ポストマン・ブルース

 硬質な色調で描かれる郵便局内の仕事の様子。慣れた手つきで、郵便物を仕分けしていく職員。どうということはない職場の風景だが、何故圧迫感を感じるのだろうか。それは、音だ。紙同士のこすれる音、荷物を運ぶ台車の音が神経症的に大きく耳に響いているのだ。それは変更不能の「現実」の代弁者として局員を、そして我々観客を取り囲んでいるのだ。そして、それまでは整然と仕分けされていた郵便物が、仕分け損なわれ箱の外へこぼれ落ちた瞬間、この圧迫感をもった現実は切り裂かれて、夢の物語が始まる。それが、この映画のトップシーンだ。
 では、映画の終わりはどうなるだろうか。自転車で疾走する郵便局員が銃弾に倒れた瞬間、それまでは姿を隠していた圧迫感のある音の壁が復活し、「物語」がその瞬間に現実に呼びもどされたことを告げる。つまり、この映画は現実の切れ目から覗いた一種の夢物語なのだ。

 主人公・沢木龍一は郵便局員だ。映画「イル・ポスティーノ」の郵便局員は、人から人へメッセージを伝える幸せを知っていた。だが、彼は違う。彼が伝えるのは、紳士服の安売りのDMという心をワクワクさせることのないメッセージだけである。そんな彼が、自ら現実を切り裂き物語へと身を投じるシーンがある。それは、現実を代弁する音の壁が無くなった後の、いわば第2の物語の始まりだ。

 ヤクザになった同級生と再会して「今の生活に生き甲斐があるか」と問われた沢木は、荒れた気分で酒を飲み、家に持ち帰った郵便物を次々と切り裂く。ここで切り裂いているのは単なる郵便物ではない。彼を縛り現実に固定している拘束具なのだ。それを破り捨てることで、彼は夢の物語へと没入する。この夢物語の中では、郵便物は人と人をつなぐ役割を果たしており、「不治の病の女の子」や「殺し屋」という、どこか懐かしい登場人物までが生き生きと暮らす世界だ。破り捨てられなかった唯一の手紙は、ヒロイン・小夜子のものである。この手紙は、彼にとって夢の物語への片道キップだったのである。

 この映画で主人公と関わるキャラクターは、いずれも夢の中でこそ再生する登場人物である。一人は同級生。「歴史に名を残す」といきがっていても、現実はちょせんはチンピラと呼ばれている。彼は、憧れの「ヤクザ」である高倉健のポスターを部屋に貼って眺めているが、物語の中に入りたくても入ることの出来ない人物だ。しかし、ラスト近く、沢木の窮地を救うために部屋を飛び出していく時、彼は現実から飛翔し、彼の望んでいた物語に参加するのだ。
 一方、殺し屋のジョーは、一度は「夢の物語」から降りた人間だ。その原因は老いと病。彼が待っている殺し屋コンテストの結果通知は、彼にとって「夢の物語」へ再び参加することを許すチケットなのだ。一度は子供時代の思い出とともに、拳銃を封印した彼だったが、沢木の配達した結果通知によって再び「殺し屋」として蘇る。その通知が、たとえコンテストの不合格を告げるものであっても、彼が再び物語へと帰還するには十分だ。彼の現実には「病死」しか待っていない。どうせ死ぬのであれば、彼がもっとも彼らしかった「夢の物語」を舞台に選ぶのは、当然の決断だろう。

 「夢の物語」という観点からばかりこの映画について語ってきたが、この映画は自転車と自動車の物語であるという点も忘れてはいけない。
 そもそも、何かに乗るというのは、身体を拡張する行為だ。そして、身体が拡張されるということは同時にエゴも拡張されるということを意味する。この映画で登場する自転車は、わずかばかりそれに乗っている人のエゴを拡張することで、その乗り手に「夢の物語」を見せてくれる装置なのである。だから、ラスト間近に、沢木とその同級生、殺し屋ジョーの3人が自転車で疾走するシーンは、物語的緊迫感よりも、その疾走感の喜びの方が勝っているからこそ、3人とも充実感のある笑顔を浮かべているのである。

 一方、この映画で自動車に乗るのは徹底して警察である。彼らは、様々な断片から間違った物語(事件像)を組み立ててしまい、それに自縄自縛になってしまう。これは、彼らが自転車より大きな自我拡大装置「自動車」に乗っているためだ、と言ったら言い過ぎだろうか。しかし、自動車に乗った彼らは、いたるところで行き過ぎたり、狭い部分に入り込めないなど、この物語の核を追い求めてながら、自動車に乗っているが故にそれを取り逃がしているいる。これはやはり彼らは自動車に囚われているのだと考えた方が自然だろう。こうして見ると、警察官の中で、唯一、真実に気がついた男が、にのっていないのは、至極当然のことなのであるように思われる。

 夢物語は、銃声とともに現実へと帰還する。しかし、この映画は最後に、もう一度夢物語への回帰を用意した。これは、死こそが沢木と小夜子を結びつけたという表現とみることもできるかもしれないが、そうだろうか? この映画のヒロイン小夜子は、末期ガンの患者といわれるが、その実、病に伏せる描写はほとんどみられない。沢木をこの物語へと誘ったのは彼女の手紙なのだということを思い出せば、逆に、彼女は「現実」にはいなかったと考えられるのではないだろうか。彼女は「夢の物語」のヒロインとして、物語の側へと、沢木を誘う女神のごとき存在だったのだ。

 現実には時間がある以上「終わり」があるが、夢の物語には時間がなくそれ故に「終わり」もない。ラストシーン、銃で撃たれ倒れた彼の側に、彼女が女神のように現れたのは、「物語」は終わりはしない沢木に告げるためなのだろう。「現実」へと戻った沢木は、撃たれて死んでいるのかもしれない。でも、物語の中の沢木は死にはしないのだ。永遠に。

  現実の狭間に覗いた夢の映画であるが故に、この映画はコミカルなシーンもありながらも、どこか甘美で切ない。
(97/08/30)   


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