日本のおもちゃ・アニメはこれでいいのか(堀孝弘、地歴社 1545円)

 日本の子ども番組、ゲームにおけるおもちゃメーカーの販売優先の姿勢や、それに迎合する番組づくりにを考え、問題提起をする。おもちゃと子ども番組のつながりを検証する第1部、子ども番組の暴力シーンについて考える第2部、全体を通じて消費者がどうあるべきかを訴える第3部という構成になっている。
 第1部で指摘される販売優先の姿勢が見えるパワーアップ、合体のエスカレートは、作者と同様に個人的にも目にあまるものを感じている。(逆に、ノルマともいえるメカ登場やパワーアップをどうストーリーに盛り込んでくるか、を楽しみにするのがオタクの生きる道ではあるが、ここでは本題と違うのでこの視点では論じない)。金型を流用して、目先だけ変えた商品の山に今の親御さんはどのように対処しているのだろうかと心配になるほどの、アイテム数の多さである。
 しかし、第1部のそうした問題提起にある程度同意しながらも、僕がこの本の姿勢に賛成しかねるのは第2部で行われている作品批評が非常に画一的な視点で語られているからだ。
 まず、筆者に考えて欲しいのは「刺激的でえげつない」ものが何故好まれるか、という点だ。ここを考えることをしなければ、根本の問題を提起したことにならないように思う。筆者自身「ゲームがおもしろいあまり、やり過ぎて心身に影響があるのは問題」というピントのずれた意見を述べている個所もあある。
 作者がやり玉に上げているのがいわゆる暴力シーンの多い作品だけではなく、「ドラえもん」「アンパンマン」といった作品にまで及んでいることも理解に苦しむ。作者がこの2作品の問題点に挙げるのは、それぞれいじめっこという不条理な暴力があること、悪人を説得しない点だ。
 「ドラえもん」については次のような反論ができる。子ども自身も、子どもの世界は不条理に満ちたもので、なおかつ自分が欲望に負けてしまう「のび太」のように弱い人間であることを感じている。だからこそ、その現実を上手に作品化した「ドラえもん」に熱中できるのだ。「アンパンマン」にしてもバイキンマンの行動は、そのままわがままな自分の気持ちと対応しているからこそ、楽しんでいるのだ。作品が何故子どもに受入れられているかを見落として、「だれもが知っているアニメ番組ですら、人と人がじっくりと向き合い、(中略)掘り下げて考える場面が出てこない」と指摘するのは、いやはや何ともばかばかしいとしかいいようがない。
 ちなみに、本題からはずれるが、筆者は「火垂るの墓」を見て、「平和や人の命の尊さを感じた」と書いているが、それにも反論しておく。映画をどのように見ても自由ではあるが、物語を正確に追っていないとこういう誤読はおきやすい。自覚していない誤読は一応、指摘の対象たるべきだと僕は思う。あの映画では兄がもっと我慢をしたり、妹のことを考えて親戚の家に同居していれば、妹は死ななかったのである。つまり、あれは兄のある種のわがままが最愛の妹を殺すという、すごく無残な物語になっており、戦争はあくまで背景にすぎないのである。だから、平和や命の尊さというのは、戦争→死→反戦という、きわめて自動化した思考のプロセスの産物なのだ。まあ、この種の」誤読はすごく多いですけど。
 話題をもとに戻す。つまり筆者の子ども番組に対する姿勢は「少なくなっている実際の体験を補うようなものでなくてはいけない」ということに尽きる。僕が疑問に思うのは、筆者はこれだけ問題点を挙げた上で、親子で社会の問題について話し合ったりすべきなど、テレビの呪縛から逃れるいくつかの方法を提言している点だ。つまりテレビに子どもの生活の多くを預けることをちゃんと否定しながらも、「暴力ですべてを解決する番組ばかりを見て育ったらどうなることだろうか」と指摘して多くを預けてもかまわない番組を製作するべき、という論を張っているわけだ。これは矛盾であろう。むしろ、テレビ以外の子どもの生活をどのように充実させるかという本を書いた方が、筆者の意見がストレートに表現されたのではないか?
 また、筆者は矛先をゲームにも向けているが、詳しくは書かない。ポイントと矛盾点は子ども番組とほとんど同じだからだ。ただ、1996年4月6日付の京都新聞の記事を引用したゲーム後の「心身異常」についての記述はいささか勇み足で、どこまでが信用できる統計かの裏づけが薄いように感じる。
 ある海外のSF作家は「SFの90%はクズである」と言ったそうだが、これはあらゆるものに当てはまる経験則だ。筆者は筆者なりの10%を選別し、その対処方法も理解しているのだから、ピントのずれた番組批判などせずに、それを有効活用すればいいのである。100%が「良品」なんてことは、この社会ではありえないのだから。

(追記)作者のピントがずれた意見としては、NHK教育の「夢・ファンタジー」について」語っている部分もかなり笑える。(あ、つい書いちゃった)。批判されるのは「ワルキューレの騎行」をバックに、UFOが町や車などを「攻撃」するというCGについてである。
 批判の概要は、このシーンは「地獄の黙示録」を下敷きに現代風にアレンジして、「爆発」をゆりの花に処理するなどして「暴力性」を隠そうとしている−ということ。でも、これってそのまま素直な目で見るとメルヘンチックな自然回帰がテーマになっているような気がするんですがねえ・・・(笑)。
 で、さらにトンデモ(あ、書いちゃった)なのが、補足部分で「ワーグナー自身が好戦的な人だったかというとそうではない」と言って,19歳以来誓いをたてて狩りをしなかったという、作品論とは別の次元でのエピソードを引いてくるところ。大体19世紀の人間が現代日本人と同じような戦争観を持っていたわけはないので、狩りのエピソードで好戦的かどうかの判断ていうのは牽強付会もいいところである。 (97/03/29)


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