クラッシュ

 アクセルを踏み込むと、スピードメーターの針が次第に右に振れていく。この時、胸元から腹にかけてむずむずと走る高揚感は何なのだろう。僕自身の体はわずかな加速度を感じているものの、シートに座ったまま前方を見つめているまま。ただ速度が上がるにつれて視野は狭まり、高揚感もだんだん高まってくる。そうだ、これは短距離走のダッシュで感じる1瞬のあの感じと似ている。自分の肉体でその高揚を得られるのはわずかな間でしかないが、車のエンジンは疲れることなくさらなる高みへ僕を導く。その時は「僕」と「車」が一つになる時と言ってもいいだろう。戦闘機に乗った感想を射精に例えた小説家がかつていたが、それは比喩ではないことが分かる。
 肉体と車。この2つが同じ価値を持っているのがこの映画だ。だから事故とセックスも同義となる。そして肉体と車を結ぶいわば「等号」は、運転している時の高揚感に裏打ちされた一体感なのだ。事故によって車体に生じた裂け目やリンカーンの張り出したフロントは、そのまま性器をイメージさせるし、車の中で幾度となくセックスが繰り返されるのも、彼らの感覚は車と不可分になっているからこそだ。
 映画の中で最も車との一体感を突き詰めているのはヴォーンだ。彼はついにハンドルの入れ墨を体に彫ってまで車との一体感を追求する。ともにヘッドマークの入れ墨を入れた主人公ジェームズは、彼とついにセックスすることになる。しかし、ここまで車との一体感を追求したのであれば、セックスで得られるエクスタシーでは満足できなくなる。だからこそヴォーンは行為の後すぐにジェームズの車めがけて自分の車を衝突させ、その後もひたすら事故そのものに執着するようになる。彼は車そのものになってしまった以上、それまでは非常に近接しながらも重なってはいなかったエロス(肉体)とタナトス(車)が完全に重なり合い、彼にとってセックスとは事故しか意味しなくなったのだ。
 一方、ジェームズは彼ほどエロスとタナトスの合致に積極的ではない。むしろ彼は、ヴォーンやその妻ガブリエルとの一体化を望んでおり、車はそうしたセックスに至る高揚感を育むための母胎といった側面が強かった。中盤にジェームズとその妻が、ヴォーンのことを思いながらセックスにふけるシーンでも、ヴォーンが車と同じ意味だと考えれば、ジェームズの立脚点は明確になってくるだろう。
 だが、ヴォーンはジェームスの妻の車を狙ううちにハンドル操作を誤り転落死する。ジェームスはこの教祖が不在となったすき間を自分たちで埋めるしかない。だからヴォーンのリンカーンに乗ったジェームスが妻を狙うことになる。これは中盤の妻とのセックスシーンと重なる構図だ。だが、既にヴォーンは死んだため、ジェームスは本人とヴォーンの両方の役割を果たさなくてはならなくなっている。
 追突された妻の車は道路下ののり面に落ち、妻は車外へ放り出される。ジェームズはその妻を抱きかかえて「今度こそうまくやるから」とささやく。彼はやはりヴォーンか車と一体化したように、ヴォーン自身にはなれなかったのだ。そして、もう彼と過ごしたような日々は来るまい。車の外で抱き合う二人は、生まれ落ちた子どもがもう一度胎内に戻ることができないように、エロスとタナトス両方から切り離されてしまったのだ。(97/02/08)


映画印象派 RN/HP