もののけ姫

 あえて険しい隘路を選んだような映画だ。だが、監督の足の運びは臆病ではない。自信をもって大胆に進んでいる。この大胆さは、監督自身が自分の掴んだ思想に確信を抱いているからに違いない。道の途中で何度も迷うことはあったに違いない。が、目的地だけは北極星のようにはっきりと作家の頭の中に輝いていたはずである。この確信について共感できるかどうかで、この映画の評価は決まるだろう。そういう意味で、これまでの宮崎作品の中では最も作家性の高い映画だ。

 この映画はあらゆる価値を尊重する。生と死を表裏一体のものとして描き、自然と工業の対立をありがちなエコロジーで語らない。謎の集団の陰謀だって「こういうことはどの社会にでもあるものだ」とさらりと描写する。こうしたある種の価値相対主義は、往々にして「どうやったって世界は変わりはしない」というペシミズムに染まりがちだ。だが、この映画はその陥穽に陥らなかった。映画が無事に隘路を進み山頂へとたどり着けたのは、監督が「好意を持った人間となら苦労してもいい」という、共同体への信頼を最後まで持ち続けたからだろう。それこそが、マルクス主義を捨てた後につかみ直した彼の最終的な信念であろう。

 実写の映画が現実を切り取ってみせるのに対し、アニメーションは箱庭のように、フレームの中に全世界を作り込むのが特徴だ。「もののけ姫」は、戦国時代の山陰地方をイメージしながら、エボシ御前という非常にに近代化されたヒロインを登場させることで、そこに現代の世界と共通の問題を持つ世界を再構成することに成功した。

 彼女が率いる製鉄集団「タタラ」は、集団内で(戦国時代としては画期的な)一定の平等を実現している。 それは、工業化故に可能なことであり、産業革命以降、我々の社会が目指してきた一つの社会像であるといえるだろう。それは、業病におかされた病人が健常者とともに外敵と戦う姿に象徴されている。また、主人公アシタカがエボシに連れられてタタラ内部を歩くシーンで、カメラはタタラ内部の仕事に従事するさまざまな職種の人々を捉える。そういった細かなシーンの積み重ねが、タタラという社会像に具体性を与えている。
 そして、具体的な描写は「タタラ」の社会像だけではない。タタラを取り囲んで対峙する「自然」も同じような精緻さで描かれている。森の入り口の深い茂みから、明るい極相林にいたるまでその表情には多彩さがあり、この美術が「自然」をもう一つの主人公たらしめているのだ。
 
 こうして描かれた実際の世界の鏡像ともいうべき舞台の、ある種の「雄弁さ」に比べ、アシタカは徹底して何も語らない。彼のセリフはは要約してしまえば2つしかない。「お前は美しい」というもののけ姫・サンへ呼びかける言葉と、「森とタタラ場が争わずにすむ方法はないのか」という、共生への願いだけだ。彼は、サンを説得する時にも、彼女の反発も含めた上で彼女を抱きとめるだけだ。アシタカが語らないのは、世界の矛盾について語り出せば、彼とこの物語は言葉の持つ論理に操られてそのまま迷宮へと入り込んでしまうことを監督がよく感ずいていたからだろう。
 それは言葉への不信ではない。全てが矛盾し合う中で、何を基準に生きるかとすれば、それは現実を冷静に受け止めて自分が信じたことを信じるしかないのだ。作中で語られる「くもりなき眼で見定める」とは、まさにこのことだろう。その時に言葉は不要だ。過剰な言葉は、自分を見失わせ混乱を増やすだけだ。論理に耽溺することでペシミストになっている人間がどれほどいることか。

 宮崎監督は、世界が抱えている今日的な問題点をアニメーションの特性を生かして丁寧に描いた。しかし、この映画が他の映画と一線を画すのは、その答えのでない矛盾を描いた上で、ぬけぬけと人が生きているすばらしさを肯定している部分だ。映画は、業の深さを抱えながらも、それでも生きようとする命の素晴らしさこそがテーマであり、もちろん、この背景に監督の信念である共同体への信頼があるのはいうまでもない。

 さて、観客はこの映画の結論をどのように受け止めるべきか。是とするか、非とするかいずれにしても、この結論について考えることは、そのまま観客の生き方そのものを再点検することになるだろう。観客が、現実の不幸や矛盾をどれだけ自分で考え、受け入れられるか、とういうことを考えること抜きに、ラストシーンの意味を噛みしめることは難しい。監督が隘路を進んで到達した結論は、同時に観客にとって重い問いかけになっているのだ。
(97/08/05)  


動画的迷宮 RN/HP