カラオケ、海を渡る(大竹昭子、筑摩書房 1854円)

 「(ソウルで)カラオケがブームとなったら・・・・それは恐ろしい考えだ」と、関川夏央が「ソウルの練習問題」に書いたのは1981年のことだった。その頃は、まだカラオケは「日本固有の文化」だったし、そこにはいささか自虐的なニュアンス(日本人の発明はあんパンと人力車だけ、といった決まり文句と似たような)が込められていた。しかし、関川夏央の文章から7年後に、韓国で国産カラオケが登場したことからも分かるように、この10年余りの間に、カラオケは世界に広がった。筆者は、この日本生まれの庶民文化がいかにアジア各国に浸透し、各国の文化の中で成長していったかを丹念にルポした。
 
 筆者がルポしたカラオケの各国への浸透の様子は、そのまま「文化の適応放散」の系統樹を描いている。この系統樹の源は、あらゆる民族が「歌」の持つ陶酔感を求めているという事実であり、進化の要因はより深い陶酔を求めた技術的発展と工夫に還元できるだろう。これは、カラオケが日本固有の文化という理解がいささか狭いものの見方であったことの証明にほかならない。その国の文化や政治事情、技術の発展などと複雑に絡まり合って、独自のカラオケ・ビジネスが築かれてきたわけだが、本書で紹介されたベトナムの民家で歌われるカラオケのエピソードほど、カラオケの普遍的な魅力を伝えているものはない。

 筆者の視点は、徹頭徹尾カラオケを歌う人側にある。もちろん産業としてのカラオケ論も取材しているが、カラオケが歌われる現場と歌う人が主役であるという視線は変わらない。それが「人間が持つ虚構に酔うどうしようもなさがカラオケを普及させた」という結論に結びつく。これはカラオケだけに留まる指摘ではない。カラオケをめぐる筆者の旅は、実感のこもった一つのメディア論として完結したのだ。
(97/08/07)


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