ダンテズ・ピーク

 天災というのは忘れた頃にやってくる、と言ったのは寺田寅彦だったか?もっとも阪神淡路大震災以降は、どこでも地震が起きる可能性があるという意識は多くの人に広まったし、中には東海地震のようにいつ来るのかと、その発生がある意味では「待たれている」ものも例外的にはあることはある。ただ、映画の世界の災害というのは、相変わらず多くの人の予想を覆す形でしか発生しないようだ。それには、被害が大きくならなければ映画にならないという理由が多分にあり、この映画もその段取りを非常に丁寧に踏襲している。
 災害映画は怖いものみたさという、観客の関心に応えるもので、その点では「あたかもその場所に居合わせているという錯覚」を起こさせるためののメディアである「映画」の出自に近いジャンルともいえる。だから、この映画はあくまで火山の噴火が主人公なのだ。観客はもう知っている。主人公たちは死なないし、犬も死なない。ただ、お話にメリハリを付けるために多少の犠牲者はでる。(この場合は山に住むおばあさん)。そうした前提を全て知った上で、人がこの映画を楽しめるのは、主役である火山の噴火が特撮で迫力十分に描かれたからだ。
 かつてのスターシステムの映画は、スターのために映画があった。それと同様で、この映画は主役である特撮のために映画がある。ストーリーもそのために作られ(科学考証も見せ場のために、当然ながらやや無視されている)、人間演ずる「わき役たち」は主役を引き立てるために奮戦する。だから、物語の登場人物達は何の葛藤もなく登場し、やはり噴火がおさまった後も、彼らの気持ちに何ら変化はないのに対し、主役である火山「ダンテの峰」は、当初から噴火するかもしれないという、「葛藤」をかかえている。そして、ラストが山頂が吹っ飛んでその姿が変わっている火山で終わるように、この映画で「葛藤」とその解消という「ドラマ」を演じたのは、特撮で描かれたこの火山だけなのである。
 10年以上前にある特撮マンが「(特撮の進歩で)将来はマーロン・ブランド(のような名優)はいらなくなる」と、ある席であいさつしたことあるという。その言葉を特撮映画が全盛の今なって振り返ると「見せもの」としての映画の復権を、暗示していたことがよく分かる。「天災は忘れたころにやってくる」と最初に書いたが、映画と特撮の関係もやはり「忘れたころに復活した」といえるのかもしれない。
(97/04/09)


映画印象派 RN/HP