新版 悪魔の飽食(森村誠一、角川書店 470円)

 往年のベストセラーだが、その事実の持つ重みは今でも全く失われていない。むしろ、第2次世界大戦(日本がアジアで展開した戦争という意味でなら大東亜戦争というべきか?)をめぐる歴史観が問題となっている中で、この本の価値というのはかえって大きくなっているように思う。
 本書の題材は満州で細菌兵器の研究開発に当たっていた「第731部隊」。その内実は戦時中の狂気というにはあまりに非人道的だ。中国人捕虜などを「丸太」と呼び、生体実験の素材として扱っていたという根本の事実に加え、それらのデータが米国に提供されることとの引き換えに部隊の責任者が戦争犯罪人であることを免れるという戦後処理の曖昧さにも慄然とする。
 「江戸時代以降、日本人は身体を抑圧してきた」というのは解剖学者、養老孟司氏の意見だが、氏はその中で例外的に身体を意識せざるを得ない存在として「軍隊」と「医者」を挙げている。第731部隊は、軍医石井四郎中将が部隊長を務めていた。養老氏の見方を借りるなら、同部隊は身体の存在を強く意識せざるを得ない「軍隊」と「医者」を両親に生まれてきたと言えるだろう。
 では、人体実験に従事していた部隊のスタッフの「身体観」とはどんなものだったのだろうか。僕には現実の社会の身体観がグロテスクな姿となって吹き出していたように見える。そこでは「殴られれば痛い」といった医者や軍隊にあるはずの普遍的な感覚がなくなり、全て脳の生み出す意識が全てに優先する世界だったからこそ、あれほどの非道な実験が可能だったと思えてくる。
 それは第731部隊が非常に物資的に恵まれていたことも理由の一つだろう。やはり同部隊の食糧事情が非常に恵まれている中では自分の体に関する想像力は働きにくいのではないか。飢えというのは意識ではなくて体の状態を強く意識せざるを得ない状態だからだ。そして、自分に対する想像力を欠けば、それは他人への想像力を欠くことになる。捕虜だけでなく、少年兵についてもまるで悪戯のようなチフスの「実験」が行われたのではないかという疑惑は、これを裏づけているように思える。想像力を欠くのは民族の別を問わないのである。
 さらに加えるなら、彼ら医師は「医学面での研究者」であり「医療者」ではなかったことも挙げられるだろう。「生老病死」を扱う医療者であれば、生命というものがデータに還元できない各個人のものであることを意識しえるはずだ。だが、彼ら研究者は理論化が最大の命題なので、命とは素材に過ぎず自分の頭の中にあるデータこそ真実だったわけだ。
 いずれも、やや後づけの理屈という感もあるが、僕はこのように理由を考えなければ同部隊の存在を自分の中で消化することができなかった。(97/02/16)  


書棚放浪 RN/HP