ラブ&ポップ

 カメラは生き物だ。回り始めたカメラは、それ自体が意志を持っているかのように撮影を続けてる。カメラの生命を感じさせるモーター音、カメラマンの極私的スクリーンであるファインダーに切り取られ、映される映像。それらは心地よくカメラマンの心を奪い、カメラを止めるということをしばしば忘れさせる。こうしてだらだらと長回しされることになった家庭用ビデオの映像が稚拙でありながら、家族の持つ幸福感を確かに捉えている瞬間があるのは、カメラをとめることなくファインダーの中に展開される幸福な家庭像を見続けていたいという、撮影者の心理もそこに写し込んでいるからにほかならない。 そんな個人レヴェルでの撮影がいわば心のおもむくままに思いをぶつける”初恋”だとしたら、劇映画の撮影は、お互いの分をわきまえた”大人の恋愛”だろう。映画監督とは、カメラを回す人であると同時に、止める人でもあることを忘れてはならない。「カット」という一言は、回り続けるカメラ=恋人にふりまわされず、対等であるために映画監督が手に入れた大人の分別なのである。もちろん、さまざまな恋愛の手段があるように、カメラと監督の間にも数多くの関係がありえるし、 まして”恋愛”に慣れていない新人監督ともなれば、回り続けるカメラの快楽に身を任せたくなることも多々あるだろう。

 電子レンジの中、鉄道模型、自転車のサドル、そして登場人物の目線。映画『ラブ&ポップ』ではCCDカメラを多用して、さまざまな視点でカメラが回り続けている。使われたカメラは全部で5台。庵野秀明監督の興味は、物語やキャスト以前に、まわりつづけるカメラそのものににある。撮影そのものを楽しんだという雰囲気、つまりカメラを回す楽しさが全編に溢れている。それは、監督がアニメーション出身であることとは無縁ではない。アニメは静止した絵の積み重ねで動きを再構成する。完成したフィルムは非常に似通った「劇映画」のスタイルでも、その性質は実写と大きく違う。それを分けているのは、やはり流れていく時間の流れを受け止めて回り続けるカメラの官能性の有無だ。アニメの持つ快楽とは正反対の官能。監督がテロップで新人と名乗ったのは、そうしたカメラの快楽を心ゆくまで楽しんだ、という意思表明に違いない。

 回る続けるカメラは、監督にとってだけ意味があったのではない。『ラブ&ポップ』という物語そのものが、回り続けるカメラの物語といっても過言ではない。「大切だと感じたものでも、たった一晩で平凡なものに変質してしまう」。だから、大切だと感じたものは欲しいと思ったときに手に入れなければいけない。だから、主人公・吉井裕美は、カメラで生活のあらゆるシーンを切り取っている。その行為は、彼女らの一瞬の欲望のきらめきそのもの。そして回り続ける映像の中にあるからこそ、写真の持つ静止が際だつ。彼女たちは回り続けるカメラ。そして、スチル写真はまるでプリクラのようにあっという間に退色していく欲望。その回転していく速度故に彼女たちはあらゆるものを喪失しない。回り続けるカメラの快楽は、捉えることが不可能な刹那の官能でもある。だが、キャプテン**の本当の名前を知った時、彼女は流れて消え去ることと、失ってしまうことは大きく違うがあることを知る。失ってもどらないもの。それはこそが**の本当の名前に込められている。

 重ねて書く、カメラは生き物である。その快楽こそが映画のもっとも根元的なものだ。庵野監督は”初恋”のような初々しい態度でその快楽に身を任せたが、そこに溺れることはなかった。監督はカメラの快楽を寸断してしまう「カット」という大人の分別をを積極的には使わず、全てが終わった後の「カッティング」という行為で1本の映画にまとめあげたのだ。そこには、映画少年の憧憬と、アニメを作り上げてきたしたたかな監督の戦略の両方が覗いている。だからこそ、この映画は「新人監督」庵野秀明の作品として記憶されるべきなのである。
(98/02/15)    


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