Lie lie Lie

 写植オペレーターである主人公・波多野善二は語る。
「俺は川だ。文字が俺の中をを流れていく」。あるいは「目から入った文字が脳を通り指先から出ていく。俺は文字に洗われている」と。彼は、彼自身がその言葉を、あるいは言葉が彼に影響を与えることはないことを確信している。
 一方、詐欺師の相川真はつぶやく。「詐欺師の生涯賃金はサラリーマンより少ないかもしれない」 波多野にとって文字がそうであるように、相川にとってはカネが彼を洗うように通り過ぎていくものだ。取り込み詐欺や土地転がし(?)に成功しようが失敗しようが、カネそのものは彼自身を変えない、彼はカネをほしがるものの、それに何かの力を期待してるようにはとても見えない。
 流れる大量の文字やカネ。映画はそこに強く寓意を含ませているわけではない。が、強いて言うなら、彼らが感じている現実感との距離感が、文字やカネに込められているとは言えるだろう。大量に流れていくものを目の前にし続けると現実感が狂ってくることがある。大蔵省造幣局の人間が紙幣を、製品としては眺められても、現実に機能するカネとしては感じにくくなるようなものだ。

 二人のキャラクターは好対照だ。一人で部屋に籠もりがちで、言葉数も少ない波多野と、詐欺する旅に逃げ回り、言葉巧みにその場に居着いてしまう相川。だが二人とも自らの職業に忠実なあまり、大量の文字とカネによる「現実感覚のマヒ」を共に抱えているのである。波多野の場合はそれが不眠という症状となっている。

 目の前を流れ続ける自分とは無関係な「現実」。これがまざまざと本来の現実に還る瞬間がある。それがこの映画のモチーフとなっている「ウソ」の効能だ。ウソは虚構であって現実とは相反する別の世界のもの、という考え方は間違っている。ウソとはむしろ卑小な人間が現実を変えることの出来る数少ない手段の一つだ。水道の蛇口、電流をコントロールするトランジスタのように少ない力で、大きな変化を巻き起こすことができる。相川が詐欺をやめられないのは、カネが好きなのではなく、ウソのそんな力が好きだからに違いない。

 波多野が現実を明確に感じることになったのは、相川から分けてもらった睡眠薬がきっかけだった。睡眠薬でトリップした彼は、写植機に向かって意味のある言葉「小説」を書いてしまった。小説とはつまりフィクション、ウソである。自分の前を通り過ぎるはずだった単なる文字が、意味を持ってしかも自らの産物として目の前に現れたとき、これまでマヒしていた現実感覚で彼はヒリヒリうずいたはずである。
 波多野が書いた小説は、さっそく相川のサギのネタになる。一度、印刷工場のプレゼンで協力し合った二人ではあったが、波多野が今度も協力したのは何故か。出版社を訪れて「こんなものは薄めてばらまいてしまったほうがいいと思って」と彼はつぶやく。これは、目の前にある意味の塊をはやくいつもの慣れた「無意味」に戻してしまいたい彼の本音に違いない。そんな動機があるからこそ、彼はサギに協力したに違いない。

 ここで三番目の人物が登場する。出版社に勤める宇井美咲である。彼女も目の前を自分とは無関係に流れていく現実が目前にある。彼女の場合は、次々に出版されていく「本」こそがそれだ。文字に対して何も感じない波多野が不眠症だったように、宇井は現実感のない仕事を前にして、酒を飲み続ける。 彼女は波多野・相川のウソ(サギ)を利用してまるで「現実感」を取り戻すかのように行動する。嫌らしい上司をやりこめるために相川の知人に一芝居打ってもらうシーン、出版部数を3千部と3万部にしてしまうシーン。どちらでも、彼女のウソは現実を強く生きていくための手段だ。

 このように3人のウソと現実の関係は微妙に異なっている。波多野はフィクションを描いたことで現実の中に投げ出され、そこから逃げたがっている。相川は職業意識として現実をちょっと加工してウソの方向へ近づけようとし、宇井はウソを通じて現実をやりなおそうとしている。こうした三人のウソと現実の物語は出版パーティーの夜にクライマックスを迎える。相川がだました(?)北海道に住む少女が、彼に貸したカネを取り戻しにやってきたのだ。払えなければ死んで生命保険で支払え、と。これが相川にウソのツケとしての現実をつきつける。

 このエキセントリックな少女は自分の中に現実を一切持っていない。彼女はヘミングウエイの死に憧れているが、それはコドモっぽい憧憬だ。彼女が信じているのは詐欺師・相川のウソの愛の言葉だけ。彼女の場合はウソこそが現実だったのだ。だから、現実につながるカネを汚いと彼女は呼ぶのである。 彼女を説得できるのは、ウソと現実の距離を知っている言葉だけ。だから、宇井だけが彼女を説得できるのである。そこではウソを現実と混同する側と、ウソと現実を峻別する立場がしずかにぶつかっている。そして、説得された彼女は闇の中へと退場する。

 彼女の退場するシーンを境に、映画は現実の側へとシフトして、ウソの影は薄くなる。相川は去り、もはや波多野は無意識に小説を書くことがなく、宇井は退社し新たな現実へと歩みだしている。ウソは彼らの中で一つの働きをし終わって、去ったのである。おそらくあの少女とともに。そこで語られることは真実だけ。だから「一目見たときから君が好きだった」というセリフは語られるべくして語られるのである。 このように心の一部分で現実感覚がマヒしていた3人はウソを利用することで現実感覚を実感する。だが、この映画はモラトリアムとそこからの脱皮を描く映画では全くない。もっと酸いも甘いも分かっているオトナの物語だ。だから完全に真実だけなんてことはない。ウソというのがかならずそこに突然入ってくることもある、そのさじ加減こそが現実で、オトナはどこかでウソがちょっと交じった現実をこそ期待していたりもする。
 ラスト寸前、ただ一人現実を実感したものの相変わらずのままの詐欺師・相川が突然の帰宅する。これは、この映画がそんなオトナのための映画であるという刻印なのだ。 
(97/11/03)


映画印象派 RN/HP