身体の文学史(養老孟司、新潮社 1339円)

 筆者は以前から「日本人は江戸時代から身体を抑圧している」と唱えており、その視点にしたがって芥川龍之介以降の文学作品を分析した。筆者は、もとからそこに存在して人間の意志ではコントロールしきれない存在を「自然」と呼び、「各個人にとってその自然は身体である」というように定義している。本書の評論はこの「身体」と「脳」の2項対立を軸に書かれている。
 読んで気付かされるのは、自分がいかに「脳=意識」側に偏っているかということだ。そして、それは別に僕だけではなく、この国自体が江戸時代以降そういう傾向を持っていて社会も文学もそこから逃れることが出来なかったということだということも分かる。
 筆者は芥川龍之介を「大正という間奏曲の時代に生まれた風見鶏」と表現する。「先端で時代の行く先を指し、後端では過去を真直に指す」というのがその理由だ。後端とは「今昔物語」に見られる身体の抑圧される以前の文化であり、行く先というのは、「身体という自然」を「心理という人工」に置き換えていく方向だ。この時点で既にはっきりと日本の文学の進んできた方向が示され、その中には明治期の「近代的自我の発見」(ここでは「我」の問題として取り上げられている)も位置づけられている。
 その視点でその後の文学を俯瞰する筆者は、戦争文学の中で死体が中世の絵ような解剖学的な精確さを以て描写されないことや、三島由紀夫が剣道とボディビルにこだわった理由などが一つの線上に並んでいることを示す。だから、この流れから外れており、無意識のうちに身体を取り入れている作家深沢七郎の「楢山節考」を、三島が「薄気味わるい」と評していたという筆者の指摘は非常に興味深い。
 本書のクライマックスの一つは三島の「太陽と鐵」を題にとって、自決にいたる流れを考察する部分である。三島自決事件は政治的な文脈やある種のスキャンダル的な側面、あるいは文学論の視点などからさまざまに論じられてきた。筆者はそこに「身体」というキーワードを持ち込み、三島をいわば裸にしてしまった。
 「太陽の鐵」の中に「世間の常識」が見えかくれすることを指摘する筆者は「もし、信仰告白なら、自分のことだけを言えばいい。他人がどうであろうが、知ったことではない」と、必死に自我を防衛したがっている三島の姿勢を斬って捨てる。そしてそう三島に告げるべきだったは「世間だった」と返す刀で日本社会にあるある種の不感症さも問題にする。意識そのものを重要視しすぎる余り迷走してしまう高学歴者が多い現代において、三島事件もオウム事件も同じ地平で起き、その問題の根は同じであるという筆者の指摘は非常に厳しい。ここには文学と社会にまたがって批評が成立しており、本書の姿勢が最も明確に現れた部分だ。
筆者が同書の中で展開した「身体」に注目した文学史観は、本書に取り上げられたいわば「正史」だけにとどまらずもっと広い範囲へも応用可能だろう。作家などの身体観というのは最近30年ほどの間にも細かく揺れ動いており、それを読み取っていくことは僕たち同時代人にとって十分意味のある作業のように思う。小説だけではない。映画、マンガ、アニメーションなども「身体性」をキーワードに分析することで、従来の常識を読み替えていけるだろう。特に、マンガ、アニメーションはそれぞれ手作業の成果であるため、小説よりも一層製作者の「身体観」が反映されているに違いないとも思うのだが。(97/02/16)


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