美少女戦士セーラームーンR(劇場版)

 僕はセーラームーンR(劇場版)を支持する
 いまさらだがこのセーラームーンの設定というのはかなりイージーだ。担当編集者の「セーラー服で戦う女の子」というコンセプトで生まれたこの作品は、その(安易な)コンセプトの中でしか成立していない。主人公には語られるべきドラマもなく、駄菓子のような戦い(けなすわけではなく)とロマンスが展開していくだけの作品。少なくとも原作はそうだ。だが、この劇場版は違った。
 この劇場版はテレビシリーズ「R」でもシリーズディレクターを務めた幾原邦彦監督が、シリーズ中に自分が考えてきた疑問を解消するために作った作品だ。その問いとは監督自身があちこちで書いているように「何故セーラームーンが主人公なのか」という点だ。
 月野うさぎは少女マンガの通例通り、泣き虫(この設定はすでに忘れられているが)でドジと、取り立てて特徴のない等身大の主人公として設定されている。この変哲もないキャラクターが何故主人公たりえるのか。恋愛ドラマであればそれもわかるが、セーラームーンはそういう物語ではない。このある意味矛盾とも言える状態を突き詰めることで、この劇場版のドラマが成立している。
 幾原監督のセーラームーン観は明確だ。うさぎの素直な気持ちが、皆をつなぎ止め、皆を幸せにしている。だから主人公というわけだ。このうさぎ観は母性に通じるものがあり、銀水晶が発動するとセーラームーンが「プリンセス・セレニティ」に変身するという設定とも合致する。こうしたうさぎ=セーラームーン像を描くため、劇場版では自分の心の弱さ故に、そうした素直さを認められない存在「フィオレ」を悪役に設定してある。
 監督はフィオレとうさぎの対照を描くための小道具として花を使い、物語を多重的に構成した。花は人をつなぐ役割を果たしており、それはそのままセーラームーンの象徴となっている。細かな例を拾うときりがないが、セーラームーンに諭されたフィオレがつぶやく「花だ」というセリフ、その後正気に返ったフィオレがセーラームーン再生のために花の蜜を差し出すシーンに良く現れている。この逆の働きをしているのが、フィオレに取りついている悪の花「キセニアン」で、こちらはフィオレの弱い心の生み出す愛情の象徴であろう。
 監督の工夫はこうした映像、セリフに多重の意味を持たせるだけでなく、もう一つ工夫をこらしている。それは、ある意味テレビシリーズの再構築とも言える作業だ。
 一つはテレビシリーズ45、46話で4人の仲間が死に、セーラームーンも敵と刺し違え、全員が転生するという物語を下敷きにしながら、修正している点だ。ただ、こちらではセーラームーンは仲間を見殺しにはしない。「ごめん、皆を見殺しになんかできないよ」というセリフでフィオレに降伏してしまうし、さらにその後の展開で地球へ落下する隕石を止めるために、決死の状態で銀水晶を使う時も「私は死なないから、皆で一緒に地球に帰ろう」というセリフを言う。物語のベクトルはテレビと逆の生の方向を向いている。テレビ版に似た展開を導入しすることで、劇場版のテーマである「うさぎが主人公である理由」はより明確に浮かび上がってくる。監督には、悲壮美に引きずられた45、46話は何かおかしいというひっかかりがあったのではないか。おそらくそのひっかかりが劇場版のテーマ設定の一因となっているからこそ、45・46話のエピソードを再構築する必要があったのではないか。  
 もう一つテレビ版との関係で見落とせないのが、セーラー戦士4人の回想シーンだ。
 ラスト近く、落下する隕石を止めようとするセーラームーンに4人は協力する。そこで、4人は自分の中でどれほどセーラームーン=月野うさぎが大切な存在かを思い起こす。これらのエピソードは総て、テレビシリーズのエピソードを採用している。エピソードといっても、ちょっとした会話を集めたささいなものばかりだ。 しかしテレビシリーズ中のエピソードを採用することで、セーラームーンが主人公である理由は「既に描かれていた」ということになり、この映画のテーマはテレビシリーズでも有効であることになる。これもテレビシリーズを再構築していると言えるだろう。
 マンガチックな設定でもテーマをしっかり設定し、キャラクターの心情を丁寧に描けば立派な物語として成立するを証明した佳作だった。

(追記)劇場版のLDでは幾原監督がロングインタビューに答え、演出術の一部を種明かししているので非常に興味深い。(97/1/13)


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