トイ・ストーリー

 子どもの頃、「ごっこ」遊びをしたことを思い出す。「ごっこ」とは、現実とは別の物語空間を設定し、その中で別の人格を演じることだ。物語空間なくして、「ごっこ」を演じる人格は僕たちの中に生まれることはない。この映画でもオモチャたちに人格を与える時には、「物語」が大きな役割を果たしている。オモチャのアイデンティティと物語は切り離すことができない関係にあるといえる。
 それが一番顕著なのが、「宇宙飛行士」バズの場合だ。彼は自分自身を宇宙飛行士と信じて疑わない人形として登場する。彼は偶然自分のCMを見たためにアイデンティティーの危機に陥る。初登場の時、宇宙飛行士であることを証明するために子ども部屋の室内を「飛んで」見せたことからも分かるように、「飛べること」は彼のアイデンティティーの象徴だ。そのアイデンティティーを無邪気に信じていたからこそ、彼自身も偶然の積み重ねに過ぎない「落下」を「飛行」としても胸を張ることができたのだ。
 しかし自分が登場するテレビCMに「商品は飛びません」と表示されることで、彼自身が考えていた「宇宙飛行士の物語」は崩壊する。物語を奪われた彼はもう宇宙飛行士ではなく、あらゆる物語を一方的に受け入れるしかない単なる人形にまで墜ちる。こうなると「宇宙飛行士」も悪ガキ、シドの妹の部屋でままごとの登場人物として扱われてしまうようになる。
 また、オモチャとしての自分を受け入れている保安官の人形「ウッディ」は、持ち主であるアンディの一番のお気に入りであることにアイデンティティーを預けていることに変わりはない。新品のオモチャであるバズの登場で彼の存在はゆらぎ、彼はバズを妬む自分の嫌な一面と向かい合わなければならなくなる。いずれにせよ、オモチャは自分自身の存在だけでは生きていけないのだ。
 このように、この映画の中ではオモチャが自分の物語を喪失することからドラマが始まっている。この視点で見ると、シドは主人公達の持ち主「アンディ」とは対をなすキャラクターであることが分かる。アンディがオモチャ側の物語を積極的に取り入れて遊んでいるのに対し、シドは自分のグロテスクな物語を一方的にオモチャに与えている。シドの部屋のグロテスクなオモチャたちは、各オモチャの独自性を奪わているレベルが物語だけにとどまらず、肉体にまで及んでいることの証とも言えるだろう。その彼らを率いてシドに一矢報いる作戦は、こうしたオモチャのアイデンティティー回復のための作戦であったと言える。
 飛ぶことができなくなったバズは、しかし、クライマックスでウッディとともに「飛行」することに成功する。それはオモチャである自分を受け入れたからこそ可能になった飛行だ。だから彼はもう飛べるとは言わない。前半のウッディのセリフを引用して「かっこつけて落ちているだけだ」と、ユーモアを交えて語るのみだ。おそらく今後の生活の中で彼が飛ぶことはあるまい。このラストの飛行は古いバズと新しいバズの二つのアイデンティティーの狭間で成立した「奇跡」といってもいいだろう。
 アニメーションとは命を与えるという意味が語源だという。この映画を爽やかに感じるのは、独自性のゆらぎを越えて新しい自分を獲得するというテーマと、生きているオモチャをCGアニメで表現するという手法が一致しているからだろう。(97/02/05)


映画印象派 RN/HP