アンダーグラウンド(村上春樹、講談社 2575円)

 地下鉄サリン事件の被害者ら約60人について村上春樹がインタビューし、その発言をまとめたノンフィクション。「ねじまき鳥クロニクル」や翻訳「心臓を貫かれて」と、このところ一方的な暴力とそれによる心の欠損を強く意識している筆者が、地下鉄サリン事件について「1995年3月20日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか?」と疑問に感じたのは非常に自然な流れだろう。だが、このノンフィクションの手法やその達成度が果たして、そうした筆者の問いかけに真に答えるものとなっているかどうかについてはいささかの疑問がある。
 インタビューはおおむね次のような流れになっている。まず、その人の生い立ち、職業、普段の生活などについて説明してもらい、3月20日当日どのように被害にあったかについて尋ねる。そして、後遺症の状態、それによって自分がどう変化したと感じるか、オウム真理教を今どう思うかなどを聞いて締めくくりとなる。インタビューは平均して2時間前後行われ、以上のような点を中心に原稿用紙20ー50枚程度にまとめられている。
 被害者が語るのは、各個人にとっての「地下鉄サリン事件」である。筆者は「ワン・オブ・ゼム」で語られがちな被害者に顔を与えるということを目的の一つに挙げており、その点ではこのインタビューは成功しているとも言える。いくつかのインタビューでは、インタビューイの当日の行動がお互いに影響しあっていることを実感できるため、例えるならマルチアングルのような視点で現場の雰囲気が再現されている。ただ、それは誰がやっても(つまり小説家・村上春樹がやらなくても)同じ効果を得られた作業だろう。
 筆者は、後書きにあたる「目じるしのない悪夢」で、「あちら側」であるオウム真理教(麻原彰晃)がジャンクから作り出した物語に対し、「こちら側」の私たちはそれに有効が物語を持ち出すことができるのだろうか、と自問自答している。それは小説家として極めて自然な問いかけであるし、こうしたことを考えることが一般の読者にとっても重要なことは分かる。問題は、この小説家としての問題意識がノンフィクションとしてどのように結実しているかだ。そういう目でこの後書きを読むと、インタビューとの遊離が気になる。おそらくインタビューしていなくても、筆者はこの結論を導き出せたに違いない。
 「ほんとうに何が起こったのか?」という問いの答えについて、後書きでは早々とこう書かれる。「でも、不思議なことに私が知りたいことは誰も教えてくれなかった。」「(事件からどのような教訓が得られたかというと)ひとつだけ確かなことがある。ちょっと不思議な「居心地悪さ、後味の悪さ」があとに残ったということだ」。あれだけの労力を払ったインタビューの総論がこれだけに集約されてしまうのは、いささか残念だ。
 確かに、インタビューイの人生についての感動、尊敬は後書きでも書かれている。だが、それは作者がノンフィクションに不慣れで、仕事として人から話を聴く経験が少ないからこそ、そうした感想を持つことができたのではないか、という程度の問題だ。いわゆる平凡な人生でも、ある種の感動があるのは当たり前のこと。このノンフィクションはその事件の意味の大きさからいっても、その感動の向こう側へと突き抜けなければならなかったし、後書きから見ると筆者もそれを強く意識していたはずだ。だがそれは達成できなかった。何故だろう。
 一つはそのテーマに対してインタビューの手法が間違っていた、と言えると思う。筆者の知りたかったことは、「乗り合い馬車的なコンサンサス」の中にある被害者のその思考そのものを問題にし、そこで筆者と被害者が討論でもしない限り得られないものだ。それは多数の人の証言から事件を再構成するという手法とは全く違い、一人に深くコミットメントすることで可能になったはずだ。そういう意味では筆者は今回も「コミットメント」を避け、「ニュートラル」な位置でインタビューを取りまとめたに過ぎない。話を聞けばそれだけで真実に至れるものではないことは、筆者も十分承知だろうが、そこから先をどのように取材していくかについて余りに無知でありすぎたように思う。あるいは安全な位置に立って、取材対象との格闘を避けているという言い方もできるかもしれない。
 例えば、正面切ったアプローチだけで公務員関係の口が重かったことを残念がっていることだけ見ても、取材の方法がいささか稚拙だという印象はぬぐえない。
 本文中には、現在もサリンによる重度の後遺症で入院生活を余儀なくされている女性のインタビューも掲載されている。その女性がうまくしゃべれなくなっているために、インタビューはルポ形式でまとめられている。このインタビューは小説家らしい視点でまとめられたルポになっており、筆者のインタビューイに対するスタンスが明確になっている。ただ、それがこのインタビュー本来のテーマ(筆者の問題意識)とずれていることに筆者はどれだけ自覚的だっただろうか?
 結果としてこの本は、ノンフィクションとして物足りない内容となっており、事件に対する作者のスタンスは「まえがき」と「後書き」さえ読めば分かるという変則的な事態になってしまった。だからこそ筆者には、このインタビューで得たものを小説として消化してほしいと強く思う。それこそが、小説家としての本来の仕事であり、インタビューに応じた被害者に報いる唯一の方法だろう。
(97/03/18) 

(追記)その他の方の感想は、ここここにもあります。


書棚放浪 RN/HP