松本人志「一人ごっつ」を考える

 笑いとは、規制の基準に対する「ずれ」とそこへの「戻り」(あるいは、その予感)で生じてくるそうだ。そういう視点から見ると「一人ごっつ」という番組は、基準もなく、戻りもないところで、「ずれ」だけで笑わせることに挑戦していると言えるだろう。
 「一人ごっつ」は寺のセットの中で、本尊が出題する問いかけに、坊主に扮する松本がナンセンスな解答をするという構成になっている。松本が解答すると、スタッフの笑い声がオフマイクで入るだけで、他にリアクションは何もない。笑い声の多少でスタジオ内での受けの度合いが分かるだけである。
 厳密に言えばこの笑いにも「基準」はある。ただ、それは社会的常識とかちょっとした約束ごとといった、多くの人が共通して持っているものではない。本尊の問いかけに対して、視聴者それぞれが考えた答えが基準になっているのだ。そういう意味では、この番組は、松本と視聴者のブラウン管を通じた真剣勝負と言えるだろう。真剣勝負である以上、ただ漠然と画面を見ているだけでは笑いはやってこない。この番組を楽しむには、視聴者にも松本と同様に「ずれ」を生み出そうと思考することが要求されている。視聴者が「ずれ」として想定した答えと、松本の考えたものを突き合わせ、そこに生じるいわばメタな「ずれ」が笑いを産む構図になっているのだ。真剣勝負であるというのは、松本と本尊がカメラと正対していることからも分かる。
 では、この番組は面白いと言えるのか?。まず、自分でずれを産まない人にはつまらない番組だろうことは間違いない。そして、ずれを生み出そうとしていても、もう一つ関門がある。笑いのずれは微妙なほど「笑える」という一種のルールがある。だから、どこまで松本の感覚に近く、ズレを微妙なものに(しかし、同じずれで決してはいけない)できるかどうかが、笑える度合いの大小にかかってくるのだ。分かりやすく言うなら、いくらずれを生み出そうとしても、間寛平風のそれをしていたのでは、この番組で笑うことはできない。松本のセンスを理解することが必要なのだ。
 すると、この笑いの後に何が残るのか。メタな「ずれ」はもともとが「ずれ」から生じるため、「ずれ」には戻べき基準たりえない。後に残るのは、個人が自分のお笑いの感覚を再点検する時間だけである。それは松本のセンスに自分のセンスをチューニングする時間なのだ。
 つまり、「一人ごっつ」は、松本人志による松本エリートのための「お笑い」番組と言えるだろう。(97/1/19)


雑文的独白 RN/HP