イル・ポスティーノ

 郵便配達夫である主人公マリオと亡命詩人の交流を描いたこの映画は、言葉をめぐる映画だと言えるだろう。電話が普及していない時代、さまざまな人の手を介して言葉が伝えられることで、出会いが生まれ、人と人を結びつけていく。映画の中では何度となく「暗喩」という言葉が発せられるが、イル・ポスティーノ(郵便配達夫)というタイトルそのものが、この映画のテーマの暗喩にもなっているように思う。
 言葉が伝えられることで人と人が結びつくというモチーフは冒頭から明確に示されている。亡命詩人のところには故国チリの支持者から支援の手紙が毎日のように届いている。そして、その手紙は詩人と支持者をつなぐだけでなく、出会う可能性の全くなかったマリオと詩人とを、出会わせることになる。
 言葉というのは一つの技術だ。だからいくら技術を習得したとしても、「何のために使うのか」という部分がなければ、言葉は生きてこない。マリオは、読み書きはできるが、自らの中に語る動機を持っていなかった。だから、アメリカからの葉書を読む時も、使い慣れない道具をつかうようだ。詩人と知り合い詩集にサインしてもらったのも、ナンパにつかえるかもしれないという理由だった。彼は自分とは関係ない「言葉を運ぶ」だけの存在で、そういう意味からも「郵便配達夫」そのものだったと言える。
 しかし、詩集を読み、詩人と会話を重ねていくことで彼の中に変化が起きる。言葉の力を実感した彼は、詩を聞いて感動した自分の感情を「言葉に揺れる小舟」と表現する。この時、彼は自分の中に言葉を使って語りたい動機があることを悟ったはずだ。それは愛情と名付けてもいいものかもしれない。それに気づいた彼は、詩を使って愛を語り、意中の女性ベアトリーチェと結婚することになる。この時も、語ることのできないマリオを詩人が支援する展開になっている。
 そして、注目すべきは、この時マリオが語る詩は詩人の作品の引用である点だ。ここでも他人の言葉を伝えることで、結びつきが生まれるという構造になっている。だが、詩人と出会った場合と大きく違うのは、マリオはその言葉に自分の感情を込めることが出来ているからだ。
 では、マリオ自身の言葉はどこにあるのか。彼が自分の言葉を手に入れたのは、皮肉にも詩人が島を去ってからになる。彼は残された島の音を詩人に送るために録音するうちに、自らの言葉の鉱脈を彫りあてる。その鉱脈は詩人に送るテープに吹き込むメッセージに昇華する。その中で彼は「最初は素敵なものをすべて持ち去ってしまったと思ったが違った。、あなたは多くのもの残してくれたのだ」と語る。言葉を持ったことで、彼の世界は様変わりし、これまで好きでもなかった自分の島、生活がどれほどいとおしいものかを実感するようになっている。また、彼は詩人に捧げる詩も作る。彼にとっては詩人がいなくても、たとえ相手が自分のことを忘れていようとも、言葉を通じてつながっているという実感があったに違いない。
 だが、このメッセージと詩は詩人に届くことはなかった。マリオは共産党大会の暴動で死んでしまうのだ。再び島を訪れた詩人は、そのことをベアトリーチェから知らされ言葉を失いただ立ち尽くす。暴力は人と人をつなぐ役割を果たしていた「イル・ポスティーノ」を奪ってしまったのだ。もう言葉は運ばれない。(97/1/21)


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