フィフス・エレメント

 先日、アートに詳しい人と話をする機会があった。その方いわく「ビジュアルアートは伝達速度が速く,
、そこでは情報はいわば圧縮されている」。
 この言葉は真実だと思う。その方が例に挙げるとおり、1時間半の映画を見るにはそれだけの時間が必要だし、小説にしても同様だ。つまり、ビジュアルアートが圧縮された情報を扱っているとするなら、映画や小説は時間軸にそってその情報を展開しているもの、といえるだろう。そこで、情報を展開するツールとなっているのが、「物語」という装置である。物語が無ければ、一本の映画を貫く映画に時間は発生しない。

 そうした視線で「フィフス・エレメント」を見ると、この映画が逆に1枚の絵に圧縮可能であるということに気づかされる。そうして圧縮された一枚の絵は、おそらく少年漫画の扉絵のような豪華絢爛な絵になるに違いない。
 うだつのあがらない市井の人物でありながら最高の戦士であるヒーロー、無邪気であるが故に守りたくなるようなヒロイン。そして、現実の倫理とは一切関係のない抽象的な悪。この映画はこうした意図的なステロタイプの寄せ集めである。は、登場人物だけではない。宇宙人にゆかりのある古代遺跡、スモッグに煙る未来都市、地球を守るために苦悩する政府高官たちがいる司令室。そんなといった風景もどこか、少年漫画風の既視感をともなっている。一枚の絵にはその全てが散らかったコドモ部屋のように描かれている。

 この映画はそうした1枚の絵に圧縮可能な「世界」こそが主役といえる。登場人物や各場面の背景はその世界をリアルに成立させるための、ハイライトあるいは影のようなものだといえるだろう。きっと監督には、この映画の1枚のビジュアルのイメージだけがあり、それを映画にするために「物語」を後から付け加えたに違いない。だから、逆にこの映画から物語だけを抜き取れば、きっと壮大で胸の躍るような世界を想像させるような一枚の絵にこの映画は還元されるのだ。
 だから、この映画で物語がシンプル過ぎるのは、非難するにあたらない。物語そのものには映画の中の大きな時間を作るという機能しか与えられておらず、それは1枚の絵をデコードするためのツールにしか過ぎないのだから。

 20年前にスター・ウオーズが公開されたが、あれもまた一枚の絵を映画にした作品だったと言えるだろう。もともと、SF映画とはビジュアルで観客を圧倒したいという欲求を秘めたジャンルだ。それはつまるところ1枚の絵に描かれた世界への執着である。「SF大作映画の精神年齢は10歳程度」という内容の批評を読んだことがあるが、SF大作映画がデコーダーとしてのみ物語を必要とするのなら、それは当然の結論といえるだろう。フィフス・エレメントはそういう意味で、正統なSF「大作」映画であり、スター・ウオーズの正統な後継者なのだ。
(97/11/12)


映画印象派 RN/HP