攻殻機動隊

 草薙素子は堕天使だったといったら、多くのファンの誤解を招くかもしれない。もし、堕ちたというのが不適切であれば、地上に迷い込んだと言ってもいいかもしれない。しかし、この映画全体をつらぬいている上昇/下降のモチーフを理解するには、そんな風に考えた方がふさわしいような気がしてならない。彼女は現実でない何処かから、記憶もなくしてこのニュポートシティの物語に「落下」してきたのだ。だから彼女は上昇を願うのだ。
 そうしてみると、高層ビルで展開される冒頭のアクションシーンは、落下する主人公を描くことで、この映画のモチーフの一つを鮮やかに提示していることが分かる。

 冒頭のアクションは、非合法活動を常とする9課の日常を書きながら後半への伏線を張るという、オーソドックスなスタイルをとっている。
 人工衛星から室内の様子をハッキングしているのだろうか、草薙素子の視線はまず真上からのアングルで示される。そして彼女はこの視線に従うように、ビル屋上からビルの谷間へと身を投げる。こうして始まった物語は、サイボーグのアイデンティティとその延長にある「それ以上」の存在を軸に展開することになるが、彼女の抱えることの悩みはすべて、人を見下ろす高い場所に立っていた人の住む場所へと身をおとしたことからーつまり、堕天使として地上に降り立ったためにー始まったと読めなくもない。彼女の悩みは、落下と上昇のダイナミズムに引き裂かれていることから生じたのだろう。

 視線と身体の垂直運動。冒頭で下降が語られたのならば、上昇のモチーフはどこに登場するだろうか。それは物語の折り返し地点、海でのダイビングシーンにそれはまず見られる。「海面に浮かび上がるときに、違う自分になれるのじゃないか」と彼女は言いい、確かに彼女は大気と水の境界面に写った鏡像である自分に向かって上昇していくよう描かれる。だが、鏡像はあくまでも虚像にすぎない。彼女が水面に触れた瞬間にゆがんで消える。
 一方、まるで鏡像そのものは海の底へ沈んでいこうとしているようだ。実際、素子の同僚バトーは「暗い海の底で何が見えるんだ」「それが沈む体を抱えて海に潜る理由か」と、彼女の上昇への視線とはまったく違う下降への視線を示す。この時点で彼女は依然、分裂を抱えたままだ。この構図は、ラストシーンのアクション直前、エレベーター(これも上下動に引き裂かれる小道具だ)の中で彼女が悩みを吐露するシーンでも繰り返される。

  こうして、上下に引き裂かれた彼女にできる行動は何か。上にも、下にもいけないまま、ここに居続けるのなら水平に動き回るしかない。下降/上昇が展開される冒頭、中間地点、そしてラストのアクションにはさまれた、事件捜査の部分では、この水平移動がモチーフとなる。
 刑事物(特殊部隊が舞台のこの映画も、広義の刑事物と呼んでも構わないだろう)というのは、歩く映画であるというのよく指摘される事実だ。だから、彼女とその同僚たちは陰謀とそれにまつわる犯罪をめぐり、ニューポートシティを動き回るが、この時の移動手段が、上下動できない自動車だったり船だったりするのは偶然ではないだろう。
 
 そして、ラストの朽ちた博物館での戦いで、彼女の上下動のジレンマは、水平移動も含めてそのイメージを一つに統合されることで終止符を打たれることになる。その役割を果たすのは、真上から打ち込まれる1発の銃弾だ。押井守監督は、一般論として銃器について「映画を一瞬で終わらせることの可能な決定的なアイテム」と、表現している。ここの銃弾は、その監督のイメージ通りの働きをしたと言えるだろう。

 ネットワークの中で発生した生命「人形使い」は、自分が生命として不完全であるため、草薙素子と一つになることで生命として完全になろうと呼びかける。この「求婚」のシーンで、人形使いは語る。「私たちは、似たもの同士だ。まるで、鏡を挟んで向かい合う実体と虚像のように」と。このシーンで2人の目線は水平に交錯しあっている。水平移動の末に彼女は出会うべき半身に出会ったわけだ。
 何故、出会うべきだったのか?それは、彼女の上昇への願いを果たすために必要だったからだ。逆に言えば、冒頭で彼女はすでに半身を欠いていたからこそ、落下から物語は始まらざるを得なかったとも言えるだろう。だが、その願いの達成は物理的な上昇としては語られない。
 そして、彼女が漠然と還りたいと感じていた「上にある場所」とはは、人形使いの言う、生命の制約を捨てた「さらなる上部構造」だったのだ。その進化の姿は、戦闘の最中に系統樹を「駆け上る」銃痕により、映像の上でも上昇のイメージを与えられている。そして、結果として垂直に降ってくる銃弾により2人の体は破壊されることがなければ、上部構造へのシフトは完結しなかっただろう。ここで、全編を通じて展開されてきた、水平移動と上下移動のイメージは、結婚と上部構造のシフト、そのきっかけとなる銃弾という形で統合され、物語は終わりを告げる。
 
 童女の姿に生まれ変わった(本編中の表現に従うなら、義体に入った) 融合後の草薙素子・人形使いは「もうここには少佐と呼ばれた女も、人形使いと呼ばれたプログラムもいない」と語る。こことは、どこだ?それは、冒頭に草薙素子が身を投じた人間の世界のことだろう。童女姿の名付けることのできない者は「ネットは広大だわ」と、都市を見下ろす。だが、彼女はもうその高みから人間の世界である下界への身を投じることはないだろう。
(97/5/30)   


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