戦後マンガ史ノート(石子順造、紀伊国屋書店 1800円)

 昭和48年から翌年にかけて雑誌連載した文章をまとめたもので、序章で戦前戦中のマンガを概観し、その後は5年刻みで庶民像と人気マンガの関連などを描いている。庶民像といっても、当時の時代風俗と積極的に絡めるというよりも、大きな歴史の流れの中での時代の気分がマンガに反映されているという姿勢をとっていることにこの本の特徴があるだろう。
 マンガの根本を「無名の人間による落書き」として考える筆者は、むしろ40年代以降のマンガの産業化の流れに対しては批判的だ。白土三平の忍術もの「ワタリ」を例に取って「物語の後半では術の奇抜さと派手さで興味をつないではいこうとはしていないだろうか。ぼくが変質といいたいのは、そのようなところなのである」と、懸念を示す。この懸念はむしろ「メディアミックス」などとうるさく宣伝されている現在から見るとほほ笑ましくすらある。
 しかし、この本の価値はこうした点で薄れることはない。筆者の子どもがマンガを好む気持ちをしっかりと捉えているため、この本のそこここに書かれた指摘というのは十分現代性を持っていると思う。
 マンガを取りまく環境については「(教育評論家、教員などの)論考からわかることは、論者自身がおよそマンガを読んでいないらしいことである」と切って捨て、変身ブームについても、大人は暴力的だとかグロテスクだといった程度の批判しかできず、優等生ものを与えて自己満足するしかない−と手厳しい。そして、子どもは「変身もの」も「優等生もの」も自然と受け入れてしまう事実をしっかり見すえ、変身ものから子どもを引き離したいのであれば、「もっとおもしろい遊びを与えるしかない」と指摘する。この構図は現在でもまったく変わっていない。
 それでは筆者が全面的なマンガ支持者かと言えば、一方では、永井豪の「ハレンチ学園」をめぐる騒動については「いまだに古めかしい権威主義や優等生像にすがりついている大人がいかに多く、それをちょいとひっくり返してやれば事は新しくなるのだと信じている大人もまた多いということを不毛な論争の中で明らかにしてくれたに過ぎなかった」と明快に断じる。これらの言葉も「良書悪書」の問題を考えるときのキーワードとして今でも通用すると思う。
 筆者はおそらく「古めかしい権威主義、優等生像」に、再検討されることなくのらりくらりとマンガ(を含む子ども文化)の中に生き延びてしまった戦前の影を見ているようだ。もはや平成の世には権威も優等生像もどこかへいってしまった。その時点でもこの本が現代性を失なわなかったのは、作者のマンガを読む真摯な姿勢が理由だけではなく、いまだに権威主義や優等生像を信じているある種の層がいるからかもしれない。(97/02/09)


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