霊感少女論(近藤雅樹、河出書房新社 1800円)

 霊感、というのはやっかいなものだ。霊感を持つ人には、霊界あるいはそれに類する幽霊のようなものの存在は自明かもしれないが、それを持たない人にはその世界は全く無縁なものだ。そして、なぜか、というか当然というべきか、心霊の存在を否定していながら霊感があることを自覚している、なんて微妙な存在の人はいないので、霊感を持つ人と持たない人の間には、暗くて深い河が流れっぱなしなのである。

 筆者の霊感の持ち主に対するスタンスは明確だ。筆者は、まえがきの中で、タイトルにある霊感少女という言葉を「性差や年齢差には関わりなく、そうした人たちにおおむね共通している未成熟で自己中心的な傾向を、比喩的にに表現している」と、身も蓋もなく定義してしまう。つまり、この本は徹頭徹尾、此岸から彼岸にいってしまった「霊感少女」達を眺めようとしているわけだ。

 この本では少女達が此岸から彼岸へとジャンプしてしまう背景について、社会と個人の両側面から考えている。特に社会背景については力が入っており、同書の大半は主に学校を舞台とした現代の怪談の収集とその変遷にあてられている。筆者は、こうした怪談はかつての地域共同体に共通認識としてあった「民俗知」の断片であり、霊感少女達が語る彼岸の物語は、この民俗知の寄せ集めであるという。また、大沢真幸氏の言う「理想の時代から虚構の時代への変化」と同様の視点で、「学生運動家」に変わる存在として「霊感少女」が登場したと分析している。筆者は、同時に学校がムラ化していることも指摘する。

 僕はこれまで、学校がこの社会の中で古風な仕組み(強いて言うなら、民主化された農村とでも言えばいいだろうか)を持っているが故に、世間から取り残され、、さまざまな齟齬が生じていると考えていた。つまり、学校という制度は社会の理想を追い求める時代のままであるのに、社会や子供は虚構の時代を生きているからこそ、矛盾が生じてるというわけだ。そして、虚構の時代を生きる子供達は、教育制度上の「学校」とは似て否なる「学校というムラ」で、かつての民俗知の名残である学校の怪談などを紡ぐのである。学校の怪談そのものの歴史は旧制高校にまでさかのぼれるというが、学校の怪談の定番ともいうべき「口裂け女」と「トイレの花子さん」が、1970年以前の「理想追求の時代」に生まれなかったのは、筆者のいう「学生運動家」が消えて、「霊感少女」が生まれる時代の変化と無縁ではないのだろう。

 しかし、霊感少女の霊感少女たる個人的な背景を扱おうとすると、筆者の説は一挙にありきたりな視点に陥ってしまう。はたして、まえがきなどに書かれているような、未熟な人間の夢想と個性化の戦略、というだけで霊感を語ってしまっていいのだろうか。さらに、彼岸からの帰還についても「霊感依存症から脱却して現実を直視し、困難に立ち向かえる存在に成長をとげるのか、本人の真価が問われることになる」と、単純に個人の生き方の問題だけに還元してしまっているのにも疑問が残る。現代で生きることそのものに、「霊感少女達」が彼岸への指向を持たざるを得ない要素があるはずなのだが、筆者はそこには触れない。筆者にとって霊感とは、明らかに彼岸にあって、自らには無関係な研究対象にすぎないに違いない。
 霊感少女を彼岸に連れ戻せる言葉とは、彼岸に惹かれる人の気持ちを理解した、いわば河に橋をかけられる人でなければ語れない言葉のはずである。そして、誰もが霊感少女になってもおかしくない世の中だからこそ、そういう研究が待ち望まれていると思うのだが、この本は、意図的であろうが、そこには向かっていないのが残念だ。
(97/08/25) 


書棚放浪 RN/HP