白い嵐

 人生には「絶対」というものがある。それは、硬い壁のようなもので、それにぶつかった人間が叩こうが、押そうが、決して揺るぎはしない。そして「絶対」は、すぐにそれと分からない。「絶対」は卑小な人間の試行錯誤の果てに、その姿を現すのだ。この映画は、その「絶対」にぶつかった人物の、試行錯誤の記録であり、それは人生に「もし」はないという苦い色彩を帯びている。
 1年の間帆船「アルバトロス号」で航海をしながら学問や規律を学ぶ海洋学校に、主人公たちは参加する。それぞれに悩みを抱えた同年代の同性たちと時にはぶつかり合い、時には励まし合いながら、成長を遂げる若者たち。日焼けした彼らの肌は、彼らの成長の証だ。しかし、帆船は米国へ向かう途中に、「白い嵐」と呼ばれる伝説的なスコールに遭遇、沈没する・・・。
 主人公たちは、航海でいかに自分たちが狭い世界に住んでいたかを、船長と海から思い知らされる。父との齟齬に悩む主人公、兄が転落死したために高所恐怖症の者、勉強が苦手なのをのを突っ張った外面で隠す者。それらの悩みは彼らにとって「絶対」的なものだった。だが、それは彼らの試行錯誤が足りなかっただけなのだ。主人公たちは、それぞれの局面で自分の弱さと正直に向かい合い、そして友人たちの影響を受けながらそれを克服する。
 無人島に上陸し大自然の中を進む主人公たちを、カメラは大空から捉える。自然の中に小さく見える主人公らが、それでも開放的で誇らしげに見えるのは、自分たちが「絶対」と思われていたこと乗り越えることができたという達成感があるからだろう。「絶対」は「絶対」ではなかったのだ。しかし、彼らはその帰路、非情にも本当の「絶対」に出会うことになる。
 開かない扉、静かなに船内に満ちてくる水。沈没した船内で起こることはまるで悪夢のようだ。でも、それは夢ではない。どんなに努力しても、どんなに友人に頼まれても、目の前の扉は開かないし、満ちてくる水をとめることもできない。自分の中の「絶対」とは全く別の、本来の姿の「絶対」なのだ。この「絶対」は、妻を失うという形で、大人である船長も例外なく襲う。
 帰国後、船長は事故の責任を問われ、資格はく奪のための海難審判にかけられる。そして、海難審判は生き残った若者にとっても、1年に及ぶ航海とあの沈没事故が何であったかを、問い直すことを迫ってくる。そして主人公たちは、航海を乗り越えた大人として、船長とともに責任を分かち合う存在として、名乗りを上げる。法律的にはさまざまな責任の所在が考えられるだろう。でも、生き残ったアルバトロス号の乗組員は、「絶対」を目の当たりにしてしまった者同士だけが持つ、自分の無力さとそれを認める気持ちで、深く結びつけられているのだ。ラスト近くの主人公のモノローグ。「彼(船長)がまた海に戻るとき、僕たちもともに戻るだろう」とは、つまり「これからも彼とはこの事件の責任を分かち合って持っていく」という決意表明の言いかえにほかならない。
 「絶対」とはつまり、過去に起きた事実であり、死なのだ。それはどうあがいても変更はできない。それに負けずに生きていくには、自分の弱さを認めること、そして、「絶対」という事態があることを知りながらも未来への希望を捨てないこと。エンディングのナレーションで紹介される登場人物のその後を聞くと、この世の中が不条理な「絶対」に満ちていても、やはり生きつづけることには何らかの意味があるのではないかと思わされる。(97/04/09)


映画印象派 RN/HP