(ハル)

 手紙は、相手に向けて書いているものの、どこか「モノローグ」の色彩を帯びている。それは、手紙を書くということの中に、自分自身を見つめ直すという行為が含まれているからだろうか。この映画は電子メールを題材に、そんな「モノローグ」がやがて「ダイアローグ」に変わっていく過程を静かに、暖かく描いた。
 「(ほし)」は死んだ恋人に心を縛られている、盛岡に住む女性だ。恋人の死で心がかたくむすぼれているから、彼女は人から離れてその姿を眺めていたいという願いをこめて(ほし)というハンドル名を名乗っている。彼女に言い寄るしつこい同級生もいるが、彼女はそんな彼の一方的な態度を嫌い避けている。一方、体の故障でアメフトに挫折した「(ハル)」は、人生の目的を失い、自分がどうすればいいかが分からなくなっている。彼がパソコンを始めたのも、何か新しいことを始めれば自分が変われるのではないかと、期待したからに違いない。
 かみ合わない一方的な台詞、交差しない視線。映画の前半はあらゆる場面で、この2人を軸にさまざまな「モノローグ」の風景を繰り返す。それは誰か人とつながりを持ちたいという気持ちの表れなのだろうが、その気持ちはまだ正しい出口を見つけられずに空回りし、言葉は宙に浮いたままだ。
 映画フォーラムのチャットで知り合った(ハル)と(ほし)は、やがてメールのやりとりをするようになる。このメールで2人はお互いのことを語りあうのだが、そこにはどこかしらモノローグの雰囲気が漂う。メールが、自分が書きたいことを書くという「モノローグ」の側面を強くもつメディアだからであることに加え、2人がやはり、自分を見つめ直さなければならない時期を迎えていたのだ。だからメールのやりとりは2人にとって、モノローグとダイアローグの中間にある、リハビリの手段になったのだろう。
 やがて親しくなった2人は(ハル)の出張の機会に、走る新幹線からお互いの姿をビデオで撮影しあう。2人はこの後、たびたび撮影したビデオを見返すが、これはいわば視線のモノローグだ。2人が実際に視線を交わしたのは1瞬のこと。2人はこのモノローグばかりの状態から脱するには、それぞれ身近な人物の登場がきっかけになる。
 (ほし)の場合、それは若手の実業家だ。彼も恋人を失った経験があり、(ほし)には「お互いそれを忘れずにいるために」結婚しようともちかける。彼は「恋人を失った」という事実から生まれるモノローグの中だけで生きていこうと(ほし)を誘うのだ。この言葉に対して(ほし)は「恋人を忘れさせる人と出会いたい」と、はっきりモノローグだけで生きていくことを拒否する。この映画の中でお互いのセリフが会話となっているシーンは驚くほど少ない。ここで(ほし)が「自分はまた恋愛をしたくなっている」ことを自分の口からはっきりと説明することで、彼女ががモノローグの段階からダイアローグの段階へと大きく一歩を踏み出すシーンとなっている。
 (ハル)の場合は、妹のようにつき合った(ローズ)が結婚して去っていくことでと、転職が一つのきっかけになる。特に転職を機に、これまで勉強してきた中国語が生きるようになったというエピソードも、彼もまたダイアローグを通じて、新たに人とつながり始めたということだろう。
 この映画は(ハル)と(ほし)が東京駅で出会うシーンでおわる。そして、そこにパソコン通信の文字の「はじめまして」に続いて、笑顔のフェイスマーク。これは、単なる恋愛の始まりではない。会話にならない成立しないモノローグが繰り返されるこの世の中で、2人の間の「ダイアローグ」が成立した初めてのシーンだからこそ、感動を呼ぶのだ。(97/04/04)


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