているであろうある種の限界を示していることになると思う。
 以下、僕が鍵になるはずだと思っているポイントを上げる。

  1. 碇ゲンドウとは何者か? あまり重要視されていないが、彼があそこまで冷徹漢に描かれている理由は何であるかはもっと論議されていいはずだ。いくつかのインタビューで、監督自身は「ある程度自分が投影されている部分もある」というようなことを認めているが、これはあくまで表面上の話だ。彼がこの物語の全員を追い込んでいる存在であり、ミサトとシンジが監督の分身である以上、碇ゲンドウの本質はもっと別の存在になぞらえられるべきだろう。
     監督はクイックジャパンのインタビューで、学生時代に自分の怠慢から、同人映画製作からはずされた経験を話している。はずしたのは当時のプロデューサーだった岡田斗司夫氏。これは単に岡田氏がモデルというのではなく、むしろそのときの監督のショックこそ(1説にはショックノあまり7時間ほど喫茶店でうなだれていた、という)があのゲンドウを生み出しているのではないかと僕は考えている。
  2. 父と子と母 エヴァではこの構図が至るところに見えかくれしている。しかも監督の視点は基本的に子どもの側にしかない。なぜ子どもにこだわるのか。そして、このトライアングルに隠れている性の問題には、作品の中ではネガティブなイメージしか与えられていないのはなぜか。おそらく「シンジは14歳の時の僕ではなく、今の僕なんです」という監督の言葉がキーワードになるはずだと思う。
  3. 碇シンジの試練とは? 当初エヴァの設定を見たときに、僕は「ガンダムの世界観でウルトラマンをやろうとしたんだな」と思った。しかし、作中を見ていくとシンジの肩にかかる使命の重さはアムロの比ではない。何故シンジは不条理なまでの過酷な使命を背負わなくてはいけないのか?監督はその試練に決してポジティブな意味を込めていなかったように見える。エヴァに乗ることは何を意味しているのか。
  4. そして何故、最後に「学園もの」と「おめでとう」なのか? これが果たしてこの作品の結論たりえるのか。僕は最初は「オタク」への痛烈な皮肉だと思った。だが、今はそうではなかったと考え直した。おそらくあれは監督がついもらした本音あるいは憧れではないかと想像している。これは、上の3つの疑問を解きほぐすことからきっと導きだせるのではないだろうか。

とはいうものの、答が見つかるのは当分先になりそうだ。(97/1/20)


雑談的独白 RN/HP